[545] 昭和15年4月9日 名古屋公会堂に於ける谷口雅春先生ご講演 |
- 伝統 - 2015年03月25日 (水) 05時07分
生長の家は、昭和14年に成立した「宗教団体法」によって、宗教であると認められて 文部省の管轄に入ることになり、文部省に届け出をしなければならなくなりました。
それで当時生長の家本部の副理事長だった秋田重季氏・中神学氏らが 文部省の稲田宗務課長らと色々交渉して、昭和15年、文部省に届け出られた <『教義の大綱』について>という文章が作られました。
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教義の大綱
「国体を明徴にして皇室の尊厳を明にし、各宗の真髄を天皇信仰に帰一せしめ、 尽忠報国、忠孝一本の国民精神を昂揚し、悪平等を排して一切のものに 人、時、処、相応の大調和を得せしめ、兼て天地一切のものに総感謝の実を挙げ、 中心帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す」
奉斎主神、安置仏等の称号
道場又は集会室に特に顕斎せる主神又は安置仏なし。 心に幽斎する主神としては宇宙大生命(みおやのかみ)(その幽之幽なる神として 天之御中主神、幽なる神として天照皇大神、現人神として天皇)を礼拝す。
宇宙大生命は宏大無辺にしてその仁徳一切に及び一切を包容するが故に、 各自は祖先伝来の宗教を信じ又は自宅にて如何なる斎神又は安置仏を奉ずるも差支えなし。
宇宙大生命の道を顕楊し、日本国威を発揚し、皇威を顕楊する東道(みちびき)の神 として心の幽斎する副神として生長の家大神(『古事記』『日本書紀』に顕れたる 住吉大神即ち後に塩椎神、仏典に顕れたる釈迦、観世音菩薩及びその応化仏、 基督教の『黙示録』第一章に現れたる七つの燈台の点燈者)を礼拝す。
宇宙大生命(みおやのかみ)は宇宙生命の根本実相にして、 宗派に偏らざる哲学的表現を用うれば「生命の實相」なり。
この意味にて道場又は集会室に「生命の實相」又は単に「實相」の掛軸を掲出することあり。
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そして、昭和15年4月1日、生長の家は、宗教団体として登録されました。
昭和15年4月9日、谷口雅春先生は、名古屋市公会堂において、宗教団体としての 「生長の家」と「生長の家大神について」詳しく指導されました。 (愛知教化部の資料によると、6500名の受講者への指導となっております)
その速記禄が、『神の真義とその理解』に収録されております。
以下は、別の掲示板にて、”復興G さま”により謹写されておりましたものを、 この掲示板においても紹介してまいります。
(”復興G さま”のお許しをお願いいたします)
(掲示板上で、読みやすくするため、改行や行間に空き行を設けております)
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第一章 生長の家の本尊
昭和十五年四月九日午後二時より 名古屋公会堂に於ける講演の速記
宗教団体としての出発
昨年議会を通過しました宗教団体法がこの四月一日から実施されることになりまして、 生長の家はこの宗教団体法によって、宗教であると認められて文部省の管轄に入ることに なったのであります。
実は、生長の家は「教化団体生長の家」と云う名前によりまして、 もう1年半ばかり前から届書を拵えて当局の方へ出してあったのであります。
東京府を通過いたしまして、文部省へ参りましてから、文部省の見解では、 生長の家は教化団体と云うよりも宗教の団体である、
左様に見る、と云うような見解がございまして、 そこで暫くその届書が文部省で滞っておったのであります。
生長の家本部の副理事長の秋田子爵、それから係の中神学と云う人達が 文部省へ参りまして、稲田宗務課長その他の係の人たちと色々交渉したのであります。
宗教団体法によりますと、宗教と云うものには一定の「教義」がなければならない、 それから「儀礼」を行うものでなければならない、それから「本尊」がなければならない、 本尊として奉斎する神様、又は安置するところの仏がなければならない、
そう云うものがなければ宗教でないと云うようになっておりまして、 宗教団体法によるところの届書には、教義と、儀礼と、奉斎神又は安置仏と云うものを 書くべき各欄が設けてあるのであります。
ところが生長の家は、教義と云っても生長の家独特の教義がないのであります。 ないと言うとおかしいけれども、生長の家は仏教の話もする、お釈迦様は斯う云うように 被仰ったと言って、仏教は斯う云うものであると言って話もする。
またキリスト教は斯う云うものである、耶蘇はこう被仰ったと言って話もする。
また金光教の教祖は斯う言われた、天理教祖は斯う言われた、 日本の『古事記』には斯う書いてある、老子には斯う云う事が書いてある、 孔子は斯う被仰ったと云う風に、
色々の教を一つにして説いて、相手に随って自由無礙に方便自在の説教をしているので ありますから、一定の生長の家の教と云い教義と云うたらどんなものだと言われると 困るのでありまして、生長の家独特の教義と云うようなものがないのであります。
それから儀礼と云っても、宗教的儀礼と云うような、葬式の時には斯う云うお経を唱えて 斯う云う儀式をする、そんなものはないのです。
今までの所謂る「宗教」でやっておったところの、宗教とは葬式をすることだとさえ 思われていたような、そう云う形式的なものが一つもないのであります。
このように生長の家は儀礼もない、 それから本尊と云っても、どこにもそんなものは祀ってない。
――生長の家道場へお出になると、そこには何もお祀りしてない、賽銭箱も置いてない、 礼拝の像も置いてない、神様もお祀りしてない、だから奉斎神もなければ、安置仏もない、 本尊もない、何にもない、斯う云うのが生長の家であります。
<つづく>
<感謝合掌 平成27年3月25日 頓首再拝>
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