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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[2] 『生長の家』誌 昭和25年6月号 法語 谷口雅春先生 (1)〜(30)【完】
明鏡 - 2014年05月31日 (土) 23時18分


【 目次 】


一日の法語  月の始めに新しき心となれ

二日の法語  わが業(わざ)はわが為(な)すに非(あら)ず

三日の法語  今日一日かぎりの生命(いのち)と思えよ

四日の法語  祈りによって「神の力」をわがものとせよ

五日の法語  神との一体を自覚せよ


六日の法語  遮二無二 頑張る心を捨てよ

七日の法語  神からのがれる処(ところ)はない

八日の法語  祈っても「結果」をつかんではならぬ

九日の法語  祈った後は事柄を心から放って全托(ぜんたく)せよ

十日の法語  吾は愛の言葉のみを語る


十一日の法語  吾は太陽の日を生きる

十二日の法語  吾は愛そのものである

十三日の法語  愛は最も強力なる力である

十四日の法語  自分の心通りのものが引き寄せられる

十五日の法語  神の子に本来 経済難はない


十六日の法語  与える者は与えられる

十七日の法語  万物ただ感謝あるのみ

十八日の法語  適材適所が善である

十九日の法語  愛を行ずれば愛が来る

二十日の法語  ただ創造し、ただ行ずること


二十一日の法語  どの日も神に祝福されている

二十二日の法語  神の容器(いれもの)として自分は空っぽである

二十三日の法語  怒りの言葉を発するな

二十四日の法語  信仰を深くするには

二十五日の法語  物質の粒子の配列をかえるのは心の力


二十六日の法語  心の平和から良きものが生まれる

二十七日の法語  宇宙全体は一つの智慧で統一している


二十八日の法語  万物は神の喜びの表現である

二十九日の法語  厳寒に咲く花に学べ

 三十日の法語  神が汝(なんじ)の内に宿っている




[3] 一日の法語 〜三日の法語
明鏡 - 2014年05月31日 (土) 23時28分



【 一日の法語  月の始めに新しき心となれ 】


今日一日が新しき日であり、

すばらしい機会を

吾々に与えてくれる日であるのである。


この日一日は 何事も順調に進むのであって

悪いことなど起り様がないのである。


すべての日は

神の愛に満たされ、

神の智慧に導かれ、

悪いことといって何一つ起り様がないのである。


吾はこれを信じて

この月を始めるのである。


神は吾々のすべてを

愛して い給うのである。


吾が夫を、吾が妻を、吾が子を、召使いを、すべての人々を

愛して 祝福し給うているのである。


我は凡(すべ)ての人々に感謝するのである。




【 二日の法語  わが業(わざ)は わが為(な)すに非(あら)ず 】


日々に起きる出来事をば、

神は決して吾々を苦しめ給うために与え給うものではなく、

吾が魂の向上と幸福とのために与え給う所のものである。


一つ一つの出来事は

すべて自分の内に内在する よきものが

実現せんがための機会であるのである。


神の愛は無限であって

吾々がとても想像することができない範囲に

凡(あら)ゆる方面から吾々を導いて、

幸福ならしめる様に計画していられるのである。



「 わが業は吾がなすに非ず、

天地を貫きて生くる み親の力 」 であるのである。




【 三日の法語  今日一日かぎりの生命(いのち)と思えよ 】


毎朝起きた時に、

今日一日きりの生命であると思いて生活せよ。


明日はないのである。


今日はまだ惰(なま)けていても好(よ)いとか、

罪を犯しても好いとかいう様な甘い考えを

捨てなければならないのである。


今日一日善にすすむ道が

如何(いか)に辛(つら)くとも

今日一日と思えばそれですむのである。


未来の長さを心に描いて

重荷を感ずることはいらないのである。


「 一日の労苦は 今日一日にてたれり 」 であるのである。


どんなことでも 今日一日と思えば

出来ないことはないのである。




[5] 四日の法語 ・ 五日の法語
明鏡 - 2014年06月03日 (火) 23時43分



【 四日の法語  祈りによって「 神の力 」をわがものとせよ 】


イエスの生活は

間断なき祈りの生活であったのである。


祈りとは

神に心をふりむけることである。


弟子の眠っている間にも、

イエスは山にのぼって 一人静かに祈ったのである。


そこから 彼の色々の奇跡の伴う愛の生活が

実現して来たのである。


彼は祈りによって 神にふりむき、

神から無限の力を汲(く)み出して来る所の方法を

知っていたのである。


だから 彼は無数の奇跡をなし得たのであり

「 吾と父とは一体なり 」 といっているのである。




【 五日の法語  神との一体を自覚せよ 】


神は常に吾とともにあり、

吾を力づけ、

吾に必要なものを与え、

弱きをはげまして、

勇気を与え給い、

凡ゆるものを豊かに恵み給うているのである。


神は吾々の生命の源泉であり、

智慧の源泉であり、

愛の源泉であり、

力と勇気の源泉であり給うのである。


生命と智慧と愛とは

神から来るのであるから、

決して それが亡(ほろ)びるということはないのである。


神の生命を自覚するものは 亡びず、

愛を行ずるものは 死せず、


智慧を実践するものは

永遠に星の如(ごと)くなりて輝くのである。




[8] 六日の法語 ・ 七日の法語
明鏡 - 2014年06月05日 (木) 22時13分


【 六日の法語  遮二無二 頑張る心を捨てよ 】


遮二無二 頑張る心を捨てよ。

安らかに落ち着くべし。


吾自身を静かに、静かに自分を落ちつかせることが

まず神を自分に実現する方法の第一である。


まず肉体をゆるめよ。

凡ゆる筋肉の緊張をとれ。

ふわりとそのままの状態になれ。


力を抜き 唯(ただ)そのままに

横たわるのである。


そして 静かに 神の癒やす力 吾に流れ入りつつあると

心に念じながら静かに呼吸せよ。


鼻より静かに息を吸い

臍下丹田(せいかたんでん)にいたらしめ

胸をくつろげて 胸の全部に神の生命を流れ入らしめ、


「 神の生命 今 吾に流れ入りて 吾がすべてを癒し給う 」 と念じて

静かに迷いを吐きだす如く息を吐くのである。




【 七日の法語  神からのがれる処(ところ)はない 】


神は到る処にいますのであるから、神はここに見よ、

彼処(かしこ)に見よ、というが如くには い給わないのである。


今ここに神がい給う。

今 自分は 神の生命に支えられ

神の生命を呼吸し

神ととも生かされているのである。


どんなに今の状態が辛くとも

それから逃れ出ようと思ってはならない。


「 逃げだそうと思うな。汝(なんじ)は神の子である 」 と

智慧の言葉にかかれているが、まことにその通りである。


わが内に神がましまして、

神の方へ振り向くのをまって い給うのに、

他(ほか)の助けの方へ振り向く必要はない。




[9] 八日の法語 ・ 九日の法語
明鏡 - 2014年06月08日 (日) 01時33分


【 八日の法語  祈っても 「 結果 」 をつかんではならぬ 】


静かに坐して実相を観ぜよ。

「 吾は汝の父なる神である 」 と

神は宣給(のたま)うているのである。


困難の時、不幸の時、病気の時 まず第一に必要なのは

内部の心が神の方へ振り向いて落ち着くということである。


吾々が何か現象的な御利益を求めて

それに対して祈る時には

その 「 求める結果 」 を 「 結果、結果 」 と心につよくつかむが故に

本当に心をゆるめて 神に全托することができないのである。


吾々はまず求めなければならない、

「 求めよ、さらば与えられん 」 である。


然(しか)し求めた後には

心を放って神に全托することが必要である。




【 九日の法語  祈った後は 事柄を心から放って全托せよ 】


自分の周囲を如何に暗黒が とりまこうとも、

心を平和にし、静かに神に祈りて後 完全に全托すれば、

よき結果が得られないということはないのである。


恐怖と焦燥の観念を心よりとり去れ。

吾々は唯(ただ)神に全托すればいいのであるが


南無阿弥陀仏の一念によって救われるというのも、

一念で好いのであって、繰り返されなければ頼りなく思うのは、

阿弥陀仏の 「 救う力 」 が絶対無限であるということを知らないからである。


口の動く回数で救われると思うものは、

自分の口に頼るのであるから自力の行であって

本当の信心に到達することはできないのである。




[10] 十日の法語 ・ 十一日の法語
明鏡 - 2014年06月10日 (火) 01時19分


【 十日の法語  吾は愛の言葉のみを語る 】


今日、自分は新しき世界に目覚めたのである。


この世界は物質の世界ではないのであって

唯 自分の想念感情が造る世界であり、


自分の想念感情を美しくよきものとすることによって、

自由によき世界を現すことができる世界である。


されば吾は 今よりよき言葉、深切の言葉、

美しき言葉のみを口にする。


今日一日は幸福の日である。

神が造った日に悪い日などはないのだ。


吾は今日、感謝と愛語と讚歎とのみに生きる。


吾は仕事をなす度毎(たびごと)に

神の愛と守りとに感謝しながらそれをなす。




【 十一日の法語  吾は太陽の日を生きる 】


吾は今日太陽の日を歩むのである。

それは輝く喜びの日である。


吾は神の子であるから吾が生活は完全であり

凡ゆる点に於いてととのうているのである。


何故(なぜ)なら神に守られ、

神の智慧に導かれているからである。


輝く太陽の日に生まれたる吾は幸いなるかな。


吾は輝く太陽の子である。

吾は神とともに心あかるく平和である。


常に今、吾は完全であり、

幸福に満たされているのである。


吾何をか憂れえんや、

暗(やみ)よ消えよ、

吾は光である。

吾は太陽の子である。




[15] 十二日の法語 ・ 十三日の法語
明鏡 - 2014年06月11日 (水) 22時32分



【 十二日の法語  吾は愛そのものである 】


神は愛である。


吾が内に神の愛が

宿っているのである。


愛は人を憎まない、争わない、欠点を見つけない、

愛は人を讃美するのである。


愛は 人のためにならんことを願うのである。

愛は よく堪え忍ぶのである。

愛は 思いやりがあるのである。


これらの愛の力は

自分の内に宿っているのである。


もしこれらのものを自分が生活に生かさなければ

自分自身が本当に生きるということはないのである。

何故なら自分は愛であるから。


吾は今この愛の賜物(たまもの)を神より受けて

惜しみなく他の人に愛をわたすのである。


吾は愛そのものである。




【 十三日の法語  愛は最も強力なる力である 】


吾が内に宿る愛を生きる時、

吾は全世界で一番強き強者となるのである。


愛はもっとも強き力である。

愛は獄舎の門を開き、敵を味方に変え、

不幸を喜びに変え、困難を感謝に変え、

醜きものを美に変ずるのである。


愛を汚す所のものは、

この世の中には存在しないのである。


愛は天下無敵である。


愛のないことのみが愛を汚すのである。


人を憎んでいる時、自分が苦しい時、

自分が本当に愛を生きていたかを省り見よ。


本当に純粋に愛のみを生きていたならば

苦しむことはない筈(はず)である。


苦しみは愛ならざるもの、 「 我 」 というものが

ひそんでいたためにやって来たのである。




[16] 十四日の法語 ・ 十五日の法語
明鏡 - 2014年06月13日 (金) 21時47分



【 十四日の法語  自分の心通りのものが引き寄せられる 】


吾は 吾が内に吾が求むるもののすべてをひきよせ、

すべてを生みだす力があることを知ったのである。


もし悪しきものが目の前に現れて来た時には、

それは自分の心の中に

それらをひきよせる心の波があるからだと知れ。


現象の悪しき姿にとらわれて、

それを払いのけようとして

心にその 「 悪しきもの 」 を描く限り

「 悪しきもの 」 は去らないのである。


神を思いおこせ。


かくの如(ごと)き悪しきものは

存在せずと念ぜよ。


然(しか)もいつまでも念ずる必要はないのである。


「 み業は神がなし給う 」 と信じて

後は 神に任せきれ。




【 十五日の法語  神の子に本来 経済難はない 】


神は人間をこの世に生んだ限りは

人間に職業が与えられているということは確かである。


吾々は まず失業や金づまりの不自由な状態を 心に描く代りに、

今豊かにすでに与えられている恵みに感謝することから始めればいいのである。


すべての欠乏を数えず、

満ちたりたものを数えあげて

感謝することから始めよ。


吾々は空気を与えられ

水を与えられ

日光を与えられ、

足を与えられ、

手を与えられ、

目を与えられ、

鼻を与えられ、

凡ゆるよきものを与えられている事を

数えあげて毎日感謝せよ。


「 豊かなる想念をおこせば豊かさが出現するのである 」 。




[17] 十六日の法語 ・ 十七日の法語
明鏡 - 2014年06月16日 (月) 00時26分



【 十六日の法語  与える者は与えられる 】


奪う考えをおこすものは

やがて奪われて貧しくなるのである。


報酬のみを目的として奉仕の精神を失っているものは

「 与える 」 心を失って 「 奪う心 」 のみをもっているのであるから、

やがて奪われる結果になるのである。


報酬を貰(もら)う仕事ばかりが

神から与えられた仕事ではないのである。


吾々は多くのものをすでに与えられているのであるから、

賃金なしにお礼をする心で、


目の前にある所の人々のためになる仕事なら

何でも奉仕させてもらおうという気になって、


一枚の紙屑(かみくず)を片づける様なつまらないことからでも

奉仕の行事を始むべきである。




【 十七日の法語  萬物(ばんぶつ)ただ感謝あるのみ 】


神さま ありがとうございます。

眠っている間も

私の生理作用をつつがなく いとなましめ給い、

なくてならぬ日常のものを与え給い、

色々のよきものを あなたは恵み給いました。



神さま ありがとうございます。

あなたは愛でいらっしゃいます。


私はあなたの愛を、

青空をみても、

輝く日光をみても、

空気を吸うても、

梢(こずえ)の若葉をみても

感ずることができるのです。



神さま、私は凡(あら)ゆる所に

あなたの美しき智慧を感ずることができるのです。


空の星の動き、

罌粟(けし)の花の装い、

美しき藤の花。


神さま ありがとうございます。




[18] 十八日の法語 ・ 十九日の法語
明鏡 - 2014年06月18日 (水) 02時59分


【 十八日の法語  適材適所が善である 】


すべては よきものであるが

神の智慧が

その善きものが あるべき所に あるべき様に あらしめる様に、働かないから、

そこから悪の姿がわきおこって来るのである。


正しき所に適当なるものを正しき様に置きさえすれば

今まで悪と見えていたものも善に変わってしまうのである。


適材適所が善である。


人間を殺す劇毒剤の砒素(ひそ)でさえも

適当な分量で適当な方法でそれを使えば、

強壮剤ともなり黴(ばい)毒の治療剤ともなるのである。


適当なる智慧とは

神の智慧である。


神の智慧をよびだして来るためには

神想観をすることが必要である。




[19] 十九日の法語 ・ 二十日の法語
明鏡 - 2014年06月18日 (水) 23時06分



【 十九日の法語  愛を行ずれば愛が来る 】


吾々が愛行を行う際に

それに伴う報酬を期待するならば

それは本当に愛行ということはできない。


よき行為によき結果が

伴わないということはないのである。


結果は期待しないでも

ただそれを行ずれば

原因結果の法則で

ただ自然にでて来るのである。


もし報いを求めて愛を行ずれば、

その愛は純粋でないから

純粋でない結果が

自分に返って来るのである。


吾々は唯(ただ) 「 愛 」 を

行ずればいいのである。


吾々は愛を 唯 行ずればいいのであって、

「 犠牲 」 になろうと考えることも又(また)不要であるのである。




【 二十日の法語  ただ創造し、ただ行ずること 】


天地一ぱいに神の愛がみちている。


太陽の光も、空気も、水も、大地も

神の愛である。


何ものをも報酬を求めず愛行を行い、

然(しか)も犠牲になろうなどと思わず、


唯 善のみ実現すると思い

唯 愛を行ずるのである。


「 唯 」 行ずることが必要なのである。


神は 「 ただ 」 愛し給うのである。

神は 「 ただ 」 創造し給うのである。

神は 「 ただ 」 与え給うのである。


だから吾らも常に 「 ただ 」 愛し、創造し、与えればいいのである。


原因結果の法則は そのあとのことを

自(おの)ずからなしとげるのである。




[20] 二十一日の法語 ・ 二十二日の法語
明鏡 - 2014年06月20日 (金) 23時46分



【 二十一日の法語  どの日も神に祝福されている 】


神はすべての時間を

自己顕現の形式として祝福し給うのである。


どの時間もどの日取りも

悪いものは一つもないのである。


だから 年まわりや日取りに

ひっかかってはならないのである。


神は 決して何人(なんびと)をも

呪い給うことなく

罰し給うことなく、

常に吾らを愛し 祝福し給うているのである。


神の愛と祝福とは 永遠であって

どの日にも変わるということはない。


吾は神の祝福の大海原の中に生き、

呼吸し、動き、生活しているのである。


時々肉眼で見てそれを忘れるな。

そこで目をとじ神想観して

神の愛に包まれている実相を観ぜよ。





【 二十二日の法語  神の容器(いれもの)として自分は空っぽである 】



今自分は全然 「 空っぽ 」 になったのである。


自分は何一つ自分のものを

求めようとは思わないのである。


されば神は滔々(とうとう)として自分の中に流れ入って来るのである。


神が流れ入って来た所の自分は

もうすでに神そのものである。


吾はすでに 「 新生 」 したのである。


「 我 」 の造った凡ゆる悪しきものは

流れ去ってしまったのである。


自分は今日より後

如何(いか)なる 「 自分 」 のことをも なさないのである。


唯 神のことのみを なすのである。

神は吾(わ)が内に現われ給い、

神の力をもて神の仕事をなし給うのである。




[22] 二十三日の法語 ・ 二十四日の法語
明鏡 - 2014年06月23日 (月) 00時22分



【 二十三日の法語  怒りの言葉を発するな 】


一つの苦き言葉も病気の種である。

一つの愛のささやきにも病気を治す力がある。


涙ぐんでみつめる母の愛の眼差(まなざし)は

どんな悪しき子も本来の善に転向せしめる力をもっている。


思わず憤激してどなりつけた良人(おっと)の言葉が

多くの婦人の病気になっている。


怒りをしてこの世の中から姿を消さしめよ。

憎しみをしてこの世の中から姿を消さしめよ。


愛の言葉を、やさしさの言葉のみを周囲に対してなげかけよ。


愛する者の明るき微笑は

どんなに傷つけた人の魂を癒(い)やすかは知れない。


それは 又 同時に肉体を癒やす。




【 二十四日の法語  信仰を深くするには 】


毎朝毎朝が新生である。

自己の生活に神が実現する機会であるのである。


吾が如何に不幸な環境にいようとも、又信仰が浅くとも、

目がさめた時、吾が心ぼんやりしている時、


「 吾は神の子である、神が吾を幸福にし給うのである。吾神を信ず。 」


と二十回ずつ静かなる声にて自分自身にささやきかけよ。



言葉の力によって自から信仰が深まって来るのである。


又 眠りしなにも その通り念じながら眠るのである。


おこたらずこの行事をはげめば

やがて信仰が深まり幸福が訪れるのである。




[25] 二十五日の法語 ・ 二十六日の法語
明鏡 - 2014年06月25日 (水) 03時29分



【 二十五日の法語  物質の粒子の配列をかえるのは 心の力 】


自分が神の子であり、

内在のキリストこそ 自分自身であるということが自覚されるならば

すべてのことは よき方向に動き始めるのである。


もし吾々の健康が思うようにならぬならば

自分が神の子であるという信仰がたらぬ結果にすぎぬのである。


すべて物質の分子や、原子や、原子を構成している電子等は、

それ自身では自由に運動することができないのであって、

それを支配する波によって動いているのであるということは

新しき物理学の教える所である。


物質の微粒子の集りでできている肉体も

心の波によって どうにでも変化するのである。




【 二十六日の法語  心の平和から良きものが生まれる 】



まず心の中に平和を確立することが必要であるのである。


心の平和を確立するためには

人間を物質だと考えてはならないのである。


人間を孤立している小さきものと考えてはならないのである。


自分は神の子であり

愛の力に常にとりまかれているのであると

知ることが必要なのである。


神想観して 「 吾は 神の愛の力に とりまかれているのである 」 と繰り返して、

自己の心の平和を確立することが、

病気を治すためにも、事業を好転させるためにも必要なのである。




[26] 二十七日の法語 ・ 二十八日の法語 
明鏡 - 2014年06月26日 (木) 23時57分



【 二十七日の法語  宇宙全体は一つの智慧で統一している 】


神は吾々の生理作用を導き給うだけでなく、

吾々の周囲におこるすべての事件をも

その完全なる智慧によって導き給うて

調和あらしめ給うのである。


或る天文物理学者の唱える所によると、

すべての恒星というものが存在せず、唯(ただ)吾らの太陽のみが地球に対して

存在するならば、地球の引力のフィールドと原子核の凝集する電気フィールドの

不調和から平衡が破れてすべての原子核は崩壊してしまって、

吾々の生活せる世界はないのだということである。



考えてみると何の関係もなく、大空に運行している星の一つ一つも

人間の生活にかくも微妙に調和して存在しているということは

宇宙が唯一の智慧に導かれている証拠であるのである。




【 二十八日の法語  万物は神の喜びの表現である 】


喜ぶことが

神の子の特権であるのである。


喜べ喜べ 喜ばないものは

伸びることができないのである。


神はこの世界を苦しむために造ったのではなく、

喜ぶために造ったのである。


日光の輝き、美しき空の色、妙なる鳥の囀(さえず)り、色とりどりの美しき花、

蝶は舞う、鳥は囀る、

すべての生きものは

喜びに舞踏(ぶとう)しているのである。


それだのに万物の霊長である人間が喜ばないで

一人憂鬱(ゆううつ)にかがみこんでいるとは、

又 万物の霊長である人間が恐しい闘争を心に描いているとは。



喜びと愛すること 人間のなすべきことは この二つである。




[27] 二十九日の法語 ・ 三十日の法語
明鏡 - 2014年06月29日 (日) 01時01分



【 二十九日の法語  厳寒に咲く花に学べ 】


予期しない不幸がやって来た時にも喜べ。

不幸があるから喜べというのではないのである。

不幸があっても喜ぶのである。


それは 過去のあやまれる想念の蓄積が

自壊するために現われた所の影にすぎないのである。


自壊した次には

新しき善きものが生まれて来るのである。


厳寒に咲く花は

最初は美しくない萼(がく)や苞(ほう)につつまれている所の

蕾(つぼみ)にすぎないのである。


蕾の萼が破れ 苞が破れて、

そこから美しき花が咲くのである。


くだけるのは

善きものが現われて来んがために くだけるのである。




【 三十の法語  神が汝(なんじ)の内に宿っている 】


どんな悪しき形をも よき形に変化し得ないという様な神の力はないのである。


神は 暗黒の中に光を放ち、

悪と見ゆるものから善を放ち、

貧しさの中から富を生み出す所の力である。


その神を吾(わ)が内に見出す時には

吾は 如何(いか)なるものの中からも

よきものを生みだすことができるのである。


躓(つまず)きを恐るな。

躓いても すぐ立ち上がって

光明に面するのが生長の家の生活である。


神が汝の内に宿っているではないか。

それを思いおこすことが必要である。


神は一切の不幸を幸福に変貌(へんぼう)する力である。

その力が自分の内に宿っているのである。

喜べ喜べ。神を信ぜよ。自己を信ぜよ。






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