【広告】楽天市場にて 母の日向けギフト値引きクーポン配布中

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

◆書き込みルール   ◆TOPへ戻る    ◆其の壱へ   

Counter

こちらの関連記事へ返信する場合は下のフォームに書いてください。

[137] こころ極まる(九月光明道中記)
伝統 - 2014年09月30日 (火) 03時21分

こころ極まる「九月光明道中記」(上旬)

        *「光明道中記」より

九月一日 心澄み切る日

【雑念妄想は念仏を妨げず、虚の念は本来無い念である。(生命の實相第九巻)】

(歎異抄十二条)

   経釈(きょうしゃく)をよみ学(がく)せざるともがら、往生不定のよしのこと、
   この条(じょう)、すこぶる不足言(ふそくごん)の義といひつべし

前条等にも繰返し繰返し述べられているように、
人間が救われると云うのは弥陀の誓願によるのである。

すなわち弥陀の誓願が廻り向いて来て、念仏もうすと云う信仰の心が起こり、
その信仰の心は自我の心で信心するのではなく、学問の力で信心の念が起こるのではなく、
経文やその注釈の力で信心の念が起こるのではなく、

「信心」と云うものは如来が廻施(えせ)する(如来の力が廻り施される)のであるから
学問がなかったら救われない、経文の解釈によくつうじていなかったら救われないと云う
ような議論は言うに足りない。

誌友会に出ても色々の真理の書の文章を批判し、此の書には斯う書いてある。
自分はこの方の方に共鳴するとか何とか、甲論乙駁する人たちがあるが、
そう云う人々は解釈によって救われよとする人であって、自力の行である。

他の色々の本に斯う書いてある、彼(ああ)書いてあると言って誇り顔に言う人は、
また別の新しい説き方をする人があったら直ぐ信仰が崩(くず)れて了うのである。

救われるのは「実相」により、念仏によるのであるから、誌友会に臨んでは理窟を言うよりも、
ただ有りがたく救われている体験を謙遜に語り合い、互いに讃嘆すべきである。

・・・

九月二日 内在の念仏を聴く日

【淋しき時には我を思え。我は汝らの為に祈るものである。(生命の實相第十一巻)】

(歎異抄十二条)

   他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教(しょうぎょう)は、本願を信じ、念仏を申さば
   仏になる、そのほか何の学問かは往生の要なるべきや。まことに、この理(ことわり)に
   迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して本願のむねをしるべきなり。

   経釈(きょうしゃく)をよみ学すといへども、教経の本意をこころえざる条(じょう)
   もとも不便のことなり。一文(いちもん)不通にして、経釈の端緒(ゆくち)も知らざらん
   ひとの、となへやすからんための名号におはしますゆへに易行(いぎょう)と言ふ。

他力真宗と生長の家とは随分その救いの立て方が似ているのである。
真宗で「他力」と言うところを生長に家では「実相」と言う。
真宗で「念仏」と言うところを「『生命の實相』を読めと言う。

「他力」は「大信心」であり、「大信心」は「仏性」であり、「仏性」は「実相」である。
「他力」に救われると云うことは「念仏申す心」(実相)に救われていると云うことである。

『生命の實相』を読んで、その経釈が完全に出来るから救われると言うのではない。
盲目(めくら)の子でも母はそれに乳房を与えて救って下さっているのである。
どんな母であろうかと「知りたい心」は経文を解釈するような誇った心ではなく、
母懐かしさの心にすぎない。

・・・

九月三日 争いの自然に消ゆる日日

【雑念は心を澄み切らす働き、雲は空気を澄み切らす働き。(生命の實相第八巻)】

(歎異抄十二条)

   学問をむねとするは聖道門(しょうどうもん)なり、難行となづく。
   あやまて学問して名聞利養(みょうもんりよう)のおもひに住するひと、順次の往生
   いかがあらんずらんといふ証文(しょうもん)もさふらふべきや。

   当時、専修念仏のひとと聖道門のひとと、諍論(じょうろん)をくはだてて、
   わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりといふほどに、法敵も出できたり、
   謗法(ぼうほう)も起こる。
   
   是併(これしか)しながら、自(みずか)らわが法を破謗(はぼう)するにあらずや。

親鸞聖人が易行門を立てられたのは、聖道門よりもわが宗旨まさっているとして
それを誇るためではなかったのである。

自分が下根の凡夫である、一文不通のものであって、一切の蔵経を調べあげ研究しあげたすえに
救われるのであったならば、到底そんな智慧学問は無いところの吾らであるから、
救われようがないからこその易行門の信仰なのである。

聖道門を相手にまわして易行門の優越性(すぐれているところ)を説いて、
ひとの宗教は劣っているなどと説くから法敵も出で来たり、
法を謗(そし)る人も出来て来るのである。

だから他宗を攻撃するのは、天に対(むか)って唾するようなもので、
自宗に対して傷つけることになるのである。――

こう言って親鸞は当時日蓮の「念仏無間(むげん)・禅天魔」の批評をも黙殺してかかられた。
誠に大調和のお心であった。

・・・

九月四日 有り難く其の儘受ける日

【如来は一体である。一仏即多仏である。(生命の實相第六巻)】

(歎異抄十二条)

   たとひ諸門こぞりて、念仏は甲斐なきひとのためなり、その宗あさし卑しといふとも、
   さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一字不通のものの信ずればたすかる由、
   うけたまはりて信じさふらへば、更に上根のひとのためには卑しくとも、われらがためには
   最上の法にてまします。

   たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには、器量およばざればつとめ難し。
   われもひとも生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御妨げあるべからず
   とて、憎ひ気(げ)せずば、誰のひとかありて、仇をなすべきや。

   かつは、諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる、
   智者遠離すべきよしの証文さふらにこそ。

この一節には当時親鸞聖人の念仏門の教に対して
色々の非難や攻撃があったことが窺われるのである。

親鸞聖人はそれに対して
「われらが如く下根の凡夫は」と下手に出て諍(あらそ)うこと勿れと諭されたのである。

「諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる」とて
智者はかかる諍(あらそ)いより遠ざかるべきを示されたのである。
諍(あらそ)いに勝ちたりとて救われるのではない。

此のまま此の世が阿弥陀仏のお浄土であると、その実相を拝ませていただくとき救われるのである。

・・・

九月五日 神の慈手に抱かれる日

【汝の悩みは神に語れ。人に語らずして神に語れ(生命の實相第十一巻)】

(歎異抄十二条)

   故聖人(親鸞)のおほせには、この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、
   仏説き置かせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。

   またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられさふらふ。
   しかれば往生はいよいよ一定(いちじょう)とおもひたまふべきなり。
 
   あやまつてそしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、
   そしるひとのなきやらんともおぼえさふひぬべけれ。
   かくまうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。

   仏のかねて信謗(しんぼう)ともにあるべきむねを知ろしめして、ひとの疑ひをあらせじと、
   説きをかせたまふことをまうすなりとこそさふらひしか。いまの世には、学問してひとの
   そしりをやめ、ひとへに論議問答むねとせんと、かまへられさふらふにや。

更に茲には親鸞聖人の法を謗(そし)る法敵さえも仏の予言の中に、従って仏の摂理(おはからい)
の中にある事を示して、諍(あらそ)うこころを捨てせしめようと云う用意が見られるのである。

学問して他に論(い)い勝とう議(い)い勝とうと思うこころは余りにも脳髄智識によって
人が救われるならば諸々の智者学者は救われたであろうが、救いは貧しきもの愚かなものに
示されるのである。

・・・

九月六日 信心極まる日

 【汝の信ずるごとく汝になるのである。(『生命の實相』第一巻)】

(歎異抄十二条)

   学問せば、愈々如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、卑しからん身にて
   往生はいかがなんどあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢(ぜんあくじょうえ)なき
   おもむきをもとききかせられ候(そうら)はばこそ、学生(がくしょう)の甲斐にても候はめ。

   偶々(たまたま)何心(なにごころ)もなく本願に相応して念仏するひとをも、学問してこそ
   なんどと言ひ貶(おど)さるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みづから他力の信心
   かくるのみならず、あやまて、他をまよはさんとす。

   つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。
   かねて憐(あはれ)むべし、弥陀の本願に非(あら)ざることをと、云々。

茲には学問は学問を破摧するためにこそ学ぶべきであって、学問を誇るがために学ぶなどという
ことは学問に捉われたものであることが示されている。

学すればするほど自分の醜い相(すがた)が眼に着いて来て救われがたいなどと思う人には、
こちらの学を以て「弥陀の本願には浄穢(じょうえ)がない」と説破してやらねばならぬ。

『生命の實相』もその中の字句を甲是乙非と議論するためにとて
色々の諸学説が引用してあるのではない。

人間は救われ難しと色々の科学から結論している人々に
如来の慈悲を説き聴かせてあげるためにこそ『生命の實相』の学があるのである。

・・・

九月七日 自然と悪癖が治る日

 【仏教の無明縁起は「創世記」の第二章アダムの原罪に一致する。(『生命の實相』第十三巻)】

(歎異抄十三条)

   弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、
   往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。

   ・・・そのかみ邪見におちたるひとあて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にて
   ましませばとて、わざと好みて悪を造りて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうに
   あしざまなる事のきこえ候ひしとき御消息に、くすりあればとて毒をこのむべからずと、
   遊そばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。

   またく、悪は往生のさはりたるべしとには非ず。

阿弥陀仏のどんな悪人でも救わずに置かぬ本願が如何に不可思議力であるからとて、それでは
盛んに悪を犯してやれと云うのでは「本願ぼこり」と云うものであって往生極楽は出来ない――
斯う云う議論をする者は救いは絶対であり、業は相対なのである事を知らぬものである。

如何なる業もそれを超越して弥陀の本願は救い給う。
その絶対的救いの否定し難き事実とは別に、悪人を救おうと云うのが弥陀の本願であるとてわざと
好んで悪をする者がある由(よし)聴えて来たときに親鸞聖人は「くすりあればとて毒をこのむ
べからず」とお書きになった。

・・・

九月八日 流れつつ流れを超える日

 【仏教の無常観は、実は生々流転の教である。(『生命の實相』第十三巻)】

(歎異抄十三条)

   よきこころのおこるも、宿善の催すゆへなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふ
   ゆへなり。故聖人の仰せには、兎毛羊毛(ともうようもう)のさきにいる塵(ちり)ばかりも
   つくる罪の宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき。

ここに親鸞聖人の「業観(ごうかん)」があらわれている。業が現象世界のすべてを流転せしむる
原動力であって、よき心が起るも、悪き心が起るも皆業が流転して催して来るのであって、それは
宿命であり、機械的であって、自由意志の計らい得る部分はひとつだにないと言うのである。

「兎毛羊毛(ともうようもう)のさきにいる塵(ちり)ばかりも、”つくるつみ”の宿業にあらず
といふことなし」であるとするならば、その「つくるつみ」なるものは、誰が最初に「つくった」
のであるかの問題が生ずるのである。

誰かが最初に造ったのであるならば、宿業ならざる自由意志的業の問題が生ずる。
また誰も未だ「つくるつみ」を造ったことが無いとするならば、その「つくる罪の宿業」なるものも、
有るように見えても本来無いものであると云うことに帰着するのである。

真宗では「つくるつみ」の存在を認めて罪悪深重の凡夫と言い
生長の家では「つくるつみ」は存在せずしてと罪本来無いと言う。

・・・

九月九日 善業有りがたき日

 【祈ってから五官に証拠を求めるな。祈ったとき既にそれは成就している(『生命の實相』第ニ巻)】

(歎異抄十三条)

   またあるとき唯円房はわがいふことをば信ずるかと仰せの候ひしあひだ、
   さん候ふと申し候ひしかば、さらば、わがいはんこと違(たが)ふまじきかと重ねて仰せの
   候ひしあひだ、謹(つつし)んで領状(りょうじょう)申して候ひしかば、喩(たと)へば

   ひと千人殺してんや、然(しか)らば往生は一定(いちじょう)すべしと仰せ候ひしとき
   仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては殺しつべしとも覚(おぼ)えず候ふと
   申して候ひしかば、さては、如何に親鸞が言ふことを違ふまじきとは言ふぞと。

   これにて知るべし。何事も心に委(まか)せたることならば、往生のために千人殺せと
   言はんに、乃(すなは)ち殺すべし。然れども一人にてもかなひぬべき業縁(ごうえん)
   なきによりて害せざるなり。わが心のよくて殺さぬにはあらず。

過去に「つくれる罪」の機械的流転によって一切のものが内部から催して来るのであったならば、
其処に自由意志はあり得ない。自由意志があり得ないならば、善悪はあり得ない。

汽車が疾走中大風吹き来って自由意志ならずして転覆して千人を殺傷しようとも、
その汽車には自由意志がなき故に罪悪とはならないのである。
極端な宿業観は人間の道徳を否定する。

『生命の實相』第五巻には、宿業1/3、自由意志1/3、高級霊1/3、となっている。

・・・

九月十日 ただ念仏する心の日

 【祈りには実相を顕現する祈りと人格的交渉の祈りとある。(『生命の實相』第九巻)】

(歎異抄十三条)

   また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと仰せの候ひしは、
   われらが心の善きをば善しと思ひ、悪しきことをばあしとおもひて、本願の不思議にて
   たすけたまふと云ふことを知らざることを仰せの候ひしなり。・・・

   かかるあさましき身も、本願に遭ひ奉りてこそ、げにほこられ候へ。
   さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられ候はじものを。

一人をすら害すまいと思っても害する業が催して来る時には百人千人を殺すことにもなろうと
親鸞聖人が仰せられたのは、一切を宿業と観ずる極端な宿業観を宣伝するためではなかったの
である。

「自分の善行(ぜんこう)」だと誇る心、「自分の悪行(あくぎょう)」だと悲嘆する心、
この善悪二つながらに捉われる心を踏み超えてはじめて、本当の心 ―― 何物にも捉えられない
実相に乗托せる心を出して来ることが出来るのである。

「自分の善行」だと誇る心も「自分の悪行」だおと悲しむ心も倶(とも)に虚仮不実(ほんとうにない)
の心として棄(す)てて了わねばならないのである。”そのままの”心を出して来るには善悪二つ
ながらに執しない心「ただ念仏申される心」を要す。

「ただ念仏申される心」に導くためにころ親鸞聖人は「悪人却って救わる」の教をお説きに
なったのである。悪行をお励(すす)めになったのでは勿論ない。

           <感謝合掌 平成26年9月30日 頓首再拝>


[138] こころ極まる「九月光明道中記」(中旬)
伝統 - 2014年09月30日 (火) 03時28分

九月十一日 新生の日

 【われ既に天地を新たならしめたのである。(『生命の實相』第七巻)】

(歎異抄十三条)

   また、海河(うみかわ)に網を曳き、釣をして世をわたるものも、野山に猪(しし)を猟(か)り、
   鳥をとりていのちをつぐともがらも、あきなひをし田畑(でんばた)をつくりてすぐるひとも、
   ただおなじことなり。然(さ)るべき業縁(ごうえん)のもよほさば如何なるふるまひもすべし

   とこそ、聖人は仰せ候ひしに、当時は後世者(ごせしゃ)ぶりして、よからんものばかり
   念仏まうすべきやうに、あるいは道場に貼文(はりぶみ)をして、なむなむのことしたらん
   ものをば道場へ入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相をほかに示して、
   内には虚仮(こけ)をいだけるものか。

ここに唯円房は循環論法の手品に引っかかって、親鸞の真意を失ってしまった。
親鸞が一切の業の催しだと説かれたのは、「わしが・・・わしが」の力みを除り去って他力の中へ
溶け込むための随宜(ずいぎ)説法で、宿業の中へ沈む為ではない。

全部が業の催しであるならば、「道場に貼文(はりぶみ)する者」た「念仏は善き人ばかりが申すように
言う人」も「業の催し」によって、そうなっているのであるから、それに対して、内には虚仮(こけ)
をいただけるものと、非難する必要もないし、

また唯円房が非難するのも「業の催し」によるとするならば誰か何を論(い)わんやだ。
循環無限、論議の遊戯に過ぎない。

・・・

九月十二日 神に催される日

 【吾が生命は、よき水脈に穿たれた井戸のように汲めども尽きぬ。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄十三条)

   願に誇りて造らん罪も宿業のもよほすゆへなり。さればよきこともあしきことも、
   業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまいらすればこそ、他力にては候へ。

   唯信抄(ゆいしんしょう)にも、弥陀、いかばかりのちからましますと知りてか、
   罪業の身なれば、すくはれ難しと思ふべきと候ふぞかし。

   本願に誇る心のあらんにつけてこそ、
   他力をたのむ信心も決定(けつじょう)しぬべきことにて候へ。

一切が業の催すところであるとするならば「ひとへに本願をたのみまいらす」ことも業の催す
ところである。併し、これは本願の催すところなのである。

「信心よろこぶそのひとを如来とひとしと説き給う。大信心は仏性なり。仏性すなわち如来なり」
と『弥陀和讃』に親鸞聖人がお説きになっているのがそれである。
信心は内部に宿る仏性の催しなのである。

而も仏性はどうして内部から開発され催して来るのであるのか。
善智識に遭い又は善き書物に触れることである。

善智識に遭い、善き書物に触れるのは「自己のつくれる過去の業」によるか ―― そうすれば、
自力となるのである。
然らず、それは如来より廻施(えせ)せられたる機縁である。仏縁である。

仏縁おろそかならず、善智識はその人にとり弥陀であり、
善き書物はその人にとり弥陀の説法である。

・・・

九月十三日 罪を恐れず、罪消ゆる日

 【念仏すると云うのは心の眼をひらく一つの動作である。(『生命の實相』第六巻)】

(歎異抄十三条)

   おほよそ、悪業煩悩を断じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ願にほこるおもひもなくて
   よかるべきに、煩悩を断じなば、すなはち仏に成り、仏のためには、五劫思惟の願
   その詮なくやましまさん。

   本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄具足せられてこそさうらうげなれ。
   それは、願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ。
   いかなる悪かほこらぬにてさふらふべきぞや。却(かへ)りてこころ稚(おさな)きことか。

煩悩を無くしてからこそ仏の本願に依(たよ)る資格があるなどと云うのは間違である。
煩悩が断ち切れない人間であればこそ仏の本願に依るのである。
煩悩を断ち切って了(しま)うことが出来たら、それはもう其の儘で仏なのである。

法蔵菩薩は五劫の長期間思惟(かんがえ)に考えを廻らされたのである。
「悪をしながら仏の救いに依るのは本願ぼこりだ」などと非難する人も、どうせ五十歩百歩で
あって、悪を犯しているのであるから、矢張り「本願ぼこり」ではないか。

どんな悪だけを「本願ぼこり」だと言おうとするのか、そんなことを言うのは却って心がまだ
稚(おさな)いのだ ―― とは大分手厳しいが、反語も混っている。

・・・

九月十四日 清富(せいふう)集る日

 【清貧に凝り固まらず、自由無碍の働きを尊ぶ。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄十四条)

    一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条(くだり)は、
    十悪五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終(みょうじゅう)のときはじめて
    善知識のをしへにて一念申うせば八十億劫の罪を滅し、十念申せば十八十億劫の重罪を
    滅して往生すといへり。

    これは十悪五逆の軽重(きょうじゅう)をしらせんがために、一念十念といへるか。
    滅罪の利益(りやく)なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。

「観無量寿経」のなかに、十悪五逆の罪人で常日念仏を申さなかった人が臨終(いまわのきわ)
に善智識(おしえのせんぱい)に教えられて一声(ひとこえ)の念仏を申すならば八十億劫の
間まよわねばならぬ十悪罪がほろび、十声(とこえ)の念仏をとなえたならば

五逆の罪が滅びると書いてあるが、それは十悪と五逆の罪との軽重(けいちょう)を比較する
ために滅罪の利益を引合に出したのであって、決して念仏の功徳を一念よりも十念、
十念よりも百念と比較してその軽重を言わんがためではないのである。

一念よりも十念が一層よく訊くなどと言うことなれば、それは如来の本願に救われるのでは
なくして、唇や心で誦(とな)える自分の行の多寡(うういすくない)によって救われると云う
自力的救われ方となるのである。

・・・

九月十五日 肩の荷を卸(おろ)す日

 【「狭き門より入れ」とは自力の行を卸して入れとのことである。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄十四条)

   弥陀の光明にてらされまいらするゆへに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、
   すでに定聚(じょうじゅ)の位におさめしめたまひて、命終(みょうじゅう)すれば、
   もろもろの煩悩悪障を転じて、無生忍(むしょうにん)をさとらしめたまふなり。

   この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、
   一生のあひだまうすところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、
   徳を謝すとおもふべきなり。

然り、「弥陀の光明に照らされまいらする故に」一念発起して金剛の信心が発現するのである。
金剛の信心は自分の力で起すのではなくして、ここにある通り「たまわる」のである。

凡夫が信心を起して救われるのではなくして、
如来の本願力が吾々に廻(めぐ)り来って自然に信心したくなるのである。

それは丁度、母の慈愛の心が廻り来って自然に赤ん坊が乳房を吸うことを知るようなものである。
乳房を吸うのは、何の教育も受けていないで、自然と催して来る。
そう思えば自力で救われるところは一つもない。

みんな仏様のお計らいであるから、念仏も自分が往生極楽の行を積むというような
偉そうな気持でなしに、如来大悲の恩を報じ、徳を謝すと思ってすべきである。

・・・

九月十六日 価(あたい)なくして受ける日

 【汝のニセ物の仮面を剥げ、ニセ物の罪状をあらわにせよ。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄十四条)

   念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すでにわれと罪を消して、
   往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。

   もし然(しか)らば一生のあひだ思ひと思ふこと皆生死(しょうじ)のきづなに
   あらざることなければ、生命(いのち)尽きんまで念仏退転せずして、往生すべし。


念仏を申すごとに、「これで罪が消える」と信じて念仏するが如きは「念仏申す」と云う自己の
行為の力で罪を消すと思っている力みである。「これで罪が消える」とと云う自力の行(ぎょう)
も悪いことはないが、それならば言いたいことがある。

一生のあいだ常に吾々の思い思うこと、生死超越の障(さわ)りとなる執着煩悩に関係しない
ことは一つだってないのであるから、毎日毎日その執着煩悩の数だけずつ念仏を称えなければ
救われないと云うことになるだろう。

聖書(バイブル)の中にもイエスは譬(たとえ)をもってこのことを説いている。

或る葡萄園の主人が、朝雇い入れた園丁も、昼雇い入れた園丁も、
夕方もう仕事の終りころに雇い入れた園丁も、同一の給料を支払った。
そして葡萄園の主人は神であり、働き人は人間の譬えである。

この実話によってイエスは、人の救われるのは、その働いた分量によるのではなく
神の約束(仏の本願)による事を示し給うたのである。

・・・

九月十七日 このまま救われていることを悟る日

 【肉体は人間ではない。人間の心の痕跡である。(『生命の實相』第二巻)】

(歎異抄十四条)

   ただし業報かぎりあることなれば、如何なる不思議のことにも逢ひ、また病悩苦痛を
   せめて、正念に住せずしてをはらんに、念仏まうすこと難し。その間(あひだ)の罪は
   如何(いかが)して滅すべきや。

   罪消えざれば、往生はかなふべからざるか。摂取不捨の願を依(たの)みたてまつらば、
   如何なる不思議ありて、罪業をおかし、念仏申さずしてをはるとも速やかに往生をとぐべし。

人には各々業報と云うものがあって催して来るのであるからたとい毎日一刻も欠かさずに念仏して
おろうと思っても、念仏できないことがある。

また「臨終の一念申して救われよう」と思っても、臨終と云うときに病気の悩み苦しくて、
精神朦朧として正念を失って了って念仏を称えることが出来ない人もあろう。

自分の力と云うものはそのように儚いものであるから、自分の力で称える念仏では中断される
ことがあるのは止むを得ない。では、その中断された間の罪をどうして消すか。罪が消えなければ
どうして救われるか、救われる道はただ一つ。如来の本願に乗托(のる)ことである。

どんな思わぬことから罪を犯そうとも如来の本願の中には罪はないのだから、

”念仏申さずとも救われているのだ”

―― この最後の一句こそ生長の家の常に説くところだ。

・・・

九月十八日 自仏の光明を知る日

 【欲が起らば山ほど起して見よ。仮令起るも自仏の光明なり。天桂禅師。(『仏教の把握』)】

(歎異抄十四条)

   また念仏のまうされんも、ただいまさとりを開かんずる期(ご)のちかづくにしたがひても、
   いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそ候はめ。つみを滅せんとおもはんは
   自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにて候ふなり。

摂取不捨の仏の本願に漏れている人は一人もないのであるから、愈々(いよいよ)悟りを開く
時期が近づくにしたがいいよいよ阿弥陀仏に依(たよ)り切って申す念仏は、御恩報じのために
称える念仏でなくてはならない。

真宗は平生業成(へいじょうごうじょう)であって、普段弥陀をたのみ奉る心になっておれば、
臨終になって念仏を称えようが、称えまいが、弥陀仏の救いの中に摂取不捨せられて了って
いるのである。

定衆(じょうじゅ)即ち詳しく言えば正定衆(しょうじょうじゅ)の位にいると云うのである。

「わしの称える念仏の力で罪を滅しよう」と思うのは自力の念仏であるから忌むのである。
そう云うわしの力の念仏であるからこそ「臨終正念」を大切に言うのだが、
それは本当の他力の信心ではない ―― と云う意。

併しその平生の業が必要だと云うならば平生弥陀をたのむ心がないときには救われぬか。
他力の救いには平生業も必要ではない。

”既に今”救われているのが人間だと云うのが生長の家である。

・・・

九月十九日 明暗を超えて一つの日

 【唱うれば、仏も吾れもなかりけり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。一遍上人(『仏教の把握』)】

(歎異抄十五条)

   煩悩具足の身をもて、すでに悟(さとり)を開くといふこと、。この条もてのほかのこと
   にさふらふ。即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。
   (六根清浄はまた法花一乗の所説、)四安楽の行の感徳なり。

   これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生(らいしょう)の開覚(かいがく)
   は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり。これまた、易行下根(いぎょうげこん)
   のつとめ、不簡善悪(ふけんぜんあく)の法なり。

煩悩だらけの此の身で悟りを開くことは難しいが、そんな身で悟を開かないで、自分の中に
廻施(えせ)せられた信心で悟をひらくことならば易しい極みであるのである。

悟の邪魔になるのは此の「煩悩具足の身」であり、その身ありと思えばこそ、肉体が滅してから
浄土へ往生するなどの考え方が必要になって来るのである。

また即身成仏と云うことをここに大変難しい行事のように説かれているが、それも此の肉体と
云うものをアルと思えばこそ肉体そのままで成仏するのは中々むつかしいと思えるのである。

ところが此の肉体が本来無し、本来寂滅の相(すがた)だと知ったならばこのままで肉体も何も
ない、唯”ある”ものは私の”いのち”だけではないか。即ち其のまま即身成仏ではないか。
併し肉体”ない”と知り得ない人々は、臨終を以て往生極楽の機とするのも悪くない。

・・・

九月二十日 生死超越の日

 【何物が生死(しょうじ)し何物が去来す。唯是れ一念の妄計、天桂禅師。(『仏教の把握』)】

(歎異抄十五条)

   おほよそ今生(こんじょう)においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、
   真言法華を行ずる浄侶(じょうりょう)、なほもつて順次生(しょう)のさとりをいのる。

   いかにいはんや戒行慧解(かいぎょうえげ)ともに無しと雖(いへど)も、弥陀の願船に
   乗じて、生死(しょうじ)の苦海をわたり、報土のきしに着きぬるものならば、煩悩の黒雲
   はやく晴れ、法性(ほっしょう)の覚月(かくげつ)すみやかにあらはれて、尽十方の無礙
   の光明に一味にして一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはさふらへ。

大体、この肉体のあるままの此の世で煩悩の障りを断ち切ろうと思うことそのことが極めて
有りえないことである。真言や法華の浄行の僧侶でさえも此の世で全然煩悩を断ち切ることは
出来ないで次の世に悟るべく祈るのである。

まして戒行も保ち得ず智慧のない吾等は如何にすべき。

ただ弥陀の本願の船に乗ればこそ、生死の世界を超えて生死なき彼岸(あのよ)に着いたときに
煩悩なくなり、法性(さとり)の月影があらわれる。是れ偏(ひと)えに弥陀の他力である。

斯くの如くして初めて吾々は自分が仏になるだけでなく、あらゆる方角すべてのところ何時(いつ)
如何なる罪をも礙(さわ)りとならぬ如来の光に融け込んで他の人をも救うことが出来るのである。
(と云う意)

           <感謝合掌 平成26年9月30日 頓首再拝>

[139] こころ極まる「九月光明道中記」(下旬)
伝統 - 2014年09月30日 (火) 03時33分

九月二十一日 神通自在の日

 【有を捨てて空に着(ぢゃく)す、病亦然り。
   還って溺(でき)を避けて火に投ず。永嘉大師。(『仏教の把握』)】

(歎異抄十五条)

   この身をもて悟(さとり)を開(ひら)くと候ふなるひとは、釈尊の如く種々の応化(おうげ)
   の身をも現し、三十二相、八十随形好(ずいぎょうこう)をも具足して、説法利益(りやく)
   さふらにや。是(これ)をこそ、今生に悟(さとり)を開く本とは申し候へ。

これを解釈すると次の通りである ――

「この身をもて悟をひらくなどと言う人は、考えても見るが好い。本当に悟をひらいたならば
釈尊の如く、色々の応化の分身をあなた此方に出して、三十二相八十随形好などと云う円満な
人相を具足しているか。またその説法たるや、釈迦のようにその説教を聴いた人々に色々の利益が
現に現れると云うことがあるか。

そんなことが出来る人にして今生に覚(さとり)を開いて仏になる本意にかなう人であろうが、
先ずそんな人は無いではないか」

この一節は、来世往生を強調するのあまり即身成仏を説く人をあまりに折伏(しゃくぶく)し過ぎた
嫌いがある。「戒行慧解(かいぎょうえげ)ともに無し」と謙(へりくだ)る位ならば、
他の人の境地は判らないのであるから批判しない方が奥床しいのである。

此の世で分身を出して遠隔の人の病気を癒(なお)す人もないではないし、現に生長の家では
説教するだけで素晴らしく人々を救い得る人もある。

「此の身もて・・・云々」の語は、あまりに「肉体はアル」と思い過ぎている。

・・・

九月二十二日 一切の捉われを無くする日

 【一切の見なき即ち正見なり。更に是れは正見なりと念言(ねんごん)するも
               亦是れ邪見なり。恒山(こうざん)禅師。(『仏教の把握』)】

(歎異抄十五条)

   和讃にいわく、金剛堅固の信心の定(さだ)まるときを待ち得てぞ弥陀の
   心光摂護(しんこうしょうご)して、ながく生死(しょうじ)をへだてけるとは候へば、
   信心のさだまるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。

   しかればながく生死をばへだてさふらふぞかし。かくの如く知るを、悟るとは言ひまぎらかす
   べきや。あはれに候ふをや。浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にして悟をば開く
   と習ひ候ふぞとこそ故聖人の仰せには候しか。

「親鸞聖人の和讃『金剛堅固の信心の定まる時を待ち得てぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死を
へだてける』と云うのを『信心の定まるとき、その時そのまま現身(このみのまま)で弥陀の心光
のなかに摂取し護られるから、もう六道に迷うなどと云うことはなく、そのまま生死を超えるので
ある。これを悟りと言うものじゃ』と言う人があるが、気の毒な間違である。

浄土真宗の教は、今生(このよ)で仏の本願を信じて、あの世へ往ってから悟を開くことであると
師匠に承っている」斯う云う唯心房は肉体と云うものが、仏の無礙光の障りとなり得ると誤解
している。

・・・

九月二十三日 空をも捨てて自由を得る日

 【空にして一切を破(は)しおわらば空も応(まさ)に待つべし。智度論。(『仏教の把握』)】

(歎異抄十六条)

   信心の行者、自然(じねん)に腹(はら)をもたて、あしざまなることをも犯し、同朋同侶
   にもあひて口論をもしては、必ず廻心(えしん)すべしといふこと。この条、断悪修善
   (だんまくしゅぜん)のここちか。

   一向専修(せんじゅ)のひとにをいては、廻心といふことただひとたびあるべし。
   廻心は日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては
   往生叶(かな)ふべからずと思ひて、もとのこころをひき代へて、本願をたのみまゐらする
   をこそ、廻心とは申しさふらへ。

信心する人は、自然腹を立てたり、悪いことを犯したり、念仏の同信者たち互いに口論することが
あったりしたらよく廻心(くいあらため)して二度とそんな罪を犯さないようにしなければ救われ
ないと言う人があるが、それは自力で悪を断じ善を修して、救われの原因とするのであるから
本当の他力信心ではないのである。

本当の廻心とは心が三百六十度転回して、自力を捨てて、仏の本願にたのみ切って、
そのまま私のはからいをせず、まかせる心になることなのである。

・・・

九月二十四日 野の百合の如く生きる日

 【野の百合の如く自分は生きたい。野の百合は労(つと)めず紡がない。(生命の實相第十巻)】

(歎異抄十六条)

   一切の事に朝夕(あしたゆふべ)に廻心(えしん)して往生をとげさふらふべくは、人の
   命(いのち)は出づる息(いき)、入(い)るほどを待(ま)たずして終わることなれば、
   廻心もせず、柔和忍辱(にゅうわにんにく)のおもひにも住せざらんさきに、

   寿命(いのち)つきば摂取不捨(せっしゅふじゃ)の誓願はむなしくならせおはします
   べきにや。

   口には、願力をたのみ奉るといひて、心には、さこそ悪人を救けんといふ願不思議にまします
   と言ふとも、さすが善からんものをこそ救けたまはんずれと思ふ程に、願力を疑ひ、他力を
   依(たの)みまいらする心欠けて辺地(へんぢ)の生(しょう)をうけんこと、もとも嘆き
   思ひたまふべきことなり。

本当の廻心は「たのむ心」への全面的三百六十度転回であって一行一履(り)の更改ではない。
人間の寿命は出る息の入る前も待たずに縡(こと)切れるものであるから、一つ一つ悔い改めて
尚完全、柔和(やさ)しい忍辱(にんにく)の心持になれないうちに縡切れてしまったならば、
どんな人間でも救おうと仰せられた摂取不捨の弥陀の願は”うそ”になるのである。

一々の行為の悔改めを言っているようなことでは、実は如来の本願力に依(たの)み奉ると
言いながらも、如来は悪人を救(たす)けず善人だけを救けると思っているのであるから、
本願力を疑う者で辺地に往生して本当のお浄土へは往生する事が出来ない。

・・・

九月二十五日 信心決定(けつじょう)の日

 【生命の真を形の世界にあらわすのが實人生である。(生命の實相第十二巻)】

(歎異抄十六条)

   信心さだまりなば、往生は弥陀にはかられまいらせてすることなれば、わがはからひ
   なるべからず。悪(わろ)からんにつけても愈々願力を仰ぎまいらせば、自然(じねん)の
   ことわりにて柔和忍辱のこころも出でくべし。

   すべて万(よろづ)のことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれ
   と弥陀の御恩の深重(じんじゅう)なること、つねは思ひいだしまゐらすべし。
   然れば念仏も申され候。これ自然なり。わがはからはざるを自然とまふすなり。

   これすなはち他力にてまします。しかるを自然といふことの別にあるやうに、わがもの
   知り顔言ふひとの候ふよし承(うけたまは)る浅ましく候なり。

「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なることを常に思い出だす」ときに、自然の真理にて人間の
心が柔和忍辱の心になって来ると云うことに注目しなければならない。

肉体は本来無いのであるから肉体と肉体”ごころ”の間違を一つ一つ悔改めるのが救われる原因
ではない。そうかと云って仏の善悪差別の救いに甘えて故意に悪を犯せと言うのでもない。

「柔和忍辱の心」は救われる原因ではなくして、”既に救われていると云う自覚”から来る
自然の道理(ことわり)なのである。その自覚から「自然に念仏申される心」が出て来る。

自然であるから自分のはからいではない。
全く他力である。

・・・

九月二十六日 清浄の天地を観る日

 【このまま仏である。このまま極楽往生しているのである。(『仏教の把握』)】

(歎異抄十七条)

   辺地往生をとぐる人、つゐには地獄におつべしといふこと。この条いづれの証文に見え
   候ふぞや。学生(がくしょう)だづるひとの中に言ひ出ださるることにて候ふなるこそ、
   あさましく候へ。経論正教(しょうぎょう)をば、如何やうにみなされてさふらふらん。

   信心欠けたる行者は、本願をうたがふによりて辺地に生じて疑ひの罪を償(つぐの)ひて
   後、報土のさとりを開くとこそ、承(うけたまは)り候へ。信心の行者すくなきゆへに、
   化土(けど)におほくすすめ入れられ候ふを、遂にむなしくなるべしと候ふなるこそ、
   如来に虚妄を申し付けまいらせられ候ふなれ。

純粋の他力信者になり切れない者は報土のお浄土へ救い摂(と)って頂けないで、辺地と云う
化土(かりのところ)に往って遂には地獄に堕ちると言う者があるが、そんなことは経釈の
どこにも証拠がない。これが学者と云う者から言われるのだから何と浅ましいことだろう。

純粋他力になり切れないでも兎も角念仏申す人は、本願の全的救済を信ぜず、完全に三百六十度
廻心(えしん)出来ないから一旦は化土(けど)に生まれて、そこで浄(きよ)められて報土
(弥陀本願の報いとして建てられた浄土)へ生れる悟りを開く。

化土に生れる者は地獄に落ちると云うのは弥陀の全的救いの誓願を嘘だと言うに等しい。

・・・

九月二十七日 仏とともにある日

 【夜々仏を抱いて眠る。朝々還ってともに起く。起坐常に相随う。語黙居止、
  身影の如く相似たり。仏の去処を知らんと欲せば、ただこの語声これなり。
                             (『仏教の把握』)】

(歎異抄十八条)

   仏法の方に施入物(せにゅうもつ)の多少にしたがひて大小仏になるべし言ふこと、
   この条、不可説なり、云々。比興(ひきょう)のことなり。まづ仏に大小の分量を定めん
   ことあるべからず候。

   かの安養浄土の教主の御身量をとかれて候も、それは、方便報身(ほうべんほうじん)の
   かたちなり。法性(ほっしょう)のさとりをひらいて長短方円のかたちにもあらず、
   青黄赤白黒のいろをも離れなば、なにをもてか、大小をさだむべきや。

仏法では供養のお布施の大小によってお浄土へ往って大きな仏縁になったり、小さな仏縁に
なったりすると説いて布施を慫(すす)めるものがあるが、言語道断、以ての外の興ざめたこと
である。

仏には分量大いさなどと云うものはないし、供物の大小で救われ方が異(ちが)うなどと云う
ことはない。阿弥陀仏の身体の大きさなどが御経に説かれているが、それは、相(すがた)を
説かないと判らない凡夫に仰ぐように現しくださった方便報身(ほうげんのおからだ)である
のである。

方便のおからだの奥に法性法身(ほっしょうのおからだ)、眼に見えない、形を超えた実相の
法身(おからだ)があるので、これが実相である。

それは長いも短いも、青、黄、赤、白、黒の色をも超越しているから、
大小などと云うことは比較の出来ないことである。

・・・

九月二十八日 実相の仏を知る日

 【名もなく相(すがた)もない光が久遠実成(くおんじつじょう)の仏であります。
                              (『仏教の把握』)】

(歎異抄十八条)

   念仏まうすに、化仏(けぶつ)をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、大念には大仏を見、
   小念には小仏をみると言へるか。若しこのことはりなんどに、はしひきかけられ候ふやらん。
   
   かつは、また檀波羅蜜の行ともいひつべし、如何にたからものを仏前にもなげ、師匠にも
   ほどこすとも、信心かけなばその詮なし。一紙半銭も仏法のかたにいれずとも、他力に
   こころをなげて信心深くば、それこそ願の本意にて候はめ。

   すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もある故に、同朋をいひをどさるるにや。

「大集日蔵経」には、「念仏もうせば化仏(けぶつ)を見たてまつる。大声で念仏すれば大きい仏、
小声で念仏すれば小さい仏を見たてまつる」と説いてある。これに因みて、布施の大小で大小の仏
になると言ったのであろうか。また聖道門の檀波羅蜜、即ち布施行に引っかけたのであろうか。

いずれぬせよ、自分の口から出る念仏の声の振動の大小や、自力で出す布施の大小で救われる
のだったら、自力の救いであって、それは有限の救いで、結局吾々は末始終(すえしじゅう)
救われ切ることは出来ない。

一枚の紙、半銭の財を布施しないでも他力の中に心を投げ込めば救われるのだ。

・・・

九月二十九日 教祖と同じ信心を獲(う)る日

 【象は無い! 無いものに引っかかるな。無いものは無いのだ。(生命の實相第十巻】

(歎異抄総結の条)

   右条々は、みなもつて信心のことなるよりことおこり候ふか。故聖人(親鸞)の御物語に、
   法然聖人の御とき、御弟子そのかずおはしけるなかに、おなじく御信心のひとも少く
   おはしけるにこそ、親鸞、御同朋(ごどうぼう)の御なかにして御相論のこと候ひけり。

   そのゆへは善信(親鸞)が信心も聖人(法然)の御信心もひとつなりと仰せの候ひければ、
   勢観房・念仏房なんどまうす御同朋達、もつてのほかにあらそひたまひて、いかでか聖人の
   御信心に善信房の信心ひとつにはあるべきぞと候ひければ、

   聖人の御智慧才覚ひろくおはしますに、ひとつならんと申さばこそ僻事(ひがごと)ならめ、
   往生の信心に於いては、またく異なることなし、ただ一つなりと御返答ありけれども、
   なをいかでかその義あらんといふ疑難ありければ、

   詮ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非を定むべきにて、この子細を申しあげければ、
   法然聖人の仰せには源空が信心も如来より賜(たまわ)りたる信心なり、善信房の信心も、
   如来より賜らせ給ひたる信心なり、されば、ただひとつなり。

   別の信心にて御座(おわし)まさん人は、源空が参らんずる浄土へは、よも参らせたまひ
   候ひしかば、当時の一向専修の人々のなかにも親鸞の御信心にひとつならぬ御ことも候ふらん
   と覚え候。・・・

・・・

九月三十日 大自在の日

 【病気は無い! 物質は無い! 現象はない。実相のみ独在。(生命の實相第十巻)】

(歎異抄総結の条)

   聖人のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、
   ひとへに親鸞一人がためなりけり。・・・

   聖人の仰せには、善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。

   そのゆへは、如来の御こころに善しと思召(おぼしめ)すほどに
   知り徹(とお)したらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、
   如来の悪(あ)しと思召(おぼしめ)すほどに知り徹(とお)したらばこそ

   悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
   よろづのこと、皆もつて、そらごと、たわごと、まことあることなきに、
   ただ念仏のみぞまことにておはしますとこそ仰せは候ひしか。・・・

もう此の月の頁が終わるので『歎異抄』の総結のところを重要点だけに端折(はしょ)る。
「弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」とは
至言である。皆その心持保つべしである。

よくよく考えて見れば本当に人間には此の世のことの善も悪も本当には判らない。
此の「善をしたから救われる」と云うような自力の判断は恥ずかしくて出来ないのである。
此の世のこと、善と言い悪と言い、併しそれはただ空言、妄言(たわごと)、実相(まこと)
ではないのである。

ただ念仏 ―― ただ神想観 ―― それは如来から廻施(えせ)せられたものであるから、
それのみが真実である。

諸君よ実相を観じよう。


           <感謝合掌 平成26年9月30日 頓首再拝>



お名前
メール
タイトル
本 文
URL
削除キー 項目の保存


Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場にて 母の日向けギフト値引きクーポン配布中
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板