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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[308] 神とともに祈る(十二月の光明法語)
伝統 - 2014年12月11日 (木) 06時06分

神とともに祈る(十二月の光明法語)(上旬)

        *光明法語<道の巻>より

十二月一日の法語 《去私すなわち神》 

「わが魂の底なる神よ。あなたのみ声を限りなく聴くことができますように。
あなたのみ心が私の心となって顕れてまいりますように。我をなくならしめ給え。
わたしの行いがあなたの行いでありますように」。

これが私の祈りである。

我がなくなったとき、其処に神が顕れる。
神が顕れたとき、其処には完全円満のみが存在するのである。

悪しきものは存在しない。それは我の顕れに過ぎないのである。
私心を去ったとき唯円満完全のみがあらわれる。

あまり自分でたくまぬが好い。 

・・・

十二月二日の法語  《神に波長を合わせ》

神は善人にも悪人にも、太陽が一様に萬人を照らすかの如く、照らし給う。
それを受けると受けないとは、自分の心がそれに波長が合うか合わないかの事である。

色盲は紅や緑の色があっても、その網膜の色素細胞が、
それらの色に波長を合わさないから見えないのである。

オカゲを受けたいものは波長を合わすことである。
我(が)の波長では神の恵みの波長は受けられぬ。

よろしく我(が)を捨てカラッポになるべきである。
カラッポの容(い)れ物のみよく一切のものを受け入れ得るのである。

・・・

十二月三日の法語 《そのままの美しさ》 

そのままの美しさを知らねばならない。
そのままの美しさを殺した活花(いけばな)は美しいようでも真の美しさに欠けている。

どんな樹の枝の歪(ゆが)みにも、その自然の歪みのゆえに、美しさが満ちている。
それは画家がよく知っている。

どんな人間の顔もそのままが全体として調和した美しさをもっているのであって、
鼻の低い人は鼻の低いそのままが全体の顔の道具と調和しているのである。

若し隆鼻術でも施して、その鼻を人工的に高くしたら、その顔は全体の調和を失って了う。

・・・

十二月四日の法語 《不ぞろいの美しさ》 

すべての人の眼は左右平等ではないのである。
左眼と右眼とは其の大きさが異(ちが)う。
そこに美しさが見られ、生命の動きが見られる。

左右平等では動きが見られないのである。
動きと云うものは二つのものの力の相違から来るのである。

活け花にも天と地との位(くらい)をつくった其処に生動の姿をあらわす。
天は高く地は低く、そこに美が構成せられる。
もし天地の位置を、平等の高さに置いて活花を活けるならば、美しさなど見られない。

平等でないところに美があるのである。

・・・

十二月五日の法語 《自然の歪みの美しさ》 

茶の湯の茶碗の美も、人間的に巧(たく)まない自然の歪みの曲線にある。
若し機械にかけてあれを人工的に正図にしてしまったら美しさなどはないであろう。

人間は兎(と)もすれば人工的機械的な直線をつくりたがる。
けれども人工的な機械的な直線は自然のたくまない線に較べるとその美しさは劣るのである。

大自然のもので、コンパスで書いたような、正円もなければ、定規で引いた様な直線もないのである。
しかもその歪んでいる樹木の枝の美しさ、人間の眼の不揃いも美しいのである。

・・・

十二月六日の法語 《無理にたくむな》

人生の行路も樹木の枝の曲りのように迂余曲折しているものである。
迂余曲折しているままで美しいのであり、その儘その自然のゆがみにまかせて行けば
美しく豊富な結果が得られるのである。

そのまま自然の、歪みに任せて行こうとしないで、我(が)を出して一直線に引こうとしたり、
また無理にたくんで美しい曲線に曲げて行こうとしたりするから、美しい結果が得られないで
苦しまなければならないのである。

行雲の如く流水の如く、その儘に流れるとき何事も美しく成就する。

・・・

十二月七日の法語 《逆らえば順潮も逆潮》

一直線の運河には美は乏しく、自然にうがたれたる渓谷や河水の流れには美しさが満ちている。
自分がカラッポになるとき、自然が穿つのである。
波に乗るとき万事は調和して順潮に行く。

本来逆潮と云うものはないのであるが、順潮もさからえば逆潮となる。
波に乗って泳げば疲れることを知らずに、其の目的地に達することが出来るけれども、
波に逆らえばしばしの間に疲れてしまい、泳ぐ力もなくなって途中で溺れてしまうであろう。

人生の行路もそのようなものである。

・・・

十二月八日の法語 《神と《とも》に祈る》

神よ、生きとし生ける者を生かし給える吾等の《みおや》なる神よ。
わたし自身の本来のものでない願いを、わが胸より去らしめ給え、わが心を浄め給え。
わが魂の切なる願いのみを願うことが出来る様になりますように    <今日の祈り>

自分が真に何をもとめているかを知らない人が随分多いのである。
そして自分のものでないものを憧れ求め、それが成就しないからとて嘆き悲しみ、
それが成就したからとて図に乗って悪く働く。ああ迷える人々よ。

・・・

十二月九日の法語 《自分の魂の喜び》

真に神が私に割当てたものだけが、真に自分の魂を喜ばせるのである。
其の余のものは吾々の魂を喜ばすことは出来ない。
一時五官を楽しませたように見えても、五官の楽しみは魂の喜びではないから、
やがて魂は嘆くのである。

自分の魂の内なる「切なる願い」から出たものでないものは、得ても甲斐なきものである。
「魂の切なる願い」は、自己の内にやどる「神の生命」の願いでああるから、
神とともにそれは願うのであるから成就しないと云うことはない。

・・・

十二月十日の法語 《天の使とは》

「『われ汝が無花果(いちじく)の樹の下におるを見たりと言いしに因(よ)りて信ずるか、
汝これよりも更に大いなる事を見ん』また言い給う

『まことに誠に汝らに告ぐ、天ひらけて人の子のうえに神の使たちの昇り降(くだ)りするを
汝らは見るべし』(「ヨハネ伝」第1章末節)。

預言が出来たり、透視が出来たりすることが尊いのではない。

それより尚尊いのは、人の子のうえに神の使たちの昇り降りすること
即ち人間が神霊の顕現であり、「神の霊波」が昇り降りすることである。

「神の霊波」を人格的に表現して、「天の使」と言ったのである。



[316] 神とともに祈る(十二月の光明法語)(中旬)
伝統 - 2014年12月20日 (土) 04時55分

十二月十一日の法語 《私のために奇蹟を求むな》

キリストの奇蹟は預言や透視や治病のほかに
水を葡萄酒に変じた物理的心霊現象(「ヨハネ伝」第二章)さえも起したのである。

日本にも孝子が瀧の水を汲んで父に与えたとき、
それが酒に変じていたと云うごとき養老の瀧の奇蹟もある。

しかしこれらの奇蹟は、神を試みるための奇蹟でもなく、
自己を誇らんがための奇蹟でもなく、
神の栄光をあらわすところの奇蹟である。

それは私的な求めによる奇蹟ではなく、公なる内部要請に基づく奇蹟なのである。
真に公なる愛に基づく祈りが起こるならば更に一層大なる奇蹟を見るであろう。

・・・

十二月十二日 《商売主義を排す》

イエスはユダヤ人の過越(すぎこし)の祭りのちかづいたとき、
イエルサレムの宮の境内に、牛、羊、鳩を売るもの、

両替する者などが坐っているのを見て縄の鞭をつくり、
羊をも牛をもみな宮より逐(お)い出し両替する者の金を散らし、
その台を倒し、鳩を売る者に

「これらの物を此処より取去れ、わが父の家を商売の家とすな」
と言った事が聖書に書かれている。

イエスは神を利用して儲けるところの商売主義に反対したのである。

神に対して商売的な功利主義で相対することは間違いである。

・・・

十二月十三日 《形式主義を排す》

イエスは暴力を用いなかったか、絶対に無抵抗主義であったかどうか
と云う問題についての議論の際引用せられるのが此の『縄の鞭』である。

イエスは形式主義者ではなかった。
『つるぎを執る者は剣に滅ぶ』といったイエスも剣のほかに
『縄の鞭』は使ったのである。

イエスは『審判(さば)く勿れ』と教えたが、
彼は激して形式主義のパリサイ人を審判いている。

また『審判(さばき)は子にゆだね給えり』とも言っているイエスは
生命主義者であり、生命の動く儘に自由に振舞ったのである。

・・・

十二月十四日 《みずから作る運命》

イエスは審判いたから、とうとうその反対論者や審判かれた祭司や
パリサイ人などの謀略にかかって磔刑(はりつけ)にせられたのである。

イエスは「モーゼ蛇を挙げしが如く人の子も挙げらるべし」とみずから預言して
其の預言の通りになるように行動したのである。

イエスには磔(はりつけ)に架(かか)かることが
自己の切なる魂の奥底の願いだったのである。
魂の奥底の切なる願いは必ず成就する。

彼の生涯は若し彼があんなに神経的に他を審判かなかったならば十字架に
かからなかっただろう点が多々ある。

・・・

十二月十五日 《人を赦して眠ること》

イエスさえも審判いたならば審判(さば)かれて十字架に架かるのである。
普通の人間が人を審判いて幸福になれる筈(はず)はない。

「兄弟を憤る者はゲヘナの火に投げ入れられん」とまでイエスは激語している。

多くのなかなか治らない難病は
人を恨んでいる為に、又は人を赦(ゆる)していない為に治らない。

病める者は眠りしなに、赦していない者があればそれを思い出して

「私は貴方(あなた)を赦しました。貴方も私を赦しました。
私はあなたに感謝しています」と深く念ずる事によって治るのである。

・・・

十二月十六日 《富とは貨幣のみではない》

富と云うものは貨幣のみではない。
又物資のみでもない。

人に深切を盡して置くと、それが富である。
軈て入用の時に其の人から再び深切にされ援助される事がある。

よき考えもまた富である。
実用新案などと云って、一寸した小さな「善き考え」さえも
無限に儲けを引出すこともあり得る。

よき友人を持つ事も富の一種である。

信用も亦富である。
意思の強固さや、持続力の強さや、頭脳の良さも亦富である。
更によき妻をもち、よき子をもち、良き召使を持つ事も大なる富である。

・・・

十二月十七日 《完全の自由を得るには》

金があっても買えないものがある。
善き妻、善き子は金があっても買うことは出来ない。
快楽は金で買い得る事があるが、真の幸福は金では買い得ないものである。

金があっても良いインスピレーションは買い得ないし、
完全の自由は求め得られない。
金に執着している限りその人は金に縛られる。

釈迦は金貨が山の中にかくされているのを見て、
「あそこに毒蛇がいる」と言ったそうである。

金が尊いのではない。

完全の自由が尊いのである。
完全の自由があれば何でも得られる。

・・・

十二月十八日 《神をわがものとせよ》

完全の自由を得るには「完全の自由の本体」をわがものとしなければならぬ。
「完全の自由の本体」とは全知全能なる神のみである。

全知全能なる神をわがものとしたときにのみ「完全な自由」が得られる。

全知全能をわがものとするには小智小能を捨てなければならぬ。
すなわち自分の「我的欲望」を捨てなければならぬ。
自分の小さい知恵を握っている限り、どんな大きいものがあっても握るわけには行かぬ。

大きいものを握るには、今まで握っていたものを先ず離すことだ。

・・・

十二月十九日 《汝は何者であるか》

汝は汝の自己が「汝自身が何者であるか」と信じている通りになるのである。

汝は弱小であると信じている限り弱小になる。
汝はすでに偉大であると信じておればその信ずるとおり偉大となるのである。

信念は山をも動かす。

信とは人偏に言(コトバ)であり、コトバは本質である。

人間の本質に対する自覚が信である。
人間の本質が神の子であることを信じたときに、その神の子の完全さが現われる。
自己の本質を自覚するまでに、ニセモノの自覚を捨てなければならなぬ。

それが悔改(くいあらた)めである。

・・・

十二月二十日 《ニセモノの自覚を捨てよ》

「悔改めよ、天国は手の届くところにある」とキリストは言った。

ニセモノの自覚を捨てなければ、ニセモノのままで、
自分は神の子だと頑張ったとて何にもならぬ。

鍍金(メッキ)は本物だと頑張っても本物にはならぬ。
鍍金を剥がして本物を出してこそ「わしは本物だ」と主張する資格があるのだ。

鍍金(メッキ)を剥がす方法が『悔改(くいあらた)め』であり、懺悔である。
懺悔なしに自覚の転回は不可能である。

洗濯することなしに、垢)あか)を流し捨てることなしに
「私は清潔です」と頑張って見ても駄目だ。

[336] 神とともに祈る(十二月の光明法語)(下旬)
伝統 - 2014年12月31日 (水) 06時03分

十二月二十一日 《自己を死に切る》

『悔改め』を佛教では『懺悔』と言い、自己放棄と言い、
パウロは『自己を死に切る』と言った。
一遍、肉体としての自分を死に切ったとき、霊の自分に復活(よみがえる)るのである。

自分を肉体だと思っている限りに於いて、
人間はエデンの楽園から追放せられなければならない。

自分を肉体だと思う知恵は、地(物質)に執した蛇の知恵である。
蛇は地を這う動物であり、地は物質を表徴し、

物質ありとして執着する五官を『蛇』をもってあらわし、
その蛇に教えられたる知恵を『知恵の樹の果』をもって表徴する。

・・・

十二月二十二日 《新たに生まれる》 

知恵の樹の果を食べたときアダムとイヴとはエデンの楽園から追放せられた。

人間は自分自身を五官の感覚で観て『物質』の塊だと思い出したときに
自由自在の境涯(楽園)から追放せられたのである。

『物質』とは霊の自由に対する障礙であるからである。

だから吾々が真に自由自在の境涯になろうと思うならば
吾々は『新たに生れ』なければならないのである。

物質的存在としての自覚から『霊的実在』としての自覚への更生である。

これをキリストは『人あらたに生れずば、神を見ること能わず』
(『ヨハネ伝』第三章三)と言ったのである。

・・・

十二月二十三日 《キリストの復活》

ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、
自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表してこう言っている━
『人は老いぼればいかで生るる事を得んや、再び母の胎に入りて生るることを得んや』と。

彼は新生することをどこまでも物質的更生であると考えているのである。

キリストの十字架の真の意義は『肉体』を抹殺して
『霊』として復活することだったのである。

かれは『肉体なし』と説教してもわからないから、
現実に肉体を十字架につけて、復活して見せたのである。

・・・

十二月二十四日 《美しき結び》

ネクタイを結ぶにも左は中心であり、右はその中心に従って巻くのである。
かくて美しきネクタイの結び目はつくられる。

左は良人であり、右は妻である。

箒で掃くにも、擂鉢をすりこ木で摩するのも、左手は上にありて中心を保つ。
右手はその中心に従って動くのである。

太陽系統では、大なる陽(太陽)を中心としてすべての遊星は動く、
遊星は自ら光を放たず陰である。

物質の原子も、中央に陽電気エネルギーの原子核あり、
その周囲を陰電子はめぐるのである。

・・・

十二月二十五日 《良人を愛するには》

良人を愛するつもりで、良人の欠点を出来るだけ探して、
それを是正しようと思ったり良人のすることが何だか危なかしくて、
色々注意を与えたりする人があるが、絶えず夫人より批判されていると云う事は
良人にとって好い気持ちなものではない。

愛され過ぎている総領息子が身体が弱くて神経質になると同じで、
良人も度々神経質になり癇癪持になり、遂には、ただ無批判でついて来る女性を求め、
妻以外に女性を求めることにもなる。

愛するとは放つことである。

・・・

十二月二十六日 《人間はすべからく偉大なれ》

神は無限の富者であり、宇宙に満つる偉大者である。

神は決して神の子たる人間に最低限度の生活などを強要してはいられないのである。
人間はただ大根や馬鈴薯を辛(かろ)うじて食べるために生きているものではない。

神の偉大さを実現せんがために生まれて来たのが人間である。
須(すべから)く偉大なる事に着眼し、偉大なる生活を送らなければならぬ。

夜、人の知らぬ間に降りて大地や草木を霑す夜露の様な隠れたる生活も尊いが、
ナイヤガラの瀑布やグランド・キャニオンの峡谷も美しく尊いのである。

・・・

十二月二十七日 《絶えざる進歩》

絶えず進歩つづける者は、ついには偉大に到達する。

ナイヤガラの瀑布も、その源は一滴一滴の雨水が集まったのである。
点滴ついに石を穿(うが)って、ついにグランド・キャニオンの峡谷も出来上がった。

小さな進歩を軽蔑する者は大きな進歩に到達し得ない。
偉大なる進歩は常に意志の力による持続の結果である。

併し、高く大(おお)いなる夢を描かない者は、
いくら意思の力を持続せしめようとも大いなる事は成就しない。

夢は軈(やが)て成就する物の方向を定め、
意志は最後までのその夢を把握して成就させる。

・・・

十二月二十八日 《夢を実現する食物》

夢を実現する力は意志の持続であり、その方法はサービスである。
サービスは夢を実現するための食物のようなものである。

人のために盡さないで夢を実現しようと思っても、それは空中楼閣に過ぎない。
夢を一歩一歩現実にする方法は、一歩一歩サービスをして行くところにある。

サービスとは愛行である。
日々人のためになりつつ前途に大きな夢を描いて弛(ゆる)みなく進んで行く者は
ついにその偉大なる夢は成就するのである。

夢が偉大に成長する為の食物はサービスである。

・・・

十二月二十九日 《心で光を見る》

福山市三吉町の木工業横山勇君はこんな体験談を語った。

「私の妻は一方の眼の瞳に星がかかって、
その星がしだいに大きくなり失明した状態になっていた。

6月に尾道市に生長の家の講習会が開かれたとき聴講に来た。
第一日の講習を受けた翌日は眼が痛み出して二日目の講習会には出席出来なかった」。

これは迷いの自壊作用である。

「第三日には痛みが和(やわら)らぎ出席したが、
何かの拍子に手が眼の繃帯に触れて繃帯の位置がズレると、
星に瞳孔が閉ざされて見えなくなっていた眼が見え出した」。

心が一変して光を見る心になったからである。

・・・

十二月三十日 《万物の奥に光を見よ》

光は天地間に充ち満ちておれども、其の光を百パーセント完全に見る者は聖者である。
多くの人たちはその光を一部しか見ていないのである。

心の眼を開いて見よ。
到る処に光は充満している。

空気には神の生命がかがやいているのである。
空気を吸っていることは神の生命を吸っていることである。

水には神の愛が輝いているのである。
水を飲むことは神の愛を飲むことである。

食には神の恵みが輝いている。
これを食することは、神の恵みを食することである。

・・・

十二月三十一日 《再び新生をする》

愈々今年もこれで終わる。

吾等は今日限り一切の悪しき習慣、
人を怒ること、憎むこと、恨むこと、不平に思うこと、悲しむこと、
取越苦労すること、持越苦労する事を止めることを誓うのである。

何事に対しても腹立てることなく、常に愉快に、明るく、
人々の心の中に、行いの中に、常に善のみを見て悪を見ず、

物事は今を生かして積極的に取進み、
常に自らが神の子であり、円満完全であり、
無限の能力と健康とを所有していることを自覚自信し、

撓(たゆ)むことなくひるむことなく神の道に邁進せんことを誓う。

光明法語[完]



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