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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[312] すべてを拝ろがむ(十二月光明道中記)
伝統 - 2014年12月15日 (月) 03時17分

すべてを拝ろがむ(十二月光明道中記)〜上旬

《一切衆生のための祈り》

        *「光明道中記」(12月はじめの祈り)より

わが毎朝念ずる衆生のための祈り――

私の生命は宇宙の生命と一体である。
されば吾は宇宙の凡てのものを知っているのである。

わが生命は神と一体なるが故に、わが欲(おも)うところは、
神必ずこれを成し給うのである。

光が昇れば隈なくすべての所を照らすが如く、
暗(やみ)のあるところにわが光明思念は必ず
行き亘り、悩みのあるところにわが念ずる光明の言葉は満ち亘るのである。

われは光明思念をすべての悩みありと迷える人々に送る。
送るに随って人々の悩みは消えるのである。

与えれば与えるほど殖えるのが法則であるが故に、
このことによって吾が光明は愈々輝き、
吾が健康は愈々増進するのである。

病める者、悩める者、重荷を負える者に、
われは「光明思念」の導管より生命の水を送るのである。
「今より後、罪も病も死も貧も争いも一切の不調和もなし」

われは今「光明思念」を放送する。わが光明思念は、
われを通して流れ出でたる神の生命であるから、
その光明思念は宇宙全体に充ちひろがり、すべての悩める者を癒すのである。

神よ、わが祈りを聴き給いしことを感謝します。

・・・



十二月 すべてを拝がむ


《同志愛に徹底する日》

           *「光明道中記」(12月1日)より

  【自分の全力を出し切れば其処に無限の力が生ずる。(『生命の實相』第四巻)】
   
自分の親しい人が人類光明化の陣営から去ったとて、
その去った人に義理立てして吾らの同志から脱落しないでほしい。

吾々は世界を覆っている暗黒思想と戦っている光明思想の戦士達である。
吾等は幾多の戦友、百万人の戦友の屍(しかばね)を踏み超え、
踏み超えして進まねばならないのである。

斃(たお)れた戦友に義理立てする道は、戦友と同じく落伍することではない。
尚(なお)一層の元気を奮い起して人類暗黒化の敵陣に跳(おど)り込み
人類の敵を撲殺することに在る。

吾々は全世界を蔽う暗黒と戦わねばならぬのである。
「暗黒」が吾々の共同の敵である。

イエスは自分の人類光明化の軍勢から脱落して往った同志を
“迷える一匹の羊”に譬えて、その一匹の羊が再び同志の陣営に還って来る
ように、どんなに探求するかを、迷わざる九十九匹の羊を放置しておいて、

その一匹の迷える羊を探しに出かけるではないかとも言い、
まだ脱落した同志を家出していた放蕩息子に譬えて、
その放蕩息子が父の御許に還って来た時には、

父は家出しないで父の御許に忠実に仕えていた他の兄弟たちのことは放っておいて、
還って来た息子のために祝宴を催し、その指に宝石の指輪をはめてやって歓迎する
ではないかといっている。

我らが脱落した同志の復帰を歓迎するのも斯くの如しであるのである。

・・・


真理を諦(あきら)かにする日

           *「光明道中記」(12月2日)より

  【善業を積むとは私的でない利己的でない行いをすることである。
                       (『生命の實相』第二巻)】

宗教とは自分を諦(あきら)め行く真理である。

諦めるとは自分を思いあきらめてしまうことでもなければ、
自分を誤魔化すことでもない。
人間は時とすると、対向者が出て来る場合には、相手の欠点を探すために、
自分の手許がお留守になることが有り勝である。

そんな時に其の人は相手から打ち込まれて、お面(めん)をとられ、
お小手(こて)をとられても知らないで、まだ偉そうに構えている事がある。

多くの剣道の名人は、塚原卜伝もそうであったように、敵を斬(き)るために剣を学ばず、
ただ自分を完(まっと)うせんがために学ぶように教えたのである。

剣でさえも、敵を斬るために学ぶのではなく、自己を完うせんがために学ぶのである。

では真理は人を批(う)つために学ぶのではなく、
自己を完うし更に人をも完うせんがために学ぶのであると云うことを知らなければならない。

他の欠点を斬り審判(さば)こうと思っている限りに於て
自分の欠点に気が着くものではない。

時々地方の支部から、近接地の支部のやり方の悪いことを指摘して、
「何とかして貰わないと、あれではあの行持(おこない)では、
羊頭(ようとう)を揚げて狗肉(くにく)を売るものです。
光明を揚げて暗黒を売るものです」と云う報(しら)せを頂く。

欠点と云うものは指摘して直るものなら簡単だが、
唯、私は泪(なみだ)を嚥(の)むほかない。

・・・

すべて自己の責任と知る日

           *「光明道中記」(12月3日)より

【隠れたるところにて人を賞め得る人となれ、其の人の心境は朗(ほがら)かである。
                          (『生命の實相』第十巻)】

私は第二次世界大戦が欧州に勃発した時の日記に次のように書いている。

「すべて私の責任なのである。私はみずから顧みて恥じるほかない。
考えて見れば欧州の天地で、
ヒットラーが英仏を向うに廻して戦っている姿も私の心の影である。

私が『ヒットラーよ、もう戦争を止めてくれ』と言ったら、
ヒットラーが『ハイ』と答えて戦争を止めてくれるほどになれないのは、
まだ私の力が足りないからなのである。

力が足りないのは偉さの徴候ではない。
私がまだそれほど偉くなれないのは私が悪いからである」

私はそんなにまだ偉くなれていないのである。
まだまだこれからだと思う。
光明思想が世界に弘(ひろ)がることを待ちかねている。

光明思想を弘めている誌友のなかでまだ家庭が調和せず、
「何とか指導して貰いたい」と云う愬(うった)えが
私のところへ時々来るのは悲しいことである。

併し、わが実相哲学は直(ただ)ちにこうした悲しみから、
また私を立ち上がらせて、その人のために祈ることができるのである。

実相は皆”神の子”の兄弟で、争っていないのである。

・・・

困難を遊戯化する日

           *「光明道中記」(12月4日)より

【苦しみも戯(たわむ)れに化する時人生は光明化する。何事も魂の生長の養分である。
                          (『生命の實相』第四巻)】

自分の言いなり通りが必ず通ると云うのは、その人にとって一つの誘惑であることがある。
通らないことが時にはあるので、自分が過って「我(が)」でものをやろうとしていた
そのことに反省の機会が与えられるのである。

『生命の實相』のなかにも書いてあるがナポレオンの辞書には
「不可能」と云う字がなかったが、彼は「我」の力を極度にまで信じていて
「何でも自分の言いなり通りが通る」と信じていたのである。
そして最後に蹉跌が来た。

「我」の力は如何(いか)に強大であろうとも最後に崩壊が来るものである。
それは「我」と云うものは本来無いからである。

無いものを有ると思って、我の道を通ると陥穽(おとしあな)に陥(おち)るのである。
無いものは陥没するほかはないからである。

同じく陥没する位なら大事に至らないうちに陥没する方が好い。
早く「自分の言いなり通りが通らぬ場合」が出て来る方が好い。
コツンと一つ頭を打って自分の頭(ず)が高かったことに気附くのである。

ヒットラーが世界大戦を惹き起こしたとき、ヘンダーソン前駐独英大使が、
ヒットラーを評して「彼は何事にも『諾(イエス)』と答える人間に囲まれている
誇大妄想狂だ」と言った語(ことば)を思い出すが、

人は何事にも「諾(イエス)」と答える人間に囲まれているとき
却って災厄を惹き起こすのである。

・・・

常住微笑の日

           *「光明道中記」(12月5日)より

 【悲しい時ほど笑わなければならぬ。笑いぬくとき悲しさは征服される。
                       (『生命の實相』第四巻)】

仏教では「人身得ること難し」と説かれている。

何故人身に生まれることを、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣に生まれるよりも、
また天上に生まれるよりも尊き事とされてきたかと云うと、
前(さき)の四悪趣は苦しみの世界、争いのみの世界であり、
後の天上は楽のみの世界であるからである。

苦しみのみの世界では苦しみを逃れんとして益々苦しみを招く。
楽のみの世界では楽に執着するから結局はその楽は苦に変じて天上から墜落するのである。
「自分の言いなり通りが通る世界」はこの天上界の世界と同様である。

吾々が生長の家の真理を知り、少しく神想観を実修して、
自由自在の世界が其処に実現して来ると、
「自分の言いなり通りが通る」ところのさながら天上界が実現するのである。

その時、自分の言いなり通りが通ることに深い反省と感謝とを持たずして
慢心してしまうならば、やがて其処からその「言いなり通り」への執着が増長し、
「言いなり通り」なれぬときに忽ち憤懣(ふんまん)して平常(へいぜい)の
悟りも何処へやら、周囲に当り散らしたり、

今迄での明朗の気持ちが陰気に変ったり、そんなことなら光明思想も
糸瓜(へちま)もないと言い出したりするようになるのである。

・・・

貪(むさぼ)りを捨つる日

           *「光明道中記」(12月6日)より

【白粉(おしろい)で化粧しても心情の下劣は隠せない。心で化粧せよ。
                      (『生命の實相』第十一巻)】


自分の言いなり通りが通る世界に永くいると、それに慣れて感謝と反省とを忘れる。
すると、その天上界の境涯が直ちに地獄に落ち、畜生に落ち、修羅に落ちる。

地獄とは如何なる世界であるかと言うと、閻魔と鬼とのいる世界である。
閻魔は審判(さば)く者であり、鬼は悪を爬羅(ほじくりだ)して責める者である。
人を審判き人を非難する者の住む世界が地獄である。

日々省みて、われ地獄の生活に堕ちてはいないかと反省せよ。

餓鬼とは如何なる世界であるかと云うと、貪(むさぼ)れば貪れど、
尚足らぬ飢え渇いた感じがしてたまらぬ者の世界である。
あるが上に欲しく、幾ら恵みが与えられていても尚不足に感ずる人はないだろうか。

げに常に不足を言うものは餓鬼の境涯に堕(お)ちているのである。
五感の快感のほかに喜びを知らぬ者は畜生である。
尤(もっと)も犬にも忠犬があり、義烈なる軍馬もあるが
、それは寧(むし)ろ仏性が出たのである。

また人を憎み嫉妬し腹立ち争う者は修羅である。

人間は、毎日自己が餓鬼に、畜生に、修羅に、堕ちていないかを反省しなければならぬ。

・・・

人々互いに拝みあう日

           *「光明道中記」(12月7日)より

【家庭でよき人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上の生活がどんなものであるかは既に述べた。

この5つの生活を同時に備えつつ、どの生活でも選べる自由があるのが人間の生活である。
その意味に於いて人間の生活は尊いのである。

併し人間の生活は、前(さき)の5種類の生活のうちどれでも選べるだけではなく、
なお一層尊い生活が選べるのである。
それはどう云う生活であるかと言うと、仏の生活である。

仏の生活とは拝み合いの生活である。
人間互いに拝み合っているときその人の生活は仏である。

自分の一群(サークル)だけ拝み合っていても、
派閥を造って拝み合い、吼(ほ)え合いするのは猛獣の生活である。

ギリシャ神話には半人半獣の怪人があるが、半仏半獣の怪人が世の中にあって、
自分の属する宗団だけでは拝み合い、他の宗団に対しては歯を剥き出しているのがある。
派閥を造り徒党を組むと云うようなことから吾々は超越しなければならないのである。

宗教新聞を見て気の毒に思うことは、
何宗内局の紛争とか、管長の更迭などに関する勢力争いなどが
大抵毎日書かれていることである。

宗教者よ、まずみずからの紛争を解決せよ。

・・・

永遠の今を生きる日

           *「光明道中記」(12月8日)より

 【今日いちにち心乱さず神性の自覚に生きよ。(『生命の實相』第十二巻)】

人間の成功の程度は形の大きさではないのである。
「宇宙の《いのち》」を今生きているとき、
「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きているのである。

永遠無量の《いのち》を生きることに比ぶれば、形や大いさによって計られる成功は、
どんな大なる成功であろうとも取るに足りない。
太陽の前の星のようなものである。

《今》の瞬間に永遠の《いのち》を生きようとせず、ただ権力の増大や、名誉の高揚や、
自己の勢力範囲の拡大のために目指されたる成功は、その成功の範囲が如何に
大きかろうとも、宇宙大にくらぶれば、いと小さきものである。

では今の瞬刻に永遠の《いのち》を生きるにはどうすべきか。
外面的働きから見れば同じ仕事をしているかも知れない。
併し、内容が更正(うまれかわ)らなければならないのである。

その仕事の動機が自己拡大のためではなく、何らか相対的な対抗気分によるからでなく、
自己の権力増大のためではなく、ただ神への献身のために、
人類相愛の無我奉仕のためにその仕事が遂行されねばならないのである。

かかる無我奉仕にはおのずから外的成功が伴うが、それは随伴現象に過ぎない。

・・・

近くに深切を尽す日

           *「光明道中記」(12月9日)より

【我(が)を立て通して他(ひと)に喜んで貰えなかった時の魂の淋しさを想像せよ。
                           (『生命の實相』第四巻)】

支那事変の原因は色々あるであろうが、日本が満州に進出して急発展する民族的嫉妬も
その原因の一つである。日本人が白人種であったら急発展しても中国人民は今まで白人が
中国大陸に進出しても反抗しなかったと同じようだったと思う。

一面から言うと、日中互に争ったと云うのは同族と云う自覚があるからである。

兄弟と云うものはよく喧嘩をするものである。
尤も他人とでも喧嘩をする人間はあるが、兄弟喧嘩ほど頻繁にやるものではない。
親しい筈の夫婦などよく喧嘩する。

毎日の宗教新聞を読んでいると、大抵宗教界の内紛が載せられていないことがない。
まことに一見鼻もちならぬ気持ちがするのであるが、これがやはり本当は互に親しい
からなのである。

同級生のなかでも、首席になる者とピリ滓(かす)になるものとは互に争わないが、
同一点数位の者同士は大いに競い、大いに争うのである。

仲が好い者、同点数に近い者、そうした人たちが争うのである。
争いのように見えていて、本当は争っているのではない。
近似を自覚しての動きだと云うことを知らねばならない。

そして、「争いではない」と知ったときに、形の上での争いは消えて了うのである。

・・・

自然に栄える日

           *「光明道中記」(12月10日)より

【神が商売をするので自分は神様の番頭だと思いて経営すれば繁昌する。
                           (『生命の實相』第九巻)】

家族の幸福を希(ねが)い、子孫のために或る程度の蓄財を為すことは、
ともに自然の人間の衝動であって、何ら咎(とが)めるべきではないのである。

生長の家は出家道ではない、家を生長せしむる道である。
家の繁栄を願うことは当然なことなのである。

併し、それは正しき道を通じて願われねばならないのである。
正しき道とは「公(おおやけ)」なものに奉仕する道を通してである。

人間の弱点として、最初は「公」に奉ずる為に始めた仕事が、
その仕事の「公」なる本質上、自然に栄えるようになったとき、
その栄えを自分の《もの》に帰そうとする衝動が起り勝である。

そして《自分の》成功のために何時の間にか「公」を無視して、
その成功の為に拍車を掛けはじめる。これは甚(はなは)だ危険なことである。
それは公道を走っていた馬が急に私道を走り出し、
自動車道を走っていた自動車が人道を走り出したと同じである。

馬なら手綱(たづな)をしっかり引(ひき)しめなければならないし、
自動車ならば、気を附けてハンドルを向け換えなければならない。

自己拡大だけの欲望に自分の仕事が向かないように、
吾々は常に自分の心意の方向を調節しなければならないのである。

[318] すべてを拝ろがむ(十二月光明道中記)〜中旬
伝統 - 2014年12月24日 (水) 04時32分

すべてを拝ろがむ(十二月光明道中記)〜中旬

無限生長の日

           *「光明道中記」(12月11日)より

【心を尽し、力を尽して自分自身の無限の可能性を信ぜよ。(『生命の實相』第四巻)】 
                 
宇宙の法則は無限生長にある。換言すれば進歩にある。
だから必ずしも隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望むのが悪いのではない。

ただそれが「公(おおやけ)」なる道に乗らないのが悪いのである。
彼が「公」なる道に乗る限りに於いて、進歩を心がけること、前進を心掛けること、
成功を心がけることは正しいことであり、祝福されることである。

前進する者は衰退しない。
前進する者は多くの困難と戦わなければならない。
困難と戦うことには色々の新しい経験を得る。困難と苦痛とは異なる。

新しい経験は自分の生命の中から「新しい推理」を発掘して来る。
前進するものは常に新しい鉱石に打(ぶ)つかる。

吾々の獲得は、そのたび毎に増加するのである。
吾々の獲得は眼に見えた成果のみではない。
もっと眼に見えない魂のダイヤモンドが吾々の前進によって得られるのである。

そして此の魂のダイヤモンドは、その採掘の動機が利己的でなければならない程、
「公」であればあるほど、より多く獲得することができるのである。

人間は物質的にどれだけあれば生活出来るか、
それは極(ごく)僅(わず)かな分量である。
それ以上に費やされるのは多くは虚栄(みえ)のためである。
此の分量を「公」にために献げよ。

・・・

至誠神に通ずる日

           *「光明道中記」(12月12日)より

【神は全存在(すべて)であるから誠ある人にのみ其の無限力を現わし給う。
                           (『生命の實相』第四巻)】 

神の恵みは《既にある》には相違ないけれども、
それはレディーメードではないと云うことである。
神の恵みはそんな安物ではないのである。
尤(もっと)もどんな安物も神の恵みの倉の中にあるのである。

神は労働服地も、大礼服地も、背広服もモーニング地も用意していられる。
そして吾々の注文に従ってそれを仕立てて出して下さるのである。
神の作りたまう吾々への供給は、どんな安物服でもピッタリと
各人の心の寸法に合うのである。

どんな貧しさもその人の心の寸法に合っている。
彼がその貧しい境遇と称(よ)ぶ服を着ているのは、神様のレディーメードではなく、
彼が困難と戦って魂の貴(とうと)い鉱石を発掘するためには、
その貧しい服装が丁度都合がいいと言って、彼の心が誂(あつら)えたものなのである。

それは無意識に誂えたのかも知れないが、兎も角彼の心が誂えたものなのである。

自分の今ある境遇は自分の心が誂えたところの自分の魂の衣服なのである。
兎も角、今着せられている「境遇」と云う服装で吾等は善処しなければならない。
 
今労働服を着ている人は、その労働服が擦り切れてしまうまで働かなければならぬ。
その後に新しい服が与えられるであろう。

・・・

神の叡智につながる日

           *「光明道中記」(12月13日)より

【自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。
                       (『生命の實相』第十一巻)】 

魂の進歩は、日に日に与えられた其の儘を
素直に全心(まこと)をもって行じて行くところにある。
神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、行ずる意志力を招び出だし、
その行じ得させて頂くその事実に感謝するところの行事である。

ただ遮二無二行ずればとて、反対の方向へ向かって行じているのでは却って
逆効果を呈することになる。

そこで神想観によってその行ずる方向を神の叡智によって導いて頂くのが、
「神の叡智流れ入りて、常住坐臥吾を導き給う」と観ずる神想観である。

実行の意志力を強めるところの神想観は、
「神の力われに流れ入りて吾に実行の勇気を与え給う」と観ずる神想観である。

「全てなくてならぬものを与えたまいて有り難うございます」
と繰り返し念ずるのが感謝の神想観である。

吾等は日常この三種の神想観を怠ってはならないのである。
叡智なき行は崩れる。行なき叡智は崩れる。
行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。

叡智と行と感謝と、そしてもう一つ感謝を実行に表現すること、
それは愛を隣人に対(むか)って行う報恩行である。

みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力みもない。
唯(ただ)有り難いばかりである。

・・・

報恩行の日

           *「光明道中記」(12月14日)より

【報恩の行為は実生活を生じ、周囲の人々の神性を招び覚す。
                          (『生命の實相』第八巻)】 
                   
何でもないことだが成功の要素として見のがされていることがある。
それは報恩と云うつもりでやらせて頂くことである。

「わしがやる」と云うつもりでやるから失敗するのである。
「わしがやる」と云う仕事のやり方は、感謝が伴わないから、
他から見て傲慢に見えがちで、好感を得ることが出来ない。

「わしはやる」と云う意気込は結構だが、あまりに勢い立って余裕がない。
余裕のないところに破綻が萌(きざ)すのである

 ―― わが業(わざ)はわが為すに非(あら)ず
天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の力である ―― 

と思ってやるところに、仕事をやりながらも感謝が湧(わ)いて来るのである。

感謝が湧けば何事をするにも丁寧になる。
丁寧になれば人から好意を受けることになるし、仕事そのものの成績も上るのである。

自分が世界に貢献している程度が、その人の成功の程度である。
貢献しないで、何かの策動や操(あやつ)りによってその人が経済界に
頭を上げたからとて、それは狡智の成績であって、本当の成功ではない。

成功とは自分が世界にとって有用な人間となり、
自分が世界にとって有用なる仕事が出来るということである。
成功とは奪いえた成果ではなく、献(ささ)げた成果である。

・・・

富想を持続する日

           *「光明道中記」(12月15日)より

【貧想を持続すれば貧者となり、富想を持続すれば富者となる。
                         (『生命の實相』第四巻)】 

一日一日と自分が貢献している程度が増えると云う自覚ほど有りがたいものはない。
「自分」が大きくなるのではなく、貢献が増えると云う自覚である。
自分が天下の公僕であると云う自覚である。

外面の成功は内面の貢献の反映であってこそ貴(とうと)いのであるし、
永続もするのである。

若し外面の成功が何ら内面の価値によって支えられることなしに、
ただの偶然であるならば其の成功は間もなく壊(くだ)けてしまうであろうし、
それは一時的なものであろう。

思念の力によって成功がかち得られると云うことは事実である。
常に繁栄を心に念ずる者には繁昌が引き寄せられて来るのである。
併し、その繁栄が利己のための繁栄であったならば
それは軈(やが)ては崩れてしまうのである。

そう云う人は軈(やが)ては光明思想も効かなかったとか、
生長の家も効果がなかったとか言う人達なのである。

併しそれは光明思想が効かないのでもなく、生長の家が効かないのでもない。
繁栄の基礎が利己と云うニセ者の基礎の上に立っていたのである。

「利己」的態度で「己」だけの利益に限ってしまう者は、
「己」と云う一範囲の思念の創化力を使い果たした後、跡が続かないのである。

・・・

心全く平和の日

           *「光明道中記」(12月16日)より

【外の空気よりも心の内に平和な空気をつくる事は一層大切である。(『百事如意』)】 
            
強健は必ずしもその人の精神的高位を示すものではない。
野獣は人間よりも強健である。
彼等は殆んど病気に罹らないが、人間よりも精神的高位であると云う訳には行かない。

野蛮人は文明人よりも病気に罹らないし、血を見ることを何とも思わないで
外傷的苦痛などは殆んど感じないらしいけれども、彼らは文明人よりも
精神的高位にあると云うことは出来ない。

人間が野獣よりも、そして文明人が野蛮人よりも、精神的高位にあると云うのは、
それは感じ易さが鋭敏でありデリケートであると云うことである。

高徳者の病気と云うことを考えてみる。
感じ易く、デリケートな心の琴線を有(も)っている高徳人は、
此の世界に漂うている色々の念波

―― その中には、憎悪の念波や、憤り、争い、呪い、悲しみ、羨望、
嫉妬などの、感じ易い人々にはとても耐えがたい不快な念波もあるし、

まことに神々(こうごう)しい忠義や、孝行や、無我帰一や
、自己犠牲や、深切や、相愛や・・・
その他数え切れない善き念波も混じっているのである ――
それらの念波の中にあってあまりの感じ易さに、苦しくなることがあるであろう。

フランシスのように感じ易い人は時々周囲の念波を反映して病気になったものらしい。

・・・

神の愛を念ずる日

           *「光明道中記」(12月17日)より

【病菌は病気に対する人類的恐怖の客観化したものである。
                        (『生命の實相』第十一巻)】 

高徳者が病気になるのは、周囲の念波の攪乱(こうらん)的影響によるのである。

腹痛の人が私の前へ来ると私のお腹が痛くなる。
胸の悪い人が私の前へ来ると私の胸が苦しくなる。
また遠隔思念でもして貰いたく、私に哀願している念波が
私を苦しめることもあり勝ちである。

私は並々はずれた細かい皮膚の顔貌をしているのでも判るように、
私の感受機関は非常にデリケートであって、
そのために色々の不快な念波を受けて苦しんだものである。

私はその状態から抜け出したいと色々と工夫を重ねたものです。
今でも充分そのデリケートさが克服されたとは思っていないが、その工夫の中に次第に、
どんなにデリケートであっても、波長を合わさぬことによって、

それらの不快な念波を避けることを発見し、今では稍々(やや)成功して、
どんな病気の人がわたしに心で縋(すが)って来ても、
その念波を外して了うことが出来るようになったのである。

その方法は神想観中に自分の周囲に神の愛の念波が取巻いて自分を護っており、
どんな不快な念波も必ず一度は神の愛の念波が光明化してから私に伝えられると
念ずることによってである。

・・・

「今」の瞬刻を生きる日

           *「光明道中記」(12月18日)より

【尊敬されたい者は、ひとを尊敬せよ。世界は正札(しょうふだ)であって掛引きはない。
 支払っただけのものが自分に返って来る。(『生命の實相』第七巻)】
 
過ぎ去った花やかさを追うこと勿れ、
未来はそれよりも一層華やかなる運命が待っているであろう。

過ぎ去った悲しみを喞(かこ)つこと勿れ、それは既に無きものなのである。

犬は良人に分かれても、もうそんな良人を懐かしがらないし、自分の生んだ子を、
一匹、一匹と他の人に与えられても、もう明日は別離の悲しみを忘れてしまった
如くに見えるのである。

しかしこれは犬が諦(あきら)めが好いからでもなく、
犬が過去の好さをいつまでも追うことの愚かさを悟ったからでもない。
また過去は「既に《ない》」と達観したからでもない。
犬はその心の感じが人間ほどに発達せず、人間ほどに鋭感(デリケート)で
ないからである。

私が、人間に対して、過去を追うなと教えるのは、
人間に対して犬の如き低位の感覚度になれと言うのではないのである。

人間は過去も懐(おも)い、未来も想いめぐらし、痛みも感じ、苦しさも感ずるだけの
デリケ−トな心の琴線を有(も)ちながら、それを《感じ得ない》のではなく、
感じ得るにも拘(かかわ)らず、意識的努力によって、感ずべき波と、
感じてはならない波とを区別して、それを避け得る。

鈍感なのではなく、鋭感であって、鋭感に支配されず、鋭感を支配する。

・・・

妄執を斬る日

           *「光明道中記」(12月19日)より

【妻の非難の念波は良人(おっと)の心を淋しくする。また良人を病気にする。
                            (『生命の實相』第六巻)】

人間は健康なのが自然であって、不健康なのが不自然なのである。
そうすると不健康とは不自然な生活が起ったと云うことである。

不自然な生活の中には、憤(いか)りに耽(ふけ)ること、人を怨み憎むこと、
悲しむこと、陰気に沈むこと、笑わぬこと、いつまでも同じ感情に沈むこと、
仕事をせぬこと、上に仕えて素直でないこと、兄弟仲よかざること、人をゆるさぬこと、
嫉妬心を起すこと、あせり急ぐこと、・・・等々の心持である。

憎んでいなくとも斬らねばならぬことがある。
愛していても斬らねばならぬことがある。

歌舞伎座で、「天一坊と大岡越前守」の芝居を観たら、
此の創作での天一坊は吉宗将軍の本当の落胤なのである。

しかし吉宗の愛の故に、それが本当に落胤だとわかったら、天下みだれ、
将軍家の家庭みだれ、由々しき大事に立到ることを先覚して、
「落胤ではありませぬ」と大岡越前が苦衷をしのんで言う。

吉宗将軍は「わしに瓜(うり)二つの姿形をしていると云うが、そうであるか」と訊く。
大岡越前は一寸躊躇して「左様でございます」と言う。
「無礼者奴が! わしに生き写しとな。斬れ 」と言う。

愛しているが故に自分の実子を斬れと言ったのだ。
 
斬れ!  自分の過去を。

・・・

大調和の日

           *「光明道中記」(12月20日)より

【躓いたがために落ちる人もあれば、躓いたがために落ちる前に気がつく人もある。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

人間は自分の生活が不自然な為に病気になるばかりではなく、
自分が不自然な思いをもつことによって病気になるばかりではなく、
その時代の人類の思想を反映して病気になるものでもある。

人間の思想が波動であること、そして人間の心が、
非常に鋭敏な波動受信機であると云うこと。

斯う云うことを考えめぐらせて見れば、その世紀の人類の思想が吾々を病気にもし、
健康にもするものであることが明らかになるであろうと思う。

人間のように鋭敏(デリケート)な感受機関を有しない動物でさえも、
周囲の精神波動に感じて病気になるのは、山野の獣(けもの)が病気にならないのに、
家に飼(か)うと、手厚い保護(実は「心配」と云う病的念波)を受けながらも
病気になる事実で明かである。

この理論で行くならば、家庭に病人を無くするには、
やはり周囲の精神波動を浄(きよ)めねばならぬのは明らかである。
病気を心に思いすぎる精神習慣の人は、その習慣を改めなければならない。

誰も病気のことなど思わず、常に快活にしているように努め、
家庭の空気が光明化するような明るい読み物を常に読まねばならぬ。

「何でもクヨクヨするな」 

この言葉を病人の多い家庭に捧げる。 


[335] すべてを拝ろがむ(十二月光明道中記)〜下旬
伝統 - 2014年12月31日 (水) 06時01分

すべてを拝ろがむ(十二月光明道中記)〜下旬

心の岩戸開きの日

           *「光明道中記」(12月21日)より

【どうでも好いことに何時(いつ)までもかかわるな。生命は貴(とうと)い。
                            (『生命の實相』第十一巻)】

心を支配すること。
何をおいても心を支配すること。
明るい気持に常になるように心掛けること。

ただそれだけを常に心掛けるだけでも、あなたの運命は輝かしいものに転じて来るであろう。
あなたの健康は従来よりも前進して来るであろう。

神は光明遍照であると云うことを知らなければならない。
光明のないところ、明るさのない処には神は在(い)まさないのである。
心に光明を満たす時、万物が生き生きと蘇生(よみがえ)って来るのである。

神は一切所に充ちていられるのであるが、
心の天岩戸の開かないところにはその光は射し込まないのである。

『古事記』に書かれているのは虚(うそ)ではない。
天之宇受女命(あめのうずめのみこと)の明るい舞踊に触発され八百万神々の
明るい笑いが暗黒の世界に、日の光を射し込ましたのである。

吾々は明るいと共に、積極的でなければならないし、建設的でなければならない。
積極的な者は一時は失敗するかも知れないが、
その失敗は必ずや経験の上に何物かを獲得せしめるので、結局は失敗ではないのである。

明るいばかりで此の世を笑いで吹き飛ばすだけでも完全だと言えない。

明るい上に積極性があり、更に建設的であることを要するのである。

・・・

完全解放の日

           *「光明道中記」(12月22日)より

【本当の明るさは真理と愛と智慧とから来るのみである。(『生命の實相』第八巻)】

本当の智慧は神と和解しなければ得られないのである。

神に和解するとは全き信仰を以て神の愛を信じることである。
神の完全を信じることである。
神の造りたまいし世界に悪が存在しないことを信ずることである。

不安があるのはまだ神を本当に信じているのではない。
既に癒されているのである。

「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と云うのは、
キリストが二千年前のみに言われた言葉のみではない。
常に神は吾々に対(むか)って「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と
仰せられているのである。

この言葉を信ずるものは幸いなるかな。

汝の罪は赦されているのである。
されば吾れもまた神が吾れを赦したまいし如く、すべての人の罪をも赦さねばならない。

一切の怒(いかり)の想い、一切の怨みの想い、一切の憎みの想いを
愛と赦しとによって書き換え、更にそれを感謝によって光を点じなければならない。
然るとき汝の病は消えるであろう。

或る日道場へ訪れた山形県の一婦人が5歳の小児が生まれてから
少しも歩むことも物言うことも出来なかったが、『生命の實相』を読み、
その教に照らされて、不仲であった母親に感謝の心を起した時、
初めてその小児は歩み出し、ものを言い出したと言った。

・・・

明朗歓喜の日

           *「光明道中記」(12月23日)より

【 朗らかに笑って生きよ。陽気の充ちた家は必ず生長する。(『生命の實相』第四巻)】

人間の貧しき原因は、彼の心の不調和より来るのである。
彼の心の弱さより来るのである。

心不調和なれば、事業に於いても仕事に於いても精確なる判断をすることが出来ない。
また適当に物事を推し進めることが出来ない。
すること為すこと不適当となるのである。

心弱ければ最後の踏ん張りがきかないで肝腎のところで崩折(くずお)れて了うのである。
また心弱ければ思い切るべき時、思い切ることが出来ず、
果断である時に果断であることが出来ない。

失敗すべきことに何時(いつ)までも恋々としていて新生面を開くことが出来ない。
成功の要素として欠くべからざるものは、調和の心と、強さの心とである。

では調和の心は如何にして養い得るか。
すべての隣人と調和することである。
先ず自分の家族、親類等と仲よくなることである。
これらの人々と調和することによってのみ、吾々は神と調和することが出来るのである。

神と調和することによって、神からの叡智が流れ入る。
神からの叡智が流れいることによって、押し進むべき時には勇敢に押し進み得、
退(しりぞ)くべきときには調和して退き、
思い切るべきときには果断に断念し得るのである。

・・・

人格完成の日

           *「光明道中記」(12月24日)より

【眉の間に皺を寄せる心から不健康、事業の失敗等が生ずる。(『生命の實相』第八巻)】

資本の蓄積は現在の経済組織に於いては何か仕事を進める上には是非必要なことではある。
併し蓄積ばかりに執(とら)われて蓄積ばかりが面白くなったら、それは守銭奴であって、
人間の人格の自然な成長を害することになるのである。

梯酒(はしござけ)と云うのがあって、飲めば飲むほど欲しくなって、
酔っ払った上に、一つの料亭を出ると又次の料亭で飲み、
転々として停止することを知らない者が世の中にはある。

それと同じく、財貨を獲得することに興味を獲(う)ると、
幾ら得たとて満足することを得ず、彼は一種の餓鬼道である。
彼は常に心が餓(う)えかわいていて楽しくないのである。

人間は斯くの如くして老衰し、此の世を去る。
此の世を去るときには折角集めた財貨はすべて遺しておかなければならないのである。

彼が彼岸(あの世)に持ち行くことが出来るものは何であるかと云うと、
唯彼の魂の獲得、善行、人格の成就のみである。それだけに必要以上の蓄積することに
時間をつぶして、一体それが何の獲得であるのだろうか。

財貨の獲得は、
ただそれが世の中に必要な事に使われることによって価値を生ずるのである。

・・・

必ず一人を救う日

           *「光明道中記」(12月25日)より

【毎日一度は誰かに深切にせよ。与えることによってのみ自己は拡大する。
                              (『生命の實相』第四巻)】

富は富自身に魅力を有(も)っていて、富が蓄積されはじめると、
富を人類に有用な方向に使用することを惜しむように成り勝ちである。

そうなると、その富はやがて単なる「形骸」となり終って
内容たる「生命」を失いはじめるのである。

キリストはかかる富の魅力に捉えられざらんがために、
「富める者の天国に入ることの難きこと駱駝の針の孔(あな)を通るが如し」
と言ったのである。

すべて何でも大きくなって来るときには、「大いさ」と云うものの魅力が
加わって来るが為に、何のために「大きくなること」が必要であったかと云う
本当の目的を失って了って、「大きくなること」のみを求めるようなことになる。

人間の愛の目的が失われ、物を集め大きくしたのは「愛」の目的があった
と云うことが忘れられ、雪達磨が坂道を自転しつつ次第に大きくなりつつ、
しかも破滅に近づきつつあることを自覚しないと
同じような事実が、富の蓄積にも言い得られるのである。

富は入用の程度で満足することを知らねばならない。
入用の程度で満足していたならば、世界には資源争奪も起らなかったし、
世界の資源は人類の福祉のために自由に解放せられて黄金世界を現じたであろうし、
現代の石油ショックも起らなかったに相違ないのである。

・・・

愛念雲の如く湧く日

           *「光明道中記」(12月26日)より

【周囲に対して微笑みかけよ。周囲も又汝ににこやかに微笑みかける。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

富が人類へ奉仕(サーブ)するための目的から離れて、自働的にそれが富自身を
追求するようになる時、それは「貧乏」が人間の生命を縛るのと同様に、「
富」も亦、人間の生命を縛るようになるのである。

「富」それ自身が欲しくなったとき、
その人は、すべての供給が「神」からくるのではなく
「物」からくるのだと思い違えはじめた証拠である。

人間の幸福は「物」から来るのである、
「物」は消耗するものだとの観念が強くその人の生活をリードするから、
「富」の飽(あ)くなき蓄積がはじまるのである。

ところが人間への供給と幸福とは決して「物」から来るのでなく、
「神」から来るのである。

従って、吾々に与えられて、或いはその使用にまかせられているべき
この富と、力と、生命力とは、人間に貢献(サーブ)する目的で使用せられる限り、
永遠に神より来たって補給されて失われると云うことはないのである。

蓄えられたる「死金」ほど愚かにも滑稽なるものはない。
それは人間の魂を飢えさせ、餓鬼道の苦しみに陥(おとしい)れるものである。

「無限供給」とは撓(たゆ)みなき流れである。
それは停止ではなく、蓄積ではなく、また枯渇でもないのである。
余れるにも非ず、足らざるにも非ず、不断に周囲を潤して流れ行くものである。

・・・

無限供給の日

           *「光明道中記」(12月27日)より

【自己の心だけの事物しか自分の運命に引き寄せることができない。
                       (『生命の實相』第四巻)】

富そのものを集積する蓄積と、「物」に内在する神の恵みを大切にして
少しも浪費しないことはおのずから別なことである。

キリストは「5つのパンを5千人に分けて与えた」
これは愛は神から無限供給を招(よ)び出すものであって、
外見の「物」の分量にかかわらないことが示されているのである。

併しながら5千人の食べ残ったパン屑は悉く集められて籠一杯になったともある。

これは「神の恩寵」であるところの「供給」を
少しでも無駄にしてはならないと云う教えであるのである。

富そのものの大を希(ねが)いて、雪達磨のように転げつつ大きくなることは
避けなければならないが、すべての「供給」は神よりの《もの》と知り、
少しも浪費することなく有効に利用すべく心掛けなければならないことは当然である。

そこにこそ、「富」そのものを追求するには非ざれども、
自然に湧き来る富が発生するのである。

斯くの如き富を冥加(みょうが)のある「富」と言う。
神の冥々(めいめい)の加護である「富」であり、
「福田」の表現としての「富」である。

若し吾々が日常生活に於いて釜浚(かまさら)いの御飯粒をも、
お皿に残った一滴の醤油をも浪費しないで、拝むような心持で頂くとき、
そんな収入の少ない人でも尚残って余りある籠の中に一杯のパンを見るであろう。

・・・

幸福成就の日

           *「光明道中記」(12月28日)より

【実相を悟るものに不足の感じは起こらない。(『生命の實相』第一巻)】

人間は誰でも幸福に成りたい。
しかも多くの人達は幸福に向う道を誤まっているのである。
或る人たちは幸福と快楽とを混同している。

そして幸福になろうとして快楽を得ようとし、快楽を追求して結局得るところのもの
とては幸福ではなくて、苦痛であったと云う場合が多いのである。

仏者は五官の快楽を、瘡面(かさぶた)の痒きを掻くに喩えたことがある。
また渇者が塩水を飲んで渇を医(い)やすに喩えたことがある。

五官の快楽を求める習慣を得るときは、それを得なければ淋しいし、得れば尚一層、
得なければ淋しいこと、阿片中毒の如き状態となる。

阿片中毒者は阿片の奴隷であるし、
五官の快楽を追求せねば淋しい人達も、五官の奴隷である。

金銭の欲望を追求し、追及し、飽くことなき渇欲に心身を疲労せしめている者も
金銭の奴隷である。

本当の幸福は五官の快楽や、金銭の集積で得られないこと、
本当の幸福は阿片の吸引では得られないのと同じである。

本当の幸福は愛と深切と思いやりと、些(ささ)やかな事物の奥にも輝いている
天地の恵みを見ることである。

若し魂の眼(まなこ)が開かなかったならば幸福は何処にもない。

・・・

気高き心を把持する日

           *「光明道中記」(12月29日)より

【心は容貌に彫刻の鑿を揮う。心が刻まないとき年の皺は刻まれない。
                        (『生命の實相』第一巻)】

幸福は五官の満足、所有の満足によって得られるのではないと云うことが判ったならば、
吾等は別の方向から幸福を求めなければならないのである。
それはどんな方向からかと言えば与える方向からある。

所有欲は奪う方向から幸福を得ようとしたのであるが、
吾々が世のために尽す真行(しんぎょう)や、国のために尽す忠誠や、
社会のために尽す奉公の幸福感などは、孰(いず)れも与える
方向から得られる幸福なのである。

また幸福は、それが触覚的方面、味覚的方面、所有的方面より来るものである限り、
それは著しく物質的であり、即(つ)いた感じであり、低卑な感じであり、
それは余りに多く満たすときは苦痛に変ずる性質のものである。

いつまでも変わらない幸福は、次第に、触感的、味覚的、所有的な方面から離れて来る。
視覚的な喜びは、触覚的な又は味覚的な悦びに比べて、
著しく「離れたる性質」のものである。

それは必ずしも触れなくとも、所有しなくとも、離れていて味わい得るのである。

芸術を味わうよろこび、自然を鑑賞するよろこびなどは後味の好い喜びである。

鑑賞するよろこびには、必ずしも所有することを必要としない。

・・・

讃える喜びの日

           *「光明道中記」(12月30日)より

【他の救いのために動き出すと本物の悟に入る。(『生命の實相』第十一巻)】

他に優超するよろこびと云うものもある。
これも渇欲の一種であって、一人に優れれば、十人に優れたくなり、
十人に優れれば、百人に優れたくなり、止まるところを知らないのである。

人を踏みつける喜び、見下す喜び、ザマ見ろと云う喜び、好い気味だと云う喜び、
こんな喜びは地獄の喜びであって本当の喜びではないのである。

天国の喜びは、神を讃える喜びである。
感謝する喜びである。
人を互いに賞め合うよろこびである。

人と助け合う喜びである。
人に深切を尽すよろこびである。
仕事をする喜びである。

ニセ者の我を征服する喜びである。

真理を知る喜びである。
教を聴く喜びである。
教を行ずる喜びである。

創造する喜びである。
美を味わい、芸術を鑑賞する喜びである。

すべて自分が喜ぶことで、他の人が喜べない状態になる喜びは、
それは純粋なる幸福を齎(もたら)し得るものではない。
人の苦しみが自分の心の世界に投げ返されて来るからである。

奪い合いのない幸福でなければならない。

5つのパンを5千人に分っても尚(なお)籠(かご)に一ぱいのパンが余っているような、
与えても与えても減らない喜びでなければならない。

・・・

新生のため準備整う日

           *「光明道中記」(12月31日)より

【植物の種子と等しく人間の事業の発芽にも時間を要する。急ぐな。
                        (『生命の實相』(第一巻)】

愈々(いよいよ)今日で本年も終わるのである。
終わると思うと、名残り惜しいような気もする。

振返ってみると、どれだけ私の魂はこの1年間に進歩したことだろう。
色々の失敗もあったであろう。色々の躓きもあったであろう。

併しその時には魔誤ついた如く見えた失敗も躓きも、今から振り返って見ると、
悉く私の魂の生長に必要欠くべからざる要素をなしていることを発見するのである。

要するに、本当の意味に於て失敗と云うことはなかったのである。
躓きと云うものはあり得ないのである。
今から見ればすべてのものが拝まれる。

振返って見て拝まれるだけでは尚心細いと思う。
どんなときにも拝めるようになっていなければならない筈である。
その時その場で拝めるようでなければならないのである。

まだ私は、本当に拝み切っていることが出来なかったようにも反省せられもする。

愈々今年もこれで終わるのかと思うと、今年と云うものに申し訳ない気がする。
私自身の生命にも申し訳がないような気がする。
誌友諸君に対してもまことに申し訳がない。

この私を茲(ここ)まで鞭撻し、
ここまで引摺るようにして導いて下さったのは誌友の私に対する信頼である。

私は茲に感謝を以て本年の日記を終ろうと思う。



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