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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[552] 何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか
伝統 - 2015年03月26日 (木) 18時07分

     *『生長の家』誌 13年5月号
        (2月27日 日曜日 本部道場に於ける講話) より


私は新著『伸びる力』の中で、
北海道の夕張の炭鉱や福島県の入山炭鉱に於いて起った色々の奇蹟

 ―― 落盤の下敷になっても死ななかった実話や、
或は五時間も生埋めになっておったけれども
微傷だも負わなかったと云うような実話を沢山挙げたのであります。

それは非常の際には、日常信心深い人には異常な神護が加わることがると云う実例を
挙げる為であります。

それでは生長の家では、どんな事をしても死なないのかと思う人があるかも知れませんが、
必ずしもそうではない。大いに死ぬ人もあるのです。
併しながらその死に方が、常に万歳往生である。

平時に於いてさえ、佛教信者が南無阿弥陀仏を称えて死ぬと同様に、 
天皇陛下万歳を三唱しつつ実に楽しく死んだ例もあります。

こんなに楽しく歓喜して死ぬことが出来るのは、人間は物質ではなく、
生き通しであると云う事を知っておりますから、捨て去るべき肉体に対して
霊魂が執着の念を以ってしがみついていないと云う事を顕しているのであります。

 
私は『いのち』五月号誌上に『人間斯くの如く死ね』と題して幾多の万歳往生の実例を挙げ、
敵弾に中りながら月下に微笑しながら荘厳と平和の裡に息を引取った田坂少佐の最期を
叙述しました。

肉体本来空と悟らずして肉体に執着して霊魂が‘しがみついて’いる時には、
‘そのしがみ付く’状態を形に現して、無念の形相凄まじく、
手の恰好でも物をグッと掴んでいる恰好になって、恨めしそうに目をむき、
歯を喰い縛って、断じてこの肉体を去るものか
と云うような恰好をして、それでも到頭死んでしまうのであります。


ところが『生命の實相』を悟った者は、吾々が死ねば結局地上の任期は終るのであり、
また新しい生活が他界で開かれるのだと云う事を知っているから、
既に任期を終った地上の生活に執着しない。

恰も吾々が官命を帯びてロンドンへ洋行せよと命ぜられたら、ロンドンに洋行すべく、
素直に準備を整えて出帆の日には何の執着もなく解纜して行くようなものであります。
洋行したからと云って吾々は死んでいるのではないのであります。
               

人間が死んで焼かれれば、もうその人間は肉眼では見えない。
併し見えないからと云って、其の人間がいないと云うのは間違いであります。
官命を帯びてロンドンへ往った人の姿は肉眼では視えないから、その人はもう存在しないと
考えるのは間違っているように、神の摂理により、霊界へ赴任した人を、
ただ視えないと云う理由で、もう存在しないと云うのは間違いであります。

ベルグソンも云ったように『釘に掛けた洋服は釘が抜ければ視界から其の洋服は消えるが、
洋服はなくなったのではない。』それはただ釘が抜けた状態なのであります。

吾々の肉眼で視えていると称するのは唯それから発する或は反射する波を感じているだけ
なのであります。その波が尚一層リファインされた、尚一層精妙な波になってくれば、
目に見、耳に聴く事の出来ない精妙な波になるのであります。

吾々の肉体も波動の体でありますが、吾々の波動の体が、次の世界へ行く場合に、
こんな重ぼったい肉体と云う着物では活動が不便なので、もっと精妙な霊魂体と云う着物に
着替えて出発する、これが霊魂と云うような体 ―― 時としては心霊写真に映るところの
霊魂の姿なのであります。


私は最近『人間死んでも死なぬ』と云う本を上梓したのでありますが、
実は人間が『死んでも死なぬ』と云う事実は『生命の實相』の中にも書いてあるのであります。

併し心霊現象と云うものは実例が沢山上らないと、一人や二人の人間の実例では偶然だとか、
夢幻だとか思われ勝ちなので、も少し多く各種の実例を提供したいと思ったのが此の本を
上梓した一つの理由であります。

 
もう一つの理由に、この間こう云うことがありました。
それは戦争においでになった或る兵隊さんが○○戦線で戦死なさったのであります。

ところが、その兵隊さんは出征に臨んで、自分と約婚(いいなづけ)になっていた純潔な令嬢に
対(むか)って「私が若し戦死したら貴女はどうするか」と云ってお尋ねしたのです。
すると其の令嬢は何気なく「私も貴方の後を追って死にますわ」と、漠然とした約束のような
取り交わしが出来たのであります。

やがてその兵隊さんの戦死の通知が来たのです。
そうすると「誓った約束は守らなければならない」と云うのでその純情なお嬢さんは
自殺を図りました。

新聞などにも戦死者に殉死した軍人の妻の例が出ていることがあります。
それは実に純潔な動機で尊いことではありますが、地上に生き存(ながら)えていて、
まだまだ国家に尽すべき任務のある婦人が、戦場で戦死した配偶の数だけ、
内地で自殺して貰っては、これ又困る問題であります。

ところが、この純情なお嬢さんは、そのひた向きな純潔な心を以て、
「一度約束したら、私はあの人の妻であるから自殺しなければならない、
霊界で夫婦になるのが、誓いを果す道である」と、こうお考えになりまして、
或る毒薬を嚥んで自殺をお策りになりました。

間もなく昏睡状態になっているところを、医師の手当で生き返ったのでありますが、
彼女は生き返ったけれども、自殺の決心は翻えさない、再び自殺を企てたのであります。
それも亦、逸早く見付かってまた生き返ったのであります。

そして懇々と父なる人に説き諭して貰ったのですが、
彼女は自分の行為の方が正しいと信じていて、丁度遺骨が到着して葬式のあるべき日には、
今度こそ間違いなく葬式と同時に自殺しようと決心していて、
その意は決して翻すことは出来ないと云われたのであります。

両親を始めとし、親類の人がびっくりして
「何とかこれを思い止まらせる方法はないものであろうか」と、
私の所へ相談の手紙を航空便でよこされました。


私がその手紙を見ますと、そのお嬢さんは『生命の實相』を全巻読んで、
人間は生き通しであると云う事を知っている。

そして、『私は「生命の實相」の全十五巻を全部読破した。
そうして人間は生き通しであって、肉体は空(むな)しきものであって、
結局は滅ぶべきものだと云う事を教えられた。

だから、その結局は滅ぶべき肉体を自殺したとて何の罪にもなる筈はない。

人間は生き通しであるから、自分は霊界に往って戦死せられた婚約の良人と
夫婦になるのが、これが神の道である』と、

霊魂不滅の真理を楯として殉死の正しいことを滔々と主張せられます。

お父さんは『生命の實相』をそんなに詳しく読んでいないので、娘を説破しようと思っても
理論に負けてしまって、娘の意を翻へさしむる理論的根拠がないのです。

『一体どうしたらいいでしょう、どう云う風に説明したらいいでしょう。
谷口先生の被仰ることなら信じて従いましょうから、娘の生命を救けると思って
娘がこの世に存(ながら)えてくれるような御返事を下さい』と、

こう云うように書いてこられたのであります。


私の記憶の中では『生命の實相』の中にはヴェッテリニの霊界通信を紹介して
自殺したところの霊魂はどう云う風な状態になっているかということを
確か書いて置いたのであります。

私はそれを思い出して『生命の實相』の霊界篇をずっとあけてみたのでありますけれども、
どうしても見当らないのです。

( 〜 つづく )


(以下、数日中に掲載を終える予定です)

               <感謝合掌 平成27年3月26日 頓首再拝>


[556] 何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか〜その2
伝統 - 2015年03月27日 (金) 05時07分

そして私の披いて見たところには次のような文章が出て来ました。

『自分は自殺の意義を尋ねた。

答 ―― 結果から云えば、自殺も 「運命」 が或る人の前に置いたところの
「定め」 である。併し彼は四分の一だけの自由意志をもって
その運命を拒むことが出来る ・・・・ 云々。』


そして其の 『定め』 の前に屈従して 『四分の一だけの自由意志』 で
拒み得なかった場合に
就いてどうなるかと云うことが書いてないのであります。

私は確かにその問題に就いて書いておいたつもりなのですが、
どこを見てもない、見当らないのです。 

で私は ヴェッテリニ の霊界通信の原本を開いて見ると、それは直ぐ見付かって、
確かに別の日のヴェッテリニの通信には次のように書いてあるのです。

 
『自分自身 ・・・・ の生命を奪うことには何ら弁解を挟む余地はないのである。 
自殺せるところの者は全て殺人者と同じく霊界で罰せられるのである。 ・・・・ 

自分の健康に不注意で自分の死期を早めたものさえも自殺者としての罪に入る。 

肉体は霊魂が地上的使命を果すための機関であるから、
その使命を果す間は完全なる状態に保つべきである』


斯う云う意味のことが書いて、死刑制度などにも言及してあったので、
現行司法制度を批評することになっては可けないと思ってその部分を削除したので、
自殺は罪悪であると云う部分まで、一緒に削除せられたことに気がついたのであります。

自殺未遂のお嬢さんにはその時家内から手紙を出して貰って、自殺を思い止まって貰った
のでありますが、自殺という問題は之は重大な問題であって、どうしても之を補って
おかなければならないとこう思いました。  

それが此の 『人間死んでも死なぬ』 を発表することにした一つの動機であります。 


『生命の實相』 には主としてヴェッテリニとマグナソセンの父との霊界通信を
紹介しましたが、 此の 『人間死んでも死なぬ』 の本にはもっと数多くの人たちの
霊界通信を収録することに致しました。


『人間死んでも死なぬ』 の本182頁に ステートン・モーゼス の自働書記による
霊界通信があります。 

この人は世界的に有名なキリスト教の牧師なのでありますが、霊媒的の素質があって、 
インペレトル と称する高級霊が憑って来て、自働書記と云って手が本人の意思でないのに
自働的に動き出して、字を書く方法によって色々の教をしたのであります。 

何故その霊魂が高級霊であるかと云うと文体に品格があり、
その説くところが一流の宗教家哲学者にも優るとも劣らない立派な教をしたからであります。 

其のインペレトルの霊界通信には自殺したモーゼスの友人のことに就いて
次のように説いているのであります。

『吾々は貴方の友達のことについて話したいと思います。 
どうして彼が祝福される筈がありましょう。 彼は、神が向上と発達との為に、
霊魂をその中に入れておいた神殿に褻涜の手を挙げたのです。 

彼は向上と発達との機会を浪費し、自分が受持っている精霊の住家たる神殿を破壊したのです。 
彼はまだ彼の霊魂がやってくる筈でないから、何の用意もされていない。 
孤独な、友達なき、見知らぬ世界に自分の霊魂を遂いやったのです。』  

(『人間死んでも死なぬ』182頁)


自殺した人の霊魂は定められた霊界移転の時期が来ていないから、
霊界へ往っても行くべき場所がまだ用意されていないと云うのであります。 

用意されていない世界へ上って行ったら、座席の売切れた満員の劇場へ入ったようなもので、
その霊魂の住むべき場所もない、即ち一個の浮浪霊 (ストレンジャー) として、
流浪(さすら)わなければならないと云うのです。

また続いて、斯うインペレトルは教えています。

『彼は不敬虔にも許しをうけずに神の玉座を涜(けが)したのです。 
どうして彼が祝福されましょうぞ。 彼は死については不敬虔で、不従順で、我侭気侭であり、
生については不注意で、懶惰で、利己的でありました。 

その上突然死ぬと云う事はあとに残る地上の友達に苦痛や悲しみを与えると云う点からも
利己的であります。』

                  (『人間死んでも死なぬ』 183頁)


自殺するような人は大抵自分は死んだら此の世の苦しみを免れると思って、
此の世の生命を断ち切って霊界に行くのですが、そうすると後に残された父母とか、
親類縁者の人達、或は子供と云う人達が、そのために悩み、悲しまなければならない。 

それには世間的の立場もあるし、また精神的な悲嘆もあるが、
自殺するような人は、大抵自分の苦しみを脱却したいことばかり考えて、
そのような事については何にも考えないのです。

親が悲しもうが、親類が面目なかろうが、そんなことは考えないで
自分さえ約束したところに行って、自分の夫と生活し、自分さえこの世の中の
苦しみを免れたらいいのだと思ってする自殺は、一つの利己的行為である。 

そう云う事が祝福される筈がないと、インペレトルの霊は教えているのであります。

続いて彼は斯う云っています ――


『どうして彼の霊魂が平安を得ることが出来ましょう。 
こうした霊魂は、悔恨の情が起って、それが彼を改心に導くまでは、悲惨な、愚昧な、
向上の出来ない状態にいて、平安を得ることは出来ないのです。 

彼の徒なる生活についての話をこまごまと申上ぐる必要はありますまい。 
彼の霊魂は残忍な利己主義で蝕まれ尽くしていました ―― 地上の生命の糸が断ち切られた時、
彼の霊魂は暗黒と、苦痛との世界に自分自身を見出しました。 

‘長い間その霊魂は肉体を離れることが出来ませんでした’。 
墓穴の蓋が自殺した肉体の上に閉された後までも、彼の霊魂は、ながい間
その肉体の周囲にたゆとうていました。』
                   (『人間死んでも死なぬ』 183頁)


まだ肉体が浄化していないときに際し、肉体と本当に縁が切れる時期が来ていないのに、
無理矢理に自殺即ち肉体と云う波動的存在と霊魂と云う波動的存在とを切り離したものですから、
その霊魂体にはまだ肉体的な波動 (ヴァイブレーション) を持っているわけで、
従って肉体とすらすらと離れる事が出来ないのです。

死の苦痛と云うのは霊肉まだ分離し得ない状態にある
霊魂の波動を浄めて分離し易くする作業なのであります。 

霊界へ移住すべき天命の時期が来て霊肉が離れるとすらすらと離れるなら、
苦痛なく、所謂大往生をするのですが、

自殺者は、まだ許されていないのに勝手に霊魂を肉体から離そうとするのですから、
死の刹那も苦しいい、死んでからも苦しいのです。


『彼は許されずにやって来た他界へ来ても誰も歓迎してくれもしなければ、
落付も得られませでした。 暗黒が彼をとりまいていました。 
そして陰暗朦朧たる闇を通して、同種類のみずから破船した人々の霊魂が、
平安なき孤独の状態で悄然と蠢動しているのです。』 

                    (『人間死んでも死なぬ』 183頁)


矢張りこう云うような種類の自殺した霊魂達ばかりが、
同じような陰惨な真暗な世界にいるのであります。 
これは類は類を招ぶと云う心の法則によってそうなるのであります。

必ずしも良人の後を追って死んだからと云って、
一緒に霊界で夫婦揃っていられると云うには極っていないのであって、

マッケンジーの霊界探険記の中にもそう云う霊魂が真暗なじめじめした
中で蠢いている有様が書かれているので、それは 『人間死んでも死なぬ』 本の
183頁から184頁にわたって書いてあります、


霊界は厳重に類は類を招ぶの法則によって支配されているのですから、

国家のために殉じた公の死者の霊は高い世界におり、

私情で自殺した霊魂は低い暗い陰惨な世界におり、
類でなから長き浄めの苦しみの後でないと高い世界へ行けないのである。 


神の定められた時期を破って、私の感情の昂奮から地上の生活を辞職して
行ってしまったような人間ばかりが集っている暗い世界に於て、自殺者の霊魂が
意識を回復するとどうなるかと云うと、次のようにインペレトルは続けて云っています。


『良心が目覚めのしるしの最初の身ぶるいをするまで、彼は自分を教導して呉れる
霊界の先達を呼びよせることは出来ませんでした。 
それ迄は彼の此の悲惨な状態を誰も救うことは出来ないのでした。 

・・・・ 暗黒の中で彼の良心が目覚めかけると、霊界の教導職たちは彼に近寄って、
その赤枯れた良心を刺戟して、悔恨の情を惹き起そうとしはじめました。 

ながい間この努力は効は奏しませんでしたが、
やがて徐々に彼はある程度の罪の意識を回復して来ました。 

そして今いる状態に嫌悪の情を感じて、此の状態から逃げ出そうと考えて滅多矢鱈に
此の世界に出る工夫をこらしました。 時々退転の念が起って彼をあとへ引きもどしました。
 ・・・・ 』
                (『人間死んでも死なぬ』 184頁)


こう云う風にまァ苦しい状態であって、
その苦しい状態から逃げ出そうと思っても中々逃げ出すことが出来ないのです。


又ここに自殺した別の人の霊魂がかかって来て云ったところによりますと、
自殺した瞬間の状態が念の力でいつまでも継続しているのです。 

これは エム・スイ・フラウルクス と云う人の書いた 『My Own Past』 
と云う本の中にあるのですが、霊媒の トセツリ氏 にサクソニーの前太子妃の霊魂が
憑って来たときの話であります。


『自殺した彼女の愛人は、自己のその行為のために罰を受け、
「‘長い間その霊魂は腐爛しつつある肉体を離れることを許さないで、その腐爛し行く恐怖を、
まじまじ見つついなければならなかった’』
                     (『人間死んでも死なぬ』 185頁)


此の通信にあるように、定められた死期 (即ち霊肉分離の自然的時期) が
来ていないために、自殺して肉体が死んで了ってからも、
霊魂が離れられない場合があるのであります。 

そう云う時は霊魂はまだ肉体の中におりますから、その肉体をやはり自分の肉体のように
感覚するのです。 そしてまざまざと自分の肉体の段々腐って行く有様を、
我が身の腐爛して行く有様として体験しなければならないのです。

ライ病患者の中には、生きながら自分の肉体が腐って蛆虫が湧いてぐちゃぐちゃになるのが
ありますが、肉体から完全に脱け切らない霊魂も、それと同じく、自分の肉体が、いやらしく
腐り行く有様をまざまざとその肉体の中にいて体験しなければならないと云うのであります。

斯う云うことが判ったら、自殺などは恐ろしくて出来るものではありません。 
そのことがまだ 『生命の實相』 の霊界篇だけでは足りない点がありましたから、
今度 『人間死んでも死なぬ』 の本に詳しく書いて出すことにしたのであります。


     〜 つづく

               <感謝合掌 平成27年3月27日 頓首再拝>

[558] 何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか〜その3
伝統 - 2015年03月28日 (土) 03時58分


それから又 スエーデンボルグ と云う有名な霊覚者があるのですが、
この人はロンドンからストックホルムの火事を透視したと云う
歴史的に有名な霊覚者でありますが、

この人の霊界探険記は嘗て仏教界の耆宿、文学博士鈴木大拙氏が翻訳して
出されたことがあり、今は絶版になっておりますが、

そのスエーデンボルグの著書の一つの中に、
彼の霊覚に映じた自殺者の恐怖すべき状態が次のように書かれております。

 
『一人の自殺者の霊魂が私のところへやって来たが、
自己の胸にそれを突き刺しでもしたらしく手に一挺のナイフを握っていた。 

併し彼はそのナイフを自分の手から寧ろ捨てようとして
幾度も無駄に努力している様子であった。 

私の聞かされている処によると、
死の瞬間にとっていた状態が消滅するには随分長い間かかるのであると』

                   (『人間死んでも死なぬ』 186頁)


これは自殺の刹那に自分の胸にナイフを刺し貫いて絶命したらしいのですが、
その刺し貫いた時の血みどろの短刀を離そうとしてもその手が離れないのです。 
捨てても捨ててもその手にそのナイフの柄がクッ着いているのです。 
勿論、その位ですから自殺の時の傷痕などもそのままで血が流れていたことでしょう。 

こう云う苦しい悲惨な有様を何時までもまざまざと体験していなければならないのが
自殺者の霊界に於ける有様です。 

まァ神罰と云えば神罰とも云えますけれども、霊界は念の世界ですから、
要するに死の刹那に自分の心に描いた状態が持続するのです。 

だから臨終の一念が大切である。 

臨終の一念に来迎の三尊を見たものは、その状態が霊界でも継続する、
臨終の一念に大往生したものは、その歓喜の状態がいつまでも持続する
と云う事になるのであります。


斯のように自殺と云うものは余り結構なものではありません。 

我々はこの世が如何に苦しかろうとも、
その苦しみを遁れるために自殺すべきではないのであります。 

この世で苦しいのも、一つの吾々に課せられたる学業であると思い、
その課せられた学科が苦しければ、自分はそれだけ難かしい学科を学ぶに堪える
ところの大学生であるのだ、

此の世を易しく安楽にわたれる人は、これはまだ小学生であるから難かしい学科を
課せられていないのだと思って、特に自分は霊魂が高いからこれだけの
難かしい学科を受けるだけの資格があるのだと、
喜び受けて地上の努めを果さなければならないのであります。 

尤も必ずしも難かしい学科を苦しいと思う必要はない。 
難かしいと苦しいとは別であります。 

登山や水泳は平地を歩くよりも余程難しいけれども、
却って平地を歩くよりも楽しいのであります。

苦楽は難易にあるのではなくて自分の心の中にあるのであります。

苦しいと云うのは、肉体にあるのではなく、心に苦しいと思うから苦しいのであります。
 
神経衰弱で 『苦しい苦しい、こんなことなら死んで了った方が優しだ』 
と考えているほどの人でも、外部から具体的に何ら困難な状態を与えられていない人も
ありますし、

柔道の時に、本当に首を締められて眼を廻す ―― あの時に 
『眼を廻す位だから余程苦しかったか』 と訊いて見ると、別に苦しくなかったと云う。 

それは柔道の試合のときには勝とうと云う意志だけが働いておって、ギュツと両方から
首の締め合いする、その締める力が、一方が強くて他方が及ばなくなって苦しくなれば、
ポンと手で相手の肩を叩けば、緩めてくれる約束になっているのですけれども、
そんなに苦しくないからまだ大丈夫だと思っている中に気絶してしまうのです。 

そうすると死ぬほどの事であっても苦しみと云うことを心に思わねば
ちっとも苦しくないのだと云うことがこれで判ります。

柔道で‘おちて’人事不省になったことのある人に訊いて見ると、すうっとどこへか
沈んで行くような迚も好い気持でいると、どこからともなく天の音楽のような
美しい音が聞えて来たと申す人が多いのであります。  

あれは自殺ではないから、霊魂の一時的一部出遊によって
天界の美しい光景の世界へ入って往って天の音楽を聞いたのでしょうけれども、

兎も角苦しいと云うのは、苦しいと云う念によって苦しいのであって、
苦しいと云う念を働かせている暇がない時には苦しくない。 

柔道の試合の時のように 『勝とう、勝とう』 の一念のみで
苦痛を思い浮かべる暇のない時には苦しくない。 

又戦争のような場合にも、敵に勝とうの一念で活動している場合には弾丸に
中っても痛いとは感じないらしいのです。

『大腿部貫通銃創を受けながら知らずに戦闘を続けた』 などの新聞記事を見ましても
想像出来ます通り、さぞや悲惨な出来事だろうと思われますけれど、戦っている本人は
 『痛い』 などと云う考えを思う余地がないから痛くない。 

弾が中って後で気がついて 『負傷したんだから痛い筈だ』 と思い出してくる。 

要するに痛いとか苦しいとか云うのは心の中にあるので、
心さえ痛くなければ痛くないと云うことを戦場では実証しているのであります。


それでは自殺は悪いが戦争で戦死するのはどうかと云うと、
これは我執の為に戦死するのではない、どこの国の戦争でも一個の共同団体 ―― 
と云いますか、、一個の共同の生命体と云いますか ―― それ等 『公』 の為に
自分の生命を献げて共同の‘いのち’の中に飛込んで一緒になってしまう。 

この 『公の共同の‘いのち’』 に帰一して戦死するのは、
決して利己主義で自殺するのとは異うのであります。

ですから、戦争に行って戦死した人の霊魂は決して苦しんではいないのであります。 

尤も ヴェッテリニの 『霊界通信』 の中に書いてある処によりますと、 
『人の死』 と云う事は偶然に起るものではない、
定められたるプログラムに随って起るとありますから、

戦死なるものも定められたる寿命に於てその死が起っているのですから、

霊魂と肉体との分離に自殺の如き無理がない ―― 従って、戦死は苦しみなく
笑みさえ顔に浮かべて死ぬ人が多いのであります。 

特に日本軍人の場合には、久遠国家の‘いのち’帰一するのですから荘厳無比、
安らか無比であります。 

先般、軍人会館で山本清次中将の講演を承りましたが、
日本の軍人は‘皆な’戦死するものでも一人も無念の形相をしているのはない、
実に安らかに微笑を浮かべて死んでいると云われたのであります。 

さもありなんと思われるのであります。

                     〜 つづく

               <感謝合掌 平成27年3月28日 頓首再拝>

[561] 何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか〜その4
伝統 - 2015年03月29日 (日) 04時28分

私は 『人間死んでも死なぬ』 の本の中に、
戦死した軍人の霊魂の通信をも載せて置きましたが、
現在の支那事変のものは軍機に関して載せることは出来ませんので、
これは欧州大戦当時の戦死者の霊魂からの通信なのであります。

それは ジェ・エム・ワットキンス と云う人の著 『Private Dowding』 と云う
本の中にあるので、斯う書いてあります。 ――


『肉体的の死は何んでもない。 実際そこには何等恐怖すべき原因はないのである。 
こう云うことが起ったのであった。 
自分は起った出来事を、すっかりはっきりと覚えている。 
榴弾のヒューと風を切る音を聞くまで自分は何も特別な危険に遭遇しなかった』

                     (『人間死んでも死なぬ』 80頁)


これは霊魂自身が霊媒にかかって自働書記したものであります。 
自分で何を書いているか判らないけれども、鉛筆を持った手が自働して自然に字が書ける、
何を書いたのかと思って読んで見ると文章になっているのを自働書記と云うのですが、
続いて自働書記は斯う書いているのであります。


『と榴弾が爆発した。 ピシリとひどくひどく自分の首根っ子を何かが打った。 
自分は倒れた。 そして自分の経験によれば、見たところ少しも無意識状態の間隙なしに
幽界に移り行ったのだった。
自分は自分自身の外側に自分自身を見出したのだった』 

 (『人間死んでも死なぬ』 80頁)


この霊魂は霊魂が肉体から脱出する際に人事不省に陥る間隙がなかったのであります。 

死ぬ場合には、霊肉分離のショックを一種の無痛手術状態で行わしめるために、
精神の麻酔状態が与えられて、意識が醒めると、

『ここは霊界だろうか、現実界だろうか、
自分は生きているんだろうか、死んでいるんだろうか』 

と訝る霊魂が多いのですが、
これは霊肉分離の困難なために麻酔作用を必要とする霊魂達であります。


更に高い階級の霊魂達になりますと、この肉体を離れて行きつつある状態を
 『自分は今移住しつつあるんだ』 と云う風に客観的に意識しながら霊魂が肉体を
離れるのであります。 


私は 『いのち』 5月号に 『人間斯くの如く死』 と題して、
生長の家誌友で死んだ人たちの斯くの如き実例を数多挙げて置きましたから、
今はそれを列記しませんが、

『人間死んでも死なぬ』 本の中に上げた欧州大戦の戦死者の実例では、戦死者の肉体が
其処に転がっている。 そして 『本当の自分』 ―― 霊魂がその横に立っていながら、
今しも銃弾で倒れた自分の身体を見出して、何とかせねばならぬと云うので、

『その自分自身は二人の仲間の兵卒どもを扶けつつ自分の屍骸を運びながら、
うねりくねった塹壕を看護員詰所の方へ降って行くのであった。』 

                      (『人間死んでも死なぬ』 80頁)


と云うのです。 
戦死には何の苦痛もない ―― それは霊魂の昂揚の瞬間だったのであります。


『死は私にとってはまことに単純な経験にすぎなかった。 
恐れもなければ長引いた苦しみもなく、また何等の葛藤もないものであった。 

自分は間もなくこの自分が手伝わなくても二人の兵卒どもは自分の死骸を運ぶことが
出来ると云うことが判ったので、後へさがって奇妙に謙遜なさまをしながらついて
行った。 と、私は意識を失った。 
そして深い深い昏睡状態に陥ったのであった。』 (『人間死んでも死なぬ』 80頁)


この時意識を失ったと云うのは、
霊魂は 『玉の緒』 と云って一種の霊線によって成立っており、
霊魂と肉体とを霊魂の分子の小体が連珠のようになって伸縮自在な紐をなして普通の
‘ぼんのくぼ’の所に於て肉体と繋がっているのであります。

この霊線が肉体に繋がっている時には吾々の生命は脳髄を使って意識しているのですから、
脳髄を通しての意識があるのです。 

ところが、脳髄と霊線との繋がりが切れて了いますと、
吾々の生命は脳髄は使わなくなりますから脳髄の意識が無くなってしまい、
完全に霊界の人となり、現実界の意識は中断されて了います。 

その瞬間、吾々の生命は別世界に入るのですから、
一面から云うと昏睡状態に入るのであります。

それは偖おき、此の実例に於て注意すべきは戦死した霊魂と云うのは、
別に大して苦しむ事がないと云うことであります。 
自分自身が屍骸を兵卒と一緒に運んでやろうと云うくらいなものなのです。

尤も 『生命の實相』 の霊界篇に書かれている 『アグナッセンの父』 の霊魂も
自分の死骸を埋葬する儀式に自分も一緒に列しながら、見送りの人間が皆悲しみ嘆いて
太陽の光も見得ないでいるのに、当の葬式される霊魂自身は歓びに満たされて
こんな美しい太陽の光を見たことがなかった位だと書いています。 

このように正しき死は別に悲惨なものでも何でもないのです。 
況や国家のために、陛下の大生命に帰一する戦死に於ておやであります。 


私が 『人間死んでも死なぬ』 の書物を出版した目的は、
そう云う事を今日本人全体に知らしてあげたいと云う事であります。 

父とか、良人とか、許婚の恋人とか、親類とかが戦死して先立った場合に、
悲しみに打たれて、あの少女のように自殺したいばかりに思っている人が
どれだけあるか知れない。 
そう云う人達にこの書物をさし上げたい。 

そうして、霊魂は死んではいないのだ、死んでいないだけではなく幸福に生きているのだ、
特に国家のために現世の生命を捨てた人は永久に祝福されているのだと云うこしを知らして
あげたい。 

これが私が 『人間死んでも死なぬ』 の本を出版した所以なのです。

更にもう一つ重大なことは、今は戦争で国民の体勢が揃っていますが、
戦死と云うことがあまりにも悲惨であると考えられている場合、

敵国の間諜から 
『戦争はこんなにも悲惨なのですよ。 君たちは何の為に戦争などするのですか。
戦死した君たちの親しい ××の霊魂は地下で苦しんでいるのですよ』 などと云う
反戦主義の宣伝がやって来ないとも限らないのである。

その時に 
『戦死者の霊魂は苦しんでいない。 光明輝く世界に祝福されて生きているのだ』 
と云う予備知識のない時は此の反戦運動の宣伝に引かかって
、国民が総立ちになって最後の一人になる迄も戦わねばならぬ重大時期に、
国民が戦意を喪失して挫折れて了う惧れがある。 


この惧れを未然に防ぎたい念願で私はこの著書を出したのですから、どうぞ知人に、
戦死者の家族に、否、全日本人の同胞に此の書を差上げて読ませて上げられんことを
私は希望するのであります。

       (了)

               <感謝合掌 平成27年3月29日 頓首再拝>



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