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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[567] 神は愛なり(三月の光明法語)
伝統 - 2015年03月31日 (火) 17時18分

(上旬)

今、目前の仕事にサービスせよ

           *「光明法語」(3月1日)より

若し諸君に職業が見つからぬならば、金を得る仕事だけを職業だと思うな。
諸君の前に偶然あるところの何の仕事にでも(便所掃除でも、カド掃きでも、
障子硝子拭きでも)報いを求めることなしに奉仕せよ。

これが無条件に与えると云うことである。
やがて其処から諸君に最も必要にして適切なる仕事を得る
緒(いとぐち)が得られるであろう。

神は決してケチではないのである。
人間が与えることにケチなのである。

そして入り口をひらかないものだから神の恵みが流入しないのである。

・・・

自己の使命感を生かせ  

           *「光明法語」(3月2日)より

或る有名な音楽家のところへ一人の娘がたずねて来て、
どうしたら自分は早くラジオに出られるようになりますか。
オペラのシンガーになることが出来ますかとたずねた。

その有名な音楽家は答えた。

「どんな天才でもそのような気持ちで天才を伸ばすことは出来ません。
歌手が歌手として成功するためにはどんな苦労をしてでも歌を立派に歌いたい
と云うような一念にならねばなりません。

かくて其の一念不動の決意によって音楽が自分自身をさえも
魅するような上手さに達した時他の人々をも魅することが出来るのである」と。

・・・

使命感と天分を目的とせよ 

           *「光明法語」(3月3日)より

名声や金儲けを目的にしているのは本道(ほんみち)ではない。
それは天分のない証拠だと言えるのである。

私が早稲田の文科にいたとき、その分科が甲クラス乙クラスとに分かれて、
乙クラスは専門に文学のみを修業して中等学校の英語教師たる資格を抛棄(ほうき)する。

甲クラスは若し文学で飯が食えねば
英語教師に無試験検定でなれる資格を保留することにしたのである。

その時、乙クラスにみずから進んで入学をした者は僅か数名だったが、
彼らは文壇でとも角有名人になった。

西条八十、木村毅、細田民樹、細田源吾、鷲尾雨工・・・・・等々。

・・・

成功の秘訣はサービスに在り

           *「光明法語」(3月4日)より

特殊の使命感をもたないで、しかも世の中に出て成功したい者は、とも角、
自分が出来るだけ多くの人々に為になる働きをしようと決意し、
その方向に向かって勉強し、その方法を考え、工夫をめぐらし、

その間に神にいのり、いのりつつ工夫し、勉強し、
神よりの叡智の流入を受け、百萬人に為になる着想を実際に応用することである。

百萬人に為になる仕事がなければ先ず一人の為になる事から始めよ。

不平を言うこと勿れ。
感謝しつつ、報恩の気持ちで自己の能力を捧げよ。  
其処から道がひらかれる。

・・・

人間は環境にも遺伝にも支配されない

           *「光明法語」(3月5日)より

人間は環境に支配されると言うが、真の環境は自分自身の想念である。
人間は自己選択の自由に与えられているのであって、如何なる環境からでも、
自分の想念によって其の波長に合うものだけを吸収するのである。

縦には無限の遺伝の中から、自分の想念に合うものだけを表現するのである。
人間の遺伝を遡(さかのぼ)れば神に達するのであるから、吾らは中間の遺伝を無視して、
神に波長を合わせさえしたら、神の完全さが今此処に実現するのである。

神に波長を合わすのが神想観である。

・・・

一事を見て万事を判断してはならぬ

           *「光明法語」(3月6日)より

霊的の事物は霊的に理解してのみ其の真実意を汲み取ることが出来るのである。

だから自分が霊的に発達した程度に随って、
聖書でも仏典でも本当に理解することが出来るのである。
生長の家の教えも同じことである。

郡盲象を評するような調子で、色々に理解したり批評したりしているけれども、
象には耳もあり、牙もあり、脚もあり、胴体もある。

牙に触れたものは猛獣だと思うかも知れないが、実は至極おとなしい動物であり、
その象牙も彫刻すれば素晴らしい価値が出て来る。

・・・

人の病気を治すには  

           *「光明法語」(3月7日)より

人の病いを心で治そうと思ったならば、その病気を見てはならないのである。
此処に治療を要する病人があるなどと思ってはならないのである。

観たとおりに現れるのが心の法則であるから、吾々が心で彼を病めりと観るならば、
彼は依然として病の状態でつづくであろう。

病気の存在を信ぜず、又見ざるところの人のみが病気を消滅することが出来るのである。

此処にも神のつくらない病気などは存在しないのであり、
そんな病気に罹っている人も存在しないのであると見なければならぬ。

・・・

行き詰った時にはこうせよ 

           *「光明法語」(3月8日)より

何事でも行き詰まったならば、
その仕事を行き詰まったときの焦燥の感じで続けてはならないのである。

しずかに眼をつぶって、「宇宙の本源」に帰ることである。

言い換えれば、

「神はすべてであり、神は調和であり、完全であるから、
不調和な出来事は決して存在しないのである。
この見せかけの不調和は太陽の前の雲霧のように、
もう間もなく晴れるのである。心配はいらぬ」

と数回思念し心を整えてから仕事を始めるのが好いのである。

紛失物をさがす時にも心を整えてから探すが好い。

・・・

欠点を見つけるのは愛ではない

           *「光明法語」(3月9日)より

欠点を見つけるのはその人を真に愛していないからである。
愛は欠点を見ないでその奥にある神性を観、実相を観る。
愛するほど強力なものはないのである。

私が宇部の講習会をしたときに夫婦仲の悪い婦人に
「仲をよくしたら好い」「既に仲好いと思えば好い」と話した。
それは智慧の働きである。

ところが吉田國太郎講師が光明講座のときに
「仲が悪いのは愛しないからである。愛すれば仲がよくなるのである」と話した。
その婦人は良人を愛し始めて幸福になったと云うのである。

・・・

《なろうと努力するより既によしと信ぜよ》

           *「光明法語」(3月10日)より

其の婦人は今まで「仲好くしよう」と努力したけれども仲好くなれなかった。
それは意志の努力であった。

彼女は「仲悪し」を心の中に思い浮かべて、
「仲好くなろう」と努力したから仲好くなれなかったのである。

また「愛されたい」と求める心でいるばかりで、
積極的に愛しようと努力しなかったから仲好くなれなかったのである。

愛せよ、与えよ、与えるのが愛である。
無条件に与えよ。無条件に与え切るとき、自分が愛されるようになるのである。
愛とは与えることである。放つことである。



[568] 中旬
伝統 - 2015年03月31日 (火) 17時23分

《相手のためになることを実践せよ》

           *「光明法語」(3月11日)より

愛は感情である。

美しいものを愛し、醜いものを憎む。
美しいものに快美の感を感じ、醜いものに不快の感じを感ずる。
これは当然のことである。

しかし醜いものを愛するにはどうしたら好いか。
ニイルは愛とは感情ではない。意志の力であると解した。

いかに醜くとも、彼を愛することが出来るのは、
「意志の努力によって、相手のためになることを実践することが愛である」
としたのである。

しかしそれでは感情は不快そのままに続くのである。

真の愛とは醜く見えても彼の本質は美しいと知ることである。

・・・

《愛されたいのは愛している証拠》

           *「光明法語」(3月12日)より

その婦人が、良人から「愛されたい」と願ったのは、
既にその婦人が良人を愛していた証拠である。
人は愛していない相手から愛されようなどとは思わぬ。

かりにらい病患者があってそれが醜くて到底こちらが彼を愛し得ぬ場合、
吾々はそのらい病患者から愛されてつきまとわれたら恐らく迷惑を感ずるばかりだろう。
すなわち、こちらが愛していない相手からは愛されたくないからである。

彼から愛されたいと思うのは既に自分が彼を愛しているからである。
「自分は彼を愛している」と気がつく事が第一である。

・・・

現象を見ず実相の完全を観よ

           *「光明法語」(3月13日)より

何故、光明皇后がらい病患者を愛したまうたように、その膿血(のうけつ)
ながれる背中に接吻されたように、醜くあらわれている人々をも
吾らは愛することが出来ないか。

それは現象を見るからである。

現象を見れば膿血はきたない。
膿血は愛することは出来ない。
膿血を愛すれば膿血は増加するばかりである。

膿血の奥にある光明かがやく生命を観ることである。
そのとき膿血は消えさり、光明輝く實相があらわれる。

人間の現象の欠点を見ず、現象なしと知ってのみ
その人間の神性を本当に愛することが出来るのである。

・・・

智慧は愛に先行する

           *「光明法語」(3月14日)より

完全なる神、その創造の完全さ、その創造されたる人間の完全さ、
その創造されたる世界の完全さ、それを先ず信ぜよ。

現象の世界が、人間が、如何に醜くあらわれていようとも、現象なしとたち切れ。
先ず汝の心のうちに「完全なる世界」と「完全なる人間」とを確立せよ。

それは智慧の働きである。
この場合、智慧は愛に先行する。
智慧が真に相手の「完全さ」を確認し得たときにのみ、
感情としての愛が湧き出てくるのである。

それまでは意志の努力によって嫌悪を克服しながら唯(ただ)愛行を努力するだけである。

・・・

神がすべてなりと観ぜよ

           *「光明法語」(3月15日)より

毎日毎日神想観を行じ、神がすべてであり、神と、神の創造せられたる世界と人間との
完全にして美しく妙なることを念想せよ。

その念想を継続しているうちに、真に「神がすべて」であり、
一切の不完全なるもの、不調和なるもの、醜きもの、病気、反感、災難などは
存在しないものであると云う確信が自分の潜在意識の奥底までも湧き起って来るのである。

その時次第に(時としては忽然)その人の周囲は光明が輝きはじめ、
健康は回復し、すべての人は自分に好意を示しはじめるのである。

・・・

愛は繁昌の基(もとい)である

           *「光明法語」(3月16日)より

愛はすべての繁昌の基である。
愛は人をひきつける磁力である。
愛のある店には人がひきつけられる。

愛のある食卓は美味に満たされる。
愛のために調理される食物は同じ成分であっても、
それが人生健康に保持する力は強いのである。

愛によって育てられる子供は健康の育つ、けれども愛とは執着することではない。

愛は相手の神性を拝むのである。
愛は相手を弱き者としていたわることではないのである。
相手を完全なものとして、其のまま放つのである。

信と敬と解放とである。

・・・

人間は無限力

           *「光明法語」(3月17日)より

人間は無限力であるから疲れることはないのである。
こう信じておれば疲労は少なくて済む。

大抵の人間は本当は疲れてもいないのに疲れたと信じ、働き過ぎたと信じ、
その信念によって、普通よりも一層疲れているのである。

人間は物質面から見れば有限であるから、
その有限面に無限力の内容から精力が補給される間中、
一時働く力が減退したように現われる事もあるが、それは一時的である。

井戸の水をかえれば一時水量が減ったように見えるが
一層清らかな水が湧き出るようなものだ。

・・・

人間が疲れないためには

           *「光明法語」(3月18日)より

自己催眠、自己暗示で自分を疲労せしめて自分を病気にするのは愚かな事である。

疲れたと思ったときには、しばらく眼を瞑(と)じ、

「神は無限力であり、自分は神の子である。
今神の無限力が滾々(こんこん)と流れ入って、自分は無限の精力を回復しつつある」

と数回念ずれば、その疲労は須臾(しばらく)のうちに回復するものである。

また仕事をする場合、自分の力で仕事をすると思わないで、
「神が自分を通して仕事をしたまうのであるから決して疲れることはない」と
数回念じてから仕事をすれば疲れない。

・・・

生命の純粋波動を現せ

           *「光明法語」(3月19日)より

肉体は念波の振動が物質化して姿をあらわしたものである。
その姿の奥に生命の純粋波動があるのである。

生命の純粋波動のみがあらわれたら健康になるほかはないのであるが
その表面に自己の空想的な念波及び、他より波及されたる不健全な念波が、
満月の上にかかった雲のように蔽って、其処に不健全な姿をあらわすのである。

生命の純粋波動の世界には病気もなければ、疲労もない。

自己の空想的念波と云うのは、
本来あり得ない不完全な姿を空想した念波であるから斯く称するのである。

・・・

神想観と感謝行

           *「光明法語」(3月20日)より

心を「不完全の念波」(迷い、又は病念)から解放するには、
言葉の力、思念の力によって不完全の反対の念波を打消すことが必要なのである。

神想観により、神のみ實在であり、實在するものは悉く完全であり、
人間は神の子であるから、完全であるほかはないと云う念を強力に、精神集中的に
起こすことは「不完全な念波」を消散又は撃退するのに非常に有効な方法であるのである。

更に有効な方法は、「既に完全なる状態がある」と観じ、
常住それを感謝する念を起こすことである。

[569] 下旬
伝統 - 2015年03月31日 (火) 17時28分

人間を物質だと思うな

           *「光明法語」(3月21日)より

人間を物質だと思っている
 ―― その信念の程度に随って人間は物質の法則に支配され易くなり、
物質と同様に疲労と老衰と病気とに曝(さら)されるのである。

物質は大生命より発した波動のうちで最も粗雑低級な波動であるから、
霊の無限、無消耗性をあらわすことは出来ないのである。

人間を物質だと観ずる念波は、
自分の生命にこの無雑低級な消耗性を引寄せることになるから、
自分自身を消耗性の姿をあらわすことになり、
それだけ自分自身を不健康にあらわすことになるのである。

・・・

わが内に宿る神

           *「光明法語」(3月22日)より

『マタイ伝』第六章六には

『なんじ祈るとき、己(おの)が部屋にいり、戸を閉じて、
隠れたるに在(いま)す汝の父に祈れ』

とイエスが教えている。

必ずしも自分だけ独占の密室で祈れと云う意味ではない。
若しそうならば一室に数人同居する引揚者などは祈ることは出来ないのである。

『己が部屋にいる』とは自分の心の中に深く沈潜することである。
すると自分の内に『隠れたるに在す汝の父』がい給うのである。

神を外に見ている間は本当のお蔭は得られないのである。

わが内よりこそ無限の生命も無限の供給も得られるのである。

・・・

人の罪をゆるせ

           *「光明法語」(3月23日)より

病気は罪の現れであるとイエスは見ている。
其の証拠に彼は「汝の罪ゆるされたり」と言って人の病気を治しているのである。

そこで病気が治る為には罪が赦されると云うことが必要である。

そころが如何にしたら罪がゆるされるかと云うと、イエスは

「汝等もし人の過失(あやまち)を免(ゆる)さば、汝らの天の父も汝らを免し給わん」
(「マタイ伝」第六章十四)

と言っている。

人の過失(あやまち)を見る心(過失<あやまち>は本来無であるから)
そのものの實相の隠蔽(包み ―― 罪)であるから、人の過失(あやまち)を見ず、
その奥に輝く彼の神性を観るとき罪がなくなるのである。

・・・

神の愛の霊波を受けるには

           *「光明法語」(3月24日)より

神が吾々に働きたまうのは自己「内在の神」の波長を通してである。
ラジオの放送が吾々に働くのはラジオセット内在の波長が
放送の波長に合するが如くである。

だから人を愛したまう神の念波は、
人間が「愛」の念波を起こしたときのみに受け得るのである。

人を憎み、人に害を与えようと云う念波を起こしながら、
神の恵みの霊波を受けることが出来ると考えるのは、
波長の異なるところへバリコンを廻して置いて、
放送の波を受信しようと思うようなものである。

汝ら互いに相愛せよ。

・・・

徒らに祈りを反復するな

           *「光明法語」(3月25日)より

イエスは『祈るとき、徒(いたず)らに言(ことば)を反覆すな。
彼らは言多きによりて聴かれんと思うなり』と教えている。

これは言を反覆してはいけないと云う意味ではない。
『徒らに反覆』しては役には立たぬのである。
言葉多く執濃(しつこ)くからみつくように懇請するから神がききたもうと思うのは
間違いである。

念佛三萬遍でも好いし、臨終の一念佛でも好い。

ただ言葉多きがゆえにきかれると思うのは、
言葉少なければきかれぬと云う恐怖心が内在する現れとも言える。

思念の言葉を反覆するのは、自分の心の波長を調整する為である。

・・・

神と波長を合わすには

           *「光明法語」(3月26日)より

「神の国は汝の内にあり」とイエスの言った如く、
わが祈りの密室は《自己の内》にあるのである。

この至聖所(しせいしょ)に吾々が入るならば、
どれだけでも無尽蔵の豊富な生命、智慧、愛の供給があるのである。

しかしこの至聖所に入るにはすべての憎み、怒り、恨み、呪い、悲しみ、悩みの
非存在(ニセモノ)を排除(とりのぞ)かなければならないのである。

そして先ず神を愛することである。
隣人を愛することである。

愛なくして、欲ばっていて、自分の祈りが神に通じないと言っても、
波長が合わぬから仕方がない。

・・・

心の眼をひらいて実相を見よ

           *「光明法語」(3月27日)より

「身の燈火(ともしび)は目なり、汝の目ただしくば、全身あかるかん」
(「マタイ伝」第六章二二)
とイエスは言っている。

これは肉体の目ではなく、心の眼、「内の光」である。

心の眼をもって自己内部の実相円満なることを照らし出(い)だせば全身は明るくなり、
健康となるのである。

全身が健康になるばかりでなく環境・境遇が調和し、豊かなる供給が集まり来るのである。

だから心の眼をひらいて
「神の国と神の国の義(ただしき)とを求めよ。
然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし」
と教え給うたのである。

・・・

内在の神性に委せ切れ

           *「光明法語」(3月28日)より

イエスは凡ゆるものを、自己の健康も、供給も、ただ神に全面的にまかせ切ったとき
完全になると云うことを説いたのである。

「明日のことを思い煩(わずら)うな、明日は明日みずから思い煩わん。
一日の苦労は一日にて足れり」。「野の百合は如何にして育つかを思え」。

ここに内在の神性に対する完全な信頼がある。
内在の神にまかせ切るとき、労せず、思い煩わずして自然の導きが、
「内」と「外」とから起るのである。

この「導き」に従うとき、自然に健康はよくなり、運命は好転する。

・・・

平和なる眠りを得るには

           *「光明法語」(3月29日)より

吾々は原因結果の法則の世界に生きているのである。
その原因は他から来るのではなく、自分から来るのである。

吾々が人々を愛すれば人々から吾々は愛されるのである。
人々に与えれば人々から与えられるのである。
吾々が人々を賞賛すれば人々から賞賛されるのである。

愛は愛を呼び、憎みは憎みを呼ぶ。
奪うものは奪われ、殺す者は殺される。

眠るときに愛念を起して眠れ、感謝の念を起して眠れ、明日の事を神にまかせて眠れ。
決して争いや、心配の心で眠るな。

・・・

愛の展開が天国である

           *「光明法語」(3月30日)より

吾々は原因結果の法則の中に生活しているのであるから、
その法則から免(まぬが)れることは出来ないのである。

「主よ主よ」と呼んでも神の心(即ち愛)を行じないものは
天国に入ることは出来ないとキリストも言っている。

「生長の家」の誌友名簿に登録されていても、
愛を行じない者は天国へ行く改札口を通されないのである。

愛とは単に天国へ行く通行券であるばかりでなく、愛の展開が天国なのである。
愛するところに天国はひらけ行き、憎み、さばくところに地獄は現出するのである。

・・・

愛するとは實相を信ずること

           *「光明法語」(3月31日)より

愛するとは可哀相だと思うことではない。

「汝、情(こころ)をつくし精神をつくし魂をつくし、力をつくし神を愛せよ」

と言っても、決して神を可哀相だと思えと云うことではない。

愛するとは、相手がどんなに見えようとも、
その實相の完全さを信じて敬(けい)することである。
可哀相だと思うことは、
「彼を無力者だと見る」即ち「彼を軽蔑する」ことになるのである。

「自己を愛せよ」と言っても自己憐憫することではない。
自己憐憫はむしろ悪徳であるが、
自己の實相の円満完全さを信ずる自敬の念こそ本当の自己愛である。





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