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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[571] 万物めぐむ(三月の光明道中記)
伝統 - 2015年03月31日 (火) 17時34分

【美的価値と行】


人間は宇宙の生命が咲き出た美花である。
それに気着かぬ人が多いのは悲しむべきことである。

人間自身が花であると云うことに気が着いたならば、
人間はただ美しく生きることに懸命になれるに相違ないのである。

人間の価値には、美的価値と、道徳的価値と、経済的価値がある。

経済的価値とは物の生産と消費との関係に於ける価値である。
経済的価値を生産のみにあると思うのは間違である。
生産と消費との調和に価値が生まれるのである。

道徳的価値とは人間の心に生じたるものを行為に表すところの価値である。
経済的価値も、道徳的価値も、行(ぎょう)を通してのみ、その価値を成就する。

美的価値は離れて観る価値であるから、
行と最も縁遠いところの価値であるが如く思われる。
併し、「美」もまた行を離れて存在し得ない。

「美」は紋理(もんり)であり、相(すがた)であるが、
相(すがた)もコトバの振動によって展開するから、
行(ぎょう)なくんば美もまたないのである。

[572] 上旬
伝統 - 2015年03月31日 (火) 17時44分

栄光を見る日

           *「光明道中記」(3月1日)より

【われわれを神が造った。神と呼ぶのが嫌やな者は生命と言っても好い。
                           (『生命の實相』第七巻)】

人間の受胎はすべて神性受胎であると云うことである。

「斯(か)かる人は血脈(ちすじ)によらず、肉の欲(ねがい)によらず、
人の欲によらず、
ただ神により生まれしなり。言(ことば)は肉体となりて、我らの中に宿り給えり
我らその栄光を見たり」(『ヨハネ伝』第一章)

その《栄光を見る》ことが悟りである。
われを肉欲によりて生れたる者と観ず、われをただ神によりて生れたと観るのである。

単にわれのみならず、彼を、汝を、我が親を、子を、良人を、妻を、
すべての人々を神によりて生れしものなりとして観るのである。

そこに人生ならぬ「神生」が始まり、肉生(にくしょう)ならぬ
霊生(れいしょう)は始まり、
自分の周囲に住む人々は悉く「神より生れし人々」となる。
かくて自分の周囲は神の国となり、天国となり浄土となる。

観の転回である。
「観ること」が転回して見られる世界と、観られる人間との貌(すがた)が変る。
「菩薩心浄ければ浄土浄し」暗黒を見る心が一転して栄光を見る心になるのが
悔(くい)改めである。
 
「光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」(『ヨハネ伝』第一章)
栄光は照り輝いているのである。栄光のほかに何ものもない。
されど暗黒は之を悟らないのである。

人はすべて神の子である。神性受胎である。
吾れ今呱々(ここ)の声をあげてその栄光を見る。

・・・

神聖受胎の日

           *「光明道中記」(3月2日)より

【受胎当初の卵細胞の直径は125分の1吋(インチ)であり、
 出時の胎児の身長は18寸半で
 ある。その生長は身長だけを見ても実に2312倍である。 (『女性読本』)】


卵細胞の分裂と増殖と、それが一定の秩序の下に積み上げられ、互いに連絡を保ち、
一つとして余分のものなく一定の組織にまで人間の胎児は構成せられる。

その驚くべき精密な計算によって成立つ人体を、
ただの物質的偶然による集合であると云う科学こそ一個の迷信ではないか。

人体はこれを養う栄養分とそれに供給される酸素がなくては
完全な運転は遂げることが出来ない。
それは機関車にはこれに供給する燃料と空気とがなければ運転しないのと同様である。

而(しか)もその構造が極めて複雑で巧妙を極め、容積小なる中で出来るだけ経済的に、
出来るだけ多量に必要分量の酸素を供給し得るように、吾らの小さい容積の内部面積は、
凡(およ)そ長さ50m 、幅10m の矩形(くけい)に等しい程もあると計算されて
いる。

それ程に複雑な計算の基礎に成立つ人体が、どうして物質の偶然の集合で出来るのか。
唯物論者は若しそのような複雑巧妙な力を「物」に与えるならば、
既にそれは「物」以上の《或るもの》を肯定しているのである。

「物」以上の《或るもの》を肯定する限り唯物論は既に自己背反に陥っているのである。
人間は決して「物」ではない。

・・・

陰陽調和の日

           *「光明道中記」(3月3日)より

【性的結合は、霊魂が地上の世界へ招かれるための信号旗である ―― その最も
 明瞭にして 緊要な条件は、精虫が卵子を貫穿(かんせん)するという事である。
                      (『生命の實相』第五巻)】


今日は桃の節句である。

三はミツであり、水であり、水は冷たく陰である。
陰は漂(ただよ)えるものである。

それを貫くものがなければ、永遠に「水」は漂うていて、
一定の形にまで固定しないのである。

「陽」あって「陰」を貫く ―― これを結びと言う。
陰陽結ばれれば其処に「固成(かため)」を生ずる、
これを修理固成(むすびかため)と言う。

「漂える国をつくり固め成せとのりごちて、天沼矛(あめのぬぼこ)
を賜(たま)いて言依(ことよ)さしたまいき」と『古事記』にあるのは、
漂える「陰」を、天沼矛を以て刺し貫きて、結び固めよとの意義である。

宇宙の創造も、小宇宙なる「人間」の創造も同様である。

海原(地球)を貫いて陽光射し、其処に生物生じ、
暗黒(かげ<陰>)を貫いて光ただ射し万物生じたのである。

陰は貫くものがなければ、一定の相(すがた)はない。
それはまだ身を固めた存在ではない。
結婚(むすびかため)が完成していないからである。

陰は陽によって身を固めたものとなり、運命が定まる。

宇宙も人間も同じ組織で出来ている。
水の上に浮かぶものあり、水乗(みの)り<実>と言う。

そは桃の実であり、核のうちに桃太郎を蔵す。

水は女性で流れる許(ばか)りだが、
男性があってそこに中心が出来、生む作(はたら)きを完成する。

・・・

善きものを芽ぐむ日

           *「光明道中記」(3月4日)より

【胎児期の教育は却って一層その親によって直接教育せられる。
 親そのものの中に直接生活していて、その精神波動の影響を受けている。
                           (『女性読本』)】

霊魂が肉体に宿るのは、普通は出産の刹那である。

併し、懐妊の瞬間から、妊娠の全期を通して、
間接的に霊魂は形成中の肉体に入り来るのである。
霊魂は自分の住居(すまい)に、
謂わば自分独自の個性の判(はん)を押すためにやって来る。

そして其処に進行している生理的営みや肉体的遺伝を修正して自己独自の陰影を附与する。
そして彼は出産の時に、自己のそれ迄の状態について就いての記憶を全然忘失して、
肉体に宿り切るのである。

これが一般的法則である。(『生命の實相』第五巻)

此の霊界通信は胎教が如何に重大な役割を人間に与えるものであるかを示している。

懐妊しても胎児の霊魂が直ちに母胎に入り来たって自己独自の
思想感情意志その他の精神的波をその形成中の胎児に印するのではなくて、
絶えず胎児が形成せられるのは、母体の生理状態によって

胎児生長の栄養と材料とを得、母体の精神的波動の影響を受けて、
その栄養と材料とが次第に組立てられて、
胎児は1個の卵から約2千3百倍の身長に達するまで生長する。

吾々が生まれてから身長僅か4、5倍にしか生長しないことを考えると、
胎児期の教養がどんなに大切なのかを示している。

・・・

心絶えず歓ぶ日

           *「光明道中記」(3月5日)より

【その母氏は荒川氏反応陽性であったのであるが、此の日に限って陰性となっていた。
 そして其の日に心配事があったことを話した。(『女性読本』)】

マルファン氏は「過性感情が乳汁分泌(にゅうじゅぶんぴ)に影響を与えることがある。
授乳者の憤怒、恐怖は乳汁分泌を感じ、有害なる性質を乳汁に与え得る。

何となれば此の場合に
乳児は体温を感じ、または下痢を起すことがあるからである」と言い、

グリッフスは「恐怖、憤怒、悲哀其の他大なる感情の動きが迅速に乳汁に影響を
及ぼして乳児の疾病を惹起(ひきおこ)すことは必ずしも稀(まれ)ならず、
・・・或る場合は乳汁中に実際の有害変化が起ることもある」と言っている。

以上は私の『女性読本』に引用した泰西(たいせい)医家の所説であるが、
この事を母乳の変化のみに考えてはならないのである。

母乳が変化する位ならば母体そのものも変化しているのである。

妊娠中に火事を見たら赤斑(せきはん)のある子が生まれるということは嘘ではあるが、
過度の感情の動きが母体を変化せしむれば、その母体の中で養われている胎児が影響を
蒙(こうむ)るのは明らかなことである。

遺伝は数代以前からの心の波の痕跡であるが、
遺伝は自然に慣れ行きつつあるものであるから問題はない。

最も必要なのは胎教である。
それは今現に直接胎児に影響を与えつつある。

・・・

苦しみ無き日

           *「光明道中記」(3月6日)より

【お産の時の苦痛は、心の働きであって本来無いものであります。(『女性読本』)】

「創世記」の第三章で、智慧の樹の果(み)を食べたアダムとイブとは、
神から与えられたままの自分を羞(はず)かしとして無花果の葉を綴(つづ)って
それを蔽(おお)ったのである。

与えられたままのお産は無痛分娩のほか何物でもなかったのである。

ところが自然の儘にまかせて置いたならば不安であると云うので、
病気でもないのに妊娠すると医師に骨盤を測って貰う。
その骨盤の寸法が小さいと言って人工流産をして貰う人がある。

これが無花果の葉を綴って本来の「無痛分娩の相(すがた)」を蔽って了ったことである。
そうするとエホバ神(此の章のエホバ神は《心の法則》の化身である)は人間を
エデンの楽園より逐出(おいだ)し

「我大いに汝の懐妊(はらみ)の劬労(くるしみ)を増すべし、汝は苦しみて
子を産まん」と宣言せられたのである。

エデンの楽園よりの追放は「心の法則」によるのであるから、
楽園の奪還もまた「心の法則」によって成就するのである。

エホバ神の此の宣言以来人類は「女性は苦しみて子を生むより仕方がないものだ」と
思われていたが楽園が奪還されて無痛にて安産し得る。

妊娠間もなく骨盤の寸法を測って見て、
骨盤が狭いから人工流産しなければならぬなどと思うな。

妊娠の経過中内分泌(ホルモン)の作用によって骨盤の関節は
蛇の顎(あご)の関節の如く開き易くなる。

・・・

生命の神秘に驚く日

           *「光明道中記」(3月7日)より

【物質からは生命は生まれない。生命を生むものは生命のみである。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


人間の身長は、蛋白質の分子を20億個積み上げた高さがあると生物学者は計算した。
此の20億の蛋白質の分子を、積み重ね間違えたら人間の身体は出来上がらないのである。

此のような大仕掛けな建築物が唯の偶然で出来上がるなどと云うことが可能であろうか。
此のような大建築物が出来上がるためには、
必ずや叡智の導きがなくてはならないのである。

その叡智を吾々は 「神」 と呼ぶのである。

仏と言っても「大自然」と称(よ)んでも可(い)いが、
そんな呼び名は吾々の問うところではない。

此の大建築物が、ただビルディングのように静止しているのではなくて、生きて複雑に、
しかも一糸紊(みだ)れずに統制を保って活動していると云うことは実に驚くべき
設計である。

人体を構造している400兆もある細胞は、その一個一個がただの半滲透性の壁に
囲まれて原形質と云う実に簡単な組織のゼラチン様物質だと考えるのは間違である。
400兆の細胞の各々は、それ自身が一個一個蒸気機関よりも複雑な装置を備えている。

それは栄養を補給し、それを燃焼し、その燃焼産物を排出し、
更に電気的な感受機関を備えている。

外界を観じて、触手を伸ばしたり引込めたりする。
微細構造の中にこう云う複雑な組織を400兆もならべて
互いに聯絡させたのが人体である。

・・・

生命を礼拝する日

           *「光明道中記」(3月8日)より

【愈々(いよいよ)の時が来れば無限の力が出る。爾(なんじ)の内に宿る力を信ぜよ。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

1個の蒸気機関(エンジン)でもそれを制作するには相当の智慧が要る。
それだのに400兆のエンジンを互いに繋ぎ合して1個の如く統一して
運転するにはどんなにか優れたる智慧が要ることであろう。

蒸気機関(エンジン)が煙を吐く如く、400兆の細胞は老廃物と云う煙を吐くのだ。
その煙を逃がさないと細胞は窒息して了うのである。

人体のように400兆台もあるエンジンが肉眼で見れば間隙の見えないほど
《ぎっしり》密集している場合に、その煙である老廃物を逃がす装置を工夫するのは、
恐らくどんな大技師でも、現在のような機械工学の発達では出来なかろうと思う。

それを巧みに成就しているのが人間の《生命力》である。

人体の煙である老廃物を気体の形で逃がす為に、生命力は極めて狭い容積の中に、
長さ50m、幅10m にも当る肺臓内の面積を拵(こしら)え、
液体状で老廃物を流し出す為には、極めて巧みな静脈管やりんぱ管を造った。

細胞を人工培養して人体のりんぱ管のような複雑な組織なしに、
老廃物を流し去るにはその細胞群の大きさの2千倍の清浄液を必要とする、
当り前なら2千人入りの浴槽で細胞を毎時洗っている作用で、
殆んど容積のない血管及びりんぱ管にて行なっている。

・・・

父母の恩を知る日

           *「光明道中記」(3月9日)より

【執愛は捉われている愛である。「愛の愛たるは愛に非ず」。
                   (『生命の實相』第十一巻)】


初めて子供が生まれたときにどんなにその母親は勿論、
父親もその子供を可愛く思うであろう。
その愛は尊き愛である。

その愛がなかったならば幼い脆弱(ぜいじゃく)な肉体を有った赤ん坊は
生活し得ないで大人まで成長する者は稀(まれ)であろう。

子供を生かすのは、そして吾々を今日まで生活することを得しめたのは
兎も角も父母の愛である。
吾々は此の点に於て父母に感謝しなければならない。

子が生まれたとき父母に感謝せよ。
育児の根本は報本反始(ほうほんはんし)にある。

科学的な育児法がどんなに巧みに行なわれても、若しその若き父母が、
その老いたる自分の父母に感謝し得ない時には育児の根本は覆われて了うのである。

最初に生まれた子供がどんなに可愛いからとて、その愛に溺れて、無暗に抱きかかえたり、
頬ずりしたりして、折角安静に眠っている赤ん坊の神経を掻きみだしてはならない。

昔から「総領(そうりょう)の甚六(じんろく)」などと言って
長男は頭が鈍(にぶ)かったり、祖父(じい)さん祖母(ばあ)さんに
育てられた子供が「甘え手(た)」で我儘(わがまま)で始末が可(い)けない場合が
多いのは、生まれた最初からあまり抱きかかえ過ぎるからである。

赤ん坊の言葉は「泣く」ほかないのであるから、
泣いたからとて必ずしも抱いてはならない。

・・・

愛と大調和の日

           *「光明道中記」(3月10日)より

【自分の心だけの事物しか自分の運命に引き寄せることが出来ない。
                     (『生命の實相』第四巻)】

赤ん坊はお乳を飲みたい時にも泣くし、眠い時にも泣く。

お乳を飲みたい時には、唇の表情はお乳を飲む時の格好に幾分
顫動(せんどう)せしめながら泣くものである。
眠いときには瞼(まぶた)を半ば閉じて眼の表情を眠そうにして泣く。

突然火のつくように泣くのは、どこか急に痛みか痒(かゆ)みが出て来たときである。
針が身体に刺さっていないか、虫が螫(さ)していないか調べて見る必要がある。

お腹が急に痛む場合にも急激に泣く。
その場合、生後1ヵ月以上の赤ん坊なら涙が出るのが普通である。

同じように急激に泣いても、癇癪(かんしゃく)泣きの場合には
涙は出ないで足を踏(ふ)んばらせたり、手を憤ったように頑張らせたりして泣く。

肉体は心の影であるから、表情を観察しておれば
容易に何の感情で泣くのか判るものである。

癇癪泣きの時に愛慰(あや)すような習慣を附けてはならない。
抱いては一層可(い)けない。

癇癪立てて泣きさえすれば何事でも叶うのだと云うよう我儘な習慣は、
泣きさえすれば抱いたり乳を飲ませたりする母親が最初に子供に養成したのである。
何でも最初が肝腎である。

嬰児(あかんぼ)だから何も分らないと思うのは間違である。
最初の我儘の習慣は大抵生れて15日以内に附くのである。


[573] 中旬
伝統 - 2015年03月31日 (火) 17時52分

随所作主(ずいしょにしゅとなる)の日

           *「光明道中記」(3月11日)より

【自分の立場からのみ見ずに、相手の立場からも見よ。(『生命の實相』第八巻)】


最初の教育は、赤ん坊が善き態度をとったら、善き感触を与えられると云う経験を通して
行なわれるのである。赤ん坊が悪しき態度を示したときに良き感触を与えられるならば、
その赤ん坊は悪しき態度のみを示すようになるであろう。

泣いたときに抱いて優遇したならば、
その赤ん坊は泣いたら優遇されると知って泣き虫に育つのである。
癇癪を起したときに優遇されるならば、自分の要求をきいて貰えない時に、いつでも
往来の真ん中で大の字に寝そべって泣きわめいて、親を困らす子どもになるだろう。

泣かぬ子に自分の児を育てようと思うならば、
赤ん坊が泣く時にはそれが痛みの表情でない限り、
無関心で放置する習慣をつけるべきである。

そして赤ん坊がにこやかに機嫌の好い時こそ、
お乳をやり、又時には抱いてやっても好い。

泣いている時に「おお、そうかそうか」と言って如何にも可愛気に愛慰(あや)すならば、
泣きさえすれば愛撫(あいぶ)してくれるものだと赤ん坊は思い違いをするであろう。

癇癪を立てている時に機嫌をとるために愛撫するならば、
赤ん坊は愛撫して貰いたくなると癇癪を立てるであろう。

・・・

時間を大切にする日

           *「光明道中記」(3月12日)より

【時間は心一つで長くも短くもなるもので、一定した真の存在ではない。
                          (『生命の實相』第十一巻)】

乳飲児(ちのみご)があるので本を読む暇がないと言う母親がある。

子供を有つようになったから、家の掃除も碌々出来ず、家の隅々には埃が積り、
自分の着物さえもどろどろで身躾(みだしな)みなどすっかり出来ずに、
急に老けていく若い母がある。

乳飲児があるので世話がかかって時間が無いと言う母親は本当に時間がないのではなく、
時間を作らないのである。
そんな母親は始終赤ん坊に泣かれて、始終赤ん坊を抱いているか、
始終不規則にお乳を飲ますかし勝ちだ。

乳児に抱き癖をつけると抱かない時は冷遇されたと思って頑固に泣き通すものである。
子供を愛しているようで、子供を泣き虫に我儘に育てる親はこんな母親である。

そしてその子供が成長してから、
「自家(うち)の子は、どうして斯う我儘だろう?」と呟く。
母親よ、御自分が子供をそう作ったのである。

1回にお乳を飲ませる時間は、母親の**の状態と、赤ん坊の吸う力との相互関係で
定(き)まるのだから一定し難い。併し1回30分間を超えない方が好い。
少しずつ長時間に亙(わた)って飲ませると間食をしているのと同じ結果となる。

赤ん坊は半ば吸った頃から眠りを催すから、そんな時は赤ん坊の口の縁(ふち)を
指で突(つつ)き乍(なが)ら飲ませると、又強く吸いはじめる。

・・・

軌道に乗る日

           *「光明道中記」(3月13日)より

【人生は神の永遠の生命が五官に触れる形式に現わされたものでなければならぬ。
                          (『生命の實相』第七巻)】

赤ん坊に規律正しくお乳をやると云うこと、
規則正しい時間に便通をさせること、
それらは人間に最初の規則正しさを教えることになるのである。

規則正しい授乳と用便とは、人生に一つの法則があり、権威があり、
それに従うときに自由と快感を得るものであることを
赤ん坊に教え込むことになるのである。

即ちそれは「服従は自由なり」の古聖の金言を實生活の上に示し、
周囲と調和することことが、
自分の伸びる道であることを実生活に於いて知ることが出来るようになる。

子供を自主的な立派な人間に育てるのは必要だが、暴君に育てることは禁物である。
実的な立派な人間とは法則を破る人間ではなく、
法則を発見し、法則を利用する人間なのである。

科学者は自然界の法則を発見し、それを利用するとき本当の自由を得る。
自然界の法則を利用するとは法則に違(たが)うことではなく
、法則に従うことなのである。
凡そ、自由とは法則に従うところから来る。

内部の法則が外在の法則と全く一つになって運行するとき、
丁度機関車の内部の力が、軌条(レール)の則(のり)とがぴったり合ったとき、
自由になめらかに運転するのと同じようなものである。

あまり自由に甘やかして育てた子供が墜落するのは、
幼児から法則を無視することを教えたからである。

・・・

自然を拝む日

           *「光明道中記」(3月14日)より

【不健康は自然の生命の流れが何かの不自然で塞がれたことである。(『百事如意』)】


人間を造ったのは「自然」である。
自然を静かに観察する時は、何が生命を活(い)かすものであり、
何が生命を抑えるものであるかが判る。

生後7か月程にして幼児に歯が生えて来ることは何を意味するか。

その頃には固形のものを与えても好い証拠である。
併し歯は全部まだ揃っていない。
それは全部の食物がまだ固形物では可けない証拠である。

上部の門歯(もんし)は一体の肉(歯ぐき)から二つだけ先に生える。
それは父母が先に立っていることをあらわしている。

親の家を出たり、親が死んだり、親しく親の家にいない者は
門歯が虫歯になったり折れたりし易いものである。

生後7か月頃から、御飯を十粒ずつ毎日一粒ずつ殖やしながら
食事に混えて与えるのは胃腸の鍛錬法になるものである。

この方法を過(あやまち)なく行なうときは、
離乳時にお粥を特別与える必要はなくして、
直(ただち)に固形物に移り得るものである。

歯の形を見よ。
人間は何を食する生物であるか。

門歯8枚は菜食動物の歯、犬歯(けんし)4枚は肉食動物の歯、
残り20枚は臼歯(きゅうし)であって穀食を搗(つ)きくだくように設計せられている。

人間は菜食が好いか肉食が好いかは、自然を観察すれば好い。
32枚の歯のうち4枚だけが肉食の歯であるから、
肉類は全食量の 1/8 を適量とする。

・・・

待人来る日

           *「光明道中記」(3月15日)より

【類は類を招(よ)ぶ。類でないものは反発する。此(この)法則で運命が形成される。
                           (『生命の實相』第一巻)】

ドイツの諺には「人間はその食するところの食物に似る」と云うのがある。
日本でも石塚食養法の石塚左玄氏は此の説をとなえて、
その食養法もそれによって指定せられていたのである。

ドイツでは生人参(なまにんじん)を食べると美しい歯と顔色になり、
蔓条(すじ)を追うて薯(いも)を作って行く馬鈴薯は推理力を、
その蔓(つる)の曲線美が芸術的である蔓豆は芸術的能力を発達させると言っている。

そこで人参を多く食するロシア農民は歯が非常に美しく顔色が人参色をしている。
馬鈴薯を小麦の代りに食べているドイツ人は世界一の哲学者科学者などを輩出している。

石塚氏は目の形が食物の形に似る事を事実を以て指摘した。
麦を常食とする人の目は麦粒の形をしており、米を常食とする人の目は米粒の形に
切れていると言って、その典型的な写真をその著書に掲げた事がある。

藷(いも)類を多食すると、手足が大きく伸びるのは藷そのものが
手足を伸ばして伸びて行くものだからだろうか。

藷は横にのびるものであるから、それを多食する者は正坐が下手であって
ごろごろと転がるものが好きである。

米を常食とする者は一株の苗から無数の株が増殖するように殖えるのである。

日本の国民は米に似てその発達増殖限りなしである。

「実るほど頭のさがる稲穂かな」。

・・・

「寂(さ)び」を知る日

           *「光明道中記」(3月16日)より

【教育とは本人の内に宿る天分を引き出すことである。(『生命の實相』第七巻)】

日本人は鯛を目出たいと言うが、西洋人は鯛を不潔な魚であり
掃除夫(スカベンジャー)だと言って食べない。

鯛は死骸でも腐肉でも何でも海中の不浄物を食して、
海中を掃除する役目をすると信じられているからである。

西洋人は日本人が生臭いとして上品な食物でないとしている鰊(にしん)、鰯(いわし)、
鮭などのようなものを賞美する。類は類を招き合う、
西洋人は一言にして言えば生臭い人種である。
第一体臭が非常に強い。

その文化も生まであって、悪どくて、「寂び」の味いがない。
「寂び」の味わいを知る者は日本民族のみである。
吾々は世界一の執着なき国民である。

味いも淡々たる物が好まれるがために、鯛の如き濃厚ならざる食物が賞美せられる。
日本人を侵略民族のように思うのは日本人を知らざる者である。

類は類を招(よ)び「人はその食物に似る」
執濃(しつこ)い食物を好む民族のみが執着強く、欲深き者である。

日本人にして牛肉を多食し、魚族でも油濃きもの
 ―― 鯖(さば)、鰯(いわし)、鯵(あじ)の如き背の青き魚、
鮪(まぐろ)、鮭(さけ)、鱒(ます)の如き赤身の魚を多食する時は、
それが日本人の淡々たる性格に適せざるが故に、

その成分の一部が巧みに体外に排泄せらざる時には、
皮膚に雀斑(そばかす)、頬焼けなどとなってあらわれる。

生れつき雀斑多き者は概ねその父母が此種の食物の愛好者である。

・・・

人(ひと)相応(そうおう)を知る日

           *「光明道中記」(3月17日)より

【教育とは引き出すこと。(『生命の實相』第七巻)】


「人はその食に似る」と言えば如何にも唯物論的に考えられる。
人間が食べるところの「物」に似ると云うのであれば「物」が主となり、
人間が従になって了う。

併し更に深く考えて見ると、
「物」は本来自性(じしょう)なく、「物、物に非ず」である。

それが或る一定の形状、色彩、性質を有すると云うことは、
それはその「物」の内部に、その形状、色彩、性質に対応するところの
心の波が存在していることを現わしているのである。

例えば吾々が顔を赧(あか)くするならば、
顔は物質であって、自性なく、自分の力で赧(あか)くはならない、
何か赧(あか)くなるところの心の波が内部に起るときに顔が赧(あか)くなるのである。

それと同じく或る植物が或る一定の形状をしていると云うことは、
その植物の内部に動いている心の波が、
そう云う形をもって象徴(しるし)となし得るような相(すがた)で
波打っているのである。

草花の美しさは十七八歳の少女の羞じらう感じを与える
 ―― そしてその草花は生殖のために蝶(ちょう)を招んでいるではないか。
やっぱり、形は心の影だ。

そうすれば吾々は形が善き性質を表現する食物を食べるべきである。

人間自身に内在する諸種の潜在的性質のうちから、
その食物に内在する心の波が「共鳴」の原理によって、
その同種のものだけを表面に引出すからである。

・・・

環境も大切である。環境を選ぶ日

           *「光明道中記」(3月18日)より

【欠点と自分と四つに組んでは欠点は直らぬ。(『生命の實相』第九巻)】


吾々の内部には全てのものを包蔵しているが、受動状態にある限りに於て、
外部から触発されたものだけが、内部から外部へと発現してくるのである。
即ち彼に触れることによって引き出されたものだけが引き出される。

吾々に赤い色の波動が触れれば、吾々の内部から赤の波動が引き出されて、
初めて其処に「赤」の感覚を生ずるのである。

この意味に於て、吾々に触れる物は環境にせよ、愛情にせよ、食物にせよ、
いずれも善きもののみを触れるようにしなければならない。

孟母三遷の故事もこの意味に於て価値があるのである。

「生長の家」学生道場は日本精神を養う学生の道場であったが、
今は都合で閉鎖されたが、近いうちに新築したいと思っている。

高級下宿だ位に思って来た青年もあったにも拘(かかわ)らず、
その道場へ入所しただけで、道場長や集まっている学生たちが、
概ね模範的な光明思想の持ち主であると云う環境の感化だけで、

其処に入寮した青年で、今迄人生が不愉快で遊んでも遊んでも無意義で退屈で
仕方がなかった学生が、人生が楽しくなり、酒を飲むことにも遊ぶことにも
興味を感じなくなり、よく勉強出来るようになった例がある。

同じように東都へ遊学して住まう環境の如何で勉強の能率が全く異なるのはこれで判る。

・・・

人格完成の日

           *「光明道中記」(3月19日)より

【教育の目的は完全なる人格の養成にある。(『生命の實相』第十三巻)】

実際、肉食を多くする人間は、それが数代に亙(わた)って続くときは
人間の骨格、歯の形状さえも肉食獣に似て来るのは事実である。

近頃の若い人たちは外側の門歯4本が犬歯のように尖っている人が可成り多い。
下顎が発達して横に広がり、下顎の蝶番(ちょうつがい)の支点から力点までの
距離が短く、
強靭なる肉を前歯で噛むのに力の節約が出来る設計になる。

その結果、平安朝や元禄時代の面長の瓜実顔(うりざねがお)の上品にも優美な顔は
少なくなって顎が横広がりである円顔が多くなる。

所謂近代的美人が円顔であるのは、人間の形態が、その食物の結果、
羊や馬のような草食的従順形態から、ライオンや虎や猫のような
肉食的攻撃形態に移ったことを示している。

その肉食動物は表面媚び優しく装(よそお)いて、
(猫やライオンや虎などの外装の毛皮の如何に優美なるかを見よ)
油断を見て跳(と)びかかって相手の死命を制するのである。

正々堂々と働かずに、猫撫で声の如き外交をもって
人の膝に登りつき他の寵(ちょう)を得る。

牛馬の如き草食的従順形態は、外面を飾らず、猫撫で声も出さず、
その装いも美しく飾らず、
ただ営々と努力を持って世のために自己を献(ささ)げて働くのである。

・・・

根気の良くなる日

           *「光明道中記」(3月20日)より

【陰陽結ばれた所に生かす力が湧いて来る。(『生命の實相』第六巻)】

植物食の中でも色々の食物がある。
その食物の中に内在する「心的存在(こころのなみ)」は
その植物の性質(こころ)だけの
相異である。

速やかに成長して速やかに腐敗し枯死するような植物には、その通りの心がある。
そいう「心」を含んでいる食物を食すれば、吾々の神の子としての自覚が
積極的に相手を支配しない限り、自分が受動的である限り、
速やかに伸びて持続性のない性質が引き出される。

(悟って超越すれば別である)

類似のものが類似のものを引き出すのである。

昆布、大根、蒟蒻(こんにゃく)、蓮根(れんこん)などの「コン」の名の附く食物は
「根気」をよくし、持続性を強める。
これは言葉の類似による「類は類を呼ぶ」心の法則の応用である。

牛蒡(ごぼう)などは一以て貫く精神のあらわれとして、
食すれば終始一貫持続性を強める。

伸びるばかりで自分ひとりで立つことの出来ない瓜類、蔓藷(つるいも)類などは
引締る力のないものとして、引締る力のある塩気を強く鹹(しおから)くして
食すべきである。

塩気は物を引締るから肉類などを鹹(しおから)くすると硬くなりすぎる。
万物は陰陽で保つ。求心力と遠心力である。

塩気は求心力、霊の力であり、
水気は遠心力 ―― ぶよぶよと膨れて外にひろがる力である。
家庭にも食物にも調和が必要である。
(以上、石塚食養法の理論)



[614] 下旬
伝統 - 2015年04月16日 (木) 04時56分

実相展(ひら)いて現象整う日

           *「光明道中記」(3月21日)より

【心が交わらないなら、肉体が交じり合って何の夫婦のまじわりでありましょうぞ。
                        (『生命の實相』第二十巻)】

肉は焼けば縮まる、求心性の強いものであるからである。
餅は焼けば膨れる、遠心性のあるものだからである。

更に砂糖の乾餅(かきもち)は焼けば随分と大きく伸びる。
遠心性のものに遠心性のものを重複追加したからである。

肉は塩漬けにして焼けば益々縮まって硬く不味(まず)くなる。
求心性のものに求心性のものを重複追加したからである。

肉は淡(うす)く塩気を与え、砂糖を加えて甘味多くして食すれば美味である。
求心性のものと遠心性のものと陰と陽との調和である。

太陽は光を放ち、地球は光を吸収する。
遠心性と求心性との調和である。
其の調和の中から万物が生まれるのである。

肉食を主にしている西洋人が砂糖を多食するのは余りに害はない。
それは求心性の肉と遠心性の砂糖が調和するからである。

焼けばふくれる遠心性を其の内部力として包蔵する米を常食としながら、
徒(いたずら)に西洋の食習慣を輸入して、同じく遠心性の砂糖を過食する
ところに弊害があるのである。

遠心性を其の内部力として包蔵する食物を偏して食せば、
遠心性を中に空(うつ)ろにするが故に、内部が空ろになる筈である――

それは大阪医大の片瀬淡教授が実験せる砂糖過食の酸性血液症が
骨の成分が溶解して骨が軽石状になった実験に相照応する。

・・・

注意ぶかき日

           *「光明道中記」(3月22日)より

【殺す者は死に、生かす者は生きる。(『生命の實相』第六巻)】

赤ん坊が泣いた時に時計を見る習慣は好いことである。
それが実際空腹で泣くのか、他の原因で泣くのか
区別する一つの適切な標準となるからである。

授乳後1時間半以内で泣くときには、それは空腹ではない。
用便を催(もよう)して来たか、既に用便して股間が不快なと云うことを
知らせているかしているのである。

寝小便の習慣は、嬰児の最初の用便の訴えを聞き流して、
襁褓(おむつ)の湿った感覚を不便と感じない程慣れさせて了ったところに起因する。
その子供は、小便は寝床で用達するべきものと考えているのである。

だから食事時間でないのに赤ん坊が泣くときは襁褓(おむつ)取換を請求していると
思い、襁褓(おむつ)を取替えてやるべきである。

若し其の時襁褓(おむつ)が濡れていなかったら、3分間下半身を空気浴するつもりで
赤ん坊を便所で支えて「シー」の言霊(コトバ)の力で排尿を誘導して見るべきである。
巧みに習慣をつければ生まれてから数回のほか襁褓(おむつ)を濡らさずに済ませる事
も出来る。

赤ん坊は生後数日間は殆ど小便しない。
2週間後から3ヵ月迄は毎日約14回、6ヵ月迄は16回である。

股間が乾いている事が当り前で、濡れているのが異常だと判り、
採尿は便所であるのは正しいので、寝床でするのが間違だと知れば、夜尿は無くなる。

・・・

人に深切をする日

           *「光明道中記」(3月23日)より

【世話をする人も世話される人も皆一つの神から出ている。(『生命の實相』第八巻)】

赤ん坊はまず口の触覚から発達し、同時に用便の感覚が発達する。
これがなければ生存できないからである。

手の存在を自分自身感覚するのはそれからずっと後らしいが明瞭には判らない。
赤ん坊は手を何に使うものであるかを最初は自覚しないのである。
偶々(たまたま)指が口に触れたとき、口は触れるものを吸う本能が発達しているので、
自分自身の指を吸う。その時にはじめて口に触れた自分の手を感覚する。

その時の筋肉感覚の記憶によって、そう云う筋肉感覚を起したときに、
吸うものが口に触れると云うことを、もう一遍やって見ようとして手を動かす、
すると又、何物かが(指)口に触れて吸い得る。

それは喜びには違いないが、指そのものの目的は口によって吸われる為にあるのではない。
それは明らかに目的に背反している。

自分の肉体を玩弄(がんろう)する習慣と云うものは外界に積極的に伸びる人間の
生命力を、内部方向に退嬰(たいえい)せしめる傾向があるもので、
肉体玩弄の習慣を養うときは子供は神経質に育つものである。

決して赤ん坊が口に指を入れるのを許してはならない。
指を口に入れようとする時、指を引いて妨げられることが重なれば、
この方向へは手が行かないものだと思って、手を口の方向へ動かさなくなる。

・・・

小事大切の日

           *「光明道中記」(3月24日)より

【目前の小事をゆるがせにしてはならぬ。(『生命の實相』第十一巻)】

類は類を招(よ)ぶ心の法則からして、
子供部屋には円満な形のものばかりを置くようにしなければならない。

手の運動をただ口へ運ぶだけにのみ発達せしめるのは愚かなことである。
手を動かし足を動かしているうちに自分のみならず、自分に繋(つば)がって
他物が動くと云うことを教えるのは、幼児に対する最初の「自他一体」の教育である。

着衣は出来るだけ運動し易いものを選んで自由に運動し得るようにする事が肝腎である。
自分で物を撮(つま)むことの出来ない頃は、幼児自身の手にゴム風船のようなものを
縛り付けてやって、自分の手の運動につれて他物が動く喜びを味わすのである。

風船の色などは赤とか青とか紫とか黄色とか別々のを併列せしめて、
その色々を各別に指(ゆびさ)して色の名称をハッキリと述べて動かす。
言(ことば)は力であるから、各別の色彩に対して別々に名称を与えられることに
よって、今迄赤、青、紫、黄と雑然としていたものが、各々別々の存在として
印象せしめられる。

この事は色彩の感覚の訓練になり、同時にそれは幼児の心全体の生長に役立つ。

赤ん坊は大きな音を聞かすか周囲の人が恐怖を教え込まない限りは恐怖しない。

・・・

断じて心を動揺させぬ日

           *「光明道中記」(3月25日)より

【人が如何なる罪を犯そうとも、わが怒ることはそれにも優(まさ)る悪徳である。
                         (『生命の實相』第四巻)】

驚風(きょうふう)などと言って赤ん坊が夜間突然目を覚まして泣く習慣が
始まったりするのは、屹度親の心の中に驚風が捲(ま)き起っているのである。
親子は一体であるから、親が先ず心の平和を取り戻すことが必要である。

赤ん坊を愛することは必要であるが、赤ん坊自身に対し、彼が家族の中で
特別に重要な存在であって、どんな我儘を言っても肯(き)かれるものであるとの
感じを与えては可(い)けない。

規律が赤ん坊の周囲で厳重に行なわれており、どんなに嘆いても、駄々を捏(こ)ねても、
時間が来なければお乳を貰うことも出来ないし、利己的動機からは規律は決して打ち破る
ことが出来ないことを生活の中でそれとなく自覚せしむるようにしなければならぬ。

併し、愛は深くなければならぬ。
親を冷淡だと思わせてはならない。
愛されてはいるが、すべての人間は平等に愛せられねばならないことを
赤ん坊の時から知らせて置くことは必要である。

大抵の家庭では赤ん坊のときには、彼のみが特別に愛されているような事実を経験
せしめられながら、次第に長ずるに従って其の「特別な寵愛」が一般的な区別ないものに
低下してくるので、それを愛の冷却と取間違えて親を恨むようになるのである。

・・・

感謝生活の日

           *「光明道中記」(3月26日)より

【憤怒、憎悪、恐怖、罵詈(ばり)―― 其の他すべての悪徳は自分を傷つける。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

赤ん坊がお乳を吐いてもそれは必ずしも病気ではない。

それは赤ん坊の胃袋は真直であって食道から縦に立った御酒徳利(おみきどくり)の
ような形になっていて、胃袋の上を圧(おさ)えたり、身体の位置が悪かったり、
少しく動揺を与えたら溢れ出易くなっているからである。

これは吐乳(とにゅう)と言うよりも溢乳(いつにゅう)と言うべきで病気ではない。
溢乳は大抵まだ飲んだ乳が固まっていないが、本当の吐乳は概(おおむ)ね飲んだ乳が
豆乳状に凝固して出る。吐乳しても、発熱や、便の異状がなければ病気ではない。

併し凝固した吐乳があったら信頼出来る医者に診(み)て貰うが好い。
前日良便があったと云っても次に出る便が不消化で腐敗しているかも知れない。
浣腸をして宿便の良否を調べて貰うが好い。

同時に心の持ち方を正しくしなければならない。
お乳は天の恵(めぐみ)であるのに、それを吐き出すのは天の恵をおろそかにした象徴が
あらわれているのである。

何か目上の人と争っていることはないか。
何か人の深切を衝(つ)き戻すようなことをしていることはないか。
夫婦争っているようなことはないか。

深く反省して見て、自分の「逆様(さかさま)に戻す」ような心と生活を
如実に改めなければならぬ。

両親の感情が激動した直後、
子供が疫痢(えきり)や麻疹(はしか)に突然罹(かか)るような実例が度々ある。

・・・

生長の喜びの日

           *「光明道中記」(3月27日)より

【与える時はただ与える喜びの為に与えよ。自分は与える程生長する。
                          (『生命の實相』第四巻)】

赤ん坊を叱るのは無意味なことである。
「これをしては可(い)けません」と云う命令が赤ん坊に理解されるのは
生後9ヵ月頃からだと云うことを調べた人が言っている。

親たちが叱るつもりで大きな声を出せば赤ん坊は唯恐怖するだけのことである。
此の世に悪意を抱いている或る敵対者があると云う不快な恐怖的印象は、
幼年時の心の傷としてその児童の潜在意識に残り、その児童を大人になってから
後までも、臆病な身に仕上げるのである。

生後1年までの赤ん坊がしてはならないことを若しするならば、
ただ静かに、そう云う行動の出来ぬように、そう云う行動をすれば、
味わいが苦(にが)いとか、その方向へ手をやろうとすると屹度何物かが来て
その手を止めるとか、何か自動的に作用する法則があることを知らせるのが好い。

叱る代わりに優れたる宗教的音楽を聴かせることは
赤ん坊の情操教育に大変必要なことである。
これには蓄音機を利用するが好い。

また良き書物を読んで聞かせることは、その書物の言葉が、たとい赤ん坊にとって
理解し得ないものであるにしても、内容に伴う読む人の音律や、
その音律に伴う感情やは、結局以心伝心赤ん坊に伝わって、
赤ん坊の感情生活を生かすのである。

・・・

無我従順の日

           *「光明道中記」(3月28日)より

【その日その日が宗教生活である。自己を生かす事が宗教生活である。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

生後1ヵ年になると離乳して、柔らかいお粥から徐々に固いお粥に移らせても好いが、
7ヵ月頃から少量の固形食で慣らせたる子供ならば大人と同じ食物を与えても好い。

子供に偏食する習慣を養成してはならぬ。
子供の偏食は実は親自身の偏食の反映であるから、親が子供の前であの食物を残し、
此の食物を残しながら、子供にばかり偏食をしてはならぬ強いても無効である。

親が食物を残すまいと思うならば、残る程の分量を食膳に出さないことが適当である。

「これはお好き、お嫌い? 嫌ならこれにしましょう」などと言っている母が、
世の中には沢山あるが、これは親自身が子供を偏食に誘導しているようなものである。

子供は模倣するものであるから、食物は先ず親が口に入れて如何にも美味しい有様を
示し、「サア坊やもお喫(あが)り! 迚(とて)も美味しいわ」と云うように
誘導するのである。

食膳に手を洗う習慣をつけるのは好いが、ただ無邪気に何の意味もなく洗わせるのが好い。
黴菌の話をしたり、手を洗わなかったら此の世の中には眼に見えない恐るべき敵が
充満していて、それが直に吾々を襲って来ると云うような恐怖心にまで子供の心を
駆り立ててはならない。

・・・

自己を自覚する日

           *「光明道中記」(3月29日)より

【今幸福でない者は笑いの分量が足りなくないか顧みよ。(『生命の實相』第八巻)】

子供が食物に好き嫌いを示すのは、時には親の心があまりに事物や人間に対して
好き嫌いな偏り心を有(も)っているときにそうなることがある。

親自身が自己の愛憎好悪の偏り心を捨てねばならぬ。
子供を責めてはならぬ。
みずからがみずからを知るように誘導しなければならぬ。

食物は好悪によってたべるのではなく、飢えを充たすために食べるのだと云うことを
知らせねばならぬ。食欲がなかったら、偏食であったりするのは病気以外のときは、
過食のために空腹でないからである。

御機嫌をとって欲しさに食物の好悪を言いはじめる。
好悪を示して食べなければサッサと食膳を片付けて、又次の食事時間に同じ食物を出すのである。
それを食べる迄同じ食物を出す。

我儘を言わせてはならぬ。
子供が規律を覚えるのは、最初は食習慣によるのであるから、お十時を与え、
お三時(やつ)を与えるにしても一定の時間以外には与えてはならぬ。

併し、完全に食欲不振で、元気がなく、空腹にになっても何も食べようとしない時には、
医者に診(み)せて病気の有無を検(しら)べて適当の処置をとる。

本当に病気かどうかは神想観を常にしている人なら胃腸部に掌(て)を当てて見れば
掌の蟻走感(ぎそうかん)で判る。

・・・

積極進展の日

           *「光明道中記」(3月30日)より

【幼き心に少しでも歪んだ姿を、不快な姿を印象させるな。(『生命の實相』第七巻)】

生後1年頃からは、食物は自分自身で食べるように練習させるが好い。

少しぐらい零(こぼ)すかも知れぬが、それを拾ってやってはならぬ。
零して自分で拾うことが運動感覚の訓練にもなり、
従って児童の精神全体の訓練にもなるのである。

またそれによって依頼心が放(な)げ棄てられ、
自分のことは自分ですると云う良習慣の形成にもなる。

食物を零したときに叱らないで、
零さない時と、上手に拾った時とに賞めてやるようにするが好い。
「零しては可(い)けません」と言ってもまだ運動機能が充分発達しないから零す方が
当り前なのである。

それを余り叱るようにすると、
「自分は劣等者だ」と云う劣等感を児童が有(も)つようになる。
劣等感をもつようになった児童は将来生活上に不利なハンディキャップを
担(にな)わされる。

どこへ往っても「私は駄目だ」と考え易い ―― それを成長後矯(た)め直すのは
不可能ではないが、可成(かなり)な努力を要するのである。

「しては可けません」と常に言っている家庭では行為に対する欲望を常に
抑圧せられるから、それが鬱結(うっけつ)して反抗児が養成される。
厳格な家庭で反抗児が出るのはそのためである。

では、子供が悪いことをしたら「XXさん、これして頂戴」と言って、
別の「して欲しい仕事」へ注意を転ずる。

・・・

平らかな心の日

           *「光明道中記」(3月31日)より

【人間は死なない。悲しんでいるのは遺族ばかりであって、
 死んだ人は却(かえ)って吾々よりも生々と生活している(『人間死んでも死なぬ』)】

潔癖の習慣は不潔の習慣よりも大人になってから強迫観念に附纏(つきまと)い、
一生涯を恐怖心の中に暮らさせることもあり勝である。
子供の前で親が恐れた態度を示してはならぬ。

偏食の子供、卵を食べれば必ず下痢を起したり、肉類か野菜かどちらかを嫌って食べない
子供、こんな子供をその家庭から引離して、林間学校とか、夏期キャンプ生活とかで、
児童ばかりの集団で、ほかに食する物のない共同食事の生活をすると治ることがある。
他の子供が美味しく食べて見せるからである。

「先生に返事を戴いたら屹度此の病人は治ると信じますから、一行でも、
御自筆の御返事を戴きたい」と云う意味の手紙を戴くが、そんな方には
『人間死んでも死なぬ』の本を読んで戴きたい。

生長の家が説いているのは肉体の永生(ながいき)の事ではない。
人から驚疑(きょうぎ)の目を以て見られながらも「肉体無し」と
大胆に説いているのが吾々である。

無い肉体に執するから寿命を縮める。
吾々の所説を素直に信じて、「肉体無し」と一躍超入
執着を放下(ほうげ)したとき病気が速やかに治る事実は《ある》。


               <感謝合掌 平成27年4月16日 頓首再拝>



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