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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[684] 聖泉湧き出ず(五月の光明道中記)
伝統 - 2015年06月02日 (火) 03時24分

《親切丁寧と云うこと》

どんなに『生命の實相』を読んでも、法話を聴いても、
それが日常生活の茶飯事にすら顕れるようにならなければ駄目である。

聴いただけで生活に顕れて来ない真理は、
名前を聞いただけで食べない料理と同じ事である。
それでは吾等の生命は餓えて了うしか仕方がない。

「深切丁寧」と云うことが道を行ずる上に第一のものである。
「深切丁寧」とは、凡てのものを深く愛し、切に礼する心である。
一枚の紙も、一粒の米も、深く愛し、切に礼することによって生きてくるのである。

不健康とは、深く愛し、切に礼する心の欠乏である。

物質を不親切に、無造作に、抛げやりに扱うと云うことを、
物質に執われない美徳のように思っている人があるかも知れぬが、
実はそれこそ、一切のものを観るに「物質」として観ているのであるから、
却って其の人は唯物論者であり物質観に捉えられているのである。

すべての事物を見るに、一塵のうちにも仏の国土あり、如来説法したまうと見るとき、
日常生活の茶飯事にも深切丁寧が滲潤する。

この意味に於て「行」が大切である。

・・・

(上旬)


《万物を礼拝する日》(5月1日)

【神を愛すると云うことは万物を敬虔に愛すると云うことである。
                        (生命の實相第十巻)】 

幼児は生後11ヶ月乃至誕生2ヶ月までの間におのずから立って歩く。
幼児体操と云うようなものを幼児の発育促進や健康法のためにやっている人もあるが、
やるのも好いが、やらなくても好い。

人間は人工の体操によって歩くようになるのではないことは、何に教えられなくとも
動物は脚(あし)で立ち、歩み、鳥類は飛翔することが明らかである。
人間が歩行するのは赤ん坊が乳房を吸い鳥類が飛翔すると同じに自然の本能である。

幼児の歩行運動が生得的な本能によるのであるが、
訓練によってなるか学者の定説がないと言って、
歩行準備体操などを課するのは愚かな蛇の知恵である。

近頃諸所で開かれる赤ん坊審査会で一等賞を得たような生長の家誌友の赤ん坊などは、
光明思想で家庭全体が明るいことのほかは自然に放任した結果であって
決して体操を課したのではない。

幼児体操そのものに私は反対するのではない。
筋肉は運動せしむるほど発達するからである。

併し幼児体操を幼児に課するような父母は大抵「神」又は「自然」に対する信頼の念が
なく、其(その)人には「人工」の外(ほか)には頼るものがないから、
何か落度はないかと常に心配しすぎて、神経過敏に幼児に心配の念を送り過ぎ勝ちである。

親が心配し過ぎると子供は虚弱になる。

・・・

《自己の内部の力を信ずる日》(5月2日)

【神を信ぜよ。生命を信ぜよ。自分のうちに宿る生命が神であることを信ぜよ。
                          (生命の實相第十巻)】

体操より肝腎なのは、自然の努力で運動を起そうと衝動が
内部から起り得るように誘導することである。

半身不随の大人が生長の家で治った実例のなかには他に頼らないで、
自分に要(い)るものは、歩行が不自由でも何でも、自分の力で持ってくると云うように
決心し、且つ環境からそうしなければならぬように仕向けられた結果である場合が多い。 

児童の歩行や運動の練習なども、肉体的体操などよりも這(は)い出さずには
いられなくなるような、歩かねばならなくなるような目的物を前方に置いたり、
賞(ほ)め言葉で激励する方が一番好い。

幼児が起ち上って歩行するのは一つの新しき冒険であり、
その冒険の完成は大いに言葉を以て喝采せらるべきである。

それによって児童は何事を新に実行するにも世評の喝采を得るもので
あることを知り、大人になってからの自信を増すのである。

幼児を揶揄(からか)っては可けない。

最初に試みた動作が不慣れなために、大人から見て多少滑稽(こっけい)に見えようとも、
それを軽蔑するような、滑稽視するような語調で笑うならば、
世間は自分の動作を常に嘲笑するものだと云う観念を植附けられて
引込思案(ひっこみじあん)の人間が養成される。

・・・

《縁者の霊を供養する日》(5月3日)

【亡者の霊魂が感憑(かんぴょう)するとその念波の影響を受けて股関節の先天的脱臼、
 小児麻痺的現象・・・等々を起す。
            (『生命の實相』第十四巻、『人生を支配する先祖供養』)】

生後1年2ヶ月乃至15ヶ月を経ても歩行し始めない幼児は、
小児麻痺か何かの神経的疾患であるかも知れぬ。
小児麻痺の後遺症の手足の不随は、現在の医学では治癒の道がないのである。

併し、生長の家では無数に治癒した実例がある。

それは祖先に対して聖経『甘露の法雨』を毎日一定の時間に
「××家先祖代々親族縁族一切之霊」と数回思念を籠(こ)めて唱えて招霊(よびだ)し
「この聖経『甘露の法雨』により霊界に於て本来神子仏子なる実相を成(じょう)じ
たまえ」と恰(あたか)も生ける人に言うが如く唱えてから『甘露の法雨』を
誦するのである。

1回で効果を現した実例もあるが、数ヶ月を要した実例もある。
それは浮かんでいない縁者の霊魂の悟を開く遅速によるのであって、予(あらかじ)め
その治癒の期限を予告することは出来ない。

生まれつきの聾唖(ろうあ)にして聖経読誦6ヶ月にして耳聴えはじめ、
物言い始めし例もある。

神想観を修して、観中、歩行不能ならざる、既に歩行自在なる実相人間の念像を描いて
精神統一するとき、18年間の歩行不能者が歩行し得るようになったとは
藤岡秀信氏の体験談である。

・・・

《争いを捨てる日》(5月4日)

【喘息はイキが激しく擦れ合う病気にて、スレ合う心、争う心、呪う心の象徴である。
                          (『生命の實相』第九巻)】

子供は親を模倣するものである。
その模倣は親の表面の生活の模倣と、親の内面の感情と両方がある。

親が愉快に喋らない習慣の家庭に育った子供は、憂鬱で陰気臭くて明朗さがない。
両親が感情(いき)の奥で衝突した生活を送っている家庭の子供は、時として蓄膿症で
あり、アデノイドがあり、或は20歳までに肺結核で斃(たお)れる傾向がある。

それは子供の模倣性だと考えられないこともない。
それは両親の「感情(いき)の奥」の葛藤を、
呼吸(いき)の奥であるところの鼻の奥や肺臓の奥に具象化する。

この意味に於て子供の肉体は親の念の具象化の舞台である。

親の悲しみの念が反映して子供が寝小便することもある。

子供が口を開いて眠っている時には
両親はこれによって呼吸(いき)の奥に故障があることを発見し、
これによって自分たち夫婦の精神の奥に葛藤があることを反省し、
それを是正すべきである。

両親が感情上の葛藤を経験しながら、その子供が呼吸器を患っているから治して欲しいと
訴えても、感情上の葛藤そのものが、呼吸器病の内面的本質であるから治る筈がない。

・・・

《謙遜を以て貫く日》(5月5日)

【強がりは本当は弱いのである。上手がりは本当は下手なのである。
                        (『生命の實相』第十二巻)】

子供の不従順の原因は父母の命令の不一致から来ることもある。

母親が「斯うせよ」と言う場合、父親が「そんなことをしなくて可い」と言えば
子供は去就に迷って了い、結局権力者の方へ附いてしまって、
母親を馬鹿にするようになって了う。

子供の前ではどちらでも一方の親が命令した言葉に、
こう一方の親が賛成するようにして命令が二途(と)に出てはならぬ。

仲の悪い夫婦の中に出来た子供は、
両親の一人ずつがその子供に、父や母相互の不平を訴えることがある。
そんな場合、子供は親の権威を無視するようになって不従順になる。

「そんなことをしたらお父ちゃんに言附けますよ」と言う母親があるが、
こんな母親は自分には何の権威もないと云うことを表現しているに過ぎない。
従って子供は母親を馬鹿にして言うことを肯(き)かなくなる。

また一旦命令を出して置きながら、それに従わないでも、ただブツブツ
口叱言(くちこごと)を言っているだけでは、母の命令は「馬の耳に念仏」と同じようで、
子供に何の権威もないものとなる。

滅多に叱言は言わぬか、一旦命じたことは断乎として従わせる習慣をつけねばならぬ。

・・・

《拝んで人の苦難を看(み)のがす日》(5月6日)

【突き当たったら目が覚める。突き当たらすのも慈悲の道だ。
                        (『生命の實相』第十二巻)】

「一度だけは我慢してあげましょう」こう言って自分で自分の命令を撤回してしまう癖を
つければ、命令は徹底しなくなる。一度が大切であって、一度許せば今後許さない時には
却って逆恨みをするようになるものである。

「あれほど言ってもまだ言うことを肯(き)かぬのですか、お前のような強情なものは
ない」と言うならば、その子供は親の言った通り強情になって了うだろう。

まだその上、「お前の強情にほとほと困って了う」と言えば、
親の無能の表白ともなり、強情の勝利ともなる。

「この前も、お前はこうだった、あの時もお前はこうだった」と、旧悪までも曝(さら)け
出して叱るのは、本人に「悪」を印象せしめるか、幾つも挙げているうちには「あの時には
私の方に理由がある」と思えることもあり、却って、親や教師の方が無理を言っている
ような感じを与えて、子供を益々反抗させる虞(おそれ)がある。

子供の能力で出来ない事を命ずるな。
そんな命令は実行が出来ないから、子供を不従順にするようなものである。

・・・

《人の特長を拝む日》(5月7日)

【他を自分の型に嵌めようと思う者は躓く。(『生命の實相』第十一巻)】

親の精神状態にそれほどの葛藤(いらいら)も争いも憎みもないのに
子供が不従順な場合は学校に原因があることがある。
学校と連絡し、学校の先生と親しく和解しなければならない。

学校で教師にいじめられたり、仲間にいじめられたりする子供は
家に帰って親に対して不従順になり勝ちである。

子供の生活のうち、最も伸びねばならぬ学校生活の半日が ―― 否(いな)、
その子供にとっては半日ならぬ殆ど全日に感じられる期間、彼はいじめられたり、
不快な眼に逢って来たので、それに対する反抗を表現したいが、
それを学校では表現することが出来ないから、その反抗を家庭で表現しているのである。

それに対して、家庭の親が暴君的に圧迫を加えるならば
子供は内心の犯行を表出する捌け場所を失って、病気になるか、
不快な事を見まいと云う精神力の反映から近視になるか、

それを聞くまいとして中耳炎を起すか、
頑固に鼻の奥にブツクサ言っていて素直に通さないところの蓄膿症を起すか、

親が子供の成績の良くなることを希望しているのに、逆に成績を良くしないことが
親に反する切(せ)めてもの反抗であると云うようなことになることがある。

愛撫して抱きし締めながら学校の模様を聞いてやること。

・・・

《愛して放つ日》(5月8日)

【執愛は捉われている愛である。「愛の愛たるは愛に非ず」とも言える。
                       (『生命の實相』第十一巻)】

子供を無理にあやまらせるものではない。
もう今後一切そんなことはしませんと誓わしてもならない。

大人自身あやまることの不快と、一度禁煙を誓っても幾度でも煙草(たばこ)が
廃(や)められない大人が沢山あることを考えれば
「誓う」と云うことが何にもならないと云うことが判るであろう。

一度誓ってそれを犯したら、それは「自分は誓を破(やぶ)った罪人だ」と云う自覚の念に
いつも付きまとわれた人間になり、自信力を失うか、毒を喰(くら)わば皿まで式に、
「どうせ汚(けが)れた身体(からだ)だからもっとやろう」と云うようになるかする。

また、守れるかどうか判らないことを誓わせるのは嘘つきを奨励しているのと
同じことになる。
あやまるのを好まぬ子供にあやませると、
今度は嘘をついてあやまる不快を免れるようとする。

子供に正直の美徳を教え込もうと思うならば親自身が子供の前で嘘をついてはならぬ。
子供の前で居留守を遣う親は沢山ある。
子供にだけ嘘をついてはならぬと言って自分が嘘を言う親は二重に嘘をついている
のである。

人間は本当のことを言いたいのが本性(ほんしょう)だから、
本当を言っても叱られないとなれば却って本当のことを言う。

・・・

《何事にもイライラせぬ日》(5月9日)

【他(ひと)を審判(さば)く者は、天に於いてまた自分も審判(さば)かれる。
                         (『生命の實相』第三巻)】


子供が不従順な場合は健康を害しているか、疲労しているために
何に対しても焦々(いらいら)してヒステリックになっている場合もある。

頭から叱り付けでも、子供の精神障害を一層大きくするばかりで、
百害あって一利なしである。
それどころか子供を叱っていると、親自身が焦々(いらいら)して来るから子供の心に
親のイライラを反映させて決して教育効果などのありようはないのである。

教育はイライラや叱責や気持の悪さで行なわれるものではない。
教育は「善」の権威を示すことによって行なわれるのである。

善の権威とは暴風の如く狂暴に暴(あば)れ狂う殺伐(さつばつ)さではない。
善の魅力、愛の魅力である。

獄中にいて検察官を手古摺(てこず)らせた左翼の闘士でさえも、
親の愛の前には転向せざるを得なかったと云う。

教育は鞭(むち)ではない。
愛である。その愛も、盲愛であったり熱愛であったりしてはならない。
智慧をもって急所急所を抑えて行かなければならない。

病気だとしていたわりすぎると、
病気を口実にして不従順や嬾惰(らんだ)の習慣が附くのである。
病気だと云う言葉を家庭の中で使ってはならない。

静かに抱(だ)くか愛撫するかして
「あなたは好い子なのです。屹度親の言うことを聴いてくれます」
と断定的に言いなさい。

愛は癒す。
言葉の力は癒すのである。

・・・

《三界唯心を悟る日》(5月10日)

【全ては自分の心の影であるから目のとどく限り神示とも言える。
                   (『生命の實相』第十一巻)】

子供は学用品を紛失して、親からひどく叱られるのを恐れて隠していることがある。
何でも子供は《もの》を隠しているときには、強情に陰気に塞ぎ込み勝ちのものである。

「父さん母さんは決して叱らないから、隠していることを心に持っていて、自分ひとりで
苦しまないで、母さんにそれを打明けて一緒に苦しいことは二人で分けましょうね」
こう言って愛撫して、愛を表現しながら、子供の心の悩みの表出に動機を与えてやる
ことが必要である。

幼いときから持ちつづけた感情の悩みが大人(おとな)になってからの
神経的疾患として発病することもある。

子供の怠惰、朝寝、不勉強は権力者に対する無言の抵抗であることがある。
大人でも権力によって拘束せられる場合には、無言の怠惰 ――
飢餓罷業(ハンガー・ストライキ)や怠業(サボタージュ)を行なうことは
誰でも知っている。

ガンジーのような高潔な人格者でも、
ハンガー・ストライキやサボタージュはやるのである。

子供の怠惰も必ずしも人格の低下の標識(しるし)ではない。
それは却って子供の自尊心の強さから、自尊心を傷つけられたことに対する
反抗の顕れであることもあるし、先生や、親や、友達が認めてくれない
絶望からの自暴自棄であることもある。


[688] (中旬)
伝統 - 2015年06月05日 (金) 20時22分

《魂の浄(きよ)まる日》(5月11日)

【病気は悪くなる行程ではない。浄化の行程である。(『生命の實相』第十一巻)】

子供が病気らしく見える場合や、疲労していると見える場合に、親自身が驚いたり、
周章狼狽した態(さま)を見せては可(い)けない。

親の心や態度は直(ただち)に子供に反映するものである。
それは生みの子だけに反映するのではなく、養子にでも養女にでも反映する。

子供が病気や疲労を現したら、親自身の心がイライラしていないか、
誰かと争いの心持を有(も)っていないか、心配事はないか ―― と、
よく親自身が自分の心を反省して自身の心を落着け争いを解くことである。

12歳以下の子供の病気や疲労は親自身の心の葛藤(いらいら)が反映しているのが
90%以上であろうし、16歳以下の子供の病気や疲労の50%位までは
親自身の心の葛藤(いらいら)の反映であると言っても好い。

17歳以上になると子供も大体人格の独立を得るから
親の精神状態に影響されることは段々少なくなると言い得る。

併し、どんな人でも自他一体 ―― 一つの生命の波の中に浸って生きているのであるから
他の人の精神波動の影響を受けないと云うことはあり得ない。

夫婦は大人(おとな)であるが互いにその精神波動を感応して互いの身に病気や事業の
失敗を起させる。況(いわん)や親子の間は大人になっても互に影響し合うものである。

・・・

《そのまま完全を悟る日》(5月12日)

【生長の家では万人のうちにただ神の子の存在を見る。(『生命の實相』第四巻)】

2番目の子供が生まれて間もなく幼い長男又は長女が食欲不振を起すことがあるならば、
それは親の愛が2番目の子供に移って、もう自分は顧みられないのだと云う失望と、

病気の状態を表したら再び自分を構ってくれるかも知れぬと云う希望と、或はまた乳児と
同じように母親のお乳を飲ましてくれるかも知れないと云う予期作用とで病気を起している
場合が多いのである。

親が驚いてその病気の子供にのみ掛かり切りになるならば、子供は得たり賢しとその病気を
継続することによって、自分にのみ親の愛を繋ぎ止めて置こうとするようになるものです。

フロイドは「子供というものは重病に罹(かか)ったふりどころか死んだ仮病さえ
あらわすことが出来る」と言って、26時間もたべず痙攣を起して瀕死の状態でいる
2歳の児童を抱き起こして「さあ立っていられるだろう、貴方は病気じゃないんだ」
と言うと、

突然その子供の痙攣が治って、子供は「お父さん」と叫びながら父親のところへ駆け寄って
15分も泣いていたが、忽(たちま)ちコーヒーとパンを食べたいと言い出した ――
と云う実例を掲げている。

親は何番目の子も全て一様に愛しているのだと云うことをよく会得させること。

・・・

《善一元を悟る日》(5月13日)

【すべて行為を善き動機から来るものとして言葉で賞(ほ)めよ。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

父と云うものは厳父であると同時に慈父でなければならない。
父を憎んでいる子供は、児童教育にたずさわって見るとかなり多数だと云うことが
発見される。
父と子との争闘は精神分析の方ではギリシャのソフォクレスの戯曲「エディポス王」の名を
藉(か)りてエディポス錯綜(コンプレックス)と命名した。

子供と云うものは本能的に母の乳房を吸った記憶から母を「自分のもの」として見ようと
云う傾向のあるものである。母との一体感はその記憶の上にも明らかであるけれども、
「父」より自分が出たところの記憶はない。

「父」と「自分」とが一体であることが自覚されているならば、
「父」が「母」の上に権力を揮(ふる)っても、それは「自分」と同体であるところの
「父」(自分の延長)が「母」の上に権力を揮うのだと云うことが判るから、
子供自身はそんなに憤激を感じないけれども、
そうでない場合はそんな子供は父を憎むようになり勝である。

父母が子供の前であまりに仲が悪い時にはその子供は結婚忌避症になり勝である。
子供の家庭の紊(みだ)れは此処に芽生える。

精神分析に就いての詳しい説明は拙著『人間性の解剖』及び『精神分析の話』を
読んで戴きたい。

・・・

《応変自在の日》(5月14日)

【人生百般の修行は随処作主(ずいしょさしゅ)の工夫にある。
 随処作主とはその時その場の主人公となることである。(『生命の實相』第十三巻)】

多勢の前で一人だけ賞(ほ)める事は、賞められない兄弟(又は人々)の嫉妬の的に
その人を置く事になる。賞められない多勢は希望を失って勉強しなくなり、親や教師に
対して反感を持つ。

若し平等に兄弟を扱わねばならぬ場合には、不平等のように見えても、
実は不平等ではないことを説明してやらねばならぬ。

即ち今生まれた乳児だけにお乳をやって、前の児(こ)にお乳をやらない場合には、

「あなたは赤ちゃんの時にはそうせられたのです。歯のない赤ちゃんはお乳を飲むほかに
生きることが出来ないのでお乳を飲ませるのです。特別に赤ちゃんばかりを可愛がる
のではありません。あなたには歯が生(は)えているから、お乳よりも塊(かたまり)の
食物の方が栄養になるのです。

赤ちゃんにはお乳を飲ませることが可愛がることになるし、あなたには塊の御飯を
たべさせることが可愛がることになるのです。神様はみんなに同じものを与えるもの
ではありません。梅の樹には梅の花を与え、桜の樹には桜の花を与えているでしょう」

こう云う話をして、みんなには夫々(それぞれ)の立場があり不平等の中に
平等に愛されていることを知らせねばならぬ。

・・・

《八方正面の日》(5月15日)

【善は、「ねばならぬ」に縛られた形の上から固定してはならぬ。
                      (『生命の實相』第九巻)】

また大きい方の子に与える物を、小さい方の子に買ってやれぬ事もある。

そんな時に小さい方の子に言ってきかせる言葉は
「兄さんは学校へ行くために要(い)るものを買ったのです。
あなたも亦学校へ行く時には、学校で要るものを買って貰えるのです」
斯う云うようにして、また不平等の中に愛の平等があることを知らせねばならない。

兄弟のうちの一方を賞(ほ)めてはならぬ。

「××さんのように温順(おとな)しくするんですよ」斯う云う言語は、言われた当人には
侮辱であり、自分への愛が××さんに移ったと思いちがえて非常に嫉妬と失望とを感じて、
「温順しくするどころか、もっと暴れてやれ」と云うような気持を起し易いものである。

兄弟への寵愛を互に比較するような動機を児童に与えてはならない。
愛が失われるかも知れないと云う恐怖は、子供を従順に導くかわりに乱暴に導く。

潜在意識を解決せずにいながら兄弟喧嘩を解決しようとする時は概ね心配を招く。
それは水仙の球根を処置しないで花だけを摘んで水仙を絶滅しようとするようなもの
である。

・・・

《父を憶(おも)う日》(5月16日)

【贅沢を羨むな。今日一日生かされてある事実に感謝せよ。(『生命の實相』第十一巻)】

子供が親の物を盗むのは「盗み」と云うことが分からないで
自他一体の気持ちでする場合と、親を愛している証拠でする場合がある。

後者は《親のもの》即ち ―― 「親」《そのもの》を自分に抱いていたいのである。
それは必要に迫られて、欲しいと言っても得られない場合に止むを得ずする場合もあるし、
親を憎んで親に対する反抗心で親の大切なものを盗む場合もあるが、

反抗心も結局は愛の裏返しになったのある。

その子供は親を愛しているのだと知って、その子供を憎まないことが肝要である」
「金」は大抵親が儲けてくるものであるから、子供にとっては「金」は父親の象徴
(しるし)として存在するのである。

その「金」を隠れて浪費する子供は、父親を浪費したい ―― そんな父親はなくなれば
好いと思っているのである。そんな子供は大抵あまりに厳格な父親の下に育っているので、
父親と云う束縛者がなければ好いと思っているのである。

兄弟がある場合に、兄弟のものを盗むのは、兄弟の一方が自分より愛されていると
想像される場合、その「愛」の象徴を盗みとろうとするのであって、
それは本当の盗みではない。

愛されたいと云うに過ぎない。愛を与えれば、そんな盗みは消えて了うのである。

・・・

《何物にも恐れぬ日》(5月17日)

【対人恐怖症は自分の欠点を看透(みす)かされるのを恐れ、
 また自分を価値以上に見られたい念から起る。(『生命の實相』第九巻)】

幼児は、心理学者の調べたところによれば、
倚(よ)りどころを急に外(はず)した時とのほかには恐怖を感じない。

人間恐怖は父親が大声で怒鳴り附けることに端を発する。

暗黒の恐怖は、暗黒の中へ出たとき、「そら恐ろしい! 」と大人たちが騒ぎ立てたり、
暗がりで便所に行くときに木枯(こがらし)が雨戸をガタガタ言わせたり、
暗闇(くらやみ)で雷鳴をきいた時などに端を発する。

人間恐怖や人見知りは突然急に大人の喧噪(けんそう)な世界へ
幼児を連れ出したのが原因で起ることがある。

子供の友達が親ばかりである場合には、その子供は他の人間を疑うようになり内気になる。
そして他の人間は自分に危害を与えるものだと考え勝になるもので、非社交的な人間が
出来上がって了う。

子供には是非とも子供のお友達が必要なのである。
近所に子供がなくて子供のお友達が得られない場合には幼稚園にあげることが必要である。

其処で子供は、人間には幾種類もの人間があって色々の感情や態度で生活しているもの
であり、譲歩しなければならぬ場合や、主張しなければならぬ場合のあることを
覚えるのである。

・・・

《欲を捨てる日》(5月18日)

【人間の悩みのもとは皆欲から来るのである。欲は迷から来るのである。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

あまりに幼児の美貌を賞めたり、
常にクラスの首席であると云うことを誇りにさせてはならない。

自分の顔に自信のないのも不幸であるが、容貌を鼻にかけている女性が、
次第にその容貌が衰えて来たのを見て、失望と落胆とで狂気(きちがい)になった
実例をフロイドは挙げている。

また小学、中学とずっと引続いて級中首席を占めて来た子供が高等学校の入学試験に失敗
して、突然の失望落胆から精神病になった実例は吾々屡々(しばしば)見聞する処である。
クラスの第一番と云うことは他を見下すための虚栄心の満足でしかないのである。

人間は容貌でも成績でも、自分だけが偉くて
他の人はみんな駄目なのだと云うような教え方をしてはならないのである。

「人間・神の子」の信条は、他の人も神の子であり、容貌での能力でも、何等かの点に
於て、他の人にも優れた天分美質があり、人間の天分は別々であり、自分にも他に劣らぬ
美質があることを知らせて、成績の悪い者にも必ず善い処があることを知らせて
置かねばならぬ。

容貌の美も年齢に応じて夫々(それぞれ)の美があること、
若さだけが美でないことを教育すべきである。

・・・

《欠点を見ぬ日》(5月19日)

【欠点を見つけるな、荒立てるな、静かに彼の為に祈れ。(『生命の實相』第十一巻)】

幼児の潜在意識に「希望は失われる」印象を残すような事は
凡ゆる場合に於いて可(い)けない。
「私には希望が失われる」と云う潜在意識が幼児に沁み込まされ、
為に一生不成功を招く人もある。

「そんな弄戯(いたずら)を止めないならお母さんは彼方(あちら)へ往って了いますよ」
と言って幼児を威脅(おど)してはならない。幼児の潜在意識には自分の大切な希望が
行衛不明(ゆくえふめい)になって了う恐怖心が植えられます。

幼児に何かをやらせるために大人が虚言(うそ)をついて幼児の信頼を裏切らせるような
ことをしてはならない。「これをしたら、これを買って上げますよ」などと言いながら、
幼児がそれを履行したのに、大人の方がその約束を履行しないなどはよくない。

「痛くないから一寸(ちょっと)口を開いて御覧」と言いながら、急に大袈裟な恐ろしい
道具を口の中へ突っ込んで口の中の治療をしたために、弾丸でも恐怖を感じないのに、
歯医者に通うことを考えるだけでも恐ろしくて、頭中が痛んで来る病気に罹(かか)った
男もある。

「熱いことありませんよ」と言いながら、多勢寄って圧えつけて灸(やいと)を据える人
などがあるが、子供はその大人の無法に対して終世恐怖心を抱くようになることがある。

・・・

《自由自在の日》(5月20日)

【義務と思えば重く、愛して行えば歓びが得られる。(『生命の實相』第四巻)】

幼児より爪を咬む習慣のある児童は、あまりに家庭で束縛され、
心が内面にばかり陰気に向いている証拠で、自涜(じとく<肉体の自己玩弄>)の
一種である。

心が明るく愉快に外面的に伸びて行く場合には肉体の自己玩弄(がんろう)は
起らないのである。
明るく愉快に、心が自己玩弄に向う時間がない程に肉体運動を奨励するが好い。
疲れて眠くなるまで無理に眠らせないが好い。

肉体の自己玩弄を看付けた場合には、余り激しく「罪悪」として叱り附けてはならない。
余り激しく叱り附けられると恐怖心の結果、「恐いものをやって見たい」の欲望で、
隠れて肉体を自己玩弄するようになり易い。

男女とも13歳位になったら素地(きじ)の粗(あら)っぽい布の猿又(さるまた)を
着用して眠らせるが好い。あまりに柔らかい布の下着は接触の快感を連想せしめて、
肉体の自己玩弄に導いて行くことがある。また蒲団は軽く硬いものが好い。

男子は柔剣道、駆歩(かけあし)などを盛んにやって妄想の余裕を与えぬこと。

少年に対しては、恋愛小説、放送番組のラブ・シーン、レビューのダンス、
卑猥なる週刊雑誌を避けねばならぬ。
これを見せれば梅干を見れば唾液が湧く程度に性欲を興奮せしめる。

高潔なる思想家、英雄豪傑の伝記などを読み、性欲を想像せしめる読物を廃するが好い。



[696] (下旬)
伝統 - 2015年06月11日 (木) 03時54分

《楽しく深切の出来る日》(5月21日)


【自制力は心のタガの様なものである。(『生命の實相』第四巻)】


人間は楽しい時には好い気持になり、人に深切がしたくなり、
善い事がしたくなるものだが、楽しくないとき不快なろきには、
善いことはしたくなくなり、自暴自棄になって悪いことがしたくなり、
自分をも他人をも動物をも器具をも乱暴に取扱いたくなるものである。

それにはどうしても両親が楽しくなければならぬ。
両親が子供の遊びの相手となってやらねばならぬ。
特に一人子の場合はそうである。

子供を一人一室に放って置けば、別に楽しむものがないから肉体の自己玩弄を始める。
「小人閑居すれば不善を為す」とはよく言ったものである。

子供が内気な場合に、お前は内気だからもっと明るくならなければならないと
小言を言ったら、その子は一層内気になって了(しま)うだろう。

そんなときには、「××は近頃大変明るく勇気が出て来た」と
言うときは次第に内気が直ってくるのである。

内気な子供とは反対に、乱暴な子供も結局は生活が楽しくないから、愛が欠けているから、
反動的にそうなる子供が多い。「お前乱暴を直しなさい」などと言わずに、
縛らずに信頼してやれば乱暴は止まるのである。

・・・

《真に幸福なる日》(5月22日)


【知らずに犯す残酷ほど残忍なものはない。(『生命の實相』第四巻)】


あまり親が愛してくれて、何でも自分の欲することを協(かな)えてくれるものだと
思い込ますようにすることは、子供の利己心を増長させるようなものである。

そんな子供は自己中心であって、周囲の事物一切は自分の快楽を満足させてくれる
ためにあるものだと考えるようになり勝ちである。

そんな子供が成長して社会へ出ると、周囲の人々はなかなか自分の快楽を
満足させてくれたりするものではない。
そこに期待の不充足に対する不平が起り、社会国家を呪うようになり易い。

人間は他が自分に調和してくれるまで、自分の方からは調和しないでいても好いと
考えるようになっては、決して世の中に容れられず出世しないものである。

人間は天地間に生まれて、自分の方から、その世界に適するように動き出して行く者が
勝利を得るのだと云うことを知らねばならない。
即ち適者生存の原理を知らなければならないのである。

適者と云うのは自分が全体の幸福のためにどれだけ献(ささ)げ得るかの程度に
随(したが)って定(さだ)まるのであり、全体のために幸福を献げ得る者のみが、
自分がまた幸福になり得るのだと云うことを教え込まねばならない。

・・・

《何でも成就する日》(5月23日)


【食事にうんと歓びのお菜(さい)を附けて食べよ。
どんな粗食でも最上の栄養食に変るのだ。 (『生命の實相』第八巻)】


楽しい時には良質の胃液が抱負に分泌され、
怒ったり悲しんだりしたときには胃液が殆ど分泌されないと云うことは、
パヴロフが犬の胃袋を切り開いてゴム管を通して実験した通りである。

子供を健康に育てるには彼を取り囲む環境を楽しいものとしなければならない。

楽しいと云うことは大人の考えるような柔らかな褥(しとね)や、
美味しい贅沢な食事のことではない。
自由を縛られない伸び伸びとした生活のことである。

親が小言を言いながら食べると、子供自身の消化吸収同化作用を妨げる。
子供は親の言う言葉を信じ易いものであるから、親の小言を云う食事は
排斥すべき食物であり栄養価地のない食物だと思い込んで了(しま)うからである。
排斥する心が起れば同化吸収作用が鈍るのは当然である。

親がどんな食物にも本当に感謝して、
これは為になる食物だと云う風にして食べるべきである。

食事の作法にあまり神経質に拘(こだ)わって叱る習慣をつけるのはよくない。
叱られて悲しみながら食べては、どんな食物でも栄養にならない。

・・・

《善き言葉のみの日》(5月24日)


【言葉の種子も石地(いしぢ)に蒔いた種子は生えないが、
肥沃地の心に蒔けば良く生える。  (『生命の實相』第六巻)】


言語の発達は知能の発達を意味している。

野蛮人は思想感情の種類も大雑把であるから、言語も少ない。
文化人になるほど思想感情にデリケートな種類が発達するから、
それを表現する言語の数も甚(はなは)だ多い。

言葉は柔らかく、そして明瞭でなればならない。
柔らか味を失った言葉は砂漠のようで、そんな言葉の横行する家庭では万物は育たない。
子供が育たないし、事業も育たない。

明瞭さを失った言葉は人間の知能を低下するものである。
幼児の片言(かたこと)が可愛らしいからと言って、大人の方から幼児の片言を真似て
行くようでは、大人が幼児まで退化して行くだけであって、幼児を進歩せしむる力はない。

「ワンワン」「ニャンニャン」などと言わずに、出来るだけ「犬」「猫」とハッキリ明瞭に
発言せしめ、子供らしい情調が要(い)るならば「犬はワンワンと鳴く」と幼児語と
大人語とを同時に教え込むが好い。

決して「犬」なる精確語を省略して「ワンワン」だけを教えてはならぬ。

幼児は言語発達の天才的能力を有(も)っているものであって、
同時に数ヶ国語を教授しても、頭脳に大した負担なしに覚えるものである。

・・・

《深く物を観る日》(5月25日)


【心の薬は、心は波なんですから、波と云うものは互いに交感するものです。
                      (『生命の實相』第二十巻)】


興味のあるときに教え込めば労苦なしに覚えると云うのが幼児教育の原則である。
幼児には色々のことを尋ねたがって仕方のない年齢があるものである。

大人は生活に忙しいので、いちいちそんな子供の質問に答えていられない場合がある。
そんな場合「蒼蝿(うるさ)い! そんあこと訊くもんじゃありませんよ」と
言ってその問を一蹴してしまってはならないのである。

幼児の質問に両親がそんな風に答えてしまうと、学校へ行っても何一つ訊く勇気のない
引込み思案の人間が養成され、社会に出ても思い切って自分の意志を発表する勇気のない
人間になって了うものである。

子供が質問するときにはその事物に興味を感じている時であるから、
親は知っている限りのことを教えてやるべきである。

一つ覚えれば、次の一つに向学心が向うものである。

親の知らぬことなら、「一緒に研究しましょう」と云う態度をとることであり、
世界にはどれだけでも知るべき楽しいことが充ち満ちていて、大人になってからでも
研究の尽きるものでないことを充分に子供に知らせてやるべきである。

・・・

《真行の日》(5月26日)


【ここに生きている生命は神の生命そのものである。
 大生命の生命(いのち)そのままである。
 み仏の生命がここに生きているのである。(『生命の實相』第二十巻)】


ある村の神社の境内を村の子供が荒らし廻って困ったことがあった。
しては悪いと言ってそれを叱り続ければ見ていない頃を見計らって
益々乱暴を働くのである。
こんな場合どうしたら好いか。

答は簡単である。「しては悪い」と言うことは相手を咎めたことであり、
相手を「悪い」と言ったことになるから「悪い」と批判された相手は益々憤慨して
此方(こちら)の好まない事を反抗的にしたくなるのが当然である。

相手を心で観れば相手は益々反抗する。

児童が大人にとって「悪い」と見えることをするのは、児童の本性が悪いためではない。

児童の立場からは興味があるからしているのだが、児童は周囲への影響が
どう云う風になるかと考える程には観察力が広くないから、
それが偶々(たまたま)大人にとって都合の悪いことになるに過ぎない。

児童は悪いのではなく大人にとって都合が悪いだけである。

それならば児童の行動を別の方向へ転ぜしめたらそれだけで好いのである。
児童は大人に信頼され、大人に頼まれることを喜ぶものである。

命令せずに「これを君してくれないか」と言って他にして欲しいことを頼むが好い。

・・・

《明るい物のみ引き寄せる日》(5月27日)


【じかに阿弥陀仏の懐に飛び込む教である。(『生命の實相』第二十巻)】


子供の友達は快活な明るい者を選ぶが好い。

暗い陰気な子供と交わらしていると、自分の子供も暗い陰気なものとなり易い。
従って健康も害(そこな)われ易いのである。
快活な明るい子供と遊ばせることにしただけでも、その子供が健康になった実例がある。

子供の読物は明るい、父母の愛や、友達にみちた物語、道徳的な、努力を楽しむ、
困難を物ともせず成功する立志伝又は武勇伝などが好い。
陰気な物語、お化(ばけ)の出て来る物語、正しき者が滅びる物語などは宜しくない。

子供は絶対に叱ってはならないと云うことはない。
過(あやま)って悪を犯したり、人の迷惑になることをしたときには、叱っても悪くない。

けれども「そんなことをする子は悪人です」などと、
本人そのものを悪人と宣言するような叱り方をしてはならない。

若しそんな叱り方をするならば、子供は自分を悪人だと思い込んで了い
善に遷(うつ)る動機と勇気を失ってしまう。

子供が過(あやま)ちを犯したら、

「あなたは善い子だのに、こんなことをする筈の子ではないのに、
悪いと気が附かなかったのね。
もう悪いと気が附いたら決して悪いことをする貴方ではありません」

と断言するが好い。

・・・

《信以(もっ)て貫く日》(5月28日)


【振替でもやはり同じ道理だ・・・信ずる人に取ってはこれは本当である。
                     (『生命の實相』第二十巻)】


子供の性癖を直し、成績をよくするには
眠りしなに『甘露の法雨』を誦(よ)みきかしながら眠らせるが好い。

『甘露の法雨』を誦(よ)み上げる前に、子供に『甘露の法雨』を聴きながら
眠ったら大変成績がよくなって、健康になり、性質もよくなって、××の性癖も直り、
自然に好い子になれるんですよ ―― と子供に言って聴かせ、

さて親も敬虔な態度で「聖経の功徳によって斯(か)くならしめ給え」と合掌して念じ、
「さあ眼を瞑(つむ)って眠(ねむ)んなさい。聖経を誦んであげましょう」と言って
『甘露の法雨』を読誦する。

読誦が終れば子供は屹度眠っているから、

「さあ、これでもう貴方は成績がよくなりました。××が上手になりました。
身体は一層達者になる、性質はよくなり、××はしなくなった」

と云う風に眠っている子供の耳に内緒話のような声で、
下腹に力を入れた声で、囁きかける。

―― この方法を行なえば子供は確かに健康になり、成績がよくなり、
性質が改まってくるものである。

1回で効かないなどと思って、中断してはならない。

言葉の力は累積すると力を発する。
『生命の實相』第七巻にある自己暗示法をやらせるのも好い。

・・・

《力みを捨てる日》(5月29日)


【「私が・・・私が」と力む事は、本当の自他一体の深切行になっていないのであります。
                         (『生命の實相』第二十巻)】


腕力ある乱暴な生来(うまれつき)の子供が学校などで乱暴するときには、
先生がそれを頭から圧迫的に抑え附けようとすると益々反抗的に乱暴になるばかりである。

それに対して停学とか放校処分とかに附すれば、
権威を呪い、社会を呪って子供の一生涯を無駄にして了うこともあり勝ちである。

そう云う性質をあながち「悪」と考えてしまうのは
学校の先生が寧(むし)ろ低能なのである。

そう云う学校の先生は先生としての天分がないのであるから、
宜(よろ)しく放校処分に附して、もっと適業に転ずる機会を与うべきである。

そう云う子供は大抵腕力による人を統率する天分を持っているものである。
謂わば幡随院長兵衛とか清水次郎長などのように豪胆と腕っぷしとで
人を統率する力があり、恩義に感じやすく、憎悪に反抗し易いのである。

だからそう云う生徒の美点を賞(ほ)め且つ働かせることにして、校庭の掃除とか、
遊戯のキャプテンとかにならせて、その豪胆と、腕力とによる統率力を利用して
その力によって学校が浄(きよ)まり整理が行き届いて行くように
取計(とりはか)らうのが一番好い。

・・・

《和顔愛語の日》(5月30日)


【人間は学科ばかりの点取虫になって了(しま)ったのでは値打がないのであります。
                         (『生命の實相』第二十巻)】


直ぐ吩咐(いいつけ)を実行しない子供は、その吩咐けられた言葉の内容が
呑み込めないか、吩咐けた人に対する反抗があるか、怠け癖で面倒臭いか何か
子供自身にとって手の離せない興味ある仕事があるかしているのである。

それを悉く、不従順だとか我儘(わがまま)だとか云う名で呼ぶのは間違である。

吩咐不明瞭なために実行しないのを、不従順だと誤解しないようにするためには、
「一寸此処へいらっしゃい」と柔(やさ)しく招(よ)んで、
ハッキリと吩咐を伝えるようにすることが必要である。

不従順ではなく吩咐を実行する気はあるが、何時(いつ)までに実行したら好いかの
意思表示がないために、直ぐ立上ろうとしない子供がある。

そんな子供には「何分間でやんなさい」とか
「何時までに往って帰んなさい」とか明瞭に、その完成の時刻を指定する必要がある。

反抗心があって命令を実行しない子供に、
強情だとか不従順だとか責め立てて見ても一層強情になるだけの事である。

何故なら彼は親や先生を手古摺(てこず)らすのが目的であるから、
親や先生が手古摺っていると判ると益々強情になるからである。

命令するよりも「斯(こ)うして下さい」と信頼して頼むような語調が
斯ういう子供には功を奏する。鼠小僧でも頼まれた事は進んで実行する。

・・・

《その儘有難い日》(5月31日)


【誠に「今」こそ一切の生活を支配する鍵である。(『生命の實相』第二十巻)】



2番目の子供が生まれようとする頃になると、
最初に生まれた子供は、それに興味を感ずるが、それが自分の玩弄物(おもちゃ)の
ように自分の支配下にあることを欲するのである。

自分よりも両親の愛を鍾(あつ)めるなどと云うことは、
両親を自分から奪われることに当る。

そのために最初に生まれた子供は熱を出したり、病気になったり、
時として乱暴になったり、強情になったり、如何なる方法かによって
両親の注目を自分に惹き付けて導く手段を講ずる。

そういう手段に動かされてはならないのである。

この状態は始終抱き癖をつけたり、あまりに両親から構い附けられる癖を持っていて、
両親から離れて独立して遊ぶ習慣のない子供に於て特に起り易いものである。

最初の子が女性であった場合、両親が「男児(おとこのこ)が欲しい」と言い続けて
いたのを常に訊いていた長女は、母親が今度生む子が自分と同じ女性であり、
自分よりもただ幼いと云うだけの存在で、自分と比べて特殊の優越の資格を持つ
「男児(おとこのこ)」でないことを希(ねが)うものである。

親たる者は、男児(おとこのこ)にせよ、女児(おんなのこ)にせよ、
常に平等の心を以て感謝していなければならぬ。

子供の前で言葉を繕(つくろ)っても、態度や表情が差別待遇を語っているときは、
それは嫉妬の因(もと)となり、兄弟喧嘩の因(もと)となる。




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