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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[706] 神にむすばる(六月の光明道中記)
伝統 - 2015年06月23日 (火) 20時53分

【 自己は神の流出口 】

吾が力で何事でも成そうと思うものは躓く。
自分は神の流出口であると思わねばならぬ。

私は常に「谷神(こくしん)」を思い、自分は「谷神の流出口」
―― 谷口なることを考える。

「谷神」とは老子の中にある言葉で、谷は空しくして万物を生ずるが故に、
大生命のことを「谷神」と呼ぶのである。

どうぞ私自身が、大生命の出口であり得ますように。神の智慧の流出口でありますように。

吾が祈りは常にこのほかには無いのである。


常に神を思うことは自分を豊富にする方法である。
神を忘れた日はどんなにか寂しいであろう。

神の無い人が厭世観に陥るのは無理もない。

神を忘れることは渾ての渾てを失うことである。

みずからを顧みよ、腹の立っているとき其の人は神を忘れている。
悲しんでいるとき其の人は神を忘れている。
呟いているとき其の人は神を忘れている。

他(ひと)を恨んでいるとき其の人は神を忘れている。
失意のいるとき其の人は神を忘れている。


愛深き神を想い出せ、
汝のすべての憤りも悲しみも、失意も、怨恨も
立所(たちどころ)に消えるであろう。



[707] (上旬)
伝統 - 2015年06月23日 (火) 20時58分

素直第一の日(6月1日)   

 【自分の顛倒妄想でさえぎらねば無限の生命がながれ込む。
                    (『生命の實相』第十一巻)】 
              
 
「天地の主なる父よ、われ感謝す、此等(これら)のことを智(かしこ)きもの
 慧(さと)き者に隠して嬰児(みどりご)に顕したまえり」(「ルカ伝」第十章二十一)


素直がいちばん可(よ)いのである。
まず空っぽになることが必要である。

空っぽの者はすべてを知るであろう。
空っぽの器(うつわ)の中には一切が流れ入るが如くにである。


すぐれたる人の生活は常に支配者の生活を営(いとな)むのである。
他人への支配者であるよりも寧(むし)ろ自分自身の心を支配する者が
真の勇者であり、勝利者である。

外界は内界(こころ)の投影であるから内界を支配し得ないでいながら、
外界を支配しようとするとき其処に矛盾を生じ、衝突を生じ、自壊が生ずるのである。

自分を浄(きよ)めること、真面目であること、愛深くなること、忍耐づよきこと、
「今日」を大切にし一歩をゆるがせにせず、毎日自分を堅実に築いて行くこと。

自分がからっぽになって神の聖旨(みむね)を満たし得る盃(さかずき)になること。

常に祈ること。み心が「自分」に来るように祈ること。

・・・

恐れずに所信を貫く日(6月2日)

【闇に対しては光をもって相対せよ。
 非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】  

悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。

併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。

光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。

光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。

進軍は行(ぎょう)である。

「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。

「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、裁判官の前に
引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。

光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。

・・・

困難消滅する日 (6月3日)

【心が「迷いの念」に引っかかって生命本来の自由性を失うと、症状が顕れる。
                        (『生命の實相』第一巻)】

人が神に近づくには試練の火が必要であり、
必ず困難によって鍛えられなければならないと云うのは嘘である。

実際上多くの人達は試練の火によって鍛えられ、困難によって浄められて神に近づく。
私自身も嘗てはそうであったのである。

併し今私は試練の火が必要であったのでも、困難が必要であったのでもなかったと
「私の生活体験」を解釈する立場に立つのである。

試練の火は”神から”来たところの不可避の火ではなかったのである。
試練も無く困難もなかったのである。
自分の自覚が「実在」(神の造りたまえる《そのまま》)と調和しなかったのである。

みずから神から離れたるものと誤覚し、「実在」の秩序の中に調和しないでいる ――
その《みずからの状態》が「試練」であり、「困難」であったのである。
今よりのち試練を神からきたものと考えまい。

私が悪いのである。
すべては私の責任である。

試練を神に帰することは神を残忍者であると観、神を不完全であると観ることになる。
斯くの如きことは「子たる者」の為すべきことではない。
子自身が勝手に放浪(さすら)い出て困難を経験していたに過ぎない。

心を放って本然の状態に復するとき、病気も試練もなくなるのである。

・・・

天の声を聴く日(6月4日)

【念は「無」を材料として地上に様々の相を現す働きをなす。
                     (『生命の實相』第十一巻)】


心を澄まして天の声に耳傾けよ。
天の声は必ずあなたを導くであろう。

天の声の導きにゆだねるとき其処には嶮しきは平かとなり、不調和は調和となり、
苦しみは楽しみに変わり、煉獄の火は天国の芳葩(はなびら)に変ずるであろう。

さればこそ試練は本来存在しなかったのである。
みずから好んで天の声を聴かず、実在の調和ある相(すがた)から離れるようにしている
状態が試練であるに過ぎない。

まず眼下を浄めよ。何処(いずこ)に自分の心が立っているか。

何処(いずこ)に自分の心が立っているか。
利己心の上に立っているものは、利己心は「本来無い心」であるが故に、
崩れる基礎の上に立つものである。

自分の欲望の上に立つ者は愚かなるかな。
そう云う狭い立場の上に大きな建築物は建たないのである。
まず立場を大きくし、大きな基礎工事の上にこそ大事業を打ち建つべきである。

「私ならぬ立場」超個人的な立場、人類的な立場、全体的な立場、
国家的な立場に於て吾々は立たねばならぬ。

若し此の基礎工事を自分自身の生活に於て誤っているならば、
あなたは今日から出直さねばならぬ。

・・・

罪浄まる日(6月5日)

【罪は本来無いから、それに心が捉えられなければ消えるのである。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


若し吾々の「念」そのままに此の世界が現じて来るものとすれば、
若し吾々の日々の憎しみの心の通りに、日々の悲しみの心の通りに、
日々の呟きの言葉の通りに、此の世の中の現象が悉く現れて来るものならば、
此の世界はもっと惨憺たる傷(いた)ましい状態を現出していただろう。

それは、若し吾々の春秋の大清潔法(おおそうじ)のとき
畳を叩くときの埃(ほこり)がいつまでも浄まらないで空中に渦巻いているとしたならば、
吾等は到底生活に耐えないような環境を見出すだろう。

然るに、神は讃むべきかな、宇宙に浄化力を下ろしたまうて、
常に吾々の立騰(たちのぼ)らす塵埃を浄化して環境を澄み切らして下さるのである。

それと同じように、吾々の心から立騰(たちのぼ)らす無数の「心の埃」が
その儘、具象化(かたちにか)するならば、それこそ大変であるのに、
神はそれを常に修正していたまうのである。

吾々が暗の中で攪(か)き濁(にご)す心の塵埃もいつの間にか、
神の光で、空中の大気のように浄まって了(しま)うのである。

茲(ここ)に私は宇宙の修正力を観、神の愛を観るのである。

業(ごう)は永遠の存在であり得ないのは此の宇宙の修正力によるのである。

・・・

心やわらかになる日(6月6日)

【調和した念を蓄積すれば健康寿福が現れる。(『生命の實相』第十二巻)】
 
柔かい心で一切を受け容れること。

上等のバネ附き褥(クッション)のように、羽根布団のように、
柳の枝が風を受けるように一切を調和して受容れる心になりたいものである。
弾力性のある心こそ必要である。

一時は強いようでも相手と衝突して
脆(もろ)くも折れて了うような心にはなりたくないものである。

弾力ある心はすべてが調和して相手と自分とが調和して共同動作をなすのである。
柔かくなること。 調和ある心を為すこと。 調和ある動作をすること。

先ず他に譲ること、譲り得ないならば、次に弾ね返す力を失って了うであろう。
譲るときは人は自分に好意を感ずるだろう。
その好意を感じているときに、自分の方は相手を弾ね返すのである。

而(しか)もその弾ね返し方が非常にやわらかであるので、
相手はこちらが弾ね返したかどうかに気がつかない位である。
相手は弾ね返されながら、そのことに就いて快感を感ずるであろう。

柔かく弾ね返す褥(クッション)のように。
調和から万事が生れ、調和から万物育つ。

調和とは譲り切りに、崩れて了うことではない。弾ね返す力がなければならない。

・・・

大いなる敷地を夢見る日(6月7日)

【想念は運命の別名だ。心に描いて待てば運命となって現れる。
                       (『生命の實相』第一巻)】

東京の赤坂に生長の家学生寮があった頃である。

私が講習会のために関西及び九州へと立つ日が迫って来ると、学生寮の人たちが、
「僕達の先生が、10日間も吾々のところにいなくなるなんて全くひどい!」
と言っていると云うことをHさんから聞いた。

そんなにも私を慕って下さる学生たちがいてくれると云うことは私にとって喜びであった。

「大学へは入れなくても学生寮へさえ入れて貰えば好いと思って上京したのに、
もう定員で入り切らないとは残念である。誰か近いうちに寮を去る人があったら数ヶ月でも
待ちますから私を寮へ入れて下さい」

とお頼みになる学生さんもあった。

その頃、花嫁学校の定員は二百名だったが、男子の学生寮の定員は三十三名だった。

「あまり此の寮が好いから、足踏みしたくなった」と言う寮生もあった。
足踏みとは嬉しくて小躍りすることかと思っていたら、それは原級に止まることなのである。
原級に止まっていたら学生寮を去らないで済むから「足踏み」したいのだそうである。

もっとたくさんの人数を収容し得る男子の学生寮を多く建てたい。

私は日本学生の父になりたい。

そこから昭和維新の大業が生まれて来るのだと思う。

・・・

祈りに始まり祈りに終る日(6月8日)

【祈りに始まり祈りに終るとき、心の中に滞(とどこお)りがなくなり
自由自在の境涯になる。           (『生命の實相』第一巻)】 
  
神様、あなたは全ての渾(すべ)てでいらっしゃいます。
あなたは一切のところに充ち満ちていらっしゃいます。

あなたは智慧でいらっしゃいます。
あなたは愛でいらっしゃいます。
あなたは生命でいらっしゃいます。

あなたのお造りになった世界には罪も病も死も一切の不幸も争いもないのでございます。

其処には既に、日本天皇陛下に中心帰一せる天国浄土が実現しているのでございます。

神意(みこころ)の天に成るが如く地にも成らせ給え。
実相の世界の既に完全なるが如く現象の世界をも完全ならしめたまえ。
中心帰一の天国を地上にも来(きた)らしめ給え。

みこころの実現するための道具として私をお使い下さい。
間違いなくみこころを行ずることが出来ますようにあなたの智慧を私に流れ入らしめ給え。
私をお導き下さい。

どれだけ働いても労(つか)れませねようにあなたの生命を私に注いで下さい。
すべての人々を赦し、赦すだけではなく、
すべての人々に感謝出来ますように、あなたの愛を私に流れ入らしめ給え。

自壊作用なくして理想世界が実現しますように。

すでにわが願いがあなたに聴かれたることを感謝いたします。

・・・

捨我精進の日(6月9日)

【神はただ信じても何にもならぬ。間違った信じ方は却って禍を招く。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

我より来るものにひとつの善きものも無いのである。
我は空(むな)しきものであるからである。
かく言う我とは此の肉我のことである。

われはひねもす我を打ちく摧(くだ)き、神へと捨我精進しなければならない。
もろもろの善きものは悉く神より来りて、我よりは来らぬものである。
神こそすべてのすべてであるからである。

神の流入を堰(せ)き止めるものは「我」と云う驕(たかぶ)りである。
「わしが・・・わしが」と云う誇りである。

如何に驕るとも、神の前に我は空しきものである。
神の力もあるけれども、私の努力にも因(よ)るなどと考えてはならないのである。

すべては神の力に帰せなければならないのである。
ただ《それ》を頭で知るだけでは足りないのである。
感情(ハート)でそれを感じなければならないのである。

感情(ハート)でそれを感ずるだけでは足りない。
全生命をもってそれを如実に体感しなければならないのである。

如実にそれを体感し、心にも一言(ごん)一行(こう)にもそれを表わし、
それを行じなければならないのである。

行の上では体験が必要である。
―― 神が私の上に生きているということ、すべてが神であること。

・・・

陰陽拝み合う日(6月10日)

【一宗一派の儀礼や宗団を造るのが宗教であるならば、生長の家は宗教ではない。
                          (『生命の實相』十四巻)】

家庭はひとつの宇宙(いえ)であって、建物のことではない。
それは其処に宇宙の模型があらわれていることである。
それは完全なる小宇宙でなければならない。

其処には伊邪那岐命と伊邪那美命との産霊(むすび)の力が
調和して行ぜられなければならないのである。

男性は遠心力であり、女性は求心力である。夫婦調和である。
天は外にひろがり、地は内に固まる。
男性は外進が天分であり、女性は内整が天分である。

外進と内整とが整うたとき「子(みこ)」が生れる。
「子(みこ)」とは一切の生産(つくり)であり建設(かため)である。
一切の生物ことごとく天地の気(き)合(がっ)して生ずるのである。

地は天を載せて運行し、天は地を覆うてめぐる。
万物かくの如くして調和し、万ずの生命斯(か)くの如くして生ずるのである。
天地が顛倒(あべこべ)になってはならぬ。陰陽が逆転(さかさま)になってはならぬ。

雌鳥(めんどり)が暁(あかつき)を告ぐるとき禍い相踵(あいつ)いで起り、
嚊(かかあ)天下の家庭は衰滅するのである。
夫婦調和が天地の法則である。

併し陽は陰によって保ち、陰は陽によって保つ。

どちらも互いに感謝し合わねばならぬ。

[709] (中旬)
伝統 - 2015年06月24日 (水) 17時45分

困難を征服し宝石を得る日(6月11日) 

【自由ばかりでは形はない。光ばかりでは映像はない。
 「実相」に虚が作用して形が生まれる。(『生命の實相』十一巻)】


逃れようと思わぬこと。

あらゆる経験は、すべて鉱石のようなものであって、それを捨てずに処理して行くとき、
どんな貧鉱(ひんこう)からでも尊き金属を採取し得るように、
どんな経験からでも尊き「価値」を採取し得るのである。

吾らの生活は、五官の快楽のための生活ではなく、
「価値生活」であると云うことを知らなければならないのである。

人間の幸福は五官の快楽と否(いな)とにあるのではない。
それは鉱石の価値は採取し易いと否とにあるのではなく、
どんなに採取に困難でも「価値」多い鉱石はそれだけ値打ちが多いのと同様である。

盤根錯節(ばんこんさくせつ:面倒な事柄)を厭うのが生長の家の生活ではない。
盤根錯節そのものは善でも悪でもないのである。
盤根錯節が吾々に不幸を齎(もたら)すのは、盤根錯節を恐れ又は敵対するからである。

盤根錯節と協力して、わが生活を練るのだと思えば、
盤根錯節はかえって吾々に幸福を齎(もたら)すのである。

と云うのは不幸に甘んぜよと言うのではない。
不幸を幸福ならしむる不思議の力は、
逃げだそうとしないで眼の前の困難に平気で進んで行くことから得られるのである。

・・・

今すぐ行う日 (6月12日)

【恐怖心は神の全能の愛を信じない為に起る。(『生命の實相』第ニ巻)】

すべてを神のみこころに委(まか)せること。
併しこれだけでは恐怖心は絶滅されるものではないのである。

神のみこころの中には不幸は無いと云うことを知らなければ、
人は神を恐怖するに到るであろう。

神に委せるとは、一番高き幸福の源泉に委せることなのである。
《此処に》《今》幸福があることを知ることである。

幸福か不幸かわからないけれども、兎も角神に委せようと云うことではない。
神はわが憩いの家であり、愛の家であり、わが砦であることを知ることである。

単に「思い煩うな」と言って、問題を次へ次へと延ばして行く者は、
恐怖を先に延長しているようなものであって、
本当は「思い煩っている」のである。

吾々は事物に面することを次へ延ばすことなく、「今」受けるが好いのである。
「今」恐れなく受けるのである。
「今」目の前に《ある》ものが決して自分を害するものでないと知ることである。

避けるのではない。捉えるのである。

幽霊の正体見たり枯尾花。
正体を捉えて見たら、恐怖すべきものは一つもないのである。

・・・

絶えず明るく微笑する日(6月13日) 

【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。(『生命の實相』第ニ巻)】

恐怖の正体は「悪」の存在を予想する念である。

念は吾々の「生命」より発する波動であって「生命」そのものと融合して、
体内と、外界とに、自分の「生命」に一連関せる環境を作り上げる。

体内の環境を内的環境と呼び、外界の環境を外的環境と言う。
血流、消化状態、内分泌の状態などは内的環境であり、外界境遇貧富等は外的環境である。

内的環境も外的環境も共に自己生命の「念」の延長であり、
客観化(かたちにか)したのであるから、
自分の「念」によって支配されるのである。

「念」に悪を予想するところの恐怖心が、
肉体に悪影響を与え、外界に悪環境をつくるのは当然である。

されば、決して心に「悪」を予想することなかれ。

「悪」は存在しないのである。

ただ予想したときそれが形にあらわれて、あるかの如く視(み)えるに過ぎない。

静かに、「自分に近づきつつある物」を幸福の使者として微笑をもって迎えよ。
自分に近づきつつある物は、結局「幸福の使者」と変ずるであろう。
立対(たちむか)う者は自分の心の反影(かげ)である。

・・・

深く神想観を励む日(6月14日)

【自信は吾々が満ちの世界に進んで行く時に行く手を照らす炬火(たいまつ)である。
                          (『生命の實相』第四巻)】

先ず自分のうちに、仏が宿っていること、
大慈大悲の観世門菩薩が宿っていること、
先ず自分のうちにキリストが宿っていること、

静かに眼を瞑じて吾がうちに宿る、仏性を呼び、キリストを呼ぶことである。

一切の悪しき性質は悉く拭い去られたりと観ぜよ。
一切の病気も悪癖も悉く拭い去られたりと観ぜよ。

人を憎む性質、怒(いか)る性質、人の不幸を喜ぶ性質、人の欠点(あら)を探す性質、
―― 神らしからぬすべての性質は悉く洗い浄められたりと観ぜよ。


此の「観」を常に続けること。
吾々が道をつけただけ山上の水は平地に流れ下って来るのである。
やがて大いなる生命の水が山上より降って来るであろう。

一切の悪は、それによって押し流され、
一切の汚れはそれによって浄められる時が来るであろう。

最高キロワットの水力タービンは回転し倏忽(しゅくこつ)の間に
世界は相(すがた)を変えるであろう。
ただそれまでは吾々は道をつけねばならないのである。

神はわれを遣わし給いて、われに道を備えしめ給う。
わが力は神より賜(たま)いたる力である。
わが力は一つもないのである。

われは神と協力すれども、そのわが力も神のものである。

・・・

一人必ず救う日(6月15日)

【至上の愛は神と偕(とも)なる時、おのづから出来る愛である。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


「われ」と云うものは今日こそもう滅(な)くなったのである。
我(が)は無い、我欲も無い、我見も無い、我に属する一切のものもない。
「われ」が滅くなったとき其処にあらわれるものはただ神である。

神ばかりである。
われは無い、神ばかりである。
吾が面する世界は神の世界である。

わが坐する位置は神が我を按(お)きたまうた位置である。
わが擁する財は神が我にあずけたまいし財である。

わが位置をわが事のために使ってはならない。
わが財をわが事のために使ってはならない。
光明思想を弘(ひろ)めること。

人を救(たす)けるために、神の愛を顕すためには、
光明思想を弘めるにも優(まさ)りて良き方法は無いが故に、
私は光明思想を弘めるための私の能力と位置と財とを全部ささげているのである。

形ある財は費やされて消えて行くものである。
百円硬貨一枚は一人にそれを与えて一日の食料にも足りないのである。

併し、一枚の百円硬貨に当たる一冊の『生長の家』誌によって
起上(たちあが)った人がどんなに数多きことであろう。

職業を与え、財を与え、医療費を与えるのも慈善であるが、
職業の源泉、財福の源泉、自然良能の源泉である光明思想を与えることは
一層の善事である。

・・・

知ったら直(す)ぐ行う日 (6月16日)

【真理を生活上にそのまま生きると云うことが、道を知って道を行なうことである。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

思念の力は如何に強くあろうとも「我(が)」の思念の力では駄目である。
強く欲する事物を心に描いてそれが実現せることを心に念ずるならば、
それは「実相永遠の秩序」に調和しない事でも実現するであろう。

併しその実現は永遠性のないものである。

痩せる方が健康である体質の人が、栄養剤や或る肥満法で肥えて見たのと同じである。
やがてその肥満状態が急激に消滅する時が来り、
その過渡期に著しき衝動(ショック)を受けるであろう。

初めから無理に肥えもせず、当り前で続いている方が、
その人にとって幸福であったであろう。

人類が今悩んでいるのは、人類全体の念が悩んでいるのである。
世界的惨害は人類大多数の誤れる念の具象化である。

吾々は炬火(たいまつ)を携えて歩む人のように、
暗黒の中にいても光明思想を携えて歩むならば自分の周囲は明るいであろう。

併し、自分の周囲のみが明るくとも、それで満足するならば
要するに吾々は利己主義である。

吾々は自分の携えている炬火(たいまつ)の火で、
人の尚(なお)燃えていない炬火(たいまつ)に火を点(つ)けねばならぬ。
人類の一人ひとりに光明思想の火を点けねばならぬ。

・・・

正しく祈る日 (6月17日)

【利己的行動によって快楽を掴(つか)もうとすれば、却(かえ)って魂の平和を失う。
                           (『生命の實相』第四巻)】

神の心に従って物を考え、神の心に順(したが)って生活を行ずることが
吾等のこの世に生まれた使命である。
人類の考え方や、或るグループの考え方に従うのではないのである。

吾々が神想観によって事物の成就を願うときには
「金」を与え給えと云うように願ってはならないのである。

「金」は使い方によっては善ともなるが、使い方によっては又悪ともなるのである。
「金」の来ることのみを願って、正しい使い方を願わない場合には、
「金」は集って来たけれども、それが何らの利益に使用することも出来ず、
却って悩みの種になるであろう。

世間の金持の中には随分そんな不要な「金」を集めて、
子孫親戚たちを争いの渦中に投じたり、
自分を不要に堕落せしむるためにその「金」を使っている人もある。

それを考えて見るならば、
「金」のみを神想観で求めることが如何に下らないことであるかが判るであろう。

「金」がそんなにも欲しいならば、それは人類の心に従うて物を考えているからである。

吾々は神の心に従うて考えねばならぬのである。

「人を救い得るように吾が生命(いのち)をお使い下さい。
そしてそれに必要な一切の設備と費用とをお恵み下さい」と。

・・・

心に炬火(たいまつ)を点ずる日 (6月18日)

【「敵は本来ないものだ」と判って初めて凡てと和解出来る。
                     (『生命の實相』第十三巻)】

「神は全ての渾(すべ)て」と繰返し心に唱えて、自分の周囲、心の眼を以って
自分の座せる座敷の隅々(すみずみ)隅々(くまぐま)を順次見詰めつつ、
「自分の坐っている座敷の隅々、隅々、神は充満している」と観ぜよ。

「神のみが渾てであり、その他に何物もなし」と観ぜよ。
ついで「神は愛であり、神の愛は一切所に充つる」と観ぜよ。

「愛は育てる力であり、育てる力が一切所に充ち、
自分も自分の家族も悉くその愛に育てられている」と観ぜよ。

「愛は調和の智慧であり、一切所に調和の智慧充つる」と観ぜよ。

如何なる他の力も、神の愛の力の前には存在しないのである。
愛のみが実在であり、育てる力のみが実在であり、調和の智慧のみが実在である。

この神の愛の力を吾々が認めるとき一切の悪しく見える力は
影を消して了(しま)うのである。

周囲が抗(さか)らい立ちて、一切の事物が暗黒に見えるとも
その暗黒が実在するのではないのである。
それは仮の相(すがた)である。

高く高く実相の炬火(たいまつ)を捧げよ。

神の愛の力のほかに何物もないこと、
神の愛が自分の周囲に充満していて自分を護って下さること
 ―― 此の実相を観る神想観の前には不幸の暗は消えるほかはない。

・・・

病者へは、思念より真理を理解せしめよ(6月19日)

【心が完全に人間の実相を映す時、肉体人間は本来の完全さを顕現する。
                          (『生命の實相』第四巻)】

凡(およ)そ利己のために思念すべきものではないし、
また他の利己心を満足せしむるために思念すべきではない。

病者に癒しの思念をするのも同じである。
自分の栄誉や利益のために人に思念して癒してもならないし、
病者が利己のためにその寿命の存続をねがっている場合にも思念してはならないのである。

病者を癒さんとするならば、
先ず今後利己のためにはその「生命」を使用しないことを誓わしめるべきである。
病者の魂の転向が完全であるならば神の生命流れ入りて、
其の時よりその病いは癒え始めるであろう。

此方(こちら)の「我(が)」の思念の力で、
病者に健康の念を送ってもその病は癒える事はある。

けれども若し、それが動機となって相手の魂が救われることがなく、
病気を馬鹿にする気になって、生きている間じゅう相手が一層利己的な生活をつづけるならば、
癒したことは善事か悪事か疑問である。

重荷は理由なくして人の魂の上から卸(おろ)してやるべきではない。
重荷はみずから運んで行き、彼の魂が重荷を軽く扱うことが出来るようにこそ
誘導すべきである。

思念よりも真理を理解せしむるようつとめよ。

思念するならば「あなたの心には神の愛が満ちている」と思念せよ。

・・・

自分の心を調べて見る日 (6月20日)

【心の世界にて形成された運命が物質世界に映って初めて地上の事件となる
                        (『生命の實相』第一巻)】

自分が利己的な心を持っていて、寛大な愛他的な相手が出て来て
自分を助けてくれそうなものだと思うことは愚かなことである。

利己心は利己心を招(よ)びむかえるだけである。
類は類を招(よ)び、朋(とも)は友を招ぶ。

憎む心を捨てないでいて本当に健康になろうと望んでも、
本当の健康になることは出来る筈がない。
どこかに頭につかえるものが残っているし、腹につかえるものが残っているからである。

多くの病人は自分が利己的であるがために病気に罹っている者である。
或るニュー・ソートの治療家(ヒーラー)の所へ通って来る患者があった。
彼女は規定の料金の数倍も支払って長時間思念をして貰っても病気が治らないのであった。

治療家(ヒーラー)はその理由を考えた。
その患者には出来るだけ自分《だけ》長時間思念をして貰いたいと云う
利己心があることが判った。

治療家はそのことを患者に指摘した。
その利己心に気が着いたときに、その患者の病気は治ったのである。

『生命の實相』は全部読むのは中々大変であるから、
先生に直接返事を頂きたいと云う患者も此の種類に属している。




[714] (下旬)
伝統 - 2015年07月04日 (土) 14時28分

三たび自己を顧みる日 (6月21日)

【救うとは人間本来の「生命の自由」を回復することである。(『生命の實相』第三巻)】

神はすべてであるから超利己的な力である。
その超利己的な力に対して、
利己的な動機で祈ると云うことが既に矛盾しているのである。

すべての人に調和し、自分が栄えることによって
他の栄えが害(そこな)われるようなことなき事柄に就いてのみ吾等は祈るべきである。

宇宙の富は宇宙全体の《もの》であるから、
宇宙無限の富の供給を受けんと思う者は、自分が多く供給されればされるだけ、
それを使って全体のために使い得る用途を見出さなければならぬ。

金でもたんまり入って来たら、日頃買いたいものを思う様買って利己的に楽しめるのになア
―― などと利己的なことを考えながら神から無限供給が来ると思ってはならない。

欠乏するかも知れぬと思って、有用なことに使うことを恐れている者は
要するに無限供給を知らぬものである。

無限供給は与えられたものを以て
最高度に全体のために奉仕することによって循環して来るのである。

豊富に与えられんと思う者は豊富に与えなければならぬ。
豊富に与えるとはただ無暗(むやみ)に非効率な出し方をすることではない。

叡智の伴わない施与(ほどこし)は自由を傷(きずつ)ける。

・・・

神意(みこころ)を行ずる日 (6月22日)

【十字架を負うてすべての持てるものを捨てて我に従え。(『生命の實相』第九巻)】

金は必ずしもある切り出し切るのが神意に適うのではない。
と言って金の出し惜しみをするのが神意に適うのでもない。
全体のために有用に使うことである。

今、有用に使う道が発見せられないならば、
「有用に使う道を発見せしめ給え」と祈りつつ、
有用に使う道が発見されるまで貯蓄して置くべきである。

有用に使う道を発見せずしてみだりに金を放出する者を浪費者と言うのである。
浪費者は天物を亡殄(ぼうてん)するものであるから、
やがて自己が貧しさに苦しまねばならぬ時が来るであろう。

貯蓄は老衰後のためや手足が不自由になったり、
頭脳(あたま)が役に立たなくなった時の生活費にと貯えるべきものではないのである。

老後のためと思えば老衰が来るであろうし、
手足の不自由の時のためだと思えば手足が不自由になるであろうし、
頭脳が役に立たなくなった時のためだと思えば、やがて頭脳が役に立たなくなって
来るだろう。

思う通りに何事でも成就するからである。

「貯蓄は有用なる使途を発見するためのものだ」と思って貯蓄すれば、
やがて有用なる使途が発見されるであろう。

その使途はまたその人を高め上げ無限供給を招(よ)ぶであろう。

・・・

食堂楽しき日 (6月23日)

【形あるものは心の世界に形を持続する力がなくなった時速やかに崩壊し始める。
                         (『生命の實相』第四巻)】

病気を癒そうと思って神想観をしながら、癒えないと云う人には6種類ある。

(1)「病気を癒そう」と思って神想観をするために、常に、
   「病気、病気」と心に念じて絶えることがないのである。

(2)家族のうちに反対観念者があって、そんなことで治るものかと強く念じている場合。

(3)憎んでいる人を赦していない場合。

(4)何か未来のことに取越苦労のある場合。

(5)心が焦(あせ)っている場合。

(6)死に切っていない場合
    ―― 換言すれば利己心を殺し切っていない場合。

   利己心を殺し切った者には恐怖心はないのである。
   恐怖心は利己心から来るのである。

みずから栄える道は他を栄えしむるにある。
社員を栄えさせ、店員を栄えさせ、顧客を栄えしめるように店を経営して行くならば、
その店は繁昌する他はないのである。

他を栄えしめんとの自分の愛念は必ず自分に反射して来て、自分を栄えしむるほかはない。

与えたよりも多く受けようと思うな。
それは卑怯な狡(ずる)い考である。
卑怯は卑怯を呼び、狡さは狡さを呼ぶであろう。

ケチな主人に仕(つか)えるならば、尚一層深切に仕えよ。
常に貸し越しになる生活をせよ。

・・・

神我一如となる日 (6月24日)

【神の懐に入り神を求めよ。(『生命の實相』第四巻)】

神が必要とする人物たれ。
自分の我(が)に使役せられる人となるな。

神に必要とせられる人物となったとき初めて吾々は神に護られ、
神から供給を受ける資格を得るのである。


宇宙の奥に over-soul(オーバー・ソール)<超越霊>と云うものがあるとエマソンは言った。
宇宙の心だ。宇宙の心に悦ばれるものとなるものは、全宇宙がその人を護りたまう
のである。

今よりのち吾れは宇宙の《もの》となったのである。
も早、吾がためには何物をも使わないのである。

吾が悦びは宇宙のために尽すことのほかにはあり得ないのである。
公けなる喜びのみが自分の悦びである。利己的なものの裏には醜い影が附き纏(まと)う
ていることを私は知るが故に、利己的には決して成り切れないのである。


吾れは既に神の《もの》となりたれば、
わが一挙手一投足に神宿りて吾れを護り給うのである。

吾が言う言葉は神の言葉となったのである。
吾れは最早わが権威にて何事も言わないのである。
神の権威にて一切を言うのである。

吾が言葉は必ず成就するのである。
最早われ神の《もの》となったからである。

斯く神想観して祈れ。

・・・

神に全托する日 (6月25日)

【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】

自分の立っているところが正しいかどうか、
自分の生活が正しいかどうかと云うことはどうして判るかと言うと、
それは形を幾ら省みても判らないのである。

自分の立っている立場、自分の今の生活は、常に動きつつあるのである。
それは形の上では将来に展開して正しいか否かが定まるのであるが、
将来はまだ見えていないから、将来に連関してそれが正しいかどうかは
人間の五感で判断して判るものではない。

自分の立っている立場が正しいかどうかは、自分が公けな心を持っているか
どうかと云うことである。

公けな心を持って公けに捧げる心をもって、神に祈り、神の智慧に導かれて、
今自分の正しくあるべき位置を発見すべきである。

讃美歌第五十四番の
「わが行く道はいつ如何になり行くべきかはつゆ知らねども主はみこころを成し給わん」
である。

われみずから立つ位置ではない、われみずから行く道ではない。
神が置き給うた位置である。神が歩ませ給う道である。

みずからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。

「主はみこころを必ず成し給わん」

・・・

寛容の心を起す日 (6月26日)

【批評は斬(き)る念である。(『生命の實相』第六巻)】

或る学生が某大学への入学に、もう三度も辷(すべ)っているのである。
「どうして私はこんなに辷るのでしょうか」とその大学生は私に質問した。

「それは、君はあまり人を批判し過ぎて、人を容れてやる寛容の精神がないから、
学校当局でも君を批判し過ぎて君を寛容に学校へ入れて呉れないんだよ」
と私は答えた。

その答があまり的中したので、学生たちはどっと一時笑ったものだ。
学生の集まりが散会してからお山に帰って行くときにも「先生に見事にやられた。
全くやられた」と言って、学生たちは噪(はしゃ)ぎながら帰って行った。

それが当の学生の心の中に寛容の心を起させる動機となったらしいのである。
その学生は非常に素直になって人を審判(さば)かなくなった。
すると、不思議なことに――不思議でもないが、その学生は今年の入学試験に
パスしたのである。

私は言った。

「君が寛容の心になって、人を容れる心になったから、学校も君を入れてくれたんだよ」

「そうでもないんですけど」とその学生は謙遜していたが流石に嬉しいらしいのである。

私も嬉しい。

・・・

美しき夢見る日 (6月27日)

【高き理想、気高き感情、明るき心を持続するものには老衰は近附いて来ないのである。
                          (『生命の實相』第十二巻)】

私たちの家は海岸にあった。
私は一人暁方(あけがた)、和(なご)んでいる春の海の夜明を見るために
渚の方へ歩いていったのである。
少しも風のない海の水は鏡のように静かであり透(す)きとおっているのであった。

その海浜(かいひん)の透きとおった水の中から何とも言えない紅(くれな)いの花が、
臙脂(えんじ)よりも深い紅の花が、ポッカリと咲き出でているのである。

それはほんとうに現実の世界では全く見ること出来ない清まった花の姿であった。
わたしはあまりに美しいので声をあげた。
その声でわたしは眼が覚めて了ったのである。

眼が覚めてからもその夢の美しい印象は消えなかった。
わたしはこれ迄色々のところへ招かれて色々の景色を見たけれども、
こんなに清まった美しい景色と、清まった花とを見たことがないのであった。

私に歌が久し振りで出来た。
丁度その日が光明寮の卒業式であったので道場に列(なら)んでいる寮生たちを見ると
その夢の中の花の一つ一つが寮生の魂のように清く美しく感じられた。

  覚めてなお心に深くのこれるは海より咲ける紅いの花

・・・

審判(さば)き心を捨つる日 (6月28日)

【わが教は審判く道ではないのだ。礼拝の道だ。包容の道だ。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

自己を高く見せる為に他を鋭くさばくものは禍(わざわい)なるかな。
高く上らんとする者は低くせられ、
謙(へりくだ)りて栄えを神に帰する者は高くあげられん。

世の禍の因(もと)の80%は嫉妬心なり。
嫉妬心は比較の心なり、相対心なり。相対的価値は、見る立場によって変化す。
相対的価値によって高く挙げられたるものは、相対的事情の変化によって低く
貶(おと)されん。

されば人を相対的価値によって論議する勿れ。

人を観るには常に絶対価値を以てせよ。
人の絶対価値は彼が「神の子」なることなり。
彼が生きてあること、そこに絶対価値が既にあるなり。

彼が愛の心を起すとき既に其処に彼の絶対価値の顕れを見る。
彼は愛なればなり。

彼の成績の如何を問う勿れ。
ソロモンの栄華いずこにありや。
イエス生きてありしときイエスの教を真に知りたる者幾人ありや。

その生涯中の伝道の相対的成績は実に微々たるものなりき。
十二人の弟子のうち一人は耶蘇を売りき。
残れる弟子共もイエス死する迄、その復活の意義を知らざりき。

されど、イエスは絶対価値なり。

・・・

天国成就の日 (6月29日)

【われ既に天地を新たならしめたのである。(新天新地の神示 講義)】

「われ既に天地を新たならしめたのである」
此の言葉を其の儘受け容れるとき、此の言葉の真実をその儘知るとき、
吾等の住む此の世界がそのまま新天新地に変貌するのである。

《それ》は《今》あるのである。
これから新天新地が開けるのではない。
《今》既に新天新地があるのである。

おお ! その荘厳なる相(すがた)よ。
開けるのは天地が開けるのではなく、こちらの心が開けるのである。
眼を蔽(おお)える鱗(うろこ)が落ちるのである。

そのとき吾等は別の風光が眼の前に開けるのを見る。
天地が開けるとは吾が心の岩戸開きが出来ることである。

既に成就せる世界を知って、それを現象世界に実現するのが、吾々の正しい生活である。
証上(しょうじょう)の修(しゅう)である。

既に成就せる世界を知るが故に退転することがないのである。
既に健康なる自分を知って、その如く行ずるのである。

多くの病者は《これから》健康になろうとして、健康法を励行するが、
思うように効果が挙がらないのは、《これから》と思っているからである。

既に《今》健康なのである。
肉体は自分ではない。自分の殻(から)である。

殻何するものぞ。
捨て切れ、捨て切れ、捨て切ったとき永遠の生命と、
今(いま)茲(ここ)にある天国を知ることが出来るのである。

・・・

問題解決・感謝の日 (6月30日)

【天に地に感謝せよ。万物が皆有がたい。おのずから合掌される。
          始終この心持でおれ。(『生命の實相』第十一巻)】

若しあなたが自分を空しくするならば、もうあなたは自分ではないのである。
そのとき世界はあなたのものである。
世界は神のものであるからであり、あなたは神のものであるからである。

そのときあなたは行くところ可ならざるはないと云う状態に到達するであろう。

自分自身を「自分の《もの》」であると観たのが最初の無明(まよい)であり、
アダムの食った智慧の樹(こ)の実であったのである。それは形に於ける自分を見て、
自分を全体のものと引離されたるものと見た「観」の錯誤である。

全体を離れた自分と云うものもなければ、神から離れた自分と云うものもない。
すべて神のものである。神以外に何ものもないのだと知るとき世界が一変する。

神がすべての渾(すべ)てであるが故に、今、あなたは自分を空しくして神に一致する
が故に、神の叡智に導かれて失敗すると云うことはあり得ないのである。

あなたは、此の世界を「我が家(や)」と呼び、すべての人間を慈愛深き父母兄弟と
拝まなければならない。衝突は自分を空しくしない処より起こり、
他を父母兄弟として拝まない処より起る。



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