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維摩経を語る 〜 谷口雅春先生 (29294)
日時:2020年07月11日 (土) 07時58分
名前:源流

道産子
2020/06/13 (Sat) 08:30:30
〜2020/06/14 (Sun) 08:16:23

精神科学誌 昭和45年7月号

昭和四十五年三月、生長の家記念日の講演会での講話の一部


 禅師一日、衆に示して曰く、一切のまよひは皆身の

ひいきゆへにまよひを出かす。
身のひいきさへせねば、一切の迷いは出来はしませぬわひの。

たとへば、となりの人が喧嘩をしますれば、こちらは非分、
こちらは道理という事を、明かにわかれて聞えますけれども、
我身にかからぬ事なれば、きこゆるぶんで我腹は立はしませぬわひの。

もしまた我身にかかれば、身のひいきをいたすゆへに、
むかふのものにとりあふて、仏心を修羅にしかへて、
たがひにせめ合ますわひの・・・・・

       (盤珪禅師『御示聞書』より)


 “迷い”の正体について

迷いというものは一体何であるかというと、
“無いものをあると思うが迷いなり”と
『甘露の法雨』に書いてあるのであります。

“ない”ものを“ある”と思う。

人間は、肉体はナイのにアルと思う。
人間は実相の“霊的体”である。

それなのに“霊的体”なんてものは“無い”と思って迷う。

これは逆さまにこう思うわけなんです。
だから「般若心経」には、その逆様の事を“顛倒”と書いてある。

“顛倒”というのは、“ひっくり返る”ことである。

“ある”ものを“ない”と思い、
“ない”ものを“ある”と逆に“引っくり返して” 思うのです。

それは夢みたいなものなんだ。

夢には、“ない”ものを“ある”と見て、
“ある”ものを“ない”と見ることが随分沢山あるのです。

例えば、それはこの現象世界の病気みたいなもんだ。

病気は“無い”のに、自分の心の反響があらわれて来ているに過ぎないのに、
それを“ある”と思って恐怖する。

(つづく)

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7973672


現象は“呼声の響”の如し (29316)
日時:2020年07月22日 (水) 08時28分
名前:源流

道産子
2020/06/16 (Tue) 08:18:51

     現象は“呼声の響”の如し

 それを『呼声の響』というように、維摩経では譬えています。
(『維摩経解釈』二八四頁参照)

“呼声”とあるのは、“呼”というのは“呼ぶ”こと、“声”は声です。

呼声の響が、恰も第三者として向うにあるが如く、こう返って来る。
併し向うには人は居ないのです。

山の一角に立って、谷を越えて彼方へ対して「オーイ」というと、
「オーイ」とまた返って来る。

それは、自分が呼んでその呼び声が返って来ているに過ぎないのに、
向こうに人が居ってそして此方へ「オーイ」と呼んでるのかと、
逆さまに思うのが迷いである。

それと同じように、自分の歪んだ念や曇った影が映って、
そしてその歪んだ姿の曇った影が病気として現れているのを、
自分の心が映って現われているんだと思わないで、

本当にそれが、病気があるんだと、
こう言うように逆さまに思っているのが、
「呼声の響」であるんです。
                  
    (つづく)
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7973672


本来本法性 (29318)
日時:2020年07月25日 (土) 09時39分
名前:源流

道産子
2020/06/16 (Tue) 08:18:51
〜2020/06/17 (Wed) 08:10:12

   水の飛沫の如く、水上の泡の如く

 そのことを『維摩経解釈』二八四頁三行目以下には
次のように説明されています。

「それは呼ぶ聲の反響(こだま)みたいなものなのです。
こちらの心で念を起すから、その念のひびきの反響がきこえると、
それはこちらの聲の反映でしかないのに、それを客観的實在だなどと思う。

すべて不完全なものはないのであって、それは空中の雲の如く、
水の飛沫のかたまりのやうに、水上の泡のやうに一時的なあらはれであって
實在ではない。

實在でないから消えるのであって、消えるものに執着して
自分の心の惱みで病氣を起してゐるなんて實に氣の毒なものなのです。

病氣なんて、そんなものは實在しない。
人間は本来本法性(もとほっしょう)であって、
法性は金剛不壊であります。



     本来本法性ということ

 “法性”というのは“実相”と同じような意味です。
法は真理、“真理の本性”が法性です。

人間は本来”真理そのもの”である――というのが“本来本法性”であって、
法性は金剛不壊、真理は金剛不壊であって、
人間の本来の実相たる法性は壞けるものでもなければ、
どんなものにも制約されたり、束縛されたりするものではない。

時間空間を絶した本当の自由自在の世界に
吾々の実相は生きているのであります。

その自由自在のものが”顛倒妄想”即ち“逆さまの夢”によって
自由自在を失って時間空間に縛られた肉体人間が此処にあるある
と思っている、

それが既に”心の病気“であり、それが時間空間面に映って
肉体の病気としてあらわれる訳であります。

   (つづく)

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7973672



“迷い”とは“観る角度”の歪みである (29336)
日時:2020年07月30日 (木) 09時09分
名前:源流

道産子
2020/06/18 (Thu) 08:34:46
〜2020/06/19 (Fri) 08:19:46

  “迷い”とは“観る角度”の歪みである


 大体、この自分自身を、ここに物質の肉体が生きているんだ
と思うことそのことが既に迷いである。

「迷いである」などと言う語を使うと、
迷いという実体があるかのように考えられるけれども、

迷いという実体があるのではなく、
それは“心“が“観る角度”の歪みである。
斜めに見るから斜めに見え歪んで見えるだけである。

マトモに見ればよいのである。

それなのに、そのないところの迷いをアルと思い、
そのないところの病気をアルと思い、
その間違った思いを積み重ねてそれに執着するのが又病気なのであります。

 だいたい此の肉体をアルと思い、
“物質“というものをアルと思うのが間違いなのである。

『聖経甘露の法雨』には「空間の上に投影されたる生命の放射せる
観念の紋(あや)、これを称して物質という」と書いてあるのですね。

時間空間という“認識の形式”の“嵌め枠“の上に
投影した観念の紋理が”物質“として仮に視えるのであります。



   “認識の形式”としての 時間・空間


 「時間空間」というものもまた本当は無いのです。

自分の心の中に“認識の形式”としての嵌め枠があるのです。
つまり、銀幕みたいな、スクリーンみたいな映写幕を“心”がつくって
「時間・空間の縦横の幕」として、それを認識の形式として、
それに心の観念が投影されると、恰も映画に於いて光の波が
舞台のスクリーンに投影されると、その映像が恰も生きている
人間のように見えるのと似ているのです。

吾々の起した想念が時間空間、縦横厚みのスクリーンにこう映って、
その映った姿を見るから“物質”が仮にあるかの如く、
人間自身の想念又は観念を物質化し、肉体化して見ているに
過ぎないのでありまして、そう見えるのは皆“影”なんです。

本当にはないのです。

         (つづく)

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幻師の所幻の映像の如く (29340)
日時:2020年08月02日 (日) 07時40分
名前:源流

道産子
2020/06/20 (Sat) 09:03:54
〜2020/06/21 (Sun) 07:24:39


    幻師の所幻の映像の如く


 だから『維摩経』には「菩薩ともなると、肉体人間を観るのに、
『幻師のあらはした幻の人間』と観る」とあるのです。

こうして人間の実相がわかり、肉体が単なる幻だとわかると、
幻が何を言っても腹を立てる必要はないという事になります。

これが悟りの効果であります。そして”心”が滞らねば、
心の滞りのあらわれとしての病気も消えてしまうのであります。

 “彼奴けしからんことを吐かしやがって、腹が立つ”なんて言う人がある
けれども、幻の人間が何を言っとったって腹立てる必要はないのであります。

『維摩経解釈』の中で、私は次のように書いております。

「人間界の争ひなんかといふものは、大抵のことは
『あの人が斯う言った、ああ言った』がもとであります。

世界的な事となると、現在の事は言ひたくないが、歴史上のことで言ふと、
チェンバレンが斯う言った、ヒットラーが斯う言ったといって喧嘩が始まった。

吾々の小さい家庭では、妹が斯ういった、お母さんが斯ういった、
娘が斯ういったといって喧嘩してをるのです。」・・・・・

 これは、この衆生を観、また物質を観るのに「幻」と観ないで、
実在として観るから、そのような争いが起って来るのである。

すべての争いは「ない」ものを「ある」と思って幻の人間を
実在の人間だと思っているから起ることになるのです。

『ない』ものを『ある、ある』と思って執着し、積み重ね、
奪い合って喧嘩をする。それが病気なのです。

もとが『ない』ものに引っかかって苦しんでいる。
そのもとが『ない』と知らぬから、いつまでも苦しむのです。

『ない』ものを『ない』と知り、それを単に『影』だと知れば
争いがなくなるのです。

現象は本来『ない』のであり、それは影なんですから、
“影の人間”が何を言ったとて、どうしたとて、そう引っかかる必要はない
のであります。

心が引っかかる結果、心の流れが渋滞して、その結果、その渋滞が
“影の人間”に映って肉体の病気や不幸災難ともなってあらわれるのです。

   (つづく)

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“迷い”が無ければ不幸災難もない (29363)
日時:2020年08月15日 (土) 08時13分
名前:源流

道産子
2020/06/22 (Mon) 08:13:25
〜2020/06/23 (Tue) 08:14:34

   “迷い”が無ければ不幸災難もない

 しかし、本来、”迷い”そのものがないのですから
その結果であるところの病気も不幸災難もそんなものは無いのであります。

真に実在するものは、遷り変る時間空間内の現象の世界にはない。
時間空間を絶した神の世界の一切が、今茲に既にあるところの
“時空”十字交叉の“無”の一点の世界に這入って参りましたならば、
そしたら悪いものは一つもないのであります。

 この事は、図解をしないとわかりにくいと思いますので簡単な図を書きますが、
十字交叉というのは“横”の線が時間をあらわします。(写真参照)

 現象世界の事物や人間というものは、この時間の流れの中の、
空間のひろがりの上の、どこかに居るんですが、

“時間“未だ現われず、空間未だ現われざるこの中心の十字の交叉点、
その”絶対無“中へ入って行くとですね、
そうしたら、もうこの空間のひろがりの上に、

罪を犯したり、或る時間の流れの上に何か悪口を言ったりした
と言うような奴は本来無いのであります。

時間空間十字交叉の一点に入って行く。そこには空間も時間も、
そして時空上にあらわれる一切の現象がなんにもない、
従って何ものにも縛られないところの自由自在になれるわけなんであります。


この絶対無の境地は有無相対の「無」ではない。
現象を何もつかまず、空手になった時、本当の自在が得られるのであります。

    (つづく)

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巨大な鉱石船の沈没の示すもの (29373)
日時:2020年08月18日 (火) 07時52分
名前:源流

道産子
2020/06/24 (Wed) 08:26:02
〜2020/06/25 (Thu) 08:26:57


     巨大な鉱石船の沈没の示すもの

 最近五万噸~十万噸というような巨大な鉱石船が、
波浪と戦って二つに折れて沈没するというような事件が起っている。

例えば、カリフォルニア丸が千葉県の沖合まで来て壊れて沈没した
のでありますが、あれも空っぽになったら砕けて沈むこともなかったに
相違ありません。

カリフォルニア丸は巨大な鉱石積載船で、
非常に重い鉱石を船腹に一杯積んでつかんでいた。

何も積んでいなかったら船が軽いから波のままに、そのままに動いていて、
波浪の激突に対して急激な抵抗がなく、フワリと波浪の衝撃を受けるから
船体も傷つかずに済んだのであります。



 吾々の心にも、あの鉱石船よりも、まだまだ沢山重荷を積んでる人がある。

そういう人が癌に罹るのであります。
だから“癌“という字は“疒(やまいだれ)”に“品物の山”と書いてある。

癌で死ぬ人は、あまりにも、心の中に品物の山を積んでいるために、
積み荷の重みに耐えかねてどこかに亀裂を生じて沈没した船のようなものなんですね。

併し人間は”神の子”であって、鉱石運搬船じゃないのですから
本来ありもしない積み荷を、どっさりと自分の心の中に積み込む必要はない
のであります。

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“心“に何ものも積み込むな (29375)
日時:2020年08月22日 (土) 07時25分
名前:源流

道産子
2020/06/26 (Fri) 08:32:16
〜2020/06/28 (Sun) 08:21:14

     “心“に何ものも積み込むな

 何も積み込まなかったら、吾々の本当の心は自由自在なのです。

自由自在なのが、人間の実相の心――本当の心なのですけれども、
そのままカラッポの心なら自由自在なのですけれども、
自由自在だから執着したり、粘りついたりすることも出来る。

それで勝手に、物に執着して蠅が蠅取黐(はえとりもち)に
足を突っ込んで粘りついて動けないのと同じような姿になるのです。


『斯うだ』『ああだ』と、『無い』ものを『ある』と
みとめて、我執というのに引っかかっている人があります。
これが病気の因なんです。


 そこで、皆さん、蠅が蠅取黐に足をくっつけて動けないようになるのは、
なぜあんなになるかというと、蠅もあれは欲張って執着のためにそうなる。

台所においしそうな御馳走があると思ってやって来て、それに誘惑されて、
足元に気が付かずに黐にひっかかるということになるのであります。

私たちは、目先の慾にひっかからないで、脚下に気を付けなければならない。
これを「脚下照顧」と言います。

 あのカリフォルニア丸でも、あれは鉱石をうーんと積んで、
その重みをつかんでいる。

それで波が来ても、蠅取黐で海にくっついたようになっとるから、
自由自在に動けないで、波に叩かれると、頑固に海水中に粘りついて、
波のまにまに動けないもんだから船体が折れるより仕方がない、
という事になった訳であります。

 このような実例でもわかりますように、吾々は執着の念を以って、
一杯、心の中に荷物を積んだりすると、癌になったり、色々の病気になって、
カリフォルニア丸のように沈んでしまうのであります。


“斯うだ”“ああだ”“ああだ”“斯うだ”と“無い”ものを“ある”と
思っていろいろと悩んでいるのが、この迷っている人の姿である。

そこで皆さんは、この「把み」や「執着」の原因になる“現象”を
“現象本来なし”「現象は幻術師の所幻のただの映像だ」と
維摩居士のように悟らねばなりません。


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“迷い”で病気にかかっている (29381)
日時:2020年08月27日 (木) 09時07分
名前:源流

道産子
2020/06/29 (Mon) 08:15:05
〜2020/07/01 (Wed) 08:21:37


    “敵は本来ない“ということ

 病気の人は、その肉体を治そうとするより先に、
『無い』ものをハッキリ『無い』と知って執着を外す事なのです。

『敵がある』『あいつがこんな事をしやがった』と思って腹を立てたり
しているけれども、そんな”敵”と見える者は、
神さまのお造りになった世界にはないのです。

“ない”のに“ある”ように見えるのは“心”という妖術師が、
感覚という手品の種を使ってあらわしている“幻の人間”に過ぎないのです。  

 維摩経には、現象は、外見には堅固な事実のように見えていても、
本当は、中はカラッポだということを芭蕉に譬えて説明しているのであります。

芭蕉の木は、一見堅く立っているところの大樹のように見えているけれども、
幹の中は空っぽで、大風でも来たら直ちに折れてしまうのが芭蕉であります。

 或いはまた、現象の非存在で常住性のない事を、
維摩経では稲妻に譬えています。
稲妻はパッと煌いたと思ったら、すぐ消えてしまうのである。

人間界の現象的存在も、そんなものは瞬時にして消えてしまうのであって、
それを”永遠の存在”だと思ってこう掴んでいるのが、
病気のもとであるのであります。

        ・・・

   世界も“迷い”で病気にかかっている

 今、世界も病気に罹っているのであります。
北ベトナムも病気に罹っているしアメリカも病気にかかっている。

何か思い違いをしているのであります。

メンツのためとか、イデオロギーのためだとか、本来ない面子や
イデオロギーをあると思って、それを守り抜かんならんと把んで、
その執着のために戦っている。

イスラエルとアラブ諸国とも、こうして戦争をしている。
ソ連がアラブ諸国に武器を供給すると、アメリカがまたイスラエルに
武器を供給して、そして他国人を使って、新兵器の威力テストのために
殺し合いをしているのです。

まことに気の毒であるが、あれも執着である。
執着を放させるほかに救いようがないのであります。

         ・・・

     衆生病むが故にわれ病む

 ところで、維摩居士のように悟りをひらいた聖者が何故病気に
かかったりするのであるかと文殊菩薩が維摩にたずねると、
「菩薩の病は大悲より生ず。衆生病むが故に我れ病む」と答えている。

維摩のような覚者になると、自分の心の迷いで病気になるのではない。
わが身体を世界の鏡として、衆生即ちすべての人類の心の病を
維摩自身の体に振替えてあらわして見せて、病気見舞いに来る人たちに
病気の原理を説明するために病気を仮りに顕わしているというのであります。

これが、維摩が「衆生病むが故にわれ病む」の意義であります。


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光明皇后の奇蹟について (29386)
日時:2020年08月30日 (日) 10時24分
名前:源流

道産子
2020/07/02 (Thu) 08:33:29
〜2020/07/04 (Sat) 08:32:39


       光明皇后の奇蹟について


 維摩居士という方は、ただの人間ではないということが
維摩経の終りに近いところに出て来るのであります。

それによると、維摩というのは
東方阿閦(あしゅく)如来の再来であるとあります。 
阿閦如来というのは、奈良に今も遺跡があるでしょう。

というのは光明皇后は仏の慈悲はその愛を実践しなければならないというので、
千人の病人の身体を洗ってやりたいという念願を立てられて、浴場を建立せられた。

その浴場の遺跡が今も奈良に残っておりますが、皇后が、九百九十九人の病人を
洗い終わられた時、千人目に癩病患者がやって来て、
「皇后様、どうぞ私の身を洗って下さい」というのであった。

それでその癩患者の体を洗ってやっていると、
「皇后様、私の背中が腐って、そこから膿血が流れているのでございましょう。
膿血を、皇后様、あなた御自身の御口をつけて、御口ずから
この膿血をお吸いくださいましたならば、私の癩病は治るのでございます」
と言ったのであります。

大抵の人なら「ああきたない、迚もこれは叶わん」と逃げ出すかも
しれませんけれども、光明皇后さまは、その癩患者の背に、
自ら御口をおつけになってお吸いになったのである。

ここが大切である。よく心で聴いて下さい。


 肉体はないのである。病気はないのである。
だから、穢れなく流れているところの膿血もないのである。

皇后さまは屹度、本来清浄の此の人間の実相を御覧になったのです。

この人間の実相は、本来如来である。
光明輝く如来のいのちがそこに姿をあらわしていらっしゃるのが、
この癩患者である。

だからこれにキッスすることは、如来にキッスをすることである。
そういうわけでその膿血を口をつけてお吸いになったにちがいない。

その瞬間、癩病患者と見えた姿は消えて、彼は阿閦如来の光明燦然と輝く
仏の姿に化して現われられたというのであります。

これは神話でしょうけれども、そういう神話の中に、
全ての人間はその実相を観ずれば、かれは既に如来である、
という真理が表現されているのであります。



ここに、皆さんが人の病気を治す原理もあるのであります。
また自分の病気の治る原理もあるのです。

あなたの前に、仮に病人がそこに居ったら、
神想観をして、病気を見ないで実相を見る。

そして断じて病気を見ないんだ。
現象は本来無いからだ。
そして、相手の人が如来である実相を観るのです。

換言すれば、かれが”神の子”として”神の生命”が今滔々と光明輝く流れ
となって、その人間に流れ入って、既に彼の体に一点の曇りもなく、
そこに、”神の生命”が光明燦然と輝いていらっしゃるその実の姿を
心に描いて、じーっと観ぜさせて頂くのです。

そうしたら、“見られる世界”は見る人の“心の影”であるから、
“見る人”の心の中にその人の病気が消えてしまったら、
その人の病気も消えてしまうということになるのであります。


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“祈り合い”の神想観 (29388)
日時:2020年09月02日 (水) 08時43分
名前:源流

道産子
2020/07/05 (Sun) 08:18:04
〜2020/07/06 (Mon) 08:17:18

     “祈り合い”の神想観

 実例をもって言えば生長の家の飛田給の道場でも、
「祈り合いの神想観」をする時間があるでしょう。

すなわち修行者を、”祈って貰う人”と”祈ってあげる人”と
二組に分けて互に向き合わせて、「祈って貰う側の人」は
「今この神想観により、神の癒しの霊光が自分の全身に流れ入って、
自分の全身を癒しの光明で満たして、もう既に病気は無いのである」
と繰返し念ずる。

そして「祈ってあげる側の人」は、積極的に、
「あなたは神の子であって、今、滔々と神の癒しの生命(いのち)が
ずーっと流れ入って、神の癒しのいのちが光明燦然と輝いて充ち満ちていて、
どこにも病気の状態(すがた)はなく、一点の曇りもない神そのままの
靈身である」ということを、繰返し念じて祈ってあげて、
絶対健康の相手の人の実相を観ずるんです。


 そうすると、癒して貰う人の心と癒してあげたいという人の心とが、
一つに融会(ゆうえ)して、それが恰度、陰陽の電気が、互いに触れると、
そこに、電気が流れるように、神の癒す力が流れ入って、
現実に病気が消える、ということが起って来るわけなのであります。

これは祈り合いの相互の念の感応によって癒るんですが、
自分の病を自分自身が一人念じても、神との一体感によって
矢張り癒らないことはないけれども、

キリスト教の聖書にも、「二人して祈れば、必ずその祈りは実現する」
とありますように、一人で祈るよりも、”祈って貰う人”と
”祈ってあげる人”と、“受ける人“と“与える人“とが、
陰陽相揃うて、祈る場合には、一層効果が多い、ということになるのであります。


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“寂滅の慈“を行ずること (29403)
日時:2020年09月05日 (土) 08時09分
名前:源流

道産子
2020/07/07 (Tue) 08:23:36
〜2020/07/09 (Thu) 07:45:03

     “寂滅の慈“を行ずること

 さて、「現象は無い」という事を、維摩は、

「菩薩というものは、衆生を観ずるに、衆生即ち人類を観るのに、
恰度魔法使いが現わした幻の人間、テレビに映った人間のようなもの、
水の中に映ったお月様のようなものだ、
それは現われているけれども実在ではないのである」

と言ったので、文殊菩薩が、

「そんな人間というものが幻のような存在ならば、慈悲を行じよう
と言ったって、慈悲を行なう事なんかは出来ないではないか」

と言って尋ねたというのであります。

すると、維摩詰は答えたのです。――

「菩薩たるものは、衆生を『幻師の現じた幻の人間』だと観じ終ってから、
みずから心に念じて、次のように衆生たちのために、

『是れ即ち真実の慈である。寂滅の慈悲を施しているのだ』と心に念ぜよ。

何故なら一切衆生は本来“不生”であるからだ」


 現象の人間を、「幻の人間」だと観じたら、慈悲を行ずることが
出来ないではないか文殊菩薩はいうけれども、そうじゃないんだ、
これは実相の智慧によって“寂滅の真理を教える慈悲“を施しているのである。

本来、一切衆生――肉体の人間――というものは無いという真理を
施しているのであるから、これこそ本当の慈悲というものであると、
維摩は答えているわけであります。


 それは、この、「肉体の人間」を“幻の人間“だと悟らないで、
煩悩即ち「肉体の欲望」を基本人権であると考えて、
人間を“肉体的単位”で見るからそういうようなことになるのであります。

煩悩というのは、貪瞋癡(とんじんち)の三毒でありまして、
貪る心、瞋る心、愚癡の心であります。

こういう迷いがあり、こういう三毒の心がありますと、
カーと興奮して熱くなります。

これに反して肉体は「幻の人間」であり、諸々の現象は『所生なきもの』即ち
”本当の実在として、あるのではない、影のもの“だとわかりますと、
この熱くなる心がなくなる。

だから、維摩は肉体は「幻の人間」と知らしてやることは
『不熱の慈』を施したということになるのだといっているのであります。

  (この御講話終わり)

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7973672

人間の脳髄には主体性なし (29422)
日時:2020年09月08日 (火) 08時30分
名前:源流

道産子
2020/07/25 (Sat) 09:05:53
〜2020/07/27 (Mon) 08:50:08

   維摩経を語る―承前―    谷口雅春先生

         精神科学誌 昭和45年9月号

     ⛈ 人間の脳髄には主体性なし


 今日の体験談の最初の一人の青年の方が神想観の功徳をお説きになった。

“神想観をして神と一体感を得ないと本当に正しい行動がとれないと
いう気がする”という話でありました。

それは何故かというと、人間の脳髄というものは、
極めて精巧に出来た電子計算機みたいなものであります。

人間の拵えた電子計算機よりはもっと複雑でもっと部分品が多く、
もっと巧妙に、デリケートに出来ているのであります。

 しかし、此の肉体の脳髄は”四大和合して”と維摩経にありますように、
”四大“すなわち”地水火風”の元素の集合体である。

”地”とは固まりのあるもの、
“水”とは流れるもの、
“火”とは燃えるもの、
“風”とは空気のようにガス体のもの、

この四つを仏教では宇宙生成の根本元素として
「四大」といっているのであります。

脳髄というものは、その四大元素が集まって出来ているところの
電子計算機であります。



 普通われわれは“頭で考える”と申しますが、
これは頭脳に“考える主体”があるのではなく、
われわれが電子計算機に問題を提出すると、解答が出て来るのと
同じように出来ているんです。

 けれども、電子計算機というものは、あの天気予報でさえも間違うでしょう。

今日も昼御飯を食べる為に講習会場から自宅まで自動車で走っておりますと、
正月の一張羅の綺麗な着物着ている人が雨にかかって傘もなしに
歩いている気の毒な姿を見かけましたが、それは、何故かというと
電子計算機を使って天気予報をしながら、それが盛んに間違うという事です。


 一九七〇年代は情報時代で、電子計算機が余り発達するので、
人間が逆に電子計算機に使われる事になるかも知れぬというような事が
問題になっているけれども、

どんなに精巧に此の脳髄の物質的構造が精巧に出来ておっても、
これは必ず間違うことが出て来るというのは記憶装置に過去のデータが
組み込んであるだけで、そのデータを基礎にして判断が出て来るので
それは全智ではないからであります。

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全智者たる神の叡智を受信せよ (29430)
日時:2020年09月10日 (木) 07時41分
名前:源流

道産子
2020/07/28 (Tue) 08:17:20
〜2020/07/30 (Thu) 08:34:32

  ⛈ 全智者たる神の叡智を受信せよ


 そこで私たちは全智なる神の智慧を、電子計算機に受信する装置を
造らなければいかん、という事になるのであります。

これが神想観であります。

単に過去のデータばかりを記憶装置に入れて、それに基づいて
計算をして答えを出すだけでは、常に新事実が追加される
現実世界に対処していくためには、足りないのであります。

これにはどうしても神様の智慧に導かれて”吾れ何を為すべきか”
という事を教えて頂かなければならないのであります。


 維摩経に「此の身は主なし」と説いているところは、結局、
肉体というものには本当の“我(が)”はないという事です。
”ガ“というのは、”我(われ)“という字が書いてあるんですが、
”主体“の事です。

肉体は一種の電子計算機的装置でありますから、判断や解答を出しても、
それには主体たる「霊魂」はなく唯、機械的に解答を示すだけであります。

人間の主体は、“仏性”即ち“如来”なのでありますが、
肉体はその“如来”の唯の“容器(いれもの)”として、或いは
ただの”道具”として、「心の糸を組み合わせて肉体の繭を造り」
というように聖経『甘露の法雨』に示されてありますように、
”念波の糸“をもって、拵え上げた繭みたいなものであります。

すなわち蛹(さなぎ)が入っている繭みたいなもの、蓑虫が入っている
蓑(みの)みたいなものが肉体なのであります。

 これはなかなか不自由なものである。



 あのアポロ十一号がお月さんへ行った。
お月さんには空気はないものだから、空気の圧力の中に育ってい

人間の肉体では圧力の差で出血して死んでしまうから、
肉体の内部圧力に抵抗する気圧を持った宇宙服というのを着て、
月に着陸して何かちょっと仕事をしましたけれども、地球の上で
自由に動いているような自由自在な働きは出来ないのであります。

そういうようにですね、吾々の霊が地球に生まれて来て、
こういうように肉体という宇宙服を着ているときには、霊だけが裸になって
純粋霊として動く時のような自由な活動が出来ないのであります。

だからどうしても肉体以上のはたらきを求めるためには、
神様の智慧を得て、神様の力の補充を得て仕事をしなければ、
充分のはたらきが出来ないという事になる訳であります。

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正念を以て煩悩を除け (29446)
日時:2020年09月13日 (日) 10時02分
名前:源流

道産子
2020/07/31 (Fri) 08:43:18

     ⛈ 正念を以て煩悩を除け

 それで、この維摩経の本の三百十三頁には、舎利弗という智慧第一の
釈尊の弟子が質問しているのに対して維摩が答えているところを読んでみます。

『又問ふ、「衆生を度せんと欲せば、當に何の除く所なるべき」
(衆生を度するというのは、衆生すなわち人類を救ってやろうと思ったら、
当(まさ)に何を除くように教えなければならないか)

 といって訊いたのです。

『答えて曰く、「衆生を度せんと欲せば、その煩悩を除け」

『又問ふ、「煩悩を除かんと欲せば、當に何の行ずる所なるべき」
(煩悩を除こうと思ったら、どのように行じたら、いいのであるか教えて下さい)

『答えて曰く、「當に正念を行ずべし」』

というように維摩は答えているのであります。

“正念”というのは、「ここは正念場だ」などと言うでしょう。
「ここは正念場だ」だというのは、正念を出して来なければならない
ギリギリの場だ、という意味であります。

舎利弗が「煩悩を除かんと欲せば、當に何の行ずる所なるべき」と
訊いた時に「當に正念を行ずべし」と維摩は答えたのです。


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“不生”なるものを知り“不滅”の実相を知ること (29460)
日時:2020年09月18日 (金) 08時31分
名前:源流

道産子
2020/08/01 (Sat) 08:47:14
〜2020/08/02 (Sun) 09:11:38


 ⛈ “不生”なるものを知り“不滅”の実相を知ること

 そこで「正念を行ずるというのは一体どうするのであるか」と
舎利弗がきいたら、

「当に不生不滅を行ずべし」と維摩は答える。

「不生不滅を行ずべしといったらどうするのか」といって
また舎利弗がきいているんですが、

「何の法が不生なるか、何の法が不滅なるか、それを知ることである」
と維摩は喝破している。

この場合の“法”というのは“もの”(thing)というような意味であります。

そして、

「不善は不生であり、善法は不滅なり」と
ハッキリ割り切って答えているのであります。
ここは生長の家と維摩教とは同じであります。


 不善というのは“悪“の事です。
”不善”すなわち“悪“というものは、あるように見えても”不
生”である。
そんなものは生じたことがないから存在しないのであります。

「善法は不滅なり」で、ただ善なるものだけが不滅であるから、
それを念じなさいと維摩はいっているわけなのであります。

 ここが大切なところで、正念場である、
今この時、この場が、この正しい想念を起す“場“である。

こうして真の人間は肉体ではないという真理を教えられ、
その真理のみを念ぜよと教えられているのです。

肉体はただの道具である。
それは心の糸を組み合わせて拵えた肉体の繭であり、心の所産なのですから、
“幻”のようなものであると維摩教は教える。

「この身は幻の如く響きの如く、実(じつ)ありと見ゆれども空し」
と説くのである。

即ち、肉体は一種の心の波動のあらわれであって、
常住のすがたのないものであるというのであります。


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肉体は心の絃の奏でる音楽の如し (29468)
日時:2020年09月20日 (日) 08時35分
名前:源流

道産子
2020/08/03 (Mon) 08:53:42
〜2020/08/04 (Tue) 08:51:20

  ⛈ 肉体は心の絃の奏でる音楽の如し

 だからと言って、肉体はどうでもよいと軽んじていいかというと、
決してそうじゃないのであって
それは心の奏でる音楽みたいなものであります。

音楽は形がない、それは波動である。波動であるから無茶苦茶の波動を
起してもいいかというと、そういう訳にはいかんのであります。

 音楽は波動であるからその波動の起すリズムを、美しきリズムと
ならしめ妙なるメロデイを奏せしめなければならない。

此の音楽を奏する指揮者が吾々の霊魂であり、
霊魂が主体になって、心の音楽を奏するのであります。

無論、肉体は物理化学的法則によって動いている。

それはピアノの弦や琴の弦が物理的に振動して音を発しているのに似ている。
しかしその音は妙なる節度をもってリズミカルにその振動を制御して行くのが
音楽家の使命である。


  私たちの霊魂は”肉体”という“波動体”の音楽を立派に演奏して行く
音楽家だと、いうわけなんであります。

その使命を完うする為には、私たちは毎日、怠らず神想観をして、
全智にして無限の善なる神様のリズムに合うような心の波動になるよう
調律しなければならない。

吾々の肉体は、生命が奏でるところの楽器である
と同時に音楽そのものでもある訳です。

その楽器はうまく調律しなければいい音色を出すことが出来ない。
その調律する方法が神想観なのであります。

私たちは心の調律を忘れて調子はずれの楽器を弾奏しておったのでは、
どんな天才音楽家でも立派な音楽を奏でることは出来ない
という事になる訳であります。

 維摩経の説く、こういう真理を教えられても、
頭では“解った”と思うけれども、真理は頭で解っただけでは足りない
のであって、矢張り神想観をして全身全霊をもって味到し体得しなければ
ならないのであります。

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本当に存在するのは“善”なる実相のみ (29475)
日時:2020年09月25日 (金) 08時24分
名前:源流

道産子
2020/08/05 (Wed) 08:34:24

  ⛈ 本当に存在するのは“善”なる実相のみ


 維摩は「なにが不生であるか何が不滅であるかを知れ」という。

肉体は本来“不生”であって無いのである、
そんな“無いもの”を把む心を捨てなさい。

本当にあるのは”善なる実相”だけである。

実相は肉眼に見えないけれども、あなたの本体は、肉眼には見えないが、
“完全な実相のあなた”が今此処にいらっしゃる、
それが“真(ほんと)のあなた”である。

その“真(ほんと)のあなた”をじーっと見詰める修行が神想観である。


こうして“真のあなた”の安全な姿を一心不動に見つめると、
その実相の通りの心の波動が此の肉体という楽器に、
完全な音楽を奏することになる。

その心の弦の奏でる音楽が具体化して”肉体の繭”が出来ているんだから、
自然に肉体も健康になるのである。

つまり”肉体”という楽器は自分の奏でる音楽によって、
肉体の其の姿を自己修正するようになっているわけであります。

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“不生不滅を行ずべし”と維摩は説く (29494)
日時:2020年10月01日 (木) 08時52分
名前:源流

道産子
2020/08/06 (Thu) 08:18:11

  ⛈ “不生不滅を行ずべし”と維摩は説く


 何が不生であるか何が不滅であるかをハッキリさせなければならないのです。

“病気は不生であるから本来ナイ”と教えられ、
それは頭で解ったようだけれども、しかし、病床に横たわっている人は、
自分の病気の肉体をアルと思って可愛がっている。

これでは「不生不滅を行じた」のではないんであります。
無いものを“無い”と知り、不滅のものを不滅であると知らなければならない。

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因縁所生の肉体というもの (29508)
日時:2020年10月07日 (水) 08時39分
名前:源流

道産子
2020/08/07 (Fri) 08:46:14
〜2020/08/08 (Sat) 08:17:06

    ⛈ 因縁所生の肉体というもの

 戦後の日本人は、アメリカの民主主義が導入されて来て、
国家よりも個人の福祉を重んずる個人主義になってしまったのであります。

現行憲法によれば個人さえよければいいのであって、
国家も国民が福利を得るための道具であり、
主権は国民にあって国家主義というものはない。

国民が福利を得る為に信託してやらしているのが国政であると、
現行の占領憲法には書いてあるのであるから、
国民の福利にならん国家なら、その信託を解除できる
というような日本国憲法の前文がある。

従って国民の福利を害すると国民が解釈するならば、

自衛隊の行動をも裁判官の判決によって停止できるように
なっているのであります。


 しかしよくよく考えて見ると、人間は単に個人として
存在するんじゃないのであって、個人としても存在しないことはないけれども、
個人だけでは生きられるものじゃないのです。

すべての人間とのつながりによって人間は生かされている。
だから、“ヒト“は単に「人」ではないのであって「人間」である。

また「人」という字も、両方から、もたれ合いで立っている象形文字である。
仏教ではこれを縁起という。

人間は因縁によって生じたものである。

“袖振り合うも他生の縁”という諺があるんですが、
兎もかく一人では生きられない。

こんな洋服だって、これは誰かが、オーストラリアで育った羊が拵えてくれた
羊毛で織られたものであるけれども、その羊は誰が拵えたかというと、
神様が拵えたのである。

神が拵えて、その羊の毛を人間が刈って来て、それをキレイに洗って染めて、
織りなして、やがて洋服屋が寸法を測ってこれを製造した。

その間には数え切れないほどの沢山の人の縁に従って、
ここに姿をあらわしているのであって、ただ一着の洋服を着ようと思っても、
自分の力だけで出来ているのではないのであります。


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すべてのものに感謝を行ぜよ、感謝は恵みを増幅する (29533)
日時:2020年10月14日 (水) 08時45分
名前:源流

道産子
2020/08/09 (Sun) 09:06:43

  ⛈ すべてのものに感謝を行ぜよ、感謝は恵みを増幅する

 そうすれば吾々は、
すべてのものに感謝しなければならない事は当然のことであります。

人間はみな文化的生活を送る権利があると占領憲法は、
権利ばかり主張して感謝の念を起させないように、
不平の念を起して内部紛争で国内の治安を紊(みだ)すように
煽動されているが、

いくら幸福の中に居っても、もし感謝の念を忘れて、
権利の利劔で角衝き合わしていては幸福ではないのである。

感謝の念というものは、
与えられたところのものを反射して輝かす心である。
幾ら光線があっても、光を反射する何物もなかったら其処は暗いのである。

太陽から常に平等に光線が降って来ていても、地球の空気圏を離れて
宇宙船で真空圏へ行ったら、そこは暗黒なんです。

周囲は暗黒で、光を反射する地球の方を見ると、
「地球だけは明るくて、青かった」と飛行士は言っている。

地球がこうして明るいのは、空気があって太陽の光を反射して、
光を八方に拡散してくれているから全体が明るく見えているのである。

何にも反射するものがなかったら、どんなに太陽の光線が来ても、
そこは真っ暗がりなんです。


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“菩薩、心浄ければ仏土浄し” (29541)
日時:2020年10月17日 (土) 08時15分
名前:源流

道産子
2020/08/10 (Mon) 08:39:15

   ⛈ “菩薩、心浄ければ仏土浄し”

 地球を離れて上昇して、真空圏にある宇宙船から地球を見たありさまを
「明るく青く見える」と言って写真にまで撮れるのは、地球が光を
反射しなかったら、光はあれども光はないと同じ事である如く、

兎も角も、この光を反射する心――受けた恩恵に感謝する心
――「有難うございます」と、光を反射する心を起さなければ、
どんなに豊かに恵福の充ち満ちている世界にあっても、
そこは修羅場であって、天国浄土は出来ないという事になるのです。

だから維摩経には「菩薩、心浄ければ仏土浄し」と釈尊は仰せられている。

すると弟子が「この世界が浄らかでないのは、お釈迦様、
あなたの心が浄らかでないからですか」と訊いている。

すると釈尊は「日月の光は常に浄らかであるのに、暗いというのは、
日月の罪ではない。それは盲者自身の罪である」と答えていられる。

なかなか興味ふかい問答であります。

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国民が国家を攻撃できるように定めた占領憲法 (29570)
日時:2020年10月26日 (月) 09時09分
名前:源流

道産子
2020/08/11 (Tue) 08:01:25
〜2020/08/12 (Wed) 08:08:34

⛈ 国民が国家を攻撃できるように定めた占領憲法


 だいたい占領軍が占領の軍政中に押付けた日本国憲法は
占領軍が日本国家を弱体化する為に、国家の部分たる国民に主権があって、
“国家という、ぜんたいの生命体”に対して、国民が攻撃を加え、判決を下し、

国防力を弱めるように書いて、これが”人類普遍の真理である”なんて
非真理な事を書いてそれを無理に押付けたのがこの占領憲法であります。

こんなものは真理でも何でもない。

本当の真理は、自分というものは一人で、生きているのではない、
神様の命を戴いて生きているのである、
衆生の御恩に生かされて生きているのである。




 更に日本の国に生まれて、日本の国の御恩に生かされて生きているのであるから、
常に日本の国に対して感謝してその恩を返さなければならないのである。

此の世界は、原因・結果の循環の世界であります。

与えたら、またそれが還ってくる。返したらまたそれが還って来る――
ということになっているのであります。

 この原因・結果の循環は吾々の呼吸をするのだってそうです。

息は沢山吸い込めば得である、というわけで、それで呼き出す事を止めて、
ただもう吸う事ばっかりやったら私たちは健康になるのであろうと思って、
空気を呼くことを忘れて、吸うばかりやっておったら窒息して死んでしまう。

私たちは呼き出して又吸うから、
空気中の酸素等を吸収することが出来るのであります。


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真理は知行合一によってのみ力を発する (29629)
日時:2020年11月01日 (日) 07時57分
名前:源流

道産子
2020/08/13 (Thu) 07:57:16
〜2020/08/16 (Sun) 08:14:32

  ⛈ 真理は知行合一によってのみ力を発する

 ところで、聖書によりますと、キリストは「主よ、主よという者
必ずや天国に入るに非ず、神の御心を行ずる者のみ天国に入る」と
言いましたが、

キリストに頼って”キリスト、キリスト”と御名を呼びさえした

天国は入るかといったら、そうじゃないんだ、神の御心を行ずる者だけが
天国に入るのであるとキリスト自身が言っているのであります。

これは真理の実践のみが地上に天国浄土を造るという意味です。
此の世界は“善法”のみが不滅であって、それが実相である。

だから人間は健康な生命(いのち)だけが本当の実相である――と
教えられても、その真理が頭に解っただけでは足りないのです。

本を読んで、「私は『生命の實相』何冊を何遍繰返して読んだ。
そして真理は解った」という人がある。

かれは、真理は解ったのであるけれども、”その真理が本に書いてある”
と解っただけで、”自分が解った”のと違うのでは駄目であります。

本に書いてある意味を理解したと言うのと、自分が悟ったというのとは、
大変違うのであります。




 私は嘗て兵庫県の龍野という所へ講習に行った時に、講習が終って
幹部会があって、三十人許り集まりましたが、その中の幹部の中の一人が
次のような体験談を話したのであります。

「私は十数年間結核でずーっと病床に寝とったのであります。
その寝とった間に『生命の實相』を何遍も繰返して読んで
“人間は神の子であり、病気はナイ”という事は解った。

そう書いてあるとわかった。
けれども、わたしは、やっぱり寝ておったのであります。

矢張り結核は治らんと寝ていたのです。

ところが或る日に、『生命の實相』の生活篇を読んでおったら、
『今、断々乎として病無きことを信じて起て!』
という言葉が書いてあったのです。

それを見たときに、わたしは、はじめて心の眼が開いたのです。

ねえ、今まで十数年間、こうして“病気無い“と本に書いてあると
わかっていながら、どうして私は病気無いように行為しないのであるか。

それは“病気無い”と解っていないで“病気ある”とわかっとって、
それで“本には病気ナイと書いてあるとわかっているというだけで、
”自分が病気ナイ“という真理がわかっていなかった。


 これは“病気ナイ“の真理を行じなければいかんのだ!という事に
気が付いたのです。

すぐ立ち上がって、結核で今まで寝とったこの私が、それから薪割りをした。

私はそれでそのまま結核が治っちゃて、現在(いま)こうして健康でいるんです。

 だいたい、こういう意味の体験談を話されたのであります。

なにしろ病気の体を可愛がっているようなことでは、
“病気”は去って行かないのです。

あそこへ行ったら“病気”の体を可愛がって尊重してくれると思って、
いつまでも病気が居候しているという事になるのであります。

病気が訪問してもお客さまとして丁寧に扱う様な事では病気は去って行きません。

 ところで、当今はやる民主主義というのは、人にもよるけれども
個人主義的マイホーム主義で、ちょっと病気したら直ぐ欠席する。
そして欠席の理由も、“風邪引”と書いてあったり、
病気なのだから休むのは当然の権利みたいに書いてある。

民主主義の世界には病気する権利があるみたいに、休むのが当たり前だ
という様な風習に現今の社会がなっているのに、
わたしは近頃出勤簿を見て驚いたわけであります。


 私は、もっと人間自身が自覚を高めて、「人間・神の子」の自覚を
有(も)って、病気みたいなもの負けるものか!という自信をもつと共に
”自分”という者が、単に”個人”としての存在ではなく
”公”の存在であり、”個人”の御都合のために”公”の義務を
怠ってはならないと思うのです。

僕はアメリカの会社に居ったことがあるけれども、アメリカの会社は、
却々(なかなか)家族の病氣なんかで休めやしないです。
自分自身が病気であっても休めやしなかった。

無論家族位の病気で休暇は認められない。

ところがそのアメリカから入って来た民主主義が、日本に横行し
た結果、
日本では「家族が病気だから今日は欠勤します」とか、
「家事の都合で欠勤します」とか平気で欠勤理由を書く、
そしてそれを当然のことだと考えている。

個人や個人の家事の都合が第一で、
自分の勤めている会社やら団体は、第二である。

個人が主体であって会社や団体は個人の福祉のための手段であり、
個人を都合よくするために月給貰うための一つの場所であると、
そんな風に考えている人が随分沢山殖えているらしいのです。

それと同じ考えを国民が国家に対しても有っている。
それを私は情けないと思うのであります。

”公”というものは大宅であり大親家であり、吾々の生命がそこで生まれ、
そこで育ち、そこで生活している根元を為している因縁の集合体だから
大切にしなければならないものであります。

          (終り)

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何故菩薩は病に罹るか (29781)
日時:2020年12月25日 (金) 07時49分
名前:源流

道産子
2020/12/23 (Wed) 08:49:28


      維摩経を語る 一承前−

                 谷口雅春先生

 (精神科学誌昭和45年10月号)


     ⛅ 何故菩薩は病に罹るか


 維摩居士が釈尊に劣らぬ大覚の大士であったのに、
何故病気に罹って臥してあるかを病間の使い文殊菩薩が尋ねた時に、
維摩は「菩薩の病いは大悲より生ず、衆生病むが故にわれ病む」と答えた。

そして病気見舞いに来る人々のために”病気本来無”の真理を説いて
病気を超克する道を説法したのでした。

病気しておっても、本来人間ば’神の子’,であるから、
無限の力があるのであるという真理を悟り、たとい今、
現象的には病気しておっても、それは、自分が病気してるんじやないんだ。

それは、想念の影に過ぎないところの肉体が病気してるんだから、
それは−ぺん吐き出した煙の形みたいなもので、
”俺の本体とは、なんの係りがあるんだ。病気してる奴は勝手にしとれ!
俺は神の子無限力で働くんだ,と、

まあそういうような気持ちになって動くとですね、
病気が消えてしまうことになるのであります。

‘‘病気”だから会社を休みたい’’とか”辞めたい”とか、
‘‘病気,,というものを、怠けたり、逃避したりするための口実にする
という様な気持があると、その想念が病気起す因(もと)になるんです。

健康で会社を休むと誰も同情してくれないが、
病気で会社を休むと同情して貰える。

それで’’他から同情して貰いたい’’という様な気持を起すと、
それが病気の因になるのであります。

“心はすべての造り主’’なのであります。

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肉体は本来“不生’’である (29792)
日時:2020年12月26日 (土) 07時51分
名前:源流

道産子
2020/12/24 (Thu) 08:35:30


   ⛅ 肉体は本来“不生’’である


 肉体は‘‘想念の影’’でありますから、
影はいくら実在するように見えても、それには実体がない。
実体がないから非実在であり、
生まれたように見えても実際は生じていない。

だから『維摩経解釈』の本の三一五頁九行目以降に次のように
私はその解釈を書いておいたのであります。

『肉體は本來‘‘不生”であり、非存在と知り、人間の生命が
久遠不滅不死のものと知れば、肉體の現象がどうあらうとも、
そんな事に迷ひの心をひつかからせずに、「わがいのち久遠不滅なり」と信じて、
その信念を實行に移して、今、現實に無病健康として生活に行じなければなりません。

さう實行なさるやうに勸めてあげて、重病から立ち上がつた人も
随分澤山あるのであります。』

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不善は不生である。悪は存在しない (29795)
日時:2020年12月28日 (月) 08時43分
名前:源流

道産子
2020/12/25 (Fri) 08:20:24

    ⛅ 不善は不生である。悪は存在しない

 こうして、維摩居士が「不生不滅を行ぜよ」といったものですから、
文殊菩薩が「如何なる存在が不生であり如何な存在が不滅であるか」
とたずねたのです。

そのときに、

『「不善は不生」というのは、不善は、本来非実在であるから、
アルが如く見えていても本来生じたことがないから、非実在である。

病気や不幸も、如何にアルが如く見えても、
それは神が造ったことがないから不生であって非実在である。


真に生じたものは、神から生じたものであるから善法であり、不滅である。

人間も真に生じたものであり、苛も此処に存在する限りは、
実在であり、実在であるから不滅である』

と維摩は答えているのであります。
 
そうすると、文殊がまた問うのであります。

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“悪’’は何処から生じたか (29816)
日時:2020年12月29日 (火) 07時40分
名前:源流

道産子
2020/12/26 (Sat) 08:29:28
〜2020/12/27 (Sun) 08:56:24


   ⛅ “悪’’は何処から生じたか


「善と不善と孰(いず)れを本となす」

善ばかりあって不善はないのだというものですから、
無いのに善と不善とが何が本で出て来たのであるかと問うのであります。
 
 そうすると、維摩が、
「肉体があると思う、それが本じや」とはっきり答えているのです。

善ばかりある世界に、善でない悪というものが生まれて来たのは
何故であるかというと、

「肉体があると思う、それが本じや」と維摩は答えるものですから、文殊は、

「肉体は本来無いと聞いていますのに、その肉体はどうして出て来たのですか」

「それは、欲と貪る心から出て来たのじや。色欲で貪るように
肉体に凝着するから出て来たんだ」と維摩が答えているのです。
 
 すなわち、無い肉体をあると思って、肉体を楽しませたいと思って、
それで肉体に執着するから生まれて来たんだという訳です。
問答はまだ続くのです。

「それは、欲と貪る心とから出て来たのじや。
色欲で貪るように肉体に凝着するからじや」

「その欲貪は何がもとで出て来たのですか」

「虚妄すなわち無いものをあると判断するからじや」

この悟りが大切なのであります。
肉体は本来無い。それは“心の糸”で組み合せて出来たもので、
本来ないものであるのを、アルと思うからそれに執着して、
そのために迷いの心が出て来るんじやと維摩はいうんです。

「無いものをあると思うが迷いなり、真相を知らざるが迷いという」
と聖経にありますが、


“有(う)’’を‘‘無’’と思い、
“無’’を‘‘有’’とサカサマに思う。
それが顛倒の想である。

「顛倒夢想を遠離すれば恐怖なし」と、般若心経にはあるのです。

‘‘顛倒’’というのはひっくり返る、あるものを無いと思い、
無いものをあると思って、ものを逆さまに考えるのが迷いである。



 ここに生きているいのちは、
完全な神の生命が今此処に自分に於て生きているのに、
完全な神の生命などないと思って、逆に肉体という軈て滅び去るものが
此処にあるんだと、サカサマに思っているので、
このサカサマの“無い”ものを“アル’と思う“夢の想い”を顚倒夢想という
のであって 「一切の顛倒夢想を遠離したら恐怖なし」
と、般若心経には書いてあります。

 吾々が恐怖心が起るのは、この肉体をあると思うから、
ある肉体が傷ついたり、死んだりしたらかなわぬと思うからこそ、
恐怖心が起る。

この肉体に黴菌が付きやしないか、病気になりやしないか、
死にやしないか、誰かが私を殴りやしないか、と思って
恐怖心が起るのですから、顛倒夢想を遠離したら、恐怖心が無くなる。

それで、三世の諸仏は、みんなこの真理を悟ることによって
“阿褥多羅三藐三菩提を得給えり”と、般若心経に書いてあるのです。

つまり、“仏たるべき最上の悟り’’は、
五蘊皆空一肉体は本来無い、物質は本来無いと現象を否定し、否
定して、
その否定の極に、もう否定しても否定し切れないところの生命(いのち)の
実相が厳然として実在することが、本当にわかるのであります。

 現象を否定し物質を否定し、肉体を否定しなかったら、
本当に存在する生命の本当の素晴しさはわからないというのは、

恰度雲があると思って把んでおったら、青空があるのがどうしたって見えない
のと同じことです。

 雲を否定し、否定して、雲を払い除け、突き抜けて行った時に、
“常住の青空”というものが見えるようになるのです。

それと同じように肉体も物質も五蘊皆空と否定して、
そのサカサマを拒む心を投げ捨ててしまった其の否定の極にこそ、
はじめて存在の実相を悟ることが出来るわけなのであります。

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顛倒の想いは何処から来るか (29818)
日時:2020年12月30日 (水) 08時42分
名前:源流

道産子
2020/12/28 (Mon) 08:52:33


     顛倒の想いは何処から来るか

「その顛倒の想いというのを棄てよ。
顛倒の想いというものは、無いものをアルとし、アルものを無いと思う、
それがサカサマじゃから虚妄(うそ)のものじや」

 といって維摩が答えている。すると、

「どうしてその顛倒の想いがでてきたのですか」といって文殊が訊くのです。

 これはなかなか仏教でも難しい間題とされているもので、
“迷い“はどこからでて来たか、といって慧可禅師が達磨大師に訊いた
という有名な話があります

が、これは理論では、なかなか追いつめて行くことが出来ない。

『維摩經解釈』の本の三一七頁八行目にはこう言って答えています。

『何といっても住(つかま)へ所はない。住へ所がなくヒョッコリ出て来たのじや。

『ではそのヒョッコリは何処から出て来たんですか。

『ヒョッコリには本はないのぢや。文殊菩薩よ、
全ての現象はヒョッコリから生まれてでたのぢゃよ。
のう解ったか』
 と、維摩は言ったのであります。

 ここで暫く『維摩經解釈』の本を朗読する事に致します。

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煩悩の誘惑を遠離するには (29826)
日時:2021年01月03日 (日) 08時28分
名前:源流

道産子
2020/12/29 (Tue) 09:04:40
〜2020/12/30 (Wed) 08:15:38

      ⛅ 煩悩の誘惑を遠離するには
                              
『その時、維摩の室にひとりの天女が天降って來て、
文殊菩薩と維摩居士との問答を聴いてをりましたが、

たちまちその姿をあらわして、天の華をもって、菩薩
及びそれに扈従してゐる大弟子たちの上にハラハラと散じました。

そして菩薩のところへ降った葩(はなびら)は落ちて地に敷きますが、
大弟子の身遍に降って来る葩は大弟子の身體にぴったり膠着してしまって
離れません。

大弟子たちは~通力をもって、身體からその葩を引き離さうと
致しますけれども、何としても身體からその葩を引き離すことが出來ないのです。

その大弟子のなかには智慧第一の舎利弗も混ってゐます。
舎利弗が身體からその花びらを去らしめようと踠(もが)いてゐるのを
見まして、天女は申しました。

「どうして、貴郎は、その花びらをお厭いあそばすのでございますか」

「この華は不如法だからだ。だからわたしの身に付けることは出來ないのだ」

 かういつて舎利弗が花びらを引き離さうと致しますけれども、
花弁は益ゝ舎利弗の身體にくつついて離れません。・・・・・』
(朗読を止めて)


 不如法というのは「如法」でないことです。
“如’’というのは‘‘真如”、
「如法」というのは「真如の法(もの)」であって実相です。

「不如法」というのは実相でないものという意味です。

「実相でないものだから、そんなものを身につけたくないから
それを離したいと思うのである」といって、

舎利弗が、その花びらが肌にくっついて離れないのを
離そうと椀いているけれども、どうしても離れないのですね。

 天女が舎利弗を誘惑する為に天から降らした花びらであるから
穢れているのであるから不如法のものであって、実相ではないのであるから、
それは私は身に付けることは出来ないのである。

言い換えると、舎利弗は「そんな天女の汚れた誘惑にかかってなるものか!」
と言ってその花びらを離そうとしている。

そうすると天女が、

「この華は決して不如法でもなければ、汚れてもおりません」といった。

「何故かと申しますと、この華は善でもなければ悪でもありません。
善悪の分別がないのです。唯そのままなのです。
善悪の分別をなさるのはあなた自身の想念の中にのみあるのです。

あんた自身の心の中にあるんですよ。

あなたのように仏法を求めて出家して、善悪不思の境涯にあるべき人が、
善悪の分別をなさること、その事が“不如法“ではありませんか」
 
 在るものは悉く実相であって、実相以外のものは無いのである、
それだから“人間知恵’’をもって“あれは悪い、これは悪い’’と、
そういうふうに分別をしてひっかかるなと、教えられているところの
その仏法を信じているあなたが、

“この華は穢い、天女が私を誘惑する為にこんなに私に投げかけた花であるから
穢いとおっしやるのは、あなたがまだそのままの心になっていらっしゃらない
からじゃありませんかという意味であります。

天女は続けて言うのです。

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“そのままの心“になり切る (29830)
日時:2021年01月04日 (月) 08時43分
名前:源流

道産子
2020/12/31 (Thu) 08:48:18

    ⛅“そのままの心“になり切る


「わたくしが菩薩たちに華を降らせても、その花びらが菩薩のお身体に
くっつかないのは、菩薩様たちは、一切善悪の分別をなさらないで、
そのままの心でいらっしゃるからでございます」
 
 彼奴は悪い奴だから排斥せんなら〜ん、と思っていると、
その“排斥せんならん’’というやつがくっついて来て、
ダニのように離れないということになる訳なのです。                   

そこで、善悪不思の境涯に入って、ただ実相だけがある、
という悟りの境涯になったならば、そんな誘惑は
ついて来て離れないということはないのですよ。

それは矢張りあんたの心の影なんですよと、
まあそういうことを天女はいっているわけであります。


 その意味を『維摩経解釈』の本では次のように書かれています。

『その花びらが菩薩のお身體にくつつかないのは、菩薩様たちは、
一切善惡の分別をなさらないで、
そのままの心でいらつしやるからでございます。
譬へばこちらが畏れますと、非人(魔性のもの)が力を得て
人を惑はします。・・・・・』

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恐れるものが姿をあらわす (29833)
日時:2021年01月06日 (水) 08時30分
名前:源流

道産子
2021/01/01 (Fri) 08:32:43
〜2021/01/03 (Sun) 08:33:33

   ⛅ 恐れるものが姿をあらわす

 畏れると、非人のものが、たかって来て人を惑わすというのです。
”非人‘‘というのば’乞食‘‘の事じゃないんです。
’’人間に非ず“と書いてあるが、これは動物の霊魂みたいなものです。

人間でない霊物の事を非人というのです。

そんな、迷える霊みたいなものがやって来て人を惑わす事になる、
畏れるからやって来るのです。

天女は斯う言います。

「生死を恐るる時は色声香味触という五官の対象となるものが心を惑わします」

 すなわち、この肉体が死んだら叶わん、と思うと、
肉体の寿命をちぢめる原因だとして栄養学者が挙げている食品がみんな
‘‘敵,,みたいに見えて来て、そして心を惑わすということになるのです。

しかし天女はこういうのです。

「しかし既に恐怖心を離れるものにはいかなる五欲も
あなたを縛ることは出来ません。

花びらがあなたのお身体について離れないのは、結局、あなたの心の影
でございまして、あなたに五官の美しさに恋着したり排斥したりする煩悩が
まだあるから、その花びらが‘‘きたない誘惑じゃ,,と思えて、
離そうと思えば思う程、くっついて来るということになるのです。

そういう煩悩が尽きてしまったら、菩薩に花びらを投げかけても花びらが
くっつかないのと同じで、どんな誘惑の花びらもくっつくことは
ないのでございます」


 この天女の言葉を注釈して『維摩経解釈』の本は書いているんです。
ちょっと読んでみます。

『この天女の言葉は、まことに素晴しい眞理を穿ってゐるのであります。
天女から雨降らした花びらは、天女の誘惑の象徴であります。

誘惑を誘惑とし、それから逃れようとするとき、却つて誘惑は
自分の身體について離れないといふことになるのであります。

これは病氣の場合でも同じであります。
誘惑も「道徳的病氣」と観ることが出來ます。

「病氣を惡であると認めて、それから逃げ出さうと思つて、
「病氣、病氣、この病氣を如何にして自分から引き離さうか」
とあせりましても、それは舎利弗が自分の身に膠着してはなれない天華を
引離さうとして踠いても、いつかう、その天華がはなれなかつたと同じやうに、
「病氣」は引離れないのです。

それは心に病氣をゑがいてゐるからであります。

天華が善でもなく悪でもなく、人間の分別を超えて、「そのまま」であるやうに
病気も善でなく、悪でなく、人間の分別を超えた存在であり、
病氣を思ひ詰めれば、病氣ははなそうと思つてもかへつて膠着して
離れないのであります』


 そこで天女は最後にこう言ったのであります。

「是の華は分別する所なし、仁者、自ら分別の想を生ずるのみ」

分別というのは、善悪を区別して“わける”ということです。
善であるとか悪であるとか、“人間ごころ”で判断して、
そして善悪を分けようと思うから、
善にも見え、悪にも見えることになるのである。

それで煩悩がまだ尽きなかったならば、華が――誘惑が、
自分の体にくっつくだけである。

煩悩が尽きてしまった者には、もう誘惑の華が、くっつこうと思っても、
くっ付かないのであると天女は説くのであります。

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“解脱’’は何処にあるのか (29842)
日時:2021年01月09日 (土) 09時02分
名前:源流

道産子
2021/01/04 (Mon) 08:37:38
〜2021/01/05 (Tue) 08:45:06

   ⛅ “解脱’’は何処にあるのか


 その時に舎利弗が天女に訊いた。

「あなたが此の部屋に居られますのは、既に随分久しい間でございますか?」

 天女はそれに答えないで、却って問い返して、

「あなたが解脱なされましてから、どれ程の年限が経ちまするか?」

 舎利弗が黙念としていますと、天女が、

「あなた程の大徳がどうして黙っていてお答えにならないのですか」と
重ねて問いかけるのでした。すると、
「解脱というものは、言葉では説明することが出来ないからです」と舎利弗は答えた。

 解脱とはさとりをひらいて一切の束縛を解き、
その縛りから脱した状態になることであります。

その境地は、仏教では、‘‘言詮不及(ごんせんふぎゅう),,といって、
言葉で詮議をしても到底及ぶところがないというのであります。

 また文字を立ててよく説明することは出来ないとて、
‘‘不立文字,,といわれているんです。

だから舎利弗は「解脱という悟りの境涯は言葉に言い表すことが出来ないので、
それで私は言わないで黙っているんです」と答えたのです。

すると、また天女が言うんです。

 「解脱とは、内にあらず、外にあらず、両者の中間にも在らず、
文字も亦内にあらず、外にあらず、両者の中間に在らず」

言語文字も形に捉われたら、解脱の境涯を説くことは出来ません。
人間も肉体という形に捉われたら、自由自在を失って解脱の境地に
入ることは出来ないんです。

形を越えてその奥にある生命を把握する時、人間も肉体ではなく、
言語文字も「形」ではなく、一切の諸法――一切のありとしあらゆるもの――が
悉くそのままに‘‘円満完全、自由自在“であって、何処にも
‘‘煩悩,,というものも、‘‘悪”というものも何もない。

だから天の華が仁者(あなた)の身休に膠着しても、それを避ける
必要はないではないかと天女は滔々として辨ずるのでした。そうすると、

舎利弗は、

「だけれど、‘‘婬怒癡(いんぬち)を離れることを以って解脱する
というではないか」と尋ね返します。

“婬怒癡’’というのは‘‘貪瞋癡(とんじんち)”という語と同じで
“姪”というのは“貪る,,こと、
”怒‘・というのは、,,腹立つ‘・こと、
’’癡’’というのは‘‘愚かなる,,こと、愚癡なることです。

舎利弗は、天女が「誘惑の華」が体についても、
そのままに離す必要もないではないか、
そのままの心でいると何者もあなたを害することは出来ないと言ったのに対して

「だって、貪ることや、怒る心や、愚かな心を捨てて、それが離れることが
解脱というではないか」と常識的な見解で反論しているのです。

すると、天女は次のように言うのです。

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貪瞋癡そのままに悟りの境地 (29847)
日時:2021年01月10日 (日) 08時40分
名前:源流

道産子
2021/01/06 (Wed) 08:31:31


   ⛅ 貪瞋癡そのままに悟りの境地


「仏、増上慢の人の為に、婬怒癡を離るるを解脱となすと説き給うのみだ。
若し増上慢のない者には仏は,“婬怒癡の性、即ち是れ解脱‘‘と
説き給うのです」

慢心をして、まだ修行が足らん癖に、修行が足りているような気持ちに
なっている人には、“貪り”の心や“怒り’’の心や、‘‘愚か’な心を
離れることを‘‘解脱”しなければならぬと釈尊は教えられるんだけれども、

悟りを開いた人に説くのには、貪る心、怒る心、愚かなる心、
即ちそのままに解脱であると説くのであると天女は説く。

ここがなかなか難しいところなのです。

真理を貪る心も、政治の不信に腹立つ心も、
衆生の身になって世間の事象を思い煩う愚癡の心も、
悟りを開いた心境にとっては、みんなそのままに解脱であり、
仏の慈悲の展開であるというんです。

「悟りを開いた心境」というのは、神想観をして、神様のいのちと
一つになり、神様の智慧と一つになった心境になることです。

その心境に於て動き出すならば、貪るべきものを貪り、腹立つときに腹立ち、
愚痴の諭議を弄すべきときには滔々と論じてよいのです。
 
 神と一体の心境に立って、腹立つべきときに腹立っていると、
「あの先生、偉そうに言うてるけれども、時々癇癪起すぞ」なんていって
批判する人があるけれども、腹立つべきときに腹立たんような奴は、
柔弱であって却って吾らの頼りにならぬ奴である。
                      
日本を潰そうとしている赤い運動家に対して、吾々が大いに憤慨する!
というのは、これは神様の智慧が現れているんだから、
決してそれは迷いの心ではないのであると、
まあそういうことにもなるわけなんであります。

ですから、悟りを開いたら、金を儲けても、政治に関係しても、
大いに世相を愚痴っても、もうそれはそのままに悟りの行いである、
ということになるのです。


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雅春先生の維摩経――承前、この項終わりです。 (29850)
日時:2021年01月15日 (金) 07時32分
名前:源流

道産子
2021/01/07 (Thu) 07:40:45


 で眠い時に眠り、食べたいときに食べ、叱りたいときに叱り、
ぽかんとしていたい時にはぽかんとしており、
独言いいたいときには独言を言い、
呟きたい時に呟いている、そのままにそこに実相が現れている。

それは、百合の花が咲きたい時に咲いている。それと同じことなんです。

なにも不思議なことはない、そのままに、それ
が‘‘解脱’’なんだという意味であります。

すべてのものはそのままの境地になって受ける時に、

悪いものが消えてしまって、善(い)いものだけがそ

こにあらわれてくるのである。

そういうような意味のことを、天女が言うものだか

ら、舎利弗は大いに感嘆して、

「善い哉、善い哉、天女よ、汝は如何なる道を得、證
を得て、そのような辨説自在になったのですか」

 といって訊いたら、天女は、

「わたくしには何の得たところもございません。證

(さとり)もありません。ただそのままだから、辨才が自由なのです。

もし、自分が道を得たとか、證を得たとか鼻高々と思

うようであっては、それは仏法では増上慢といって排

斥されるところのものでございましょう」
 
こういって答えたのです。

 仏教では「悟ったと思ったら、悟っていないのであ

る」と、いうような自警の言葉がありますが、吾吾が

「これで悟った」と力んだら、”悟っていない’’のです。

「俺は偉いぞ」という奴に、あまり偉い者はないのである。

何にも思わず、そのままに神様の智慧がそのまま生活

にあらわれて来るというのが本当の悟りの境地である

というわけであります。

そこで舎利弗が、天女に、「あなたはこの世界に何の

目的をもって生れて来たのであるか。又、どうして生

まれ変つて来るのであるか」と訊きます。                             
     (一応の終わり)

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8026814

【維摩経】を現代に生かす1〜谷口雅春先生〜 (29955)
日時:2021年03月25日 (木) 18時46分
名前:源流


谷口雅春 音声集

【維摩経】を現代に生かす1

https://www.youtube.com/watch?v=HzLC43mGMWw

【維摩経】を現代に生かす2〜谷口雅春先生〜 (30074)
日時:2021年05月25日 (火) 07時21分
名前:源流

谷口雅春 音声集

【維摩経】を現代に生かす2

https://www.youtube.com/watch?v=dsORZgVaSE8

【維摩経】を現代に生かす3〜谷口雅春先生〜 (30193)
日時:2021年06月25日 (金) 08時38分
名前:源流

谷口雅春 音声集

【維摩経】を現代に生かす3

https://www.youtube.com/watch?v=gFtVqhDk7OY

【維摩経】を現代に生かす4〜谷口雅春先生〜 (30245)
日時:2021年07月27日 (火) 08時15分
名前:源流

谷口雅春 音声集

【維摩経】を現代に生かす4

https://www.youtube.com/watch?v=W_N90A8MTxQ

【維摩経】を現代に生かす5〜谷口雅春先生〜 (30328)
日時:2021年10月06日 (水) 07時07分
名前:源流

谷口雅春 音声集

【維摩経】を現代に生かす5


https://www.youtube.com/watch?v=7Y9DLN2w8ko

衆香国(しゅこうこく)の香積仏(こうしゃくぶつ) (30394)
日時:2021年12月12日 (日) 08時40分
名前:源流

神の智慧と愛の“ひかり”2021年1月 4日

舎利弗(しゃりほつ)が
「(聴衆の)この多数の菩薩に何か食事を差し上げたいが、
どうしたら好いであろうか」と念(おも)ったというのです。(p.436) 


「そんなに素晴らしい食物が欲しいのならば、現象界の食事ではなしに、
お前たちの未だ曾(かっ)て現象界では味ったことのない実相界の
素晴らしい食物をたべさせてあげましょう」と言ったのでした。(p.437)


『国あり、衆香と名づく、仏を香積(こうしゃく)と号す。
今現に在(ましま)す。』(p.438)

 『国の名を衆香というのは、この国は物質の集合によって出来たのではなく
、香気馥郁(ふくいく)たる霊的波動の集りによって出来上がった世界だ
と謂(い)うことであります。』(p.438)


『この衆香世界の一切は物質で出来ていない。
楼閣−−高層建築から殿堂建築に至るまで悉く、
香気馥郁たる霊的波動で出来ており、

お経を読んで修行する道場も、庭園も皆、香の霊気をもって造られ、
食物も皆、香の霊気で出来ているのであって、その香のすばらしい波動が
十方にある無限の世界に周(あまね)く流れているというのであります。

 是の時に彼の仏即ち香積仏が多勢の菩薩と共に坐して
食事を偕(とも)にしたもうというのであります。

何という素晴らしい饗宴(きょうえん)でありましょう。

諸君もこういう素晴らしい宴席に是非とも侍(はんべ)りたいと
お考えになるでありましょうが、実際は、もう既にこの宴席に今此処に
坐しておられるのであって肉眼でそれを見ることが出来ないだけであります。』(pp.439-440)



維摩詰はこう言っています。
「諸賢も皆実相は神の子であり、現に香気の家に住み、
香気の食物をとって生きているのである。」(p.441)


https://kibounohikari777.cocolog-nifty.com/blog/2021/01/post-8477f6.html

諸々の煩悩 (30409)
日時:2021年12月30日 (木) 19時27分
名前:源流

『維摩経解釈』(P293)
 
“諸愛”というのは諸々の煩悩のことであります。

『阿含経』には釈尊が悟りを得られたときの状態を“諸愛ことごとく解脱し”
という風に書かれております。

近代の日本語では慈愛と愛とを混同して使いますから、
色々実際人生に於ける道徳行の上に混乱を引き起こしているのですが、

“好き”とか、“欲しい”とか、“自分に近づけて置きたい”とか、
“離れたら淋しい”とか感ずる愛は、これは我れと等しからんと欲する愛
ですから、等慈であって、煩悩であります。

無等慈は、我れと等しからんことを欲しない、
自分が斯うしたいと思うように相手を縛らない愛であります。

相手の
肉体は、“幻術師のあらわした幻の肉体”に過ぎないとわかれば、
わが如く等しくして異なることなからしめんなどと執着した慈悲を行わない。
相手を自分に縛りつけて置こうなどと思わない。


日本(日本人)が大東亜戦争で果たした役割は菩薩の衆生救済≠ナある (30445)
日時:2022年01月27日 (木) 08時09分
名前:源流

粟野真弘のblog
2016年08月02日


「我心憍慢の者には、爲に大カ士と現じ、諸々の貢高を消伏して、
無上道に住せしむ。」

菩薩は必ずしも柔和なだけではないのであります。

「右の頬を打つ者あら ば左の頬をもめぐらせて之に打たせよ」
といふ無抵抗主義が效を奏すること もありますけれども、
必ずしもさうは行かない。

戰爭放棄、無抵抗主義が好いとともありますけれども、
それも時と場合、相手の人や國に應じて施策をめぐらして行くのが
「實相」把握の菩薩の勝方便なのであります。

「観普賢菩薩行法経」には、「無量の勝方便は實相を思ふより得られる」
と示されてゐるのでありまして、實相を把握したときには、
人・時・處に三相應して自由自在の働きが出来るのであります。

だから無抵抗ばかりが菩薩の勝れたる方便ではないのであります。
時として、大力士の姿を現じて、
ガチンとその高慢の鼻をくぢいてやる事も必要なのであります。

これが「心憍慢の者には、爲に大力士と現じ、諸々の貢高を消伏して、
無上道に住せしむ」であります。

無上道といふのは此の上ないサトリの道であります。

嘗て、白色人種が有色人種を馬鹿にして、東亞の諸國は殆ど悉く
その植民地化か屬領化してゐた頃、日本が蹶起してガチンと
白色人種の厖大な軍備の國に對して一擊をくらはしたのであります。

その爲に日本は軍國主義者だと言はれ、
戰場には附隨し勝ちな暴虐事件などもあって、
日本は世界から色々の批難を受け、
自國もまた一時占領されるなどの
「劍をとるものは劍にて滅びる」の心の法則を
實演するに到ったのであります。
 
しかしながら、かくの如き「菩薩日本」の十字架によって、
東亞の有色人種はどうなったかといひますと、

「人類は皮膚の色彩によって、その天賦の本質に高下があるのではない。
みんな『~の子』」叉は『佛子』として平等の權をもってゐるのだ」

 といふ無上のサトリ(無上道〉を得るに近づいて來、
東亞の民族獨立の機運を醸成されたのであります。

東亞民族が殆どすべて獨立して自主性を恢復しつつあるのは
日本のおかげなのであります。

だから菩薩道は無抵抗主議ばかりではいけないし、
また軍國主義ばかりでもいけません。

なぐる時にはなぐらなければならないし、
お辭儀する時には正直にお辭儀をしなければならない。
さうかと言って、いつまでもお辭儀をつづけてゐる必要もない。

菩薩は自由自在に千變萬化して衆生を救濟するのであります。
                               (『維摩経解釈』400〜401頁)

http://blog.livedoor.jp/mmmawano550121/archives/48136928.html

【維摩経】を現代に生かす6〜谷口雅春先生〜 (30615)
日時:2022年03月29日 (火) 11時18分
名前:源流

谷口雅春 音声集

【維摩経】を現代に生かす6


https://www.youtube.com/watch?v=Z6jRvG_E0to

維摩経を読んで (30625)
日時:2022年04月07日 (木) 08時53分
名前:源流

本流宣言掲示板
生命の實相 『釈迦と維摩』の戯曲を読む人々へ
日時:2011年08月18日 (木) 14時04分
名前:童子

          一、 維摩経を読んで

 維摩経の講義の中に『大乗の菩薩は、衆生病むが故にわれ病むのであって、
衆生の心の病を自分に現して見せなければ衆生に分らないから、
わが体に振替えて見せて悟らすのが大乗の菩薩である。

大乗の菩薩は既に現世の生を卒業して当り前なら、
此の世に生れて来ぬ者である。

それが此の世に生れて来て、病気などして苦しむのは、
衆生を救わんがために其のようなことをするのである。
すなわち、菩薩の病気といふものは、大悲にて起る。』 
と維摩が云っているのであります。


 ここに大悲というのは大きな悲しみではない。慈悲の悲であります。
此の『悲』という字は『楽(らく)を与える』という意味であります。 

『慈』というのは苦しみを抜くという意味であります。 

だから『慈悲』とつづけて、人の苦しみを見て、
『あゝ可哀想ぢゃ、あの苦しみを除ってやりたい、
そして楽を与えてやりたい』 というのが慈悲であります。


 生長の家ではすべての人間を観世音菩薩
 ― すなわち大乗の菩薩のあらわれと観る。

そこで良人なら良人の病は、大乗の菩薩の大愛に依って起るのだと観る
のでありまして、真理を知らせて本当に、法の楽しみ
 ― 法楽を与えんが為に自分の身に病気を現わして、
衆生の心を浄めてやりたい ― 

『お前の心は斯ういう相であるから省みてその心を浄めよ』と、 
観える形に相手の心のすがたを現わさんが為に出て来るのであります。

 そこで御主人が病気であれば、あゝ是は大乗の菩薩の姿である。
観世音菩薩の悲願の現れである。
自分の心に醜い姿を現わして私を救って下さるのである。 
そういう風に見るのがよいのであります。


 御主人に限りません。子供の病気は親の心の影であります。
子供に限らず、家族のうちの誰が病気であっても吾々はそれを
その人が悪いというといけないのです。

無論、病人自身は脚下照顧して自分自身を反省すべきであるが、
環境はみな自心の展開であるから、 

『あの人が悪いのではない。相手は自分の心の鏡であるのだ』 
斯う思って、その相手を拝み、自分の心を反省して気のついたところを
改めて自分の心の相を直せば、
周囲(良人又は子供)にあらわれている病気が治るわけであります。

http://bbs2.sekkaku.net/bbs/sengen/&mode=res&log=781


二、或る奥様の話 (30741)
日時:2022年05月11日 (水) 20時06分
名前:源流


本流宣言掲示板
二、或る奥様の話 (3966)
日時:2011年08月18日 (木) 15時45分
名前:童子

 あの維摩経の講義を読んでおさとりになった奥さんがあります。

 この奥さんは或る時自動車に触れて外傷性の肋膜炎になった。
それ以来、道を歩くことが恐ろしくて恐怖心で外に出ることが出来ない。
半町程距っている市場に行くのも恐ろしいというので、外部に出られなかったのが、
生長の家に入信なさってお治りになったのですが、
その奥さんは嫂と大変仲が悪くて常に争っていられた。

 そして或る日、嫂さんに非常に侮辱されて口惜しくて口惜しくてたまらない
気持で茫然と電車を待って停留場の一角に佇んでいると、
突然自動車が後方から衝突して怪我をした結果、
外傷性肋膜炎になったのであります。 

それ以来、自動車に乗れないばかりか、あらゆる乗物が恐ろしくなって、
街さえ歩くことが出来なかったのです。


 それが『生長の家』をお読みになって、人間は神の子であり、
この世界は神の造り給うた完全な世界であって、歩けない人は一人もない。

嫂が悪いと見えたのは自分の心の影であると悟って、心の世界で嫂と和解せられた。 
すると乗物恐怖症が消え、街も自由に歩くことが出来るようになられた。

 それから、大変有難くなって、自分の主人は痔が悪いものですから、
此の主人も何とかして病気を治してあげたいと思って、一所懸命に
「あなた『生命の實相』を読みなさい、読みなさい」というのでしたけれども、
中々お読みにならないのです。 そこで治してあげたいと云う執着の心で
『生命の實相』に引っかかったのであります。

 『生命の實相』の悟りというものは、
心をさらさらとさせるのが『生命の實相』の悟りなのですが、
『生命の實相』にでも引っかかってはなりません。 

人間の生命の實相が完全だと云うことは、
もう既に完全である良人の生命の實相(ほんとのすがた)を観よと云うことであって、
「お前の生命は不完全だから、完全になるために此の本を読め」と云うのでは
ありません。

 それだのに此の奥さんは『生命の實相』に引っかかったために、
『生命の實相』が蝿取黐みたいになって、それが心に粘りついたのであります。
どうも二進も三進も行かなくなったのです。

 『あなたは是の本を読まないから治らないのですよ』と始終口うるさくいって、
頻りに『生命の實相』を読むようにすすめられたのです。

 そうすると、何でも、良人と云うものは天邪鬼で奥様から勧められると
反抗したくなり勝ちなのであります。 
そんなものに引っかかってなるものか。 
そんな本に書いてある事位は既に知っている、 というので、
夫婦の間に争いが起った。

 この争いの心と云うのがまた痔を悪くする。
いても立ってもいられない気持が痔を起すのです。 

痔だとジッと坐っておられないでしょう。
それが、痔を患う人の心のすがたであります。 
どうしても痔が治らないばかりか、だんだんその痔核が大きく膨れて来て、
一寸歩いても身体全体に響いて飛び上る程痛いというような状態になった
のであります。

 ところが、此の奥さんが或る日『生命の實相』を読んでいられると
気がついたそうです。


 『生命の實相』というものはそんなに引っかかるものではないのだ。
生命の實相というものは、さらさらと引っかからないものが生命の實相である。
青空に浮ぶ白雲がいくら流れても引っかかりもせず、跡をも止めず、
そのまま素直である。 

あゝ是が生命の實相の本当の姿なんだ。
私も此の青空のような心にならなければならない。 

現象の姿はただ雲の去来する影に過ぎない。 
雲はいかほど去来しても青空は汚れない。

現象の姿はどんなにあらわれていても良人の生命の實相は
あの青空のように清くけがれない、
すべてのものにそのまま感謝するのが是が生命の實相であるのだ。

良人の不完全な相を見て治そうとするよりも、良人の実相に感謝しましょう。 
そう気がついたのであります。


 そうすると、今、私の主人が病気で寝てこんなに苦しんでいるのも、
是は自分の心が鳥黐のように引っかかっていることが、
これが主人にうつっているのではないか、まことに申訳ないことだ。

斯う思って、夜半御主人が寝ていらっしゃる枕頭に起き出て来て
、良人の寝顔に対って合掌して拝まれたのですね。 

これが維摩経にある、『煩悩は如来の種』と云うことになるのであります。
若し、この煩悩に引っかかる心がなければ、良人をこんなにも切実に拝む心には
なれなっかたでありましょう。


 「あゝ悪うございました。私の心が『生命の實相』に引っかかって、
あなたを悪い悪い悪いと責めておりましたが、本当はあなたは悪くなかったのです。
私の心の相が映っていたのでございます。私が悪かったのです。

あなたは神の子であり、實相に於いて完全圓萬な佛であり、
観世音菩薩のあらわれであり、もう既に救われていらっしゃる。
常に健康でどこにも病気のない、自由自在な《いのち》でいらっしゃるのでした。

それなのに、私の心が引っかかって、そして貴郎を、
そういうような病気の相にあらわしたのです。
そしてその自分の引っかかった心があなたの体に現れて、
斯ういう風に痔になっていらっしゃるのは洵に申訳がございません」 といって、
一心に拝まれたのでありますね。


 そうしますと、或る朝、御主人がお便所においでになって、
廊下で奥様と出会いがしらに顔を見合わせると、

 「今日は不思議だ、不思議なことがあるものだ、
すっかりあのひどい痔がよくなって、今便所に行ったけれどもちっとも痛くない」 
斯ういって喜ばれたのであります。 

 奥様が良人の實相を観世音菩薩として拝まれたとき、
完全圓萬な良人の實相があらわれて病が消えたのです。 

そうすると、良人は「大乗の菩薩」であり、
「あなたが『生命の實相』を読まぬから病気が治らぬ。
病気がなおらぬのはあなたが悪いのだ」 と考えておったのは間違いであって、

実は、奥様の心の状態を身にあらわして病気しておられたのが
大乗の菩薩であるところの良人の姿であったと云えるのであります。


 奥さんが鳥黐桶に足をつっ込んだような、
そういう引っかかった気持をしておられたから、
その心を救わんがために、大乗の菩薩たる良人が痔をあらわして
苦しんでいたのであります。


 生長の家は『生命の實相』でも執着したらいかぬというのであります。 
善でも「これが善である」と形をつかんだら悪になるのであります。
中々難しいようですね。

だけども一番やさしいのが生長の家の生き方なのであります。


 何でもくっ着いたら窮屈になります。 動けなくなります。 
その窮屈な状態から解放されるように教えるのが生長の家なのですから、
最もやさしい楽行道が生長の家なのであります。

http://bbs2.sekkaku.net/bbs/sengen/&mode=res&log=781

三、 その頃の想い出 (31038)
日時:2022年07月23日 (土) 10時58分
名前:源流

本流宣言掲示板
三、 その頃の想い出 (3968)
日時2011年08月18日 (木) 16時56分
名前:童子


 それは日本の軍国主義盛んなりし時代のことでありましたが、
病気は心の迷いに依って起るというので、
心を一転することによって無数の病気が治ったのであります。


 近眼なども「近眼はチカメだ」と一喝することによって治ったこともあるのです。
チカメと云うのは實相がわからないで、
身近にある現象ばかりに心がひっかかっていること
なのであります。 

だから迷いによって近眼起っているから、
近眼を治すには迷いを取去りさえすればよいと云うことに
なったのであります。

 すると、
「迷いに依って病気が起るとすると、畏多くも天皇陛下が病気に
お罹りになった時には、天皇陛下が迷われたと云うのか」
 と云って極右翼を装ったヤクザ者が恐喝に来たことがありました。


 「陛下が近眼でいらっしゃるのは陛下が近眼(ちかめ)か、
近視眼者流だと貴様は云うのか。
生長の家の教えは不敬であるから、解散させねばならぬ」 と云うのです。

 大本教の解散命令が出、「ひとのみち」が解散命令を受け、
次に大きな新興教団は生長の家だから、
この次の解散は生長の家だろうと云うので、
いずれも神経をとがらしている頃でした。

 しかし、其頃も唯今も、生長の家の教義も信念も
決して変わらないのであって、
生長の家は決して機会主義者オポチュニストではありません。


 大乗の菩薩は衆生の心を浄めんとの本願に依って身に病いを
あらわすのであって、

陛下は『大乗の菩薩』であるから、陛下の身に近眼が現れて来る
というのは、それは吾々国民、特に国民全体の代表者として
政治をとっている人たちの心が迷って近眼であったから、
その大多数国民の「近眼の心』の有様を陛下は自分の身に
あらわして近眼の姿をあらわしておられたのであります。


 良人の病気が妻の心のすがたの反映であるように、
国民の心の「チカメ」が〃国民の総意の象徴〃
(その頃はこんな語は使わなかったが実質は同じことであります)
であらせられる天皇の玉体に鏡に映るが如くあらわれていたので
あります。 

 だから天照大御神の神勅には
『我を見ること此の鏡を見るが如くせよ』と
仰せられてあったのです。


 天皇は国民総意の象徴として鏡の働きをしていらっしゃる。
ですから、国民のチカメの総意が陛下に現れて来るということになって、
そこに畏多いことながら、陛下は身に近眼を現わされていたまうのであります。


 国民の心のチカメは国民の総意の象徴たる天皇に現れる。 
若し国民が(その内には当時の軍閥も含まれている)チカメで
なかったならば日本はあんな愚かな太平洋戦争などしなかったで
ありましょう。

 吾々は天皇は『国民の総意(こころ)の象徴』であると云うことを、
よく身に心に体して常に反省し、心を浄めて陛下の御宸襟を
悩まし奉らないようにしなければならないでありまして、

現在の陛下のお姿を拝するにつけても、日本国民の心は
まだまだ充分反省すべき余地があると思うのであります。


http://bbs2.sekkaku.net/bbs/sengen/&mode=res&log=781

四、維摩の部屋は何故空であったか (31139)
日時:2022年09月02日 (金) 11時06分
名前:源流

本流宣言掲示板
四、 維摩の部屋は何故空であったか (3969)
日時:2011年08月18日 (木) 17時48分
名前:童子


 文殊菩薩が維摩居士の病気見舞に行ったときに、
部屋は空(からっぽ)であって唯一人維摩だけが寝ているのであります。

 是だけ広いお金持の家なら沢山の家の子郎党など
がおりそうなものですけれども誰もいない。

そこで空(からっぽ)であるというのは
『空(くう)』を現わしているのです。

空(くう)でなければ、自由自在になれません。
何かを掴んでおればそれだけ不自由なのです。
だから仏の国というのはからっぽなのです。

 〃からっぽ〃だから、極楽であり、
からっぽだから無尽蔵のものが生ずるのです。 
これが空即是色であり、無一物中無尽蔵であります。 

吾が富をつかんで、「私は金持になりました」と
富を掴んだときにはきっとその人は富に心が引っかかり
どこかの点で心の「自由自在」を失っているのでありますから、
形は富んでも心はそれだけ貧乏になり餓鬼道に堕ちているのです。

 だから真の仏の国はからっぽであり、真に富める者は『掌中無一物』です。

 『掌中無一物』といっても何もない貧窮の状態ではないのであります。

あの物理学上のエーテルのように何もないところから一切のものが生れて来る、

『空(くう)』のままに一切が其処にある、
必要に随って一切が自由自在に出る世界なのであります。

 執いやらしい心、欲望、執着、凝り、そういうものが一切ないから、
本当のからっぽであり乍ら一切が其処に備わっている。

此れが『空即是色』と云うもので、そう云う世界が佛の国である。
それが極楽の世界である。

或る人は生長の家は『色即是空』は説いてあるが、
『空即是色』は説いていないと評したが、
これが、空即是色である。 

佛の国は空のままで一切が備わっている、これが實相です。


 どうして佛の国は空であるかというと、
「空であるから空なんだ」ここのところの問答が中々難しいのです。

  「何故空であることが判るのか」 

  『「何故」はない、「何故」があるなら空ではない。
    「何故」と分別出来るならば空ではない。
   分別しようにも無いのが空なのぢゃ』


  「その空であることを何によって悟るのか」

  「悟りに依って悟るのでぢゃ」


  「では、悟りというものは何処にござるのか」
  「佛の中にある」


  「その佛というのは何処にござるかの」
  「佛は衆生の中にある」 
    ・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・

 問答はまだまだ続きますが、これは私の戯曲を
お読みになるときの心構えにつて申し上げたのであります。

http://bbs2.sekkaku.net/bbs/sengen/&mode=res&log=781


自然の真理というものが廻って来た時にそれを受ける (31197)
日時:2022年11月07日 (月) 08時50分
名前:源流


    谷口雅春先生著『維摩経解釈』P219より抜粋

〜自然と熟して落ちて来るような運命こそ本当に貴方のものです。

〜人間の運命も自然と熟する時までそれを待つのがいいのであります。

ですから、「法楽」が楽しいのは、それには執着がなく、

自然の真理というものが廻って来た時にそれを受けるのであって、

自分の「我」の力で受けようとはしない。

時至らざれば求めないから焦りがなく楽しいのである。〜




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