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「魂の約束」 (6284)
日時:2013年02月06日 (水) 04時46分
名前:伝統

       *醍醐千里・著「魂の約束」より


私たちは生まれるとき、神様から魂をいただきました。
みんなその魂を、自分の真ん中においています。

魂は磨けば磨くほど光ります。

漢字の練習を一生懸命しました。
魂は昨日より光ります。

電車でおじいさんに席をゆずりました。
魂は昨日より光ります。

弟におやつをあげました。
魂は昨日より光ります。

今日はごめんねが言えました。
魂は昨日より光ります。

あの人にありがとうが言えました。
魂は昨日より光ります。

努力をしたり、誰かや何かに優しくすることは
魂を磨きます。


けれど
努力をしたり、優しくすることだけではなく、
楽しいこと、うれしいことも、
魂を光らせることが分かりました。

友だちと楽しく大笑い。
魂は昨日より光ります。

誕生日のプレゼント。
魂は昨日より光ります。

楽しいことやうれしいことも魂を磨くと知って、
私はなんだかホッとしました。


ある日、そうじをさぼって友だちと遊びました。
友だちと楽しく大笑い。
けれどその日、自分の中の魂を見て驚きました。

あんなに楽しく笑ったあとだったのに、
魂は、光るどころかくもっているのです。


ある日、友だちからネックレスをもらいました。
お店から盗ってきたネックレスだと言います。
ほしかったものなので、
よく考えもせずにそれを受け取りました。

その夜、魂を見てみたら、その日もまた魂は、
昨日よりくもっていました。


ある日、一人が言いました。

ねぇ、あの子、はぶかない?
あっという間に、その子はひとりぼっちになりました。
私は、その子をひとりぼっちにさせる側にいました。
その輪の中で私には、急に仲間が増えました。
新しくできた仲間とともに、おもしろおかしく過ごしました。

そんな日々を送る中、
私は久し振りに、自分の中の魂を見てみました。

私の魂は真っ黒になっていました。
私は、自分の魂の色を見て、
とてもおそろしくなりました。


楽しいこと、うれしいことの中にも、
魂をくもらせること、
魂を濁らせることもあると分かりました。



楽しいこと、うれしいことには、
2種類あると分かったので、
これからは、
気をつけていかなければならないと思いました。

     *

毎日魂を磨き、
毎日魂の様子を見ているうちに、
私は不思議なことに気がつきました。


磨いたつもりのない日でも、
魂の輝きが、増しているときがあるのです。

そういう日の一日を振り返ってみると、
その日は、きれいな花を見たり、美しい夕焼けを見たり、
そういう日だったことが分かってきました。

映画を見たり、本を読んだり、音楽を聴いたり。

そういうことでも魂を、磨くことができるのです。

楽しいことやうれしいこと、
目にした景色や、聞こえてくるメロディ、あたたかな言葉。
その日その日のなんでもないことも、
私の魂を磨き続けてくれたのです。

     *

できるだけ魂を光らせようと、毎日を送っていましたが、
ある日、私は少しだけ疲れてしまいました。

夢の中で私は、神様に会いました。

夢の中で私は、神様に聞いてみました。

神様、私はいつまで魂を磨けばいいのですか。
私の魂は、いつ完璧に美しくなるのですか。

神様は言いました。

あなたは、あなたの最後のひと呼吸まで、
魂を磨き続けなさい。
みんなその約束をして、地上に生まれているのですよ。

でも、神様、磨き終わらないうちに、
最後のひと呼吸がきたら、
どうすればよいのですか。

心配しなくて大丈夫。
あなたの魂は、最後のひと呼吸のとき、
必ず、最高の光を放ちます。


神様、私にはその自信がないのです。

あなたは、毎日魂を磨いています。
だから大丈夫。
最後のひと呼吸のとき、
魂はそれまでで一番美しい姿を見せてくれます。
何も心配いりませんよ。
あなたの魂は毎日、昨日より輝きを増しているのです。

ときどき、自分の魂を、離れたところから見てごらんなさい。

あなたの魂があなたの体を越えて、
まわりに光を与えていることにも、
気づくことができるでしょう。
このごろでは、あなたの魂の輝きで、
道を明るくする人も増えてきました。


さぁ、戻って、魂を磨いてきなさい。
毎日を楽しくうれしく感謝の気持ちで送るのですよ。
そうするとあなたの魂は、キラキラと光を強くしていきます。

あなたがここに来るのは、まだまだずっとずっと先。
あなたの人生を、楽しんでいらっしゃい。

あなたがどんなに素晴らしい魂を持って、ここに帰ってくるか、
私はそれを楽しみにしています。

     *

目が覚めた私は、
それまで気づかなかったことに気づきました。

昨日より今日。
今日より明日。

私の魂は輝きを増し続け、毎日新しく生まれ変わります。
そして必ず、その日の魂が1番光る魂。


少しの努力、優しい気持ち、
そして
うれしいこと、楽しいこと。
日々の中に散りばめられた美しいもの。


神様との約束を思い出したので、
私は、なんにも心配しないで、
毎日を送っていくことができそうです。

なんにも心配しなくても、
私の魂は、昨日より光ります。

光り続けます。          

(完)

(著者のことば)

最後までお読みいただきありがとうございます。

        * * *

2006年秋の発表以来、卒業式や朝会、道徳の時間、また学校通信、学級通信、
小学校の読み聞かせ、高校の教育講演会、病院等、さまざまの場で読んで頂いて
おります。

勤務校の廊下で書き上げたこの詩が、今こうしてたくさんの方々の心に深く
受けとめていただけるようになったことに、毎日感謝の気持ちが絶えません。
ありがとうございます。

HPやブログ、メールマガジンへの転載につきましてもお問い合わせが
続いておりますのでお伝えします。

一人でも多くの方、子どもたちに読んでいただけたらこんなに嬉しいことは
ありませんのでどうぞご自由に転載なさってください。


・・・

参考Webとして、以下の(「生長の家“本流宣言”掲示板」内)のスレッドがあります。

(1)人生は魂修行の場
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=89

(2)地球は魂修行の学校 (2925)
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=575

            <感謝合掌 平成25年2月6日 頓首再拝>

人生道場 (6956)
日時:2013年03月08日 (金) 03時40分
名前:伝統

     *谷口清超先生・著「人生の断想」(P283)より

人生は得がたき魂の「道場」である。
それは吾々の魂の向上にもっとも必要な糧をあたえてくれるのである。

人間は本来「神の子」であり、完全円満なる具足者であるが、
未だその「実相」を充分に現わし切ってはいない。
そこで吾々は「人生」という「道場」で、
いかにして「実相」をあらわすかの方法を学ぶのである。

そしてそのために、人生道場には無数の”教師”がおられて、
吾々を手取り足取りして導き給うのである。

一体誰がこの導き”教師”であり給うのか? 
それはすべての人々である。
それは吾が師であり、親であり、夫であり妻であり兄弟であり、そして子であり、また友である。

これらの人々は吾々を導き給う愛の導師であり、吾々の敵の如くあらわれるものすらも、
実は吾々の魂を実相のそれまで高め揚げてくださる”教師”である。
すなわちこれらの人々はすべて「観世音菩薩」であり給う。

この方々は吾が心をそのまま映し出し給う。
吾々が怒りの心をもてば、これらもまた怒りをあらわし、
吾々が憎しみを表現すれば、これらもまた憎々し気にあらわれ給う。

こちらがやさしく愛の想いにみたされれば、あちらもまた愛し気に微笑み給うのである。
奪う心をもてば、彼らは吾がために心を鬼にして奪い給い、
吾が心の「醜さ」をまざまざと映し給うのである。

かくの如く吾々は、自己の周囲に「吾が心」を映して見る。
周囲が苦しむのは、吾が心が「実相」を忘却せるがゆえであり、「吾が心」がととのえば、
周囲もまた浄まるものであることを、人生道場において学びとる。

吾々は「他」において「自」を見、一切の環境の中に「神」「仏」を観る。
このようにして吾々は、見ゆる世界の奥にある見えざる「実相」を観ることを学習する。

吾々の「心眼」は無限に開かれてゆく。
「心眼」が開かれるとともに、より深く豊かな「実相」が観ぜられるようになる。
その可能性は無限であり、その奥行きもまた無限である。

吾々が人生より脱出せんとする、その切なる努力が、吾々の「心眼」を見開かせる内圧となる。

されば吾々は、人生苦を畏怖したり、逃避してはならない。
人生は断じて恐るべきものではない。何となればそれは吾々の”教師”だからである。
”教師”や”学校”を恐怖するような優等生はあり得ない。恐怖は劣等性の特徴である。

吾々はあくまでも「優等生」らしく、人生のすべてに、すべての人々に、環境に仕事に
感謝しつつ、”人生道場”を卒業して行こうではないか。

            <感謝合掌 平成25年3月8日 頓首再拝>

人生は、透明度の高い魂になるためにある (7270)
日時:2013年03月23日 (土) 04時45分
名前:伝統

    *原田真裕美・著「自分のまわりにいい事がいっぱいおこる本」(P194)より

幸せを感じるときは、心が純粋になって迷いが消えます。
こんなときは魂の純度も高くなっています。

魂は幸福感によってどんどん洗われ、磨かれてゆきます。
幸せだと自然に愛情が湧いてきます。

魂的にみると人生とは、より透明度の高い魂になるためにあります。
「出会い」「仕事」「恋愛」「お金」などと通して、そして純度の高い幸せほど
魂を透明にしてくれます。

一生をかけて魂を磨くつもりで、日々の出来事に接したら、どんな小さなことにも、
魂的な意味を発見することができます。
それがまた幸せであります。

            <感謝合掌 平成25年3月23日 頓首再拝>

神様は、あなたとの「約束」を忘れていません (7335)
日時:2013年03月28日 (木) 04時45分
名前:伝統


     *はづき虹映・著『人生でいちばん大切な自分との約束』(P219〜221)

あなたがこの世に生まれてくる前のこと・・・。

あなたは神様とたくさんの「約束」を交わしてきました。

私たちは誰といつ、どこで出会うとか、どんな仕事に就いて、そんな体験をして、
どんな人と恋愛するのかなど、こと細かに神様と「約束」を交わして、
この世に生まれてくるのだと言われています。

しかし、こうした「神様と交わした約束」は、生まれてくる前に、
いったんすべて消去されてしまうことになっています。

なぜなら、すべての「約束」を覚えていると、この世での人生が純粋に楽しめなくなるから・・・。

(中略・・・いったんは忘れる仕組みになっていますが、この「神様との約束」は
      あなたの中に隠されているだけで、ちゃんと保存されているのです)

あなたの人生において、この生まれる前に交わした「神様との約束」を思い出すことほど、
大事な仕事はありません。そこにはあなたがこの世に生まれてきた意味や目的、果すべき使命、
自分らしく生きるための秘訣などの重要データがすべて詰まっているのです。

その最も大事な「神様との約束」を探し出すための検索ワードが、「自分との約束」なのです。

あなたが「自分との約束」を守り続けていくことが、
「神様との約束」を思い出すための最も効率的な、最短コースになるのです。

なぜなら、「本当の自分」は「神様」と同じだから・・・。
「あなた」というパソコンは「神様」というホストコンピューターに常につながっているのです。

ですから、あなたが「本当の自分との約束」を守り、「本当に自分らしい人生」を生きることこそ、
生まれる前、あなたが神様と交わした「約束」を果たすことにつながっていくのです。

あなたが本気で、「こうしたい・・・」「本気で変わりたい・・・」思い、
「自分との約束」を守ろうとすることこそ、あなたが「神様との約束」を思い出しかけている
証拠なのです。

あなたが変われば、あなたの世界が変わります。
あなたの世界を変えていくことが、世界を変えていくための、最も確実な方法です。

そのためにも、「自分との約束」を優先しましょう。

大丈夫・・・。安心して・・・。
神様が、あなたとの「約束」を忘れたり、破ったりすることは決してありませんから・・・。

            <感謝合掌 平成25年3月28日 頓首再拝>

魂の”向上と進化”の意味するもの (7381)
日時:2013年03月31日 (日) 04時09分
名前:伝統


        *『神と偕(とも)に生きる真理365章』(P200)より

魂そのものの向上と進化というものは何を意味するのであろうか。

それは自己の生命の本質が”神の子”なることを一層深く自覚して
智慧(真理の理解とその応用)と、愛と、
行動力(行動の勇気と、行動範囲と、行動速度と行動の適確性)との増進を意味するのである。

つまり、その人の魂の”神”なる神通自在性を、より多く発揮しうるようになることである。

快楽や苦痛は、それに誘導して行くための甘味料や香辛料であって、行動の食欲を増すために
与えられるものであって、人生の目的そのものではないのである。

            <感謝合掌 平成25年3月31日 頓首再拝>

怒りの克服が、魂のレベルアップのための、究極の課題 (7512)
日時:2013年04月06日 (土) 03時38分
名前:伝統

    *原田真裕美・著「自分のまわりにいい事がいっぱいおこる本」(P47〜49)より  

《「腹を立てない」と決めると、思わぬ人生が開けます》

怒りは私たちを盲目にします。

怒ると、その他の感覚はすべて麻痺してしまって、
もちろん魂との結びつきも断ち切られ、魂の存在さえ見えなくなってしまいます。

怒りが私達の体を支配し、普段なら考えられないような破壊的な行動に出てしまうこともあります。


魂を磨いてゆくためには「怒る」ことそのものを避けなければいけません。
とはいえ、生きている限り、腹の立つ原因は絶えませんよね。

時には怒りがモチベーションになって、物事を成し遂げる事ができるのも確かですが、
憤りを感じ、その原因を一掃する努力ができなければ、怒り損です。
無力無能さを自分に見せつけているようなものです。

「腹を立てない」というのは、私達の魂のレベルアップのための、究極の課題ともいえるでしょう。
腹を立てない人になるには、日々の努力とかなりの修練が必要です。

「腹を立てない」と決めたその日から、自分の人生観が変わってきます。
一生涯を通してチャレンジングな課題となるでしょう。

周囲のやる事は腹の立つことばかり・・・と感じるときは、
ストレス度がかなり高まっていて爆発寸前です。
いままで見ないようにしていた世の中の嫌な部分、汚い部分しか見えなくなってしまいます。

どこかに消えてしまいたい気持ちになってしまうのも、こんなときです。
魂の意志に合った、清浄な世界に行きたいと感じているからでしょう。

まず自分が抱えている問題のすべてを書き出して、
一つひとつ対処の方法をなるべく具体的に考えましょう。

もちろん一夜にして改善はできないかもしれませんが、
このまま自分の中のフラストレーションを無視して生きるよりはマシです。


あなたには何の問題もないのに、周りの人のイライラに影響されて怒ってしまうこともあります。
例えば、自分の気分がいいときに、そばに怒っている人がいると、
せっかくのポジティブな気分もぶち壊されてしまいます。
そういった人々とは関わらないようにするのがいちばんです。

とはいっても、怒っている人を目撃するだけでもイヤな気分になってしまうものですから、
そんなときはポジティブな言葉や歌、ビジョンなどを使って頭を切り替えてすぐに機嫌を直す
ようにしましょう。惨めな人に惨めな思いをさせられるのは避けたいものです。

お気に入りのものを見るとか、ちょっと小走りをしてみるとか、飛び跳ねてみるとか、
好きな人のことを考えるとか、晴れた日なら空を見上げるのも効果抜群です。

雨の日は自分の中に溜まっているネガティブなエネルギーを雨で洗い流すように想像してください。
雷が聞こえたら、自分の中にあるわだかまりを砕いてしまうように想像してください。

お気に入りのアロマ・オイルを”のどぼとけ”のあたりに塗るのも効果的です。
ラベンダー・オイルは気分を落ちつかせ、ローズ・オイルは想像力を盛り上げてくれます。
ホワイト・アンジェリカはポジティブでエネルギッシュな気分にしてくれます。
これらは私の愛用しているオイルです。

そして、何よりも自分の目標や夢について考えてください。
魂のゴールが見えていれば、迷いや不安、怒りなどに振り回されることはありません。

魂の充実のために努力を惜しんではいけません。
魂が充実していれば、たとえ周りの人が腹を立てていても、自分は幸せな感じでいられるのです。
それがゴールです。

            <感謝合掌 平成25年4月6日 頓首再拝>

《地上生活は魂の学校である》 (7614)
日時:2013年04月12日 (金) 03時46分
名前:伝統


      *「神と偕に生きる真理365章(P99〜100)」より

地上の人生は、私たち人間にとって魂の訓練道場であるのである。

私たちの魂は神より出でたる”神の子”であるから無限の善さと
無限の美しさを始めとしてあらゆる徳を内に包蔵するのである。

しかしその内蔵する無限の善徳は、地下埋蔵の資源の如く、
現象の奥に「実相」として、まだ肉眼には見えない相(すがた)で横たわっているのであって、

地下埋蔵の資源は発掘しなければ地上に出ないのと同じく、
研(みが)き出さなければ、肉眼に見え、心に感じられる姿に於いては、未だ出てこないのである。

その自己琢磨・自己研磨のための道場が地球生活であり、
地上に於ける色々の経験や体験は、その自己琢磨・自己研磨のための砥石であり、
学校にたとえれば教科科目である。

英語を学ぶには、やはりABCから学ばなければならない。
基礎の単純な容易なものをシッカリと身につけておいたならば次なる上達が早いのである。

それと同じように、私たちが”地上生活”という「魂の学校」で魂を勉強させるためには、
日常生活の誰にでも出来るような当り前の小さな出来事を真面目に真剣に誠実に
マコトをもって処理し、

どんな小さな出来事に対してでも、それが神の恵みであることを知り、
感謝をもって生活することである。

”平常心是道(これどう)”と南泉(なんぜん)和尚は喝破している。

            <感謝合掌 平成25年4月12日 頓首再拝>

魂の導き (7789)
日時:2013年04月20日 (土) 06時31分
名前:伝統


   *原田真裕美・著「あなたの人生で本当に大切にするべき27のこと」(P16〜17)より 

魂は、自分を見失ったときに、進むべき道を示してくれます。

窮地に追い込まれたときに救ってくれるのも魂です。
「こうこれ以上、力が出ない! 」そんなときに底力を与えてくれるのも魂。
抜け殻のようになった肉体に、生命力を注いでくれるのも魂の力です。

魂に響くものだけを追いかけていけば、自分にいらないものが、どんどん排除されていきます。
良いもの悪いもの、本物とうまべだけのものの判断も、
シンプルに、ハッキリとできるようになります。

魂を満たすことによって、どんどん自分の中のネガティブな感情が消えていき、
愛情が湧き、人生が良い方向へ動き出します。
自分自身や周りの人々に幸せをもたらすために、自分が果せる役目を知っているのが魂だからです。


逆に魂に響かないものは、自分を空回りさせながら、どんどんエネルギーだけを消耗させて
いってしまいます。それが、虚しさとか、寂しさとか、一生満たされることのない不満とかに
なって、病状として現れることだってあるのです。


自分の生き方が他の誰かに良い影響を与えられるよう、いつも魂をピカピカに磨いていたいものです。

            <感謝合掌 平成25年4月20日 頓首再拝>

今の日常生活の義務が、魂の課業 (7861)
日時:2013年04月24日 (水) 05時03分
名前:伝統


      *『生命の實相』第38巻<P13>より

今、われわれに課せられた状態がいかにあろうとも、
今が、そしてその状態が自己の魂の進歩にとり最善の時であり、最好の機会なのである。

われわれがわれわれ自身を見出すところの今の環境が、
その時と処(とこと)とにおいてわれわれにとって最もよいということである。

われわれの前に起こるところの義務は、そして手近にあるところのすべてのものは、
われわれを導く神の智慧が開かれつつあるところの道である。

家庭の茶飯事、その勤める店での呼鈴(よびりん)に応えること、事務所で働くこと、
病める隣人をまたは親類縁者を看護することなどは散文的な、あまり馨(かんば)しからぬ
ように見えるかもしれない。

それはそうかもしれないが、しかしわれわれの日常生活における義務を、神に対する義務の
ごとく、また、人生に捧げる捧げ物のごとく忠実に行なうことは、その人の魂に与えられた
日課を果たすということになるのである。

そしてその時その場における内部に宿る神の催しに従うこと、
すべての時において神の掟を守りて正しく生きること、また生活がわれらに齎(もたら)し
たるところのすべての位置において全力を尽して試みることは、
魂の向上の道に入るための日々の課業であるのである。

         <感謝合掌 平成25年4月24日 頓首再拝>

【靈魂進化の~示】 (7967)
日時:2013年04月27日 (土) 05時03分
名前:伝統


『~の子』なる人間の實相を現象世界に實現するのが人生の目的である。
現象世界とは現界、幽界、靈界を通じて呼ぶ言葉である。

人間の運命とは『~の子』なる人間の實相(因子<たね>)が現象界に投影する時、
時間的空間的に展開するのに、おのづから一定の順序を追うて展開して行くやうに
大體定められてゐるのを言ふ。

それは譬へば朝顔の種子(たね)の中には既に『花』の因子が包藏されてゐるが、
それが現象界に『花』となって完成するまでには、日光に逢ひ、湿氣に遇ひ、
芽を出(いだ)し、蔓(つる)を出し、蕾を生じ、つひに花を開くと云ふやうに、
大體一定の順序を追うて展開するが如きである。

斯くの如く、~の子なる實相人間も、その投影を現象界に完成するには大體一定の時間を要し、
植物が日光に逢ひ、雨露に遇ふが如く、或は幸bノ恵まれ、或は虐運と戦ふことによつて、
つひに實相人間の現象界への投影を完成するのである。

併し、その投影が完成するには、その投影は『念波の集積』で成立つてゐるのであるし、
人間は心の自由を有ち、自由に實相の悟りによって念波を淨め得もすれば、迷(まよひ)によって
念波を一層汚すことも出來るのであるから、現象世界に實相人間を顯現する過程(進化の過程)を
心次第で縮めることも長くすることも出來るのである。

靈魂進化の過程を短縮するのは、念の淨化による。
念の淨化には、實相を悟ることが第一であり、物質慾に捉れざることが第二である。
物質慾に捉われざるためには、『物質本來無し』の眞理を悟るが第一である。

『物質本來無し』の眞理をさとる程度に達せざる者には、
物質の快に捉われざるための修行として、自ら苦を求めて喜ぶか、
物質に快を求めて却つて苦を得る體験を通じて、
つひに物質慾に捉われざるに到るかの二途しかない。

前者は自ら進んで嘗(な)める苦行であり、
後者は幸b求めれども求めれども運命的に他動的にやつてくる苦難である。

その他に過去の惡業の自壞する過程として自己の靈的流動體に起る擾(じょう)亂現象の苦痛もある。
苦難がみだりに取去られず、多くの靈魂の靈界通信が苦行の價値を力説してゐるのも
此の色々の理由によるのである。

     (昭和八年九月十五日~示)

           <感謝合掌 平成25年4月27日 頓首再拝>

人生の目的は魂の向上にある (8068)
日時:2013年05月01日 (水) 03時48分
名前:伝統


          *『光明法語』(5月1日の法語)より

人生は魂の向上の過程である。
魂の向上とは「内在の完全なる実相」がより多く次第に開舒(かいじょ)することである。

魂の向上にはあらゆる人生の面に触れることが必要であるのは、
歯を磨くにもあらゆる角度から磨かなければならないのと同様である。

従って吾々の触れる人生の面は時々変化するのは
別の角度から磨かれる必要があると云うことである。

新しい人生の展開、新しい境遇の展開は、今ある境遇の行き詰まりから生ずる。

だから今ある境遇が行き詰まるのは新しい善き運命の先触れだと信じて感謝すべきである。

            <感謝合掌 平成25年5月1日 頓首再拝>

愛深き峻厳が魂の進化せる特徴である (8095)
日時:2013年05月02日 (木) 07時24分
名前:伝統


        *『光明法語』(5月2日の法語)より

「汝の如く汝の隣人を愛せよ」とは
自分の実相を完全なる神の子であると信ずる如く、
汝の隣人をも完全なる神の子であると信じて敬することである。

敬のない惑溺(わくでき)は真の愛ではなくて肉欲の変形であったり、
自己憐憫の投影であったりするのである。

自己の苦痛を恐れる者のみが、他(ひと)の苦痛に同情するのである。
だから同情は、自己不完全の投影ですらある。

真の魂の生長せる者の特長は「愛深き峻厳」である。
愛深くして相手の実相の完全さを知るが故に
猥(みだ)りに甘やかさず峻厳であるのである。

            <感謝合掌 平成25年5月2日 頓首再拝>

【「たま」と「しい」】 (8354)
日時:2013年05月13日 (月) 04時41分
名前:伝統


   *中山靖雄・著「すべては今のためにあったこと」(P74〜76)より

天本来の生き方をするには、心や身体だけではなく、
魂で生きているということに思いを寄せていくことが大切です。

私たちはみな魂を持って生まれてきました。
じつは「魂(たましい)」というのは、さらに「たま」と「しい」に分かれます。
この二つで「魂」=「たま」「しい」なのです。

「たま」は「みたま(御霊)」ともいいます。これは天同様、天本来の働きをするものです。
私たちは、体の内にそのような美しいものをいただき生まれてきました。「たま」は、
どんなことをしてでも、どこに行ってでもこの世に生まれてきた役割を果そうとします。

もうひとつの「しい」は「心」です。
「楽《しい》」「悲《しい》」「欲《しい》」「惜《しい》」「悔《しい》」・・・など、
感情を表す言葉には「しい」がついていますね。このように「しい」は自分の思いを表しています。

天から与えられた役割果たそうとする「たま」とは違って、「しい」である心は、「どこに
行ったら自分にとって都合がいい」とか、「これは自分にとって悪い役割だ」などという、
自分を中心とした思いが働きます。

この「しい」があるので、天そのものである「たま」どおりには生きにくいのが私たち人間です。

しかし、人間が生きていくためには、この「たま」と「しい」の両方が必要です。

人生の中で「たま」は無自覚に天から与えられた自分の役割を果たそうとしますが、
「たま」には心がありませんから、喜びや楽しさを感じられないのですね。

「悲しい」とか「憎らしい」とか「悔しい」など、負の心を含めて、心にはさまざまな思いが
あります。喜怒哀楽、全部持たせてもらって生まれてきたことには意味があります。
「しい」があるから、私たちは具体的に行動したり形にしたりできるのです。

このように、人は「たま」どおりに生きるために、「しい」である心を使っているのです。

ですが、これを忘れ「心」だけにとらわれすぎると、「業(ごう)」の世界になってしまいます。
「業」は苦しみを生みます。いくら「心」も必要だといえ、自分の思いばかりで、我を強め、
思いすぎ、悩みすぎは、人生の苦しみになってしまうのです。

            <感謝合掌 平成25年5月13日 頓首再拝>

「みたま」どおりに生きる (8923)
日時:2013年06月02日 (日) 07時38分
名前:伝統


   *中山靖雄・著「すべては今のためにあったこと」(P77〜80)より

「みたま(御霊)」どおりに生きるとは、
自分だからこそ与えられたその天の役割を素直にまっとうすることです。

しかし、わたしたち人間は、他人からよく見られたい、よく思われたいと思ってしまう生き物です。
人はどうしても「あの人はいい人だ」と言われたいろいう思いが湧いてきてしまう。

「欲しい」「惜しい」「嬉しい」「悔しい」というものに
振り回されてしうまうのは「心」の世界です。

「心」というのは自分に向かって働きます。だから物事が難しくなるのです。
人間は本来の自分どおりにしか生きられないのですが、
「こうありたい」とか「こうなりたい」と、やっぱり望んでしまうのです。

心にとらわれず生きている人は、「自分」どおり、つまり「みたま」どおりですから、
その人から出てくる言葉や行動も「みたま」どおりです。
無邪気だし、天真爛漫です。

そういう人は、どんな状況でも苦しみません。「みたま」どおりに生きていると、「いいふうに」
なっていくように、ふとふと誘われていくのです。そして、人のことが自分のことのように気に
なって仕方がない。天と同様、自分と人との区別がなく、すべてひとつなのです。

ですから人の喜びが自分の喜びとなり、「みたま」どおり生きると、喜びの多い人生になるのです。
だからこそ、「しい」の心をよく理解して、心を修める「修養」が大切です。それがわかれば、
心である「しい」を持ちばがら「たま」=「みたま」どおり生きていけるのです。

「たま」どおり生きる人生は、その時、その場に必要なことをふとふと気づかせてもらうため、
自分の天本来の「役割」を果たすことができます。

人生が変わり、人が亡くなると、「しい」を地上に落とし、そして「たま」だけが天に帰って
いきます。「しい」である心や思いを離して落としていくわけですね。
この世での「役割」を果たし終え、「こだわり」や「思い」を捨てて天に帰っていく。

これが「浮かばる魂」です。

よく、恨みや心残りがあったまま亡くなった人のことを指して、「あの人は浮かばれない」などと
言いますが、これは「たま」が天国に行こうとするのに、「しい」が引き止めて上らせない状態の
ことをいいます。思いやこだわりが異様に強すぎると、「たま」から離れず上れないのです。

死んだら、「しい」は「たま」をパッと離してあげて、早く天に帰してあげることが大切です。
同様に、亡くなった方の周りの人も、「しい」を強めすぎないで、
亡くなった方の「たま」を天に帰してあげてください。

そのようにして浮かばれた「たま」は、また生まれる時に、
「しい」という心に包まれて生まれてくるのです。

            <感謝合掌 平成25年6月2日 頓首再拝>

変化の中に機会がある (9344)
日時:2013年06月19日 (水) 04時41分
名前:伝統


       *『神と偕(とも)に生きる真理365章』(P104)より

現象世界は、魂の練成の競技場みたいなものである。
それは野球やラグビーやバレーボールの球戯にも似ているのである。

諸君はその球戯場で球戯を戦わす選手だと譬(たと)えることができるのである。
球の飛んで来る位置は常に変るし、相手の選手の位置も常に流動的である。
1秒と雖(いえど)も同様の状態は存在しないのである。

現象の人生もそのようなものである。
1分1秒と雖も同様の状態は存在しない。

従って今、得点が零(ゼロ)であっても、次のゲームで相手に優(まさ)る得点を得て、
形勢を逆転することも出来るのである。

現象界は移り易(かわ)る、諸行無常であるということは決して、
古い仏教徒のように悲観的に考える必要はないのである。

諸行無常ということは常に機会があるということである。

            <感謝合掌 平成25年6月19日 頓首再拝>

すべての経験は、内なる「神」を掘り出す作業 (9615)
日時:2013年07月03日 (水) 06時05分
名前:伝統


      *『生命の實相』第38巻<幸福篇下>(7月3日)より

われらのすべての経験は、自分の内にある「神」を掘り出す作業である。

どんなにそれが失敗したように見えようとも、どんなにそれが深刻であり、
悲惨なように見えようとも、それが深刻であり、悲惨であればあるほど、
われらの神に通ずる坑道は深く穿たれてゆきつつあるのである。

深く深く掘り下げてゆくうちには、やがて広々とした世界に出る。
そこは、もうなんの悲惨もない、常楽のみの世界なのである。

どんな経験も、苦しい経験も、楽しい経験も、
ただ、われわれは神に近づく掘り下げ方だとして喜ばねばならない。

            <感謝合掌 平成25年7月3日 頓首再拝>

神への信  (9736)
日時:2013年07月09日 (火) 06時50分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月9日>(P13〜15)より

困難を避けて遊惰(ゆうだ)を喜ぶようになったとき、衰退は始まる。

今、われわれに課せられた状態がいかにあろうとも、今が、そしてその状態が自己の魂の進歩
にとり最善の時であり、最高の機会なのである。われわれがわれわれ自身を見出すところの
今の環境が、その時と処においてわれわれにとって最もよいということである。

われわれの前に起こるところの義務は、そして手近にあるところのすべてのものは、
われわれを導く神の智慧が開かれつつあるところの道である。

家庭の茶飯事、その勤める店での呼鈴(よびりん)に応えること、事務所で働くこと、
病める隣人をまたは親類縁者を看護することなどは散文的な、あまり馨(かんば)しからぬ
ように見えるかもしれない。

それはそうかもしれないが、しかしわれわれの日常生活における義務を、神に対する義務の
ごとく、また、人生に捧げる捧げ物のごとく忠実に行なうことは、その人の魂に与えられた
日課を果たすということになるのである。

そしてその時その場における内部に宿る神の催しに従うこと、
すべての時において神の掟を守りて正しく生きること、また生活がわれらに齎(もたら)し
たるところのすべての位置において全力を尽して試みることは、
魂の向上の道に入るための日々の課業であるのである。

人から見て目覚しい仕事を為すということは、それはすでに報いを受けたのであるから、
それほど価値はないのである。

すべての人生の出来事と環境において、人から見て目立たない仕事を人のために尽すとき、
その報いは天の倉に貯えられるのである。すべての善は神よりのみ来るのである。
だから決して善行誇りに陥ってはならないのである。

重ねて言う。すべての善は神よりのみ来るのであるということを記憶せよ。
されば、自分の善を誇ってはならないし、またどんな困難が来ても恐れてはならないのである。

無限者なる神に信頼さえすれば、すべての悩みよりわれわれは保護され、
あらゆる場合の危険よりわれわれは守護されるのである。

さらにまた、すべての供給は神より来たるのであるから御心を行じていてわれらは決して
乏しきことはありえないのである。神は唯一の本源であり、われらの求めるすべてのものを
豊かに与え給うているのである。

われわれがもしこの高き意識のうちに生活するならば、すべてはよくなり自己に来る
すべての事件は最初はいかに見えても好転するほかはないのである。

いざ、読者諸君よ、常に次のごとく念ぜよ。

「神は吾と偕(とも)なればわれは大いなる力とともにあり、
神はわが護りなれば、たれか吾に逆(さか)らうものあらんや。」

常にこの信念を把握して、神に対して任せるとき、荊棘(いばら<けいきょく>)は
切りひらかれ、道なき所に道を生じ、砂漠に花咲き、
豊かなる富の恵みは噴泉(ふんせん)を成して湧き出ずるであろう。

         <感謝合掌 平成25年7月9日 頓首再拝>

私たちすべての生命は、観音さまが姿を変えて修行している姿 (10403)
日時:2013年08月06日 (火) 04時25分
名前:伝統


        *メルマガ「癒しのことば(2013年01月25日)」より

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 「人間の最上の財産は、あなたの足元にあります」

          -- ナサニエル・ホーソン(アメリカの小説家)--

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宗教学者で仏教に造詣が深い、ひろさちやさんの本を読んでいたら、
「観音さまは、娑婆世界に遊びに来ている」といったようなことが書いてありました。

娑婆世界とは、今私たちが住んでいるこの世界のことです。

観音菩薩は、本来は、もっと次元の高い極楽浄土におられるはずの方ですから、
あえてこの世界に来ることを選んで生まれてきたということですね。
 
それは、多くの人を救うためとされることが多いようですが、ひろさんによると、
観音さまが私たちの世界に来られたのは、修行をするためでもあるということです。

 
なぜなら、極楽浄土にいては、修行をすることができないからです。
極楽浄土は、悩みや苦しみなどがまったくない平安な世界です。

たとえば、極楽浄土では、みんな、とてつもなく長生きをされます。
寿命はなんと、10の68乗年とも言われているそうですから、
ほとんど無限に 生きるといってもいいようですね。

これでは、なかなか死というものに出会うことはありません。

つまり、身近な人の死、愛する人を失う悲しみ、死の不条理などを
経験することが、めったにないのです。
 
自分も長生きするわけですから、愛する人を残して死ななければならない心残りや、
無念さを味わうことも、はるかに先のことになります。

また、極楽浄土の住民は、みんなかなり格が高い人ばかりですので、
意地悪をしたり、人を恨んだり、泣き言を言ったり、人の足をひっぱったり、
突然殴りかかってきたりする、といった方はあまりいないでしょう。

そうすると、人に裏切られた悲しみや、ひどいことをされたときに感じる
怒りなんかも体験するのは難しいですよね。
 
あるいは、人を裏切ってしまったときの後味の悪さ、
誤って罪を犯したときの心の痛みも経験できないでしょう。

食べ物や住むところにだって、困ることはまずないでしょうから、
生活の苦しみ、未来への不安も感じる機会がないということになります。

もちろん、苦しみのないことは、よろこばしいことなのですが、
それでは修行にならないというのです。


逆に、私たちの住む娑婆は、人は短い命を一生懸命に生きています。

いくら正しく生きていても、突然の死によって、
愛する人たちと別れなければならないこともあります。

人に裏切られたり、裏切ったり、苦しみに眠れない夜を過ごしたり、
うれしさに我を忘れてはしゃいだりと、いろいろなことを体験することになる世界なのです。

だからこそ、人の心の痛みがわかったり、深い悲しみに流した涙で魂が磨かれたりするのです。

また、この世界では、お金持ちの家に生まれたり、貧乏な家に生まれたり、
健康だったり、障害を持って生まれてきたり、
平和な国に住んでいたり、戦争で悲惨な国にいたりと、いろいろな役割があります。

その立場でしか、絶対に味わえない経験もあるのです。

観音さまは、そんな修行をするために、わざわざこの世界に遊びに来ているそうなのです。


……そんなことを知ると、「観音様ってやっぱりすごい!」と感嘆してしまいそうですが、
本当は、そんな必要はないのですよ。

観音さまは、この世界に来られたときに、そのままの姿では具合が悪いので、
33種類のいろいろな姿に変身されたということです。

なかには仏様や守護神の姿も有りますが、
私たちのような普通の男や女、または子どもの姿もあるのです。

つまり、観音さまの分身が、自分が知っている人のなかにいるかも知れないということですね。

もっと言うと、私たちすべての生命は、
本当は、観音さまが姿を変えて修行している姿なのかも知れません。

そう考えてみると、なんだかありがたい気持ちになってきませんか。

苦しいことがあっても、悩みを抱えて苦しんでいても、
私たちは、もっと成長するために、今、ここで、立ち向かっている。

どんな体験でも、私たちの魂を磨いてくれる気づきをみつけることができるのでしょう。

この世界で、毎日生きていることこそが、とても意味があることなのです。

本当に大切なもの、私たちの成長の糧は、いつでも自分の足元にあるのかも知れません。

         <感謝合掌 平成25年8月6日 頓首再拝>

「みたま」どおりに生きよう (10696)
日時:2013年08月19日 (月) 04時44分
名前:伝統


       *中山靖雄・著「すべては今のためにあったこと」(P82〜84)より

「たま」どおりに生きるには、心の働きを知ることがとても大切です。

「をしい(惜しい)、ほしい(欲しい)、にくい(憎い)、かわいい(可愛い)、
うらみ(恨み)、はらだち(腹立ち)、よく(欲)、こうまん(高慢)」

これを天理教では、「八つのほこり」と言い、これに「うそ、ついしょ、これきらい」の
3つを加えて心遣いの間違いを教えています。

「ついしょ」というのは、他人の気に入るようにこびへつらうことを言うのですが、
これらのような心の働きを改めていくならば、心がさわやかになって、「みたま」どおり
生きやすくなりますよ、ということなのです。

私たちはこのようなたくさんのほこりを持っています。
しかし、それがあるおかげで、
私たちは喜んだり、悲しんだりすることもできるともいえます。

「みたま」には自覚がありませんから、「みたま」どおりだったら喜怒哀楽がないのです。
天が「みたま」を与え、それだけじゃ面白くないだろうから、
「みたま」をより感じられるように心を与えてくれたのですね。

しかし、心が「勝手気ままな思いの自由」というものを持っているため、現代の「思いの世界」
は乱れてきてしまいました。ひと昔前の日本人は心を修める大切さを知っていました。
今を生きるみなさんも、昔のように心を修養する大切さを思い出してほしいと思います。

(中略)

人生にはさまざまな出来事があり、たくさんの悩みがあるものです。

誠心誠意を尽くし、一生懸命感上げて、人に喜んでいただこうとしたことも、人様の心は
いろいろなので、喜んでくださる時もあれば、喜んでいただけない時もあります。
それはそれを受け止めてくださる方の人生や、経験によって変わってきます。

また、自分は良かれと思ってやったことでも、あとからそれが本当に相手に良かったかどうか
不安になったり、満足感を得なれなかったりすることもあります。これらは、「人中心」
つまり「人間中心」で物事を見る時に起こることで、その時の喜びは少ないのです。

そんな時は、「天中心」「みたま中心」で物事を見ていくことです。
そうすると、「今悪くても、必ず良きこととなる」そんな思いが湧いてきます。
人という物差しから、天という物差しに変えることが「みたま」どおりに生きるということ
なのです。

「みたま」どおりに生きようとすれば、無理なく、天から必要なことを教えてもらえます。
天には口がありませんから、それは本を開いたところに書いてあったり、人の言葉であったり、
何かを通して自分にわかるように教えてくれます。

天は愛情そのものですから、あらゆる方法で私たちを育てようとしてくれるのです。

         <感謝合掌 平成25年8月19日 頓首再拝>



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