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ゆるす(釈・赦・許) (6522)
日時:2013年02月16日 (土) 04時24分
名前:伝統


【安東巌先生の「ご講話」】の前半の部分で、
安東巌先生は次の3つのことが重要ですと述べております。

(1)ゆるす。
(2)感謝する。
(3)実相礼拝する。

・・・

このスレッドにおいては、「ゆるす」ことに関する情報を紹介して参ります。


《人を赦すには斯う考えよ》

       *「幸福を招く365章」(P238)より

人を赦すことが出来ない人は、神を信じていると云っても実は信じていないのである。
何故なら、神の造りたまえる世界に何か悪があると信じているからである。

そして神の造りたまえる人間に悪があり、また神の与え給うた幸福を
その人が自分から奪い得ると信じているからである。

神の造りたまえる人間に悪人はいないと云うこと、そして神の自己へ与え給うた幸福は
何人(なんぴと)も自分から奪い去ることが出来ないと云うことを本当にその人が信じ得るならば、
自分に害を与えるかの如く見える人たちをも容易に赦すことが出来るのである。

自分を赦したとき自分に幸福の門は開かれる。

           <感謝合掌 平成25年2月16日 頓首再拝>

家族互いに赦す (6556)
日時:2013年02月18日 (月) 03時36分
名前:伝統


     *「光明道中記」(P50<2月8日 家族互いに赦す日>)

【地獄の家庭では、主人が「怒っても好い権利」を捨てぬし、細君は河豚(ふぐ)のように
 「ふくれても好い権利を主張する。(『生命の實相』第四巻)】

審判(さば)く人、閻魔の庁の御役人のような人、青鬼のようなヒステリックな人、
赤鬼のように興奮した人、こんな人たちが住んでいる世界が地獄であり、そんな家族の住んで
いる家庭が「地獄の家庭」である。

誰の家庭でも此の地獄的分子の蔽いか少ないによって、
その地獄的性質に多少の色合いが変化するのである。

赦すこと、すべての家族を赦すこと。
赦さないから、筋肉が突張るものを。赦さないから、肩が凝るものを。

外部的治療は一時的効果しかない。
癌と心の中に「品」物を「山」のように積んでいるのは愚かなことである。
あなたの癌を治すためには心の中の癌を取り除くことが必要である。

「富める者の天国に入るの難きこと駱駝が針の孔を通るが如し」とキリストは言っている。
心の中に色々の品物を貯え置くのは愚かである。
心は常に空虚が好い。

妻たるものは優しくあれ。
良人に物を言われて、立った儘返事をするようなことでは、その家庭は屹度面白くないであろう。
柔らかい女性の天性はどこまでも柔らかくなければならぬ。

           <感謝合掌 平成25年2月18日 頓首再拝>

ゆるしとは自分自身を解放する手段です。 (6589)
日時:2013年02月20日 (水) 04時50分
名前:伝統

        *ダライ・ラマ十四世の言葉より

生きていく中で、私たちは決断を間違えてしまい、
自分自身や他人を傷つけてしまうことがよくあります。
それは、「自分に幸せをもたらしてくれる方法」を私たち自身が本当は知らないからです。

私たちは自分なりに「こうすれば絶対に幸せになれる」と考えて、行動します。
しかし、結局そのことで私たちはさらに苦しむことになってしまうことがよくあります。

相手への怒りや復讐心を燃やすあまり、
「アイツを傷つければ自分は幸せになれる」などと考えてしまう人もいます。
しかし、それは間違った考え方だと言わざるをえません。

実際その相手に怒りや復讐心をぶつけたところで、
相手だけでなく自分自身も苦しむことになってしまうだけです。

いかに正当な理由があろうと、他人を傷つけてしまえばあなたは心の平穏を失い、
自分自身をさらにつらく厳しい状況に追い込んでしまうことになってしまいます。

人間はお互いに支え合い、ともに生きていかなければなりません。
それゆえ、この社会には人々の間の秩序と和を保つための「規範」が必要なのです。

もちろん被害者は誰もが、「加害者に正しい処罰を与えてほしい」と思うでしょう。
しかし誰かに苦しみを与えても、自分もまた苦しくなるばかりでなく、
周りの人たちまでどんどん不幸にしてしまいます。

そんなときこそ、復讐ではなく「ゆるし」が必要となります。
この「ゆるし」を学び広め、発展させていくことが何より大切なのです。
私たちは本当の意味で、他人の幸福を気にかけることが大切なのです。

ところがひとたび怒りにとらわれてしまうと、
私たちは、思いやり、愛情、寛大さ、ゆるし、情の深さ、我慢強さを失ってしまいます。
まさにこれらの幸せを形作るために欠かせない要素をすべてなくしてしまうのです。

しかも、怒りはたちまち激怒、恨み、憎悪、悪意などに姿を変え、
周囲の人々を傷つけて害をもたらすことになるのです。

一方、理性を失わずにつらい状況を分析できるようになれば、
私たちは怒りや憎しみを手放すことができます。

より広い視点に立ち、その状況を別の角度から見るよう心がければ、
そこに忍耐力と寛大さが生まれ、私たちにゆるしがもたらされるようになります。
本当の意味での我慢強さ、寛大さを身につければ、ゆるしは自然とやってくるものなのです。

たとえ過去に深く傷ついていたとしても、怒りや憤りを手放すことができます。
我慢強さと寛大さでそのときの状況を冷静に分析すれば、「過去は過去だ。だから怒りや
憎しみを抱え続けていても意味がない」ということに気づくことができます。

いつまでも負の感情にしがみついていても、状況を変えることはできません。
それどころか自分の心が混乱し、よけいに気分が落ち込んでしまうだけなのです。

もちろん過去の傷ましい体験を心から消し去ることはできません。
「ゆるすこと」と「忘れること」はまったく別物です。
過去の出来事を思い出すのは何も間違ったことではありません。

ただゆるしの気持ちを身につければ、
その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことができるのです。

ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、「自分を自由にする手段」です。

もしもゆるすことができれば、どんなひどい仕打ちをされたのか、
その代償をどうやって払わせるかなどといったことを心から消し去ることができます。

そういった憎しみや怒りの復讐心などの重荷から完全に解放されるのです。

「ゆるし」というテーマは私たち、一人ひとりの生活を救うだけでなく、
集団生活や社会や国際関係にまで広く影響を及ぼすことになるでしょう。
「他者への思いやり」は、人間が生きていくうえで欠かせないものだからです。

思いやり、ゆるし、そして寛大さ 
―― これらの要素は、私たちのどのような行動にも不可欠なものです。

この3つは「人間の心と体の平穏を保ち、人間の生存を支えている基本となるものである」と
言っても過言ではありませんし、暴力行為を抑える役割も果たします。

思いやり、ゆるし、寛大さこそ、私たちの生活に意味を与え、
私たちに建設的な人生を約束してくれるものだからなのです。


           ○           ○

「人生の目的は、前向きなものでなければいけません。私たちは価値ある人生を送るためには
 人間本来のよい一面 ―― 心の温かさ、優しさ、思いやりを育てていくことが大切です」

           ○           ○


(*アイリーン・R・ボリス=ダンチュスタン・著「ゆるし〜あなたの魂を癒す奇跡の力」序文)

           <感謝合掌 平成25年2月20日 頓首再拝>

自分の罪を赦しなさい (6700)
日時:2013年02月25日 (月) 03時29分
名前:伝統


      *「幸福を招く365章」(P160〜162)より

すべての不安は、神と離れた感じから起こるのである。
だから「神と一体である」という自覚を呼び起こすあらゆる方法はすべて、
不安を解消し、健康を増進する目的に適うのである。

神と離れていると云う感じは、「罪がある」という自覚からくるのであるから、
「罪がゆるされた」と云う感じを与える方法は
不安を解消し健康を増進する目的に敵うのである。

だからイエスは「汝の罪赦されたり」と云う語(ことば)で人々の病気を治しているのある。

病気の人は自分が自分の罪を赦せばよいのである。
イエスは「審判(さばき)は子(人間)にゆだねられたり」云っている。
自分を罰するのも自分であれば、自分の罪を宥(ゆる)すのも実は自分であるのである。

「神がわが罪を赦したまいて、その愛の慈手(みて)をもて抱きたまう、我はすでに癒されたり」
と念ずるのは、自己責罰を自分で赦すよき方法である。

メニンジャー博士はその著「おのれに背くもの」(日本教文社発行、下巻の(焦点的自殺)の項)
の中で咳が他を憎んで毛嫌いする心から起こると云うことを書いているのであるが

1951年1月21日発行のウイ−クリ−・ユニティ誌に於いてもスティヴンス・ハットフィ−ルド氏が
「正しく思え、正しくあれ」(Think right Be right)の中で同じような実例を挙げている
――或る婦人が自分の甥を貰って実子のように育てていたのである。

甥は戦争のため入隊したが或る日休暇で一人の友人と共に帰って来た。
海軍の服装をつけているためにその年齢では出入出来ない遊び場に出入するようになった。
酒場で出入りして酒を飲む、パチンコをやる、ダンス、賭博とある限りの歓楽を尽くすのである。

養母がどんなに説得してもきかなかった。
その時20年間影をひそめていた気管支炎が再発して重体に陥った・・・・・・。

この種の家庭に於ける精神的葛藤が病気を起こすことは数知れずである。
殆ど病気の大部分がそれであると云うことが出来る。

吾々の肉体は、吾々の抱懐する想念感情と同じような種類の形につくられる。
家族の誰かに対していだいている怒りをゆるすことは、
自分の心を縛っていた縛りをほどいてしまうことになるのである。

身体が硬直したり、不自由になったりする病気は
人を赦さないことから起こっている場合が多いのである。

だから人を審判(さば)いてはならないのである。

たとい相手が悪くとも、相手が悪いからとて、こちらが心を硬(こわ)ばらせば、
自分の肉体の組織が硬ばることになるのである。

狭心症や血管の硬化や、喘息や、組織を狭窄(きょうさく)せしめる病気は
人をゆるさない心から起こることが多いのである。

           <感謝合掌 平成25年2月25日 頓首再拝>

ゆるすということ (6836)
日時:2013年03月02日 (土) 03時42分
名前:伝統


      *『ゆるすということ』(ジェラルド・G・ジャンポルスキー・著)より、

(1)ゆるしは自由と幸せと希望をもたらすもの

   ゆるすのに、早すぎることはない、遅すぎることもない。

(2)過去から自由になる

  @ゆるさないと過去の出来事にいつまでも縛られる。
   私たちは、怖れや怒りという檻の中に、心を閉じ込めてきました。
  
  Aゆるしはその監獄の扉を開け放ちます。
   どうしようもない過去を変えたいという思い込みや願望からも、自由にしてくれます。
 
  Bゆるせば、つらい過去から自由になれる。

(3)裁くのをやめる

  @ゆるすことは、その人の行動に同意することでも、人を傷つける行動を肯定するのでもない
   ということを、思い出す。

  Aゆるしの目的は他人を変えることではなく、
   心のなかでせめぎ合う否定的な思いを変えることだと思い出す。

  B裁くのをやめる。それだけで、幸せになれる。

(4)自分を痛めつけるのをやめる

  @ゆるさないという思いは、苦しみをもたらし、さまざまな症状を引き起こします。
   否定的な感情によって自分の体を痛めるのは、そろそろやめにしませんか。

  A裁く気持ちや絶対にゆるせないという思いは、ストレスになって肉体を痛めつけ、
   内臓の病気だけでなくさまざまな心身症を引き起こします。
   ゆるさないでいると、健康に明らかな悪影響が及ぶのです。

(5)状況や他人のせいにするのをやめる

  @人生がうまくいかないとき、他人を責めたり状況のせいにしたりするのをやめなくては
   人は幸せにはなれません。

   誰かを責めても、仕返ししても、罰を下しても、幸せにはなれないのです。

  Aゆるさなければ、求めているものは得られません。

  B怒りや心の傷、恨みつらみ、そして心のなかの争いや他人との争いという
   悪循環を止めるのは、自分自身だけなのです。

(6)過去は繰り返される?

  @ゆるすためには、「過去の出来事は必ずまた繰り返される」という思い込みを克服して、
   心の準備をしなくてはなりません。

  A「過去の出来事は繰り返される」というエゴの思い込みのせいで、
   私たちの心には、怖れ、責める心、罪悪感、ゆるしたくないという思いが、
   たえず生じてきます。

   すると人間関係が築けなくなり、本当の自分を見失い、
   愛や神の存在を実感できなくなります。

(7)安らかな現在と未来のために

  @なぜゆるすのかといえば、自分を過去から自由にするためです。
   他人への恨みつらみから、自分を自由にするためです。

  Aゆるすと危険な目に遭うどころか、
   いまこの瞬間を、より生き生きと生きられるようになります。

   そして、いまこの瞬間が安らぎに満ちていれば、
   安らかな気持ちで未来をみることができます。

   すると、安らかな現在がそのまま未来へと続き、安らかな未来になります。

(8)思いは選択できる

  @ゆるしは選択です。ゆるさなければならないという決まりはありませんし、
   ゆるしの意義を信じる必要もないのです。

   ただ、ゆるすかゆるさないかは自分の心に決めさせて、
   ゆるすと何が起きるか、ゆるさないと何が起きるかを、じっくり観察してください。

  Aまちがいなく私たちの最もすばらしい才能のひとつは、
   心に抱く思いを選択できるということなのです。
   
   この選択の自由によって、私たちは自分でつくった檻の中から、
   自分自身を解放できるのです。

(9)「ゆるそう」という意欲

  @ゆるす能力を高めるキーワードは、「意欲」です。
   ゆるしを実践するときは、自分自身に「私はすべての恨みや、一見もっともな怒りを、
   自分のなかの再考の真実にゆだねる」と自信をもっていいましょう。

  A「ゆるそう」という心が、ゆるしへの鍵。

(10)ゆるしつづける

  @ゆるすにはどれだけの時間が必要だろうか?
   それはあなたの価値観しだい。

  @絶対に無理だと信じるなら 絶対に起こらない。
   半年かかると信じるなら 半年かかる。
   1秒ですむと信じるなら 1秒ですむ。

(11)ゆるしが幸せの鍵

  @あなたは安らぎがほしいか。ゆるせば、安らげるだろう。
   幸せになりたいか。静かな心でいたいか。・・・
   ゆるすことで、これらすべて、いやそれ以上のものが手に入る。

  Aゆるすことは 幸せになるための処方箋。
   ゆるさないことは 苦しみための処方箋。

  B「正しさ」より「幸せ」を選ぶ。

  C「ゆるしが幸せの鍵だ」と信じる。

           <感謝合掌 平成25年3月2日 頓首再拝>

許さない心では病気は治らぬ (6924)
日時:2013年03月06日 (水) 03時33分
名前:伝統


       *『生命の實相』第三巻・生命篇上(P180〜183)

昭和6年11月例会へ来られた松浦さんのお話しによりますと、先日その方の奥さんが
ふとしたことから産後に大腸カタルを起こして40度以上の高熱が続いた。

その原因というのが物質的原因も助因とはなっているかもしれぬが、
その松浦さんの精神分析的観察によると、その奥さんと奥さんの養母との間に、
産後心の戦いがあったのだそうです。

お産の時まで家事の手伝いかたがた来ておられた奥さんの母親は、
お産後間もなく帰ってしまわれた。

奥さんはそれを非常に恨みに思っていられる、猫の子の手助けさえ欲しいほどの忙しい時に、
養母(はは)ともあるものがわざと帰ってしまって手助けをしてくれないというのは
なんという薄情な母親だろう。

そこに母親を怒(いか)る心、怨む心、許さない心が起こる、
その心が腹の中にわだかまって腹がしこる。
《腹が立つ》とはよくいったものであります。

肉眼には見えないが腹が立ったときには、
その不調和な精神波動(すなわち人をも殺し自分をも殺すの心的波動)がその人の内部に起こって、
その不調和な状態が具体化すべく、具体的な動機を待っているのです。

それはちょうど種子が土に埋められたと同じであります。

その時何かの動機が与えられる、すると、それは温度と日光と水分とが適当に与えられた
ようなものであって「心の世界」に無形でいた不調和な精神波動力が、
この時はじめていよいよ具体的な芽を吹いて肉体的な病気となって顕われるのであります。

この奥さんもこういうふうにして、その後間もなく40度以上の発熱と悪寒とに見舞われ、
医者に診断を受けると大腸カタルだろうということでありました。
で、大腸カタルの手当てを三日ばかりしていると熱もさがり症状が非常に軽減してきた。

すると、その心の争いのあった養母がその日、折り悪しく見舞いにやって来て、
「病気なら治した経験があるからお腹をなでてあげよう」というのです。

この母親は若い時から大師詣りに熱心になったりせられて、
大師を念じながら人のお腹をなでて治した経験をたくさんもっている。

それをその奥様も知っているから、深切に「なでて治してあげよう」というものを、
「治していりませぬ」と口に出していう訳にはいかない。

しかし、心では「産後の世語すらしてくれずに去った養母などに治されてたまるものか」
という気がムラムラと起こってくる。奥様はこの反抗心をおさえてジッと眼をつぶって
養母(はは)がお腹をもんでくれるのに委せていた。

「養母(はは)はそんなことを知らずに、「ここにお腹にこんな塊がある。この塊を
もみほぐしたら病気はすぐ治ります」などといいながら盲腸のところにある腹の塊をグングン押す。
奥様はそんなことをされてはたまらないと思いながらジッとこらえている。

こうして夕方その養母(はは)が帰っていったあとで盲腸のところが急に痛み出して
熱がまた40度近くでてきた、奥様はその夜苦しみとおしたといいます。
翌朝医者が来て診断すると、もう明瞭に盲腸炎になっている。

医師のすすめにしたがって盲腸部に温罨法して経過を見ましたが、
数日たっても熱はひかず、容体は刻々悪化する一方である。

良人である松浦さんは『生長の家』の誌友のうちでも、敬虔(けいけん)な人であられましたから
一伍一什(いちぶしじゅう)の妻の状態を見て、この容体は、妻が自身の養母(はは)と
心で戦っていて和解していないから起こった状態であると悟られた。

お腹をもんでもらって、そんな薄情な養母(はは)に世話になるものかと思ったのであるが、
養母(はは)に世話になりたくないとはハッキリいいきることができないので、もんでもらいつつ
「あなたの世話にはなりませぬ。あなたがいらぬ世話だてをするからかえってわたしの病気は
こんなに悪くなりました」と心のなかでいいたかった。

奥様にとっては養母にお腹をもんでもらって、それで病気が治ったら養母に負けたことになる、
もんだほどかえって病気が悪くなれば、「あなたのせいでこうなった」と養母(はは)を
心で責めて負かすことができる。

そこで彼女は自身の肉体的苦痛という大犠牲を払って、養母(はは)を打ちまかすために
心で病気を作っているのだ、とこういう観察がハッキリついたのであります。

そこで松浦さんは奥さんに、「お前の病気がよくならぬのは養母(はは)を責める心がある
からだから、病気が治るためには養母を許さねばならぬ。許すだけではない養母に感謝する
くらいでないといかぬ」と懇々と諭されましたが、奥さんはそれでもなかなかゆるす気に
なれないのでした。

それで体温はますます昇る、症状は刻々悪化する、ある晩来た医師は、
もう温罨法(おんあんぽう)ではとうてい回復の見込みがない。
今晩経過を見て、明日は氷で冷罨法し、それでもいかねば切開するほかはなかろうと宜言しました。

で、その晩、松浦さんは『生命の實相』の巻頭に書いてある「天地一切のものと和解せよ」という
神示を奥さんに示されて、ふたたび、和解のうちにこそ神が宿り、神の癒す力が作用(はたら)く
ものであることを話されました。

すると奥様の心に養母(はは)を全然ゆるして、それまで世話になった鴻恩(こうおん)を
感謝する気持がはじめて起こったのであります。
松浦さんからお願いがあって、こちらからお祈り添えしていた関係もあったでしよう。

人をゆるし、人と和解した後ほど気持ちのよいものはない、その夜、奥さまは安らかに
眠られましたが、翌朝医師が心配しながら往診に来られた時には、熱が下がって
ほとんど症状が消えている。

医者も「昨日まであんなに重体だった病気がこんなに急によくなったのは不思議だ、不思議だ」
といっていたそうであります。

           <感謝合掌 平成25年3月6日 頓首再拝>

ゆるしは、強力な癒しのツール (7040)
日時:2013年03月11日 (月) 03時51分
名前:伝統


     *「ゆるし〜あなたの魂を癒す軌跡の力」(P31〜32)より

ゆるしとは、いわば心のテクニックです。
この専門技術を通じて、あなたは自らの愛を世界に広める方法を見つけ、
それ以外の方法をすべて排除できるようになります。

同時に、ゆるしとは、
自分の心の場を癒してはじめて実践できる行為だということを忘れてはいけません。

ゆるしに至るまでに、被害者は

「自分を襲った悲劇的状況を拒絶する」
「やがて少しずつ受け入れる」
「最終的には克服する」

というプロセスをたどる必要があるのです。


名高い神学者ポール・ティリヒは
「ゆるしとは、私たちの存在に対する神からの答えである」と述べています。
そう、ゆるしとは、私たちの心をかつての純真無垢な白紙の状態に戻してくれるのです。

そしてこの「純真無垢さ」こそ、私たちに「愛する自由」を与えてくれるのです。

つまり、ゆるしとは
「一度壊れてしまった私たちの心を、癒しながらもとの完全な状態に戻す手段」なのです。

ゆるしは、強力な癒しのツールであり、ゆるしにより、これまでより心穏やかに、
愛情に満ちた世界を創造することができるのです。
その結果、信じられないほど劇的なことが起ります。

ゆるしとは、私たちの人生だけでなく、この世に平和をもたらすものなのです。

           <感謝合掌 平成25年3月11日 頓首再拝>

自分を赦すこと (7091)
日時:2013年03月13日 (水) 05時00分
名前:伝統


      *『生活の智慧365章』(P144)より

私は『幸福を招く365章』の本の中に、
「自分を赦すこと」が大切であると云うことを書いて置いたが

人類の不幸及び災禍を絶滅するためには、
人間自身の“自己処罰”を無くしなければならないのである。
その“自己処罰”は自分を赦さないところから生ずるのである。

メニンジャ―博士は
「数多くの病気は ―― 通常、器質的と呼ばれるものも、機能的と呼ばれるものも ―― 
慢性で間接的な自殺という自己破壊の多様な形態とみなすことができるが、
このような意見をのべることは、おそらく、理論を拡張しすぎることにはならないであろう」
と述べているのである。(メ博士著『こわれたパーソナリテイ』275頁)

兎も角、人間は“神の子”であり、本来完全であり、
神と同じく“無限の力”を自己の内に有(も)っているのであるから、

自己が許さない限りは、どんな災害も受けることができないのであり、
若し、全能なる者が災害を受けるとしたら、
自己が自己を処罰する場合だけだと言い得るのである。

・・・

*この記事の冒頭のご文書

「私は『幸福を招く365章』の本の中に、
「自分を赦すこと」が大切であると云うことを書いて置いた」

 は、本スレッドの子記事「自分の罪を赦しなさい (6700)<2013年02月25日>」と思われます。

・・・

           <感謝合掌 平成25年3月13日 頓首再拝>

「心のやすらぎ」という贈り物を受け入れるために (7138)
日時:2013年03月16日 (土) 03時45分
名前:伝統

     *「ゆるし〜あなたの魂を癒す軌跡の力」(P34〜38)より

一言でいうと、ゆるしとはプロセスです。
そのプロセスを通して、私たちはこう気づくようになります。

「誰かに傷つけられて苦しんでも、その相手をまったく別の視点から見ることができれば、
それまでの苦しみを癒やすことができる」

つまり、ゆるしとは、私たちが自分自身や世界に対する見方を変えていくプロセスそのもの
にほかなならにのです。ゆるすことで、私たちは自分自身を癒し、自分の怒り、痛み、
苦しみを手放し、自由になることができます。

ゆるすことで、私たちは「心のやすらぎ」という贈り物を受け取れるようになるのです。


ゆるしとは、決して「相手が犯した悪事に目をつぶること」ではありません。
ゆるしは「自分が誰なのかを見詰め直し、自分の欠点を受け入れ、無条件に愛することで
真実を受け入れること」です。

勇気を持って自分自身と向き合うにつれ、人は自分の強みや弱みがどういうものなのか、
を把握できるようになります。こうして自分を受け入れることで、私たちは理解と思いやりを
深め、それを他の人にも向けられるようになるのです。

それは決して「目をつぶること」ではないのです。

ゆるしとは、自分自身の内面の変化を生み出す行為です。
ゆるすためにまず必要なのは、「私たち自身の認識や判断を変えること」です。
自分の認識を変えれば、相手に対する怒りや憎しみをすぐに癒すことができます。

それにつれ、相手をさらに違った視点から見つめられるようになり、思いやり深い人間になること
ができるのです。さらにその思いやりが深まるにつれ、「たとえ自分を苦しめた相手であろうと、
とにかく他者を助けたい」という意欲が高まっていくのです。


人はとかく、自分の恐れも欲求も「事実」と思いたがるものです。
でも実際は、事実ではありません。人は誰でも、自分の判断と認識のフィルターを通じて
現実を見ています。実際に起きた出来事を本当に理解しているわけではないのです。

私たちはごく主観的で不確かな「判断」と「認識」を通じて目の前の現実を創り上げています。
そして過去の出来事も同じようなプロセスを通じて認識しているのです。
この事実を理解してはじめてゆるしは成り立ちます。

理解や思いやりや愛によって状況を見つめ直せば、新しい対処法が自然に見えてくるものなのです。

怒りや憎しみや復讐心を手放すにつれ、その人自身が次第に癒されていくようになります。
過去に起きた出来事を潔く受け入れることで、理解や思いやりをもってその状況を認識し、
心の安らぎを感じることができるのです。

           <感謝合掌 平成25年3月16日 頓首再拝>

本当に赦すとは (7287)
日時:2013年03月24日 (日) 03時46分
名前:伝統


       *「生命の實相」幸福篇上巻(P19)より

悪は《ある》ように見えても本来無い。
この真理が人間の魂に沁(し)みこんでしまうまでは人間は本当には幸福にもなれないし、
本当に赦すこともできないものである。

本当に常にその人の生活が幸福であり、本当に赦すことのできる人は
「悪はあるように見えても本来ない」と悟った人ばかりである。

言葉や筆でそのことを説くことができるだけではまだ足りない。
魂の底にそれを沁み入らせなければならぬ。

毎朝起きた時および、何事か起こったときには
必ず「悪はあるように見えても本来ない」と十遍ずつ唱えるがよい。

これはどんな禁厭(まじない)の言葉よりも人間を光へ導く神呪(しんじゅ)である。

           <感謝合掌 平成25年3月24日 頓首再拝>

「ゆるし」の8か条 (7352)
日時:2013年03月29日 (金) 07時47分
名前:伝統


     *「ゆるし〜あなたの魂を癒す軌跡の力」(P81〜86)より

(1)ゆるしとは強制的なものではなく、自発的なものである。

  @ゆるしとは、私たちが示すことができる最も寛大な態度と言えるでしょう。
  Aゆるすことで、私たちは加害者だけでなく自分自身にも思いやりを示せるのです。

(2)ゆるしは一種の「心の状態」のことである。

  @ゆるしを与えることで、私たちは暗い記憶から解放されます。
  A傷ついた出来事を何度も思い返して、伊丹を募らせることがなくなるのです。

(3)ゆるしとは、加害者の行為を見逃すことではない。

(4)ゆるしとは反射的なものである。

  @ゆるしを通じて、私たちは一緒の「ご褒美」を受け取ることになります。
   心の平安を得ることができます。

  A精神的な傷を癒やせないまま、その傷跡に支配された人生を送ってしまう人もいます。
   そのような「精神的な傷」は罪悪感と同じく引きずり続けるうちにどんどん重たく
   なってしまいます。

   だからこそ相手をゆるすことで、自分自身の心の重荷から解放し、
   安らぎを取り戻さなければいけません。
   どう考えても、それは一番賢明はやり方なのです。

(5)ゆるしとは解放である。

   最終的に「相手をゆるそう」という決心を下すと、
   きっと爽快で、すっきりとした気分を感じるに違いありません。
   肩の荷が下りたような、ほっとした気分になれます。

(6)ゆるしとは「敵を愛する」ことではない。

   「敵を愛すること」は、ゆるしの必須条件ではありません。
   憎しみを手放し、相手をゆるす選択を下すのです。

(7)ゆるしとは決して簡単な行為ではない。
   だがゆるそうと努力すれば必ず報われる。

(8)ゆるしとは自分に権利を与える行為である。

  @ゆるすとは、心の強い人にしかできない行為と言えるでしょう。

  A誰かの傷つけられたとき、その加害者をゆるせるのは私たち自身しかいないのです。
   その点において、私たちは巨大な力を秘めていることになります。
   そしてその力を発揮することで、自分の権利を主張し、自尊心を高めることができるのです。

           <感謝合掌 平成25年3月29日 頓首再拝>

他人を赦すこと (7513)
日時:2013年04月06日 (土) 03時50分
名前:伝統


      *『生活の智慧365章』(P145)より

自己が災害を受けないために、自己を赦そうと思っても、自己が他を害そうと云う悪念が現に
動いている限りに於ては、自己の潜在意識の奥底にある“良心”が自己を処罰するに至って、
やっぱり災害を受ける事をまぬがれることはできないのである。

メニンジャ―博士は次のような実例を掲げている。――
 
「もっと劇的でさえあるような別の実例が、最近私の注意を惹いた。私は新聞である男のことを
読んだが、この男は、自分の鶏を盗もうとする奴を自動的に鉄砲が射(う)つような、泥棒よけ
のわなをしかけていたが、彼自身このことを忘れてしまって一番先に鶏小屋に入り込み、
自分自身のしかけた鉄砲で殺されてしまったのである。

私は、これこそ自分で自分に行(おこな)った死刑の見事な実例だと思う。
・・・二ヶ月ほどして私は、自分の自動車を守ろうと、自分のガレージにわなをしかけていた男
の別の実例を見つけた。

彼は、一月(ひとつき)ばかりの旅行に出たが、戻って来た時、自分自身のしかけた泥棒よけの
わなで殺されてしまったのである。

私はこの切抜(きりぬき)をもとっておいたが、更にもっと沢山の実例を探し始めた。
1年ほどのうちに私は、他の男を殺すためにしかけたわなに、
自分自身がひっかかった5人の男の実例を手に入れた。

私には、これらの事故が単なる偶然の一致ということだけで説明できるとは考えられない。

自分でしかけた死のわなに自分がひっかかるような男には、一種の(無意識的な)罪悪感、
おそらくは他人(泥棒)を殺そうと願ったことから生じた罪悪感という要素が存在していたに
ちがいない。」(メ博士著『こわれたパーソナリテイ』279頁)

以上のような実例によってわかることは、自分を害しようと思う者や、
自分から何かを奪おうとしている者さえも、吾々は赦さねばならないと云うことである。

相手を憎んで相手を害しようと思うならば自分が害されることになるのである。

           <感謝合掌 平成25年4月6日 頓首再拝>

赦しの感情が抱けない場合は、相手への祝福の祈りを奉げましょう (7562)
日時:2013年04月09日 (火) 04時38分
名前:伝統

     *松島修・著「聖書に隠された成功の法則」(P168)より

人を赦すことができない状態は、自分を傷つけ、天の祝福を受けにくくしてしまいます。

誰かを赦していない場合には、直接その相手に対して、赦したことを伝えてください。
もし、本人に伝えることができなければ、
祈りの中でその人を赦すという内容の言葉を出すようにしてください。

しかし、赦す、赦さないということ以前に、
自分に攻撃をしてくるような人に対しては、よい感情を持てないものです。
そのような人がいた場合には、その人に祝福があるように祈ってください。

感情的にはできなくても、理性でならば、相手の祝福の祈りをすることが可能です。

           <感謝合掌 平成25年4月9日 頓首再拝>

「ゆるし」に必要な「3つの忍耐力」 (7723)
日時:2013年04月17日 (水) 06時41分
名前:伝統

     *「ゆるし〜あなたの魂を癒す軌跡の力」(P107〜112)より

忍耐力を養い、寛容な心を持つよう努めると、人は憎しみや怒りに対抗できるようになります。
それは、「忍耐」と「寛容」が不幸な状況にも負けない、強い要素であるからにほかなりません。

だからこそ、この2つは「弱さやもろさのサイン」ではなく、
「何ものにも動じることのない根強い力のサイン」に見なされるのです。

自らの忍耐力と寛容さを高め、憎しみや怒りを克服し、ゆるしという勝利を得たる人こそ。
真のヒーローと言えるでしょう。真の意味で我慢強く寛大になれたとき、
私たちは相手に自然にゆるせるようになるのです。

仏教の教えによれば、忍耐力には次の3種類があります。
そしてゆるしには、この3つの忍耐力が必要になってくるのです。

(1)「痛みを受け入れる」ための忍耐力

  @自分の痛みを見きわめて受け入れることにより、私たちは心を開き、苦しんでいる相手に
   対して真の思いやりを発揮することができます。

  Aさらに怒りと憎しみの悪循環を断ち切り、それらを次世代まで持ち越さないよう
   手を打つことができるのです。

(2)「現実の本質を理解する」ための忍耐力

  @現実の本質を理解し智慧を学ぶことで、私たちは自らの認識を曇らせていた多くの要因を
   見きわめられるようになります。その結果、「加害者もまた様々な要因で認識が曇り、
   私を傷つけるような行動をとったのだ」と考えられるようになるのです。

  Aこのような観点に立って洞察力を深め、現実を見つめるほど、私たちは加害者である相手に
   対してより寛大な気持ちになることができます。被害に遭った状況に絡む複雑な事情を
   見きわめ、その種の悲劇に対してより冷静で寛容な反応を示すようになるのです。

  B仏教にカルマの法則があります。
   これは、「すべての結果には原因がある。すべての物事が複雑な因果の絡み合いによって
   生じている」という教え・考え方です。

   このカルマの法則は私たちにこう教えてくれています。
   「加害者が人を傷つけるような行為に走ってしまう理由は数え切れないほどある。
   『自分自身をコントロールできなかったから』というのは、そのたくさんの理由のうちの
   ひとつに過ぎない」

   こう気づいたうえで、その他の理由を考えるよう心がければ、ゆるしの能力をスムーズに
   高めるられるようになるのです。

(3)「加害者による傷や害をゆるす」ための忍耐力

  @この忍耐力は、加害者に対する寛大さを高めるうえで最も重要であり、
   一番達成が難しいものと言えるでしょう。

  A多くの場合、私たちの怒りや欲求不満は、加害者に集中することになります。
   そしてあまりにも多くの被害者が、その怒りに身を委ねてしまうのです。

   怒りに支配されたままの被害者は苦悩と妄想にとらわれ、そこから抜け出すことが
   できなくなってしまいます。さらにその妄想のせいで、視野も知識もどんどん限られて
   いってしまうのです。

   シャンティ・ディーヴァ(7世紀、インドの僧。彼の説いた教えは、後に『入菩薩行論』と
   呼ばれるようになり、広く語り継がれ、今もなお、チベット仏教の心髄として存在しています)
   は、次の言葉に見られるように、加害者を「忍耐力を学ぶための、めったにない機会を与えて
   くれる貴重な存在」と見なすよう説いているのです。


      この世には貧しい人がたくさんいます。
      しかし相手に苦痛を与える人はめったにいません。

      もし私が誰かを傷つけたりしなければ、
      私が誰かに苦しめられる機会はほとんどないでしょう。

      だからこそ、目の前にそんな人が現われたら、その人を宝物だと思いなさい。

      こちらが努力したわけではないのに、その人は現われてくれたのです。

      そんな敵を持てたことを幸せに感じなければなりません。
  
      なぜなら、その相手は私の目覚めを助けてくれる人だからです。


ダライ・ラマ法王の名言「私たちの敵は、私たちの最大の教師である」は、まさにこの教訓に
基づいたものと言えるでしょう。なお、法王はこうも述べています。

「憎しみは毒である、忍耐力は、私たちの心の中から有毒成分を取り除いてくれる薬である」。

・・・

 忍耐に関しては、参考として次のWebがあります。

(生長の家“本流宣言”掲示板)「忍 (5072)」
  → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1067   

           <感謝合掌 平成25年4月17日 頓首再拝>

”山ちゃん1952  さま”のブログ(緩す、赦す、許す、聴<ゆる>す) (7794)
日時:2013年04月20日 (土) 17時25分
名前:伝統


”山ちゃん1952  さま”のブログ(2013年04月17日)にて、
このスレッド「ゆるす」へのご意見を頂戴いたしました。

http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201304170000/


”山ちゃん1952  さま”の高い見識には、いつも教えていただいております。
まことにありがとうございます。

今回は、特に、以下のことが印象に残りました。

(1)現在の「ゆるキャラ」ブ−ムの緩いという字が「赦す」と語源は一緒なのです。

(2)相手の意見を聴き、「そこに蟠り」があればそれを穏やかに聴き、
   緩く「神の智慧」と一致せしめるのが「赦す」であることです。

           <感謝合掌 平成25年4月21日 頓首再拝>

緩す、聴す (7860)
日時:2013年04月24日 (水) 04時59分
名前:伝統

上記記事 (7794) にて、”山ちゃん1952  さま”より、機会を与えられたましたので、
「ゆるす」についての、語源と用途について調べてみました。

・・・・・

        *「日本語源広辞典」より

(1)語源は、「緩う+す」です。
   堅く締めたものを、緩くすることを、ウ音便で ユルウス と言います。

   罪人の束縛を、ユルウスル ことを、音韻変化で ユルス となったというのが、
   「ゆるす」の語源となったと考えます。

(2)ユルスの質的な違いは中国語源で区別します。

  @【許】

   説1〜相手の言葉を自分の心に置く。聞き入れる。
      「言+午(居・置く)」

   説2〜午は杵の形の神体。
      「言+午」神に祈る言葉で許される。

  A【赦】〜赤の音シャが捨に通じ、罪状を捨てユルス。
      「赤+攵(強要)」

  B【恕】〜しなやかな女の心。思いやり
      「如(女)+心」。ゆるす。

  C【容】〜家も谷も物を受け入れる。ゆるす。
      「宀(家)+谷」。

  D【宥】〜広い家庭の庭園のような心で許す。
      「宀(家)+囿(鳥の放し飼い庭園<音訓読み:ユウ、その>)」。

(3)参考として、【緩い】の語源

  @堅く括った柱がユレウゴクがユルムです。
   揺れ動く状態が、ユルヤカ、ユルイです。

  A括った紐が締まっていないのがユルイの語源なのです。

  B中国語源【緩】
   〜糸をゆるめる。ゆるくする。
    「糸+ユルイ意味の緩=寛」。  

・・・・・

        *goo辞書より

ゆる・す【許す】. 〜《「緩(ゆる)」「緩(ゆる)い」と同語源》

(1)(「聴す」とも書く)不都合なことがないとして、そうすることを認める。
    希望や要求などを聞き入れる。「外出が―・される」「営業を―・す」

(2)(「赦す」とも書く)過失や失敗などを責めないでおく。とがめないことにする。
   「あやまちを―・す」

(3)(「赦す」とも書く)義務や負担などを引き受けなくて済むようにする。免除する。
   「税を―・す」「兵役を―・す」

(4)相手がしたいようにさせる。まかせる。
   「追加点を―・す」「わがままを―・す」「肌を―・す」

(5)そうするだけの自由を認める。ある物事を可能にする。
   「楽観は―・されない」「時間が―・せば」「事情の―・すかぎり」

(6)警戒や緊張状態などをゆるめる。うちとける。
   「気を―・す」「心を―・した友」

(7)高い評価を与える。世間が認める。
   「自他ともに―・すその道の大家」

(8)引き張ったものをゆるめる。
   「猫の綱―・しつれば」〈源・若菜上〉

(9)捕らえたものを逃がす。
   「つととらへて、さらに―・し聞こえず」〈源・紅葉賀〉

      (http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/225916/m0u/

・・・・・

用途〜 ゆる・す 【許す/▽赦す/▽聴す】

     * weblio 辞書より

〔「緩(ゆる)し」「緩ふ」と同源〕

(1)罪や過失を、とがめだてしないことにする。また、服役中の人を放免する。《許・赦》
   「今度だけは―・してやる」「子供をだますなんて絶対に―・せない」

(2)願い・申し出などをききいれて、願いどおりにさせる。認める。許可する。《許・聴》
   「大学へ行きたかったのだが、父が―・さなかった」「医者から一時帰宅を―・された」

(3)ある行為を、さしつかえないと認める。《許》
   「屋敷への出入りを―・される」

(4)義務や負担を免除する。《許・赦》
   「税を―・す」

(5)相手のはたらきかけに対し、思いどおりにさせる。《許》
   「敵の侵入を―・す」「肌を―・す」

(6)他に対する警戒心をゆるめる。《許》
   「気を―・す」「心を―・す」

(7)その人をとりまく状況が、ある事を可能にする。《許》
   「時間が―・すならもう少し述べたいことがある」
   「予算が―・せばもっと広い家を買いたかった」「延期は状況が―・さない」

(8)すぐれた存在であると認める。《許》
   「第一人者として自他ともに―・す」

(9)ある水準に達したと認める。《許・赦》
   「免許皆伝を―・す」

(10)強く締めたり、引いたりしたものをゆるめる。
   「猫の綱―・しつれば/源氏(若菜上)」

(11)手放す。自由にする。
   「夕狩に千鳥踏み立て追ふごとに―・すことなく/万葉 4011」

    (http://www.weblio.jp/content/%E8%81%B4%E3%81%99

・・・・・

<参考>

「聴」の旧字は「聽」

       *『字通』(P629)より

神の声を聞き、その意を聡る意である。
神の声を聞くものを聖といい、その聡聞を聴という。

       *『字統』(P1119)では

神の声を聴きうるものが聖であり、その徳を聴という。

    
       *さらにWeb上から

「聖」と「聽」をよく見くらべてください。
「耳」と「王」(旧字体では「ノ+土」、発音はテイ・チョウ)が両方ともあるのが分かる
と思います。

「ノ+土」は甲骨文字ではかしずんだ人を側面からみた形で、その上に大きな耳があります。
つまり、人が天に向かって耳を傾けている様子であって、神の声を聞いているのだと思われます。

(「聖」の場合は右が「口」で祭器を表していると思われ、「聽」の場合は右が「悳」で、
何か呪術的な力を表していると思われます
「悳」には「目」の形があります。王が小高い山に登り、国土を見ることには王の「目」がもつ
呪術的な力で国土を安定させる意味があったといいます)。

「聽」は、神のこえを聴くことができるということから、
「よく聴く」という意味が出てきたと思われるということです。

・・・・・

  これらのことから、”山ちゃん1952  さま”の述べられている「ゆるす」に関する
  深い解釈を、理解することができるのではと捉えております。

           <感謝合掌 平成25年4月24日 頓首再拝>

緩ます (7923)
日時:2013年04月26日 (金) 03時57分
名前:伝統


     *「100%幸せな1%の人々」<小林正観・著>(第3章)より抜粋。

70歳くらいの方から、夜中の2時に電話をもらったことがありました。

「医者にかかっても神経痛がちっとも治らない」とのことでしたので、
「神経を緩ませてください」と言いましたら、

その人は「はぁ?」と言っていたわけです。

「神経を緩ませると痛くなくなりますよ」ともう一度言ったら、
10秒くらい経って「はぁ.....」と言って、その後20秒くらい沈黙が続きました。

そろそろ切ろうかなっと思ったら「痛くなくなりました」と。


神経痛が痛いのは、神経がピーンと張ってる上に、
その神経をビーンと響かせる外的な状況があるからでしょう。


たとえば「バカ」と言われたとき「そうじゃない」と思うことにより、
その張りつめた神経に対して外的な状況がビーンと響いたので、
その痛みが神経痛という現象になったのかもしれません。


ではなぜ、神経を緩ませたら痛みがなくなったんでしょう。


実は「許す」の語源は「緩ます」なのです。

神経を「緩ませていない」人は、 人を「許せない」人であり、だから痛いらしい。

「あなたがやっていることは他人に迷惑をかけてますよ」と、
チクチクと宇宙から痛みがやってくる。


 緩ますこと=許すこと。

自分に対してものすごく厳しい人も同じです。
自分に対して厳しすぎる結果、身体が「あなたの厳しさに耐えられません」
と悲鳴を上げて痛みが起こっているのかもしれません。


自分で自分を許すことが出来れば、他人を許すことが出来て、

許すことが出来た人は、緩ますことが出来て、

緩ますことが出来た人は、神経の痛みが無くなります。


日本人は体験的に「許す」と「緩ます」が同じ語源であることを知っていた結果として、
そういう言葉を作ったのでしょう。

ピーンと張っている結果、
心も身体も痛いんだと言うことを知ってたように思います。

           <感謝合掌 平成25年4月26日 頓首再拝>

相手を赦すためには (8021)
日時:2013年04月29日 (月) 06時18分
名前:伝統


       *谷口雅春先生・著「私はこうして祈る」(P7〜9)よる

祈っても祈っても、祈りが成就しない時には、そこに一つの支障が伏在していることが多い。
それは人を赦していないことである。
吾々は、一度、人を憎んだり、恨んだりすると、現在意識では忘却してしまっていても、
その「念」が潜在意識に入ってしまって、なかなかとりのぞけないものなのである。
こんな無意識があるかぎり、どんなに強力に祈っても無駄なのである。

こんな場合には、まず、祈るに先立って、相手を赦す祈りをせねばならないのである。
赦すもののみが赦されるのである。

このための祈りとして、次のような祈りのいろいろの場合がある。

           ○

「私はあなたを赦しました。あなたも私を赦しました。
私はあなたと神において一体でございます。

私はあなたを愛しております。あなたも私を愛しております。
私はあなたと神において一体でございます。

私はあなたに感謝しております。あなたも私に感謝しております。
ありがとうございます。ありがとうございます。

私とあなたの間びま、いま何らの心の蟠(わだかま)りもございません。
私は心からあなたの幸福であることを信じます。
あなたがますます幸福でありますように」

           ○

「私はこれらすべての人々を赦したのである。
私はこれらのすべての人々を神の愛をもって抱擁する。
私がこれらすべての人々を神の愛をもって抱擁するがごとく、
神もわが過ちを赦し給い、その無限の愛をもってわれを抱擁し給うのである」

           ○

「彼(相手の名前を念ずる)と私とを、神の愛と平和と調和と赦しがとりまいている。
彼を私は愛し、彼は私を愛し、彼は私を理解し、その間になんらの誤解もないのである。
愛は憎まない。愛は欠点を見ない。愛は怨まない。
愛は相手の立場を理解し、けっして無理な要求をしないのである」

           ○

「神はあなたを宥(ゆる)したまう。それゆえ私もあなたを宥(ゆる)すのである」

           ○

「われ生長の家の神において、汝を愛し、汝に愛念を送る。私はあなたを愛しています」

           <感謝合掌 平成25年4月29日 頓首再拝>

ゆるせない人をゆるす方法 (8122)
日時:2013年05月03日 (金) 03時59分
名前:伝統


       *徳久克己・著「幸運をよぶ」(P106〜110)より

《1か月もかかってゆるしたら》

谷口(雅春)先生のご講習をうけて、どうしても、ゆるせないと思っている人を、ゆるす方法を、
私は教わりました。それは「コトバの力」を応用した、「ゆるしの祈り」です。

私は、当時、たしか6人くらいの人と争っていて、自分が正しくて相手が悪いのだから、
絶対にゆるせない、と思っていました。

しかし、先生のお話しを聞いて、相手が悪くても、相手を憎む心をおこすと、その争いの心が
「神の救いの念波」をよう受けないから、正しい人でも不幸になる、ということを教えていただき、
本当にビックリしました。

それでも、ゆるす気にはなれませんでしたが、「ゆるしの祈り」を教えていただいて、
その祈りを実行しようと決心して、実行してみたのです。


それは、憎んでいる相手の笑顔(えがお)を思い出して、それを心に浮かべて、相手の名前を呼んで、

「私はあなたをゆるします。 あなたは私をゆるします」

と、自分の耳に聞こえるように、小声で繰り返し、繰り返しいうのです。


まず相手の笑顔を心に思い浮かべようと思いましてても、とても思い浮かべることができません。
それに「私はあなたをゆるします」といおうと思っても、
潜在意識では、まだ憎んでいるのですから、なかなかいえません。

勇気を出して、ようやく、「私はあなたをゆるします」と、小さい声でいったのですが、
そのトタンに心の底から、「クソッたれ、バカやろう」という、声にならない声が出てきます。
ゆるす気持ちより、腹立ちの心の方がズット強いのです。

そんなことを繰り返しておりますうちに、声を出していって、自分の耳に聞く、
その「コトバの力」が私の心に働いてきました。心の底では「バカやろう」と思っていても、
声を出して「あなたをゆるします」といっていますと、ダンダンとゆるす気持ちになるのです。

本当に、心の底から「ゆるす」という気持ちになるまでには、1カ月以上もかかりました。


《この幸福を全人類に》

一人ずつゆるしていたのでは、時間がかかりますので、私は数名の名前をとなえて、

「私はあなたがたをゆるします。 あなたがたは私をゆるします」

と唱えたのですが、本当にゆるした、という気持ちになった時、私は肩の重荷が一ペンに
おりたような、なんともいえない、サワヤカな気持ちになりました。

相手がいくら憎くても、相手をゆるすと、こんなにも軽やかな、サワヤカな、楽しい気持ちに
なるものだ、ということを、私ははじめて味わいました。
結局、憎んでいる私自身が、苦しい思いをしていたのです。

神は愛であり、人間は神の子ですから、人間は愛の子であり、愛そのものが人間なので、
愛と反対の「憎しみ」の心をもっていますと、自分の本質に反しているから、理窟で私は
正しいのだ、といくら思っていても、結局は自分が苦しいのだ、ということを身をもって
体験しました。

自分は正しいのだ、相手が悪いのだから、憎むのが当り前だ、と思っていましたが、結局は、
憎んでいる自分が楽しくなかったのです。

ゆるしてしまいますと、自分の心の重荷を、全部おろしてしまったような、軽々とした、
サワヤカな、楽しい気持ちになった時、自分が生まれかわったような気持ちにならせて
いただきました。

結局は、神の子の自分を、「憎しみ」という「迷い」が、すっかり包んでしまっていたのでした。

ですから、その「迷い」がなくなりますと、本来の「神の子」が、スカッとあらわれて来たのです。
私の本来の姿は、いつも楽しい、サワヤカな、すばらしい自分であったのですが、
そのスバラシイ自分の本性を、「憎しみ」という「迷い」で、おおい包んで、「神の救の念波」を
よう受けなかったのです。

その「憎しみ」を捨てた時、自分の本来の「神の子」の実相(じっそう)があらわれたので、
なんともいえない、明るく、楽しい、嬉しい気持ちになりました。
それ以来、私はすべてのことが、調子よく、楽しく、ありがたくなりました。

相手がどんなに悪くても、それを憎んでいると、自分の「神の子の実相」が、あらわれて
こないのだということを、自分の体験をとおして、つくづく教えられました。「争いの念波は
神の救の念波を能(よ)う受けぬ」この真理が、その後も私の人生の指針となりました。

私はブラジルに9回も行き、また2年のあいだ駐在しまして、ブラジル人を約千名ほど個人指導
させていただきましたが、多くの病気、その他の人生のあらゆる問題を、この「ゆるしの祈り」を
教えることにより、奇跡的に解決させていらだきました。

そして、「ゆるしの祈り」こそが、人類に幸運をもちきたすものであると、
確信をもつことができました。

           <感謝合掌 平成25年5月3日 頓首再拝>

【許しおおす】 (8181)
日時:2013年05月05日 (日) 06時33分
名前:伝統


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年03月18日)」より

   ( 伊勢の父、修養団の中山靖雄氏の心に響く言葉より… )

   私のところへ勉強に来られていた高円寺さんというご夫婦がおられました。

   この高円寺さんの5歳の娘さんが突然交通事故に遭い、亡くなってしまったのです。

   その時、事故を起こした人が警察にいるということを聞いて、
   このご夫婦はその人に会いに行かれました。

   そして、どうされたかというと、
   このご夫婦はその事故を起こした方に向って、土下座をして、お詫びされたのです。


   「こういう縁にあわせてしまってごめんなさい。
   こういう縁にあう子どもを育てたのは私の因縁です。
   どうぞあなたは安心して、このことを忘れて、世のため人のためになってください。
   本当にごめんなさい」

   このように謝られたのです。

   ご夫婦には、悲しみも、許し難い思いも当然あったでしょうが、
   命が生まれてきた理由を本当に学びきっておられたのですね。

   頭でわかっていても、実際にそんな目にあった時に、
   本当にそう思えるかどうかということが難しいわけです。

   ご夫婦は普段からそのような生き方をしていたからこそ、
   その時にそいう思いが湧かされたのでしょう。

   「許す」ということの大切さはみんな知っているかもしれません。

   しかし、「許すこと」「許しきること」さらに、「許しおおすこと」は深さが違うのです。

   この「許しおおす」という世界は、
   このご夫婦のようなことをいうのかなと深く感じさせられました。

   その高円寺さんご夫婦が、この前会いに来てくださって
   こういうお話をしてくださいったのです。

   「あの事故から30年経ちました。
   あの子の30年の命日に娘のお墓参りに行ったのです。

   お墓参りに行くと、新しいお花がお供えしてありました。

   ああ、誰かがお花を取り替えてくれたのだなぁと思って、いったん帰りかけたのですが、
   ふともう一度お墓に寄ってみたんです。

   すると、雨降りの中、娘のお墓に一生懸命拝んでいる人がいたのです。

   ああ、あの人が花を替えてくれたんだなと思って、よく見てみたら、
   娘を轢(ひ)いた相手の方だったのです」

   とおっしゃいました。

   相手の方を見てびっくりした奥さんは、

   「お墓参りをしてくださって、あなたもお詫びをしてくれていたのですね。
   本当にありがとうございます」

   と声をかけられたのだそうです。

   すると、相手の方も驚かれ、

   「お母さんでしたよね。 ごめんなさい」

   と謝られたあと、

   「ここで会えると思いませんでした。
   あの後、一度たりとも事故を起こしたことを忘れたことはありませんでした。

   私が悪かったのです。
   本当にごめんなさい。

   奥さんとご主人の愛に包まれて、
   俺はどんなことがあっても人を許さなければいけないだ
   と思って生きてきました。

   そして、娘さんを神様みたいに思って、毎日お詫びをして生きてきました。

   お目にかかれて嬉しかったです。
   ありがとうございます」

   とお礼を言ってくださったそうです。

        <『すべては今のためにあったこと』海竜社 >

   ・・・・・

自分の娘を殺され、その相手を許すとは…

「許しおおす」という凄(すさ)まじいまでの許しの世界だ。

「そんなことは絶対に許さない」などと、些細なことを許さない自分は如何に小さい人間か。


許しとは逆の世界が、恨み、憎しみ、怒り、そして相手に思いしらせ、
敵(かたき)をとる、という攻撃の世界だ。

許さなければ、怒りと攻撃の世界はずっと続く。

それは結局は、まわりまわって、自分の身をボロボロにしてしまう。

欧米諸国にならって、昨今はこの日本でも訴訟が多く起きている。

「許しおおす」という深い世界を、今一度かみしめてみたい。

           <感謝合掌 平成25年5月5日 頓首再拝>

ゆるした時、病が消えた (8234)
日時:2013年05月07日 (火) 06時56分
名前:伝統

       *徳久克己・著「幸運をよぶ」(P110〜113)より

《ある人の手紙》

53歳の婦人が、両膝、肩などに軟骨ができて、足は曲がらなくなり、
全身に強い痛みを感じていたのですが、娘のすすめで、半信半疑で飛田給の
生長の家本部錬成道場の練成に参加しました。

娘には、「お母さんはあんまり、お父さんを恨んでいるから、その気持ちを捨てたらどうか!」
といわれたのです。それは、25年前にある女性のもとに走り、別居中の夫をのろい殺したい
ほど、彼女は憎んでいたからです。

夫とは駆け落ちまでして一緒になりましたので、4年間も実家には帰らなかった、
そのようにして結婚した夫でしたので、彼女はとうていゆるすことができなかったのです。

彼女は練成をうけた体験を次のように書いています。

「浄心行で実相円満完全と何百回と念じた時、あふれるほどの涙を流し、後日、先祖供養の
すんだ翌日、後から歩いてきた同じ部屋の人に、”来た時より足がよさそうね”といわれ、
その時は、”そうかしら”とあまり気にしなかったが、後から来た別の部屋の人に、

また”あなたの足、なんだか調子がよいようね”といわれ、
廊下で試しに膝を曲げてみたら、曲がるではありませんか。

その時の喜びは25年間も病んで、ビッコで足を引きずっていた足だっただけに、
驚きはひととおりではなかった。

そして八日目の流産児供養をした、次の日は昨日(きのう)にくらべて尚一層よくなっている
ことに気づき、”ああ、こんなに信じられないことって、あるだろうか?” と感激し、
これも生長の家のおかげと思い、先祖に、恨み続けてきた夫に感謝しています。

帰宅後は生長の家の教えをまもり、知りあいの悩める人、そして苦しむ人があるならば、
生長の家を紹介し、一人でも多くの人に伝道して行きたいと思います。

9日間の修行でしたが、いろいろの方々に、実際の体験談をお聞きし、本当にうれしく、
ますます生長の家の前途に光あらんことを祈ります」


《心のカゲだ》

彼女は、25年間もビッコを引いていた足が、曲がるようになりましたので、
手足を自由に動かして、奇蹟の実証を練成会員に一同に見せて喜び合いました。

彼女と、彼女を捨てて別の女のところへ行った夫と、どちらが善いか、どちらが悪いか、
というようなことは別としまして、夫に捨てられた彼女が、足が曲がらずビッコとなり、
身体(からだ)の方々の関節が痛んで、25年間も苦しんできたのです。

このカラダの苦痛は、彼女の「心の苦痛」のあらわれであったのです。
「心の苦痛」というのは、「夫をのろい殺してやりたい」というような憎しみの心で、
夫が悪いことをしたのだから、その夫を怨み憎む、それが「心の苦痛」なのです。

そして、「絶対ゆるさない」という怒りの心が加わっています。
これは、相手をゆるしたら、相手の悪をゆるしたことになり、自分が負ける、というような心で、
夫が私の運命をメチャクチャにし、こんな哀れな自分にしてしまった、
という心が強く働いていたのです。

相手がいくら悪くても、その悪い相手を怨み憎みますと、
善い自分が病気となり、苦しまなければならないのです。

善とか悪とは別に、「争いの念波」をもちますと、神の救いの念と波長が合いませんので、
「争いの念波」をもつことによって、もった人が苦しまなければならないのです。

彼女の場合でも、彼女自身は「私が悪いのではない、夫が悪いのだ」と思いつづけて25年間、
心が苦しみ、そのあらわれとしてカラダも苦しみつづけてきたのです。

それが練成会を受けて、夫をゆるす心になりますと、25年間の心の苦しみから解放され、
そのあらわれとしてカラダの苦しみからも解放されたのです。

この実例からみましても、「心」と切りはなして「カラダ」というものは考えられませんし、
生長の家で説かれている、「肉体は、心の反映(かげ)である」という真理が、
本当によくわかります。

カラダの病気は、「心の悩み(迷い)」のあらわれでありますが、多くの場合、「憎み」「怨み」
「怒り」などの心が、たまっている場合がありますので、「ゆるす心」になりますと、
そんな「心の悩み」が消えてしまって、カラダの病気も消えてなくなるのです。

           <感謝合掌 平成25年5月7日 頓首再拝>

責め裁くのではなく、許しいたわる (8517)
日時:2013年05月19日 (日) 04時11分
名前:伝統

   *中山靖雄・著「すべては今のためにあったこと」(P26〜29)より

これは良いとか、これは悪いとかいう、尺度はいったい何でしょうか。

私たちは、ついつい事柄を良し悪しにしてしまうものです。
健康は良くて、病気が悪い。若い方が良くて、年をとることが悪い。
生きていることは良くて、死ぬことは悪いなど、そんなふうに二者択一にしてしまいます。

よく考えてみれば、病気がなければ、健康もないのです。
年を取らなければ、若さというのもありません。
死ぬという世界がなければ、生きるという世界は成り立ちません。

ところが私たちは、どうしてもこれが良くてこれが悪いという二極の世界を生きてしまう
わけです。本来、「良し」「悪し」というのは一対の岸であり、その両岸の間をどう流れる
かということが大事です。

本来、「良し」「悪し」というのは、一対の岸だと思うのですね。
その両岸の間をどう流れるかということが大事です。

「よしあしの  中を流れて  清水かな」という句があります。
これは、掛詞(かけことば)で「よし(葦)・あし(葦)」と「良し・悪し」を掛けています。
よし(良し)あし(悪し)にぶつかり、その中を流れながら清められていくということです。

(中略)

あれは良い、これは悪いではない世界があります。
人生の中ではいろいろなことがあります。

新しいものがどんどん生まれてくる今の時代は、良し悪しではなく、その立場に立った時に
自分がどうするか、その時、その場の関りで決めるしかないのです。

すべて良し悪しにしてしまう心を修めて、目に見えない世界を大切に生きると、
自分や人を良し悪しの世界で「責め裁く」世界から、「許しいたわる」世界へと変わります。
そして、喜び多い人生にすることができるのです。

良し悪しで決めたくなる出来事に出あったその縁を、どうとらえていくかが大切です。
こうして見えない世界に心を向けることが、心を修めることにつながっていきます。

人は出来事をとおして、いくらでも自分の心や思いを綺麗にしていくことができるのです。

           <感謝合掌 平成25年5月19日 頓首再拝>

一度憤った相手は思い出してゆるせ (8707)
日時:2013年05月27日 (月) 04時48分
名前:伝統


        *『光明法語』(5月27日の法語)より

「われすべての人を赦したり」と観じても、そう漠然と思うだけで赦していないことがある。
それは自分の家はもうすっかり不浄のものを洗ってしまって洗濯物はないと信じていても、
押入の隅っこに「汚れ物」をつくねて忘れていることがあるのと同じである。

その「汚れ物」を発見し、それに清らかなる水を灑(そそ)いで洗い浄める事が必要なのである。

過去より今まで嘗て憎み恨み憤りたりし相手を思い起こし、一々その顔を眼瞼(まぶた)の
内に思い浮かべ、「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました・・・」と
心の中に唱えるのである。

            <感謝合掌 平成25年5月27日 頓首再拝>

真に相手を許すとは (8753)
日時:2013年05月29日 (水) 04時03分
名前:伝統


        *『光明法語』(5月29日の法語 相手の幸福を祈ること)より

次に相手の幸福を祈れ。
真に相手の幸福のために祈り得るような心境になり得てこそ、
真に相手を自分が赦しているのである。

そうでなしに、相手のことを思い出すのは不快であるから、
忘れてしまいたいと思っているようなことでは真に赦していないのである。

キリストが「汝の敵のために祈れ」と教えたのもこの意味である。
彼の幸福を祈り得るような心境に達したときにのみ、敵が敵でなくなるのである。

人間の真の勝利は、自己内部の敵を征服することにある。
自己の内にある「敵」の観念を克服せよ。

            <感謝合掌 平成25年5月29日 頓首再拝>

人を許し、自分を許す (9072)
日時:2013年06月06日 (木) 04時47分
名前:伝統

       *「幸せの道」(斎藤一人・著)<P152〜160>より

不幸な人はね、誰か許せないんです。
誰か許せないか、自分が許せない。

それで、「許せない状態のままでは幸せってなれないんだよ。ね、だから許してやんな」って
言うと、「えっ、許せないです」

「もういいじゃないか、許してやんな」って言うと、
「でもね、一人さん、あの人私にね、こんなことしたんです。こんなこと言ったんです、
だから私許せないんです。あの人のことを考えると、夜も寝られなくなっちゃうんです。
ご飯も食べられなくなっちゃうんです。だから、私許せないんです」

ああそう、はっきり言うよ、相手は寝てるよ。   (笑いと拍手)

自分のね、魂のステージ上げて。とかね、心を広くして人を許そうとか言ってるんじゃないの。

あなたにね、傷つけるようなこと言ったような人間って、どこでもやってんの。
そういうことしか言えないの。そういう性格なの。

ほんとにね、自分がそういうふうに生まれなかっただけで、ありがたいなあ、
と思うしかないんです。
そういう人間、あっちでもこっちでもそういうこと言ってるからね。

あの人、私にこんなこと言ったのに、謝りにも来ない。

来ないよ、覚えてないんだから。 (笑)

人間ってね、自分のこと悪いと思わない習性がある。
まったくあの人、悪いんだから、みんなもこうやって言ってるよ、って言っても、
当人はなんて言ってるかっていうと、当人は「だめだよ、俺も人が良くて〜」 (笑)

だから、やめな。
3年許せないんです。5年許せないんです。
許せないってことは、そのいやな人のこと考えてるんだよね。

なんで、嫌いな人に自分の大切な時間を奉げる必要あるんですか?
3年許せません。5年許せません。10年許せません。許せない、許せないって言いながら、
自分の大切な時間を、なぜ、その人に奉げるんですか? ほんとは愛しているんでしょ。(笑)

大切な時間を奉げながら、嫌って嫌って嫌って、呪って呪って呪って、
ほんとに呪っちゃう人いるんです。

「一人さん、ずっと呪ったら、呪いって効果があるんですか?」って言う人いるんです。
残念だけど、呪いは効かないよ。ほんとに毎日毎日毎日、相手を呪って、相手にこの呪いが
届くまでに、実は百年かかるんです、それで・・・「のろい」っていうんですよ。(笑いと拍手)


人生ってね、公園散歩しているようなものなの。

ああ、公園散歩してて、きれいな花壇があるな。
こっちの花きれいだな。こっちの花もきれいだな。
あっ、犬の糞(ふん)があった。えー、犬の糞(くそ)があった。

でもね、10年の間には、あなたに親切にしてくれた人もいたはずだよね。
あなたに優しくしてくれた人もいたはずだよね。

それなのに、そういうことは一切忘れちゃって、この犬の糞のことだけを、ずうっと考えて、
あのうんこ、こういう色してたのと、ね、こういう形だったのよ。
色、つや、形、詳しく説明されても、聞いている人も辛いんです。

だから、やめよう。大切な時間を嫌いな人間に奉げるの、よそう。
自分に優しくしてくれた人に奉げよう、ただそれだけです。


あと、自分が嫌いな人がいます。
好きになんな。

「だめなんです。私こういうことがあります。
親にも言われました。学校の先生にもこう言われました。先輩からもこう言われました。

私ってだらしないとこがあったり、だめなとこがあるんです。
だから、自分をね、好きになれないんです」

あー、この人も勘違いしてる。
人間て、しっかりした生き物じゃない。うっかりした生き物なんですね。(笑)
だからしっかりしようと思ってもできないの。

あなたに細かく注意してくれたお母さんも、実はたいしたことなんです。
いろいろ言ってくれた学校の先生もそうです。
私たちもそうです。先輩やなんかもそうです。

得意げに叱ってくれたけど、苦手なことをやらせると逃げちゃうんです。
みんなそんなもんだよ。

だから自分を好きになんな。
隣のおじさん嫌いでもいいです。引っ越せますから。

自分が嫌いだと、引っ越すことができないんです。

でも、ほんとに困った時、ほんとに辛い時に、自分を助けてくれる人って、自分しかないんです。

冬の寒い朝です。
眠くて眠くて仕方がない時、あなたの代わりにおしっこに行ってくれる人がいますか? (笑)
最後の最後に頼れるのは、自分ですよ。 (拍手)

だから、自分を大切にしてあげてください。

           <感謝合掌 平成25年6月6日 頓首再拝>

なぜ、ゆるすことが必要なのか? (9185)
日時:2013年06月11日 (火) 06時11分
名前:伝統


      *「ゆるす力」植西聡・著(P22〜23)

人間の感情にはたくさんの種類があります。
喜び、楽しみ、愛しさ、嬉しさ・・・など、思い出すと自然と笑顔になってしまうような
プラスの感情もあれば、「怒り」や「憎しみ」といった感情も、日常生活の中では頻繁に
味わうものです。

感情表現が豊かな人は魅力的です。

しかし、感情は感情でも、怒り、不満、憎しみ、執着といったマイナスの感情は、
できるだけ早く、心の中から解放することをおすすめします。

「どうして? 別に誰かを恨んだままでもいいじゃない」 と思う人もいるでしょう。

「私が、あの人のことをゆるせないほど憎んでも、それで誰かに迷惑をかけるわけではない」

「確かに、自分の怒りっぽい性格は直したいけれど、嫌いな人たちを好きになることは絶対に
できない」

そんな反発心を覚えた人もいるかもしれません。

誤解しないでほしいのは、私は、「相手のために、ゆるしてあげなさい」と言っているのでは
ないということです。

マイナスの感情を手放すことをおすすめするのは、手放したほうが、
その人自身が幸せになるからです。

あまり知られていませんが、誰かを「ゆるせない」という気持ちを持っていることは、
幸せになることの足を引っ張ります。

マイナスの感情は、マイナスのエネルギーとして心の中にとどまり、磁石のようにマイナスの
出来事を引き寄せるからです。

「叶えたい願いがある」
「穏やかな気持ちで毎日を過ごしたい」

そんな気持ちがある人は、今すぐに、「ゆるせない」という感情を手放すと決めましょう。

           <感謝合掌 平成25年6月11日 頓首再拝>

ゆるすことは自分を苦しめた相手から自由になること (9252)
日時:2013年06月15日 (土) 03時58分
名前:伝統

      *「ゆるす力」植西聡・著(P40〜41)

ゆるすことは、「相手のしたひどい行為を認める」ことではありません。
また、ゆるすことは、「憎かった相手と仲良くする」ことでもありません。

では、ゆるすとは、いったいなんなのでしょうか?

「ゆるす」を英語で言うと、「FORGIVE」となります。
この言葉の語源は「忘れる」から来ています。

アメリカの牧師で作家のヘンリー・W・ビーチャーという人は、
「ゆるすことはできるが忘れることはできないというのは、結局、ゆるすことはできないのと
同じことだ」と言っています。(『カーネギー名言集』創元社より)

確かに、「あのときは大変だったね」と人に言われて、
「え? なんのことだっけ? 」と言えるようになったら、
その人の人生はきっと幸せなはずです。

「でも、このひどい経験を忘れることなんて絶対にできないと思う」
という人には、チベットのダライ・ラマ14世の言葉を紹介しましょう。
彼は、ゆるすことについて次のように述べています。

「ゆるすことと、忘れることは違います。
相手が間違っていると思うと、私たちは嫌な気持ちになります。

それをすっかりなかったことにして忘れてしまう、というのでもなく、
相手の存在を否定するのでもなく、こころを開いて相手を受け入れてください。
そして、その記憶にまつわる負の感情だけを手放すのです。

ゆるしとは相手を忘れる、無罪放免にする手段ではなく、
自分を自由にする手段、それがゆるしです。
ゆるすことにより私たちはさらなる希望と決意をもつことができます」

ダライ・ラマ14世は、「ゆるす」という行為は、
「自分を自由にする手段」と述べています。(『ゆるす言葉』イースト・プレスより)

すべてを忘れることができないなら、せめて自分を苦しめる忌まわしい感情を手放し、
自由な自分を取り戻す決意を持ちましょう。

           <感謝合掌 平成25年6月15日 頓首再拝>

ゆるしとは、「自分を自由にする手段」 (9431)
日時:2013年06月23日 (日) 04時59分
名前:伝統


ある31才の女性のダライラマへの質問

「裏切られたり、傷つけられたときに相手のことをなかなか許すことができません。
許すためにはどうしたらよいでしょう。」


(ダライラマ)

「まず、忘れることと、許すことは全く違うということを押さえて下さい。
相手が間違っていると思うと、私たちは嫌な気持になります。

それをすっかりなかったことにして忘れてしまう。
というのでもなく、相手の存在を否定するのでもなく、こころを開いて相手を受け入れて下さい。
そして、その記憶にまつわる負の感情だけを手放すのです。

許しとは相手を忘れる、無罪放免にする手段ではなく、
自分を自由にする手段、それが許しです。
許すことにより私たちはさらなる希望と決意をもつことができます」


・・・以下は、ダライラマ14世・著「ゆるす言葉」(P6)より

ゆるしの気持ちを身につければ、
その記憶にまつわる負の感情だけを
心から手放すことができるのです。

ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」でなく、
「自分を自由にする手段」です。

           <感謝合掌 平成25年6月23日 頓首再拝>

ゆるせる人は強い人 (9513)
日時:2013年06月27日 (木) 04時43分
名前:伝統

        *「ゆるす力」植西聡・著(P42〜43)  

インド独立の父といわれるマハトマ・ガンジーは、次のような言葉を残しています。

「弱い者ほど相手を許すことができない。ゆるすということは、強さの証だ」 
「非暴力は暴力よりも無限にすぐれているし、許すことは処罰するよりはるかに男らしい。」

この「強さ」を別の言葉に言い換えると、そんなことがあっても、自分の幸せは自分の手で
守るという意志の強さであるともいえると思います。

「ゆるす」ことは、一見、ととも優しくて力強さとは反対の行為のようにも見えます。

しかし、実際には、相手を「ゆるす」ことができる人とは、自分以外の誰かや、周りの環境に
自分の心を惑わされてたまるものかという確固たる姿勢を持っている強い人なのです。

あるOLの女性が、アパートで独り暮らしを始めました。

あるとき、部屋に帰ると、隣の部屋から、大音響の音楽が聞こえてきました。
最初は「たまたま今日だけかな」と思ったのですが、それからも同じことが何日も続きました。
どうやら、隣の住人には、ボリュームを最大限にして、音楽を聞く趣味があるようです。

彼女は、そこで怒ったり、自分の不運を嘆いたりしませんでした。
その代わりに、すぐに不動産屋さんに、別のアパートを紹介してもらい、そちらに引っ越しました。

ただし、隣の部屋にそのような人が住んでいることを言わないでその部屋を紹介した
不動産屋にも問題があるという理由で、次の部屋に移る際は、初期費用などは免除して
もらいました。

彼女は、自分を引っ越しに追いやった相手を恨む、という選択をしませんでした。
「世の中にはいろいろな人がいる。そんな人に振り回されるのは損だから、すぐに忘れてしまう」
というのが彼女の考えです。

実際、ここで隣人や不動産屋さんとケンカをしたら、お互いがいやな思いをするだけです。

他人の言動に心をとらわれず、いつでも笑顔でいる彼女は、「強い人」だといえるでしょう。

           <感謝合掌 平成25年6月27日 頓首再拝>

憎む心を捨てる (9770)
日時:2013年07月11日 (木) 04時16分
名前:伝統


     *「光明法語」(7月10日、7月11日)より

七月十日の法語 憎む心を捨てよ

憎みの感情は血液内に毒素を生ずる。
それは精神の変化が脳髄に化学的変化を与え、脳髄と相互連関をもつ全肉体組織に、
敵に対して身構えするよう命ずることになるからである。

敵に対して身構えたとき、すべての生物は呼気(はくいき)より毒素を発し、
唾液の中に、敵に噛みついて殺傷するための毒素を生ずる。
これは武器が牙と爪とであった原始人時代の原始的機能を多少とも残しているのである。

それをゲーツ教授はすべての感情に於ける呼気(はくいき)の化学的実験で説明した。
副腎からはアドレナリンの分泌量の増加を起こす。

    ・・・・・・

七月十一日の法語 汝の憎みを捨てよ

人を憎んでいて健康は期待できない。
尤もデリケートな体質と、頑丈な体質とに於いては、
その精神的毒素の影響が迅速であったり緩慢(ゆるやか)であったりする。

それは一杯の盃に酔う人もあれば、一升飲んでも酔わぬ人もあるのに似ている。
だから一時的に見るならば、割合人を憎まない人が病気になったり、
大いに人を憎む人が健康でいたりするように見える。

併し時が来る。
集積した精神的毒素の総量がその人の体質に耐えられない極量程度に達した時に、
初めて大木が倒れるが如く、如何に頑丈なる体質も、病を発して倒れるのである。

        <感謝合掌 平成25年7月11日 頓首再拝>

”憎悪”の念を”赦し”に変えて (10071)
日時:2013年07月23日 (火) 04時34分
名前:伝統


         *谷口雅春先生・著「女の浄土」(P13)より

憎悪の念を抱いてはならないのである。
神の創造(つく)り給うた世界には憎悪すべき何物もないのである。

誰かが到底看過(みの)がすことの出来ないような悪事をはたらいたり、
自分を悪口(あっこう)したり侮辱したりした場合にも、
あなたはその人に対して憎んではならないのである。

それは自分の”赦し”と”愛”とが、如何に素晴らしく偉大であるかのテストとして
其処にあらわれた課題であると思って”赦す”がよい。

そうしても感情が相手を赦し得ない時には、

「私は”神の子”である。神は無限の愛であり、無限の赦しである。
その神の愛と、神の赦しとが私を通して働き給うて、今、私は彼を赦したのである。
神に赦されたる彼は、今すべての罪は消えてしまって、実相の完全さがあらわれ、
最早、憎むべき何物も彼には残っていないのである」

このように繰返し念じて、自分の心を調和させるがよい。
その時、あなたの憎しみは消えてしまい、同時に相手の悪しき忌むべき状態も消えてしまうのである。

          <感謝合掌 平成25年7月23日 頓首再拝>

【人を許すということ】 (10314)
日時:2013年08月02日 (金) 04時22分
名前:伝統


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年11月26日 )」より


   (中嶋真澄氏の心に響く言葉より…)

   写真家のK氏はある写真雑誌の編集者から、その雑誌の特集記事に掲載するための写真を
   数点貸してほしいと依頼を受けました。
   掲載されれば、もちろんK氏の名前も出るし、ギャランティも支払われます。

   快くフィルムを預けたK氏のもとに、やがて掲載誌が送られてきたころ、
   「じつは…」と担当編集者から電話がかかってきました。

   「どうお詫びすればよいのかわからないのですが、お預かりした貴重なフィルムを
   紛失してしまいました」というのです。

   編集者は返送用の封筒に入れたフィルムをかばんのなかにしまい、
   そのかばんごと電車の中に置き忘れたらしいのです。

   「なんて無責任なんだ」K氏は激怒し、
   電話口でひたすら平謝りの担当編集者を責めました。

   「預けた写真はもう一度同じものを撮ろうと思っても、二度と取れるものではないんだ。
   きみも写真雑誌の編集者なら、それぐらいのことはわかるだろう」、

   そして追い討ちをかけるように
   「それ相応の謝罪と賠償をしてもらわなくては困る」と言ったのです。

   すると、担当編集者は切り出しました。

   「そのことですが、編集長とも相談の結果、こちらの雑誌で連載というかたちで当分の間、
   先生のお写真を毎回掲載させていただき、そこに上乗せする形で今回の償いをさせて
   いただけないかということなのですが…」

   それは必ずしも悪い条件ではなかったのですが、K氏は

   「そんな口約束が守れるとは思えない。
   だいたいきみが担当をはずれればそれで終わりだろう。
   冗談じゃない。きちんと責任をとって、賠償金を支払ってほしいね」


   K氏が腹立ちまぎれもあり相当な金額を提示したので、担当編集者は困り果て、
   「もう一度、編集長に相談します」と言って、打ちひしがれた声音で電話を切りました。

   それから、数日後のこと。

   K氏のもとに、晴れ晴れとした声で担当編集者から電話がかかってきました。

   「フィルム、見つかりました。がばんを届けてくれた人がいたみたいで、
   駅から電話があって… かなり日にちががっているのに不思議です…」

   K氏のもとには無事、フィルムが戻ってきて一件落着。

   しかし、K氏が平謝りの担当編集者を責めたてた事実は残り、
   その後、その雑誌社からの写真掲載の依頼は一切なくなってしまいました。

   そして、数年後、K氏はあまり自分の写真が売れなくなり、
   どこか売り込むところはないかと苦労していたとき、そのときの担当者が
   あの雑誌の編集長になっているのを知ったのでした。

   もし、あのとき寛容に編集者を許していたら…

  <『成功する人はみんなやっているのに誰も気づいていない人間関係99の法則』徳間書店>

   ・・・・・

「後世への最大遺物」(内村鑑三)という本の中に、カーライルの話がある。

カーライルはイギリスを代表する言論人だが、
何十年もかけて「フランス革命史」を書き上げた。

たまたまその原稿を見つけた友人が絶賛し、一晩家に借りていった。

しかし次の朝、そんなことを知らない家のお手伝いが、
暖炉の火付けに丁度いいと、それを燃やしてしまったのだ。

カーライルはそれを聞き、絶望的になって10日ほどは、何も手につかなかった。

しかし、もう一度思いなおし、自分を鼓舞して再び書き直し、その本を世に出したのだ。


すでに終わってしまったこと、元に戻らないことを、
怒ったり、悔やんだり、ネチネチと文句を言っても、何も変わらない。

人の過去のミスを責め立て、それでよくなることなど一つもない。


人のミスを許す人は、心の広い人から好かれる人だ。

          <感謝合掌 平成25年8月2日 頓首再拝>

自分の気持ちを客観的に表現してみる (10624)
日時:2013年08月16日 (金) 04時44分
名前:伝統

          *「ゆるす力」植西聡・著(P66〜67) 

自分の心に嫉妬や怒りといったネガティブな感情がわき上がってきたら、
その気持ちを客観的に表現してみるということです。

例えば、誰かに嫉妬したときは、「あの人はずるい!」と言うのではなく、
「私は今、あの人のことをずるいと思っている。あの人に嫉妬しているんだなあ」
と言ってみます。

例えば、誰かをバカにしたくなったときは、「あの人、バカだよね」と言うのではなく。
「私は今、あの人のことをバカみたいと思いたがっている」と言ってみます。

そんな単純なことで・・・と思うかもしれませんが、これだけで、自分の気持ちに
飲み込まれることなく、冷静な気持ちを取り戻せるようになるでしょう。

コツは、どんな感情でも「私は」と、主題をつけて言葉にすることです。

以前、ある女性から、「近頃、イライラしてどうしようもないんです」と
相談を受けたことがあります。

そのときに私は、「イライラしてはいけない」と思ったり、「ああ、イライラする!」と
口に出して言ったりする代わりに、「私は今、この人にすごくイライラしているなあ」と
言ってみるといいですよ」とアドバイスをしました。

その彼女から、のちに聞いた報告では、「ああ、イライラする! 」と言っていたときは、
イライラした気分が膨らむ一方だったのに、「私は今、イライラしているなあ」という
もうひとつの感情が自然とわいてくるようになったそうです。

思わず自分の感情にのみ込まれそうになったときは、
一歩引いて自分の状態を客観的に表現することにより、冷静さを取り戻せるのです。

それ以来、彼女は以前よりずっと早く、冷静な気持ちを取り戻せるようになり、
人間関係のトラブルやストレスが減ったということでした。

          <感謝合掌 平成25年8月16日 頓首再拝>



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