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「否定」と「肯定」 (6859)
日時:2013年03月03日 (日) 05時03分
名前:伝統

「苦の否定」と「楽の肯定」

     *「生命の實相」第三十七巻・幸福篇上(3月3日<P75>)より

神は決して、罪を犯すような悪の人間をこの世界に造っておかなかったし、
そんな人間をとじ込めておく牢獄的世界を造ってもおかなかったのである。

しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。

人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、眼を瞑って、

「そんなものは神が造らなかったのだ。《無い人間が無い苦しみ》を苦しんでいるごとく
今まで自分はまちがって空想していたのだ」

と心に念じて、現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。

否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。

いかに《ある》がごとく感覚に見えるとも、感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。
『甘露の法雨』にあるように「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。

《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かさよ。

おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたか、と思い直すだけでも、
この苦しみにちぢこまっていた《肉体の人間》が「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。

これが否定の妙用である。

慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。

苦しみは《ある》かのごとく見えても、《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるので
あるから自分は今もうすでに完全である。病気もない、苦しみもない。

かく真に肯定して立ち上がるものには、すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。

無いものは無いのだ。
この言葉を百万遍心の中で唱え、いかに悪しきものがアルがごとくみえようとも
断乎として心の力で否定し去れ。

         <感謝合掌 平成25年3月3日 頓首再拝>

智慧は愛に先行する (7109)
日時:2013年03月14日 (木) 04時44分
名前:伝統


      *「光明法語」(3月14日の法語)

完全なる神、その創造の完全さ、その創造されたる人間の完全さ、
その創造されたる世界の完全さ、それを先ず信ぜよ。

現象の世界が、人間が、如何に醜くあらわれていようとも、現象なしとたち切れ。
先ずなんじの心のうちに「完全なる世界」と「完全なる人間」とを確立せよ。
それは智慧の働きである。

この場合、智慧は愛に先行する。
智慧が真に相手の「完全さ」を確認したときにのみ、
感情としての愛が湧き出て来るのである。

それまでは意志の努力によって嫌悪を克服しながら唯愛行を努力するだけである。

         <感謝合掌 平成25年3月14日 頓首再拝>

《物質は無い》、《霊のみある》 (7411)
日時:2013年04月02日 (火) 03時49分
名前:伝統


       *「光明道中記」(四月二日 霊的世界を悟る日)より

【心の世界は時間を超越しコトバと同時に一切が成就する。(『生命の實相』第一巻)】

一(はじめ)に「無」ありではない。
「無」が究極的存在ではない。
「無」は「無」であり、「無い」のである。

物質の究極的原始的存在はエーテルであり、エーテルは新興物理学の教うる処に従えば、
「無」であるが故に、「無」によって構成されたる色々の形態をあらわしているところの
「物質」は無いのである。

それ故に「物質」を称して吾々は「無」の色々の様式(Forms of Nothingness)と呼ぶ。

併し、「無」自身は無力でなければならないのに何故(なぜ)色々の様式をあらわすのであろうか。
それは斯くあらわしめるところの内在の言(ことば)―― 神 ――生命(いのち)―― 
霊的波動 ―― によるのである。

「物質」は本来無いとすると、「物質」と見えているものは、ただ霊的波動を、
吾々が仮に静止面空間に置き直して、物質としてそれを翻訳して感じているに過ぎない。

だから「物質」は無いと云うことは何もないと云うことではない。
「物質は無いが、《霊のみある》」である。
限定せる静止的物質と吾々が見たのは間違であったと云うことである。

万事万物ただ「霊」のみである。
肉体も外界の一切の事象も悉く皆「霊」の波であると云うことである。

         <感謝合掌 平成25年4月2日 頓首再拝>

「肉体有り」「肉体無し」を超えて”本当にあるもの(実相)”を把むこと (7494)
日時:2013年04月05日 (金) 04時51分
名前:伝統

       *「光明道中記」(四月五日 人に宿る美を知る日)より

【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。(『生命の實相』第二巻)】

人間は人体が最も美しく視える距離に於いて互いを視るのである。
もっと拡大して視ることもできるが、その距離から視た姿が自分の心の中にある「人間」なる
理念と合致するから、その姿を選び出して、それを人間の姿であるとするのである。

それは無数の距離と位置とから視ることの出来る実に無数の「形」のうちから
人間の「心」が選び出した相(すがた)である。

選択(えらびだし)の規範が「心」の中にあるのだから、
実は人体は外にあるようでも「心」の中にある形を外界に投影したのである。

「肉体は無い」―― この真理が解るにせよ、解らぬにせよ、今視えているような肉体の形は
肉体そのものの形ではなく、吾吾が好き候(そうろう)の位置と距離とから視てそう見えると、
勝手に定(き)めしもの ―― 従って”自分の心の中にある”ものだと判るだろう。

「今は昼で明るい」と吾々は言うとき、米国にいる人は、「夜は暗い」と言う。
どちらも相対的には本当であって、完全には本当ではない。

「肉体は無い」と云うのも、「肉体は有る」と云うのも相対的には本当であって、
絶対的には本当ではない。

「有る」「無し」を超えて”本当にあるもの(実相)”を把むこと、
昼夜の差別を超えて太陽そのものを知るが如きが実相を悟るのである。

         <感謝合掌 平成25年4月5日 頓首再拝>

肉体と心を否定し、実相を諦視せよ。 (9450)
日時:2013年06月24日 (月) 04時29分
名前:伝統


     *「生命の實相」第三十七巻・幸福篇上(6月24日)より

人の病気を治すには、その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、
洗濯屋が汚れるものを洗濯するには一度それを自分の家へ持って帰らなければならぬような
ものである。

「自分の内に摂取する」とは同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という愛念によって、
相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。

それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。

彼が憤(いきどお)りによって病気になっているならば、
「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるべきである。

これは相手の病根がどこにあるかを知るためである。
同情のない審判(さば)くだけでは治す力は少ないのである。

かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後は、最早、その病根である心の悩みで
いつまでも自分の心を乱しているようなことでは、汚れた水(想念)をもって
汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。

そこで、心の中に、すべての病気と、病根である悪しき想念感情を放ち去って、
「彼は神の子であるから病気もなければ、未だかって憤ったこともないのだ」と
実相を念ずるようにしなければならないのである。

これが『続々甘露の法雨』の中に「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索する
勿れ。迷いは本来無ければ、迷いの影も本来無し。この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類を
いちち詮索すること勿れ。罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。汝ら存在せざるものを
追うこと勿れ」と書かれている所以である。

すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを自己に摂取した後(のち)には、
病気の姿や、原因に心を捉えられることなく「汝の生命(せいめい)の実相は久遠の神なり。
金剛身なり、不壊身なり、本来円満完全なる仏身なり」(『続々甘露の法雨』)と

じっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、
同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気は治るのである。

「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」
この実相を驀(まっしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。

しかし実相を自覚して自己を円満完全だと諦視するには、まずは悔い改め(自己否定)が
なければならない。物質(肉体)の否定と、「心」の否定である。

肉体はない、それは心の影だとまず肉体を否定し、さらに「あんな心を起こしたのは実相の心で
なかった。すまなかった。あれはニセモノだった」と心も否定し去り、しかして後(のち)、
円満完全なる実相を諦視するのである。一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない。

         <感謝合掌 平成25年6月24日 頓首再拝>

「ハイ」の無限力、「否定」の威力 (9635)
日時:2013年07月04日 (木) 04時35分
名前:伝統

     *「光明法語(7月3日、7月4日)」より

七月三日の法語 「ハイ」の無限力

   最も重き言葉は最も簡単なる言葉である。
   それは「ハイ」の一語である。
   一切の事物は「ハイ」の一語にて成就する。

   汝、使命を感ぜんか、唯「ハイ、ハイ」とのみ言え。
   然してこれを實行せよ。然(しか)らば必ず成就せん。

   「ハイ」とは決意である。使命に対する決意である。
   如何なる困難も、吾使命を感ぜんか、
   「ハイ」の決意にてその困難はきり拓(ひら)かれ、坦々たる大道となる。

   「ハイ」は汝を自由ならしめる。
   「ハイ」は實相その儘である。

・・・

七月四日の法語 「否定」の威力

   「ハイ」に対する最も簡単にして最も偉大なる力は、「否!」である。

   汝病気ならんか、「否!」と断じて言うべし。
   病いすなわち必ず癒えん。

   汝に不幸来(きた)らんか。
   「否!」と言うべし。如何なる不幸も汝を傷つける事は出来ない。

   最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて「否」と言う。
   かかる人には如何なる不幸も近づく事が出来ない。

   世界は如何なる「幸福」でも「不幸」でも自由に販売しているところの百貨店だと言える。
   それを求める貨幣は「決意」である。

        <感謝合掌 平成25年7月4日 頓首再拝>

「現象」は妄想、「実相」のみ独在  (9676)
日時:2013年07月06日 (土) 05時04分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月6日>(P8〜10)より

罪と病と死とは、畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想にすぎないのである。

われわれが実際に金殿玉楼に錦秋の褥(しとね)を布(し)いて寝ていても、
夢の中で地獄で病気に苦しむ相(すがた)を描こうと思えば描ける。
そして、それを実在の如く感じて苦しむのである。

しかし、夢中にいかに苦しもうとも、それは実在ではないのであって、やはり金殿玉楼に
錦秋を纏うて眠っているということの事実を否定することはできないのである。

それと同じく、罪と病と死とはいかに”ある”かのごとく見えても、
実はここが蓮華蔵国であり、極楽浄土であり、このままここが天国であって、万(よろず)の
よきものが充満している世界であるのだということにまちがいはないのである。

人類よ眼の蔽いを除(と)れ。
なんじらがこの世界に不幸、病気、憂苦充満せりと見るのは肉体の眼をもって見るからである。

『法華経』の如来寿量品の自我掲に「衆生、劫尽きてこの世の焼くると見る時も、わが浄土は
安穏にして天人常に充満せり。諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり・・・わが浄土は壊せざるに、
衆は焼け尽きて諸々の憂怖充満せりと見る」とあるのを、

たいていの仏教者は、「この世界が焼けつきるような時が来ても、心さえ動じなかったら、
心の中には天人が充満しているのもおなじことであり、立派な堂塔伽籃がそびえ立って立派な宝
がいっぱい飾ってあるのも同じようなものだ。

この身は殺されても、心の中に確立された浄土は壊(くだ)くことができない。
釈尊は、衆生たちが焼けつきて阿鼻叫喚の状態を演じていても、いつも花降るような心境に
いられるのだ」というような意味に解釈しているのであるが、これはすこぶる浅い解釈だと
言わなければならないのである。

快川禅師の「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言って実際に焼け死んだのも、
「心頭」の浅いところに「火の涼しさ」を弄んでいるからである。

浄土が今ここに厳存しているという事実は、
心頭や心境や、思いつきや、感じなどの浅い問題ではないのである。

厳として今ここに、実相の浄土が存在するのであって、その実相円満完全の表面に、
心頭を滅却したり、心境を一変したり、向下したり、向上したり、劫火が燃えていたり、
原子爆弾が爆発したり、衆生が阿鼻叫喚につつまれていても、
それは玲瓏円月上の浮雲(ふうん)が描く陰影にすぎないのである。

病気もまた、一片の浮雲(ふうん)にすぎない。

三省して自己の実相の円満完全さを見よだ。

         <感謝合掌 平成25年7月6日 頓首再拝>



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