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大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 p52〜73 《完》  (8146)
日時:2013年05月03日 (金) 17時55分
名前:コスモス

        理念篇 限りなく「日本」を愛する

  「生長する青年」(「理想世界」の旧誌名)昭和二十八年二月号。「日本再建の道を拓くもの」(本書249頁)に対する青年の反論、著者の回答と共に『限りなく日本を愛す』に集録。


        日本なるものの本質


 私は限りなく日本を愛します。日本の現実の状態ではありません。「日本」なるものの本質を愛するのです。

 私は日本民族の本質又は特殊性と云うものを、その古事記神話の中に見出すことが出来ると思うものなのです。これは具体的歴史よりも尚一層真実なるものであります。

 具体的歴史と云うものは、神話の中に現れたる日本の理想が、徐々に現実に展開して行く過程でありまして、時にはそれが退転した如く見え、不完全にあらわれたり、行き過ぎたり、行き足らなかったり、脱線したりするのでありますが、

 結局は大観して観る時、全体としてその国民理想が一層ハッキリと顕現しつつあるのであります。

 さて日本民族神話の特徴は、中心帰一理念であります。それは、古事記の冒頭の、「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名(みな)は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」の最初の行に、それがハッキリあらわれていると云うことであります。

 先日、ラジオ放送で、それはキリスト教放送でありましたが、「日本の神は、本当の真実の神ではなく、宇宙の根源の神ではないのであって、それは『成りませる神』と書いてあるから、最初は神でなかったが、徐々に神に成って来たのであるから、根源の神ではない」と、外人牧師が云っているのであります。

 こう云う外人の日本侮辱放送を平気で放送させているほどに、日本の放送局は無智であるのでありますが、「成る」と云うのは、「鳴る」と語源が同じであって、高天原(即ち宇宙)に鳴りわたるコトバであったところの神が、天之御中主神であったと云うのであって、

 これはキリスト教のバイブルの「ヨハネ伝」第一章に「はじめに言(ことば)あり、言は神と偕にあり、言は神なりき、万のもの之によりて成り、成りたるものにこれによりて成らざるはなし」と書かれているコトバなるところの「神」と全く一つなのであります。

 大体、神ともあろうものが、キリストが約二千年前生れるまでに、生れたところの数十万年間の人類を、キリストが出現するまで救わなかったと云うことは、あり得ないのであります。

 従って、キリスト・イエスに結ばれなかったならば、人類は救われないなどと云うことはあり得ない。

 真理を知ったならば、キリストに触れずとも救われると云うことは、キリスト自身が、「真理は汝を自由ならしめん」と云っているのでも明らかなのであります。

 真理が救うのであって、或る特定の人間が救うのではありません。キリストは、その真理のあらわれの一つなのであります。阿弥陀仏も真理のあらわれの一つであったのであります。

 キリスト教が仏教を排斥する理由もなければ、仏教もキリスト教を排斥する理由はないのであります。


     平成二十五年五月三日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 2 (8161)
日時:2013年05月04日 (土) 10時43分
名前:コスモス


高天原とは地上の一箇所の地名ではない


 ところで高天原と云うのは地球上の一地域の名称であるかのように思っている人もありますけれども、これは決して、地球上の一地域ではありません。

 「高」は高く無限につづく縦の線「|」をもって象徴する時間であります。「原」は横ひろがりに無限につづく空間をあらわす語であります。「天」は「天球」即ち球状宇宙を指しているのであります。

 「アマ」の語源は「顕(あ)れる円(まる)い」であります。時間と空間とが十字交叉して円くあらわれている「球状宇宙」が「高天原」なのであります。即ち宇宙全体に鳴りひびいている神(即ちコトバ)が天之御中主神なのであります。

 ところで、天之御中主神と云うと、日本の神で、その固有名詞だろうと考える人もありましょうが、これは固有名詞ではありません。

 古事記の「神代の巻」に於いても、固有名詞に於いては、アメノコヤネノミコト又はアメノウズメノミコト、アメノフトタマノミコトなどの如く「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」「天太玉命(あめのふとたまのみこと)」として「天之」とは書かれていないのであります。

 然るに「天之御中主神」に於いてのみ「天之」と「之」の字が挿入されているのは、固有名詞ではない証拠でありまして、「天之」と謂うのは、「天球の」即ち「宇宙の」と云う意味、「御中(みなか)」とは「御」は美称―尊ぶ言葉―であり、「中」は『中庸』にある「喜怒哀楽未だ発せざるを中と謂う」とあるところの「未発の中」であります。

 「喜怒哀楽」は現象として発する諸々の現象を指すのでありますから、宇宙の諸々の現象の発する根源の「主」たる神と云う意味が「天之御中主神」であります。


       平成二十五年五月四日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 3   (8162)
日時:2013年05月04日 (土) 14時29分
名前:コスモス



       中心帰一の日本民族精神

 諸物の根源に、「中(みなか)」をみとめ、それを「主」として仰ぎ見て、常にそれに還元するところの、日本民族の特殊精神があらわれてるのであります。

 無論、これは日本民族だけではなく、支那に於いても「太極より両儀(陰陽のこと)生ず」と云う風に、諸物の根源に、「一」なる太極又は「中心位」をおいている点は、日本も支那、その他の諸民族も同じことではあります。

 併し、支那その他の諸民族に於いては、それを生活に実践しなかったのであります。

 支那に於いては「中」を根源不易のものとせずして、易世革命を常態としていましたので「太極より両儀生ず」と云い、「喜怒哀楽未だ発せざるを中と謂う。発して節にあたるこれを和と云う」と云うような宇宙の真理を闡(せん)明したところの哲学は発達していましたけれども、

 さてそれが生活の上には実践されていないで、生活そのものとは遊離した状態に置かれていたのであります。

 それが日本では、国のあり方の上に、その真理が実現していたのでありまして、特に日本が真理国家であると云うことが出来るのでありまして、そこが他の国と異なるので、まことに尊いのであります。


     平成二十五年五月四日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 4   (8163)
日時:2013年05月04日 (土) 14時48分
名前:コスモス



         中道実相の日本精神


 日本人は天を仰ぎ見、地を俯して見、そしてその根源に「中(みなか)」なる主を見たのであります。天に偏らず、地に偏らず、一方に偏して味方せず、中道なのであります。

 一方に偏るのは、武人の専制になるか、ブルジョワ専制になるか、プロレタリア専制になるか、どちらにせよ、その時の権力階級のファッショになります。

 中道はどちらにも偏しないので、どちらをも完全に生かすのであります。すべての人を神とみて、どちらをも完全に生かすとき、それが本当の民主主義になるのであります。しかし「中」は決して悪平等ではありません。

 単なる悪平等は、すべてを生かすことが出来ない。「発して節にあたる」のでなければならない。発(あらわ)れては節度おのずから整い、緩急おのずから調和し、万物栄え万民鼔腹するのであります。

 平等のみを主張して、すべての細胞又は内臓を一平面上に置いたら、有機体なる生物は、存在し得ないのであります。国家も有機体であることを考えなければなりません。


      平成二十五年五月四日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 5   (8164)
日時:2013年05月04日 (土) 16時41分
名前:コスモス



        太極より両儀生ず


 さてこの普遍の「御中」よりして高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)が生れられました。「高」は、高く、逞(たくま)しく、猛々しく聳(そび)え立つ原理、即ち凸の原理、「陽」の原理であります。

 「神産巣日神」は幽身(かみ)ムスビの神であり」、幽かに、風の如く、霞の如く、香の如く、姿形がカクレている「凹の原理」「陰の原理」であります。

 しかし陰と陽とを別々のものと観じないで、タカミ"ムスビ"の神、カミ"ムスビ"の神と、その名の示すが如く、互いにムスビ合うものとして、相即相入の一体の神として陽神と陰神とを見ているのであります。

 その陽神が、人格神とあらわれたのが、イザナギの命(みこと)であり、その陰神が人格的にあらわれたのが、イザナミの神であります。

 古事記の原文は退屈になる人が多いので、茲(ここ)では原文を省いて、説明だけを申し上げます。

 イザのイは息、又は命であります。サは「誘ウ」「擦ル」「サラサラ」などの語にあらわれているところの「相触れる」と云う意味であります。

 「陽」の息吹と「陰」の息吹とが互いに相触れる、その一方はナギ(男性)であり、もう一方はナミ(女性)であります。

 「波」の文化を代表するものが「イザ"ナミ"」の神であり」、「凪」の文化を代表するものが、「イザ"ナギ"」であります。イザナミの文化は西欧文化であり、物質文化であります。

 ナミは水平でありますから「平等」を叫びます。人間の水平運動の要求であります。次に千々に分裂いたします。西欧文化(物質文化)は分割文明であります。

 物質を分子に分割し、分子を原子に分割し、原子を分割して原子爆発を起して、一切のものを破滅させてしまいます。

 労資を企業の一体として認めず、相戦う分割体として労組と経営者側とに分割し、ストを以って対抗せしめます。一家族を一家族として認めず、個人単位、夫婦単位に分割して、バラバラにしてしまいます。

 それは朝に甲の男に靡き、夕べに乙の男に通ずる不貞の文化であり、**(確認後掲載)通公認、堕胎公認の文化であります。

 イザナミは「波」即ち「水」の文化でありますから、水極(ミギ)即ち陰極の文化であります。水極はミギ(右)でありますから、右側通行の文化であります。

 女尊男卑の文化であり、女人が左衽(まえ)の衣服をまとう文化であり、女性が帽子を着けて、男性が脱帽する文化であります。西欧軍が日本へ上陸して何をしたかを、右にのべたる原理に従って観察して頂けば、西欧文化と云うものの特質がおのずから理解出来ると思います。

 それは結局、性の頽廃と、忠誠心の破壊と、広島と長崎とを原子力で灰燼に帰した如く、全世界を灰燼に帰せんとして、破壊力を準備しつつある文化であります。

 「波」の文化はかくの如きものであります。それは漂うもの、無常なるもの、今一つの「波」があらわれているかと思うと、その「波」は消えて、次の別の「波」が現れると云う果敢(はか)なき文化であります。

其処には万世一系も久遠無窮もないのであります。選挙期毎(ごと)に交代する大統領の文化であります。


         平成二十五年五月四日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 6   (8175)
日時:2013年05月05日 (日) 00時20分
名前:コスモス



イザナミ文化の無常性


 以上がイザナミ文化の特質でありますが、私はそれを否定しようと云うのでも排斥しようと云うのでもありません。それは西洋文化が受け持つべき役割なのでありますから、西洋は西洋でそれでよろしいけれども、東洋特に日本の文化が、この西洋の文化を模倣する必要はないのであります。

 東洋はイザナギの命(みこと)をもって象徴されているところの「凪」の文化であります。「是の漂へる国を修理固成(つくりかためな)せと宜り給ひて、天沼矛(あめのぬぼこ)をさしおろして画(か)きなしたまへば、その鉾の先より漏(したた)る水火(しお)凝(こ)りて島となりぬ」というように、

 古事記に表現されているところの「天貫鉾(あめのぬぼこ)」の文化がイザナギの文化であります。

 (著者註・古事記の原文の漢字の当て字を、その意味の漢字にあてはめて、判りやすく訓読して、天貫鉾に「天球を貫く鉾」の字を配した)

 イザナミの文化は、イザナミの命は女性でありますから、女性文化であります。それはナミ(波)の文化、無常の文化、それが男性の天貫鉾によって貫かれなかったならば(家庭・建設的なもの)を形成することが出来ない。どこへ流れて行くかもわからない。

 それはただの浮浪の文化であって、彼女を刺し貫いてくれる者が誰であるかによって、それは、原子爆弾のように破壊的にも使われるし、原子力利用の発動機のように、建設的にも使われるのであります。イザナミの文化はそれ自身では無常であり、無自性であります。

 まことにも東洋の文化は霊的文化であります。それは西洋の文化のように、分割的ではありません。それは天貫鉾の文化であります。

 天啓として、天より天降って来るところの啓示の文化であります。それは霊の文化であります。分析にあらずして、直観によって、全生命を一度に把握するところの直感の文化であります。

 だから名だたる宗教の教祖は、釈尊は無論のこと、老子、孔子、孟子、達磨、臨済、黄檗、弘法、伝教、法然、親鸞、日蓮等が悉く東洋に生れたのであります。

                (つづく)


       平成二十五年五月五日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 7 (8188)
日時:2013年05月05日 (日) 10時31分
名前:コスモス


西洋人が信じているキリスト教の教祖イエスも、東洋の西端に生れたのでありまして、彼もまた東洋人であります。

 若し西欧の「漂える」浮浪文化が、これらの宗教による啓示(天貫鉾)によって貫かれ(指導せられ)なかったならば、前述の如くそれは建設方面に向かうよりも、破懐分散無常の方向に向かうことになるのであります。

 東洋文化、特にその宗教文化に於きましては日本は、大乗仏教唯一の弘通(ぐつう)せる国であり、儒教も老子もひと処に集まると共に、西欧の物質文明も、その原子力の研究に於きましても、世界的水準に達している国でありまして、

 日本民族こそはこの西欧の水平分散浮浪の文化を、直観啓示の霊的文化によって刺し貫いて融合和解し、これを建設的に綜合(大和)すべきヤマトの使命を有するものだと云わなければならないのであります。

 まことに「水火(みずほ)の国」とは、この水の文化を火(霊)の文化にて融合帰一すべき、日本民族の先天的使命を直感的に表現した言葉なのであります。

 宜しく日本民族たるもの、徒(いたずら)に西欧科学文明"のみ"に陶酔することなく、この霊的大和の日本民族の使命を自覚せられたいのであり、特に、次代の日本を背負って立つ青年諸君に、私はこの自覚を促さんとするものであります。


        平成二十五年五月五日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 8 (8189)
日時:2013年05月05日 (日) 12時12分
名前:コスモス



          男性原理と女性原理の交合


 さて、陰陽不二の天之御中主神より、イザナギとイザナミとが分化し、人格化してあらわれて来ましたときに、それはすでに男性原理、女性原理と云うような抽象的な原理ではなくなったのであります。それはすでに男性原理、女性原理と一層具体化の相に於いてあらわれたのであります。

 古事記によりますと、イザナギとイザナミとは男女互いに誘いあい、「天之御柱を中心に行き廻りて御床(みと)の交合(まぐわい)せなと宜りたまひて、行き廻りますときに、

 イザナミの命『あな愛(にや)し、好男子(えおとこ)』と宜たまひ、イザナギの命『あな愛し、好女子(えおとめ)』と宜りたまひて、御子生みませるときに」蛭子(ひるこ)及び泡沫島(あわしま)が生れたのであって、これは「御子の数には入らず」と書かれているのであります。

 女性は陰極即ち「水極(みず)」であり、男性は陽極即ち「火足(ひだり)」であります。左が進み、右が退くのが霊性文化の特徴であり、それが最もハッキリあらわれているのが、日本人の自然法爾(じねんほうに)の生活習慣であります。

 それは左側通行にあらわれており、「前に進め」と云うときには左足が前進するのであります。「廻れ右」と後退するときには、先ず右足が退く。

 その衣服は右衽(みぎまえ)と云って左襟(えり)を前に着ます。弓を引くにも、鉄砲を狙うにも、左手(陽・男性)が先ず前に突き出て其の方向を定めて、「右手」(陰・女性)は定められたままに素直に矢を放ち、又引金を引くのであります。

 左手も右手も同じ一人の人間の身体の一部であり、同一生命が宿っておるのでありますから、その基本的生命権(基本的人権になぞらえて謂う)は全く同一であります。

 だけれども誰でも左手と右手とには、その働きの分担(謂わば天分)が異なるのでありましょう。その基本的権利は全く同一でありながら、その天分が異なるのであります。

 同一生命の顕現でありながら、眼には眼の役割があり、胃袋には胃袋の役目があり、心臓には心臓の役目があるのでありまして、平等にして差別あり、差別にして平等なのであります。

 その差別を忠実に履行するとき、その平等の生命が生きて来るのであります。平等のみを主張して、悪平等に陥るとき、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と云いながら、

 「天は心臓も肺もつくらず、ただ細胞のみ平等につくりたり」と云うことになり、人間はバラバラの細胞に分解分散してしまって、全体としての身体の自由は覆らされてしまうのであります。

 天はすべての人間に神の子としての平等の権を与えたまいましたが、各部分が、「自己」のみの利益を主張するために、ストを強行するような権は与えたまわなかったのであります。

 若し一有機生命体たる人体の心臓でも肺臓でもストを強行するならば、人体は死んでしまうのであります。心臓も肺像も平等の権利を主張しても可(よ)いけれども、各々その役目をつくすことを抛棄(ほうき)してはならないのであります。


       平成二十五年五月五日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 9 (8193)
日時:2013年05月05日 (日) 18時27分
名前:コスモス



男女の天分の相違と東西文化の使命


 さて男性と女性とは、ともに「一」なる神から分化し、その生命を宿しているのでありますから、その基本的人権は平等でありますけれども、ひとたび男性となり女性となって出現しました以上は、それは頭脳と心臓との働きが異なり、その措かれている位置が異なりますように、

 女性と男性とは異なる役割を分担し、その措かれている位置も異なるのであります。それは真理を中心として、自分の割当てられたる方向に、働かなければならない。

 古事記はその原理を示しているのでありまして、「天之御柱を行きめぐりて寝所(みと)の交合(まぐわい)せらと宜りたまひて、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は左より、伊邪那美命は右より廻りましき」とあるとおり、

 男性原理は「陽足(ひだり)」であり、左は進むのであります。女性原理は水極(みぎ)でありまして、右は退くのであります。それによって一円相となり、家庭が、国家が、完全に調和するのであります。それを図解すれば次の如くなるのであります。

               (つづく)

     平成二十五年五月五日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》10 (8194)
日時:2013年05月05日 (日) 19時29分
名前:コスモス

 初めてネットに写真を載せたので、鮮明ではありませんが、次のように説明されています。

 右の円の中心は、天之御柱と書かれ、白○の矢印には凹が描かれ、「イザナミ(女性原理・右退)」とあり、左の○の矢印には、凸が描かれて、「イザナギ(男性原理・左進・左側行通)」と書かれています。

 図解の間に書かれた文章には、「これに反して、イザナミなる女性原理も男性原理と同様に、前に進むと云うことになりますと、それを図解すれば、次のようになるのであります。」と書かれています。

 そして次の左の図解には、右の白○の矢印には、凸が描かれ、イザナミ(若し右進すれば)とあり、左の黒●の矢印には同じく凸が描かれ、イザナギ(左進)と書かれています。つまりどちらも男性原理に沿ったものになった場合にはこうなるという説明が書かれています。 
                          (つづく)

               平成二十五年五月五日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 11 (8202)
日時:2013年05月05日 (日) 23時54分
名前:コスモス


 即ち一円相となることが出来ず、凸と凸と衝突して、破懐してしまうほか仕方がないのであります。

 女性の自然の摂理的肉体構造から見ましても、このようなことは「自然」ではない、不合理だと云うことが判るのであります。

 古事記によりますと、イザナミは黄泉国(よもつくに)の神と云うことになっております。ナミは水平運動でありますが、「一体の水」の波瀾によって分裂した姿になります。

 この水平運動は、嘗てロシアの労働運動となって現れたのでもあったし、現代のソ連の社会主義運動となって現れてもおりますが、また米国の民主主義運動となっても現れているのであります。それは個人主義であり、「分割して支配せよ」の文化であります。

 黄泉国(夜見の国)は日の落つるところ、即ち西欧にあたるのでありまして、西欧文化が「分割して支配せよ」の原理によって発達しているのは、その分担せる使命の達成でありまして、

 これが霊的文化以上に発達してまいりますと、それは凹の分化でありますから、中から割れているのであります。

 家族国家を分割して個人烏合の集合の国たらしめ、**(確認後掲載)通を公許して、夫婦の乖離(かいり)することを容易ならしめ、独占禁止法によって大産業を分断して生産を減少せしめ、

 忠孝の思想を分断して、人情の美を破壊し、物質を分割して分子とし、分子を分割して原子崩壊を惹起せしめ、広島長崎を烏有に帰せしめ、更に第三次世界大戦を惹起して、世界全体を粉砕して「空無」に帰せしめようとしているのであります。

 日本の失敗は、本来の霊的文化の使命を忘れて、西欧の物質文化に心酔し、物質の破壊的方面をもって、世界を征服しようとした点にあるのであります。

               (つづく)

       平成二十五年五月五日 謹写 感謝合掌



大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 12  (8230)
日時:2013年05月06日 (月) 20時35分
名前:コスモス

私が追放解除以来、現在の日本に於けるイザナミ化運動、水平運動、バラバラに分割する運動、労資を両陣営に対立せしめた運動等、凡そ、人間を水平単位に置くことによって、互いの愛情的関係をバラバラに分割する運動を嘆いて、

 「日本再建の道を拓くもの」の一文を草して、日本天皇の戦争無責任論を詳(つまび)らかにして、天皇制を護持しようとするや、喧々囂々(けんけんごうごう)として、その反対論を投書して来るのでありますが、

 その反対論のすべては、すべて物的証拠を求めるイザナミ的思考の範疇から出たところの駁論(ばくろん)のみであるのであります。

 感覚に証拠を求める限りにおいては、「人間は物質に非ず、肉体に非ず、脳髄細胞に非ず、血球に非ず、血清にあらず、‐‐‐それらすべてを組み合わせたるものにもあらず、人間は霊なり‐‐‐」と云う実相哲学の「人間・神の子」の宣言も、結局容易に頷くことが出来ないのは当然のことであります。

 国家と云うものの本質も、「国」なる「理念」だとは理会出来ず、人民の「烏合の集団」だと思えるのも無理はないのであります。

 「国家」が「理念」の顕現として理会出来るのは、ただ霊的な直観的把握によって"のみ"であって、感覚による証拠はないのであります。その反駁論の一つとして、ある青年は、

 「私は英国に於ける王のような、国民尊崇の理想目標として、ひいては愛国心の集まる中心としての天皇には賛成いたしますが、天皇に国民の運命を裁決させることには賛成できません。

 成程先生の言われるように、一人の天才の叡智は、衆愚の多数決にまさっているかもしれません。しかし天皇が国民の中での最高の叡智者であるという証拠はありません。

 またその一時的の叡智の晦(くら)ましから、間違いを演じて、国民を不幸に陥れるかもしれません」と云い、

 またある青年は、

 「実相論を推進すれば、天皇も国民も一列だ。嘗て谷口師は斯かる推論は悪平等として批判されたが、どの一点に中心を置いても、すべて無窮世界では中心たり得るものであるから、現象界に於いて蜘蛛の巣の如きただ一つの中心を以って、律することはどうかと思う」と云っているのであります。

 「天皇に国民の運命を裁決させることには賛成できません」と云っているその青年自身が、天皇の自己の生命を賭してのポツダム宣言受諾によって、現在安泰なる平和裡に生活し得ている事実を見なければならぬと思います。

 天皇がただの「看板」である時代に於いて、軍閥が、天皇の名に於いて、天皇を利用して、自己の権勢慾のために、そして群集心理の盲動のために、大東亜戦争を始めたのでありました。

 天皇に国民運命の裁決権を与えないで、多数決の一票の差の如きもので、吾々の運命が左右されることの方が、余程危険なのであります。

 再軍備の問題にしても、与党と野党の投票数が数票の差で、国民の運命が或る方向へと強制せられる如き民主主義なるものに於いては、

 ただ一票の差によって、自己の愛せざる反対党の意見のままに、国民の半数が、自己の好まざる運命に専制せられざるを得ないような結果に到るのであります。

 それよりも、一人の吾ら自身の"愛する"叡智者を信じ、敬し、愛し、その人のみこころに自己の運命をまかせる方が、たとい、反対論者の云うように一時の叡智の晦ましから、不幸の運命に陥ることがあっても、以って喜んで死に得るのではありませんか。

 本当に吾らが何物かを愛するとき、そのもののために死ぬのは純潔の極みであり、それこそが、至上価値ある死に方ではありませんか。

 こちらを愛したら得になるから従うとか、損になるから背くとか云うのでは、何処にも純潔な至粋な愛は見られない。それはただ商売主義(コンマーシャリズム)ではありませんか。

 本当の民主主義とは単なる利害によって動くようなコンマーシャリズムであって好いものでしょうか。

 尤も現在の日本の民主主義そのものが、占領政策としてのアメリカのコンマーシャリズムから出発 したものであるために、それに踊らされている人が、利害打算の商売主義を以って民主主義だと誤解しているのでもありましょうが。


    平成二十五年五月六日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 13  (8244)
日時:2013年05月07日 (火) 16時40分
名前:コスモス



     天皇から叡智を引き出すのは国民の天皇信仰による


 私は仮に反対論者の云うように「一時的の叡智の晦ましから国民を不幸に陥れることがある」としても、

 天皇愛の感情から、それに従う純忠の精神が、損得によって離反迎合する商売主義よりも、一層美しく価値あると云いましたが、これは反対論者の提出せる仮定の下に、仮りに申上げたのでありまして、

 私は国民が天皇の叡智を完全に信じ、全托する心境になるとき、天皇は決してその叡智を晦まされるものではないことを信ずるのであります。

 真に生長の家の家族が、暴虐暗愚の家長(父又は良人)を完全円満なる神の子として拝むとき、その暴虐暗愚の家長が、至慈至愛の家長と変貌する実例によって、

 天皇に於いても国民全体が、天皇を本当に愛し敬し、その円満なる叡智と至仁なる政治を信ずるとき、

 天皇には必ず、国民全体の幸福を実現する、神ながらの叡智が発揮されるものであることを、信ずるのであります。

 「天皇が国民の中で、最高の叡智者であるという証拠がない」これと同じ論法で、「夫が常に正しいという証拠はない」「父が常に正しいという証拠はない」と云う常識的見解から、

 (これは常識的や、現象を見る見地からすれば正しいのであるが)夫を批判し、父に反抗し、そのために如何に多くの家庭が不幸に陥ったか。

 又其の不幸に陥っていた家庭が、如何に多く生長の家の「実相を拝む」方法により」、愛し敬し、その円相を信じて委せる方法によって、

 その良人又は父が、如何によくなり、家族自身の自由も却ってそれによって完全に確保せられるに到ったかは、事実の証明する処であります。

 天皇に於いてもこの事あるは当然でありまして、「天皇が最高の叡智者であるという証拠はない」と云っている限りはあらわれないのであって、

 その実相の円満を観ずるとき、その叡智があらわれるのであります。家庭に於いてはこの種の実例を無数にあげることが出来ます。国家も一つの「家庭」であります。


       平成二十五年五月七日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 14   (8249)
日時:2013年05月07日 (火) 22時35分
名前:コスモス

         過去世に十善の徳を積んだ者が王として生れる


 次の第二問をもっと敷衍(ふえん)すれば、「実相論から推進すれば‐‐無窮世界に於いては、誰でも中心たり得るので、若し、天皇を本来円相であるとして拝んで、その完全性があらわれるのならば、どの人間を元首又は大統領として立てても、

 その本来円相である実相を拝んだならば、その完全性があらわれるであろうから、別に現在の皇統を立てる必要はないではないか」と云う駁論の意味だと思います。

 こう言う考え方には、天皇に対する国民感情としての「愛」が少しもあらわれていないのを遺憾に思うのであります。

 若しこう云う考え方が民主主義であるとしますならば、それは全く悪平等の自由主義で、「王侯相豈(あ)に種あらんや」と云う支那の易世革命の思想そのままでありまして、

 誰でも野心を起せば、天皇になれると云うので、無数の天一坊や蘇我入鹿があらわれて来る契機を孕んでおり、永遠に日本は革命の闘争の中に巻き込まれていなければならなくなるのであります。

 即ち、それは「強いもの勝」の世界の現出であります。みんな平等であるから「どの一点に中心を置いても中心たり得る」と云うので、

 常に中心たることを望むものが、叛乱や革命を起して、国民はその争乱に巻き込まれて、悲惨なる生活の中を常に右往左往しなければならなくなるのであります。

 「天は人の上に人をつくらず」さればすべての人は平等であるから、誰でも中心になれると云う思想をたといそのまま承認しましても、

 国家の混乱を防ぎ、国民が混乱に巻き込まれないで平和な生活を送り得るようにするためにも、やはり歴史的伝統的に、他にすぐれて崇拝の的となり得る天皇をその「中心」に定置して、是を護持することが必要なのであります。

 これは内乱を防ぐための単に方便としても必要でありますが、天皇の霊魂の問題になりますと、「天は人の上に人をつくらず」と千遍一律に申す訳にはいかないのであります。

 釈尊の教説によりましても、生長の家の「原因結果の法則」によりましても、「今生(こんじょう)」に帝王の位置に生れるものは、「過去世」に於いて十善の徳を積んだ者だと云うことになっております。

 従って帝王に生れたものを、その位置に据え、その働きを発揮せしめ得るようにするならば、他の者よりも過去世の行が積まれておりますから、その叡智を発揮し得るようになるのであります。

 その位置におかないで、ただ生物学者にしておけば、それだけの力しか発揮されないでしょう。どんな立派なエンジンでも据え付ける場所で出力が異なります。

 次に多くの青年の投書に現れたる意見には、「天皇制を存続するならば、天皇がファッショ勢力に利用される虞(おそれ)がある。天皇がたとい如何に立派であろうとも、

 その下につくものが天皇の名を利用して、国民を苦しめる虞がある」と云う意味の事が書かれています。そういうことはあり得ると私も思います。

 それはどんな立派な会社の社長であっても、その部下が時には、その会社の名を利用して、詐欺を働いて、私腹をこやす場合があるようなものであります。

 しかし社長に部下を任免する権利があり、拒否権があリ、部下の手腕や人格を大体見る目があれば、社員の奸策もあまり大事に至らずに、そう云う不都合な社員は免職することが出来るでしょう。

 それは恰(あたか)も敗戦の結果、ついに軍閥の威信が地に堕ちた時、本土決戦に到らずに、天皇が戦争の継続を抑止せられたようにであります。

 天皇を単なる機関にせずに、もっと天皇に強力な任免権があったら、あの大東亜戦争も抑止し得た筈(はず)であります。

 だから天皇を何ら政治的実権なき「国民崇拝の理想目標」として、単に看板の如く置く場合には、却って奸侫(かんねい)なる政治家に利用される虞(おそれ)がありますが、

 天皇が政治的実権と最後の任免の権(ちから)をお有ちになった上で、閣僚に政治を委任されるならば、閣僚の行き過ぎは、天皇に於いてこれを是正したまうから、理想の政治を行うに近しと云うことになるのであります。

 だから天皇は、ただ「機関」や「看板」や「ロボット」であられてはならないのでありまして、政治の大綱は天皇より発し、その大綱の実現の上に、精細な計画を行なうブレン・トラスト(Brain Trust)を必要とするのであります。


           平成二十五年五月七日 謹写 感謝合掌



大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 4 《理念篇 限りなく「日本」を愛する》 14   (8262)
日時:2013年05月08日 (水) 14時39分
名前:コスモス



  真の平和運動は全人類を「神の子」として礼拝する思想普及である


 また、現在の日本の民主政治が、混乱に混乱を重ねているのを弁護する言葉として、

 「制度上の民主主義は終戦後に始まったばかりで、今は過渡期でありますから、いろんな混乱が起るのはむしろ当然であります。これは今まで国民が、政治的に盲目にされていたことを物語る以外の何物でもないのであります。

 ですから我々は国民の教養を高め、青少年に対する充分なる民主教育の成果によって、次第に民主主義のよい面を出してくれば、英国のように、フランスのように、立派な民主主義国家になれると思うのです。英国でもフランスでも、何百年も努力して、兎に角今日までに築いて来たのですから」と云う投書もありました。

 私は現在の英国やフランスが理想国家だとは思っていません。かくて段々人口が減少して、国力が低下し行きつつある英仏の状態の如き状態にまで、日本が今後数百年もかかって、辛うじて進歩出来るのだと云うような野呂間(のろま)なことを考えると、

 民主主義と云うものが如何に国力を低下せしめるものであるかの実証のような気がするのであります。

 西欧の水平運動はイザ"ナミ"の文化的発展に過ぎないのでありますから、波乱万丈の経過をたどりつつ、結局は衰退の一路をたどるより仕方がないのであります。

 それは肉体(物質)は霊が脱(ぬ)けてしまったら、腐敗分解の一途をたどるより仕方がないようなものであります。

 どんな民主国でもその総力を発揮するには、横に平等な水平文化だけでは不可能でありましてそ、れを縦につらぬく、啓示的な叡智によって統帥(とうすい)する力を必要とするのであります。

 戦争中にも米国大統領が、非常事態宣言を出して、独裁的になったのも、国民の総力を発揮するために、必要だったからであります。

 日本には日本の国のあり方、政治のあり方があるのでありまして、民主主義のレッテルが必ずしも凡ゆる国にとって又は、凡ゆる民族にとってよいのではない。

 それを数百年の訓練を経てさえも、英仏の如き状態であり、明治日本に始まった立憲君主政治は、百年を満たずして、日本国力の進展かくの如きものを得たのであり、

 最近に到ってその弊害が出て敗戦の結果を来たしたのでありますが、「民主主義も数百年の訓練期間を必要とする」と云う反駁者は何故、

 「立憲君主政治も数百年の訓練期間を必要とする」と云うように考えてやらないのでしょうか。百年足らぬうちにたった一回失敗したからと云って、

 その弊害を除去して、それを温存しようとすることは考えずに、ただちに君主政治は駄目だと云って、他国の西欧精神に立脚した制度模倣に全面的に取換えようとするのは何故でしょうか。

 あまりにも天皇を戦争責任者として論ずる、ラジオに、新聞によるアメリカさんの宣伝にのせられ、踊らされているからではありませんか。

 民主主義が数百年も訓練を経た英仏も、依然として戦争に巻き込まれねばならなかった事実は、民主主義必ずしも戦争の防壁にならないことを暴露しています。

 本当は「人間の実相」を、互いに神の子として礼拝し合う教育を、全人類に施さなければ、百年河清(かせい)を俟(ま)つとも、何の甲斐もないのであります。

 この故にこそ、生長の家の「神の子自覚運動」(人類光明化運動)が必要なのであります。制度上に天皇制を廃止しても、戦争を防止出来るものではありません。寧ろそれは伝統的な尊崇の中心部を破懐することになりますから、

 国内闘争が激化して、常に内外ともに、擾乱(じょうらん)の契機を孕んで、常に非常事態のうちに苦しまねばならぬことになります。天皇とそして人類との円満完全なる実相の一日も早く顕現することを私は祈るものであります。

            (この項完了)


       平成二十五年五月八日 謹写 感謝合掌




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