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教育勅語 (8421)
日時:2013年05月15日 (水) 18時22分
名前:古だぬき

教育勅語はこの掲示板でも以前取り上げられたことがあるが原文を読んで意味が判る人は殆どいないのではないだろうか。しかし、内容は実にすばらしい。現代語訳でわかりやすくされたものがあったので掲載したい。
        教育勅語
「私が思うには、我が皇室の先祖が国を始められたのは、はるかに遠い昔のことで、代々築かれてきた徳は深く厚いものでした。我が国民は忠義と孝行を尽くし、全国民が心を一つにして、世々にわたって立派な行いをしてきたことは、わが国のすぐれたところであり、教育の根源もまたそこにあります。
 あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい。そしてもし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。
 このような道は、実にわが皇室の祖先が残された教訓であり、その子孫と国民が共に守っていかねばならぬことで、昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理です。私はあなた方国民と共にこの教えを胸中に銘記して守り、皆一致して立派な行いをしてゆくことを切に願っています。」
明治二十三年十月三十日
    天皇の署名と印


               原文
          教育勅語
朕惟フニ、我ガ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ、コヲ樹ツルコト深厚ナリ。我ガ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ、此レ我ガ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。爾臣民父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、コ器ヲ成就シ、進デ公益ヲ廣メ、世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ、國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。是ノ如キハ獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。
斯ノ道ハ實ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖ラズ。朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ、咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。
明治二十三年十月三十日
          御名御璽

子どものための教育勅語 (8452)
日時:2013年05月17日 (金) 04時49分
名前:伝統

”古だぬき さま” ありがとうございます。お邪魔をおゆるしください。

こちらは、さらにわかりやすく、「子どもたちのための教育勅語」の紹介です。


【たいせつなもの 〜こどものための教育勅語〜】

大昔に私たちの祖先が日本という国を創った時、
心の綺麗な人達が住む立派な国にしようと思いました。

そしてみんなが、その気持を大切にして
心を一つにして頑張ったから、今の日本があるのですし、
それはとっても誇らしいことです。

皆さんは、お父さん、お母さんを大切にして、
兄弟は助けあいましょう。
お父さん、お母さんは仲良くしましょう。

友達は、大切にして
意地悪をしたり、嘘を言ってはいけません。

威張ったり自慢したりせずに、
困っている人がいたら助けてあげましょう。

勉強は怠けずに、色々なことを覚えたり考えたりして賢くなりましょう。

人のことを羨ましがったり、ひがんだりせず、
すすんで皆のためになることをしましょう。

ずるをしたりせずに、決まりはきちんと守りましょう。

もし大変なことが起こったら、勇気を出して皆のために頑張りましょう。

このお約束は昔から皆が大事にしてきました。

皆が大きくなっても、外国に行っても変わらない本当に大切なことです。

皆さんもこのお約束を守って立派な人になってくださいね。


  (動画→ http://www.youtube.com/watch?v=YgUi9g0KZGA )

           <感謝合掌 平成25年5月17日 頓首再拝>

古だぬきさま、伝統さま、ありがとうございます (8475)
日時:2013年05月17日 (金) 20時39分
名前:元白鳩会員

 「子どもたちのための教育勅語」のことを初めて知りました。動画も見ました。何とかわいらしいイラスト、そして、わかりやすい文章なのでしょう。

 小学生だった子供が、原文のまま、素読を繰り返すうちに、いつしか覚えてしまったことを思い出しますが、一人でも多くのお父さん、お母さん、子供たちに教育勅語のすばらしい内容を知って欲しいです。

【 すごいぞ! 園児 】 (8479)
日時:2013年05月18日 (土) 03時28分
名前:伝統

”元白鳩会員 さま” いつもありがとうございます。

>小学生だった子供が、原文のまま、素読を繰り返すうちに、いつしか覚えてしまったことを
>思い出しますが、一人でも多くのお父さん、お母さん、子供たちに教育勅語のすばらしい内容を
>知って欲しいです。

本当にそうですね。
特に、小さい子供が大切ですね。

そこで、2つの幼稚園での素晴らしい取り組みの動画を紹介いたします。


【 すごいぞ! 園児 】

(1)開成幼稚園の園児による「教育勅語・愛国行進曲・日の丸行進曲ほか」

   → http://blog.goo.ne.jp/apita_21/e/041cb8024287356cff36e9c90eaeb271

   開成幼稚園の教育内容
   (http://www.kaisei-osaka.ed.jp/contentscurriculums/contentsandcurriculums.html


(2)(大阪 塚本幼稚園)幼稚園の朝礼で君が代、教育勅語

   → http://www.youtube.com/watch?v=oDfveoy1ixo

           <感謝合掌 平成25年5月18日 頓首再拝>

「教育勅語渙発五十周年に方りての講話」〜谷口雅春先生 (8634)
日時:2013年05月23日 (木) 05時04分
名前:伝統

「生長の家“本流宣言”掲示板」内のスレッド「新たに生れる 〜 教育勅語 〜 (3980)」に、
”童子 さま”掲載による谷口雅春先生のご講話録「教育勅語渙発五十周年に方りての講話」
があります。

以下に、その要点を抜粋しておきます。
詳細については、上記のWebスレッドにてご確認をお願いいたします。
(→ http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=785 )


(1)天之御中主神のミコトノリ即ち御〃いのち〃のヒビキが宇宙なのでありまして、 
   天皇即ち宇宙、宇宙即ち 天皇であるというのが、日本人の宇宙観・天皇観・国家観
   なのであります。

(2)『朕惟フニ』という事は『天之御中主神惟フニ』という事にも当るのであります。
   また『大宇宙惟フニ』ということにも当るのであります。
   ですから此の教育勅語に書かれておりますところの真理は宇宙の真理である。

(3)抑々教育勅語は 明治陛下が今上陛下として詔り遊ばれたのであります。

  @今上の『今』は今であります。此の『今』というのは、非常に深い意味があるのであります。

   『今』と云うのは時間上の一点を指示する語ではありますが、
   宇宙のすべての時間がそこに凝縮して、そして一切時間を一つに中(あつ)めて、
   そしてそこに表現されておられる御すがたが『今』であります。

   それは一瞬に久遠を含み、無限と一瞬とが一つであり、絶対時間と相対時間とが『一つ』
   になっている『今』であります。

   その『今』の御立場に立ち給う 今上陛下は有限の御姿として遊ばされおられましても、
   その侭無限であり久遠であり、時間以前の天之御中主神様と一体であらせるのであります。

  A次に今上の『上』と申しますのは『空間上の一点』とか、『遍く閻浮提上をたづぬるに』
   とか云う語に使われる『上』でありまして、全空間を一点上に凝縮する語でありまして、
   今上陛下が、時間上にも空間上にも今茲の一点に時間を超え空間を超えたところの

   無限と有限と、久遠と一点とが一つになり、絶対相対即一の荘厳極りなき御姿に於て
   宇宙の真理を詔り遊ばれまして、そして教育勅語そのものが出来たのであります。

(4)すべてのものは神の言葉に依って成立っておるのであります。
   すべてのものは天之御中主天皇の詔勅で成立っておるのであります。 

   天皇がいまさずば宇宙はない。
   宇宙は、天皇の獨在であると常々生長の家で申しておりますのは此の意味であります。 

   『天皇即宇宙』の宣(みことの)り給うところのコトバ、それはミコトノリでありますから、
   〃のり〃、即ち法則があるのであります。

   教育勅語には吾々の遵守すべき法則を述べ給うたのであります。
   教育の『教』と云う字は『ノリ』と読む字であることに注目せられたいのであります。

(5)『高天原に成りませる神の名は天之御中主神』斯ういう風に『古事記』に書かれております
   が、天之御中主神の、その〃いのち〃の鳴り坐せる(ミコトノリましませる)世界が
   大日本國であります。大日本國即大宇宙であります。

   この世界はヒノモトの世界であります。ヒノモト即ち光明一元の世界であります。
   光一元、 天皇一元、稜威一元の世界であります。 

   天皇のいのちが出で現れているのが是が全世界であり全宇宙であるのであります。
   ですから『國ヲ肇ムルコト宏遠ナリ』と仰せられましたように実に宏遠なのであります。

(6)「忠」

  @『徳』というのは、人間が社会的生活の便宜上勝手に作為したものではない。
   既に宇宙の初発からそこに徳が樹(た)っているのであります。
   徳とは宇宙の初発から既に樹っているものであります。

  A明治陛下は、一切の徳の本源として『忠』を挙げ給うた。
   『忠』というのは『徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ』と仰せられましたところの其の
   『深厚なる世界』から出て来たものであります。途中から出て来たものではないのです。

   実に深き本源の世界から発現して来た『中心帰一理念』であります。

   天之御中主神様の、その『御中みなか』の理念が『忠』であって、その『御中』の理念が
   循環して御親より出でて吾々子に来り、再び御親に復るのが忠であります。

  B『忠』とはその天之御中主神の理念から稜威としてそれが現象界にひろがり、
   吾々の心の世界に流れ入って、それがもう一遍本源の『中心』に帰っているすがたが、
   『忠』であります。

   吾々は 天皇の大御〃いのち〃が流れ入って来て、それが循環して来て又、 
   天皇に向わずにおれないという心が自然と湧いて来る。是が『忠』の心であります。
   途中から出て来たのではないのであって、始からあるものなのであります。

  C『忠』は天之御中主神、大宇宙そのままのいのちが『個』を通してそこに成就する
   のでありますから、それは素晴らしい価値実現であり、価値成就であります。

   ですから、その時、法悦極りなき状態がそこに現れて来る。 
   天皇陛下萬歳の法悦であります。

(7)「むすび」

  @明治天皇は教育勅語に於て『夫婦相和シ』と詔らせ給いましたが、
   天と地との相(すがた)を人間に顕わしたものが、人間の夫婦であります。
   天と地とは相和すべきものであって、それは天と地とが本来一つであるからであります。

  A陰陽の分化と結びとは、宇宙によきものを生み出す本(もと)となるのであります。

  B日本の精神は『むすび』の精神であります。
   『大和』と云うのも総てのものを『むすぶ』大調和の精神であります。

   『むすび』の精神あるものは必ず物を産み出して、永く伸び伸びて生長して
   どこまでも無限大に進展してゆくことが出来るのであります。
   これが日本民族の理念であります。

  C日本の精神は『大和(だいわ)』の精神で、何でも一つに纏めます。
   『結び』の精神であります。

   お米でも日本に出来たお米は〃ちゃん〃と日本精神が宿っているから、
   握るとしっかり団結して『お結び』になるであります。

(8)「国」

  @日本の國の本来の姿はどういうすがたであるかと申しますと、
   蓮華蔵世界 ― 蓮華の花の美しき姿に作られているところの世界であります。

  A『華厳経』は何を説いているかといいますと、日本の国体を説いているのであります。
   中心帰一世界というものを説いているのが仏教であるということが
   生長の家で分ったのであります。

  B釈尊は出家のときは『個人が救われたい』と云う個人的動機で出家なさっていましたが、
   成道後は中心帰一国家『蓮華蔵世界』をお説きになったのであります。

            <感謝合掌 平成25年5月23日 頓首再拝>

世界各国でも『教育勅語』 (8675)
日時:2013年05月25日 (土) 17時49分
名前:童子

 昭和23年6月19日 衆議院で 『教育勅語排除に関する決議』 が提出され、日本から消えました。

 本流青年板 『大和の國の神示』とGHQ占領政策 参照
 http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=seinen&mode=res&log=91



 


 ・・・・外国では終戦後も日本の教育勅語を高く評価して奉戴しているのです。 よく知られているように、ドイツのアデナウワー首相は、敗戦ドイツの精神復興の経典として、日本の教育勅語のドイツ語訳を採用しました。 そして、そのドイツ語訳教育勅語を国内の各企業に配布し、自分も首相官邸の自室にかかげて、国民と倶に拳拳服膺したのです。


 ソビエトは、昭和21年に『生徒守則』を作り、それを全生徒に持たせました。 この生徒守則の中味は、愛国心と親孝行と先生に対する尊敬の念を教えるものです。 よく読むと、日本の教育勅語と修身の本そっくりの内容です。

 また、中華人民共和国は、「小学生心得」をつくりました。 この手本になったのは、ソビエトの生徒守則です。 


 日本人はあまり知らなかったことですが、明治42年には 英語教育勅語のほかに、ドイツ語教育勅語、フランス語教育勅語、漢文教育勅語 が日本の文部省で作られ、全世界に広まっていたのです。

 そのきっかけは日露戦争の大勝利でした。 当時、国力はロシアの50分の1しかないといわれていた小国日本が大国ロシアに勝ったのですから、世界中の人々の目が日本に向けられたのも当然のことです。

 この間のいきさつを、日露の講和調停の特使としてルーズベルト大統領と接触していた金子堅太郎氏はいいます。



 「アメリカの陸海軍人・政治家・学者達は、連戦連勝した日本軍は、一体どういう風な教育をしているのであろうか、と私に面会して聞きたいと言うので、私は教育勅語や軍人勅諭の話をして聞かせた。

 そうすると、列席の人々が、此の話は吾々少数の者だけが聞くのは惜しいから、どうかアメリカ国民全体に之を聞かしてくれと言うので、私は喜んで引き受けた。

 明治38年4月2日、アメリカ第一のカーネギー・ホールで公開講演会を開いた。 私は、今日、日本が連戦連勝したという事は、日本人の国民性に依るものである。 日本人は正義を遵奉する国民である、ということを話して聞かせた。

 そして最後に、教育勅語を英訳して朗読した。 殊にその内の 『一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ』 という処に力を入れて読み上げた。

 講演が終ると、各方面から教科書にしたい、と言って教育勅語や軍人勅諭の英訳を貰いに来た。

 アメリカの陸海軍人や教育家たちは日本兵の強くなった訳は、この教育勅語や軍人勅諭のお蔭であることが分ったと大いに喜んだのであります。」



 アメリカばかりでなく、日英同盟を結んでいたイギリスでも日本の大勝利の調査研究が行なわれました。 その結論は、 『日本人は道徳的にきわめて優秀である。 特にその教育の根本原理が教育勅語に帰一していることは他に類例を見ない』 ということになりました。


          小池 松次 教育評論家  『白鳩』誌 47年3月
 


 

【 『教育勅語』 制定までの経緯】 (9322)
日時:2013年06月18日 (火) 04時56分
名前:伝統

          *「教育勅語」(解説 大原康男)<P12〜20>より

   ところが ―― 何と不思議なことには ―― 現代の日本人は自分自身の過去については、
   もう知りたくないのです。これどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。

   「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした」とわたしに言明したものがあるかと思うと、
   またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには
   歴史はありません。われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。


なにやら敗戦後の日本を髣髴とさせるような情景であるが、実は、明治9年(1876)にお雇い外国人
として来日して、東京医学校(東大医学部前身)で医学・生理学を講じ、のちに「近代日本医学の父」
と称せられたドイツ人E・ベルツが、その年(明治9年)10月25日に記した日記の一節なのである。

これが当時の日本人に偽らざる一面であった。

なにせ当時の日本は二百数十年も続いた「身分の固定と鎖国政策」から成る幕藩体制の
桎梏(しっこく)から解放されたばかりであった。

その日本を、欧米列強の脅威に囲まれながら、
近代的統一国家へ向けて再構築することが緊急かつ至上の課題であった明治維新 ―― 

それは、「諸事神武創業の始(はじめ)に原(もと)つき・・」(「王政復古の大号令」慶応3)と
「旧来の陋習を破り・・」「智識を世界に求め・・」(五箇条の御誓文」明治元年)という
「復古」と「開化」の二つの理念が、緊張をはらみつつ愛並んで併存する政治的・思想的に混迷を
きわめた時代であったが、こと教育においても例外ではない。


              ◇    ◇    ◇

文部省が新設された翌年の明治5年(1872)5月、
「一般人民邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」との趣旨に基づいて発布された「学制」は、
国民すべてが学校教育を受けることを目指したわが国教育史上画期的な教育制度というべきもの。

その主眼は「学問は身を立つるの財本」とする功利主義的学問観に立って、
いわば立身出世を目標とする実用的な教育であった。

これは従来の学問からすれば、かなりの進歩ではあるけれども、

西洋文明を模倣すること急なあまり、自国の学問をことさらないがしろにし、
とりわけ道徳教育を軽視したところに、均衡を著しく欠くものがあったことは否めない。

「学制」と同時に定められた「小学教則」において修身の時間は最も下位に置かれ、その教科書も
ほとんどが欧米の道徳。法律書の類(たぐい)を翻訳したものであった事実を知れば、
その実態がおおよそ想像できよう。

日本の近代化のためには、みずから率先して斬髪され、洋服を着用され、牛肉・牛乳を召し上がられ、
太陽暦を採用され、馬に乗って兵隊を指揮することも敢えていとわれなかった明治天皇も、
西洋偏重の教育の実情には深刻にご憂慮になり、

明治11年(1878)に教学刷新についての示唆を与えられ(後に「教学大旨」としてまとめられた)、
また、同15年には、元田永孚(もとだ ながざね:熊本出身の儒学者。明治天皇の君徳培養に終生
奉仕)に命じて、幼童のための教訓書である 『幼学綱要』 を編ましめられた。

その同じ年には東大の古典講習科が新設されるなど、自国の学問への見直しの気運も広がり、
明治の教学にもようやく変化の兆しが現れ始めたが、世は鹿鳴館の舞踏会に象徴される滔々たる
欧米主義の時代、なお、思想界・教育界の混迷は収まらず、

こと道徳教育に関する問題の解決は、明治23年(1890)の山県有朋内閣にまで持ち越されたのである。
その年の2月に開催された地方官会議において、「智育の一方のみ進みて徳育の兼ね進まざる」ことを
憂える知事たちから、徳育の方針を確立してほしいとの建議が内閣に対してなされ、

これが大きな機縁となって閣議を動かし、天皇から榎本武揚文相に対して徳育の基本になる箴言
(いましめとなる短い章句)の編纂が命じられた。

しかし、実際の作成作業に入ったのは、榎本に代わって芳川顕正が文相に就任した5月以降のこと
である。芳川は東大教授の中村正直(東京出身の洋学者・教育家。当時のベストセラー 『西国立志伝』
を翻訳したことで有名)に勅語草案の作成を依頼し、中村案をもとにして文部省が成案を作った
ものの、多くの問題点が指摘されて事実上廃案となるにいたる。

中村に代わって草案の起草に携わることになったのが、当時の法制局長官であった井上毅(こわし)
(熊本出身の学者的官僚。明治憲法制定に中心的な役割を果たす)であり、同郷の元田がこれに
協力した。 

井上は一面リベラルな思想の持ち主であって、みずから草した試案を添えて6月20日付で
山県首相にあてた書簡の中では、七カ条にも及ぶ草案作成のための前提条件を述べている。


まず、今日の立憲主義に従えば、君主は臣民の良心の自由に干渉してはらないから、教育の方向を
示す今回の勅語は「政事上之命令」(「勅令」のようなもの)ではなく、「社会上之君主の著作
公告」(たとえば、「御製」のようなもの)として発せられるべきであるという原則を示した。

その上で、宗教上の争いを引き起こす可能性のある「天を敬い、神を尊ぶ」のような語を使用しない
こと、必ず熾烈な論争を招く「幽遠深微なる哲学上の理論」にわたるのを避けること、天皇の真意
ではなく、時の政治家の示唆によるものと受け取られるような「政治上之臭味(くさみ)」を帯びない
こと、「漢学の口吻と洋風の気習」を吐露しないこと等々、実に慎重かつ細心、バランス感覚豊かな
見解を開陳している。

元田は、もともと儒教を国教とする徳治主義を信奉していたから、井上との間には立場上の相違が
あったのだが、なしうる限り井上の意見を尊重することで終始したので、この井上の基本方針は
最後まで貫徹されました。

それが、この勅語の本質的特色を形づくるもとになっていることは、本分の随所で窺知(きち)
できるに違いない。

”政治上の命令”ではない、”君主の社会的著作”としての性格は、他の勅語の末尾には原則として
ある国務大臣の「副署」(明治憲法下で、天皇のご署名に副えて補佐する責任なる者が署名すること)
を欠いているところに端的に現れているが、さらに、井上は勅語の発布形式においても、
そのことを厳密に一貫させようとした。

すなわち、一つは、文部大臣に下付されて講評しない、
もうひとつは、演説の体裁をとって文部省には下付されづ、学習院か教育会への行幸の際に
下賜されるという方式である。

しかし、様々の曲折を経て、最終的には天皇が首相・文相を宮中に召して親しく勅語を下され、
文相は直ちに全国に交付するという形になったので、この点に関しては、井上の構想は生かされ
なかった。


話を元に戻すが、井上・元田によって何度も何度も修正を加えられた草案は、山県・芳川の検討を経て
天皇に上呈、天皇からもいくつかの容貌が出され、さらに修正を重ねて成案を得て内閣の審議に付し、
そのかたわら西村茂樹(倫理学者)・三島敦(漢学者)・中村正直らの意見を徴するなど万全を期して
ようやく閣議決定に至り、上奏・裁可の上、晴れて発布されたのが明治23年10月30日のこと。

井上が最初の草案を書いてから4か月の月日が経過していた。

            <感謝合掌 平成25年6月18日 頓首再拝>

教育勅語が廃止された事情 (9447)
日時:2013年06月24日 (月) 04時20分
名前:伝統


          *「教育勅語」(解説 大原康男)<P28〜33>より

昭和20年(1945)の敗戦によって、教育勅語は大きな試練に直面することになった。

米国を中心とした連合国による占領の究極的目的の一つが、彼らに対する日本の「脅威」の除去
にあり、そのための政策は、単に軍事的・政治的・経済的側面からの物理的措置や制度改革に
とどまらなかった。

さらに、それらの制度や組織を支えた日本人の精神的・文化的側面にまで強い関心を寄せ、
のちに日本人の”精神的武装解除”と呼ばれた厳しい政策の実施を、日本政府に迫ったのである。

その主たる標的とされたのが、教育と宗教と言論であった。

とりわけ、教育については、いわゆる”軍国主義・超国家主義”を教育から全的に排除するために、
教員の適格審査、修身・国史・地理教育の停止、陸海軍の語学校の閉鎖、学校教練の廃止と
柔剣道などの武道教育の禁止、神社参拝さどの学校行事の禁止、既存教科書の不適当な記述の削除
と新しい教科書の編集の指示ーー といった多方面にわたる政策を相次いで打ち出してきた。

しかし、最も重要な問題の一つである教育勅語の取り扱いは、意外なことに、彼ら占領軍総司令部
(GHQ)のスタッフによって、かなりの難題だったのである。

というのは、この問題を担当したGHQの民間情報教育局(主として教育・宗教・文化に関わる
占領政策を立案する。略称CIE)の教育課長H・G・ヘンダーソンは、ひとつのジレンマに
陥っていたからである。

ヘンダーソンは「非常に家族的であることを除いて、勅語それ自体は悪いところはない」が、
「軍国主義主義的狂信的愛国主義者」によって悪用されたことであり、「御真影」(天皇・皇后の
肖像写真)の前で行われる「勅語奉読の儀式」は、「天皇の神格性の観念を説くのに役だった」
から「少なくともその悪影響を除去したかった」と考えつつも、

一方、勅語の廃止を直接命じることは「天皇に対する侮辱であり、ゆえに、日本人が百人おれば、
95人が個人的侮辱とみなすだろう」と懸念していました。

つまり、勅語そのものよりも、日本人に民族的優越感を注ぎ込んだ勅語の超国家主義的解釈と、
「天皇の神格化」を広めるのの役立った「勅語奉読の儀式」を問題にしており、ことに前者について
は、最終的にはそのような解釈を公的に否定する「日本側からの権威ある声明」を得ることを
目指した。

それが昭和21年1月1日に発せられ、一般には”天皇の人間宣言”として知られる無題の
「詔書」である(国立公文書館では「新日本建設に関する詔書」と称している)。

また、これとは別に「新教育勅語」を作成するという構想も相当進んでいたが、
反対意見が強く実現を見なかった。

もとより、教育勅語に対するGHQの処置がこれで終ったわけではない。

昭和21年7月、田中耕太郎文相が議会で教育勅語擁護論を表明したことにCIEが反発し、
文部省との間で何度か折衝が重ねられた。結局、10月8日、

(1)教育勅語を我が国教育の唯一の淵源とする従来の考えを改め、これとともに古今東西の
   倫理・哲学・宗教などにも求める態度をとる、

(2)式日などに行なってきた勅語奉読は今後やめる、

(3)勅語・詔書の謄本などは従来同様に学校で保管するが、それらを神格化するような
   取り扱いはしない

っとの通牒を、文部省が各学校にあてて発することで、一応の決着が図られた。

CIEとしてはこれでほぼ満足し、これ以上深入りすると「寝た子を起こす」ことになるとして
手控える姿勢を示した。

しかし、米国務省の教育勅語の全面禁止の決定と、極東委員会(降伏した日本を管理する連合国の
最高決定機関。米・英・ソ・中など13カ国で構成)の同旨の指令を忠実に実行しようとした
民政局(議会。政府など内政一般を所轄するGHQの一部局、略称GS)は、

教育管轄するCIEの権限を侵さずに実を得ることを目論み、国会課長のJ・ウイリアムズが
衆参両院の文教委員長を呼び、その口頭の指示によって国会で教育勅語の廃止決議を行なう
という巧妙な方法を案出、その結果、

昭和23年(1948)6月19日、衆議院は「教育勅語等排除に関する決議」、
参議院は「教育勅語等の失効確認に関する決議」を行なったのである。

この一連の経緯から、GHQ内部が教育勅語を全面的に廃止することで必ずしも一致していたわけ
ではなく、また、日本政府も最後まで、なんらかの形で勅語の存続を望んでいたという事実が
浮かび上がってくる。

・・・・

<参考Web:生長の家“本流青年”掲示板〜(スレッド)『大和の國の神示』とGHQの占領政策
       〜(子記事)押しつけられた「教育勅語」廃止
        → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=seinen&mode=res&log=91  >

            <感謝合掌 平成25年6月24日 頓首再拝>

教育勅語 〜渡部昇一 (9567)
日時:2013年06月30日 (日) 04時58分
名前:伝統

    *月刊「歴史街道 (平成24年)8月号」(P46〜50)
      〜<渡部昇一(上智大学名誉教授)記事>より抜粋要約

(1)教育に「不易流行」の心を求めて

  @明治以降、学校制度が確立され、西洋の学問が教育現場にどんどん導入されます。
   さらに明治の前半期には、西洋文明に圧倒されて、日本の文化に劣等感を覚える  
   風潮すらありました。

   これらのことが、明治天皇のご懸念を深めていきました。

  A明治天皇は巡幸などで教育現場をとりわけ熱心に視察なさいましたが、そこで
   英文を流暢に読めても日本語にうまく訳せなかったり、技術論は知っていても
   実務には疎い生徒たちの姿を御覧になります。

   このような状況に明治天皇は「今の教育はあまりに西洋風に偏り、日本古来の美風を
   なおざりにしているないか」との深い懸念を抱かれたのです。

  B明治天皇が大切にされたのは、「不易流行」の心でした。

   明治初年の五箇条の御誓文にあるように、
   「旧来の陋習を破り」「智識を世界に求め」る「流行」があるべきであるが、
   そこには確固とした「不易」の部分がなければならない
   ―― そうお考えになったように思われてなりません。

  C明治天皇は、明治12年(1879)に「教学聖旨」という大方針を示し、
   教育へのご懸念を示されると共に、教育において、その根幹となるべき「まことの道」を
   確立することをお求めになります。

   その御心は、次の御製からも伝わってきます。

   【 世の中の まことの道の ひとすぢに わが国民(くにたみ)を をしへてしがな 】


   ・・・・・

   <参考Web:教学聖旨の起草
         http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317585.htm >

   *教学聖旨の概要

    「教学の要は仁義忠孝を明らかにして知識や才芸を究め、人の人たる道を完(まっと)う
    することであって、これこそわが祖先からの訓であり国典であるのに、近時は知識才芸
    ばかりを尚(たつと)んで、品行を破ったり風俗を傷っけたりするなど物の本末を誤って
    いる者が少なくない。

    そのような有様では昔からの悪い習を捨てて、広く知識を世界に求めて西洋の長所を取り、
    また国勢を振興するのに益があるかもしれないが、一方では仁義忠孝の道をあとまわしに
    するようでは、やがては君臣父子の大義をわきまえなくなるのではないかと将来が危うく
    思われる。これはわが国の教学の本意ではない。

    それゆえ今後は祖宗の訓典によって仁義忠孝の道を明らかにし、
    道徳の方面では孔子を範として人々はまず誠実品行を尚ぶよう心掛けなくてはならない。

    そうした上で各々の才器に従って各学科を究め、道徳と才芸という本と末とを共に
    備えるようにして、大中至正の教学を天下に広めるならば、わが国独自のものとして、
    世界に恥じることはないであろう」

   ・・・・・

(2)社会の座標軸「教育勅語」

  @明治天皇は、さらに明治15年(1882)、儒学の侍講であり、深い信頼を寄せていた
   元田永孚(ながざね)に命じて「幼学綱要」を編纂させます。これは初学者向けに、
   様々な道徳的な逸話を集めて人倫の道をやさしく説くものでした。

   ・・・・・

   *「幼学綱要」20訓(現代語訳)
    
     孝行〜親の恩に感謝する
     忠節〜国に忠節を尽す
     和順〜夫婦はむつまじく
     友愛〜兄弟姉妹は仲よく
     信義〜友人は助け合う

     勉学〜まじめに勉強する
     立志〜決心を固める
     誠実〜何事もまじめに
     仁義〜人を助ける心
     礼譲〜礼儀を正しく

     倹素〜無駄遣いをしない
     忍耐〜耐え忍ぶこと
     貞節〜節操を守ること
     廉潔〜正しく潔白なこと
     敏智〜機敏に智恵を出す

     剛勇〜強い勇気を持つ
     公平〜えこひいきをしない
     度量〜こせこせしない
     識断〜正しく判断する
     勉識〜職場に専念する
   
   ・・・・・

  Aさらに広く、わが国の「不易」を徹底させるべく起草されたのが、
   「教育勅語」だったのです。

   これを起草した中心人物は、
   元田永孚と、伊藤博文の懐刀であった井上毅(こわし)でした。     

   井上毅で特筆すべきは、日本古来の人倫の道を基本と置きつつ、儒学やキリスト教
   などの学派臭や宗教臭といった「臭み」を廃して、誰が読んでももっともだと思う
   表現で示そうと考えたことでした。

  B明治23年(1890)に、教育勅語は明治天皇が親しく発せられたお言葉として、
   国務大臣副署なしに発布されました。

  C教育勅語には、日本国民が「克(よ)く忠に、克く孝に、億兆心を一(いつ)にして
   世々厥(そ)の美を済(な)せるは、此れ我が国体の精華」であり、
   「此の道は実に、我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所」と
   書かれています。

   ここには「不易」としての日本古来の美風を重んじる明治天皇の御心がよく表されて
   います。そして、この勅語の最後に記されているとおり、これは国民への命令ではなく、
   「私もこれを心がける。一緒に努めよう」という、天皇から国民への呼び掛けなのです。

  D教育勅語は。発表直後に各国語に訳されましが、どの国からも高い評価が寄せられました。
   
  ・・・・・

   参考Web:教育勅語と現代語訳
       http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55/kobore8/4132chokugo.htm

  ・・・・・

(3)近代日本の「心の隙間」を埋めた「教育勅語」

  @帝国憲法は、日本建国以来の国柄に基づくことを重視して制定されたものでありますが、
   当時の生活実感と隙間があったことは否めません。

   明治においてその隙間を埋めたものこそ「教育勅語」だったのです。

  A当時、多くの日本人は、憲法の条文を詳しくは知りませんでした。
   しかし教育勅語は、当り前のように広まり、社会の中に息づいていったのです。

(4)現代でも必要な教育勅語

  @以前、とある校長先生たちの集まりで講演をしたときに、
   参加された校長先生からこんな話も聞いたことがあります。

   「非行に走る子供たちでも、その親が教育勅語を学んでいた世代は、行ないを改め
   させることは、そう難しいことではありませんでした。ところが、親も教育勅語を
   知らない世代になると、なかなか手も足も出せません」

  A親が道徳的な拠り所を持たない「モンスター・ペアレント」になってしまったら、
   子供も「モンスター・チルドレン」にならざるをえないのは、世の道理でしょう。

  Bしかし、それにしても、明治天皇がここまで心を込められた教育勅語が、占領下の
   国会の議決で廃止されてしまったのは、つくづく痛恨といわざるをえません。

   現代に置き換えるなら、たとえば東日本大震災の折りに、今上陛下がビデオを通して
   語りかけられたお言葉を、国会の議決で廃止することなど許されるでしょうか。

   それを考えれば、いまこそ国会は、せめて教育勅語廃止決議の無効宣言を出すべきと
   思われてなりません。

       <感謝合掌 平成25年6月30日 頓首再拝>

教育勅語12の徳目 (9653)
日時:2013年07月05日 (金) 04時52分
名前:伝統

教育勅語12の徳目
  〜国民の伝統として守っていこうという12の徳目

(1)父母に孝に 〜 親に孝養をつくそう(孝行)

(2)兄弟に友に 〜 兄弟・姉妹は仲良くしよう(友愛)

(3)夫婦相和し 〜 夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)

(4)朋友相信じ 〜 友だちはお互いに信じあって付き合おう(朋友の信)

(5)恭儉己れを持し 〜 自分の言動をつつしもう(謙遜)

(6)博愛衆に及ぼし 〜 広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)

(7)學を修め 〜 勉学に励み職業を身につけよう(修業習学)

(8)以て智能を啓發し 〜 知識を養い才能を伸ばそう(知能啓発)

(9)コ器を成就し 〜 人格の向上につとめよう(徳器成就)

(10)進で公益を廣め世務を開き 〜 広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)

(11)常に國憲を重じ國法に遵ひ 〜 法律や規則を守り社会の秩序に従おう(遵法)

(12)一旦緩急あれば義勇公に奉じ
    〜 国難に際しては国のため力を尽くそう、それが国運を永らえる途(義勇)


<参考Web:”自然な現代口語で語る『教育勅語』  by チャネル桜 ”
       → http://www.youtube.com/watch?v=Q0B5jlqopm8 >

           <感謝合掌 平成25年7月5日 頓首再拝>

父母に孝に 〜両親に感謝し孝行を尽しましょう (10441)
日時:2013年08月08日 (木) 04時33分
名前:伝統


    *「物語で伝える教育勅語〜親子で学ぶ12の大切なこと」(P12)より

私達は父と母で2人、父と母の両親で4人、そのまた両親で8人と数え切れないほど
多くの命のつながりによって、この世に生まれてきました。その数は、10代さかのぼると、
驚くことに1024人にもなるのです。

もし、その中の一人でも欠けていたとしたらどうなるでしょう。
つまり私達は今、この世に生まれていないのです。

このことを考えると、私達が、この世に生まれてきたということは、
それだけで「奇跡」と呼べるのです。

時折、生まれてすぐに子供が、捨てられるといった悲しい事件もあり、
世の中、必ずしも理想的な親ばかりとは限らないでしょう。

しかし、生命(せいめい)が胎内に宿ってから10カ月。
誕生したということ自体をもって、我が子を愛さない母親はいないといわれます。

たとえどんな親であろうとも父がいて母がいて初めてあなたは、この世に生まれてくることが
できたのであり、この世に生まれてきたということは、必ずあなたにしかない「使命」を
持っているということです。

このことに気付いたとき、きっと両親への感謝が生まれます。

使命を自覚することは、なかなか難しく時間がかかるかもしれませんが、
与えられた人生を精一杯前向きに生きれば必ずわかる時がきます。

両親への感謝は、対人関係等、社会生活をする上でも大切なことです。

与えられた生命(せいめい)に感謝し、
その恩にむくいる報恩感謝の生き方をした立派な偉人がいます。

その一人が、二宮金次郎です。

(「両親に尽くし家を守った二宮金次郎」については、次回紹介する予定です)

           <感謝合掌 平成25年8月8日 頓首再拝>



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