【広告】楽天市場にて 母の日向けギフト値引きクーポン配布中

 

光明掲示板・第一

 

本流宣言掲示板光明掲示板・第二」「光明掲示板・第三」「光明掲示板・伝統・第一」「光明掲示板・伝統・第二」「谷口雅春先生に帰りましょう・第一」「谷口雅春先生に帰りましょう・第二

ご投稿は「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」へ

重要リンク集
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。 なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。 「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、 自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、 自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付のうえ、 当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。
トップページ/Página de topo/Top page

 


心の世界における運命の形成 (8650)
日時:2013年05月24日 (金) 06時41分
名前:伝統

(徳久先生が、繰り返し読むことを推奨している『生命の實相』第一巻第四章)

心の世界における運命の形成(その1)

     *『生命の實相』第一巻第四章(P113〜114)

運命のケミカラィゼーションという話がでましたので、
ここにちょっとわれわれの運命は「心の世界」でいかにして形成され、
現実界へいかにし出現するかの問題をのべておきたいと思います。

昭和5年11月14日午後零時半のことでした。
私は用事があって私しの先輩、今井媒軒(ばいけん)氏を神戸に訪ねたのでした。

その日の午前9時浜口首相は東京駅において愛国者の某青年のためピストルにて狙撃され
腹部に重傷を負うたというので、往来はその号外でにぎわっていました。

わたしは今井楳軒氏にお目にかかると、すぐ「浜口首相は大変な目に会いましたね」と
いったものです。

今井氏は「実に人間の運命は不思議で、感慨ぶかいものがある。それで今ある人に手紙を
書こうと思っていたのだ」といってわたしに話しだされたところによりますと、
田中前首相がとつぜん急死された時、今井楳軒(ばいけん)氏はある霊媒(れいばい)を使って、
ある霊界の霊人よりその後の政界の推移について聞かれたのだそうで、

そのさいの霊告(れいこく)によれば浜口首相の運命だって平和ではない、
不慮の危害を加えられる恐れがある、その時期は昭和5年の秋の終わりか冬の初めという
ことだったそうであります。

こういう予言はみだりに他人に口外すべき性質のものではないので
今井氏は他の人には少しも口外せられませんでしたが、王子製紙株式会杜の取締役堀越寿助氏に
だけはこの予言をあらかじめ話しておかれたので、堀越氏も今ごろその事を思い出して
感慨深いものがあろうとのことでした。

堀越寿助氏は『生長の家』の誌友であられましたが、浜口首相の令甥(れいせい)水口出世氏が
王子製紙淀川工場長をしていられた関係上、水口氏と親しい間柄でありますので
今井楳軒氏は堀越寿助氏にだけ、その当時すでにこの予言を発表しておかれたのでありまして、
この事実によって田中前首相逝去の当時すでに霊界では浜口首相が何者かに狙撃される
ということが明らかになっていたという生きた証人があるわけであります。

         <感謝合掌 平成25年5月24日 頓首再拝>

心の世界における運命の形成(その2)  (8651)
日時:2013年05月24日 (金) 06時42分
名前:伝統

     *『生命の實相』第一巻(P114〜118)

予言の的中した実例は、他にいくらもあるのであります。
ここにも欧州大戦の予言的霊告(れいこく)の実例を挙げることにいたします。
この時使われた霊媒はレイヌというフランスの一少女、立ち会い人たる審霊者(さにわ)は
コルニリエというフランスの画家、霊告者はヴェッテリニという霊人であります。

それは1913年2月14日の降霊会(こうれいかい)にあらわれた霊示(れいじ)であって
欧州大戦は1914四年に姶まったのでありますから約1年半前の霊示であります。
次に掲(かか)ぐるはその当時のコルニリエ氏の手記であります。

「1913年2月14日。午後3時。われわれはテーブルにあい対してすわった。
長時間霊媒の休養の後なのでテーブルは激しく、猛烈な運動を始めた。レイヌは大喜びだ。
彼女は今までこんな激しいテーブルの運動を見たことはなかったのである。

午後4時、われわれは小さな暗室にはいった。採光はほとんど理想的というほどの暗さである。
赤いランプをともしておく。自分は正式の順序をふんでレイヌを遊魂状態に導く。
ばんじ都合よく、ゆくらしい。レイヌはすぐに深い遊魂状態にはいる。
例のように体温が冷たくなってくる。

自分は彼女の椅子の周囲をまわりながら霊的流動体を送り彼女の霊が完全に肉体から
遊離するように命令を繰り返す。

突然、彼女は身体をのけぞらして驚いたように両腕をひろげた。
何か恐怖すべき光景を見たかのような所作である。赤いランプと、かすかにさしこむ昼間の光で
自分は彼女の身ぶりと表情とを読むことができた。彼女は恐怖にみちた金切り声で叫びだした。

「ア……ア!……大変です、大変です。恐ろしい光景です!……まあ、ごらんなさい、
みんな戦っています。軍人、騎馬の軍人ーオオ、なんという恐ろしい戦いでしょう!……血、
どこもかしこも、そして火の海です!オオ恐ろしい、恐ろしい皆殺し!なんという虐殺……
どこもかしこも死骸だらけです。数干の死体、数干の怪我人。

四方八方火の海です死と火とばかり。市街は崩壊しています!……天上からも炎、
大空からも弾丸が降って来ます!……アア……たくさんの軍人が列車に乗っています。
戦場へ行く軍人です。……ああ、このたくさんの馬……数干の馬が列車に積み込まれます。
列車……列車……数限りがない、数えきれません…。

どの列車も軍人ばかりです…殺しに行くのです…いたるところ、炎の海です!
森といわず、町といわず、国中荒れ果てています…殺人と劫掠〔こうりゃく)とのほかには
何もありません。オオ、なんと恐怖すべき光景!なんと恐怖べき光景!オオーオオーオオ!」
こういうと少女レイヌは椅子の後にドシンともたらせた。

恐怖すべき光景を見せられたので烈しい息をしてあえいでいるのだ。
彼女の縮めた手は、私しを探しているかと思うと、自分の眼をおおった。
しかし、恐るべき光景はなんの容赦もなしに彼女の前に展開するもののようだ。

時々、彼女は自身の叫び声を止めて、眼の前に展開する光景を説明する。
彼女の説明では、実際それは活動写真のように見える。

「目路(めじ)のとどく限り、戦争がつづいています・・・地上全部、空まで、
砲煙弾雨・・・すべては殺戮(さつりく)と破壊です。それはフランスだけではありません、
ヨーロッパ全土です。・・・フランスは長い間戦争に参加しませんが、ついに参戦します・・・
それは避けがたいのです・・・」

霊示(ヴィジヨン)の光景はまた変わる。また別の恐ろしい光景、いな、いっそう
凄惨(せいさん)な光景といってよい。

「だって・・・パリです・・・燃えているのはパリです・・・オオパリ!・・・全市が
戦っています。どこもかしこも殺し合いばかりです・・・そのほかに何もありません!
全市が破壊されました・・・廃墟、ただ廃墟です・・・建物の壁の一部があちこちにまだ
残って煙を吹いています・・・死屍(しし)が山とつんでいます…血の河、血の洪水・・・
それに飢餓(きが)が迫ってきます。パンさえない・・・殺戮(さつりく」を免れた人々も
飢餓のために死んでいる!」

以上はその一部にすぎませんが、ともかく1913年2月14日においてすでに、
約1年半後において起こるべき欧州大戦を、少女レイヌがありあり見たということは、
実に意昧深いことだといわなければなりません。

どういう点で意味深いかと申しますと、少女レイヌのように、まだ物質的世界に現われていない
未来に属する事件を眼に見ることができたり、あるいはそのほか今井楳軒氏のあげられた予言
のように、未来の出来事を予め知ることができたりするのは、

世界の事件は物質世界に出てくるまでに、「物質とは異う世界」ですでに形造られている
と考えるほかに説明することはできないのであります。

よくこの点をお考えください。
ぜんぜん無いものは見ることも知ることもできないはずであります。

また物質世界にすでに出て来たものが見えるのも当然であります。
しかし物質世界にはまだ出ていない事件を見たり知ったりできるのは、
その事件がすでにどこかになければならないのであります。

そのどこかというのも、物質世界にはまだその事件は起こっていないのですから、
物質世界のことではむろんありません。

そうしたらその「どこ」かは「心の世界」とか「念の世界」とかいうものだと
断定しなければならないのであります。

じっさいいろいろ最近の研究の結果によりますと、すべての地上の事件は
「物質世界」にあらわれて来る以前に「念の世界」でできあがるのでありまして、
「念の世界」でできたとおりが、物質世界に映ってはじめて地上の事件となって
あらわれて来るのであります。

         <感謝合掌 平成25年5月24日 頓首再拝>

心の世界における運命の形成(その3)  (8668)
日時:2013年05月25日 (土) 05時02分
名前:伝統


        *『生命の實相』第一巻(P118〜119)

この「念(こころ)の世界」でできあがるという事件は、
すでに永劫(えいごう)の昔からできあがっていて、
もうちょっとも変えることができないものであるかといいますと、
決してそうではないのであります。

「念の世界」でできあがる事件も、宇宙に満ちているいろいろの生物の心の働きの組み合わせ
にしたがって、時々刻々作られてゆくのであります。

大きなあらすじの事件は、多くの「念(こころ)」の働きを成立要素として
こまかい事件よりも早く、いわばむしろ、多数の「念」の多数決で決まってゆくのでありますが、
それとて「進行中」のものであって、できあがってしまったものではありませんから、
ある事件を起こしている「念の要素」の変化によって、またその事件は変わってゆくのであります。

ここにわれわれの運命を支配しうる自由があるのであります。


レイヌの霊視した欧州大戦の政局の変化も1913年2月14日に見た状態とその後の
霊視した状態とはしだいに少しずつ変化しているのでありまして、後に霊視した状態ほど
けっきょく物質世界にあらわれた時の状態に近いのであります。

つまり、これは最初に「念の世界」にできた事件が「物質世界」に顕われて来るまでには
或る時間がかかる、その時間のうちに「念の世界」に起こった事件を修正するようにしたら、
「物質世界」にはその修正したとおりに事件が変わって顕(あら)われて来るという事実を
示しているのであります。

「われわれの災難とか不幸とか病気とかいうことも最初は「念の世界」に造られるので
ありますが、これも「物質世界」に顕われてくるまでに「念の世界」にまだ事件があるうちに、
修正(しゅうせい)しておいたら、災難が災難にならず、不幸が不幸にならず、
病気が病気にならずに「物質世界」にあらわれてくるのであります。

つまりメタフィジカル・ヒーリングというは「念の世界」における事件を修正しておいて、
こん後「物質世界」へそれが映って現実の事件として出て来るさいに不幸や不健康を
なるべく出さないようにする方法だということがいえましょう。

         <感謝合掌 平成25年5月25日 頓首再拝>

心の世界における運命の形成(その4) (8669)
日時:2013年05月25日 (土) 05時04分
名前:伝統

     *『生命の實相』第一巻(P119〜121)

しかし多勢の「念の総合的力」で強く決まってしまった事件、たとえば災難は、
われわれがいかに精神統一をして、その反対の思念をしましても、その事件を起こらなく
させるということはできないのであります。

そういう場合には、われわれ自身の心がその災難の渦中にひきつけられないような
健全な信念をもっていさえすれば、災難は起こりましても、「類で無いものは反発する」
という心の法則によりまして、たとい災難を受くべきもののみがその災難の渦中に
巻きこまれましても、自分は、その災難の渦の外へ放り出されることになるのであります。


米国カリホルニア州ロスアンゼルスの心霊治療家ピー・ハワード夫人の手記には
次のような一節があります-

「ある日わたしは朝食後の皿を洗っていました。その時わたしは数マイル隔たったところに
住んでいる友だちを訪問したいという気が起こりました。わたしは仕事を簡単にすませて
外出の服装をととのえました。

その時とつぜんわたしの気分が陰欝(いんうつ)になり何者かに押しつけられるようで、
外出がとてもいやになりました。どうしてそんな気分になったのかわたしには判りません。
わたしは服装を整えながら、気分を引き立てようと努力しました。
とうとうわたしは帽子をかぶって片手に手袋をはめながら戸口のところまで出ました。

しかしどうしたことだか、とても耐えられない憂欝(ゆううつ)に襲われて
わたしは部屋へ舞い戻らざるをえませんでした。

わたしは都屋へ戻るとひざまずいて、『神よ、いったいこれはどうしたことですか』
と尋ねました。とつぜん、その答えが強いシツカリした声で聞こえました。

『家にとどまれ!』わたしはその声にしたがって家にとどまることに決めて、帽子を脱ぎ、
手袋もケープもかなぐり捨てると、わたしの気分は晴れやかに明るい気分になってきました。

わたしは『家にとどまれ!』という声だといいましたが、
声というほかに説明のしようがないので声と仮にいったのであります。

誰かがわたしを訪ねて来ようとしているので家にとどまっているように
神から命ぜられたのだと思いました。
ちょうどそれはわたしが宗教家として、また霊的治療家としてたった最初の年でした。

しかしその日は誰も訪ねて来ませんでした。夜になってもいぜんとして誰も来ません。
それでわたしは『なんのことだ、ばからしい。友だちのところへ訪間したらよかった』
という気がして来ました。

ところが、ちょうどわたしの乗るはずになっていた列車に大事変が突発して多数の死傷者が
できたのでありました。・・・・これはわたしの多数の経験中の一つです。
わたしはわたしの直覚に従って失敗したことはありません』

         <感謝合掌 平成25年5月25日 頓首再拝>

心の世界における運命の形成(その5) (8684)
日時:2013年05月26日 (日) 03時29分
名前:伝統

     *『生命の實相』第一巻(P121〜124)

また、高橋正雄さんの雑誌『生』の第二巻第十一号に三輪栄子さんの火事にあったときの
実話の筆記がのっていますが、それにも似たようなことが書いてありますから、
その一節を次に抜萃させていただきます。

「後から考えてみますと、神さまのご都合はおそろしいものと思いますが、わたしは子供に
小さい時分から、夜分寝る時にはすっかり着物を着換えさせる習慣にしておりますが、
その日に限って頭が痛くて、どうも気分が悪くて、シャツもズボンも着たまま寝させました。

わたしも頭が痛くて寝つかれないので、うつうつしておりましたが、その時にパチパチという音
がしましたので、雨が降って雨だれが落ちる音かと思っておりましたが、そうすると
なんともいえない音がしますので何かひっくりかえったのかしらんと思っておりましたが、
ひょっと起きて障子を開けて工場に出ますと、上一面に燃え上っておりました。・・・・」


三輪栄子さんは、その夜、頭が痛かったために、自身は寝つきが悪かったし、子供を寝巻に
着かえさせずにいたので、いざ火事だという急の場合にすみやかに子供をつれて避難される
ことができたのであります。

おそらく、三輪さんのお宅が火事にあうということは「念(こころ)の世界」ではあまりにも
確定的にできあがってしまったので、これを止めることはできなかったのでありましょう。

しかし、火事が起こるということは避(さ)け難(がた)かったにしても、焼け死んだり
怪我をしたりするような不幸と、信心深い三輪さんの心とは、「互いに類でないものは反発する」
という「心の法則」によって、互いに反発して、三輪さんは焼死と火傷との渦巻きの圏外へ
放り出されざるをえなかつたのです。

そのためそこに起こるはずになっている火事をそれとなく予知して、三輸さんの潜在意識は、
その晩、三輸さんを眠らせないでおき、子供も避難しやすいように寝巻を着せず常着のままで
寝かしつけてあったのであります。三輸栄子さんはまたつぎのようにいっておられます

「保険に入ります時にも、信心のお蔭で、神さまのお引き立てが多いように思われたのであります。
最初ある保険に入っておりましたが、その保険会杜が新聞に出ましてどうも噂が悪くて不安で
しようがないので、これではまさかの時にもらわれぬかもしれないと思いまして、
ほかに替(かわ)りたいと思っておりましたが、

その時ちょうど東京火災なれば社長さんも安田さんであるから、まさかの時にはもらえる
であろうと思いまして、葉書を出して来てもらいました。

ちょうど主人の留守の時に来ましたので保険は捨て金でありますけれども、1万円ぐらい入って
おかなければまさかの時には半分もとれませぬからね、などと冗談をいいながら1万円入りました。
それは7月のことであります。

そうして最初の保険会杜の方は解約ということにしました。
そうして主人が帰られましたからこの事を申しますと、1万円は多い、みすみす捨て金である、

こういう一軒屋でうちより火を出さなければ類焼するということはない、気を付けさえすれば
火は出ない、1万円も入らなくてもよいといわれましたがわたしは何を始末しておいても、
入っておきさえすれば心配がないからといって、ちょうど7月に1回かけましただけで、
もらうようになりました。それが唯一回の掛金だけで9千円もらいました。

そうしてそれを得意先の方に、全部お渡ししまして、あとはどうにかこうにか切り抜けさせて
いただきました。こん日こういうようにご贔屓(ひいき)になりましてやらしていただいて
おりますのは、まことにありがたいことだと思っております。・・・・」

この話でもわかりますように、火事が他のいろいろな関係上、ある場所に避けえられないような
場合でも、神によって護られているという強い信念のある人は、護られていないという事実
(怪我をしたり損をしたりするような事案)と「心の法則」によって互いに反発しますから、

怪我さすような事件や損さすような事件がいかに近くに出てきましても、まるで自分だけは
油と水とが混らないように、自分の身体とその不幸とが別々になっており決して自分の運命
にまで不幸がしみこんで来ることがないように自然になるのであります。

誰でも「災難にあった」というような時には、外から「災難」というとんでもない乱暴な奴が
やって来て、自分にはなんの罪もないのに、ぶっつかったと思うのでありますが、
われわれが災難にあって自分が傷つくのは、その災難と自分の心の状態とが類似性をもつていて、
互いに「類をもって集まる」ようになるからであります。

自分の心が招(よ)ばない物は何一つ、この世で自分に近づいて来ることはできないのであります。
自分の心の状態が、災難や不幸とはぜんぜん似つきもせずかけはなれた明るい信仰状態にいました
なら、われわれは災難や不幸のまっタダ中にいてさえも、災難や不幸から鰻(うなぎ)のように
ぬるぬる滑り出して傷つけられるということはないのであります。

         <感謝合掌 平成25年5月26日 頓首再拝>

心の世界における運命の形成(その6) (8709)
日時:2013年05月27日 (月) 04時54分
名前:伝統


       *『生命の實相』第一巻(P124〜128)

誰でもこの三輸さんや、ピー・ハワード夫人のように火事が起こっても自分も焼けず、
家は焼けても保険金がおのずからはいって来て焼けないと同じ結果になる。

汽車が転覆するような時には、その汽車に乗る予定であっても、どうしてもその汽車に
乗れないような事情になってきて、そのために危害から助かる、こういうふうになると
われわれは運命から不死身になってしまうのであります。

運命に対して不死身になってしまったら、われわれは何一つ恐れるものはこの世に無くなる、
こんなけっこうなことはないのであります。

むろん、火事も起こらず、汽車の転覆も起こらなければ多勢の人が助かって、いっそう
けっこうではありますが、火事でも戦争でも汽車の転覆でも多勢の人々の運命に関係して
起こってくるのでありますから、それを起こらなくするにはそれに直接間接関係のある多勢の
人々が皆、念(こころ)を変えねばなりません。

多勢の人々の念を変えることができない以上はその念の力が集まって火事でも汽車の転覆でも、
まず「念(こころ)の世界」に組み立てられます。するとわれわれ個々の人の心はラジオの
受信機のようなものでありますから、誰でも「念(こころ)の世界」にできあがった火事や
汽車の転覆をそれとなく感ずることができる。

Aの磁石の付近にBの磁石がおかれると、すぐ互いに感じ合うようなものであります。
しかし、Aの磁石とBの磁石とは互いに側に置かれるとすぐ吸いつくかといいますと、
吸いつく時もあれば、吸いつかぬ時もある。

かえって、磁石の向き方で、Bの磁石をAの磁石に近づければ近づけるほど、Aの磁石が
逃げ出してしまうこともある。これと同じくわれわれの心は一個の磁石で、その向き方一つで、
どんな悪い運命が近づいて来てもズンズン反発して、悪い運命の手の届かない所へ逃げて
しまうことができるのであります。

三輪さんもピー・ハワード夫人も、信仰によって不幸というものとは水と油とのように
一つになれないような心の状態になっていられたのであります。

ピー・ハワード夫人が出発の間ぎわに不快になって、その日乗ろうと思っていた汽車に
乗り込むことができなかったその同じ日に、外出がとても愉快になって、わざわざその転覆する
汽車に乗り合わすようになった人も多勢あったことでしょう。

ちょうどそれは一つの大磁石(運命)が近づくと他の小磁石(人間)がそれを感じ、
その小磁石の向き方によては近づいて来た大磁石の方向へまっしぐらに突進していって
大磁石にぶっつかるのと同じであります。

人が不幸な運命にあうのは、その人の心が不幸な運命を予知することができないからではない
のでありまして、われわれが「心」をもっている以上は、まず「念の世界」に自分自身に
関係するほどの近さで起こっている事件は、皆それとなく感ずるのであります。

感じてもそれが肉体の意識にハッキリ判ると判らぬとは肉体の霊化の程度によるのでありますが、
それが肉体の意識に判ると否とにかかわらず、われわれの「潜在(おくそこ)の心」はわざと
予知したその不幸めがけてまっしぐらにその人の身体をぶっつけてゆくこともあります。

それは念(こころ)の親和力によるのでありまして、念の向き方が不幸な事変に吸いつけられる
ようになっている以上は、どんなにもがいても反抗しても、不幸な事変に吸いつけられてゆく
のであります。

関東大震火災のような大事変は一人の人間の念の向き方を変えるだけでは、それを起こらない
ようにとどめることはできないけれども、念の向き方が、その当時幸運の方へ吸いつくように
なっている人は、あの震災にあってちっとも不幸になりようがない。

あの震災にあったために逃げ出したり職業を変えたりしたためにかえって幸福な運命が
開けてきているのであります。


ところがその当時念(こころ)の向き方が不運の方へ吸いつくようになっていた人は、
ここなら広場で大丈夫助かるだろうと思って本所の被服廠跡(ひふくしょうあと)などに
避難していると、あにはからんや、おりから吹き起こった旋風のために火炎が渦巻き襲い
かかってきて悲惨な焼死をとげたのであります。

これは一 方から考えますと、本所の被服廠跡のようなところへ避難していたら、
かえって火炎が襲ってきて逃げ路を失うということをその肉体の意識が予知しなかったからで、
それは霊的直覚力がたりなかったためだといえるのでありまして、

もっと平生から霊的修行をしていたならば、ピー・ハワード夫人が汽車の遭難の危禍(きか)
からのがれたように、この危難からのがれられたかもしれないのであります。

けれども霊的修行を積み霊的直覚力が養成されていましても、念の向き方がやはり不幸に
吸いつけられるようになっている人は、霊的直覚力がいくらあっても、不幸が近づいてくると、
アレヨアレヨといっているうちに不可抗的に小舟が魔の淵の渦に吸い寄せられ、
吸いこまれて沈んでしまうように、

その不幸な事変がハッキリ眼の前に見えていながら、
その不幸の渦巻の方ヘグングン吸い寄せられ、不幸の渦巻に身をさらわれてしまうのであります。

神信心をする人のうちには、霊的直覚の発達した人が時々あって、なんでも予知することができる。
株式や米の相場でも実験的に神示をあおいで予知してみるとずいぶん当たる。

そこで、これなら大丈夫だろうと思って、いよいよ本気になって資金を調え相場でも実際に
やってみると、実際にやる時だけはいっこう予知カが的中しないで「買い」と出れば下がる、
「売り」と出れば上がる、めちゃめちゃに損をするというような実例がたくさんあるのであります。

これなどもその人は霊的直覚力は発達していながら「自分」の念(こころ)の状態が「損失」
というものに引きつけられ親和するようになっているから「損失」の渦巻がその人に近づいて
くると、グングン容赦もなくその損失の方へ引きつけられていって、平常の霊的直覚力が役に
たたなくなるのであります。

         <感謝合掌 平成25年5月27日 頓首再拝>

心の世界における運命の形成(その7) (8734)
日時:2013年05月28日 (火) 04時54分
名前:伝統


     *『生命の實相』第一巻(P128〜132)

心霊学者たるW・T・ステッド氏の著書『幽霊実話』(リーアル・ゴースト・ストーリー)中には
次のような話がのっているのであります。

「この話の主人公は或る製造工場に勤めている鍛冶職である。この製造工場は動力を水車から
得ているのであったが、彼はその水車が破損しながら運転しているのに気がついていた。
ところが或る晩、彼は夢を見たのであるーその夢の中の時間は翌日の仕事が終わったときに
なっていた。工場の支配人がその水車を修繕するように彼に頼んだ。

彼は修繕中脚をすべらして2個の水車の間に巻きこまれて怪我をし、その後外科医の施術を
受けて脚を切断することになった。彼はその朝目を覚ますと、この夢を自分の妻に話した。
そしてその晩、もし水車を修繕するように頼まれたなら逃げ出そうと決心していた。

その日工場へ行くと支配人が彼を呼んで、今晩職工たちが仕事を終って帰った後で水車を修繕
してくださいと命じた。彼はいよいよ夢の事件が来たなと思った。その時間までに工場を
逃げ出そうと決心した。そして彼は本当にそ の付近の森の中へ逃げ出していった。

彼は今やその森の窪地へはいりこんで身を隠そうとしていた。
その時、彼の眼についたものがある。それは一人の若者がその工場所有の材木を盗み出して
いるのだ。で彼はその若者から材木を取り返さねばならぬと思って若者を追いかけた。

彼は興奮していて、さきの決心を忘れて工場へ帰って来た。ちょうど職工の退出時間、
水車を惨繕すべき時間になっていた。

支配人が彼の眼の前に立っていた。彼は支配人の命令に従わねばならなかった。
彼は鍛冶の工長であったので水車の上へあがらねばならなかった。注意に注意をかさねようと
彼は決心した。

しかし、彼が注意に注意をかさねたにもかかわらず、彼は脚をすべらして墜落し、
2個の水車の間へ脚を挾まれた。それは夢に見たとおりの光景であった。
脚はひどくグジャグジャに挫折していた。

彼はブラッドフォード病院へ担ぎこまれて、そこで膝の上から施術して切断した。
それで彼の予言的夢は完全に実現したのだった。」


また文豪メーテルリンク氏の著書『未知の賓客』の中にはこれと同様な実話が掲載されている
のであります。

「或る若い機械職工は11月はじめに次のような夢をみた。すなわち彼が午後の5時半に
家に帰ってみると、姉の小さな娘が家の入口の前の街路を横切ろうとして電車に(ひ)かれて
いるのを見た。彼は非常に心配して、その夢を家人に語った。

しかるに同月13日に、できるだけ警戒をしていたにもかかわらず、その少女は予言された
時刻に避けがたく電車のためにひき殺された。」


また同書には次のような事件ものっています。

「5月4日にテスト博士は彼女の夫の眼の前でホルタンス・M夫人は催眠状態に入るやいなや、
彼女は自分は2週間前から妊娠している。臨月まではもたぬ、5月12日に、自分は何事かに驚く、
そしてその場に卒倒した結果、流産するということを述べたてた。

彼女はさらに付言して、この5月12日には3時半に何かに驚いた後で気絶し、
その気絶は8分間続くといい、次いでその病気の経過を各時間にわたって詳しく語り、
その病気の結果は3日間精神錯乱となるが、自分はそれから回復すると述べたのだった。

「催眠状態から覚めると同時に、彼女はすべてを忘れてしまった。彼らは催眠中に起こった
事柄をMー夫人自身には秘密にした。テスト博士は、彼が当時書きとめた手記を
アメデー・ラチュール博士に送っている。これが証拠になるわけである。

予言された5月12日になると、テスト榑士はMー夫人とその良人とを訪間した。
博士はMー夫人を催眠状態に導くと、彼女は8日前に言った事を一語一語繰り返した。
彼女は催眠状態から覚醒状態に戻された。予告された危険な時刻が刻一刻近づいてきた。

博士と良人は、想像しうるあらゆる用心をして鎧戸(よろいど)さえも閉めてしまった。
Mー夫人は自分にはぜんぜん理解することのできぬ、この異常な警戒ぶりを見て、
かえって不安の念にかられ始めた。

そして『いったいあなたたちはわたしに何をなさろうとするのです』と尋ねた。
その時、あたかも時計が3時半を打った。Mー夫人は掛けていた長椅子から立ちあがって、
戸口の方へ行こうとする。博士と良人はそれを妨げた。

「『けれどいったいあなたがたはどうなさるんです? わたしはどんな事があっても出て行きます』
とMー夫人は抗弁した。『いいえ、奥さん、部屋を出ては、あなた健康のために悪いのです』

『それなら大丈夫です。先生、わたしの健康のためならいっそう外へ出る方がよいじゃ
ありませんか』夫人は笑いながらこう答えた。

その理由はいかにももっともであり、それ以上抵抗することができなかった。
だが、良人は、運命と最後まで戦ってみようと思ったので、妻についてゆこうと言い出した。

博士はこの事件がやや滑稽な経路をとって展開して行くにもかかわらず、かなり心配して
部屋にひとり待っていたのだった。

と、とつぜん耳をつんざくような叫び声が聞こえた。榑士が急いで行ってみると、
狂乱したMー夫人が瀕死の状態で良人の腕に抱かれていた。

わずかの間良人のそばを離れて、彼女が自分の行こうと思っていた場所の扉を開けた刹那、
20年来1度も出たことのない場所で、1匹の鼠が彼女に跳びついて、非常な驚愕を
彼女に与えたので驚きのあまり彼女は仰向けに倒れてしまった。

そして予言の残りの部分も、一刻もたがわず、一事もあやまたずしてすべて的中したのであった。」

         <感謝合掌 平成25年5月28日 頓首再拝>

心の世界における運命の形成(その8) (8752)
日時:2013年05月29日 (水) 04時00分
名前:伝統


     *『生命の實相』第一巻(P132〜135)

ここにあげたこれら数々の不幸の運命の予言は、できるだけ注意して逃れようと焦りながらも
どうすることもできないで、不幸な運命に吸い寄せられて行った人々の実例であります。

せんこく申しましたように、われわれの心は未来において物質世界に映し出さるべき事件を、
それがまず「念の世界」にあるうちに感ずることができるのでありますが、
この感じ知った事件に、或る心の向き方の人は、どんなに巻きこまれまいと反抗しながらでも
必然的にその不幸な事件ヘグングン磁石的な力で引きつけられて行くのであります。

そうかと思うと、三輸栄子さんや、ピー・ハワード夫人のような人は、
不幸な事件が自分の付近に、あるいは自分の住んでいる家にさえ起こってでも、
その事件に引きつけられないでちょつとも危害を受けないですむのです。

なぜ、人によってこんなに結果が相違するかということは、
われわれがぜひ考えなければならないことではありますまいか。

わたしが常にいうことでありますが、
誰も自分の心で招(よ)ばない不幸には出くわすことはできないのであります。
どんな事件でも、最初は「心的存在」であって、自分の心もまた「心的存在」である。

そしてこれらの「心的存在」は「心の法則」すなわち「類は類を招ぶ」という法則と、
「類でないものは反発する」という法則とに支配されて、互いに牽引(けんいん)し合ったり
反発したりしているのであります。

それで不幸な事件にあう人々は、誰を恨(うら)むこともない。
自分の「心」のうちにそんな不幸を引きつける不幸の種を必ず宿しているからであります。

だから昔から「泣面に蜂」とか「悪いことは三度ある」とかいいまして、
人間の運が傾いて来ると各方面から悪いことばかりが引き続いて起こるようになるのであります。

運命が傾くというのは、その人の「心」の中に不幸な事件を吸い寄せる磁石ができている
わけであって、こんな磁石を「心」の中から取りだして捨ててしまわないかぎりは、
その人の運命が善くなる気づかいはないのであります。


では、この不幸な事件を吸い寄せる「心の中の磁石」とはなんであるかと申しますと、
その根本的なものは、神と一体でない、神と離れた心であります。

心の内に神という無限力に生かされているという自信がなく、自分の生命は物質の偶然的集合
でつくられていて、外から加わる偶然の力ですぐ破壊してしまうであろうというような
誤れる生命観がわれわれの心の奥底の大部分を占領していると、

それが磁石となって不幸を引き寄せる、病気を引き寄せる、そのほかさまざまの人生苦を
引き寄せる。

だからこの「磁石」を取りのけるためには、何よりもまず、自分は大生命の無限力に
生かされているという徹底した大信念を心の奥底に築きあげて、自分の生命は決して物質の
偶然的集合でつくられたものではなく、常に大生命の無限力で護られているという真理を
心の底深く信ずるようにならなければならないのであります。

われわれを生かさずにおかない、無限の大生命のお力、それは神とも顕(あら)われ、
仏とも顕われ、名前のつけようがないので、或る教えではこれを「妙」といいます。
ともかく、宗派によって名前が異っているにしてもみんな一体である。

この霊妙な無限力に生かされていることを信ずる者には力が与えられ、
どんな不幸な事件が近づいて来ても、その人を傷つけることができないのであります。

むかし或る刺客が高僧を暗殺しようとして、毎日つけ狙っていたけれども、
どうしてもその高僧と道が行き違いになって刺すことができなかったというような話もあります。

自分の心の中に、自分を刺す剣をおいとかないものは、外から刺そうと思っても刺すことが
できない。或る高僧を斬罪(ざんざい)に処そうとしたらその刃(やいば)がかえって
きれぎれに折れてしまったというような話は作り話のようであっても、
真実それは起こりうる事実であります。

ともかく、自分の心のうちに病気や死がなければわれわれは病気に罹(かか)ることも
死ぬこともできない。自分の心のうちに刃がなければ、われわれは刃にかかって死ぬことがない。

人を審判く心のある人は審判かれる。ピストルの弾丸(たま)にあたるような人の心には、
必ずどこかにピストルの弾丸と同じような、一徹な鋭い性質があってその心の引力はピストルを
引き寄せているに相違ないのであります。


柳生但馬守のような剣道の名人でもぜんぜん心の中に剣をもたない人を斬ることはできない。
その証拠に但馬守(たじまかみ)は沢庵禅師(たくあんぜんじ)にうち込むことができなかった
といいます。

剣でもピストルの弾丸でも外からわれわれにうち込んで来るものだと思ったら
それこそ大まちがいで、われわれの心の内にそれを引き寄せる磁石があって、
周囲から剣でもピストルでも災難でも病気でも失業でも引き寄せるのであります。


ここの道理がおわかりになりますと、どんな災難にあっても病気にかかっても外に対して
恨んだり小言をいったりする必要がなくなって、自分の好まない事件が起こってきたならば、
自分の心の中にその好まない事件と同じものがあるということをかえりみて、
そのよろしくない性質を心の中から取り去るようにすればよいのであります。

そうすると自分の周囲、境遇、肉体の健康状態などが自分の改善された心を映して
改善されてくるのであります。

         <感謝合掌 平成25年5月29日 頓首再拝>

心の世界における運命の形成(その9) (8803)
日時:2013年05月30日 (木) 06時50分
名前:伝統

     *『生命の實相』第一巻(P135〜142)

先日ある読者から霊感が養成されて未来の事件があらかじめ判るようになれば、
金儲けもできるだろうと思うから、神想観によって未来の透視力をえたいから、
どうぞ指導をお願いしたいという意味を書いてよこされたのであります。

どうもこういう方には返事に困るのであります。
多少とも霊媒的天分のある人は催眠術によっても、鎮魂(ちんこん)によっても、
坐禅によっても、神想観によっても、その他の霊術によっても、おそいか早いかの差はあれ、
未来を透視したり予感したりすることができるようになります。

しかし未来の透視能カがあるということと、
その人が幸運になるということとはぜんぜん別であります。
多くの人はいわゆる未来の予知能力がなくとも幸運なのであります。

これに反して、いかに未来の不幸が予知されても、先刻述べた鍛冶屋(かじや)さんは
水車に巻き込まれて脚を折り少女は電車に轢(ひ)かれて死に、M――夫人は鼠(ねずみ)に
驚いて倒れて流産したのであります。

本当は、「予知される未来」というものは、念の世界ですでに起こっている現在であって、
ある事が「念の世界」に起こってしまった以上は、その映しである「物質世界」に
その事件は必然的に起こってくるのであります。

これはとても避けられない。
これを避けるには「念の世界」に自分の好まない事件をぜんぜん起こらせないようにする
ほかはない。

不幸が起こってそれを予知できるよりも、予知できなくともなんの不幸も起こらぬに
こしたことはない。

だいたい未来の予知的能力を獲得しなければ、自分は不幸にあうであろうというような、
自已を信ぜず、神を信ぜざる心的態度そのものが、すでに「念の世界」に自分の不幸の種子を
まいていることになります。

そのような心であればこそ未来を予知したくもなれば、予知しながらでも、
その未来の不幸にグングン不可抗的に吸い寄せられて行く。

だいいち、予知してから避けようと思うのではすでに遅い。
未来を予知する、すなわち「未来を見る」ということは現在すでに「念のフィルム」に
できている事件を心の眼で見ることであります。

それが未来の事件のように思われるのは「念のフィルム」を自然力と称する「活動写真機」に
かけて「物質世界の舞台面」に映し出すのに、今しばらく時間がかかるだけのことでありまして、
その避けたいと思う事件はすでに「念の世界」に起こりずみの事件であります。

起こりずみの事件を避けようと焦るだけがばかな話であります。

で、われわれが避けられる不幸な事件はその不幸な事件がまだ「念の世界」においてさえも
ハッキリした形をとっていない場合だけであります。

「念の世界」においてさえまだハッキリ形をとっていないその不幸な事件は、
それは形がないから、心の眼でも霊眼でもハッキリ見ることはできないのであります。

ただ、それは、ばくぜんとわれわれがそれを感じ、自分自身の念の性質によって、
ある人はその事件の起こるところに近づきたくなり、ある人はその事件に近づきがたくなる
ほかはないのであります。

しかしその時こそわれわれがその起こるかもしれぬその不幸から逃れることができる
唯一の時であります。

ある不幸な事件が「念の世界で」造られる順序を見ますにそれは多勢の想念(おもい)因子(たね)
となって、「類をもって集まる」の心の法則により、類似した想念ばかりがモヤモヤと
ガスのようにまだ形が定まらないで集まります。

それが大きく集まって一団となって来るにつれて類似している「心」を引きつける磁石的引力も
増加してきます。ちょうどそれは月よりも地球の方が引力が強い、地球よりも太陽の方が引力が
強いようなものであります。

それはまだ事件としてのハッキリした形を傭えていないけれども、その「類」を引き寄せる力は
かなりな遠方までも及ぶのであります。遠くにいる人もその引カを感じて近寄って来て、
その事件を構成する一人物となります。

しかし一方、その起こるべき事件とは「心の波長」において一致しない人は、
その事件の波及する距離以内にいるとなんとなく、不快な落ちつかない気分を感じて、
その距離以外に遠ざかって行くか、あるいはその距離以内にいても何物かの庇護(ひご)によって
その不幸な事件に巻き込まれない位置に身を隠していることになるのであります。

関東の大震火災の時でも、わざわざその前日、地方から上京して震災の洗礼を受けて死んだ人も
あれば、その前日関東から地方へ移転して罹災を免れた人もあります。

震災で丸焼けになった人で再び起つことができない経済的不運にあった人もあれば、
一時は丸焼けになったけれども、それが当時あまり香(かん)ばしくなかった過去の職業を
なげうって将来大いに成功する新事業を始める動機となった人もあります。

一つの事件に対してでも人それぞれの念の磁石的牲質によって、その事件の圏外に飛び出す人と、
その事件の圏内にいて危害を受ける人と、その事件によってかえっていっそうの幸福を受ける人
があるのであります。

だから単に未来に起こる事件が予知できたからとて
その人は必ずしも幸福になるとは決っていないのであります。

「だって、ピー・ハワード夫人は汽車が未来に転覆(てんぷく)するということを予感して
助かったのではないか」という人があるかもしれません。

ピー・ハワード夫人は、「念の世界」において起こってしまった事件を予知したのではありません。
夫人は唯、そこに起ころうとしつつある事件の「心的雰囲気」を感じて、夫人自身の心的性質が
その「雰囲気」に引きつけられずその雰囲気に近づこうとするとなんとなく不快になるので、
旅立ちをやめてその危険に近づけなかったのであります。

もし誰でもこういうふうに念の世界でまだ漠然(ばくぜん)とした雰囲気だけあって、
ハッキリと形を傭えていない間に念の反発を感じて避けれぱ避けられるのであります。

もしピー・ハワード夫人がその汽車に乗って汽軍の転覆にあって重傷を負うているような事件を
正確な霊覚とか霊夢によってハッキリ目撃したのでありましたら、その事件は「念の世界」では
すでに起こりずみであるからこそ見えたのでありますから、夫人がいくら、それを避けようと
努カしても、どうしても拒まれない事情が発生してその汽車に乗ることになり、
その汽車は転覆して予知したとおりの危害を避けることはできないのであります。


ここがわれわれにとって最も注意を要する肝要な所で、われわれが未来の不幸を避けるためには、
その不幸を予知する霊感などをいくらもっていてもなんの役にも立たないのであります。

予知された未来はすでに起こりずみであるからそれを取り消す道がない。
それを取り消そうとあせるのは活動写真の映写機に一定の事件のフイルムをかけて
活動写真を写しながら、舞台面の映画を消しゴムで消そうとするのと同じ愚であります。

現実世界という舞台面にこんな事件が映ってはいかぬと思うならば、
「念のフイルム」にそんな事件を撮影しておかぬがよろしい。

他の人々が集まってそういう事件の「念のフイルム」を合作しそうであったら
自分だけ「類でないものは反発する」という法則によって、そのフイルムに入らなければ
よろしいのです。


「類でないものは反発する!」これこそわれわれが悪運を避ける唯一の法則であります。
悪い事件が映っている「念(こころ)のフイルム」に自分だけ映るまいと思うならば、
自分の生命に、その悪い事件と親和し、互いに引き合うようないろいろの心持ち

 ー 暗い心持ちとか、鋭い心持ちとか、心で人を刺す性質とか、窮屈で人をいれない性質とか、
恐怖の感情とか、取り越し苦労の感情とかを捨てて

朗らかな、明るい、愛深い、人を咎(とが)めない赦(ゆる)しの深い、寛大な、平和な、
落ちついた、角のない、円満な、自信のある、自分を神の子として神と一体であると信ずる心を
養成すればよいのであります。


これだけの心の準備ができるならば、自分の周囲にどんな不幸な事件が起こって来ても、
自分だけはその不幸な事件の映画俳優の一座に加えられず、一緒に不幸の分け前を味わわねば
ならぬようなことはなくなるのであります。

こう申しますと、なかなか繁雑な種類の心の修養をしなければならぬようで、
この忙しい世の中に、とてもわれわれには実行できそうでないと思われる方もあるかも
しれませぬがこれを一つの根本原理に還元しますと、決してこ修養は皆さんの想像されるほど
繁雑なものではないのであります。


この修養の根本原則とは、「自己が神の子であって、自己の生命は神の霊である」との
事実に目覚めることであります。

この事実に目覚めるときわれわれは心の根本において神の無限力に生かされていることを
感じますから、おのずから心の朗らかになり、明るくなり、寛大になり、愛深くなり、円満な、
平和な、恐怖心のない、取り越し苦労をしない人間になり、

したがってどんな不幸も自分の側を素通りして近づかず、幸福ばかりが引き寄せられて来る
心的磁石となるのであります。


では、「自己が神の子であって自己の生命は神の霊である」という事実に目覚めるには
どうしたらよいかという一つの秘訣を申しますと、常に言葉の力で「わたしは神の子である」と
いう思想の種子(たね)を自分の心に植えつけるようにするのであります。

道を歩く時にも「神の子が今歩いている」と低声でいって、その言葉のとおりに思って
神聖な罪にけがれない「本物の自分」を心に印象するようにします。

往復の電車に乗っている小さな暇を利用しても
「私の真性は神である。神こそ本当のわたしである。だからわたしは恐れない」と
自分だけに聞こえる声で自分自身にいって聞かせます。

人に面会する前にも「わたしは神である。神がわが父である。父と子とは一体であるから
わがなすは父がなし給うのだ」と言葉に出して数回繰り返して自分にいって聞かせて
心に自信力を植えつけてから会うようにします。

するとその一回の面会には失敗してもだんだん人に面会するのに自信ができ、
やがてはすばらしく成功するようになれます。結果を急いではなりません。

要するに「神と我とは父と子との関係であって自分は神の無限力に後援されている」
という意味のことばを、暇あるごとに、機会あるごとに、言葉の力で、自分自身の心の奥底に
たたみこむようにするならば、

この自覚の深まるにしたがって運命が開けてくるようになり、神我一体の真理がいよいよ深く
心の底に目覚めて、心全体が照り輝くようになりますと、「類をもって集まる」の心の法則に
よって、どんな時にも明るい運命ばかりが自分に吸い寄せられて来るようになり、
もう前途の予感カが欲しいなどという欲望もぜんぜんなくなってしまうのであります。


なぜら、もうその人は運命に対して不死身となり、何事が起ころうとも自分にとって悪いことは
一つとして起こらないとの大確信に到達するからであります。

確信は「念の世界」における運命のひな形で、この世の出来事はすべて、
このひな形のとおりに出てくるのであって、悪い確信をもてば運命が悪くなり、
善い確信をもてば運命が善くなることは免れがたい事実なのであります。

(以上で、完了です)

         <感謝合掌 平成25年5月30日 頓首再拝>



名前
メールアドレス
スレッド名
本文
ファイル
URL
削除キー 項目の保存


Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場にて 母の日向けギフト値引きクーポン配布中
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板