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楠木正成(大楠公) (8665)
日時:2013年05月25日 (土) 00時35分
名前:伝統

今日5月25日は【楠公祭(なんこうさい)の日】です。

楠木正成、自刃の日〜死没 延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)。

楠木正成公を、改めて理解を深めるためのWebの紹介

(1)楠公精神
   → http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/tokko-sisou

(2)湊川神社の由緒〜楠木正成公(大楠公)
   → http://www.minatogawajinja.or.jp/history/

         <感謝合掌 平成25年5月25日 頓首再拝>

「七生報国」 (8681)
日時:2013年05月26日 (日) 03時14分
名前:伝統

    *Web「ねずさんの ひとりごと 」より抜粋
        (http://nezu621.blog7.fc2.com/?no=589

(正成が、足利尊氏との最後の決戦<湊川>で、死力を尽して戦った後)

正成は生き残った72名の部下と民家へ入ると、
死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃した。

正成は弟・正季と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺した。享年42歳。

このとき正成が、弟正季ら、生き残った一族郎党と誓い合った言葉として
いまに伝えられているのが「七生報国」(しちしょうほうこく)です。
旧字体では“七生報國”

最期をさとった正成が、弟正季に「何か願いはあるか」と問いかけたとき、正季は

「七生まで人間に生れて朝敵を滅ぼしたい」

と答えた。

正成は、「いつかこの本懐を達せん」と誓った。

そして兄弟刺しちがえて自刃した。


正成の首は、一時京都六条河原に晒されたけれど、死を惜しんだ足利尊氏の特別の配慮で、
彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられた。

尊氏側の記録(『梅松論』)には、敵将・正成の死が次のように書かれています。

「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」


尊氏没後、室町幕府は、北朝の正当性を強調するために、
足利軍と戦った正成を『逆賊』として扱った。

正成は、死後300年近くも、朝敵の汚名を着せられたままとなった。

たとえ胸中で正成の人徳に共鳴していても、
朝廷政治より武士による支配の優秀さを説く武家社会の中で、
後醍醐天皇の為に殉じた正成を礼賛することはタブーとされた。


その楠木正成を、再び世に出したのが、水戸黄門で有名な、水戸光圀です。

光圀は、1692(元禄5)年、大日本史を編纂中、
水田の中にあった小さな塚に正成の偉業を称え建立し、
“嗚呼忠臣楠子之墓”と自書した墓碑を建立した。

         <感謝合掌 平成25年5月26日 頓首再拝>

楠木正成の”七生報国”の自覚 (8710)
日時:2013年05月27日 (月) 04時56分
名前:伝統


       *谷口雅春先生・著「国のいのち人のいのち」(P143〜147)から抜粋

”死”を携えて歩む人の中に、
神を知り、祖国を知り、祖先を知り、霊を知り、祈りを深めて、神霊の導きによって、
《より》高邁なる理想をもち、それに”全生命”を奉げんとするがために、

片手に不借身命の”死”を携えて、何時(いつ)にても悔いなく**(確認後掲載)るという悟境を以て、
その高邁なる理想に向かって勇敢に進み行く人たちがいる。

(中略)

”七生報国”を理想として湊川の戦で足利尊氏の大軍を迎え討った楠木正成も、
”死”を片手に携えながら理想のために生き尽した武士の亀鑑であると謂える。
それは矢張り宗教的に深い信仰があっての事である。

彼は「法華経」の信者であった。

正成の自筆、いくつか残っている中で、目ざましいのは、現に湊川神社に秘蔵せられている
「法華経」の奥書である。それは一字一字、心をこめて謹厳に書かれたものであり、
その一節には次の如く録されている。

「夫れ法華経は、五時の肝心、一乗の腑蔵なり、これに拠りて、三世の導師、
此の経を以て出世の本懐となし、八部の冥衆、此の典を以て護国の依憑(いひょう)となす。
・・・」

(P147の一節には、
 「法華経」を「五時の肝心、一乗の腑蔵」として生活に生きて来た楠木正成、
 とあります)


《忠誠は消えることのない実相界の徳目である》

楠木正成は湊川の戦で戦死した以後、長く恰も逆賊扱いされて
歴史の上にその正しい行蹟が記録されないでいたのだった。

ところが徳川時代になって水戸光圀公が『大日本史』を編纂するにあたって、今まで埋もれていた
正成の忠誠報国の行蹟を発掘して、現在、神戸市生田区にある湊川神社の位置に、
正成の忠誠を表彰する石碑を建てて、その碑文に「嗚呼忠臣楠子之墓」と書いたのだった。

“忠誠“は生死の両頭を切断し去った彼方にある超在”実相世界“にある真徳の表出であるから、
現象の”死“によって滅びてしまうことはないのである。

         <感謝合掌 平成25年5月27日 頓首再拝>

頼山陽、「謁楠河州墳有作」 (8733)
日時:2013年05月28日 (火) 04時51分
名前:伝統

       *Web「日本国家の歩み」より

水戸光圀の楠公墓建碑以来、数多くの人が湊川に詣でました。 

そして 心ある人々は、楠公の忠義に触れて、感涙に咽(むせ) びました。 
幕末 及び 明治の 空前のベストセラー「 日本外史 」の著者、頼山陽も その一人です。


        謁楠河州墳有作
            ( 楠河州の墳 (つか) に謁して、作る有り )

     東海の大魚 鬣尾 (りょうび) を 奮(ふる) い
     黒波(こくは) を蹴起(しゅうき) して 黼扆(ふい) を汚(けが) す
     隠島 (いんとう) の風雲 重ねて惨毒(さんどく)
     六(りく) 十余州 すべて鬼虺 (きき)
     誰か 隻手 (せきしゅ) をもって 妖氛 (ようふん) を排(はい) す
     身はあたる 百万 哮闞 (こうかん) の群
     戈 (ほこ) を揮(ふる) って 回(かえ) さんと擬す 虞淵 (ぐえん) の日
     鍤 (すき) を執(と) って 同(とも) にほる即墨 (そくぼく) の雲
     関西 自(おのずか) ら 男子の在る有り
     東向 (とうこう) なんぞ 降(こう) 将軍とならんや
     乾 (けん) を旋(めぐ) らし 坤 (こん) を転じて 値遇 (ちぐう) に答え
     輦道 (れんどう) を 洒掃 (さいそう) して 鑾輅 (らんろ) を迎う
     功を論ずれば 睢陽 (すいよう) 最も力あり
     みだりに称す 李(り) 郭(かく) 天歩を安んずと
     出でては将(しょう) 入(い) っては相(しょう) 位(くらい) いまだ班(はん) せず
     前狼(ぜんろう) 後虎(こうこ) こと また艱(なや) む
     策を帝閽 (ていこん) に献ずれども 達することを得ず
     志を軍務に決す あに生還せんや
     かつ 児輩 (じはい) を余(あま) して 微志 (びし) を継(つ) がしめ
     全家(ぜんか) の血肉(けつにく) 王事につくす
     南柯 (なんか) 旧根 (きゅうこん) を 存する有るに非ずんば
     北闕 (ほつけつ) を偏安 (へんあん) して 何(いず) れの地にか向かわん
     摂山は逶迤(いい) として 海水は碧 (みどり) なり
     吾れ来って 馬を下(くだ) る 兵庫の駅
     想い見る 児に訣(わか) れ 弟を呼んで 来って此(ここ) に戦うを
     刀は折れ 矢は尽きて 臣が事おわる
     北向 (ほくこう) 再拝すれば 天日くもる
     七たび人間 (じんかん) に生まれて 国賊を滅さん
     碧血 (へきけつ) 痕 (こん) は化す 五百歳
     茫々 (ぼうぼう) たる春蕪 (しゅんぶ) 大麦(ばく) を長ず
     君見ずや 君臣あい図り 骨肉あい呑む
     九葉 (きゅうよう) 十三世 何の存するところぞ
     何ぞ如(し) かん 忠臣 孝子 一門にあつまり
     万世の下(もと) 一片の石
     無数英雄の 涙痕 (るいこん) を留めんには
     ( 原漢文 )



   ( 大意 )

   かの四天王寺に秘蔵する 聖徳太子の未来記 ( 上宮太子讖記(しんき) ) に、
   人皇九十五代にあたって、東魚が来って西海を呑むと記された 不吉な予言が的中して、

   あやしき大魚( 北條氏 ) は鰭(ひれ) をふるい尾を動かし、黒波を蹴立てて玉座にせまり、
   後醍醐天皇を 海中の孤島、隠岐の島に遷しやって、その荒き波風にあてさせ、
   後鳥羽上皇と同じような 辛き境遇にあわせた。 

   このとき六十余州を照覧したまえる日月の光はかくれ、
   全土は挙げて鬼?(きき) のごとき悪徒たちの跳梁(ちょうりょう) に委ねられた。  

   このとき、敢然として悪気を払い、猛り狂える賊どもを討伐せんものと、百万余の大兵と
   戦い、戦いたけなわにして日没せんとするや、戈(ほこ) をふるって日をさし招き、
   落日を既墜 (きつい) にかえした魯陽(ろよう) 公のごとく、

   また、一度び危急に瀕せる朝廷の頽勢 (たいせい) を挽回せんと力戦し、
   その兵士と苦楽を共にすること、あたかも即墨(そくぼく) を孤守して、
   兵卒と共に城壁の破損をつくろったという田単(でんたん) のごとく、

   悪戦苦闘、しかも気節を昂然と持して、関西おのずから男子ありと叫び、
   敵の勧降に応じなかった魏の高歓(こうかん) のそれと同じく、さいごまで勤王のために
   万丈の気をはいた者は誰人ぞ。 これこそ、楠木正成公その人であったのだ。

   いったい楠木正成公は、率先して勤王の義軍をおこし、ついに天運を再転せしめて、
   天下を武家の手より奪いかえし、輦道を掃い清めて、天子を皇宮へ迎え奉り、
   建武の中興を成すにいたらしめた。 

   その功績のほどは、かの開元天宝の乱における張?(ちょうすいよう) にも
   比すべきもので、中興の功績第一に推されるべきである。

   しかるに、意外にも李光弼(りこうひつ) や郭子儀(かくしぎ) と同程度の 新田義貞、
   足利尊氏らが、天運回復の最大の功臣と称讃をこうむるにいたった。

   正成公こそは、軍職にあっては征夷大将軍たるべき器量があり、朝廷にあれば宰相たる
   べき能力を保有しながら、ついに所を得ず卑位 (ひい) に甘んじねばならなかった。

   しかし、いくばくもなく、前狼後虎 (ぜんろうこうこ) のたとえのように、
   足利氏の反乱にあって、天下は再び多端 (たたん) となるにいたった。 

   正成公の献策は実行せられず、事の成らざるを予め知りはしたが、
   一度び勤王のために蹶起した以上、もとより生還を願ってはおらず、
   ついに湊川で死地についてしまわれた。

   しかし正成公は、それだけに止まらない。 
   その子孫を遺して志を継がしめ、
   これがため 一家・一門の血肉は、ことごとく王事に全滅するにいたった。 

   しかも、正成公の志を 継承した楠木の遺族たちがいなかったら、
   南朝方は吉野の行在 (あんざい) すら守護することができず、
   正統の天子をいったいどこに蒙塵 (もうじん) させたらいいというのであろうか。

   私は摂津の山々が、峯を連ねて横たわり、紺碧の海水をかこむ湊川に来て、
   昔日の戦いをありありと思いうかべた。 

   正成公は、青葉茂れる桜井の駅に、わが子の正行(まさつら) と訣別し、
   弟の正李 (まさすえ) とあい携えて、この地に押し寄せる足利の大軍を引きうけて
   激闘半日、衆寡敵せず刀おれ矢つきて、ついに臣が事おわれりと、

   いよいよ最期の時の来たことを覚られると、おりから北天の空が暗澹たる雲におおわれ、
   日光も光を失える京都の方を伏し拝むこと二度、七度び人間に生まれて
   この賊を滅ぼさんと誓いつつ、正李と刺し違えて戦死されたのである。

   それから今日まで五百年、忠臣の鮮血を吸った土も、もはや痕跡 (こんせき) をもとどめず、
   往年の戦場も太平の恵沢 (けいたく) をうけて田野となり、春野の草には、大麦が
   涯(はて) もなく生い茂っているのみである。 

   ひるがえって、かの君臣たがいに陰謀をもってあい凌ぎ、親子兄弟で勢力を争って鎬を
   けづった北条氏九代、足利氏十三代は、まこと空名栄華(えいが) で跡かたもないではないか。 

   それに引きかえ、たとえ非命にたおれても、忠孝・孝子を一門にあつめ、万世のもとまでも
   一碑(いつぴ) ( 水戸光圀の建碑 ) よく無数の英雄を感激させる楠木正成公の栄誉とは
   較べものになろうか。



この詩から 19歳の 青年 頼山陽が  「 嗚呼忠臣楠子之墓 」  から
如何に 大きな感銘を受けたかを 知る事が出来ます。 

この時受けた感激などが、山陽 畢生(ひっせい)の大著述  「 日本外史 」  の編纂へと
やがてつながって行くのです。 

そしてこの  「 日本外史 」  は それからまもなく訪れる幕末には 空前のベストセラーになり、
志士たちの 強力なバイブルともなって、明治維新の達成に 大きな影響を与えることになります。

    (http://blog.goo.ne.jp/sanyou-gaisi/e/3ade7c38eee15b952407b6947e443ef1

         <感謝合掌 平成25年5月28日 頓首再拝>

大楠公の銅像 (8751)
日時:2013年05月29日 (水) 03時57分
名前:伝統


(1)皇居外苑にある銅像
   → http://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/1_intro/his_06.html
   → http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/machi/nankou/nankou.htm

   明治23年(1890)年、伊予国(愛媛県)別子銅山の開坑200年を記念し、
   時の住友家当主、友忠が、皇室に対する忠臣としてその名を知られた楠正成の銅像を、
   自らが経営する別子銅山の銅を用いて鋳造し、宮内省(現、宮内庁)に献納することを
   志しました。

   残念ながら友忠は銅像の完成を見ることなく、若くして亡くなりましたが、
   その遺志を継いで銅像を献納したのが、記文に名を残す住友吉左衛門です。

   銅像の制作を依頼された東京美術学校(現、東京藝術大学)では、当時木彫科の主任教授で
   あった高村光雲(「智恵子抄」などで知られる詩人、高村光太郎の父)をはじめ、複数の
   教授および学生が制作にたずさわり、6年後の明治29(1896)年に完成しました。

   その後台座部分が完成し、現在の位置に据付が完了するのは明治33(1900)年ですが、
   台座部分の記文は銅像完成直後の明治30(1897)年1月の日付が記されています。

   記文はすべて漢文で記されており、その読み下し文は以下のとおりです。

     
      臣の祖先友信が伊予別子銅山の銅坑を開いてより、子孫業を継ぎ二百年、
      亡兄友忠深く国恩に感じ、その銅を用いて楠公正成の像を鋳造し、
      之を闕下に献ぜんと欲し、允を蒙りて未だ果たさず、臣其の志を継ぎ、
      工事を董し功竣るに及んで謹んで献す

          明治三十年一月 従五位 臣 住友吉左衛門 謹識

         闕下:朝廷
         允を蒙りて:(像献納の)許可をもらって
         董し:監督し
         功竣:竣工と同意

     (http://burari2161.fc2web.com/kusunokimasasige.htm

(2)湊川公園の楠木正成の像
   → http://kobe.travel.coocan.jp/kobe/minatogawakouen.htm

(3)菩提寺 観心寺 山門横の楠木正成像
   → http://blogs.yahoo.co.jp/dakenitn89/32639201.html

(4)茨城県那珂市・一乗院の忠臣楠公の銅像
   (楠木正成は幼名が「多聞丸(毘沙門天)」だったと言われています)
   → http://hanayumi.iiyudana.net/08ibara/06ichijy/ichijy00.html


なお、大楠公の銅像については、
” 山ちゃん1952 さま”のブログ「楠木正成の像」に詳しく述べられております。
   → http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/200809100002/

         <感謝合掌 平成25年5月29日 頓首再拝>

楠木正成の忠誠心は「中心帰一理念」の発現 (8804)
日時:2013年05月30日 (木) 06時52分
名前:伝統

     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P145(5月30日)>より

「三界は唯心の所現である」 釈迦のこの所説は正しい。
しかし、「唯心」とはただの「思考作用(おもうはたらき)」だけではない。
深いところの感情である。

ハッキリ思考に現われない以前に心の中に動いている原因不明の魂的な動きがそれである。
思考の上では完全に論理的には組み立てられないが、
大和魂(やまとだましい)なるものは理論を超越して動いている。

戦死の瞬間に天皇陛下万歳を唱える心は、それは理論でも学問でも思想でもない。
われわれの魂の奥底に横たわる深い感情である。

この深い感情は、明瞭に脳髄的意識としては理論的には組み立てられていないが、
脳髄的意識の理論発生以前にその奥に存在する実在の理念なのであって、
この中心帰一理念(弥的魂<ヤマトだましい>)こそが真統(ほんとう)の
日本人の深い感情の根本となっているのである。

物質分子さえも「中心帰一理念」の中にあるから原子核を中心として
陰電子が回転しているのである。

理念といえば、その文字面から「道理と想念」とを一緒にしたような言葉に思われるが、
人間の深いところの感情はすべて、実在者の「理念」から発生してくるものなのである。

「理念」の力は内より押し出す最も力強い感動であり、その「理念」はそれが現象的に
顕われるのに幾回失敗しても、やがてはそれが形に現れずにはいないのは、朝顔の花は何回
萎れてもまたやがて夏来たって花咲かずにはいないのと同じである。

楠木正成の忠誠心は「中心帰一理念」の発現からであるから、湊川で挫折しても、
「理念」は結局は敗北するものではない。

「七生報国」の正成の語(ことば)は、結局は、「中心帰一理念」は全世界を支配する
ことになるのだということを顕わしている。

全宇宙は「中心帰一理念」に支配されているのである。
一勝一敗を契機として中心帰一理念を失ってはならないのである。

物質でさえ原子核が破壊されたら正体もなく飛び散るほかはないのである。
みずからの民族の中心を見失い、帰一すべき何物もなくなったとき、民族は崩壊するほかはない。

理念は永遠である。
理念さえ失わねば形には幾変遷あろうとも、またもとの姿があらわれて来るのである。

         <感謝合掌 平成25年5月30日 頓首再拝>

桜井の別れ (8924)
日時:2013年06月02日 (日) 07時42分
名前:伝統

「桜井の訣別」の歌

落合直文 作詞 奥山朝恭 作曲 明治36年


楠公の歌〜櫻井の訣別〜   (1〜6)
http://www.youtube.com/watch?v=U8yjnEu0QJY

フォレスタ 桜井の訣別   (1〜3、6)
http://www.youtube.com/watch?v=ACgKugQSNSg


−桜井の訣別−

1.青葉茂れる桜井の  里のわたりの夕まぐれ
  木(こ)の下陰に駒とめて  世の行く末をつくづくと
  忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に  散るは涙かはた露か

2.正成(まさしげ)涙を打ち払い  我が子正行(まさつら)呼び寄せて
  父は兵庫に赴かん  彼方(かなた)の浦にて討ち死せん
  汝(いまし)はここまで来つれども  とくとく帰れ故郷へ

3.父上いかにのたもうも  見捨てまつりてわれ一人
  いかで帰らん帰られん  この正行は年こそは
  未だ若けれ諸(もろ)ともに  御供(おんとも)仕えん死出の旅

4.汝をここより帰さんは  我が私の為ならず
  おのれ討死為さんには  世は尊氏の儘(まま)ならん
  早く生い立ち大君(おおきみ)に  仕えまつれよ国の為

5.この一刀(ひとふり)は往(い)にし年  君の賜いしものなるぞ
  この世の別れの形見にと  汝(いまし)にこれを贈りてん
  行けよ正行故郷へ  老いたる母の待ちまさん

6.共に見送り見返りて  別れを惜しむ折からに
  またも降りくる五月雨の  空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
  誰か哀れと聞かざらん  あわれ血に泣くその声を


−敵軍襲来−

7.遠く沖べを見渡せば  浮かべる舟のその数は
  幾千万とも白波の  此方(こなた)をさして寄せて来ぬ
  陸(くが)はいかにと眺むれば  味方は早くも破られて

8.須磨と明石の浦づたい  敵の旗のみ打ちなびく
  吹く松風か白波か  よせくる波か松風か
  響き響きて聞ゆなり  つづみの音に鬨(とき)の声


−湊川の奮戦−

9.いかに正季(まさすえ)われわれの  命捨つべき時は来ぬ
  死す時死なでながらえば  死するに勝る恥あらん
  太刀の折れなんそれまでは  敵のことごと一方(かたえ)より

10.斬りてすてなん屠(ほう)りてん  進めすすめと言い言いて
  駆け入るさまの勇ましや  右より敵の寄せくるは
  左の方(かた)へと薙(な)ぎ払い  左の方より寄せくるは

11.右の方へと薙ぎ払う  前よりよするその敵も
  後ろよりするその敵も  見ては遁(のが)さじ遁さじと
  奮いたたかう右ひだり  とびくる矢数は雨あられ

12.君の御為(みため)と昨日今日  数多の敵に当たりしが
  時いたらぬをいかにせん  心ばかりははやれども
  刃(やいば)は折れぬ矢はつきぬ  馬もたおれぬ兵士(つわもの)も

13.かしこの家にたどりゆき  共に腹をば切りなんと
  刀を杖に立ちあがる  身には数多の痛矢串(いたやぐし)
  戸をおしあけて内に入り  共に鎧の紐とけば

14.緋おどしならぬくれないの  血潮したたる小手の上
  心残りはあらずやと  兄のことばに弟は
  これみなかねての覚悟なり  何か嘆かん今さらに

15.さはいえ悔し願わくは  七度(ななたび)この世に生まれ来て
  憎き敵をば滅ぼさん  さなりさなりとうなづきて
  水泡(みなわ)ときえし兄弟(はらから)の  心も清き湊川



<参考Web:”山ちゃん1952 さま”のブログ>

  @楠公の歌
   http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201208090000/comment/write/

  A桜井の駅
   http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/200809090005/

         <感謝合掌 平成25年6月2日 頓首再拝>

湊川神社建立 (8995)
日時:2013年06月04日 (火) 04時25分
名前:伝統


(1)元禄5年(1692年)水戸光圀公(みとみつくにこう)(義公)はそのお墓に
   「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を立てられ、御墓所を立派に建立されました。

   この御墓所が建立なるや、さらに多くの人々が墓前にお参りし、
   正成公を偲びその御遺徳(ごいとく)をたたえました。

(2)明治維新の前後には、新しい日本の国づくりを願ったたくさんの志士達が墓前に詣でつつ
   国事(こくじ)に奔走(ほんそう)しました。

   これにより正成公景仰(けいぎょう)の気運がいよいよ高まると共に、
   幕末から維新にかけて正成公の御神霊(ごしんれい)を奉斎したいという国民運動が
   盛んになりました。

     ・・・・・

     明治3年(1870)に、維新直後の日本を観察したグリフィスというアメリカ人が、
     いろいろな日本人に「尊敬する歴史上の人物」を尋ねたところ、
     誰もが楠木正成の名をあげたという記録がある。

     明治3年といえば義務教育制度施行以前の話であって、
     国家権力が自分たちに都合のいい楠木正成像を押しつけていたということはありえない。
  
     既に維新以前に楠木正成的な生き方の理想化が浸透しており、
     まさにそのために維新の志士が生れたと言えるのである。

     ・・・・・

(3)明治元年(1868年)4月、明治天皇は正成公の忠義を後世に伝えるため、
   神社創祀の御沙汰書を下されました。

   こうして明治2年(1869年)、御墓所・殉節地を含む7,232坪(現在7,666坪)を境内地と
   定められ、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建(そうけん)されたのです。


(4)『明治天皇御製・湊川懐古』

   【 あだ波を ふせぎし人は みなと川 神となりてぞ 世を守るらむ 】

         <感謝合掌 平成25年6月4日 頓首再拝>

西郷隆盛と楠木正成 (9036)
日時:2013年06月05日 (水) 04時56分
名前:伝統


(1)「楠公の墓」〜「七生報国」の精神

   幕末の当時は徳川光圀が湊川に楠木正成の墓碑を立て、
   その墓碑に「嗚呼忠臣楠子之墓」ときざまれた墓石だけがありました。
   湊川神社は創建されていませんでした。

   その墓碑に西国大名が参勤交代の際には拝み、坂本龍馬など幕末志士も拝礼しました。
   その石には、楠木正成の怨念にも近いはげしい最期の一念「七生報国」の
   神州正気の精が留まっています。

    <参考Web>
     @「嗚呼忠臣楠子之墓」
       http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edomin/edomin.cgi/kihu/_tC05xiS.html
     A楠公碑陰記
       http://www.geocities.jp/sybrma/208syusyunsui.nankouhiinki.htm
     A嗚呼忠臣楠子の墓
       http://marute.co.jp/~hiroaki/kansi_syuu/kansi_syuu-02/nansi_haka.htm
      

(2)西郷隆盛も楠木正成を尊敬し、「七生報国」の精神を学び志を励ました人物です。
   その思いは、以下の西郷隆盛の漢詩「楠公の図に題す」に表現されております。


   【楠公題図】          楠公の図に題す

   奇策明籌不可謨。  きさくの、めいちゅう、はかるべからず
   正勤王事是真儒。  まさに、おうじに、つとむる、これ、しんじゅ

   懐君一子七生語。  おもう、きみが、いっし、しちしょうの、ご
   抱此忠魂今在無。  この、ちゅうこんを、いだくもの、いまありや、なしや

   (意訳)

   作戦は奇抜で戦略に明るい、そうした楠公の大きさは常人には測りがたい。
   しかも、ひとえに天子の為に力を尽くす、これこそ真の儒者といえる。

   楠公兄弟が死に臨んで、 「七たび生まれかわっても朝廷に尽くそう」
   と語ったことが偲ばれる。
   これほどの忠心をいだいているものが、今の世にいるだろうか。


    *生長の家“本流宣言”掲示板内のスレッド「西郷隆盛 (4625)」
     記事〜西郷隆盛の「死生観」 (6446) <日時:2012年01月31日>より
     ( http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=970 )

         <感謝合掌 平成25年6月5日 頓首再拝>

坂本龍馬と楠木正成 (9090)
日時:2013年06月07日 (金) 04時55分
名前:伝統

(1)湊川神社は楠木正成を祭った神社で、神戸では「楠公さん」と呼ばれて親しまれている。
   龍馬が生きた時代、正成が後醍醐天皇に忠誠を尽した話は、正成と同じく天皇中心の
   政治を志した勤王志士たちの注目を集めていた。

   維新前では、湊川神社は建立されておりませんが、多くの勤王志士たちが
   「嗚呼忠臣楠子之墓」と正成公の墓碑を訪れ、天皇への忠節を誓ったと言われている。

(2)龍馬も海軍操練所から徒歩で30分程のこの場所を訪れたようで、
   「湊川にて」と題した この和歌を詠んだ。

   湊川にて

     月と日の むかしをしのぶ 湊川 流れて清き 菊の下水

   (大意)

    湊川にいると、日月の紋章がはためいていた時代がしのばれる。
    月日はながれても菊水の故事のごとくいにしえに清い楠木正成の忠誠心よ。

    *月と日
     正成生きた当時、日月紋が天皇家の紋として使用されていた。
     年月・歳月・光陰を意味すると同時に、
     日月の紋章をもつ官軍の象徴「錦の御旗」を暗示する。

    *菊の紋章
     古くは「日月紋」が皇室の紋章でしたが、現在では、御大喪や即位礼で
     日像纛旛(にっしょうとうばん)、月像纛旛(げっしょうとうばん)と呼ばれる幟に
     用いるくらいで、皇室の紋という意識は薄れています。

     今では、天皇の紋章としては菊花紋となっております。
     これは、鎌倉時代(初期)に後鳥羽上皇が好んで菊花紋を用いられ、
     それが後代の天皇に引き継がれたために皇室の紋章として定着していきました。

    *菊の下水
     菊水は、我が国古典でも長命や長寿をもたらす延命水を意味すると共に、
     楠木家の家紋を暗示する。
     後醍醐天皇から菊紋の使用をゆるされた楠木正成は、
     そのままでは畏れおおいとして菊水紋を用いた。


   <参考Web:「生長の家“本流宣言”掲示板」内>

    (1)坂本龍馬と楠木正成 (2733)
          → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=532

    (2)「正成一人生きて在りと聞こし召され候はば…」 (2404)
          → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=474

         <感謝合掌 平成25年6月7日 頓首再拝>  

吉田松陰と楠木正成 (9186)
日時:2013年06月11日 (火) 06時13分
名前:伝統


        *Web:「サイタニのブログ(2011/9/25(日)」より

《生きつづける心》

嘉永(かえい)四年(一八五一年)若き日の吉田松陰は江戸への旅の途中、
生まれて初めて楠木正成公のお墓に詣でたのでした。

常に 天皇陛下を守るため命をかけて戦いぬいた、この勇猛果敢な武将を、
これまでどれ程慕い、尊敬してきたことでしょう。

今、その人のお墓の前に立ち、松陰は胸があつくなるのを止めることができませんでした。

今、松陰は目の前にはっきりと、千早城にこもり、
全国の幕府軍を相手に戦った楠木正成の戦を思い描くことができたのです。

……………………

「大変だぁ!赤坂城が落ちた!」

時は元弘三年(一三三三年)の冬、松陰の時代より約五百年昔です。
ここ千早城は、下から攻め登るのは大変です。しかし 天皇陛下側について兵を
挙げた楠木正成を討つため、全国の幕府軍が城のまわりを取り囲んでいました。
赤坂城は正成のもう1つの城です。

そこへ正成がやって来ました。

「あ、お館様!赤坂城が落ちたというのは…」
「本当じゃ。だが、この千早城は落ちぬ。」
「しかし、まわりは敵ばかりじゃ」

「確かに敵の数は多い。だが、ほとんどが仕方なく幕府についている者達じゃ。
帝(天皇陛下)をお守りするために兵を挙げた我らが、ずっと持ちこたえれば、
必ず 帝(みかど)側について兵を挙げる武将がたくさん出る。」

「すると、どうなるのじゃ!?」

「世の中が、ひっくり返る!」

兵達の顔に赤みがさし、目が輝き始めました。
おれ達がここでふんばれば、世の中が変るかもしれないのか…!、


正成が言いました。

「よいか!この城は、どんなことがあっても落とさせぬ!敵の数を見て気をのまれてはならぬ。
この城を支えるのは、一人一人の気力と心じゃ。我らが楠木一党は、身命を賭して(命をかけて)
帝のお心にお応え申し上げる!」

「おおー!」

正成は鎌倉時代の終わり頃、河内の国(大阪府)の赤坂水分(あかさかみくまり)
の里にある楠木館(くすのきやかた)に生まれた。

父はこのあたり一帯を治める豪族で、多聞丸(正成)をりっぱな楠木一族の跡取りにするため、
歓心寺というお寺で学問をさせ、幼い時から武芸を習わせ、又、戦の仕方の学問を学ばせた。

多聞丸は聡明な少年に成長し村では「知恵の多聞さま」と呼ばれた。

正成が楠木一族を率いるようになると、自ら村々や市を見て回り、良い事をした者にはほうびを
与え、悪い事は厳しく取りしまったので、村々はよく治まり、市も大変盛んになりました。
人々からは「楠木のお館様」と呼ばれて慕われるようになりました。

しかしこの時、日本の国全体では、人々の生活は豊かではありません。
国の政治を行っていた鎌倉幕府の北条氏は、自分が楽しむことにばかりお金を使い、
政治をなおざりにしたために世の中が乱れていたのです。


幕府軍のどのような攻撃にも千早城は屈することはありませんでした。
楠木一党の結束は固く、わずか千に満たない兵力で何万という幕府軍を相手に戦いぬいたたのです。

…………………

ふと松陰は我にかえりました。すでに夕日が雲のふちを金色に染めておりました。

「正成公……あなたの体は滅びても、あなたが命をかけて 帝をお守りした、
その深い忠義の心は五百年の時をこえ、私しの中に生き続けている。

これまで、どれ程多くの者達があなたの生き方に心打たれ、心奮い立たせたことだろうか。
私も……もあなたの心を己が(自分の)心とし、この国を守るため……命をかける!」

熱い涙が、とめどなく流れました。


この言葉どおり、後に松陰は、日本の国を守るため命をかけることになるのです。

        (「楠木正成」後藤久子著より抜粋 )

         <感謝合掌 平成25年6月11日 頓首再拝>

楠公父子の御遺詠といわれている和歌 (9198)
日時:2013年06月12日 (水) 04時05分
名前:伝統


 楠木正成(くすのき まさしげ)公

 【久方の 天津朝廷(あまつみかど)の 安かれと 祈るは國の 水分(みくまり)の神】

 【身の為に 君を思ふも ふた心 きみのためにと 身をもおもはで】


 楠木正行(くすのき まさつら)公

 【返らじと 兼(かね)て思へば 梓弓(あづさゆみ) なき数にいる 名をぞとゞむる】

   (http://ameblo.jp/meiseisha/theme-10013096776.html より)

         <感謝合掌 平成25年6月12日 頓首再拝>

軍神・杉本五郎中佐と楠木正成 (9220)
日時:2013年06月13日 (木) 04時42分
名前:伝統

    *「生長の家“本流宣言”掲示板」内
      ”天皇一元〜『大義』(軍神・杉本五郎中佐遺著)”より

・・・

      *「大義」第一章 天皇 (981) より抜粋

   天皇の御前には自己は無なり。
   君民一如の自己尊きにあらず。自己に體現せられたる 天皇の尊きなり。

   天皇への修養即ち 忠は、飽く迄も 天皇其れ自體のためならざるべからず。
   悉皆無所得 悉皆無所得、 天皇は人生のためのものにあらず、
   人生、 天皇のためのものなり。


   大楠公の歌へる

       身のために君を思ふは二心  君のためには身をも思はじ

・・・

      *「大義」第四章  神国の大理想 (984)より抜粋

   換言すれば、其の程度に厚薄深浅はあれ、万人万古  天皇を仰ぎ奉るに到ること明白なり。

   否々、大楠公の笠置山に於ける「正成一人だに生きてありと聞召さば、
   聖運必ず開かるべしと思召し候へ」と
   奏上せることを思へ。一人にて沢山なり。
   一人だに大透徹しあらば、心火に依り悉皆焼了し終らんのみ。

・・・

       *「大義」第八章  七生滅賊 より抜粋

   深く内省して胸中の賊を把握せよ。
   日夜心中を奔馳するものは強賊高氏(きょうぞくたかうじ)にして、
   大楠公は常に戦死しつゝある悲しむべき胸奥を凝視せよ。


(解説)

(1)七生滅賊

  @大楠公の忠烈無比の精神

  A維新の精神

  B軍神・杉本五郎中佐は、この大楠公のただ忠誠あるのみでその絶対無視の
   自己犠牲の極致ともいうべき精神・行動を深く敬慕し、自らもその境地に
   達するようにいろいろ修行を重ねられました。

(2)そして、かつて足利高氏のような自己ないし一門の利益・権勢の確保のため
   最も大事な忠義を忘れてしまった人にはならないように、平素からの反省・努力を
   怠ってはならないと、この章で述べられているのです。

・・・

        *「大義」第十章 第一等の人物 より抜粋

   時流に逆らひ、権勢と闘ひ、大義顕揚に驀進したる此等忠烈の大士は、
   正に當代随一の大危險人物と目せられんこと必せり。

   回顧せよ、如何に冷酷且薄幸の運命に飜弄せられたるか、
   如何に仇敵の如く追放・處断・迫害を受け、甚しきは九族滅殄(めってん)せられたるか。

   誠に大楠公を以てして、尚且三百年間逆賊なり。
   「先覺憂世の士は、生きては刑戮(けいりく)に遭ひ、死しては萬人敬慕して神に祀る」と、
   古人はいみじくも道破しつるもの哉。

   時の古今、洋の東西を問はず、悉く然らずや。

             ・・・

   即ち天下第一等の此の聖者は

   (一) 全智全能尊皇絶對そのものなり。従て

   (二) 忠姦(ちゅうかん)を峻別し得る明敏なる洞察力を発揮して時流を看破して
       神勅のまにまに 神國を富岳の安きに置かんと欲して

   (三) 天皇の外天下何物も恐れざる絶大なる断行力を發現し、
       一閃乱麻を断ち、以て

   (四) 皇運を無窮に扶翼し、 皇業を四海に宣布し、八紘一宇の 神勅を
       此の土に建立せんとする組織的にて且高邁なる神識神慮を具有す。

   尊皇は絶對なり、他の三者は自然に流露する作用り。

   吾人未だ尊皇に絶對なり得ざるが故に、洞察力を欠き、断行力に乏しく、
   高邁なる神慮湧出せず。

   眞に此の四者を兼ね備へたる天下第一等の人物は、古今を通じ蓋し
   大楠公唯一人か。

・・・

       *「大義」第十一章 維 新〜その3 (2232)より

     吾子には散れと教へて己れ先づ

           嵐に向ふ櫻井の里

   大楠公の偉大なる一(いつ)に茲の所たり。


   「父なき後は必ず高氏の天下だ、其の節汝が自己の一身を全くせんと欲し、
   禍福を計較(けいかく)して利に嚮(むか)ひ、大義を忘れて我家多年の忠節を失ひ、
   以て彼に隷属し、我が祖先の名を辱め汚すが如き行為があつてはならぬ、

   我汝を此の世に留め置くは親子の情に絆(ほだ)され、汝を不便に思つてのことに非ず、
   唯々 大君のために滅賊のために汝を残すのだ」と。

   擧世悉く魔賊たりとも、正道を踏んで不退轉、
   最愛の吾子をも此の荊棘(けいきょく)の難道を歩ましめんとする大楠公の大愛大悲、
   親子(しんし)相傳以て朝敵を滅せんとす。

   而かも死に臨むや、七生滅賊を末期の一句となす。

   釈氏によれば、「罪業深き惡念に似たれども」と詳知しながら、敢て此の辞世の一句をものす。
   嗚呼、壮烈殉皇の義心、一點私心あるものゝ企て及ぶ所に非ず。

   楠公逝いて六百年、今何處にか其の生を受く、誰人か其の衣鉢を繼ぐ。

・・・

       *「大義」第二十章 死生観 より抜粋

大楠公に過ぎたる佛なく、和気公に勝りたるの菩薩なし。
酔生百年夢死千年の後(のち)なるも、此の人長生の人とは言ふを得ず、生ける屍に過ぎず。
形骸は短命なるも、永く人心を支配し、後世を感憤(かんぷん)善導するあり。

小楠公・景岳・松陰の諸公等殉皇の傑士は、皆長生不死の神なり。
死は一切の束縛より脱却せる境地なるも、凡傑両者隔絶すること天地遥かなり。
殉皇の士は、不死永生、真に無生死の神佛と謂ふべし。

宗教は無執着・無生死の人を造るを以て其の眞生命となす。

    ( http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=227 )

         <感謝合掌 平成25年6月13日 頓首再拝>

大楠公精神を継いでゆけ (9233)
日時:2013年06月14日 (金) 04時57分
名前:伝統


         *Web:皇国史観研究会 より

我が国の歴史を顧みたとき、神武天皇建国、大東亜戦争に比肩すべきまでに、
歴史に大きな影響を与えた第一等の人物こそ大楠公であり、
まさにサムライの鑑、日本人の誇るべき大英雄であると思う。

御親政を目指された後醍醐天皇を、御助けし奉り、北条幕府専横、四面朝敵の時代にあって、
敢然と蹶起し、孤軍奮闘、忠義に生命を捧げ切った武将が大楠公である。

大楠公は後醍醐天皇より、どうすれば専制的な幕府を倒し、よい世がつくれるかと聞かれ、
次のように奉答している。

「戦の習にて候へば、一旦の勝負をば、必ずしも御覧ぜらる可からず。
正成一人、未だ生きてありと聞召され候はば、聖運遂に開かるべしと思食され候へ」

後醍醐天皇を前にして、自分一人が生きていれば大丈夫だとの、この大自信と忠義の誠。
これが大楠公だ。

この後、大楠公は赤坂城で挙兵し、幕府軍を相手に持久戦で善戦するが、形勢が不利になると
大楠公は雨の夜に城に火をつけて密かに脱出。幕府軍は大楠公が死んだと思い引き上げる。

しかし翌年、大楠公は再び挙兵し、縦横無尽の奇抜なゲリラ戦術で幕府軍を翻弄した。
こうした優れて新しい戦法は、後世に「楠木流兵学」として広く伝えられた程である。

この大楠公の戦いに勇気づけられ、幕府打倒の動きは全国に広がり、
元弘三年五月に鎌倉幕府は滅亡した。

そして、天皇親政による平和な世が訪れたかに見えたが、足利高氏が反乱を起こし、
九州から京に攻め上がった。

大楠公はこれを京都に入れ、包囲して討とうとしたが、
朝廷はこの案を拒み、迎え撃つように命じた。

大楠公は戦のプロである。失敗すると知っていると。
しかし一度命令が出たならば、それに従い兵庫に向かう。

途中、桜井の駅で十一歳の息子正行に

「父亡き後は必ず高氏の天下だ。その時、大義を忘れ、我家多年の忠節を失う様なことが
あってはならない。汝をこの世に留め置くのは親子の情にほだされ、汝を不憫に思ってではない。
唯々大君のために、滅賊のために汝を残すのだ」

と語って、今生の別れを済ませた。


    【吾子には 散れと教へて 己れ先づ 嵐に向ふ 桜井の里】
                 

大楠公と弟の正季は七百人の兵を率いて湊川へ。一方の足利高氏側は数十万とも言われた。
まさに一身万軍に当るだ。これだけの戦力差でありながら、正成は6時間あまり戦ったが、
ついに兵も約七十人になってしまった。

民家に立て篭り最期を迎える際に、大楠公は正季に「生まれ変わったらどうしたい」と聞いた。

正季が「七度生まれて、賊を滅ぼしたい」すなわち「七生滅賊」と答えたのを聞き、
「自分も同じ考えである」と言って刺し違えて自決した。大楠公四十二歳。
それが延元元年五月二十五日、大楠公が湊川に散られた日である。


日本の歴史をふりかえると、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった華々しい英雄達がいるが、
彼らはあくまでも自分と一族郎党のために、権謀術数をめぐらせた人間であり、
私利私欲の実現に武士道の味付けをした人間に過ぎない。

大楠公の偉大な所は、尊皇絶対の信念のもとに、何ものをも求める事なく、
自らの生命と一族挙げて忠義の道に殉じて行ったところにある。

のちに湊川に水戸光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻まれた石碑を建てた。

そこには西郷隆盛、吉田松陰といった幕末の維新者達が続々と参り、大楠公の精神を継承し、
賊を滅ぼし、維新の戦いを貫徹することを誓願していったのである。

そう考えると、大楠公の魂は「七生」のみならず、
何度も何度も、何百人、何千人の肉体を借りて生まれ変わり続けているのである。

そして、明治維新の原点とは、実に湊川に大楠公の肉体が滅した瞬間から生じた
とも言えるのである。

大楠公精神とはすなわち維新の精神である。
我々もかくの如き大楠公精神をしっかりと魂に受け継いで行かねばならない。

     ( http://shikisima.exblog.jp/5457324/ )

         <感謝合掌 平成25年6月14日 頓首再拝>

皆さん一人一人の中に楠正成公の‘いのち’が生きている (9256)
日時:2013年06月15日 (土) 04時14分
名前:伝統

”童子 さま”により、「谷口雅春先生をお慕いする掲示板」において、
谷口雅春先生の講演録『いのちの道』が掲載されております。

その要点を以下に紹介いたします。
詳細については、次のWebアドレスにてご確認をお願いいたします。
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=56


(湊川出陣直前の、大楠公と楚俊禅師との問答)

大楠公: 『生■交謝の時如何』
      (生と■とが交替する時にはどうなるのですか、その時の覚悟を聞かして下さい)


楚俊禅師:『両頭倶に截断すれば一剣天に倚って寒し』
       (生も■も両方とも一刀両断にスパリと切ってしまえば生も■もないのだ)


大楠公: (そこで) 『落処如何?』 
     (落着く処はどこですか。首を切ったり両方の頭を切ったら、どこに落着くのですか、
      落着くところはどこですかと云う意味で、『落処いかん』 と問われた)

楚俊禅師:(そしたら) 『喝!』 (と楚俊禅師は一喝。)

  ・・・・

谷口雅春先生のご解説

(1)■と生とが交代する時どうなるかなんて ―― そんなことを考える必要はない。 
   ずっと生れぬ前から生き通しているのが吾々の‘いのち’であります。

(2)■ぬとか生きるとか、そういう両(ふた)つの頭をみんなちよん切ってしまったら、
   そしたら生以前の『生』、■の後(のち)までも続いているその『生』
   があるのであります。

(3)天地を貫くところの一剣、それは 天皇の大御‘いのち’であります。  
   天皇の大御‘ことのり’、宇宙を貫く真理のみがあるのであります。

(4)正成公は、湊川出陣したら必ず■ぬということは、よく分っておったのであります。
   分っておったけれども、楠正成公は決して”天皇の大勅(おほみことのり)”に背く
   という事はしない、唯 『ハイ』 の心であります。 

   『ハイ』 の心というものが日本精神であります。 
   日本精神は無我の精神、何もないところの精神であります。

(5)吾々は天之御中主神様の、宇宙大生命の‘いのち’を宿している。 
   天之御中主神様と天照大御神様と 天皇様とは御一体であらせられますから、
   その 天皇の大御勅のまにまに、そこに■するという時に、

   吾々は個人を超え、生■を超えて天地を貫く大御勅と倶に生きて行くと云う事になる
   のであります。

(6)正成公は、楚俊禅師に『喝!』と、一喝され、その時釈然と真理が分った。 

   ■んで消えるような『我(われ)』でないのだ、吾々の‘いのち’を
   天皇の大御‘いのち’に帰一する時宇宙を貫いている真理が大御‘いのち’が
   私の‘いのち’なんだ、という事が本当に分ったのであります。

(7)楠正成公は、『七度生れて国の為に報ぜん』 斯ういう風に被仰った。 
   七度(ななたび)生れてというのは七回のことでない。 
   七つは完成の数であって永遠に生きているという事であります。 

   永遠に生きておって、そしてみ国の為に私は■なないのであると自覚せられた。 

(8)今や日本の国に無数の楠正成公がいらっしゃるのであります。 
   皆さん一人一人の中に楠正成公の‘いのち’が生きているのであります。

   大楠公の宇宙の大御‘いのち’と一つになったところの生命(いのち)は今生きておって
   そして吾々の中に働いている。 

   第一線に於てなくなられた人々の魂は、大楠公の魂と一つのものである。
   『愛』 というのは互に一つだという自覚であります。

(9)吾々は大楠公のことを思うと涙が自ら出て来る。 
   皆さんの目から熱き涙が溢れ出るのは、もう悲しみの涙ではないと思うのであります。 
   それはきっと喜びの涙である。 

   喜びを超えて宇宙と倶に生きているところの涙であると私は思うのであります。

         <感謝合掌 平成25年6月15日 頓首再拝>



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