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キリストも釈迦も喇叭(天の使者) (9568)
日時:2013年06月30日 (日) 05時01分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇上 第三十七巻』<6月30日>(P180)より

キリストは父であるか。
キリストは父ではない。
キリストは父の子であり使者(つかい)である。

使者(つかい)は父が言いつけられた仕事をなし、その仕事の結果を父に奉るのである。
だから業(わざ)の上では父の業(わざ)をなすのであり、
教えの上では喇叭であり、結果は父に奉献せられる。

「たといわれを信ぜずとも、その業(わざ)を信ぜよ」(ヨハネ伝第十章三十八節)とは、
使者(つかい)を信じなくとも使者(つかい)がもたらした仕事と用向きを信ぜよというのである。

使者(つかい)みずからは、たとい価値無きものであるといえども将軍家の上使(じょうし)で
あるといえば、将軍家の権威をもって臨むがごときものである。

「キリストはもろもろの権能、権威、権力を亡ぼして国を父なる神に付(わた)し給うべし」
(「コリント前書」第十五章ニ十四節)
「子もまたみずから万(よろず)の物を己に服(したが)わせ給いし者に服(したが)わん」
(同ニ十八節)

これはパウロの言(ことば)であるが、ここにキリストの役目がハッキリ現われているように思う。
キリストは主ではなく、みずからの纏めた業績を「父なる神に付(わた)し」かつ
「みずから、万の物を己に服(したが)わせ給いし者に服(したが)わん」と言っているのである。

治めるのがキリストの役目ではなく、服従するのがキリストの役目であったのである。

「キリストの黙示」であるとしてか慣れている「ヨハネ黙示録」に、その黙示を伝えたキリストと
認められる霊姿の前にヨハネが平伏して拝せんとしたとき、その霊姿は次のごとく言ったのである。

「これらのことを聞き、かつ見し者は我ヨハネなり。かくて見聞きせしとき我これらのことを
示したる御使いの足下(あしもと)に平伏して拝せんとせしに『つつしみて然(し)か為(す)な、
われは汝および汝の兄弟たる預言者、またこの書(ふみ)の言(ことば)を守る者と等しき僕(しも
べ)たるなり、なんじ神を拝せよ』」と言っている。

「これらのことを示したる御使い」とは、「黙示録」冒頭の「これイエス・キリストの黙示なり」
に対応して、イエス・キリストの霊姿であること明らかである。

するとキリスト自身はみずから「僕(しもべ)」だと言って「王」だと言っていないのである。
しかも続いてその霊姿の言う言葉に、「吾はアルファなり、オメガなり、最後(いやはて)なり、
始めなり、終わりなり・・・」(「黙示録」第一章一節以下および二十二章十三節)とあるので、

ふたたびこの章の黙示者たるキリストが「始めなり、終わりなる」ところの本源の神だと解され
そうになるのであるが、この矛盾は、キリストが使者(つかい)であり「始めなり、終わりなる
大神」の言葉を取り次いでいる者であることがわかれば、

使者(つかい)はメッセンジャーであるから、使者(つかい)の口上には使者(つかい)を
つかわし給うた大神(おおかみ)の言葉を写(うつ)し伝えるのは明らかである。

しかし「使者(つかい)」そのものを「神」として拝しようとすると、「つつしみて然(し)か
為(す)な、われは汝および汝の兄弟たる預言者、またこの書(ふみ)の言(ことば)を守る者
と等しく僕(しもべ)たるなり」とメッセンジャーは答えるしか仕方がないのである。

イエス・キリストも、釈迦も、ともに本源の大神から使わされた使者(つかい)であり、
その教えは宇宙の大本源の大神の教えを伝えたのであるから、

釈迦の衆生救済の御心(みこころ)、キリストの万民救拯(ばんみんきゅうじょう)の御心は
いずれも天地の大神の御心である。そこに三教合一の鍵がある。

         <感謝合掌 平成25年6月30日 頓首再拝>

私(谷口雅春)は喇叭、【内在の光】を尊敬せよ (10383)
日時:2013年08月05日 (月) 04時36分
名前:伝統


        *『光明道中記』(P42) より

【自己内在の光】

吾々の『生長の家』は毎号、諸君自身の内に宿る力を指示するために発行されるのである。

他に依頼心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫へ幸いに振向く人は救われるであろう。

救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在(あ)り所(か)を指示するだけである。

吾々の光明思想になった結果病気が治ると云うのも、
諸君自身がそう云う思想になった結果であってわたしはただ指(ゆびさ)すのみである。

文章の力による指し方は可也り上手であるので、
文章の力で病気を治したとも謂い得るが、
精(くわ)しく言えば文章の力は、よく諸君の心を振向けただけである。

そこに自己内在の無限の力を見出すのは
諸君自身の力であって私の力ではないのである。

光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。

指を月と間違え私の書いた符号を本物と間違える者は
実相を見ることが出来ないでああろう。

私はただ諸君を振向かすために文章で叫ぶだけに過ぎないのである。

私を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたい。

            <感謝合掌 平成25年8月5日 頓首再拝>



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