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勇志国際高校の挑戦 (10130)
日時:2013年07月25日 (木) 21時14分
名前:伝統

熊本県にある「勇志国際高校」の教育について紹介して参ります。

「勇志国際高校」→(http://www.yushi-kokusai.jp/info/



《勇志国際高校の教育》

(1)勇志国際高校は道徳と日本の歴史を正しく学ぶことを柱として創立された学校です。

  @外国に於いて自国の歴史を知らないということは不思議なことと思われるのです。
   ましてや自国の悪口を言う人などは尊敬される存在にはなりえません。
   それほど世界の常識として自国の歴史を正しく学ぶということは当然のことなのです

  B道徳とは一言で言うと品性のことです。

(2)勇志国際高校は、生徒の長所を伸ばす教育に徹している点が特徴です。

   今、多くの若者が「心の居場所」を失くして「孤独の闇の中」でもがき苦しんでいます。
   「心の居場所」とは、「自分の長所を認めてくれる人の存在」のことです。

   長所を認めてくれる人が一人でも存在するようになったら、
   「孤独の闇の中」から解放され、心は安心するのです。
 
   また、人は誰でも長所を認めてくれる人にしか心を開きません。



《勇志の心》〜勇志国際高等学校校訓

   国を愛し

   郷土を愛し

   人を愛する



《教育方針》

(1)親孝行する青年たれ

   感謝の気持ちは人を優しく大きい人間にします。
   まず、素直に親孝行のできる人になって下さい。

(2)志ある人間たれ

   目標のない人生は虚ろでとりとめがなく、淋しいものになります。
   初めに志ありきです。

(3)誇りある日本人たれ

   自分が生まれ、住んでいる国を愛する事は、とても大切です。
   勇志の生徒には誇りある日本人になってもらいます。

(4)役に立つ国民たれ

   21世紀を担う皆さんが、本当に役に立つ人間になることが
   自分達の国、世界をより良いものにしていく原動力なのです。

(5)尊敬される国際人たれ

   どんな分野でも構いません。世界に通用し、
   尊敬される人間になることを意識して身につけてもらいたいものです。

       (http://www.yushi-kokusai.jp/info/kyoukun.php

         <感謝合掌 平成25年7月25日 頓首再拝>

教育者は、聖職者である (10163)
日時:2013年07月27日 (土) 04時47分
名前:伝統

    *野田将晴(勇志国際高校校長)の著「教育者は、聖職者である。」からの紹介です。

本書の概要(目次より)

  第1章 教育者は、聖職者である。

  第2章 教育者は、自らを鍛錬し、生徒に対しては長所を伸ばす指導法を基本とする。

  第3章 教育者は、自己責任を行動原理とする。

  第4章 教育者は、学校の健全な発展に努める。

  第5章 教育者は、教育は国家百年の大計であると心得る。

  第6章 教育者は、生徒の教育を本位として行動する。

  第7章 教育者は、教育を通して利他の精神に基づく文化を創造する。

  第8章 教育者は、国を愛し郷土を愛し人を愛する。

  第9章 教育者は、正しい歴史観と国家観が教育の基本と認識する。

  第10章 教育者は、問題行動等に対しては、毅然とした態度で適切な指導を行う。

  終  章 一通の手紙


   ・・・(以下に、この書から一部を紹介いたします)

  不登校の生徒が立ち直って活動しているという番組を作りたいと、
  NHK熊本支局から学校に申し入れがあった。

  私は迷わず、3年生になっていた黒木太一君を紹介することにした。
  私は黒木太一の自宅に伺った。

  お母さんとおばあさんは、本人さえ良ければということだったので、太一と話した。

  「校長先生、昔の僕と同じように苦しんでいる人がまだ沢山いらっしゃると思います。
  そういう人たちに今の自分を見てもらうことでお役に立てるのなら、喜んで取材を受けます」
  と言うのだった。   

  今や彼は22歳の立派な社会人となって、家計を支えながら弟たちの面倒を見ている。


終章 一通の手紙

  この原稿を書き終えようとする頃、当校の7回目の卒業式(平成24年3月1日)があった。
   開校以来の卒業生の総数が1289名(平成24年2月)となった。

  当校は広域の通信制高校であるから、
  北は北海道から南は沖縄にいたる全国各地に在籍者がいる。

  したがって卒業式や入学式などは、近隣の生徒が出席し、
  遠隔地の生徒は、近くに学習センターがあればそこで参加するし、
  なければネットで参加するしかない。

  今年の84名は、今までで最も多かった。

  参列してくださった来賓の皆さん方からは、感動的な素晴らしい卒業式であったと
  嬉しい評価をいただいた。

  私は、卒業証書を授与しながら、卒業生一人ひとりが入学してきた時の状況を思い出し、
  見違えるほどたくましく立派になったその顔に、万感の思いがこみ上げてくるのを禁じえなかった。

  式が終了したあと、卒業生の高尾君兄弟のお父さんが、
  「あとで読んでください」
  と言って、一通の手紙を渡された。その一部を紹介する。


  厳しかった冬の寒さもようやく遠ざかり、いよいよ春も近いと思える気候になってまいりました。
  この度は、貴校にお世話になっておりました私どもの2人の息子がついに卒業の日を迎える事が
  できました。

  これも、校長先生はじめ、諸先生方の温かいご指導によるものと心より感謝いたしております。

  思えば、2人の息子たちが立て続けに不登校となり、勉強はおろか、机の前に座る事さえ
  できなくなり、二次障害として欝(うつ)にさえなってしまった時には、どこにも希望の光も
  見えず、暗澹(あんたん)とした日々の中に、私たち親までもが鬱屈(うっくつ)した精神状態
  になって本当に苦しい思いをいたしました。

  その後、当地の不登校児をもつ親の会に参加させていただき、多くの癒しと学びをえることが
  でき、私たちは徐々に気持ちを落ち着かせる事ができました。
  ただ、どうしても学校に行くことができない、何とか高校に入学しても、教室に行くことが
  できない子供たちをどのようにして立ち直りの道に導けばよいのか悩んでおりました。

  そのような時に、その親の会の、ある参加者の子供さんが貴校で学び、卒業されたことを知り、
  一縷の望みを抱いて子供達を貴校へ転校させたのです。

  当初、2年の後期に貴校に入学した兄は、ネット授業でさえなかなかまともに受けることが
  できず、結局2度目の2年生となりましたが、その後入校した弟と共に何とかレポートを
  遅れながらも出す事ができるようになりました。

  不安そうな顔で初めてのスクーリングに向かう船に乗り込むふたりを見送った際は、
  ちゃんと最後までスクーリングを受けることができるのだろうか? 
  途中で帰ってくるのではないだろうかと気をもんでおりましたが、

  そのような心配は杞憂に終わり、帰りの船から降り立った彼らの表情は、
  それまでに見たことも無いほどに精悍で、生き生きとしておりました。
  その顔を見たとき、やはり貴校を頼ったのは間違いではなかったと確信いたしました。

  3年になってからも、なかなか親が期待するようにはいかないものの、
  子供達の精神状態も随分と回復してまいりました。

  ――中略

  そして貴校に入学した時には、考える事もできなかったことですが、
  卒業後は2人で東京の専門学校にいくことになりました。

  このように子供達の立ち直りにおいて貴校が果たした役割はとても大きなものでした。
  貴校の存在を知らなければ子供達の今は果たしてあったでしょうか?

  くり返し何度感謝しても足りません。
 
  ――後略

  この兄弟の進路が決定するまでには、担任を中心とする進路指導担当の先生たちの、
  熱心な指導があったことは言うまでもない。

  ――後略

    平成24年3月2日 記

         <感謝合掌 平成25年7月27日 頓首再拝>

教育者は聖職者〜勇志国際高校の挑戦@ (10209)
日時:2013年07月28日 (日) 23時14分
名前:伝統

         *メルマガ「JOG-Mag(2013年06月30日 )」より

1.「スクーリングで何かあったのでしょうか」

  熊本県の離島の町、御所浦町の通信制高校・勇志国際高等学校の野田将晴 校長に、
  ある生徒の母親から電話がかかってきた。「スクーリングで何かあったのでしょうか」。

  その生徒、黒木太一は、勇志国際高校の開設とともに、
  最初に入学してきた114名のひとりであった。

  小学校4年から不登校になって家に引きこもっていた。
  人の顔をまともに見ることができす、人とのコミュニケーションがとれない。友達もいない。
  週2回、心療内科に通い、薬をたくさん飲まされていた。

  しかし、スクーリングから帰って、通院するたびに、先生は頭を傾げながら、
  薬を減らしていく。
  ついに「明日からもう来なくていい。薬も飲まなくていい」と言われたという。


  野田校長がスクーリングの経過を話すと、母親は電話の向こうで声をあげて泣きながら、
  「何年間も治療を受けて、薬をいくら飲んでも改善する気配もなかったあの子が、
  完全に治ったんです」と、何度も何度もお礼を言った。

  黒木はさらに2年生、3年生と進級するに従い、著しい成長を見せた。
  勇志高校で多くの不登校の生徒が立ち直っているというので、
  NHKがドキュメント番組を作りたいと申し入れてきた時、野田校長は黒木を紹介した。

  黒木はこう言った。

    __________

    校長先生、昔の僕と同じように苦しんでいる人がまだ沢山いらっしゃると思います。
    そういう人たちに今の自分を見てもらうことでお役に立てるなら、
    喜んで取材を受けます。

           <野田将晴・著『教育者は、聖職者である。』高木書房(p43)>

     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

2.千名以上の生徒の70〜80%が不登校経験者

  勇志国際高校は平成17(2005)年に「教育特区」として認定された御所浦町で広域通信制
  高等学校としてスタートした。開校当時の生徒数114名が、7年後には1千名を超える
  ほど入学希望者が押し寄せた。

  生徒の70〜80%が不登校経験者、あとは素行不良など元気が良すぎて、
  はみ出してきた生徒たちで、全体の8割ほどは他の高校からの転入学などである。
  また、いろいろな事情で高校を卒業できなかった社会人生徒もいる。

  生徒の学力レベルは千差万別なので、生徒一人ひとりに応じたカリキュラムを作成し、
  教師が指導計画を作って対応する。勉強はインターネットを使って自宅で行うが、
  不登校、引きこもりなど、一人ひとりの状況も違うので、教師がテレビ電話システムを
  利用して、生徒と1対1のコミュニケーションを図る。

  年に1回5日間の集中型スクーリングを行う。
  1回に40人から70人が集まり、宿泊は地元にある12軒の民宿だ。
  6畳の部屋に4人が雑魚寝する。

  ここで生徒たちは自分だけが不登校で悩んでいるのではない、と知り、
  同室の生徒間で友情が芽生える。

  教師も、年に1回しかない直接のコミュニケーションの機会に、一人ひとりの生徒と
  真剣に向き合う。

  こうして生徒一人ひとりへの個別対応ができるというのが、通信制高校の特長であり、
  野田校長はこれを「生徒本位」という方針で貫いている。


3.不登校の子供たちは「心の居場所」をなくしている

  多くの不登校の子供たちを受け入れて、野田校長はこう語る。

    __________

    不登校の子供達は、不登校になった原因やきっかけは様々である。
    しかし一様に昔元気に通学していた頃に戻りたいと、痛切に思っている。
    しかしどうしても学校にいけないのだ。

    不登校している自分が嫌で嫌で、自己嫌悪に陥っている。

    学校に行けたとしても、長い間登校していないから、
    先生はじめクラスの皆が不登校だと認識している。

    自宅でも、家族みんなが不登校である自分を、
    愚痴を言いながらも仕方なく受け入れている。

    周りの皆が、不登校であるという一番嫌な自分を認識していることが
    つらくてたまらないのだ。

    その結果、彼らは「心の居場所」をなくしている。
    学校はもとより家庭すらも心が安心できる居場所ではなくなっているのだ。

           <野田将晴・著『教育者は、聖職者である。』高木書房(p130)>
 
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  「生徒本位」に一人ひとりの子供たちを見ているからこそ、
  「心の居場所」をなくした不登校の子供たちの心を、ここまで理解できるのだろう。


教育者は聖職者〜勇志国際高校の挑戦A (10210)
日時:2013年07月28日 (日) 23時16分
名前:伝統

4.「校長先生、山がきれいですね」

  不登校の原因が「心の居場所」をなくしている事だとすれば、
  いかに彼らにそういう居場所を持たせるか、ということになる。

  黒木太一が勇気を出して、スクーリングにやってきた時、野田校長は暴れん坊で
  退学処分になって勇志高校に移ってきた今田良一と同じ部屋とした。

  今田が面談で、
  「俺、いっぱい悪いことをしてきたけど、弱い者いじめだけは絶対していないよ」
  と言ったことを覚えていたからだ。

  同室となった今田は黒木のことを何かと気をかけて、面倒を見てやった。
  それが黒木には嬉しくてたまらなかった。

  また家に引きこもっていたのとは正反対で、スクーリングでは朝7時に起床させられ、
  8時半から夜8時まで授業の連続。
  孤独に苦しむ日々が、仲間たちと一緒の充実感ある日々に変わった。

  スクーリングの最中、黒木がぽつんと一人で立っていた。
  野田校長は後ろから肩を叩いて「太一、どうした」と声をかけた。

  彼は振り向いて「校長先生、山がきれいですね」と言った。その顔が輝いていた。
  目はしっかり校長の目を見ている。
  黒木の心境に大きな変化があったな、と野田校長は感じた。

  スクーリングから帰った黒木は、冒頭で述べたように、急速な立ち直りを見せたのである。


5.「勇志高校の先生になりたい」

  その黒木は友達となった今田良一がまた警察沙汰を起こさないかと心配でならなかった。
  その心配は、彼らが3年生になった時に、現実となった。

  弟分のガールフレンドが他校の高校生にレイプされるという事件が起こり、
  今田はそのレイプ犯を呼び出し、問い詰めた。
  相手が「それがどうした」と開き直ったので、今田はそいつの横っ面を思いっきり
  平手でひっぱたいた。

  ひっぱたかれたレイプ犯の少年は、家に帰って、自分のやったことは棚に上げて
  母親に訴えたので、母親は「また、あの札付きの良一め」と警察に訴え出た。

  野田校長は今田を呼び出して、事情を聞いた。
  彼の話を聞くと、校長は感動して思わず今田を抱きしめ、「お前は男の中の男だ。
  俺が見込んだだけのことはある。お前のことは俺が守ってやるから心配するな」と言って、
  腕に力を込めた。

  「先生、苦しいから離してくれ」と言った時の今田の顔の輝きを
  野田校長は忘れることができない。

  翌朝、今田はそれまでの金髪を黒髪に戻して、
  「校長先生、俺大学に行こうと思います。今から間に合いますか」と聞く。
  「大丈夫、間に合うぞ。ところで大学に行って何になるんだ」と聞くと、
  「勇志高校の先生になりたい」と言う。野田校長はまた感動した。

  それから今田は人が変わったように勉強を始めた。
  今は23歳となり、結婚してもうすぐ長女が誕生する。

  勇志高校の先生になるという夢は果たせなかったが、
  物腰や話しぶりが穏やかになり、明るさと落ち着きも備わった。

  そして言う。「校長先生、僕は勇志に行かなかったら100%やくざになっていました」


6.利他心の発達が、他者との絆をもたらす

  黒木を立ち直らせたのは今田との友情であり、また今田を立ち直らせたのは、
  野田校長の「お前は男の中の男だ」という一言だった。
  人との絆の中で、子供たちは「心の居所」を見つけ、立ち直っていく。

  しかし人との絆を作るためには、人は他者への思いやりを持たなければならない。
  利己心だけの人間には、他者との心の絆を持てない。

  幼児は自分のことしか考えられない自己中心の時期を経て、
  やがて他者への思いやりを学び、他者のために尽くそうという「利他心」を育てていく。
  子供から大人への成長とは、利他心の発達に他ならない。

  不登校・引きこもり系も、ヤンチャ系も、自己中心的な幼児の段階に留まっていて、
  利他心が発達していないという点で、共通している。

  なぜ、彼らは利他心の発達障害に陥ったのか。
  野田校長はその原因を、戦後の人権教育にあるとする。

    __________

    利他心がまだ充分に育っていない子供達に「権利」という訳の分からない
    抽象概念を教えたらどうなるか。

    本能のままに、わがままに、自己中心的であることが権利であり、
    それが正義だと思ってしまう。

          <野田将晴・著『教育者は、聖職者である。』高木書房(p95)>

     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  そんな思い違いをした自己中心的な子供達ばかり集まったクラスは、
  弱肉強食のジャングルである。
  弱い子は孤立して不登校になり、強い子は暴力で他者を従えようとする。

  黒木太一や今田良一は、こういうクラスの中で、成長を阻まれた犠牲者であった。


教育者は聖職者〜勇志国際高校の挑戦B (10211)
日時:2013年07月28日 (日) 23時18分
名前:伝統

7.「教育者は聖職者である」

  「教師は労働者である」とは、日教組の「教師の倫理綱領」での規定である。
  教師は教育という「労働」を売って、その対価として、給料を受けとっていると捉える。

  マルクス主義の「労働者」であるから、今まで資本家階級に搾取され、
  自身の権利を階級闘争で勝ち取らなければならないという恨みが籠もっている。

  そこにあるのは利己心のみで、目の間の一人の子供と向き合い、どうやって
  その子を育てようか、という教師としての利他心は存在しない。

  「教師は労働者である」という捉え方を排して、
  野田校長は「教育者は聖職者である」と断言する。
  聖職者とは、自らの任務に使命感を持ち、それを自身の利益よりも優先する人々だ。

  それは利他心の発露そのものである。
  自衛官、警官、消防士は言うに及ばず、どんな職業でも、この姿勢さえ持っていれば
  聖職者なのだ。

  特に教育者は利他心を持って子供の成長を導き、
  また子供たちからその利他心を真似される存在でなければならない。

  黒田太一や今田良一を利他心のある立派な大人に成長させたのは、
  野田校長をはじめとする勇志高校の先生たちの利他心にほかならなかった。

教育者は聖職者〜勇志国際高校の挑戦C (10212)
日時:2013年07月28日 (日) 23時19分
名前:伝統

8.「日本人の利他心のルーツは天皇陛下の生き方そのものにある」

  生徒の利他心を育てるために、勇志高校では教師全員による総合学習で、皇室を取り上げる。
  今上陛下のご巡幸や大震災の被災者たちへのお見舞いを調べて、陛下の国民への想いを
  語る。

  若い教師たちにとっても初めての経験だが、
  校長の「授業の準備をする中で感じた『感動』を生徒と共有すれば良い」という言葉に
  後押しされて取り組む。国語科担当の三浦大樹教諭は、次のような感想を寄せている。

    __________

    私自身、事前学習で天皇陛下のことを知るにつれて、
    日本人の利他心のルーツは天皇陛下の生き方そのものにあるということを
    改めて実感しました。・・・

    総合学習で天皇陛下について教師全員が授業をするという当校の方針は、
    まず私たち教師が、事前の勉強をする中で天皇陛下の徳の高さに感動し、
    日本の国柄への認識を深めることができて、
    教育者としての使命感を一段と高めることができました。

          <野田将晴・著『教育者は、聖職者である。』高木書房(p194)>

     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  教師が自分の感動を語れば、それはすぐ生徒の心に響く。
  ある生徒は、こんな感想文を記している。

    __________

    天皇陛下は、常に国民の事を考え、自分を犠牲にして国民を助けようとするのは
    とても凄いことだと思いました。だから、われわれ国民も天皇陛下を尊敬している
    のだと思いました。

    自分も天皇陛下のように、人の為になるようなことをこれからしていきたい
    と思いました。

          <野田将晴・著『教育者は、聖職者である。』高木書房(p192)>

     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  国家統合の中心に、皇室という利他心の源泉を戴いているところに、我が国の国柄がある。
  戦後教育は、皇室の事を教えることを禁じ、それによって子供達が利他心を学び、
  立派な大人に成長する機会を奪ったのである。これ以上の「人権侵害」があるだろうか。

  そういう「戦後」に対して、野田校長は「震災後」を説く。
  戦後の「共同体からの個人の解放」に対して、
  震災後の生き方は「共同体への積極参加と貢献」だ。利己心から利他心への転換である。

  戦後教育で孤立し、不登校などで苦しんでいた子供たちは、
  共同体の中で「心の居場所」を得て、利他心を発達させ、立派な大人として成長していく。

  それは本人や家族の幸福のみならず、郷土や社会、国家にも貢献する。
  それを導く教育者こそ聖職者である。

         <感謝合掌 平成25年7月28日 頓首再拝>

「昭和天皇のマッカーサー元帥とのご会見」に見る究極の自己責任 (10340)
日時:2013年08月03日 (土) 04時42分
名前:伝統

(もう少しで終戦記念日ですが、
先日、現在、公開されている「終戦のエンペラー」を観て参りました。

 この映画の最後のほうで、昭和天皇とマッカーサー元帥とのご会見の場面もありましたが、
 相当脚色しておりました。

 次に、この場面の真のやりとりについて、以下に紹介しておきます)

・・・

       *野田将晴・著「教育者は、聖職者である。」(P71〜76)より


昭和20年8月15日、日本は、ポツダム宣言の受諾を決定し、
大東亜戦争は日本の敗北で終わった。

同年8月30日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーを乗せた飛行機が、
厚木飛行場に着陸した。
7年間にわたる占領時代の始まりだ。

マッカーサーを最高司令官とする連合国の、日本に対する初期の占領政策の基本は、
『日本降伏後における米国の初期の対日方針』で明らかなように、日本が再びアメリカの
脅威にならないように、徹底的に弱体化することにあった。

天皇陛下については、アメリカ連邦議会で、天皇陛下を戦犯で裁くべしとする決議案が
提出されるなど、アメリカの国内の世論は極めて厳しいものであった。

このような状況下に、
天皇陛下とマッカーサー最高司令官との第一回の会見が行なわれたのであった。

昭和20年9月27日午前10時、昭和天皇をお乗せした車が、
アメリカ大使公邸の門をくぐった。

玄関にマッカーサーの姿はなく、二人の副官が迎えるのみであったという。

昭和天皇は通訳と二人だけで、マッカーサーが待つ奥の部屋へと進まれた。

マッカーサーは、天皇が命乞いに来たと思っていたという。
陛下を前にして、マッカーサーは、ソファーに深々と腰を下ろしたまま、
例のコーン・パイプを口にくわえたまま、応対した。

天皇陛下は国際儀礼どおりに、直立不動の姿勢をとって、ご挨拶を述べられた後で、

「私は、国民が戦争を遂行するに当たり、政治、軍事両面で行なった全ての決定と行動に
対する全責任を負うものとして、私自身、あなたの代表する諸国の採決にゆだねるため、
お訪ねした」(『マッカーサー回顧録』)

と述べられたと言う。

また、その時の通訳の報告書を見た藤田尚徳侍従長(当時)によれば、
陛下がそのとき述べられた言葉は、次の通りだったと回想している。

「敗戦に至った戦争の、色々な責任が追及されているが、責任は全て私にある。
文武百官は、私の任命するところだから、彼らに責任がない。
私の一身がどうなろうと構わない。私はあなたにお任せする。
この上は、どうか国民が生活に困らないよう、連合国の援助をお願いしたい」

マッカーサーは、

「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」
(『マッカーサー回顧録』)

と感動して、今度は自分が直立不動の姿勢をとって、陛下にお座りいただき、

「天皇とはこのようなものでありましたか。私も日本人として生まれたかったです」

と述べたと言う。

そして、お帰りの際は、玄関まで丁重にお見送りしたのであった。


このご会見によって感動したマッカーサーは、本国政府と交渉し、陛下への約束通りに、
日本国民への食糧援助を実行したのである。

その結果、多くの国民が餓死から救われたのだ。


この会見の内容については、国民に知らされることはなかったが、
昭和30年に、会見当時の外務大臣であった重光葵が訪米した際に、マッカーサーに会い、
その際に初めてこの時の回想を聞かされ、それを読売新聞に発表したことで、
国民は初めて知ることになった。

昭和52年夏、天皇陛下は、記者会見でマッカーサーとの会見のことを質問され、

「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにも言わないと、約束を交わしたことです
から、男子の一言のごときは、守らなければならい」

とお述べになり、その内容については、ご崩御まで、黙して語られなかったのである。


これこそ、まさに究極の自己責任の取り方である。

旧憲法下であっても、国策の決定に天皇陛下がご意見をお述べになることは、
事実上禁じられていた。

日米決戦が決定される昭和16年の四度に亘る御前会議でも、一言も発せられていない。

唯一の例外は、9月6日の会議で明治天皇の三国干渉のときの御製を、
読み上げられた時であった。


 【 四方の海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらむ 】

戦争に反対のご意思を示されたのである。

しかし、最終的に、閣議は開戦を決定した。
陛下に直接の責任はない。

しかし、死刑をも覚悟の上で、全ては自分の責任だと申し出られたのである。


この「歴史秘話」は、我が校では総合学習の時間に各先生たちによって、
生徒たちに今も伝えられており、大きな感動を呼んでいる。


わが国の教育者は、まことに幸せである。

このような天皇陛下を中心にいだいて、天皇陛下のお心を自らの心の鏡として、
教育という国家にとって最も重要な任務に当たらせていただけるからだ。

そのことへの深い感謝こそが、教育の原点でなければならない。

         <感謝合掌 平成25年8月3日 頓首再拝>

天皇陛下に、究極の自己責任の原則を観る (10405)
日時:2013年08月06日 (火) 04時34分
名前:伝統

       *野田将晴・著「教育者は、聖職者である。」(P60)より
  
戦後教育の特徴の一つは、人権教育にあった。

権利意識が強調されすぎた結果、義務意識が薄れ、
責任を他へ転嫁する無責任な風潮になった。

この風潮を改め、責任感あふれる「社会人として自立した個人」を育てていくために、
教育者自らが自己責任を行動原理として範を示すことから始めなければならない。


天皇陛下は、世界で起こる天変地異ですら、自らの徳が足らないからだとして、
さらに祈りを深められると聞く。

究極の自己責任の原則の尊い模範であろう。

日本人の価値観はまさにこの自己責任の原則にあるといって過言ではない。

         <感謝合掌 平成25年8月6日 頓首再拝>

教育者は『真の自由人』たれ (10460)
日時:2013年08月09日 (金) 03時25分
名前:伝統

       *野田将晴・著「教育者は、聖職者である。」(P66)より

(1)本当の自由とは、自分の意思で考え、自分の責任で行動し、
   その結果については責任を取るということである。

   他に責任を転嫁するのは自由がない状態であり、
   真の自由とは『自己責任の原則』のことだ。

(2)自己に責任があるという考えは、
   自分が他に影響を及ぼしていると思うからこその発想となる。

   他から影響を受ける状態を「不自由」というのである。

(3)西郷南州翁の遺訓の一節に

   「学を志すものは、規模を宏大(こうだい)にせずんばあるべからず。
   然れども唯これのみに偏倚(へんい)すれば、或いは身を修むるに疎(おろそか)になり、
   規模を宏大にして、己に克ち、男子は人を容れるべく、人に容れられては済まざるなり」

   とある。・・・・(第23か条)

   『人を容れる』というのは、包容力のことである。
   包容力の大きさが、人物の器の大きさなのである。
   大きな器は小さな器に入りきれない。

   西郷南州翁の大きさがうかがい知れる遺訓である。

   教育者たるもの、特に生徒に対しては、大きな包容力で包み込んで
   指導に当たらなければならないのであるが、この遺訓は、正に、
   教育者の心構えを説かれたものといってもよい。

   『人を大きな包容力で包み込む』というのは、
   言葉を変えれば『自己責任』に徹するということでもある。

   他の責任に転嫁するのではなく、自己の責任として感じる感性こそが、
   包容力であり、遺訓にいう『人を容れる』ことである。

(4)また、遺訓のほかの一節に、

   『人(ひと)を相手にせず天(てん)を相手にせよ。天を相手にして己を尽(つく)し、
   人を咎(とが)めず、我(わ)が誠(まこと)の足(た)らざるを尋(たず)ぬべし。』

   ともある。

   天とは、人によって、神であっても、仏であっても、ゴッドであっても良いが、
   この大宇宙を存在有らしめている大生命というような意味と、捉えておきたい。
   これ以上大きな存在はない。

   ・・・

     西郷南洲翁遺訓集
      → http://www.keiten-aijin.com/ikun.html

   ・・・

(5)日本では、建国されて以来、この思想を一心に貫かれてきた存在がある。
   歴代の天皇陛下である。

   日本最古の歴史書である日本書紀の中に、次の神勅(神様の言葉)がある。


     吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るごとくすべし。
     与に床を同じく殿を共にして、斎鏡とすべし。

     (あがこ、このたからのかがみをみまさむこと、まさにあをみるごとくすべし。
      ともにみゆかをおなじくしておほとのをひとつにして、いわひのかがみとすべし。)


    意訳

    「わが子よ、この宝鏡を見る時は、私を見るつもりでいなさい。
     ともに床を同じくして、大殿を一つにしておまつりしなさい」


   宇宙神であられる天照大御神が、孫(天孫)であり天皇家の祖先であるニニギノミコト
   が現象界に天孫降臨なさるときに、授けられた神勅(神様のお言葉)であるが、
   この時授けられた三種の神器(鏡・剣・玉)は、代々の天皇が即位される時に
   受け継がれてきた。

   その一つが鏡(ヤタノ鏡)である。

   鏡は自分の顔を映すものである。鏡に映ったその顔を天照大御神と思えということは、
   常に天照大御神の心を自分の心としなさいという意味である。

   まさに『人を相手にせず、天を相手とされてきた』ということである。

   だから、私たち日本人は、『天を相手にする』という時、
   具体的には天皇陛下のお心をお手本にするということなのだ。

   天皇陛下は、世界で起る天変地異すらも自分の徳が足りないからだとして、
   祈りを深められると聞く。まさに究極の自己責任である。
   つまり、世界最高の『自由人』であらせられると言えるのである。

   人を咎めず、自分の誠意が足らなかったのだと思って、自らを省みて、
   さらに精進する生き方こそ、真の自由人のあり様なのだ。

   教育者は、その意味において『真の自由人』を理想としたいものである。

         <感謝合掌 平成25年8月9日 頓首再拝>

勇志の心 (10540)
日時:2013年08月13日 (火) 05時06分
名前:伝統

       *野田将晴・著「教育者は、聖職者である。」(P161〜164)より

当校の校訓は、「勇志の心」と銘打って「国を愛し、郷土を愛し、人を愛する」である。
この「勇志の心」は、日本の「教育の心」でもあると考えている。

そころが、戦後のわが国の教育は、その逆であった。
愛国心は軍国主義につながるといっては否定され、自虐史観で日本の歴史は翻弄されて教え
られ、個人主義という名のもとに、郷土を形成する地域共同体や家族共同体すらも否定され
てきた。

人権教育の結果、利己主義をはびこらせ、人を愛する心すらも希薄化させた。
もちろん、そんな教育界にあって信念を貫いてこられた素晴らしい先生方も数多く
いらっしゃる。

しかし残念ながら、戦後教育そのものの流れを変えるまでには至っていない。

一方で、若者はそんあ「戦後教育」に愛想を尽かし、日本人としての誇りや助け合いや
分かち合える絆や、人としての愛情を求めている。

その証拠に、この「勇志の心」を、ホームページを見て入学を決めた生徒が急増中である。

(中略)

当校の教職員は、最低条件として、愛国者でなければ務まらない。
当校の教職員は、勉強会など機会を捉えて正しい歴史を学び、
日本の素晴らしさを学習している。

(中略)

当校では、日本の歴史や国柄に関する独自の授業を行なっている。

先生たちは、教材作りを各自でしなければならない。
だから自分の責任で勉強することになる。
勉強すればする程、今まで知らされていなかった事実を知って感動する。

こうして、当校の教職員はどこに出しても恥ずかしくない「愛国者」になってきたのだ。

若い先生たちも、生徒たちと同じように、正しい歴史や日本の素晴らしさを教えられていない。
しかし、短期間のうちに日本人としての誇りに目覚め、使命感に燃えてくる。
そして、先生たちは自分の感動を生徒に伝える。

すると生徒たちが感動する。

こうして相乗効果で学校全体に「勇志の心」が浸透してきたのだ。

         <感謝合掌 平成25年8月13日 頓首再拝>

教育者は最も愛国者でなければならない (10561)
日時:2013年08月14日 (水) 03時54分
名前:伝統


       *野田将晴・著「教育者は、聖職者である。」(P172〜173)より

自らが生まれ育った国を愛することができるということは、
国民として最も幸せなことである。

逆に、祖国を愛することができないということほど不幸せなことはない。

教育の最大の使命は、国を愛する喜びや幸せを教えることに尽きる。
それは、自らを肯定し、自らに誇りを持ち、自らの人生に希望を抱く基礎だからだ。
そして、自らを肯定できてはじめて他人を肯定できるのだ。

絆はそこから生まれる。

自らの祖国を愛せなくて、自ら住む郷土を愛せるのか。
愛せないその国の同胞を愛せるのか。
また、自らの国に誇りを持てぬ者が、他国を尊ぶことができるのか。
そして、他国の人々を敬うことができるというのか。

「戦後日本」という時代は終わった。

「震災後」という新しい時代の出発に当たっての教育の原点は、
まさにこの一点にある。

これからは、「国を愛し、郷土を愛し、人を愛する」人物でなければ教育者たり得ない。

熱く真心を込めて、愛する祖国日本を若者に語る教育が復活した日が来たのだ。

         <感謝合掌 平成25年8月14日 頓首再拝>

マレーシアで知った祖国の歴史の真実 (10597)
日時:2013年08月15日 (木) 04時22分
名前:伝統

       *野田将晴・著「教育者は、聖職者である。」(P164〜172)より抜粋

私は昭和20年生れであるから、戦後の教育を受けて育った世代である。
だから大東亜戦争を太平洋戦争と習い、日本がアジアを侵略した戦争だと教わった。

若い頃(昭和45年〜47年)海外青年協力隊を志願したのは
その罪滅ぼしをしたいと思ったからだ。

しかし現地(マレーシア)へ行ったら全く事情が違っていた。
現地の人は、

「マレーシアは、日本の大東亜戦争のおかげで、長かった植民地支配から独立でき、
今こうして英米とも対等に付き合えるようになったのだ」

と言って、

「テレマカシ、バニャ、オラン・ジュポン」(日本人よ、ありがとう)

と感謝するのだ。

マレーシアは、1511年にポルトガルにマレーシアの要衝マラッカを占領されて以来、
欧米列強に蹂躙されてきた。

1641年からはオランダに、1786年以降はイギリスに、
400年以上も植民地として支配されてきたのだ。

その植民地の歴史に変化が訪れたのは、1942年のことだ。
つまり、日本軍の快進撃でイギリス軍が敗退し、その結果、
マレーシアは、イギリスの植民地から解放されたのだ。

マレーシアの人たちが欣喜雀躍して日本の勝利とイギリスの敗退を喜んだ。
当時の彼らにとって、白人は絶対に勝てない半ば神みたいな存在として認識されており、
独立することなど考えもつかなかったのだ。

それが、同じアジアの、同じ肌の色をした日本人が、圧倒的強さを発揮して、
一方的に勝利したのだから無理もない。

1945年、日本敗戦によって、イギリスの植民地支配が復活したが、
もはや独立への思いに燃え上がったマレーシアの人々の熱い思いは、
誰にも押さえつけることはできなかった。

そして、1957年、マラヤ連邦として独立を果たし、
1963年にマレーシア連邦が成立したのだった。

私がマレーシアへ赴任した年の、僅か7年前のことである。


わが国は、戦後、7年にわたって連合国に占領され、徹底的に日本弱体化の政策を断行された
経験を持っているが、数百年もの間、植民地として支配されたこれらの国々の人々の
悲惨な歴史は、我々の想像を絶するものであった。

全く人間として扱われず、奴隷か牛馬のごとくに、支配者からこき使われてきたのだ。

愚民政策といって、学問をさせない、スポーツもさせない、集会もさせないのだ。

フィリピンでは、スペインによる混血政策まで行なわれた。
つまり、スペイン人はフィリピンの女性を強姦しようと何をしようと自由で、
混血児をどんどん産ませて、その人たちを現地支配の手先として利用しようとしたのだ。

植民地の人々は、一方的に収奪されるだけであった。
そんなに優秀な人であっても、またどんなに努力しても、
職場で管理職になることはないし、経営者になれることもない。

このような屈辱の歴史が、16世紀から20世紀半ばまでの、
日本を除くマレーシアなどの世界中の有色人種の国々の歴史なのだ。

その世界の歴史が、日本の明治維新以来の日清、日露、そして大東亜戦争という
民族の命運をかけた孤軍奮闘の戦いの結果、終焉したのだ。

マレーシアの人々が、日本人である私に、満腔の敬意と感謝を込めて

「テレマカシ、オラン・ジュポン」

と話しかけてくれたのは、そのような歴史があったからだったのだ。

(中略)

青年海外協力隊での現地体験で、日本人の誇りが甦り、愛国心が湧いてきて、
私の心境に大きな変化が起こった。人生が喜びに満ちたものに変わったのである。
生きているということがこんなにも楽しいものだったかと驚くほどであった。

戦後教育で育った私は、マレーシアで、初めて祖国日本の栄光の歴史の真実を知ったのだった。
このときの魂の底からの湧きあがってくる悦びと、日本人としての誇りと燃えるような愛国心
が、その後の私の価値観、世界観、人生観をすっかり変えてしまうこととなった。

祖国の歴史を自虐史観で教えられて嬉しい筈がない。
日本人として誇りを持てないというkとは、人間としての誇りをもてないということだ。
そんな人生が楽しいはずがない。

私は、この経験以来、何世紀にも亘ってきた、白人による有色人種の植民地支配という、
おぞましい人類の歴史に幕引きをしたのが、祖国日本の輝かしい歴史だったことを、
日本の若者に伝えなければならないと、固く心に誓ったのであった。

         <感謝合掌 平成25年8月15日 頓首再拝>

長所を見て、欠点は見ない (10649)
日時:2013年08月17日 (土) 04時31分
名前:伝統


       *野田将晴・著「教育者は、聖職者である。」(P54〜57)より抜粋

開校後、数年間は大変だった。
民宿のおかみさんたちには、随分迷惑をかけた。

それが2〜3年前から変わってきたのだ。
見違えるように素直になり問題行動がほとんどなくなってきて、
それまでのスクーリングが嘘のようだった。

その理由が分かった。

山本五郎が「先輩から勇志の先生は違う」と聞いて入学してきたと言ったが、
生徒たちのスクーリング受講する態度が一変した理由は、ここにあった。

彼らは、元気なタイプの子も、おとなしいタイプの子も、共通しているのは学校嫌いで
先生不信が極めて強いという点である。

それは、生徒指導に当たって『欠点を指摘して矯正する方法』を採用しているからでは
ないかと思われてならないのである。欠点を指摘されたら、その人は自分を理解していない、
認めていないとなるのが、若者だけでなく、人情というものだ。

山本君が、勇志の先生は自分たちを認めてくれるといった意味は、
勇志の先生たちが生徒の長所を認めてくれるということに他ならない。

これが彼に限った事ではない。人は誰でもそうだ。
自分の長所を認められる事が、すなわち自分を認めてくれるということである。

長所を認めると、その長所がどんどん伸びる。他の長所までつられて伸びる。
欠点はいつしか影を薄めていって、そのうち消えてなくなるのだ。

山本五郎は、その後、持ち前のリーダーシップを発揮して、
模範的な生徒振りを遺憾なく見せてくれた。
前高校での悪い方の2つの記録保持者とは想像もつかないほどであった。

生徒たちが変わってきたのは、この方針が当校の先生たちに浸透してきた結果だとわかった。
先生たちが、長所を見て伸ばす方針に徹する事ができるようになった結果、
『勇志の先生たちは違う』という評判になり、口コミで広がっていったのだ。

だから、まず入学してきた時からして、以前とは違う。
学校と教師に対する拒絶反応がないのだ。

最初の数年間は、生徒たちは『どうせ前の学校と同じで、自分たちのことを認めてくれない』
と決め込んで入学してきたから、学校と先生を拒絶していて、
反発ばかりしていたのだった。

ところがどうも違うぞとなってきて、心を開くようになったというわけだ。
その結果、『よか生徒ばかり選んで入学させよるとですか? 』と、
おかみさんたちに言ってもらえることになったという次第である。

         <感謝合掌 平成25年8月17日 頓首再拝>



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