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精神文化全集第12巻(谷口雅春) (1030)
日時:2012年09月04日 (火) 07時39分
名前:伝統

大東亜戦争前に、戦前の日本の思想家24人をピックアップし、
潮文閣(出版社)が、全24巻を刊行しております。

その全24巻の中で、、「精神文化全集第12巻」として、
『谷口雅春選集』(昭和16年、潮文閣)が刊行されました。


この書について、詳しい情報をご存知の方が居られれば、
教えていただけばと願っております。

なお、この書の目次は、次のようになっております。


自序(谷口雅春)

第1篇  こころきわまる

  第1章  久遠いのちを享けて
  第2章  生きて生活する哲学
  第3章  西田哲学を更に超えて
  第4章  放つもののみ生きる
  第5章  日本学的大乗仏教の樹立

第2篇  観の転回  楽園の奪還

  第1章  物質観の革命
  第2章  人間観の革命
  第3章  善悪観の革命
  第4章  観の転回と實生活

第3篇  生活体系  自己内在の光

  第1章  天の声を聴く
  第2章  悟りへの道
  第3章  幸福の実践
  第4章  天国実現への手紙

第4篇  信仰体系  天皇と国体への信

 (1)天皇信仰(その1)
 (2)天皇信仰(その2)
 (3)天皇独在
 (4)天皇即大宇宙一体の理念
 (5)日本国の使命
 (6)皇軍の倫理
 (7)理念のための戦争
 (8)神話と民族の使命
 (9)復古すなわち新体制


*谷口雅春先生の言葉によると、(当時の)『生命の實相』以外で
 発行された書物を集めたので、『生命の實相』とは重複していない、
 とあります。

      <感謝合掌 平成24年9月4日 頓首再拝>

小生も所持しています (1064)
日時:2012年09月04日 (火) 19時42分
名前:崎陽居士

確かに、一般読者向けの体裁であったように思います。16年で5刷りですからよく読まれたのだと思います。定年後、熟読したいと思っています。倉庫の函のなかですぐに手に取れないのが残念です。潮文閣は『伊藤博文』馬場恒吾 昭17、『蘇峰と蘆花』鑓田研一 昭19などを出しています。

”崎陽居士 さま” ありがとうございます。 (1083)
日時:2012年09月05日 (水) 04時41分
名前:伝統

”崎陽居士 さま” ありがとうございます。

>16年で5刷りですからよく読まれたのだと思います。

信徒向けではなく、一般向けの書で5刷りまで読まれていたとは、感激ですね。


>定年後、熟読したいと思っています。
>倉庫の函のなかですぐに手に取れないのが残念です。

いつとは存じ上げませんが、定年後の楽しみがあるとは素晴らしいですね。
(この機会に、定年後と言わず、今、定念<心を定めること>も必要かも知れませんが(笑)・・)


この書は、おそらく、種々の単行本(資料)をまとめたもののようですから、
現時点では、他の著書で見ることができるのもあるのでは?、と捉えております。

”崎陽居士 さま”がお持ちの情報や資料があれば、
紹介していただければ幸いです。


なお、この書「精神文化全集第12巻」(谷口雅春選集)の中で、
第4篇(信仰体系  天皇と国体への信)が一番光を発しているようです。

      <感謝合掌 平成24年9月5日 頓首再拝>

谷口雅春先生の著書等で確認できる部分 (1207)
日時:2012年09月08日 (土) 04時39分
名前:伝統

現時点で、他の谷口雅春先生の著書等で確認できる部分を、
以下に、詳細化した目次に表示(*)しておきます。

自序(谷口雅春)

第1篇  こころきわまる

  第1章  久遠いのちを享けて
   (1) 久遠いのちに触るもの
   (2) 久遠いのちの釈迦
   (3) 仏教を論すると仏教を悟るとは異なる
   (4) 語学や考証を超えて
   (5) ほとけは何処
   (6) わたしは喇叭
   (7) ニューソートの出現
   (8) ニューソートの内容
   (9) トラインの著作に就いて
   (10) 萬教帰一運動としてのニューソート
   (11) 治病宗教は低級か
   (12) 萬教ただ一つの いのちの流れ

  第2章  生きて生活する哲学
   (1) 独逸哲学の米国への輸入
   (2) フランシス・リーベル博士
   (3) ヘーゲルの「哲学的宗教」
   (4) ヘーゲル哲学とクリスチャンサイエンスの接触
   (5) クインビーとエディー夫人
   (6) クインビー博士の惑病同体論

  第3章  西田哲学を更に超えて
  第4章  放つもののみ生きる
  第5章  日本学的大乗仏教の樹立

第2篇  観の転回  楽園の奪還

  第1章  物質観の革命
   (1) 物理学と哲学の境
   (2) 物質観の革命
   (3) ブラウン運動
   (4) 陰極線の発見
   (5) 電気の正体
   (6) 電燈はどうして光るか
   (7) 不思議な「空間」の力
   (8) 物質は無いと云うこと
   (9) 世界を「物」と観るか「いのち」と観るか
   (10) 独逸戦勝の一原因
   (11) 日本人的性格への注意 

     *(1)〜(9)  「静思集」(原理篇 第一章)に収録

  第2章  人間観の革命
   (1) キリストの観た神社
   (2) いのちの真理
   (3) 「悟り」と「悔改」
   (4) 「天より下りしもののみ天へ上る」
   (5) 法華経の「繋宝珠の喩」
   (6) 人間の本当の相(すがた)
   (7) 神は一つ
   (8) 「生長の家」の立場
   (9) いのちの本然の叫び

     *(1)〜(9)  「静思集」(原理篇 第ニ章)に収録


  第3章  善悪観の革命
   (1) 善の一般的要素
   (2) 父子の因縁を結ぶこと
   (3) 唯一の善は神のみである
   (4) 純一無雑の愛
   (5) 神を愛する神想観
   (6) 神を愛するようになれる秘訣

     *(1)〜(6)  「静思集」(原理篇 第三章)に収録


  第4章  観の転回と實生活

     *「静思集」(無我篇 第二章 観の転回)に収録

第3篇  生活体系  自己内在の光

  第1章  天の声を聴く

  第2章  悟りへの道

  第3章  幸福の実践


  第4章  天国実現への手紙
        *「静思集」(生活篇 第三章 神国実現への手紙<P69〜 >)に収録

第4篇  信仰体系  天皇と国体への信

 (1)天皇信仰(その1) *「生長の家“本流宣言”掲示板」で紹介済み
 (2)天皇信仰(その2) *「生長の家“本流宣言”掲示板」で紹介済み
 (3)天皇独在      *「生長の家“本流宣言”掲示板」で紹介済み

 (4)天皇即大宇宙一体の理念
 (5)日本国の使命
 (6)皇軍の倫理
 (7)理念のための戦争
 (8)神話と民族の使命
 (9)復古すなわち新体制

      <感謝合掌 平成24年9月8日 頓首再拝>

谷口雅春先生の著書等で確認できる部分A (1659)
日時:2012年09月21日 (金) 04時35分
名前:伝統

現時点で、他の谷口雅春先生の著書等で確認できる部分を、
以下に、詳細化した目次に表示(*)しておきます。

(記事1207でも示しておりますが、
 今回は、「第3篇 生活体系 自己内在の光」について確認致しております)


自序(谷口雅春)

第1篇  こころきわまる

  第1章  久遠いのちを享けて
   (1) 久遠いのちに触るもの
   (2) 久遠いのちの釈迦
   (3) 仏教を論すると仏教を悟るとは異なる
   (4) 語学や考証を超えて
   (5) ほとけは何処
   (6) わたしは喇叭
   (7) ニューソートの出現
   (8) ニューソートの内容
   (9) トラインの著作に就いて
   (10) 萬教帰一運動としてのニューソート
   (11) 治病宗教は低級か
   (12) 萬教ただ一つの いのちの流れ

  第2章  生きて生活する哲学
   (1) 独逸哲学の米国への輸入
   (2) フランシス・リーベル博士
   (3) ヘーゲルの「哲学的宗教」
   (4) ヘーゲル哲学とクリスチャンサイエンスの接触
   (5) クインビーとエディー夫人
   (6) クインビー博士の惑病同体論

  第3章  西田哲学を更に超えて
  第4章  放つもののみ生きる
  第5章  日本学的大乗仏教の樹立

第2篇  観の転回  楽園の奪還

  第1章  物質観の革命
   (1) 物理学と哲学の境
   (2) 物質観の革命
   (3) ブラウン運動
   (4) 陰極線の発見
   (5) 電気の正体
   (6) 電燈はどうして光るか
   (7) 不思議な「空間」の力
   (8) 物質は無いと云うこと
   (9) 世界を「物」と観るか「いのち」と観るか
   (10) 独逸戦勝の一原因
   (11) 日本人的性格への注意 

     *(1)〜(9)  「静思集」(原理篇 第一章)に収録

  第2章  人間観の革命
   (1) キリストの観た神社
   (2) いのちの真理
   (3) 「悟り」と「悔改」
   (4) 「天より下りしもののみ天へ上る」
   (5) 法華経の「繋宝珠の喩」
   (6) 人間の本当の相(すがた)
   (7) 神は一つ
   (8) 「生長の家」の立場
   (9) いのちの本然の叫び

     *(1)〜(9)  「静思集」(原理篇 第ニ章)に収録


  第3章  善悪観の革命
   (1) 善の一般的要素
   (2) 父子の因縁を結ぶこと
   (3) 唯一の善は神のみである
   (4) 純一無雑の愛
   (5) 神を愛する神想観
   (6) 神を愛するようになれる秘訣

     *(1)〜(6)  「静思集」(原理篇 第三章)に収録


  第4章  観の転回と實生活

     *「静思集」(無我篇 第二章 観の転回)に収録

第3篇  生活体系  自己内在の光

  第1章  天の声を聴く  *「光明道中記」6月に収録
                「光明道中記」6/7、6/27 本全集にはない。
                変更あるもの:6/5、6/14、6/15、6/17

  第2章  悟りへの道   *「光明道中記」1月に収録
                変更あるもの:1/4〜1/9、
                       1/12〜1/15
                       1/17〜1/25
                       1/27〜1/31

  第3章  幸福の実践   *「光明道中記」2月に収録、4/7、4/8に収録
                「光明道中記」2/27 本全集にはない。
                変更あるもの:2/1、2/6、2/12、2/16
                       2/18、2/19、2/22、2/25
                       2/26、2/27

  第4章  天国実現への手紙
        *「静思集」(生活篇 第三章 神国実現への手紙<P69〜 >)に収録
         ただし「仏教大合同・・・」については、未収録

第4篇  信仰体系  天皇と国体への信

 (1)天皇信仰(その1) *「生長の家“本流宣言”掲示板」で紹介済み
 (2)天皇信仰(その2) *「生長の家“本流宣言”掲示板」で紹介済み
 (3)天皇独在      *「生長の家“本流宣言”掲示板」で紹介済み

 (4)天皇即大宇宙一体の理念
 (5)日本国の使命
 (6)皇軍の倫理
 (7)理念のための戦争
 (8)神話と民族の使命
 (9)復古すなわち新体制

      <感謝合掌 平成24年9月21日 頓首再拝>

自序 (1900)
日時:2012年09月27日 (木) 04時53分
名前:伝統

自序(谷口雅春)

私が『生命の實相』哲学を発表し始めてからもう12年になる。

最初は微々たる自費出版であったが、読んだ人が次から次へと讃嘆して伝えてくれるので、
いつまで経ってもすたれるどころか発行部数が増加している事実は、
この哲学の価値への無言の証左である。

『生命の實相』が迷信臭く言い伝えられるのは、
それを読んで病気が治る人々が続出したからであるが、

白隠禅師も悟道によって病気が治ったのだから、
悟道によって人間が健康になっても不思議ではない。

と云って、これは単なる健康書ではない。
そんなら何かと云うと読んで貰うほかはない。
すると、『生命の實相』はあまりに大部すぎる。

一冊位で生長の家の光明哲学の体系がハッキリするような、
圧縮されたものがあったら読んで見たいという人があるそうである。

簡単に謂えば、生命の實相の哲学は、禅家が不立文字、教化別伝、言詮不及と云ったところの
人間の生命の實相を、また山川草木国土悉皆成仏の實相を、言詮により、文字を立てて示そうと
したものであり、それは或る程度まで成功したらしく、

多くの人たちが数十年の禅宗の修行でも得られなかった境地に達したと云って、大変喜んで
下さるのであるが、それが偖(さ)て、そう云う性質の本であるか、縦横無尽四方八方から
説いてあるから、その一部だけを読んで下さると、

或いは極端な観念論だと誤解したり、唯心論だと誤解したり、
『肉体は無い』と云うところだけを読んで『余りに奇矯である』と評されたりするので、

そう云う誤解を解くためにはどうしても、
『生命の實相』を全十五巻を行き渉って読んで頂きたいのである。

が、暇のない人にはそうも出来ないないから、
何とかもっと簡単に圧縮して貰いたいと云う要求も無理はないと思う。

そこで、此の要求に応ずるために、新たに書き下ろしたものに加うるに、概ね『生命の實相全集』
以後の著作になる単行本の中から、その主要な一章づつを選出して、成るべく近代の科学的頭脳
を有った人にも、此の肉体無、物質無の哲学が判るように工夫して、最近の新興物理学の解釈
からも物質無の自覚へ入れるように、各章を工夫連絡せしめたものが此の一巻である。

『生命の實相全集』中よりは採録しなかったのであるから、在来の全集読者には重複には
ならないで、それ以後の単行本の代表篇を読むことにもなるので、本書を読む人が『生命の實相全集』
を読んでも重複しないことになるよう心掛けて編纂した。


この一巻を読んで下さる人に、生命の實相哲学の解し方の目標について茲に示唆を与えて置く
ことは無駄でないと思う。

生命の實相の哲学は物質無・肉体無と云うが、必ずしも唯心論ではない。
それは全機の哲学である。
『全機』哲学を説く人にも唯物論的『全機』を考えている人がある。

水素と酸素とが結合して水になると云うのは、それは、水素だけの機(はたらき)によるのでは
なく、酸素だけの機(はたらき)によるのでもない。どちらが先でも後でもなく、水素と酸素とが
『全機』として作用して水となるものである。

人間の発生も、卵子と**とが結合して、卵子のみの働きでもなく、**だけの働きでもなく、
近寄る物と近寄られる物との『一つ』であるところの『全機』から人間が発生したと云えば、
如何にも生命の全機哲学のようであるけれども、

この哲学には、相寄る水素と酸素との結合の以前までは『水』が存在しなかったし、水素とか
酸素とか分離したら、もう『水』は存在しない。

それと同じように『人間』と云うものも、卵子と**とが相寄る以前までは存在しなかったし、
またこれらの組成要素が解体してしまったら『人間』は存在しなくなると云う『人間』の『因縁
仮和合生成論』に過ぎない。

こう云う哲学で『全機』と云うのは、『因縁仮和合の原理』(因縁の理)を指しているので
あるから、これでは生長の家の説く『久遠人間』の理念は出てこないのである。
ただ肯定されるものは因縁仮和合の理のみとなる。

『久遠人間』の理念が無ければ萬世一系の国体と云う金剛不壊の存在はあり得ないことになる。
国土も民族もその他一切の事物もただ因縁により変化する。その変化の理のみが実在だと云う
ことでは国体無窮も臣道無窮も確立しない。

仏教の全機哲学が国体に適しないと云って議論されている一部の原因である。


『久遠人間』の理念が確認されたときにのみ、『久遠人間』の天降りは確立される。
そして全機総覧者としての 天孫降臨の事実を確認することが出来る 天皇に大神ましまして、
臣民は神の子である實相が確立されるのである。

内山孝一郎氏(橋田文相の秘書官)は道元の哲学者であり、生命の全機を説かれること橋田文相
と同じである。その『生命体験』なる著の序文に、
『人間の一挙手一投足が生命の全機現成なるが故に・・・』(同書第六頁)とあるのには、
幾分の疑問がさし挿まれる。

わたしたちの哲学ではどんな人間でも其の一挙手一投足が必ずしも『生命の全機現成』だとは
観ないのである。例えば共産主義者が日本国へ弓を曳く・・・そういう場合彼等の一挙手一投足
は『生命の全機現成』ではなく、『生命』がその全機を現成せしめないための迷妄の顕現である。

ある人が食餌をあやまって、これは栄養になると思って、毒物を呻いだとしたら、その一挙手
一投足は『生命の全機現成』ではない。それは『生命の全機』が発現しないから、そのような
錯誤をしたのである。

即ち生命の全機の発現しない迷妄の顕現である。ただ人間が手足を動かす時の自覚が物が動く
のでもなく心が動くのでもない。心と物とにも非ざる全体が動くのだから全機現成と云うの
だったら、真妄混淆であると謂わねばならない。

すべての一挙手一投足が、そんなに安価に生命の全機現成ならば、戦争に往って逃げ出す弱兵も、
(日本軍にはそんな人間はいないが)生命の全機現成と云うことになる。盗賊の盗みの行為も
その一挙手一投足が生命の全機現成であると云うことになる。

そんなことがどうして『生命の全機現成』であるか。

一挙手一投足が生命の全機現成になるには孔子の謂ったように、
『心の赴く処に随って矩(のり)を踰(こ)えず』底になった人のみである。
そのほかの人の一挙手一投足は真妄混淆であるのである。


私の生命の實相哲学に於ける全機は、真妄をけん別して『真』のみを肯定し、禅家の『そのまま』とか、
『平常心』とか、『全機』とか称するものの中にも、截(き)るべきは截(き)り、
捨つべきは捨て、人間生命の實相と、此の世界の荘厳きわまり實相とを確認するのである。

そこに奇蹟とも観るべき功徳が現成するが、それは奇蹟ではない。
生命の全機は本来健全なるものであるから、自然に健全が現成するのである。
健全があらわれていないのは、生命の全機が発現していない証拠である。

世界に就いて云っても、世界が今あらわれている通りが其の儘に實在世界の實相現成ではない。
真妄を截断して彼の『妄』を去り、此の『真』を顕現するとき、茲に荘厳きわまりなき理想世界が
実現するのである。實在と仮想、真象と偽象とをけん別しなければならないのである。

生命と環境との相違は全機哲学の一示標であるが、『肉体も環境も心の影』と生長の家では
簡単にそれを表現している。生命の全機が顕現するとき、諸法(もろもろの現象)はそのまま
実相円妙の相が現れ、吾等の肉体は健全となり、環境は改善し、世界には荘厳きわまり無き
中心帰一世界が実現するのである。

此の意味で此の書は国体擁護の哲学であると同時に健康の哲学、成功の哲学、必勝の哲学、
百事如意の哲学とも云えるであろう。哲学的な理論が読みづらい方々は第一篇を最後に廻して、
第二編、第三篇から先に読んでその通りに実行せられればあなたに幸福が来るであろう。

此の書が、この非常重大事局に際し、世界の思想をリードする此の光明真理出来るだけ完全に
伝え得て、多少なりとも、国家のために貢献し得れば幸いである。

この国家貢献の見地から、今迄、光明思想普及会の独占権であったところの私の著書の発行権を、
この日本新文化全集にのみ貸与せられしことを、光明思想普及会社長服部仁三郎に感謝し、
又此書の普及に骨折って下さる潮文閣主高嶋政衛氏にも謝意を表するものである。

昭和十六年三月十三日            著 者 識

      <感謝合掌 平成24年9月27日 頓首再拝>

我、常に此に在りて滅せず (5898)
日時:2013年01月24日 (木) 05時03分
名前:伝統

第1篇  こころきわまる

【常住戦死の心】

宇宙には唯一(ただひとつ)、大御心のみがある。

天皇の大御心である。

『忠(ちゅう)』とは大御心に無我歸一する心である。
すなはち天之御中主大神の心に『中(ちゅう)』する心である。
『中(ちゅう)』とは的に中(あた)るであり、生命の本質に貫き徹するのである。

宇宙の實相に少しもウラハラなることをせず、無我になりて宇宙の心に從ふのである。
吾らが大御心を行ずるのは、それによつて幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。
さう云ふ第二次第三次の事物よりも、尚尚すぐれて無上價値なるものが大御心である。

その大御心を實現することは無上價値であるが故に、そのやうな第二次、第三次のお蔭などは
心に微塵も止(とど)めないで、大御心を行ずるのが『忠』である。 

そしてそれがまた生長の家家族の心である。

大御心を行ずる爲に、その他の物質的なるもの悉くを戰死せしむるのである。
戰場に於て戰死せしむるだけではなく、常住戰死の心である。

これを『死』と云ふ不吉な連想を伴ひ易き言葉を用ひず、
『肉體なし、物質なし』と吾らは云ふ。

その死に切った心だけでは消極的否定の心である。

そこに『大御心”のみ”あり』の大肯定がなければならぬ。
生長の家ではこれを『神一元』と云ふ。天皇獨在とも云ふのである。



第1章  久遠いのちを享けて

我時に衆生に語る、常に此(ここ)に在りて滅せず、方便力を以ての故に、滅不滅有りと現ず。
餘国に衆生の恭敬し信樂(しんぎょう)する者あらば、我復彼の中に於て、爲に無上の法を説く。
汝等此を聞かずして但(ただ)我滅すと謂(おも)へり。

我諸々の衆生を見るに、苦海に没在せし故に爲に身を現せずして、其れをして渇仰せむ。
其心の戀慕するに因りて、乃(すなわ)ち出でて爲に法を説く。 

                              (法華経如来寿量品自我掲)

・・・

以下に自我掲の原文を掲載しておきます。
(この部分は、Webからの転載です)

我時語衆生 常在此不滅 (がじごしゅじょう じょ**しふめつ)
以方便力故 現有滅不滅 (いほうべんりきこ げんうめつふめつ)

餘國有衆生 恭敬信樂者 (よこくうしゅじょう くぎょうしんぎょうしゃ)
我復於彼中 爲説無上法 (がぶおひちゅう いせつむじょうほう)

汝等不聞此 但謂我滅度 (にょとうふもんし たんにがめつど)
我見諸衆生 没在於苦海 (がけんしょしゅじょう もつざいおくかい) 

故不爲現身 令其生渇仰 (こふいげんしん りょうごしょうかつごう)
因其心戀慕 乃出爲説法 (いんごしんれんぼ ないしゅついせっぽう)

・・・

      <感謝合掌 平成25年1月24日 頓首再拝>

久遠いのちに触るもの (6080)
日時:2013年01月30日 (水) 04時59分
名前:伝統


(1)久遠いのちに触るもの

   若しこの本に如何ほどでも真理が盛られてあるならば、
   この本の著者は『久遠を流るゝいのち』であって、私自身の栄えではない。

   釈迦も『久遠を流るゝいのち』を把握したし、
   キリストも『久遠を流るゝいのち』を把握したのである。

   そのほか空海、最澄、親鸞、日蓮もすべて『久遠を流るゝいのち』を把握したのであろう。
   カントも、ヘーゲルもエマーソンもそうであるかも知れない。
   そう私は考えるほか仕方がないのである。

   否、さらにそう云う色々の名だたる宗祖教祖と云われる人だけではなく、
   仏典を結集し、聖書を結集した釈迦の弟子、キリストの弟子、更にそれに改竄を加えて
   往った後代の弟子たちや、それを諸国の文字に移し植えた翻訳者たちも、
   また『久遠を流るゝいのち』に或る程度まで触れていたのである。

   そうでなければ、釈迦のことばを、たゞの肉体の人間である阿難がそんなに詳しく、
   『あの時にはあゝであった』と一々の場合に就て覚えてはいられなかったであろうし、
   覚えていてもそう詳しくは話し得なかったに違いないと思う。

   マタイにしても、マルコにしても、ルカにしても、ヨハネにしても、キリストの云った言葉
   を、あんなに力づよく聖書の中に表現し得たのは、キリストの言った言葉をたゞ頭で覚えて
   いただけでは出来得なかったに違いない。

   それを完全になし得たマタイも、マルコも、ルカも、ヨハネも『久遠を流るゝいのち』に
   触れていたからである。

   大乗経典は後世、偽作であり、聖書は仏典の焼き直しだとの説もあるが、
   偽作であろうが、焼き直しであろうが、一篇の架空の作り物語であろうが、
   そんなことで大乗経典の価値が減ったり、聖書の価値が減ったりするものではない。

   聖書の日本訳だとて『久遠を流るゝいのち』が《あれ》に働きかけねば、
   あれだけの名文が出来る訳はない。聖書は新しい訳よりも旧訳が一層よい。


            <感謝合掌 平成25年1月30日 頓首再拝>

久遠を流るゝ《いのち》 (6286)
日時:2013年02月06日 (水) 04時54分
名前:伝統


「久遠いのちに触るもの」(6080)は、『生命の實相』頭注版第27巻久遠仏性篇(上)
第7章久遠を流るるいのち(二)久遠のいのちに触るるもの<P149〜150>に 
若干の字句の変更後、収録されております。


例として、

(本書)  若しこの本に如何ほどでも真理が盛られてあるならば、
      この本の著者は『久遠を流るゝいのち』であって、私自身の栄えではない。

(『生命の實相』頭注版第27巻久遠仏性篇(上))

    ⇒ 『生命の實相』の著者は本当は「久遠を流るるいのち」なのである。

・・・以下の(2)〜(12)については、
   各項目<(2)〜(12)>ごとに要点のみを、おさえておきます。

   (2) 久遠いのちの釈迦
   (3) 仏教を論すると仏教を悟るとは異なる
   (4) 語学や考証を超えて
   (5) ほとけは何処
   (6) わたしは喇叭
   (7) ニューソートの出現
   (8) ニューソートの内容
   (9) トラインの著作に就いて
   (10) 萬教帰一運動としてのニューソート
   (11) 治病宗教は低級か
   (12) 萬教ただ一つの いのちの流れ


(2)久遠いのちの釈迦

  @釈迦によって多くの人々が救われたのはその悟りの表現によってである。
   托鉢も行乞も拈華微笑(ねんげみしょう)も説教もすべての「行」は表現にほかならない。

   かくて釈迦の悟りが、その表現によって弟子に代々伝わり、
   転々としてその法輪が全地表を蔽うようになったのである。
   まことに、これこそ法輪を転ずると言うべきである。

  A本当の釈迦(肉体の釈迦ではない)は「久遠を流るるいのち」そのものなのである。
   「法華経」の中の言葉を借りていえば「彼実に成仏してより巳来(このかた)、
   無量無辺百千万億那由他劫」なのである。

(3)仏教を論すると仏教を悟るとは異なる

  @仏典を論ずることは、われわれの《さとり》のためにはなんの効果もないのである。

  A本当に《さとり》の世界へ飛び込もうと思うならば、語学や考証の世界を一躍して
   「久遠を流るる《いのち》としての釈迦」そのもののうちに飛び込まなければ
   ならないのである。

(4)語学や考証を超えて

  @本当の釈迦如来が「久遠を流るる《いのち》」であることを知るとき、
   われらは到るところに「仏教」すなわり「《ほとけ》の説教」を見出すことが
   できるのである。

  Aいずこにでも身を現じて法を説き給うのが本当の釈迦なのである。
   だから法を説くとき阿難も釈迦であり、達磨も釈迦であり、賢首も、空海も、道元も、
   最澄も、親鸞も悉く釈迦なのである。

(5)ほとけは何処

  @「久遠を流るる《いのち》」なる釈迦は、全世界のどこででも
   常住久遠に説法してい給うのである。

  A「久遠を流るる《いのち》」なるところの釈迦は、イエスと現われ、マホメットと現われ、
   カーライルと現われ、エマソンと現われて法を説いてもいっこうさしつかえがないので
   ある。

(6)わたしは喇叭

  @わたしは釈迦、キリストがそうであったろうところの「久遠を流るるいのち」に
   触れんことをつとめ、かくつとめつつ、「久遠を流るるいのち」の啓示を『生命の實相』
   に書き止めたのである。

  A『生命の實相』の本当の著者は「久遠を流るるいのち」である。
   わたしは老子が「谷神不死」と言ったところの、死なず不滅の「久遠を流るるいのち」の
   喇叭口になったのにすぎない。

  Bわたしと同じく「久遠を流るるいのち」の喇叭口となったものは、いずれも仏の教えを
   語るものである。仏の教える真理は「生長の家」が独占するものでもなければ既成宗教が
   独占するものでもないのである。

(7)ニューソートの出現

   カーライル、エマソンに発した仏の教えは、仏の教えと言わずして、
   「新思想(ニューソート)」という名によって19世紀時代米国を風靡したのである。

(8)ニューソートの内容

  @ある著者が「久遠を流るるいのち」に触れてその啓示を発表したものであるならば、
   「ニュソート」であろうとなかろうと、それは正しく「常住久遠の釈迦」の教えがそこに
   あらわれているのであるから、仏の教えというほかはないのである。

  A「ニューソート」は仏教という旗幟(はたじるし)を掲げずして
   仏教がアメリカを浸潤したのであった。

(9)トラインの著作に就いて

  @トラインの本を得たのはわたしが「生長の家」をはじめてから後、偶然の機会に、
   古本屋で見出し、買って帰ったのが最初である。

  Aトラインの著書は、それ以前のマーデンの本の内容と似ているのを発見して驚いた
   ものである。

  Bわれわれはニューソートの著作のうちから「久遠を流るるいのち」を見出し、
   それに触れ、それに合流すればよいのである。

(10)萬教帰一運動としてのニューソート

   (省略)

(11)治病宗教は低級か

   (省略)

(12)萬教ただ一つの いのちの流れ

  @病気が治るくらいになるにはクリスチャン・サイエンスのように、『生命の實相』のように
   「物質なし、心もなし」と悟らねばならぬのである。

  A救われるのは宗教の儀礼によってではない。
   ただこの「久遠を流るる《いのち》」によってである。

  B《いのち! いのち!》わたしは《いのち》の衝動を感じて『生長の家』を、
   『生命の實相』を書きはじめたのであった。

   これの本当の著者は「久遠を流るる《いのち》」である。
   そして「生長の家」を創(はじ)めたのは「久遠を流るる《いのち》」であったのだ。

・・・

上記の(2)〜(12)については、
『生命の實相』頭注版第27巻久遠仏性篇(上)<P150〜175>に収録(若干の字句の
変更ありますが・・・)されておりますので、そちらでその詳細を確認することができます。

            <感謝合掌 平成25年2月6日 頓首再拝>

生きて生活する哲学 (7492)
日時:2013年04月05日 (金) 04時45分
名前:伝統

第2章  生きて生活する哲学

この章は、『生命の實相』頭注版第35巻下化衆生篇・功徳篇(上)における
下化衆生篇 哲学の実践 第一章生きて生活する哲学<P3〜40>に若干の字句の変更後、
収録されております。

   各項目<(1)〜(5)>ごとに要点のみを、おさえておきます。

   (1) 独逸哲学の米国への輸入  
   (2) フランシス・リーベル博士
   (3) ヘーゲルの「哲学的宗教」
   (4) ヘーゲル哲学とクリスチャンサイエンスの接触
   (5) クインビーとエディー夫人
   (6) クインビー博士の惑病同体論


(1)独逸哲学の米国への輸入  → ドイツ哲学の米国への輸入

  @「生命の実相」哲学は、久遠を流るる《いのち》としての久遠釈迦の教えの顕現である。

  A一方、仏教思想は支那を経由して弘法・道元らにより日本に輸入せられたが、
   他方ドイツを経由して米国哲学となり、それが、著しく実践的傾向を浴びて
   日本に輸入せられたのである。

  Bそれが、いっさいを統一融合する地理的位置にある日本として、宗教および哲学の
   総合的融合を成就する使命を果さんがために、純日本哲学に一元化せられたる大乗仏教、
   大乗キリスト教として、そのまま諸教を万教帰一的原理に融合せしめたものが
   生長の家である。

  Cドイツ人フランシス・リーベル博士の論文『ヘーゲルの哲学的宗教』が、ボストンの
   カント哲学同人教会(ハイラム・クラフト氏宛)におくられたのが
   1866年4月7日の日付けであった。

   これがヘーゲルの宗教哲学がアメリカにおいて、その全貌をたとえ縮約的にせよ
   表わした最初であったらしいのである。

(2)フランシス・リーベル博士

(3)ヘーゲルの「哲学的宗教」 → 『ヘーゲルの哲学的宗教(メタフィジカル・レリジョン)』

  @ギリシアにソクラテス、プラトー、アリストートルの三大哲人があったように、
   カント、フィヒテ、ヘーゲルの三人はドイツの三大哲人であるのであるが、これら三大哲人
   の中で、否、全世界の哲学者の中でヘーゲルこそは最偉最大の哲学者であるのだ。

  Aカントはヘーゲルに道を拓いたのである。
   カントは、全ドイツの宗教哲学の進むべき航路を指示する海図を作ったのであった。

  Bフィヒテの哲学への貢献は「存在の科学」の創見である。
   フィヒテは次のごとく言っている。

   「完全なる真理こそ科学である、科学の精髄は実在の反映である。調和に達する唯一の道は、
   神と神の反映とのほかに、何ものも生活意識にのぼさないことである」と。

   かくしてカントおよびフィヒテは、ヘーゲルに到達するための上昇階梯をなしたのである。

  Cヘーゲル哲学を理解するために必要な第一歩は「理念(イデア)」というものを知らねば
   ならない。ヘーゲルは「神」と「理念」と無しにはこの世界は崩壊すると言ったのである。

   ヘーゲルによれば人間は「念」を母体として姿を顕わすところの「最高の理念」であると
   述べられているのである。

   人間は未だかつて生まれたたることも、死することもなき永遠の存在であるのである。
   すべての実体は、その本質を「理念(りねん)」とするのであり、
   したがってまた不滅のものである。

   すべては霊なる神によって創造せられ、支配せられるのである。
   「神」および「彼の理念(りねん)」は最始源の真実なるすべてである。

   人間そのものは「理念(りねん)」と別に離れて存在することはできない。
   それゆえに、霊と表現身と神と人とは分ちがたきものである。

   ヘーゲルにおいては、神はただ一つであって神は霊であることをわれらは知るのである。
   だから、全存在界にただ神なる霊のみ存在して、悪魔または悪霊のごときものの存在を
   認めないのである。

(4)ヘーゲル哲学とクリスチャンサイエンスの接触

  @リーベルの論文が米国に寄稿されてから約6ヵ月ののち(1866年11月)に、
   クラフト氏がエディ夫人との接触が始まったのである。

  Aエディー夫人はクインビーの教えによって数えられないほどの利益(りやく)を得た。
   しかし、クインビーは何らその思想の後継者を残さずに死んだのであった。

   エディー夫人はクインビーから得た恩恵を思うにつけ、旧師の思想と、それについての
   自分の解釈を述べた一著述を公開したいと思うのであった。

   その頃、あたかも彼女は天啓のようにクラフトから、ヘーゲル哲学の論文を得たのであった。
   彼女はリーベル博士のヘーゲル紹介論文を熟読したらしいのである。   

(5)クインビーとエディー夫人 → クインビーの神癒理論

  @これより先、1862年10月10日エディー夫人はポートランドで初めて
   クインビー博士に会って治療を受けた。

  A以下省略〜(P21〜29で確認できます)

(6)クインビー博士の惑病同体論

 この項では、『生命の實相』へ収録する際、表現を若干変更した部分を比較掲載しておきます。

  @『生命の實相』P31の部分

   全集での表現(P42)

    「多くの人はエディ夫人をクリスチャン・サイエンスの最初の鍵の発見者としているが、
    それはクリスチャン・サイエンス発生の原典が今迄知られなかったからである。
    世にクリスチャン・サイエンスだけ習った者で、惑病同体、実相一元の思想は
    エディ夫人を創始とすると思っている人があるが正鵠を得ていない」


   『生命の實相』での表現

    「ここに、エディ夫人はクリスチャン・サイエンスの最初の鍵の発見者であるというよりも、
    むしろ仏教哲学とフドイツ哲学のヘーゲル哲学とキリスト教哲学とを神癒の実際に当て
    はめて解明し、惑病同体、実相一元の仏教的キリスト教を組織した最初の段階の完成者で
    あると言いうるのである」

  A『生命の實相』P40の部分

   全集での表現(P48)

   「まことに聖書にあるよりも、数多い奇蹟的実例が、生命の實相哲学の信奉者からは出現
   しているのであって、今やその体験の集成は、菊判一千頁余の『実相体験集成』四冊を
   埋めているのである」


   『生命の實相』での表現

   「その『耶蘇伝』を読んでそのとおりやってみて熊本の竹下義夫氏は知人の舞踏病を治した。
   喧々囂々たる批評よりも、ます光明思想普及会発行『実相体験集成』大冊に載っている事実
   を、この哲学が人生にどんなに生きているか、どんなに人を生かしているかの事実を見て
   いただきたいのである」

            <感謝合掌 平成25年4月5日 頓首再拝>



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