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『日本國の使命』 16年10月の法語 (1596)
日時:2012年09月19日 (水) 10時05分
名前:童子

            巻頭のことば




 日本の國は‘すめらみくに’である。

 ‘すめら’は澄む〈浄化〉統(す)める〈統一総欖〉‘すすめ’〈前進、創造〉等の意味を含む。

 澄むは浄化であり、復元であり、沈静であり、沈静は統一であり、住み佳き世界の出現であるが、ただそれのみにては沈滞に陥るのである。

 その沈滞を破って前進するのが、‘すすめ’である。‘澄む’と進むとの正反を一つに統一し復元し、更に新しく世界を創造して行く‘みくに’がすめらみくにである。

 ‘すめら’は一であり、『澄む』である。澄むが前進によって分かれて陽陰となって現れる。それが『‘むすび’』である。

 『む』は群れである。〈ム声の発音の時の唇の形を見よ〉 『す』は前述の如く統(す)である。 『ひ』は開くである。開けば光があらわれ、一切群生を統一して、スの一元に復元し、さらに前進して、萬霊を開くのが‘むすび’である。

 まず萬霊を産むのが産霊(むすび)であって、形を産むのではない。形は、形なきもの〈霊〉の投影であって、象(かたち)の力は影であって、影立つが形である。されば影立(かたち)の世界は日本では現世(うししよ)と云われている。まづ霊を清めて萬象清まるのである。

十月一日  日本民族の使命を知る日  (熊本講習会開催中) (1597)
日時:2012年09月19日 (水) 10時23分
名前:童子

 日本神随(にっぽんかんなが)らの道は、宇宙と與(とも)に立つ道である。一人の人間が思索によって造り上げた理屈でもなければ哲学でもない。

 宇宙と與(とも)に立ち、宇宙にミチる精神が、そのまま日本民族を通してあらわれたる道である。随ってそれは日本民族精神であるとともに宇宙精神である。神の‘そのまま’のみこころであり、宇宙にミチているから道とも称するのである。

 それは宇宙にミチているのであるから、無論外国人の生命の中(うち)にも満ちているのであるけれども、大八州即ち東洋の日本列島は、伊邪那岐伊邪那美命の正しき天地・陽陰の結びによって創造された國であるから、その國に生れた民族は最も、宇宙にミチが正しく宿っているのである。

 そこで日本民族が‘そのまま’の心になるとき、其処に最も完全に『道』があらわれる。それは『神さながらの道』であるから、『神(かん)ながらの道』と云うのであるが、同時に日本民族の‘そのまま’の精神であるから、日本民族精神とも、また簡単に日本精神とも云うのである。

 論(い)うまでもなく、外国民族にも、その精神はやどっているのであるから、‘そのまま’の心になったときには外国人でも日本精神は理解出来る。

 単に理解出来るだけではなく、日本精神に成り得るのであり、それが理解出来、日本精神に成り得たとき、六合(りくごう)一都・八絋一宇の神武天皇様の御理想が実現するのである。

十月二日 何事にも神々しき心持を持つ日 (1602)
日時:2012年09月19日 (水) 11時52分
名前:童子

 日本民族は何事にも神々しき心持を持っていたのである。

 無明(まよい)や執着が國を生んだのではなく、神が國を生んだと信じていたのである。いたるところに神を観たのであって、八百萬神々の思想は、その到る処に神を観たところの日本民族の聖なる心の反映である。

 神を観るものは、神の心が宿っているからである。他を神として礼拝し得る者は、自分自身の中(うち)に神性が目覚めているからである。

 自分の中に『光』の感覚の起らない者は、外界に『光』があっても見ることが出来ない。自分の中に『赤い色』の感覚が起らない者には、外界に『赤い花』が咲いていても、赤い花だとは感じ得ない。

 到るところに八百萬神々を見ることが出来た日本民族は、自分の中に神性は目覚めていたからである。即ち自分自身が『神』であるからである。

 だから古代日本人はみづからミコトと謂い、彦〈日子〉と云い、姫〈日女〉と称した。自己神性の自覚である。自分が神性を自覚したから、萬物にそのまま神性を観ることが出来、萬物に八百萬神々を見たのである。


 神性の自覚は、理論では説くことは出来ない。釈迦無尼佛も四十余年間説法したけれども、一字不説で、一字も説いたことはないと云われている。本当のことは言説を超えている。説くことが出来ない。ただ行ずるだけである。

 萬物を神であるとして拝した。その四方拝の精神こそ日本精神である。

十月三日 明治天皇の御聖徳を偲び奉る日  (本日熊本講習会終了) (1640)
日時:2012年09月20日 (木) 12時03分
名前:童子

     みる人はなきものにしてしづがやの籬の花は咲きならひけむ


 畏くも此の明治天皇御製の中(うち)にあらわれている「しづがやの籬(まがき)の花」の心が日本精神である。

 見られるために何事をも成すのではない。すこしも衒うこころもなければ、人に見せびらかす心もない。ただありのままに、‘いのち’のありのままに咲いているのである。

 それは、説教するような心でもなく、他に打ち勝ちたい心でもない。争う心でもない。絶対が其処にあらわれている。刻々瞬々が無限の‘いのち’である。

 明日炉に投げ入れられようと、賎(しづ)が屋のまがきの花は『今』絶対生活を生きているのである。『今』久遠の生命(いのち)を生きているのである。一字不説である。しかも久遠現成(げんじょう)である。久遠の生命が『今』現に成就しているのである。

 同じく四十四年の御製に ――


     なつかしき朧月夜のかげふみてたたずむ袖にちる櫻かな


 単に叙景の御歌としてもまことに素晴らしく拝せられるのでありますが、『散る櫻』が散る瞬間に『久遠の生命』を生きているのであり、その瞬間と久遠との一致、『今』と『久遠』との現成をいみじくも捉えたまうて表現したまうたのであります。

 この『今』と『久遠』との一致、散る一瞬に『久遠なるもの』を見る精神が日本精神なのであります。

十月四日  散らないものを把握する日  (本日午後六時より大牟田市公会堂にて私の講演会) (1677)
日時:2012年09月21日 (金) 16時49分
名前:童子

 花は散る。人は現世の船を乗り降りするけれども、そこに散らないものがあり、乗り降りしないものがある ―― そこに『久遠不滅』のものがあることを悟ることが必要なのである。

 無常に常(じょう)に観、うつろな姿が不壊(くだけない)なるものを見るのが、武士(もののふ)の、もののあはれを知る心である。

 『古池や蛙跳び込む水の音』

 波紋は消え、蛙は去る。しかしながら天地がその静寂の中に久遠の音を立てているのである。瞬間と久遠との一致である。


 明治天皇御製に宣わく
  
     ちる花をのせてかへりぬ渡舟むかひの岸に人はおろして
     さむしとてこもるべしや枝くちし老木のうめも花さきにけり


 人間不老不死である。老衰と復古と新生とが『一』になっているところの『生命』を把握したまいし御表現にましますのである。『老即新生』の把握、死即生の把握が日本精神である。

 日本に於ては『死』は単なる『死』ではない。〈随って『死』は無いとも云い得る〉

 『死』することが『生』きることである。『生命を得んとする者は生命を失い、生命を捐つるものは生命を得ん』とイエスも云っている。

 日本神随らの道は宇宙の道であるから、何処へ往っても、聖賢の教えは『一』である。底に足をついていては泳ぐことは出来ぬ。足を思い切って離したとき浮く。
 

十月五日 天地一切のものを礼拝する日  〈本日より六日間小倉講習会。本日午後一時より門司市青年会館にて私の講演会〉 (1726)
日時:2012年09月23日 (日) 11時35分
名前:童子

 『平法は天地神明の発動にして無敵なる者也。空々として清霊幽微を感じ明々として不通(つうぜず)と云う所なし。其の性を全うして是を行ふに難無し』と山内蓮心翁は云う。

 平法と云いて、兵法と云わざるところに翁の深き慮りがあるのである。敵と我と本来一体なることを見極めて、敵なく我なく、従って天下無敵なる道を平法と云うのである。

 生長の家の神示に『汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものと和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ』とあるのと全く同一である。

 全く無我となり、全く我がなくなったとき自然に敵もない、敵なく我なき境地が、『空々』の境地である。『清霊』は宇宙の清まりたる澄み切りの霊である。

 『空々』の境地に入れば、宇宙の清霊の幽微なる囁きをも感じ、天人合一の境地あらわれ、天人互に一体となりて、吾が念ずること、そのまま神明の念ずるところと一つであるから必ず成就するのである。何物にも傷けられることがなきゆえに『其の性を全うして是を行ふに難なし』である。

 無敵流平法の剣法をただ手先の技と思っている人が多いので、『吾が平法の剣術心法の深奥を玩味する人稀にして疎かに所作行動を学び得るを本意と思へり。其術の奥妙を見る事を待たずして半途にして捨つる人多し。宝の山に入りて空しく帰るが如し』と嘆かれている。

十月六日  敵に向うに廻さぬ日  (本日午後一時より戸畑市公会堂にて私の講演会) (1803)
日時:2012年09月25日 (火) 10時30分
名前:童子

 此の『吾が平法の深奥を玩味する人稀にして疎かに所作行動を学び得るを本意と思へり』と云う嘆きはひとり、山内蓮心翁の嘆きのみではないのである。


 生長の家をただ『病気』とか『不幸』とか云う敵を向うに廻して立合うところの心術だと誤まって、ただ小手先の悟りと思って中途にて易々加減に『わかった』と思って捨て去る人があるのは、まことに宝の山に入りて、空しく帰る人々に等しいのである。

 生長の家の教は、敵を向うに廻して戦う闘病者でも災難消除の加持でもない。空々として心の技巧なくなりて、天地一切のものと調和せよと云うのが住吉大神のみ教である。

 そのとき、天地一切がスミヨシの世界になるなり。天地一切が洗い清められて、我がなく敵がなくなるなり。これが禊ぎ祓である。形式儀礼にあらず、所作行動にあらず、伊邪那岐大神の大身祓と一つとなるのである。

 その時龍宮海ひらかれ、綿津見神、塩筒之男神・住吉大神現れたまう。鱗の如く作れる龍宮海の甍眼の前に聳え〈古事記〉、宝の山眼の前にあらわれるのである。

 それは利己主義的現世利益にあらず、あたらしき天と地とを見出すのである。悔い改めなり。三百六十度回転なり。新しき神都が花婿のために飾りたる花嫁の如き姿にて天降り来る〈黙示録〉のである。

 先ず身を剥ぐことが必要なり。身ソギ祓なり。

十月七日  自己を顧みる日  (本日午後一時より八幡市第二国民学校にて私の講演会) (1945)
日時:2012年09月28日 (金) 06時36分
名前:童子

 生長の家は敵を立てて戦うに非ず、敵なき世界に入り、邪心を抱くものに、おのづから鏡に影がうつるが如く自壊が起ること、山内翁の無敵の平法に同じである。


 「それ平法の真妙剣と云うは天地の妙を体認して剣術を行うゆえに、我此の真妙の心理を考えて、先ず天地の本性を見るに蓋し天地の本性は陰陽和合して大極建つ。其の中に万物包括せる故に乾坤の中にあらゆる物皆是れ天地の一性にして随順せずと云うことなし。天道に背き戦う者は自ら其身を害兇す。故に天地の外に亦天地なし。何を敵として戦うべきことあらんや」と。


 天地の外に亦天地なしとは、天地に対立のないことを云ったのである。天地は『一』である。『神の創造った世界』と『悪魔の創造った世会』対立するような二元的世界観ではない。我なく敵なく、天地ただ『一』なることを悟るとき天下無敵となる。


 『愚(それがし)おもへらく、天何ぞ天、我何ぞ我、同根一体にして其の性を一にす。天地無敵なれば、即ち我も亦無敵。是を以ての故に、我「一」の道を名づけて平常無敵と号す。平は平にして中也。常(じょう)は庸にして中庸の理なり』


 中庸に『喜怒哀楽の未だ発せざる、之れを中(ちゅう)と云う。発して節に当る、之れを和と云う。中とは天下の大本、和とは天下の達道。中和を発して天地位し、万物育つ。』

 心『中』ならば、発して必ず節に当り、万物育ちて天下無敵となる。

十月八日  『中』の徳を得る日  (本日午後一時より直方市公会堂にて私の講演会) (2032)
日時:2012年09月30日 (日) 10時33分
名前:童子

 孔子は『中庸はそれ至れる矣乎(かな)』と云っている。

 一切の徳は『中』に発する。『中』は天之御中主神の『御中主』の理念に発する。中にして主なのである。中にして主なるが故に、あまねく一切のところに現じて庸(つね)の道となるのである。

 平常心是れ道である。庸(つね)を失うところに、心乱れ、心乱れるところに百禍生ずる。

 『剣は人を殺さず、人又人を殺す。剣術を学んで、其の心術を学ばずんば、世話に云へる仏作って眼(まなこ)を入れずと云ふに異ならず』と山内蓮心翁も云う。人を傷つけるは剣にあらず、人の心みづからにあるのである。

 又曰く、『心を離れて身(しん)なし、身を離れて心なしと云へり。心の外に平法なく、平法の外に心なし』と。


 すなわち心が『中』を得るときには盡十方そのまま味方となりて、『和』を成ずるのである。盡十方がことごとく我が心となるのである。盡十方がわが心となるとは、心が一箇所にとらえられぬことであり、宮本武蔵の所謂る無構の構えである。

 寂然不動にして一箇所に片寄らぬのである。一箇所に片寄らずして中を得ているから、相手の動きにつれて千変万化し得ること影の形に添うが如きである。

 『無敵は是寂然。不動にして静かなる時は無量無辺に通じ、動いて万物に応ぜぬと云う事なし。形に影の従ふが如く響の声に応ずるが如し。是無敵の厳明也』と山内翁は云っている。謂い得て妙である。




 〜〜・・〜〜

 タイトルにある(本日私の講演会)とは原本に書かれているものです。
 谷口雅春先生の御巡錫のハードスケジュールと熱情、全国の信徒の待望を感じてください。

十月九日 力みを捨てる日  (本日午後一時より小倉市公会堂にて私の講演会) (2171)
日時:2012年10月04日 (木) 12時07分
名前:童子

 『尋常の兵法と云はるるは剣術を専らにす。今此の平法と云ふは、無敵の心術、工夫有るべき事専一也。平法は所作の心身直にして身体和直なるを本とす。

 何の諸芸能と云ふと雖も、是皆力身を嫌ひ、和身(なごみ)を好むことなり。然りと雖も事を用ふるの要あり。心得悪しくしては心身直を守らんとすれども体竦み、心固くなりて気屈す。亦身和を守らんとすれども神気を失って槁木の如し。是れ臂腰にまかせて無敵の体を知らざる者。心身和直の実を得る者稀なり』と山内蓮心翁平法を説く。



 何事にも力まぬ心が平法である。『‘ねばならぬ’に縛られたら可かぬ』と生長の家で云うのと全く同じである。

 一つの『‘こう’でなければならぬ』に捉われて了ったときには、その‘こう’以外のところは敵となり、‘ひっかかり’となり、八方敵となってしまうのである。平法の『平』とは此の‘ひっかかり’が全然無くなることである。

 『平』は『中(ちゅう)』なりと山内翁は曰う。中庸に所謂る一切未発の『中』こそ『平法』の平であり、寂然として動かざる‘そのまま’の心である。

 ‘そのまま’の心を『直心』と云う。心が‘そのまま’になれば、心身がそのまま素直に動く。『心身直に守らんとすれども体竦み』と云うのは、‘そのまま’の心が失われるからである。

 これは剣法のみではない。あらゆる病気も心が『平』を失い『中』を失いて体竦みたるものである。心が『平』を取戻せば身体おのづから健となるのである。

【挿し込み】 (2247)
日時:2012年10月06日 (土) 09時33分
名前:童子

           急告!


 十月十二日より防空演習が実施されますので、
 福岡、長崎の講習会及び十月十一日以後の
 九州各地講演会は之を中止することになりました。


  ◇白鳩会時間変更

 十日小倉市堺町国民学校に於ける白鳩会の開催時間が
 午後一時とあるを午前十時と変更す。



 〜〜〜 ・・ 〜〜

 時代は大変な時代だったんですねぇ

十月十日 そのままの心に成る日 (本日午後一時より小倉市堺町国民学校にて白鳩会) (2280)
日時:2012年10月07日 (日) 01時00分
名前:童子

 ‘そのまま’の心とは、天地は本体『一』であるから、天地一切と調和ちたる心である。人は生れたるままの心 ―― 即ち『實相の心』 ―― になることが必要である。‘そのまま’が天衣無縫である。どこにも隙がないのである。

 天衣無縫が無敵であり、うまれたる侭さながらである。『無敵の用(はたらき)は生れながらにして其形像幼童の如し』ともあり、『平法は温和にして心広し。故に無敵にして其体豊か也』とも『無敵の体は広大也。天地の万物を包括せるが如し』ともある。

 ひろびろと‘そのまま’の心になる時、天地は‘わがもの’。‘わがもの’となる時、もう何処にも敵がないのである。


 『敵と成る者山河を動かすとも、我が心体の裏にして、何ぞ外に向って敵として戦ふべきか』と云う山内翁の語(ことば)に至っては、実に、天地は‘わがもの’ ―― の自覚あってのみ云い得ることである。

 この点、宮本武蔵の『五輪書』などに、敵に対する技巧について細々と書いてあるのに比較して、山内蓮心翁の『平法』の方が偉大であるとも云える。

 宮本武蔵は敵に勝つことに心逸った趣があったが、山内蓮心は敵無きことをその極致としたのである。敵は外部にあらわれて『山河大地を動かす』とも、その姿は外にあらずしてわが心内の姿の映像とせるところ、また先ず内の敵を斬ることを先にして、『何ぞ外に向って敵として戦ふべけんや』を後にせる素晴らしい心境である。

十月十一日 萬人を赦す日 (本日より一週間福岡講習会。 本日午後一時より久留米市公会堂にて私の講演会) (2360)
日時:2012年10月09日 (火) 21時44分
名前:童子

 無敵の極意に『無敵は仁の心有るが故に敵を悪(にく)まず、敵を憎み戦ふことは、是れ本人(もとにん)欲より起るが故に、仁心を専らにして敵を悪(にく)む心なき事を要す』と。


 敵を憎めば、心が『平』を失うが故に、心の中に隙が出来て負けるのである。嘗て某寺の住職、先住の亡くなるとき自分に遺産相続の遺言をしたにも拘らず、先住の兄弟子が、その遺産数万円を横取りたりとて、兄弟子を憎むこと甚だしく、毎日その兄弟子に対して呪いを掛けたのである。

 ところが兄弟子は一向病気にもならず、不幸にも陥らず、洒蛙々々として栄ゆ。兄弟子を怨める某寺の住職、その頃生長の家の思想に触れて、自分の病気になっていることは、兄弟子を怨める心が『平』を欠き、『中』を失った結果、そこに隙が出来ていることが自分の病いであることを知って、心を『平』をやしなう。

 この時病い次第によくなり、先に呪っている間には健康であった兄弟子が、呪うことをこちらから止めた頃に病気になって斃れたと云う事実がある。これなどは自分の心に人を呪う心あれば自分が討たれ、自分の心が『平』に還りて、‘もの’があるべきところに、あるがように定(き)まるとき敵が敵みづから邪念によって傷ついたと云うことになる。

 山内蓮心翁、金剛の利剣を図解して説明して曰く、『此の剣は使ふ剣にはあらず、己悪を成せば己討たれ、敵悪を成せば、即敵討たる。唯万事、無念相なるべし。』と。

十月十二日 如意自在の日  (本日午後一時より福岡市公会堂にて私の講演会) (2456)
日時:2012年10月12日 (金) 19時57分
名前:童子

 山内蓮心翁が我が全身を『如意宝珠』に喩えて、その如意宝珠より光明が十方に照り渡っている有様を図解していることは〈図解略〉興味あることである。


 『禍福門なし、唯招く所に有り。この珠は何にても叶はずと云ふ事なし。一切に向って背く事なし。故に面向不背珠(めんこうふはいのたま)とも云ふ』と云っている。

 この珠が『一心』をあらわすのであり、その一心なるものは、天地と同根にして『天地に充満して、時として無き時なく、所として無き所なし』であり、即ち自分の一心が天地に満ちて、天地と自分とが『一(ひとつ)』になることを語るのが平法であるのである。

 だから山内蓮心翁は、極意伝授の書に曰く、『人を悪(にく)む者は、自を悪(にく)む。人を敬する者は却って己を敬す。悪言を吐く者は悪言を蒙る。人を討つ者は必ず己が身を討つ事あり。是(ここ)を以て、無敵を知るべし。仮初(かりそめ)にも、人我(ひとわれ)の隔心(へだてごころ)を以て敵を求むる事勿れ。』と云い、また『汝は汝たれ、我は我たれ。山は谷を守って、以て山たり。谷は山を守って、深きを以て谷たり。是を以て、無敵の用を知るべし』と云っている。


 『汝は汝たれ』とは相手を縛らぬことである。あるがままにあらしめることである。相手の本然に還らしむることである。縛ろうとする相手は反動的に逆って来る。山を山たらしめるとき、谷は谷として自分も亦生きるのである。天地一切のもの所を得るのである。

十月十三日 自在を得(う)る日 (本日午後一時より 福岡市住吉神社にて教育者講演会) (2471)
日時:2012年10月13日 (土) 13時35分
名前:童子

 『平法の中庸と云ふは動にあらず、静にして静にあらず、急にして急にあらず、浮にして浮にあらず、強にして強にあらず。』と云い、『然らば両端を捨て中を用ふるや』と自問自答している。


 動にして動にあらず、静にして静にあらず ―― と云うのは、動にも静にもない。動いているやら、じっとしているやら判らない、‘なまくら’な中途半端な行動をとると云うものでもない。山内翁は『「中」を用ふべき「中」も亦用ふ可からず』と、中庸を用うべしと云いながら、もう一度、その「中」に捉えられては自由が失うから、その「中」を打消しているのである。


 動静の両端の中程と云うような考え方は『中』そのものではなくして、『中』の跡であり、影に過ぎないのである。『直(じき)に中(ちゅう)にして事の以前を知る。中庸と云ふは是也。茫然として知り難きものは中也』とあって、そのまま『中』と『一』になってはじめて『中』が如何なるものであるかが判るのである。

 そのまま『中』と一つになるのは『我』を捨て、『我』を捨て、捨て切らねばならぬ。『我』の心で、その中間を行けば好いと云うようなことでは『中』ではない。『中』は未発であるから、無構えである。その無構さえも捨て切ったとき、直に『中』を得るのである。



 人間心で、構えて見たり、構えを捨てて見たりしても、『我』の心でやることは皆隙がある。我を捨て『中』に中して、はじめて自在を得る。

十月十四日 病いの本(もと)を知る日 (本日午後一時より 羽犬塚町八女中学校にて私の講演会) (2479)
日時:2012年10月14日 (日) 00時21分
名前:童子

 『我に惟(おもん)みるに人心の持病と成る根本を尋ぬるに、我(が)より発して念慾起る。此の念慾七情のために犯され、種々の苦悩を受けて、生より以来、死後に到るまで此の病苦を治(じ)す事難し。』 と山内蓮心翁は剣法の極意を一般の人生の悟りに及ぼし、剣法の持病を人体の持病にまで言い及ぼしているのである。


 『人身息命(じんしんそくみょう)の円相を忘れて此の病難をのがれ得ず。当に知るべし病苦の本を。天地者一息(てんちはいっそく)にして善悪の煩いなし。唯陰陽のみ也。然るに人身形を分って、過って人我の境を成す。』

と云いて、天地はただ一息であって、万物一体である。その万物一体の自覚あるところに善悪の煩いはない。従って病苦も無い。ただ人身の形を生ずるに到って、その形、その現象に捉えられ、自分と彼と、人と我との差別が出来、自他一体の自覚が崩れて来る。自他一体の自覚が崩れて来たときに、そこに隙が出来、そこに煩いが出来て来ると云うのである。



 一陰一陽是道と云う。ミチは水火(ミチ)である。陰陽は本来不二一体にして、陰陽の破れたるところが道の欠けたるところとなって病気を生ずる。だから夫婦が真に調和しているところに病気はないのである。


 山内翁説いて曰く 『陰の気を稟(う)くる者は陰を好み、陽の気を稟けたる者は陽を好む。このため陰我(いんが)、陽我(ようが)と成って陰陽始めて善悪となる。是より好き嫌いの気起りて我が病いとなる。』と。

十月十五日 大陸の将兵の労苦を偲ぶ日  (本日午後一時より 唐津市武徳殿にて私の講演会) (2500)
日時:2012年10月15日 (月) 11時57分
名前:童子

 天地一切のものと調和して無敵となるには、天地一切のものが本来、神なる『圓相』から生まれて来たものであることを知らなければならないのである。


 だから山内翁は一円相を描いて図解して説明して「一息一我なり〈他我なしとの意〉」故に主一無敵と云う。何ぞ人我の隔心あって何を敵として戦うべけんや。其の一息、浮息となりて天となる。沈息と成りて降って地と成る。

 天息は陽にして男、地息は陰にして女となる。天息と成りたるもの降れば即ち義愛と成り、婦息と成りたるもの昇れば即ち順思と成る。一息往来始終此くの如し。其の息父母と成って子息を生ず。父母の息下って慈悲と成り、子息と成りたるもの昇れば即ち孝敬と成る。

 息本出入し、体に依りて出入す。出息を先と云い入息を後とす。先息を兄とし、降れば即ち恵愛となる。後息を弟とし、昇れば即ち悌敬となる。

 天地高下あり、高息は貴にして君となって上に降れば仁恵と成り、下息は賤にして臣と成って下に居り昇れば即ち忠義となる。

 先後あり、先息尊にして上に居て師と成って降れば即ち敬愛となる。後息は卑にして下にいて弟子と成りて昇れば即ち敬愛となる。是れ天地の陰陽の別有るに似て、是の動静は一息なることを見るべし。」と。


 ひとつの息が循環しているのであるから上(かみ)、下(しも)を愛すれば、下、上に酬ゆ、響きの声に応ずるが如しと云っているのである。

十月十六日 天地の中心を知る日 (2522)
日時:2012年10月16日 (火) 12時13分
名前:童子

 山内翁は、その剣法の極意の中に天地始元の唯『一息(いっそく)』を説き、更に万教の畢竟帰一すべきことを明らかにしている ―― 曰く、『是の一息の中に諸法万宝を包束し、一息万宝に周(あまね)し。此の一息を見る事各々其要あり。儒門には是を皇皇帝とも天地同根万物一体之主人公とも云ふ。また禅門には本文の田地とも面目などとも云ふ。

 天台門には圓頓止観などと云はるるも是也。亦真言門には阿字本不生、また金胎の大日などとも云へり。浄土門には西方の阿弥陀仏、無量壽仏と尊び、草木国土悉皆浄土の会座と見る。

 我れ惟みるに一息の外に他なし。見る事異ると云ふとも、一息を悟らずんば、如何に根元を知ると云ふとも、実体を見ざる人なり。其の心は衣を隔てて肌を撫づるに似たり。故に一息を用ふうるに諸道を分って、其の宗を異れりとすと云ふ。』



 即ち山内蓮心翁に云わせれば、各宗派色々にわかれているが、『我れ惟ふに一息の外に他なし』であって、宇宙最始元の、天之御中主神の『中(みなか)』の一息のほかには何もないのである。



 諸宗は結局、天之御中主神を礼拝すべきものであって、諸道を分ち、諸宗を立てているけれども、それはその真髄に触れざること、まことに衣を隔てて肌に触れるようなものであると云うのである ―― 『一息の中に諸法万法を包束し、一息万宝に同じ』その一息を拝むこと大切である。

十月十七日 堅忍持久の計(はかりごと)を成す日 (本日午後一時より 福岡市住吉神社にて白鳩大会) (2542)
日時:2012年10月17日 (水) 11時52分
名前:童子

 何事を成すにも堅忍持久と云うことが大切である。堅忍持久のないところには物事は成就しないのである。


 聖戦満四年を超えて五年目に入り益々吾々は堅忍持久を失ってはならないのである。堅忍持久と口には云い易いけれども、これを実践するに於てただ一所懸命に‘あり切り’の力で怺えていると云うだけでは本当の堅忍持久には覚束ないのである。


 ‘ある’切りの力ではなく、有る以上の力を混々と喚び出して来なければならないのである。常に益々力の増大を内に感じ、それを外にあらわさなけれならないのである。そのためには『無限の力の源泉』に触れなければならないのである。

 その『無限の力の源泉』が、天之御中主神の『中』であり、『平』であり、そのままである。副島種臣氏伝うるところの日本古伝の鎮魂(たましずめ)の秘儀によれば、『感覚を蕩尽して天之御中主神と一体とならんことを期す』と云うのである。

 感覚を蕩尽するとは五官の世界を見ないことである。そして心騒がず、内外打成一片となりて心内にあらず、外にあらず、中間にあらず、『中』を得て、中の源泉より無限を汲み出さして来る事である。

 鎮魂(たましずめ)を伝うるもの世に数氏あれども、大抵は巫女の如く口寄せの如く、神おろしの如く行いて、迷信くさくなる。迷信は心が『中』を失うたのである。心が『中』を得るに最も達し易き方法は神想観なのである。

十月十八日 全力を尽す日  (本日より一週間 長崎講習会) (2565)
日時:2012年10月18日 (木) 09時53分
名前:童子

 明治天皇御製 ――

     身にはよしはかずなるとも剣太刀とぎな忘れそ大和心を



 毎日進歩する者は遂に偉大に到達する。油断をすればあとへもどるのである。勝ちて油断せぬことが極意なりと、ある長刀の極意の書に見えてある。進歩は累進的なよろこびであり、これだけ進歩して終りと云うことは無きものである。『点滴石を穿つ』と云う諺もある。人間は力が無いのではない、持続しないだけのことである。



 神は無限であるから、『これだけ切り』と云うことはない。『これだけ切り』と思う者は自らを晦す者である。神は吾々が力を出せば出す程、それを補い給うのである。

 力を出すことは神の子の特権である。力を出さない者は神の子たる特権を放棄する者である。神の子たる特権を放棄する者には神は力を与え給わないのである。

 力を出した時には悦びを感ずる。兄弟が力を出した時には賞賛したくなる。同胞が力を出した時には喝采せずにはいわれない。力を出すことは人類の願いであり、神が人間に与えた理想である。

 力を出し報いられない者は誰もいない。力を出した者には悦びが伴い、力が伴い、健康が伴い、光栄が伴う。何故なら、それは神が与えた理想を果すものであるからだ。

十月十九日 心の鏡をみがく日 (本日午後一時より 長崎市三菱会館にて三菱従業員に講演) (2596)
日時:2012年10月19日 (金) 00時50分
名前:童子

 しづかに坐して自己の中(うち)なる『中(ちゅう)』に触れよ。‘そのまま’の心になるのである。偏らぬ心になるのである。天之御中主神なる宇宙本源の大神の生命の『中(みなか)』とひとつになるのである。ひとつになっただけのものが其処に現れて来る。無限の力と一つになる者には無限の力が現れて来るのである。


 偏らぬ心になるとき、宇宙の偏らぬ神の生命と一つになる。そのとき力の浪費なくして最も効果多く力が使われるのである。力は出すから疲れるのではなく、偏った心、『中(ちゅう)』を失った乱れた心で力を使うから、天之御中主神から無限の力の流入に妨害が出来るのである。


 活力さえ旺盛であれば病気にかからない。活力が弱ければ薬剤を浴びるほど服んでも効くものではない。活力が第一である。その活力は神から来るのである。神と波長を合わすこと。それには人を憎まぬこと、憤らぬこと、争わぬこと、人の悪を思わぬこと、嫉妬せぬこと、羨ましいと思わぬこと、今自分に与えられたものを、唯有難いと素直に受けること。『今』を生かすこと。すべての人を、物を、拝むことである。


 明治天皇御製 ――

     われもまたさらにみがかむ曇なき人の心を鏡にして

十月二十日 精神を『今』に集中する日  (本日午後一時より 長崎市三菱会館にて私の講演会) (2620)
日時:2012年10月20日 (土) 01時16分
名前:童子

 善と波長を合わし、心の律(リズム)が本当に清まったならば病気と云うものは大抵禦ぎ得るのである。大抵の人は今出している力の数倍もの力を内に蔵しているのであるが、一心不乱になり切らないから、折角持ち合わせている偉大の力も出て来ないのである。


 関東大震災のとき、今迄躄のようになって動けなかったリョーマチスの患者が、慌てて逃げ出そうとして気がついて見ると、既に自分が起って走っていたと云うような実例もある。関西の風水害のときには、留守居の足腰の立たない中風患者が、滔々と流れ込んだ山海瀟(やまつなみ)の水が床にのぼるのを見ると、急に足腰が起って、重い行李をセッセと二階へ担ぎ上げたような実例もある。

 絶体絶命のときになると、今迄よりも数倍の力が出る。出るのは、その力が内部にあった証拠であって、吾々が普段にでもその力を出そうと‘真に決心すれば’出る筈なのである。その力は真に決心すれば出るのであるが、普段は真に決心しないのである。

 絶体絶命の時に無限の力は出るのは、傍目も振らずに目的物とただ一体になるからである。平常(ふだん)の時は余りに吾々は傍目を振り過ぎるのである。左顧右眄が多すぎる。あれにも心ひかされ、これにも心惹かされて生命力を一処に集中する事が出来ないのである。

 生命力が無いのではない。一処に集中しさえすれば力は出るのである。ヒットラーが強いのは、国事の他に何も考えていない精神集中の力である。

十月二十一日 神想観を励む日 (2636)
日時:2012年10月21日 (日) 00時13分
名前:童子

 明治天皇御製 ――

     千萬の民の力をあつめなばいかなる業も成らむとぞ思ふ



 天皇よりこのように慈まれ、信頼されている国民は幸いである。この光栄を思うとき吾々はどんなに働き過ぎると云うことはないのである。


 併し、理論は兎も角も、働き過ぎて過労になって病気に罹ると云う人は無いでもない。それは何故であるかと云うと、気があせり過ぎて、血液が逆上し、肩に血が滞り、全身の血液循環が平衡を失ってしまうからである。だから働けば働くほど力が出ると云っても、それには出し方があるのだと云うことを知らねばならぬ。

 無限精力を以て仕事をつづけようと思うものは、血液が頭に凝ったり、肩に凝ったりしないように、血液を下腹部に又は脚部へ自由に集める練習をすることが必要である。


 それには神想観の基本的練習法が最も効果がある。即ち正しく坐して静かに『神の生命流れ入る、流れ入る・・・・』と観じ、その神の生命が、後頭部から自己の背骨へ、背骨を伝わってずっと腰へ、脚へ、足先へと流れ入るように観ずる。

 意志の力で血液を一定のところへ集中しようとしても無駄である。観の力である。心に描くのである。神の生命が自分を今癒してくれつつあるように観ずるのである。

十月二十二日  熱意を以て事に臨む日 (2660)
日時:2012年10月22日 (月) 00時43分
名前:童子

 ドーヴァー海峡を越える弾丸を飛ばす長距離砲には、それだけ優秀な爆発力ある火薬を必要とするのである。形の弾丸は、火薬に眼に見えない爆発力に支えられて長距離を飛ぶのである。

 吾等は偉大な仕事をするには、内部に偉大なる爆発力を必要とするのである。


 吾々は燃えなければならない。先ず内に燃える力乏しきことを恥じよ。而して何事にも燃える熱意を持て。熱意なき者は人を惹きつける力乏しきのである。太陽は大きく燃えているから、周囲の流星を惹き着けて、更に大きく燃えて冷めることがないのである。


 自分ひとりでは、熱は冷めやすいのである。熱意を以て多くの同志と倶に燃えよ。次第次第に石炭は放り込まれる機関の窯のように燃えよ。燃えるのは力である。燃えるものは動く。燃えるものは走る。燃える動力で多くの列車を引摺って走るのである。燃えよ、燃えよ、燃えること少なきを恥よ。燃えるところに人を引摺って行く力が出るのである。


 人のことを羨む時間に、自分の成すべきことを成せ。機会は常にあるのである。自分の成すべきことを成しつつある『今』が機会なのである。『今』が久遠につながっている。『今』の他に『久遠』はない。『今』生きることが『久遠』を生きることになる。諸君は『今』燃えよ。国家の為に今燃えよ。

十月二十三日 天地到る処に神を見出す日 (2699)
日時:2012年10月23日 (火) 01時48分
名前:童子

 『物質は無い』と云うことは、『物質は、瓦礫に等しい無生物では無い』と云うことである。物質は生きていると云うことである。物質は物質ではなくて生命の表現である。


 人が自己に宿る神の智慧を働かせて、法則を発見すれば、神の力が物質と見えるものに活(はたら)き出すのである。何の役にも立たないと思われていたものから、素晴らしい価値あるものを生み出すことが出来る。

 人間の生活は要するに価値発見の生活である。価値発見の生活とは法則発見の生活である。価値は神より来り、法則は神の定め給いし法(のり)である。

 法を発見するのは神であり、神を発見するのは価値を発見するのである。神を発見するのは宗教家であり、法則を発見するのは科学者であり、価値を発見するのは倫理学者である。

 宗教と科学と倫理学とは決して別のものではないのである。一つのものの三つの顕れである。宗教と科学と倫理とは互に協力して行かねばならないのである。


 薬剤を必ずしも蔑視してはならない。火薬も薬剤であり、毒ガスも薬剤である。尤も薬剤は、そうした破壊作用を営む側には実にハッキリした効果をあらわす。併し、それが治癒作用をあらわす側には、まだ効果不確かだと云わなければならないものが多いのである。吾等は薬剤そのものを排斥するのではない。効果不確かな薬剤を排斥するのである。

十月二十四日  心の法則を知る日 (2741)
日時:2012年10月24日 (水) 01時59分
名前:童子

 物質を物質だと思って排斥し軽蔑した時代は過ぎたのである。物質は神の生命の変形だと云うことが発見されたのである。物質を大切にするものは神を大切にし、神を拝むものだと云うことがわかったのである。結局、物質は無く、神の生命のみがある。神一元の世界なのである。

 物質がただの『物』の塊であるならば、法則に従って使用しなくとも、『物』そのものとしての価値を現すべき筈であるが、物質が価値を現すのは、法則に従って、それが『処を得て』置かれたときだけである。即ち『物質』そのものの力ではなく、法則の力であるのである。

 吾々はもっともっと法則を発見しなければならないのである。物質は無く、法則のみがあるのである。この世界が法則の世界だと云うことを知らなければならないのである。吾々が不幸であるのは法則を知らないからである。吾々が不健康であるのは法則を破るからである。

 吾々の生命はコトバであり、コトバは『宣(のり)』であり、則(のり)であり、法(のり)であるから、吾等の生命は法則を発見し、法則を生かしたとき、一層幸福となり、より一層健康となる。


 現在人間が発見している法則は、神の無限の法則のうちの極く一小部分に過ぎないのである。物質としてあらわれ、精神としてあらわれているけれども、本(もと)は一つ、神である。法則は物質面にもあらわれれば、精神面にもあらわれる。精神の法則も閑却してはならないのである。

十月二十五日  天地萬物に感謝する日 (2799)
日時:2012年10月25日 (木) 01時51分
名前:童子

 吾々は毎夜電燈として利用している電力、毎日工場の機械を運転せしめている電力 ―― これらは物質と云ってよいかどうかは不明であるが、ただハッキリわかることは、それは法則の力によって吾々に恵福を与えていると云うことである。


 法則の利用の仕方によって、電燈は消え、そして点るのである。電気は燈を点すものだとのみ考えると間違いである。法則の利用によって、それは明るくもなり、暗くもなり、光が殆どなくなって熱にもなり、光が全然なくなって動力ともなるのである。光となれば、暗夜にも昼のように‘もの’を明るく見せてくれるのである。


 吾々の生命は『物質に頼るな』と云われているが、それは『物質に頼り過ぎていて、自己内在の生命の力に目覚めない人』に対して、生命の力を自覚せしめるための一喝なのである。


 物質に頼っては可けないが、物質を物質と見ず、物質を神のめぐみとして、その法則を発見することを怠らず、感謝して、それを利用厚生して行くことは人として謙遜なことであり、また決して間違いではないのである。ただあまりに物質〈生命力の外的顕れ〉に頼り過ぎると、内部の生命力が生きて来なくなる。その時『物質に頼るな』と一喝するのは好いことである。


 しかし又その一喝に捉われて、『物質』を軽蔑したり、『決して物質を利用せぬ』と頑張るようになるならば、それは又偏執であって、『物質とは神様だよ』と一喝しなければならぬことにもなる。

十月二十六日 第一線の将兵を偲ぶ日 (2845)
日時:2012年10月25日 (木) 22時17分
名前:童子

 明治天皇御製 ――

   いくさ人いかなるのべにあかすらむ蚊の聲しげくなれる夜ごろを

   つはものはいかに暑さを凌ぐらむ水にともしといふところにて



 日本天皇が此の世を治め給うのは知ろしめすのであって、主人穿(うしは)くのではない。主人穿(うしは)くとは、主人はその穿いている下駄の痛さを知らないで、強力をもって下のものを抑え動かしていることである。外国の君主はすべて『うしはく』であって、強きものが王となるのである。其処には悦服と云うことがない。


 上に掲げたるは日露戦争当時、 明治天皇が出征の将兵の労苦を知らしめし給いて詠ませたまえる御製である。


 かく 天皇によって知らしめされている有り難さを思えば、どんな艱苦もものとするに足りないのである。況んや、銃後の吾々の労苦の如きは云うに足りない。



 明治天皇御製 ――

   さわがしき風につけても外国にいでて世渡る民をこそおもへ

   ことしげき世にはあれども国民を教ふる道に心たゆなむ

   いにしへの御代の教にもとづきてひらけゆく世にたたむとぞ思ふ

十月二十七日 勇敢に前進する日 (2891)
日時:2012年10月27日 (土) 11時16分
名前:童子

 大抵世の中の人々の感心するような出来事や、発明や、勝利は、最初にはそんなことは到底出来る筈がないと思われていたことのみである。また出来るのが当り前だと思われるようなことなら、誰でもするし、また誰かがそれをしても少しも感心しないのである。


 人間が空を飛ぶことや、何千里も離れていて、その中に電線一つ繋がないで電話されるなどと云うことは、一世紀前の人間には到底考えられていなかったのである。また考えられていても、それは不可能のことだと思われていたのである。それが今容易に出来るためには、その当時出来ないと思われている事物に、勇敢に前進して行く人々が必要だったのである。


 吾々が、若し勇敢に前進して行くならば、そこから無限の智慧と力が湧いて来るのである。前進は力であり、速度は力である。速かに前進するものは、自分のところへ旋風のように自分の同志を捲込んでくることが出来るのである。


 躊躇するものは、ついにエネルギーが停止する。吾々は惰力が消えてしまった頃に、また新たな動力を加えるようでは駄目である。さきの爆発が、なお前進の惰力を失わないうちに、つぎのエンジンが爆発する。かくの如くして六気筒、八気筒の自動車は滑らかに前進するのである。

十月二十八日  精進努力の日 (2927)
日時:2012年10月28日 (日) 09時51分
名前:童子

 人間は神の子であると云うことは、自分のうちに出せば出る無限の力を包蔵していると云うことである。しかもその無限の力は神様の管理の下にあるのではなく、切符制度で出て来る訳でもなく、全然自分自身の管理の下に置かれているのであるから、自分の自覚と観念と努力とによって、それを自由に必要に応じて喚び出して来ることが出来るのである。


 まず自分に神の無限の力が宿っていると云う自覚がなければ、その無限力を引出して来ようと云う考えも思いも浮んで来ないであろう。しかしその無限力が宿っていることは知っていても、それを引出して来る手続きを知らなければ、預金はあるけれども通帳と実印とを持たない預金者みたいなものである。それでは宝の持ち腐れとなるほかはない。


 では神の子の無限力を自覚した者が、その無限力を引出すための通帳と実印なるものは何であるか。それは『われ神の子なり』と云う観念を『実印』として常に心の中に携えて置くと云うことである。そして『われ無限力なり』と云う観念を預金帳として常に携帯することである。


 『我れ神の子なり、我れ無限力なり』 ―― この観念を携行すれば実印と預金帳とは揃ったのである。しかしそれだけでは実際『無限力』は引出されはしないのである。無限力は、その実印と預金帳とを携えて銀行へ出かける ―― 即ち実際の出来事に努力すると云うことである。努力するのが手力男命のお働きである。

十月二十九日  相手に感謝する日 (2967)
日時:2012年10月29日 (月) 12時52分
名前:童子

 向うに手ごたえがあるからこちらに力が引出されて来るのである。無限力と云うのは、用もない時にでも重すぎる過剰力を引摺って、地球の中へ足を‘めり’込ましながら不便利に人生を歩むと云うことではないのである。


 向うの手ごたえに随って、敵手二倍力が出て来るのである。固いものを噛むので顎の力が内部から引出されて来る。豆腐ばかり食べていたらならば咀嚼力が発達しないのである。


 手剛い奴に感謝せよ ―― それは自分の力を引出してくれるところの観世音菩薩の化身であると思って合掌して立対うのである。この時に対立の観念が破れ、天下無敵があらわれるのである。



 自分よりも弱い者を対手にしている場合には自分の力は萎縮してしまう。また自分より強い者が外にいるとして、その外にいる者に頼るような依頼心を出していると、自分の力は衰弱して助けて貰わなければ起上がることが出来なくなる。


 困難は吾等の内に埋蔵する金鉱を掘出してくれる鶴嘴である。経験は自己の内部より無尽蔵を引出してくれるところの良き機会なのである。自己が消化し得たものだけが血となり肉となる。外から来るものはただの素材に過ぎないのである。

十月三十日  宗教と科学との一致を悟る日 (3001)
日時:2012年10月30日 (火) 07時18分
名前:童子

 科学を無視して人生を渡るものは、羅針盤を無視して航海するようなものである。熟練した船長の一種の勘と、北極星や七斗星の位置等を見定めることによって、或は羅針盤なくとも遠洋の航海に堪えるかも知れないが、それは羅針盤ほどには精確に船の位置を定めることは出来ないのである。


 吾々の生活も一種の勘によって何が自分にとって毒であり、何が自分にとって栄養になるかを見定めることは出来るのではあるけれども、自分の心が平衡を得ないとき、自分の心が病的であるとき、自分にとっては不適当〈この場合、不適当を以て毒と称するのであって、本来の『毒』はない。それが適当する人には薬剤ともなり、栄養ともなる〉なものを却って好むようにも成り勝ちである。


 人間が病気になっている場合、その人の心もまた病的になっているのであるから、病的な心で、これが栄養になるなどと考える食物がまた却って病気によくないのかも知れないのである。斯う云う場合は、病人は我(が)を出さず、科学の発見した方向に従順に従うべきである。


 神は決して毒も薬も作りたまわないのであるが、神が万物をおつくりになったところの理念のすがた、それがあるべきところに、あるべき時に、あるべき人に与えられたときに、それは薬となるのである。


 即ち、『薬』と云う確乎不動のものが‘ある’のではない。『薬』と云い、『毒』と云うのは状態である。

十月三十一日  大調和の日 (3039)
日時:2012年10月31日 (水) 08時32分
名前:童子

 食物が“調和”していたら、食物そのままが薬剤(くすり)となる。随って他に心労とか心配とは精神的な悩みのない限り病気にじゃならぬのである。 ―― 薬剤(くすり)と云うのは不適当な言葉ではあるけれども、奇しきはたらきをし、吾々を生かすと云う意味である。


 「何を食べても好い」と云うのは「食物の分量や配合や性質」に心を捉えられて、その方面からの心労の絶えぬ人に対する「心労放棄の一喝」であって、わざと不調和の食物を選んで食べよと云うのではないのである。


 そう云えば、やはり「食物には気をつけねばならぬ」と云って、またまた食物について気苦労するようになる人には、もう一度「何を食(くら)い何を飲まんと思い煩う勿れ」と大喝しなければならぬ。


 凡てありとあらゆる物は外形は「物質」であっても、内容(なかみ)は「理念」であるから、「理念」は目的理想があって、あるべきところへ、あるべきように、あらしめられることを要求しているのであるから ―― 簡単に云えば「処を得る」と云うことを要求しているのであるから ―― 処を得ない時には不調和があらわれるのである。だから人間の食用すべき食物と食用すべからざる物質とがある。また同じ物でも時と人と場合とによって調和したりしなかったりする。


 科学は色々の実験を通してその処を得る法則を発見し、宗教は直覚又は霊感によって其の処を得る道を知らさんとする。だから科学は宗教とは一致して相補わなければならぬものである。



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