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大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《本来生、不滅の神示》 L 《完》 (2072)
日時:2012年10月01日 (月) 10時59分
名前:コスモス

 物質の束縛に縛られざるものを人間と言うのである。真の人間は『神の子』であって物質ではなく、肉体ではない。肉体ではないから物質の世界に出入する事もない。物質の世界に出入することがないから物質の世界より見れば人間は不生である。不生であるから滅することも亦ないのである。

 物質界は念に従って生ずる念の映像なるが故に、従ってまた滅すれども、『人間』は本来物質界に生ぜざるを以て又滅するという事もない。人間は本来『生』である。『滅』に対する『生』ではなく、本来『生』であるから、老なく、病なく、死なく、破壊がないのである。

 老とは『生』の衰耄(すいもう)を言えども、人間は本来『生』であるから衰耄せず老朽しないのである。衰耄は『生』にあらず、人間に非ず。衰耄なきを『人間』と言い、老朽せざるを『人間』と言う。病なきを『人間』と言い、『死』なきを『人間』と言う。

 釈迦は『人間』の生老病苦の四苦を見て出家したと言えども、釈迦はそのときまだ『人間』を見ていたのではない。念の影を見て『人間』と思い違いしていたに過ぎない。釈迦がこの世を見て無常と観じたのも『真の人間』の世を観たのではない。それは無明の投影の世を観て無常としたのである。

 真の人間は無常の中にあらず、肉体の中にあらず、人間は永遠不死、金剛身、如来身、実相身、清浄身である。人間は神の子なるが故に本来『浄』にして不浄ではない。人間を指して不生不滅不垢(く)不浄と言うのは真相ではない。

 般若の思想は無常想から実相想に到る過渡的思想であるから、不生不滅不垢不浄を説きたれどもこれは物質に比喩(ひゆ)しての方便説である。人間は不生不滅ではなく、本来生にして不滅がその実相である。また人間は不垢不浄ではなく真清浄真無垢がその実相である。本来生、不滅、本来清浄真無垢なる人間の実相を知ったとき汝らは歓びに満されて手の舞い足の踏む所を知らないであろう。
       (昭和七年十一月二十五日神示)


         (つづく)

   平成二十四年十月一日謹写  感謝合掌    


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「本来生、不滅の神示」 @ (2075)
日時:2012年10月01日 (月) 12時44分
名前:コスモス

《 講 義 》


  「物質の束縛に縛られざるものを人間と言うのである。真の人間は『神の子』であって物質ではなく、肉体ではない。肉体ではないから物質の世界に出入する事もない。物質の世界に出入することがないから物質の世界より見れば人間は不生である。不生であるから滅することも亦ないのである。」

 この人間が「不生」ということがもっとも大切な真理であります。「不生」とは「生れぬ」と書いてありますが、人間は肉体がオギャーと生まれた時に生れたのではないのでありまして、それ以前からおるのであります。

 久遠不滅の神の「いのち」が今此処に生きているのが人間ですから、人間は「不生」である。不生であるから死ぬこともないというわけであります。

 盤珪禅師という禅宗の坊さんが「不生」という言葉で、非常に易しく禅宗の真理をお説きになりましたが、此の「不生のいのち」随って「死なないいのち」というものを知ることが禅宗に限らず全ての宗教の神髄であります。

 吾々の五感による感覚には人間はオギャーと生れた時に「生れたいのち」を知るのですけれども、生れたものは亡びなければならない。生じたものは滅しなければならない。これは永久に変わることなき真理であります。

 だからこの「生じたところの肉体」を「自分」だと思っている限りに於いては、人間は死ななければならないのであります。「不生」を得るには、その考えをクラリと換えることが必要なんであります。

 それを生長の家では「三百六十度転回」と言っています。百八十度転回じゃないのであって三百六十度転回するわけです。百八十度展開では、単に今までとは逆の方向を向いてしまうわけであります。

 例えば、人間は物質に非ず、肉体に非ずと生長の家で教えられる。すると、「そんなら飯も食わないでもよかろう、空気も吸わないでよかろう、飯も空気も物質だから----」と言うような人がある。これは百八十度転回して、逆を向いてしまったわけであります。

 それをもう百八十度転回して三百六十度転回になりますと、今迄物質だと思っていた世界が、物質じゃないのであって、霊であるということが判るわけであります。

 そして飯も空気も物質ではなく、霊である、仏のいのちであるとわかって来て、それを合掌して頂くことができるようになるのであります。

 即ち釈迦が悟られた時のように山川草木国土悉皆成仏――みんな仏の「いのち」の「現れ」であるということが判るのであります。そして一切のものが「物質」ではなく、人間も「肉体」ではなく、「物質」ではないということがわかります。

 そうしますと、人間の"rebirth"即ち「新たに生れる」「生れ更り」というものが成就するのであります。その「生れ更り」が成就すれば、世界そのものが変貌するのであります。

 キリストは『ヨハネ伝』第三章で「人あらたに生れずば、神の国を見ること能(あた)わず」と言っていますが、これを更に言い換えれば、「人新たに生れれば神の国を見ることを得」ということになります。その新たに生れ更る行事が神想観であります。

         (つづく)


   平成二十四年十月一日謹写 感謝合掌


 

大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「本来生、不滅の神示」 A (2077)
日時:2012年10月01日 (月) 14時20分
名前:コスモス

 皆さん目をつぶって、そのままの姿勢でよろしいからなるべく顔の前にやや高く合掌して下さい。そして神想観の気持で次のように念じて見て下さい。

 われ今五官の世界を去って実相の世界に入る。
 此処がこのまま実相の世界である。
 神の無限の智慧の海、神の無限の智慧の海、
 神の無限の智慧の海。
 神の無限の愛の海、神の無限の愛の海、
 神の無限の愛の海。
 神の無限の生命の海、神の無限の生命の海、
 神の無限の生命の海。
 神の無限の供給の海、神の無限の供給の海、
 神の無限の供給の海。
 神の無限の悦びの海、神の無限の悦びの海、
 神の無限の悦びの海。
 神の無限の調和の海、神の無限の調和の海、
 神の無限の調和の海。

 こう観じまして、光明燦然たる素晴らしい実相の世界の有様をジーッと観じて、神様の「いのち」を自分が吸い込む気持ちになるのであります。

 基本的神想観では「神の無限の生かす力自分の中に流れ入る」と、前に念じた神の六つの恩徳を全部引っくるめて、"神の無限の生かす力"と謂い、それが流れ入ると念じますが、今は仮りに「神の"いのち"流れ入る」とだけ念じて頂くことに致します。

 静かに息を吸い込みながら、「神の"いのち"われに流れ入り給う、神の"いのち"われに流れ入り給う‐‐」と繰り返し念じて下さい。多分二回か三回念ずる間息を吸い込めばよいと思います。

 そして、その流れ入った生命を自分の下腹の方に落とすように、鳩尾(みぞおち)のあたりを少しは背後(うしろ)に引っ込める気持で、息を臍下丹田(せいかたんでん)に落してジッと溜めたまま、「神の生命われに流れ入り給いてわが生命となり給う。もはやわれ物質に非ず、肉体に非ず、霊的実在なり金剛不壊(ふえ)なり」とこう念じまして、しばらく下腹に息を保って出さないでおります。

 そのうちに自然と息が鼻孔からわからぬ程少しずつ洩れて出ます。そのとき、「われ霊的実在なり、金剛不壊なり、病むことなく老いることなく死することなし。」こう念じつづけます。

 その間に息が徐々に鼻孔から漏れつつあって、まだ多少、下腹に息が残っているけれども、酸素がやや欠乏して、息が吸いたくなる時が来ます。その時、再び息を吸います。

 その時にまた「神の"いのち"われに流れ入り給う。神の"いのち"われに流れ入り給う‐‐」と念じて息を吸い、やがてその息を下腹に落して、暫く息を止めたまま「神の"いのち"流れ入り給いてわが"いのち"となり給う。もはやわれ物質に非ず肉体に非ず、霊的実在なり、金剛不壊なり。」それから徐々に少しずつ息を洩らしながら、「病むことなく老いることなく死することなし」と念じます。それから又、息を吸って同じように繰り返し念ずるわけです。

 息を吸うときには「神の"いのち"われに流れ入り給う」と念ずる。「給う」という言葉を使う方が好いです。何故かと申しますと、尊厳な感じが自然と起って来るからです。今迄自分の生きていた"いのち"が、如何にも尊い素晴らしい厳かなる"いのち"であるという自覚が起って来るからであります。

 即ち、もう一度言いますと、「神の"いのち"われに流れ入りてわが"いのち"となり給う。神の"いのち"われに流れ入りてわが"いのち"となり給う」と念じて息を吸い、その息を下腹におとして、「もはやわれ生くるに非ず。物質に非ず、肉体に非ず、霊的実在なり、金剛不壊なり」と念じ、その下腹の力を抜かないで、

 わずかに息を洩らしながら、「病むことなく老いることなく死することなし」と念じます。この行事を暫く静かにやって下さい。(暫時、一同、教えられた通り瞑目合掌して念ずる。)

 それでは、静かに目を開いて合掌を下して下さい。今のは念ずる言葉の見本みたいなものですが、これは自分の"いのち"が「不生」の"いのち"、生れないところの「久遠のいのち」であるということを自覚する簡単な神想観であります。

  「物質の束縛に縛られざるものを人間と言うのである。真の人間は『神の子』であって物質ではなく、肉体ではない。肉体ではないから物質の世界に出入する事もない。物質の世界に出入することがないから物質の世界より見れば人間は不生である。不生であるから滅することも亦ないのである。」というのは以上のような意味であります。

               (つづく)


       平成二十四年十月一日謹写  感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「本来生、不滅の神示」 B (2083)
日時:2012年10月01日 (月) 18時46分
名前:コスモス



「物質界は念に従って生ずる念の映像なるが故に、従ってまた滅すれども、『人間』は本来物質界に生ぜざるを以て又滅するという事もない。人間は本来『生』である。」

 此の本来『生』というところが注目すべき焦点であります。人間は「不生」なんですけれども、本来『生』なんです。つまり始めなき初めから"生きて"いるのです。人間は生命"そのもの"なのです。現象界に生れたり滅したりするのではなくて、永遠に「生」なのであります。

 あの『甘露の法雨』の中に「"消滅"を超越して」とありますが、普通は「"生滅"を超越して」と書きたいところなんです。仏教では「不生不滅」と言いますが、特に爰(ここ)には、「消滅を超越して」と書いてあるのは、「生」を超越して「生ではない」と言ってしまうと都合がわるいからです。

 どこまでも人間は「生」であるからです。「不生の生」であります。消滅するッていうことはなくて本来の『生』である。「絶対の生」である。

 本来生き通しであって、始めなき初めから永遠の生き通しであって、生れたことがないのですから、「不生の生」であります。現象界に生れたということもなく、「消滅する」ッていうことが全然ない。本来の「生」である。だから「消滅を超越して」という風に『甘露の法雨』に書かれているわけであります。


  「人間は本来『生』である。『滅』に対する『生』ではなく、本来『生』であるから、老なく、病なく、死なく、破壊がないのである。

 老とは『生』の衰耄(すいもう)を言えども、人間は本来『生』であるから衰耄せず老朽しないのである。衰耄は『生』にあらず、人間に非ず。衰耄なきを『人間』と言い、老朽せざるを『人間』と言う。病なきを『人間』と言い、『死』なきを『人間』と言う。

 釈迦は『人間』の生老病苦の四苦を見て出家したと言えども、釈迦はそのときまだ『人間』を見ていたのではない。念の影を見て『人間』と思い違いしていたに過ぎない。釈迦がこの世を見て無常と観じたのも『真の人間』の世を観たのではない。それは無明の投影の世を観て無常としたのである。

 真の人間は無常の中にあらず、肉体の中にあらず、人間は永遠不死、金剛身、如来身、実相身、清浄身である。人間は神の子なるが故に本来『浄』にして不浄ではない。人間を指して不生不滅不垢(く)不浄と言うのは真相ではない。

 般若の思想は無常想から実相想に到る過渡的思想であるから、不生不滅不垢不浄を説きたれどもこれは物質に比喩(ひゆ)しての方便説である。人間は不生不滅ではなく、本来生にして不滅がその実相である。また人間は不垢不浄ではなく真清浄真無垢がその実相である。本来生、不滅、本来清浄真無垢なる人間の実相を知ったとき汝らは歓びに満されて手の舞い足の踏む所を知らないであろう。」


 ここには人間不滅の最高の素晴らしい真理が教えられているのであります。「衰耄は『生』にあらず、人間に非ず。衰耄なきを『人間』と言い、老朽せざるを『人間』と言う。病なきを『人間』と言い、『死』なきを『人間』と言う」との宣言は、「人間は死すべきものだ! 病むべきものだ! 老いるべきものだ!」という五官認識を真っ向から打ち破ったものであります。

 「老朽せざるを『人間』と言う。病なきを『人間』と言い、『死』なきを『人間』と言う。」これは、普通の人間では到底言うことのできない大宣言であります。

 まことに「観」の三百六十度転回を完成しまして、本当に実相を観た神人でないと、この様な言葉は言えない言葉であります。

 これは私が書いたのではなく、神様が書かして下さったのです。私はただ喇叭であり、ひたすら神の教えを信奉して、実践して生きんことを努力している一介の衆生であります。

 どんなに努力しましても、時には脱線したりすることがあります。普通の人間では、なかなかこの肉体の眼で見て、「人間というものは老衰せぬものである」と断言することは難しい。「先生は本当に年の割に若いなあ‐‐」なんて褒めて下さる人もありましても、細かい文字を見るときには、やっぱり老眼鏡をかけたりする。(笑声)

 そういう肉体を見て、それが「先生」だと思い、それが「人間」だと思っている人がある。しかしそれはまだ先生を見たのではない。「老朽せざるを人間と言う」と神示にハッキリ示されているのであります。

 本当の人間、本当の先生を見たら、現象では眼鏡を掛け、皺が寄り、白髪が多少混じっていても、眼鏡を掛けておらぬ、皺も寄っておらぬ、白髪が出来ておらぬ、永遠に衰耄しない人間を見ることができるのであります。それを「本当の人間だ」と言うのであります。これを本当に知らんといかんですよ。

          (つづく)

    
     平成二十四年十月一日謹写  感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「本来生、不滅の神示」 C (2087)
日時:2012年10月01日 (月) 21時46分
名前:コスモス


 「人間は久遠不滅である」と言ったら、この肉体の谷口を見て、それが久遠不滅で何時までもこの肉体が永遠に存続するのかと思っていたら間違いであります。

 この肉体を見て「先生は年齢より二十歳位若い」などと思うものは、本当の谷口を見たものでも本当の人間を見たものでもない。それは肉体という影を見るものである。それは単に皮袋を見ているに過ぎないのであります。

 この皮袋が、心の法則と物質の法則とに随って、眼鏡を掛けたり、皺が寄ったり、白髪が出来たりしているのであって、少しばかり、他の人に比べて心の持ち方が良いから、その影に皺が少ないというだけのことであって、(笑声拍手)それを「人間生き通し」の証拠にするのは間違いであります。

 肉体というのは念の影であって、「人間ではない」というのが神様の教えであります。そして「念」というものが形に現れる。「念があらわれる」いうのは、私だけの念があらわれるのじゃなくて、二十何億の人類というものはみんな「肉体というものは老いるものである」という念波を起しているのであります。

 それでその人類の念が、誰の肉体にもあらわれるのであります。「人間は何十歳になれば大体こんな容貌になるんだ」という観念が、二十何億という「人間」という生きた放送局から放送されておって、その放送の波の世界に、私達は生活しているのですから、その念の影として、人はある年齢に達すれば、ある年齢の容貌というものが出て来るのであります。

 それを人類の念(即ち人類意識)の具象化と申します。その人類意識の具象化に逆らって、多少でも若いのは、私の特殊の精神波動という面が形に現れて、割合若く見えているというだけのものであって、その若く見えている肉体が人間ではない。

 それは人間の念の影で出来た皮袋であって、「人間を見ない」ものであるということになるわけであります。だから「老朽せざるを人間といい、病なきを人間といい、死せざるを人間というのである」と神様は宣言せられた。

 何という素晴らしい宣言ではありませんか。これ一つを聴くだけでも、素晴らしい大真理を知らされたものだと歓喜勇躍すべきものであります。この大真理が本当に判ったら、釈迦牟尼如来と同じ悟りを得たことになるのであります。

          
          (つづく)


     平成二十四年十月一日謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「本来生、不滅の神示」 D (2117)
日時:2012年10月02日 (火) 15時21分
名前:コスモス

 「人間というものは"死なない"ものだ!」というのを、ただ単に言葉として覚えただけであったり、お釈迦様がそう言っとったからそうだろうとか、谷口がそう言ったから間違いはないだろうとかいうだけではいけないのであります。

 「人間というもは老いざるものである。病まざるものである。死せざるものである。」それを「根本に」自覚することが大切なのであります。そこから生活が本当に出発 して行くのでなければ、足が地に着いた生活だと言えないのであります。

 そういう訳で「釈迦は『人間』の生老病死の四苦を見て出家したと言えども、釈迦はそのときまだ『人間』を見ていたのではない。念の影を見て『人間』と思い違いしていたに過ぎない」と示されているのであります。

 即ち釈迦が皇居の外苑を散歩しておられた時に、病人が出て来たり、老人が出て来たり、死骸が出て来たりして、それを見て、「ああ人間というものはみんな病気になって、そして老いて、そして死んで、こんな姿にならなければならないのか!」と思って、お歎きになって、この人間の四苦から解脱するにはどうしたらよいかとお考えになって、

 未だ悟りを開く前の青年釈迦が人間の老い病み死する姿を見て、そしてその境涯から脱するのには、どうしたらいいか? ということを考えられた、その時釈尊はまだ「人間というものを『肉体』だ」と思っていられたわけであって、肉体でないところの人間「そのもの」を観ておられなかったわけであります。

 釈尊が、「人間」そのものを「本当に」見られた時に「われは天上天下唯我独尊である。」そしてそれは「われ」ひとりだけじゃない、「奇なるかな、奇なる哉。一切衆生悉く仏の徳相を具有しているのである」ということをご覧になった。

 即ち「すべての人間が久遠滅びざるところの仏である!」ということを観られたのであります。換言すれば、「人間というものは死なないものである」という根本を見られたのであります。

          (つづく)

     平成二十四年十月二日謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「本来生、不滅の神示」 E (2164)
日時:2012年10月04日 (木) 08時26分
名前:コスモス

 私たちは常にこの久遠滅びざる人間を見ることが必要なのであります。この久遠病まず、老いず、滅びざる人間を観るとき、現象的には病気しておっても「病気していないのだ。病気なんて無いぞーッ!」と言うことが出来るのです。現象的には老人になっていても、「老いるってことは無いぞーッ!」と言えるんです。
           
 人間を観れば、「人間<そのもの>」人間の実相を観ることが必要なのです。実相を観るのです。実相です。
               
 自分の実相というものは、神の「いのち」そのものであるのです。だから「神の<いのち>流れ入りて、わが生命となり給う」と神想観を修して、それを念じ、「人間は老いないものである。死せざるものである」という自覚を深めるのであります。

 これを始終お念じになると、次第に「自分のいのちというものは永遠不滅の<いのち>である」という自覚が深まり、そこから人間・久遠不滅の金剛不壊の信仰というものが生れて来ることになるのであります。


  「真の人間は無常の中にあらず、肉体の中にあらず、人間は永遠不死、金剛身、如来身、実相身、清浄身である。人間は神の子なるが故に本来『浄』にして不浄ではない。人間を指して不生不滅不垢(く)不浄と言うのは真相ではない。

 般若の思想は無常想から実相想に到る過渡的思想であるから、不生不滅不垢不浄を説きたれどもこれは物質に比喩(ひゆ)しての方便説である。人間は不生不滅ではなく、本来生にして不滅がその実相である。また人間は不垢不浄ではなく真清浄真無垢がその実相である。本来生、不滅、本来清浄真無垢なる人間の実相を知ったとき汝らは歓びに満されて手の舞い足の踏む所を知らないであろう。」

 爰(ここ)には般若の思想の批判が書かれております。般若心経には「不垢不浄」即ち「垢れず浄からず」などと一見訳のわからんことが書かれていますが、爰には「実相身は清浄身である」とキッパリと断定してあるところに注目しなければならないのです。

 言葉の力というものは「断定」することに力が発揮されるのであって、「汚れず浄からず」どっちかわからぬのでは言葉の力が出て来ませぬ。

 もっとも般若は、現象界の浄不浄を全部否定したのでありますが、俗人には一寸わかりかねます。

           
            (つづく)


    平成二十四年十月四日謹写  感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「本来生、不滅の神示」 F (2180)
日時:2012年10月04日 (木) 13時12分
名前:コスモス

 仏教は最初、阿含経以来「諸行無常」という「現象無常の真理」から説いて来たのです。「諸行」というのは、現象界の諸々の運行せる事物、行為です。

 現象界のことを見たら、人間はみんな、老いる、病む、死するのであり、人間だけでなく、物質界に現れているすべてのものは、みんなやがては、古び、朽ち、懐けてしまうのであります。無常の世界であります。

 仏教というものはその現象界の事物の儚さを見ることから出発 した。「諸行無常の鐘の声」と言われる人口に膾炙した譬えがある様に「この世界の凡て生れたものは滅しなければならないのである」と釈尊は先ずこの現実の儚さに魂を打たれて、

 「この無常なる世界を超えて何処かに永遠なるものがあるのではなかろうか」というような、「永遠なるもの」に対する思慕が、宗教心として釈尊の中から起って来たのです。

 釈尊だけではない。私たちの生命の本質の中には、現象の無常を見て、その無常で満足出来ない「あるもの」が自分にあるわけなんです。それで、何故無常を見ながら無常に満足出来ない"或るもの"が自分にあるわけなんです。

 それで、何故無常を見ながら無常に満足出来ない「或るもの」が人間の中から出て来るかという問題が起ります。「無いもの」は出て来ようがないのであります。

 それですから私たちが無常に満足できないのは、自分の中に「無常ならざるもの」が本来あるからこそ、無常を見てそれで満足出来ないということになるわけであります。

 自己の中に「無常」でないところの、本来「常恒不変」なる実在が自分に宿っておって、その「常恒不変なるもの」が自分の本質であり、本当の「いのち」であるから、「無常」というものに満足出来なくなるのであります。

 即ち私たちの「いのち」の本質は「本来常恒」――常に在って滅びないところのものであるわけであります。


                       (つづく)

          
           平成二十四年十月四日謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「本来生、不滅の神示」 G (2189)
日時:2012年10月04日 (木) 18時54分
名前:コスモス


 兎も角、仏教というものは、先ず現象界を見て、「生老病死」の無常の有様に心打たれて、何とかそれから脱け出さなければならないというので、現象否定の哲学が生れて来た。

 「色即是空」――物質は空であって何にも無いのである。亡びる様に見えているけれども、それは生じたことも滅びることもないのである。私たちの感覚は現象を見て、汚いとか綺麗とか言うけれども、「そんなもの」は無いのである。

 その感覚そのものも、眼耳鼻舌身意もないものである――こういう風に一応完全に無常の世界を打ち消す思想が、般若の思想であります。

 「般若」というのは「智慧」ということであります。実相を知る智慧であって、知識ではありません。知識では現象の空であることはわかりません。「何故無いものがあるのか」というような常識的な質問が起ります。

 そういう常識的な質問を超えて、端的に現象の空を、直感的に捉えたのが、般若の智慧である。それで「現象界」は空の空なるもので、"「無常」も無い"のであると言うのであります。

 釈尊が、愈々涅槃に入り給う時に、涅槃経というお経をお説きになりました。お経といっても、こうスラスラスラスラと演説されたのではありません。

 「経」というのは経糸(たていと)という字です。織物の経糸です。経糸というのは真っ直ぐであって、横に歪まないものなのです。即ちお経というのは、永遠に終始一貫つらぬいているところの真理の言葉という意味であります。

 お経をお説きになったといっても、あの経文にある通りをズーッと一遍にお説きになったかと言うと、そうじゃなくて、色々弟子と問答をして、真理をお説きになったのを、お経と言っているのであります。「真理」の座談会の記録というようなものであります。

            (つづく)

    
       平成二十四年十月四日謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「本来生、不滅の神示」 H (2226)
日時:2012年10月05日 (金) 14時06分
名前:コスモス


 仏教の説く真理は、一切のものは因縁によって変転するものである。諸行は無常なものである。この世の中で変滅しないものは一つもないのである。すべては空の空なるものであるということでありましたが、

 涅槃経に於いてその説き方は一変したのであります。存在の世界を「無常」と言わないで、「常」の世界――常に変わらない世界である。不滅の世界であると説かれたのであります。

 そしてこの無常の世界に無常でないものを求めている人間の生活は四苦八苦いろいろの苦しみを嘗めなければならない「苦の世界」であると説かれていたのであるが、

 涅槃経に於いては、そういう現象の無常を見ないで、実相の「常楽」の世界を見られて、「常楽」とお説きになったのであります。

 それから、法華・涅槃以前の小乗仏教では「無我」という。「我」――即ち「われ」というものは無いのである。「我」というように見えているものは、因縁が寄り集まって、一時的に「我」というものがあらわれているに過ぎない。そんな「我」という主体はないのだと説かれて来たのであります。

 仏教の歌に、
 「引き寄せてむすべば柴の庵(いおり)なり。解くればもとの薪(たきぎ)なりけり」
 という歌がありますが、「人間じゃ。わしじゃ」とこう言っているけれども、「引き寄せて結べば柴の庵なり」という訳で、今、柴の庵の格好をしているけれども、庵なんて本来ない、薪の集りに過ぎない。

 それと同じように「人間」の形をして「わし」じゃ「俺」じゃと言っても、そんなものは本来無い。色々の食物の成分が集まって、一時的に人間という形が出来、脳髄が出来て、それで「わしが、わしが」と考える働きが化学的に出来ているけれども、その成分がバラバラに解けてしまったら、元の分子、原子に過ぎない。何処に「我」という主体性があるか。

 それは「柴の庵」のようなものだ。山の木を切って来て束ねたら、小さな柴の小屋が出来ておるけれども、それを解いてしまったら薪に過ぎないのである。

 それと同じ様に、食物の成分が集まって脳が出来たから「もの」を考えて「わしだ、わしだ」と言っておるけれども、「わし」というものは本来「無い」んだ。それは物質の化学的作用であらわれた一種の現象で、物質の混合割合が変われば消えてしまう。−−こういう風にして「無我」の真理を説いておられたのです。

          (つづく)

     平成二十四年十月五日謹写 感謝合掌 


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「本来生、不滅の神示」 I (2229)
日時:2012年10月05日 (金) 15時23分
名前:コスモス


 ところが脳髄が出て来て考える「われ」なんて本来無いのだけれども、その「肉体の我」を否定し去ったあとに、その奥に「本当のわれ」というものがあります。

 それが不生不滅の永遠の生命であって、「本来生」であるところの「本当の自分」というもの。それが「そこ」にあるのである――ということをお説きになりました。これが「常、楽、我」であります。

 その次は「常楽我浄」の「浄」についてであります。今まで、仏説ではこの世界は汚ない世界である。穢土であると言われておったけれども、そうじゃないのであって「浄」である、「浄らかなる世界」であるとお説きになったのであります。

 即ち涅槃経に於いては、常恒不変の楽な不滅の「われ」というものが存在するところの浄らかなる世界が「この」世界である――ということをお説きになったのであります。

 無常・苦・無我・不浄の世界をお説きになった前半生の釈尊の説き方を手掌(てのひら)を返すようにその逆をお説きになったのであります。

 しかも此の涅槃経というのは、お釈迦さまが亡くなられる時の最後のギリギリに教えられたのでありますから、仏教の最後の結論みたいなものであります。

 それで仏教というものは、最初に説かれたところの「この世は無常である、苦しみの娑婆である、"わしが、わしが"と言っているが、その本体の我というものは、本来あるように見えているけれども無我である、そしてこの世界は穢土であって、汚ない世界である。人間は美しく見えているけれども、それは皮膚一枚のことである。腹綿(腸)を断ち割って見たら、汚れたるウンコが充満している。美しいと見えているのは、五官の錯覚じゃよ」という風に説いておられたのだけれども、それは単に現象の事である。

 涅槃経に至って、釈尊は"現象を超えたその奥のあるところの人間の「いのちそのもの」――霊なる実在なる人間の生命「そのもの」を観たならば、光明燦然と輝いているところの素晴らしい実在の人間があるのであつて、それは真清浄真無垢である。

 まことにもこの世界は清浄であって、其処に住む人間もきよらかで、まことに無垢にしてけがれなきところのものである、ということをお説きになったのであります。

 この涅槃経と同じことを生長の家は説いているのでありまして、これが生長の家の教えの素晴らしいところであります。現象の世界に住みながら現象を超え、肉体をあらわしながら肉体を超えて、「霊なる自分」を自覚する。これが「新たに生れる」ということであります。

           (つづく)

    平成二十四年十月五日謹写 感謝合掌 


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「本来生、不滅の神示」 J (2234)
日時:2012年10月05日 (金) 22時09分
名前:コスモス

 世の中には色々の宗教があります。お賽銭を払って、お祭りや御祈祷をして様々の功徳があるのもあります。それも必ずしも悪いことではありませんが、その祭祀されている神というのには、色々の階級の神々がおられまして、そういう神がやっぱりある程度の人間を救うためには必要であって働いているのであります。

 『生命の實相』の第五巻に(携帯版では第九巻に)霊界篇がありますが、あの中にコルニリエというフランスの画家がレイヌという十六歳のモデル娘を霊媒にして、高級霊のヴェッテリニというのが憑って来て、霊界の秘密を語るところがありますが、その高級霊がやって来る迄に、テーブルが動く現象が起って来る。

 それで画家のコルニリエと少女のレイヌの二人が薄暗がりの夕暮れにテーブルに手を軽くつけていると、そのテーブルがガタガタと激しく動き出す。

 それで二人は驚いて、"人間の力で動かさんのにテーブルが動き出して、テーブルの脚で合図をする、変なことがあるものだ"と気がつくところがありますが、こんな物理的現象を起す霊は、宇宙遍満の神様が出て来るわけではないのであります。

 こういう物質的現象をやる霊は、物質的に働きかける必要があるので、物質に近い波長を持っている霊であります。そうでないとこういう様な物を動かす働きが出来ないわけであります。

 あの場合には、フェルナンという霊が出て来ている。「あれは低い霊であるがそういう方面の力が強いので、最初彼を遣わして、そして度肝を抜いておいて、"なるほど霊というものはあるものだ"ということを見せておいたんだ」ということを後に高級霊のヴェッテリニが説明しています。

 そんな訳で、宗教界に於いても神霊研究方面に於いても、色々なものが出て来て、人間を騙すような現象があらわれて来ることがあるけれども、そんなのを、何故正しい神様が抑えないかと言うと、

 それは人間が自ら、どれが本当に正しいのであるか、正しくないのであるかということを、自己判断する力を養わなければならないのであるということであります。

 人間自身何らの判断力をはたらかす必要がなく、常に何事でも、神様が、「これは正しいんだ。これは悪いんだ‐‐」と言って教えてくれて、人間は単に木偶(でく)の坊みたいになっているのでは、人間に内在する本当の自分の智慧が発達しないのであります。

 ですからこの世界には、泥棒する奴も出て来るし、詐欺する者もあるけれども、それはやっぱり、それを如何に処置すべきかについて自分で考えて、自分の精神を練る必要があって、ある意味においては「必要悪」として、人間の精神に訓練のための課題を提供しているのであるから、必要期間、その行為をやっていることが、大目に許される。

 手提カバンでも網棚の上にポカンと置いとくから盗まれるのであって、「これからはそんな愚かなことは致しますまい。万事に行き届いた智慧を働かせましょう」と、手提を盗まれたその人がそこで思い直すことが出来るのであります。

 火の不始末のために、火事が起ったとしますと「ああ、火の不始末はしてはならないものである」ということが、その火災のために気が付くのです。

            (つづく)


     平成二十四年十月五日謹写 感謝合掌 


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「本来生、不滅の神示」 K (2258)
日時:2012年10月06日 (土) 12時20分
名前:コスモス

 さっき体験談を言われた青年の話では、六十万円の借金をして女遊びをしたり酒呑んだりしたと言われた。そんな莫大な損をせんうちに、何故神様が止めてくれなかったかと思うかも知れんけれども、それもやっぱり、自分が実際に経験してみて、そして、「成る程ッ! こういうことはしてはならない」と、自分で判るように神様はしておられる。

また、その両親にしても、何故息子がこんな放蕩息子になったかという自己反省が、その事件によって起こる。それは息子にとっても、両親にとっても必要な練成科目である。

 息子が何か悪い事をしようとする時に、神様が「これしては可かんぞ」と言って、息子の手でも麻痺させてしまって、「こんなことは出来んな」というのであっては、それは強制力によって正しい方に向けるのであって、人間本人の中から「これは正しい」というものが出て来ないのであります。

 神様は人間自身の中から「本来の正しさ」が自分の判断によって自然に出て来るように、神様は「悪い行為と見えているもの」をもゆるしておられるのであります。

 全く神様は本当に人間に完全な自由を与えておられるのであって、強制的に「これは善だから是非させる」とは被仰らないのです。自らの中に神が宿っているのですから、自らの磨きによって、その内在の神性が自ずから発揮される様に、色々の環境や素材が出て来るのです。

 尤も同じ環境におかれましても、上手な磨き方を教えてもらうと、楽に早く磨けるということもあるのです。それを教えることが吾々宗教家の役目でもあるわけですが、遠回りをして、下手な魂の磨き方をしていると永らく擦らんと磨けないものが、

 生長の家の飛田給の練成道場にでも行って、十日間でもみっちり練成を受けると早く磨けるということにもなるわけでありますが、兎も角、人間を色々の環境に置いて、人間自身が、自分で魂を磨き得る機会を与えてやるために、

 なくてはならぬ或る働きをするために、仮に悪人として現れて来る人もあれば、下等の霊が出て来て、宗教まがいのことをやったりする場合もある。

 そして、それに騙されて、あるいは方角が良いとか悪いとか、名前が良いとか悪いとか言って、あっちへ行って騙され、こっちへ行ってだまされしながら、「成る程、こういう場合には、こう注意をしなければならぬものだ」ということを知って、自ら悟って、本当に正しい方へ向いて行くための練成をしているのであります。

 だから悪く見えておっても、魂を磨く側から観れば、悪いものは一つもないわけであります。皆各々の役目があって、時に応じて夫々(それぞれ)の働きをしているのであります。

 生長の家は、これは人類最後の最高の教えをするところでありますから、ここに集っていらっしゃる人達は、霊魂の高い素晴らしい人ばかりなのであります。ですから聖使命菩薩として、本尊の前にその誠魂をお祀りしているわけであります。即ち皆さんは、既にその魂が菩薩たる階級の人で、人を救う使命をもっていられる方が集まって来ておられるわけであります。


         (つづく)

      
     平成二十四年十月六日謹写 感謝合掌 


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「本来生、不滅の神示」 L (2265)
日時:2012年10月06日 (土) 16時38分
名前:コスモス


 救うといっても色々あって、病気が治るのも救いでありますし、貧乏で弱っているのを金が儲かるようにしてあげるのも救いだし、社会の下積みになっている人が世に出られるように導いてあげるのも救いですけれども、そんな事は結局一時的救いであります。

 病気が治ったにしても、とどのつまりは、人間はやがては死ぬでしょう。貧乏が治って財産を積んでおっても、冥途に行く時には、その財産を棄てて往かんならんでしょう。

 だから、そんな救いは永久の救いではない。本当の救いというものは、「人間は神の子である。老朽せざるを人間という。病まざるを人間という。死せざるを人間という。真清浄真無垢なるところの神の『いのちそのもの』が人間だ」ということを自覚させて、

 永遠に朽ちざる生命の自覚を与える宗教が一番素晴らしい宗教であり、この最も高い救いを与えるのが、生長の家であるのであります。

 そういう真理がこの神示には示されているのであります。すなわち、
 「本来生、不滅、本来清浄真無垢なる人間の実相を知ったとき汝らは歓びに満たされて、手の舞い足の踏む所を知らないであろう」と示されている所以であります。


            《完》

   平成二十四年十月六日謹写 感謝合掌 




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