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トルコと日本の絆 (2869)
日時:2012年10月26日 (金) 18時07分
名前:伝統


「日本の国民性は偉大」 122年前の遭難事故救助にトルコ人が感謝

    *産経ニュース(2012.10.26[westライフ] )

トルコ・アクデニズ大のイスラフィル・クルトジェフェ学長(54)らが25日、
和歌山県串本町を訪れ、122年前の遭難事故で580人以上の乗組員が犠牲となった
オスマントルコの軍艦「エルトゥールル号」の慰霊碑に献花した。


クルトジェフェ学長「2つの国、ずっと家族だ」

    

ア大の関係者は、学術提携している千葉大との交流のため21日に来日。
オスマン史の研究を専門にしているクルトジェフェ学長が、遭難事故で地元住民が
献身的な救助活動をした同町を訪問したいと希望したという。

一行はクルトジェフェ学長夫妻や大学関係者ら7人。
慰霊碑に献花し、遭難事故の犠牲者に祈りをささげた。
このあと、住民が乗組員を救助したことを伝える町立トルコ記念館などを見学した。

クルトジェフェ学長は「私たちの国の祖先を救助した日本の国民性は偉大だ。
日本とトルコの間には家族のような関係が築かれている。この場に来て大変感動している」
と話した。


*「エルトゥールル号遭難事故」が起きたのは明治23(1890)年9月16日夜。
 エルトゥールル号は明治天皇への拝謁を終えての帰路、台風により串本町沖で座礁。
 乗組員580人以上が死亡したが、地元住民の献身的な活動で69人が救出された。

<参考Web:地震、遭難、エヴァンゲリオン… トルコと日本の深い関係
 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120109/waf12010912000007-n5.htm >

      <感謝合掌 平成24年10月26日 頓首再拝>

エルトゥールル号の海難事故 (3093)
日時:2012年11月02日 (金) 03時51分
名前:伝統


”山ちゃん1952 さま”の日記 より抜粋
   神に愛された国 日本(2012年09月12日)
   → http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201209120001/

《エルトゥールル号の海難事故》

1890(明治23)年にトルコの国から、軍艦エルトゥールル号がトルコ使節団を乗せ、
はるばる日本にやって来ました。そしてトルコと日本の友好を深めました。

3ヵ月後、エルトゥールル号は日本を離れました。
しかし和歌山県の沖合で台風に遭い、沈没してしまいました。
この事故で乗組員のうち600人近くが死亡しました。

しかし、目本の地元民たちが必死に生存者たちを救助し、結局69人の命が助かったのです。
救助したのは、和歌山県の沖合に浮かぶ大島の島民たちでした。
おりからの台風の直撃を受けて、救助活動は至難をきわめました。
けれども彼らは必死に救助を続けて、69人の命を助けたのです。

当時の記録が残っています。

「まず生きた人を救え!・ 海水で血を洗い、包帯をせよ。
泣く者、わめく者を背負って一一百尺の断崖をよじのぼる者は無我夢中だった:・

島民たちは、生存者を助けると彼らを背負って断崖をよじのぼり、
火をおこすこともままならない中、ふるえる彼らを人肌で温めて、
精魂の限りを尽くしたのです。

島民たちは、非常用の食べ物を出してきて、彼らに食べさせました。
島にはわずか400戸しかありませんでしたから、島はたちまち食糧が欠乏してしまいました。

そこまでしてでも、彼らはトルコ人たちを助けたのです。
そののち、生存者たちは病院で手厚い看護を受け、
日本の船に乗せられて無事トルコに帰国しました。

さらに日本国内では、犠牲者と遺族への義援金も集められました。
そして遭難現場付近の岬と、地中海に面するトルコ南岸の双方に、
慰霊碑が建てられたのです。

このエルトゥールル号の事故と、日本人たちの献身的な救助活動は、
トルコでは歴史教科書にも記されました。

だからトルコの人たちは、いつか日本人にこの恩返しをしたいと恩ってくれていたのです。
それが、あのテヘラン空港の目本人救助となってあらわれました。

なんという美しい話ではありませんか。私たちはこういう話を聞いて、何を思うでしょうか。

      <感謝合掌 平成24年11月2日 頓首再拝>

友好の恩返し (3309)
日時:2012年11月07日 (水) 04時43分
名前:伝統


    *竹田恒泰・著『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』より

(1)軍艦沈没で育まれたトルコとの友好は有名。

   和歌山県沖で沈没したオスマントルコ軍艦「エルトゥールル号」の遭難事件は、
   トルコの教科書に必ず紹介される。

   1890年、トルコの使節団は、宮中で歓待を受け、明治天皇にオスマントルコ皇帝
   からの親書と勲章を献上した後、本国を目指した。

   紀伊熊野灘に差しかかったエルトゥールル号は、
   台風の中心に入り込み、座礁、沈没した。

   生還したのは69名のみで、特使の提督をはじめ約500名の命が失われた。

   遭難を知った地元住民は、夜を徹して生存者の救助と手当てに尽力。
   多くの村民たちが生存者を看病した。

   紀伊大島は貧しい島で、島民は食べるものにも困る状況だったが、
   非常食として飼っていたニワトリなどの食料を遭難者たちに分け与えた。

   その後、軍艦2隻をオスマントルコに派遣し、生存者たちを母国に送還した。

(2)トルコの日本への友好の恩返し

   遭難事件から95年後、イラン・イラク戦争の最中、
   各国は軍用機や民間機チャーター便を派遣してイランに駐在する自国民の保護に
   努めた。

   日本は自衛隊を海外派遣できない上、日航に救援機の派遣を求めるも同社の組合が
   反対したため、日本人を保護できない事態に陥った。

   イラン駐在の野村豊大使は、在イラン・トルコ大使のビルセル氏に相談したところ、
   トルコが救援機を派遣して救出してくれることになった。


   トルコ大使は
   「トルコ人なら誰でもエルトゥールル号遭難事件の際に受けた恩義を知っています。
   ご恩返しをさせていただきましょう」
   と語ったという。

   そして、トルコ航空の2機がテヘランに派遣され、
   215人の日本人は全員救出された。

   救援機の派遣を決めたトルコのオザル首相(当時)は、
   他国民を助けるために、自国民を危険にさらす決断をしたのだ。

   (伝統補足:本来的には、自国民救済のための救援機でしたが、日本のために
         それを振り向けてくれたもの)

      <感謝合掌 平成24年11月7日 頓首再拝>

【エルトゥールル号の遭難】(詳細) (3429)
日時:2012年11月10日 (土) 04時58分
名前:伝統


 和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。
 明治3年(1870年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に立っている。

 びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。
 どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。

 台風が大島を襲った。明治23年9月16日の夜であった。

 午後9時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。
 灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。

 「何か大変なことが起こらなければいいが」
 灯台守は胸騒ぎした。
 しかし、風と岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。

 このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。
 全長76メートルもある船。
 しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいてくる。

 あぶない! 
 灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、
 海面には岩がにょきにょき出ている。

 ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。船は真っ二つに裂けた。
 その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。

 この爆発音を灯台守が聞いたのだった。
 乗組員全員が海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。
 真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。
 そして、岩にたたきつけられた。

 一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。
 意識を失い、岩場に打ち上げられた。

 「息子よ、起きなさい」懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
 「お母さん」という自分の声で意識がもどった。

 真っ暗な中で灯台の光が見えた。
 「あそこに行けば、人がいるに違いない」そう思うと、急に力が湧いてきた。
 40メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。

 灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。
 顔から血が流れ全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。

 灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。
 「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。



 「あなたのお国はどこですか」「・・・・・・」言葉が通じなかった。
 それで「万国信号音」を見せて、初めて、この人はトルコ人であること、
 船はトルコ軍艦であることを知った。

 また、身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。

 「この乗組員たちを救うには人手が要る」
 傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。
 「樫野の人たちに知らせよう」

 灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。
 人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。

 灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。
 助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。

 この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。
 船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。

 だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。
 目をそむけたくなる光景であった。村の男たちは泣いた。

 遠い外国から来て日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。
 「一人でも多く救ってあげたい」しかし、大多数は動かなかった。

 一人の男が叫ぶ。「息があるぞ!」だが、触ってみると、ほとんど体温を感じない。
 村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。
 自分の体温で彼らを温めはじめた。

 「死ぬな!」「元気を出せ!」「生きるんだ!」

 村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。
 船に乗っていた人は600人余り。そして、助かった人は69名。
 この船の名はエルトゥールル号である。

 助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。
 当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。
 井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれた。

 漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。
 ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。

 このような村落に、69名もの外国人が収容されたのだ。
 島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。

 だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。
 台風で漁ができなかったからである。

 「もう食べさせてあげるものがない」「どうしよう!」
 一人の婦人が言う。「にわとりが残っている」
 「でも、これを食べてしまったら・・・・・」
 「お天とうさまが、守ってくださるよ」

 女たちはそう語りながら、最後に残った「にわとり」を料理して、トルコの人に食べさせた。
 こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。

 また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。


 このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、
 そして明治天皇に言上された。

 明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。

 さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。

 このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。
 日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。

 *参考Web
  http://www.locopoint.net/love_peace/ertugrul.html

      <感謝合掌 平成24年11月10日 頓首再拝>

トルコによる日本人救出 (3503)
日時:2012年11月12日 (月) 06時12分
名前:伝統


恩を仇で返す人や国がありますが、今回紹介する記事は、
遠い昔受けた恩をしっかり子々孫々伝えて、
日本人の窮地を救ってくれた親日国家「トルコ」による「日本」への恩返しのお話です。

少し、長いですが、大切なことなので、紹介させていただきます。

    *メールマガジン「Japan On the Globe(H22.08.29/09.04)」より

【 トルコによるイラン在住日本人救出 】

(1)イラク空軍の空爆に怯えるテヘラン在住日本人たちに日本政府は救援機を出さなかった。

  @「頼む! 助けてやってくれ!」

   伊藤忠商事のトルコ・イスタンブル事務所長・森永堯(たかし)さんの電話が鳴った。
   日本の本社からだった。相手はいきなりまくしたてた。

   __________
   イラクのサダム・フセイン大統領が、「1985年3月19日20時以降、
   イラン領空を通過する航空機は民間機といえども安全を保障しない」と警告を発した。

   イランにいる在留外国人は一斉に出国しようとしている。
   在留邦人も脱出しようとしているが、乗せてくれる飛行機がない。

   ついては在留邦人救出のために、トルコ航空を飛ばしてもらうよう、
   トルコ政府にお願いできないか?

   彼らは危険にさらされているのだ!
   頼む! 助けてやってくれ!
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

   1980(昭和55)年に始まったイランとイラクの戦争は、
   5年経ってますます激しさを加えていた。

   1985(昭和60)年にはイラク空軍機はテヘランの民間居住域を空爆する
   までになっていた。日本人学校の先生宅の2軒隣に爆弾が落ちて5人の死者が
   出ていた。

   さらにイラクのフセイン大統領は、イラン領空を「戦争空域」と宣言し、
   民間航空機もすべて撃ち落とすという、歴史的にも類を見ない声明を出したのである。

  A日本政府は救援機を出せない

   当時、テヘランにいた野村豊・駐イラン大使は当時の状況をこう語っている。
   __________
   在留邦人の生命財産の保護は国の主権として大使館の一番重要な仕事のひとつで、
   私の脳裏を一刻も離れることのない問題でした。

   外国は自国民が外国でクーデターや災害等に巻き込まれると救援機や運搬機で
   自国民を救出する慣例がありますが、日本は55年体制論争が続いており、
   当時、救援機や政府の専用機を所持していませんでした。
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

   「55年体制論争」とは、社会党の「自衛隊を海外に出す事は、侵略戦争に
   つながる」という主張によって、海外在留邦人救出のための手段が必要だと
   言う声も、押しつぶされていた状況を指している。

   __________
   17日にフセインが出した「イラン戦争区域宣言」を受け、私はただちに日本へ
   救援機派遣要請を出しましたが、本省から、救援機派遣にはイランとイラク両国の
   安全保障の確約を現地で取得するよう指示がありました。

   民間航空機の乗務員の安全確保が優先されたからですが、そのような確約は不可能でした。
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

   自衛隊救援機も出せず、政府専用機もないので、民間航空会社に要請するしかない
   わけだが、その乗務員の安全確保が保障されない以上、日本からの救援機は
   出せない、というのである。

   空爆の恐怖に曝されている現地在留邦人は、日本政府から見捨てられた形になっていた。

(2)どこの航空会社も「自国民優先主義」

  @当時は、JALもANAもテヘランには乗り入れてなかった。
   危険を感じていた在留日本人の中には、欧州各国の航空会社に発券を申し込んで
   いたが、どの航空会社も「自国民と外交官を優先しなければならない」と拒否した。

  Aソ連のアエロフロートなら乗せてもらえるというので、オープン・チケット
   (搭乗日未定の航空券)を事前に入手していた日本人も多かった。

   当然、搭乗できると思っていたので、空港のアエロフロートのチェックイン・カウンター
   でチケットを提示して、搭乗手続きを行おうとした。

   ところが、アエロフロートは「ソ連人かワルシャワパック加盟国(ソ連陣営の
   共産国)が優先」と言って取り合わない。

   どこの航空会社も「自国民優先主義」が国際常識で、
   日本人を乗せてくれる会社はなかった。

  B特に、家族連れの日本人駐在員は、奥さんや子供たちを脱出させる便が見つからない
   ことから、絶望感と焦燥感でパニック状態に陥ってしまった。

   こうした窮状が伊藤忠のテヘラン事務所から、東京本社に伝えられた。
   東京本社から、「頼む! 助けてやってくれ!」という悲鳴のような緊急電話が
   入ったのは、こういう状況だった。

(3)「何故日本の航空機が救出に来ないのか?」

   電話を受けた森永さんは、不思議に思った。
   __________
   日本人がこんなに危機に直面しているのに、
   何故日本の航空機が救出に来ないのか?

   今起きている問題は、イランにいる日本人の問題なのだから、本来イランと日本が
   当事国である。トルコは全く関係のない第三国である。
   それなのに何故トルコが巻き込まれるのか?
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   森永さん自身が疑問に思った事は、トルコ政府からかならず質問されるだろう。
   それにどう答えるのか。

   さらに彼らは当然、次のようにも言うだろう。
   __________
   テヘランには大勢のトルコ人がいる。トルコ政府としてはまずはトルコ人を救出
   すべきなので、その対策で頭が一杯である。

   外国人である日本人救援のことまで頭が回らないのが実情なのに、何を言っているのだ?
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

   トルコ政府に頼むにしても、こうした質問や言い分に、すぐに答えられるよう、
   説得力のある回答をあらかじめ用意しておかなければならない。

(4)「体当たりでお願いしてみよう」

  @良い考えが浮かばないまま、いたずらに時間が過ぎていく。
   一方で、テヘランの在留邦人の窮状を思うと、もはや思案している場合ではなく、
   一刻も早く行動を起こさねばならない。

   焦燥感と責任感で心臓がつぶれそうだった。

   森永さんは決心した。頼む相手は、無理筋の話でも、即断即決で引き受けてくれる
   トップでなければならない。

   しかも自分の親しい友人で、強い指導力と実行力のある人でなければならない。
   となると頼む相手はたった一人しかいない。
   「オザル首相にお願いしよう」と決めた。

   そして、本来、筋の立たないお願いなので、無手勝流となっても仕方がない。
   これ以上へたな思案をせずに、体当たりでお願いしてみよう。

  A意を決した森永さんは、オザル首相のオフィスに電話をかけた。
   頻繁に電話をかけあっている仲だったので、その時も「緊急」ということで、
   すんなりとつないでくれた。

   「トゥルグット・ベイ! 助けて下さい」 
   トゥルグットは、オザル首相のファースト・ネームである。
   ただし、男性に対する尊称の「ベイ」をつけて呼んでいた。

   「どうした? ドストゥム・モリナーガさん」 
   ドストゥムは、トルコ語で「親友」の意味である。
   また日本通らしく「さん」をつけて呼んでくれた。

(5)「わかった。心配するな。親友モリナーガさん」

   「トゥルグット・ベイ! 
   トルコ航空に指示を出して、テヘランにいる日本人を救出して下さい」

   「テヘランにいる日本人がどうしたと言うのだ? モリナーガさん」
 
   森永さんはテヘランでの日本人の窮状を説明した。
   本来トルコには何の関係もない事だが、
   こんな事をお願いできるのは、あなたの他にいません、と必死で訴えた。

   オザル首相は森永さんの話を黙って聞いていた。いつもならすぐに返事をするのに、
   その時は話を聞き終わっても何も言わずに沈黙を続けていた。

   __________
   私は固唾(かたず)を呑んで、彼の言葉を待っていた。
   「YES」とも「No]とも言わない。
   私にはこの沈黙の時間がものすごく長く感じられた。

   その間、「断られたらどうしよう」とか色んなことが頭をよぎる。
   でも彼は電話の向こうで沈黙を続けたままである。

   やがてオザル首相は口を開いた。

   「わかった。心配するな。親友モリナーガさん。後で電話する」
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

    この答えに、森永さんはしばし呆然としてしまった。
   「質問されたら困るな」と怖れていたのに、何の質問もない。
   小躍りしたくなるほど嬉しかったが、胸がつまってしまい、
   「大変、ありがとうございます。トゥルグット・ベイ」と言うのが精一杯であった。

(6)オザル氏との信頼関係

  @森永さんが、オザル氏に初めて会ったのは、この時点より10年ほど前だった。
   オザルさんはまだ政治家ではなく、いくつかの民間企業の顧問として働いていた。

   「日本は資源がないので資源を輸入し、技術力で付加価値を付け輸出している」
   と口癖のように言う知日家であり、親日家であった。

  A当時のトルコは、農業が最大の産業であったので、
   日本から技術を導入し、農業用トラクターの製造を行おうとしていた。

   しかし、当時のトルコは国自体が経済破綻の危機に瀕しており、
   そんな国に資本を投下しようとする日本企業は皆無だった。

  Bそこで森永さんが協力して、何とか工面した外貨でトラクターの部品を
   日本から輸入し、細々と組み立てるという事業をおこした。

   1978(昭和53)年、トルコはついに外国からの借款が返済できなくなる
   という最悪の状態に陥った。

   トラクター製造事業も風前の灯火となったが、
   森永さんとオザルさんは力を合わせてこの困難に対峙した。
   この過程で互いへの信頼が強まっていった。

  Cその後、オザルさんは、手腕を見込まれて経済担当大臣となり、
   「オザル経済改革パッケージ」を発表した。

   それまでの規制だらけの経済を自由化する事を原則として、
   これが今日でもトルコ経済運営の基礎となっている。

   大臣となっても、オザル氏は日本の経済運営を参考にしたいと、
   森永さんをよく大臣室に呼んで話を聞いた。

   オザル氏は、その後の内閣でも経済運営の腕を買われ、経済担当副首相となった。

   そして1983(昭和58)年の総選挙では祖国党を立ち上げ、その分かり易い
   経済政策が国民に支持され、地滑り的な圧勝を遂げて、ついに首相になった。

  D一時、帰国していた森永さんが、イスタンブール支店長として再赴任すると、
   オザル首相は森永さんを「日本関係私設顧問」と呼びながら、大事にしてくれたのである。

   テヘラン在留日本人の救出を頼んだのは、それからまもなくの事であった。

(7)「ハイレッティム(全てアレンジした)。心配するな」

  @オザル首相は「心配するな」と言ってくれたが、
   その後トルコ政府からも、トルコ航空からも連絡が来ない。

   森永さんは心配になってきた。
   このままでは、サダム・フセイン声明の設定した期限が過ぎてしまう。

  A数時間後、やっとオザル首相自身から電話があった。
   どきどきして森永さんは首相の言葉を待った。

   首相は落ち着いた声で、
   「ハイレッティム(全てアレンジした)。心配するな。親友モリナーガさん」
   と言ってくれた。

   __________
   日本人救援のため、テヘランにトルコ航空の特別機を1機出す。
   詳細はトルコ航空と連絡をとったら良い。
   日本の皆さんによろしく。
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

   それを聞いて、森永さんは驚くと同時に、
   体の芯から喜びが湧き上がるのを抑えきれなかった。

   __________
   トゥルグット・ベイ! 大変、大変、大変ありがとうございます。
   何も難しい質問をせず、私のお願いを聞き入れて頂き、ありがとうございます。

   日本人の救出のために救援機を出して、後で政治問題になるかもしれないのに、
   リスクを取って大決断して頂き、ありがとうございます。
   どんなに感謝しても、感謝しきれません。

   早速テヘランの日本人にこの大英断を伝えます。
   大変ありがとうございます。
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  B森永さんは電話を切ると、この朗報を直ちに東京経由でテヘランに伝えた。

   しかし、テヘランの日本人は、その情報をにわかには信じられなかった。
   それまでどこの航空会社にも搭乗を拒否されて、絶望の淵にいたのだ。

   急にトルコ航空が特別機を出すと言っても、信じがたい思いだった。

   そもそもテヘランには600人を優に超えるトルコ人ビジネスマンが滞在している。
   トルコ航空が特別機を出すと言っても、彼らを優先するのが当然なので、
   日本人まで席が回ってくるか、といぶかしく思ったのである。

(8)トルコはテヘランの自国民に陸路をとらせてまで、日本人救出を優先させた。

  @「日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」

   事件当時、イランに駐在していた野村豊大使は、
   当時をこう振り返って、こう語っている。
   __________
   さて、フセイン大統領の言うタイム・リミットの前日の18日夕方、
   ビルセル大使(駐イラン・トルコ大使)から、「明日、トルコ航空機が2機来る。
   空席があるから日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」という電話が来ました。

   その頃は大分空襲が激しくなっていたので、在留邦人は郊外の温泉地のホテルや、
   テヘラン市内の高級ホテルの地下室等に避難していました。

   大使館員は翌19日の明け方までかけて手分けして邦人の居所を探し、
   希望を募りました。

   そして19日の晩に2機、一つは19時15分、
   もう一機は直前の20時頃飛び立ったのです。
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

   野村大使はビルセル大使と家族ぐるみの付き合いをしており、
   それが、こういう際にもスムーズに連絡をとれた一因であろう。

   ちなみに邦人が脱出した後も、野村大使と大使館員49名は現地に残った。

  A「この任務を皆、喜んで引き受けました」

   同じく、前日の夜、トルコ航空では日本人救出機の飛行準備を進めていた。
   機長のスヨルジョ氏は語る。
   __________
   このフライトの飛行命令が出たのは、前日の夜でした。翌朝に飛行ルートを決定し、
   準備をしてアンカラに飛び、アンカラで最新情報の取得や給油などを済ませ、
   現地へ向かうということでした。
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

   救援機に乗り込んだ客室乗務員でもっとも若かったキョプルルさんは、
   「イラク爆撃の話を聞いて恐怖心はありませんでしたか?」と聞かれて、
   こう答えている。
   __________
   私にとっては予定外の仕事で緊張しましたが、怖くはありませんでしたし、
   非常に有意義な業務であるため、興奮したことを覚えています。

   当社では職務上の命令でも、危険な業務であると自分が判断した場合は拒否する
   こともできますが、私たちは非常に規律ある組織だったので、各人が業務の内容を
   理解し、また、人間として他者を助けるということが大切ですので、
   この任務を皆、喜んで引き受けました。
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

   キョプルルさんはこの任務のことを夫には伝えたが、
   父母には心配させたくなかったので、話さなかったという。

  B搭乗券を手にすると、歓声があがった

   当時、東京銀行イラン駐在員としてテヘランにいた毛利悟さんは、こう回想する。
   __________
   昼間チケットを求めてヨーロッパの航空会社の事務所を回り、チケットを入手しても
   自国民優先ということで座席の確保がなかなかできませんでした。
   そのうちに民間機撃墜の話があり、パニックのような状態になりました。
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   そこにトルコ航空機が救援に来る、という知らせが大使館から入った。
   __________
   当日のテヘランの飛行場は脱出しようとするイラン人、外国人が一杯でしたので、
   いっせいに何千人という人が飛行場に駆けつけ、トルコ航空のカウンターの前にも
   長蛇の列が出来ていました。急なことだったので、着の身着のままの人も多かったのです。
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

   それまで、どこの航空会社も「自国民優先」ということで、日本人の搭乗を拒否して
   いたので、トルコ航空のチェックイン・カウンターに並んだ人たちも、
   本当に搭乗できるのか、疑心暗鬼であった。

   最初に並んだ日本人が搭乗券を手にすると、歓声があがった。懸念が安心に変わると、
   後に並ぶ日本人たちは逸る気持ちを抑えつつ、順番が来るのを待った。

   特に家族連れの日本人は、実際に搭乗券を手にした時、「これで脱出できる」と、
   妻子を護る、夫として親としての責任を果たせたので、安堵の気持ちに包まれた。

  C「飛行機に駆け乗る乗客を見たのは初めてでした」

   救援機はDC10、当時のトルコ航空では最大の機種であった。
   緊急の救援要請にも関わらず、こんな大型機をやりくりしてくれたのである。

   客室乗務員のキョプルルさんは、出発時の状況をこう語っている。
   __________
   エンジニアが飛行機のドアを開けると、飛行機へ駆け込んでくる日本人を見ました。
   飛行機に駆け乗る乗客を見たのは初めてでした。

   私たちもとても緊張していましたが、皆さんはもっと緊張しておられ、その時に、
   早くお客さまを乗せ、一刻も早く出発しなければならないということを強く意識
   しました。

   乗客の方々は皆、恐怖を感じながらも、テヘランを脱出できるという喜びに溢れて
   いました。私たちもその感情を共有することができました。

   私たちは客室乗務員として、できる限りのサービスをしました。
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

   飛行機がテヘランに到着してから、
   217名の乗客を乗せ、ドアを閉めるまで、わずか30分程度だった。

   日本人乗客らは、緊急の救援機なので女性乗務員はいないだろう、とか、食事や、
   まして酒などなくとも仕方ない、と思い込んでいた。
 
   ところが、客室乗務員が全員女性、それも美しいトルコ女性が
   にこやかに普通の便と同じように出迎えてくれた事に驚いた。
   また食事も酒も出たのには、さらにびっくりした。

   イスタンブルに着陸した時には、機内にお酒はまったく残っていなかったという。
   それだけ日本人乗客等は開放感に浸っていたのであろう。

  D「ご搭乗の皆様、日本人の皆様、トルコにようこそ」

   救援機が水平飛行に移って、しばらくすると眼下にアララット山が見えてきた。
   標高5165メートル、イランとトルコの国境に位置している。

   この山を通過すると、スヨルジョ機長はアナウンスを行なった。

   「ご搭乗の皆様、日本人の皆様、トルコにようこそ」

   機内に大歓声があがった。日本人乗客たちは口々に叫んだ。

   「トルコ領に入ったぞ!」「イランを脱出したぞ!」
   「やった! やった!」「万歳! 万歳!」

   昨日からの一連の出来事が思い出され、いろいろな気持ちが一度に胸にあふれて、
   泣き出した人たちも多かった。
   殊に家族連れの日本人達は涙を浮かべつつ、なりふり構わず、喜びを爆発させていた。

  E「我々は地獄から天国に来たのだ」

   トルコのオザル首相に直訴して日本人救援機派遣を実現した伊藤忠商事・イスタンブル
   事務所長・森永堯(たかし)さんは、バスを仕立てて出迎えたが、
   アタチュルク国際空港に降り立った邦人たちを見て、驚いた。
   __________
   薄汚れた普段着を着て、ビニール袋に取り敢えずの生活必需品を入れただけの
   持ち物を持ち、子供の手を引いて、文字通り「着の身着のまま」という姿で
   現れたのである。

   殊に子供連れの夫人達は、疎開地生活そのままという格好が、その苦労を物語っていた。

   お気の毒としか言い表せなかった。
   無理もない。疎開地から取るものもとりあえずテヘラン空港に駆けつけたのである。
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

   ホテルに着くと、シーフード・レストランでの歓迎大宴会が待っていた。
   イランではアルコールが禁止されていたので、よく冷えたビールを口にすると、
   みな「今いるのはイランではなく、トルコなのだ」と実感した。

   世界三大料理の一つと言われるトルコ料理を堪能した後でも、邦人たちは
   「店先に並んでいる生カキが美味しそう」と言い出した。
   森永さんは、もう暖かくなってきているので、
   生で食べてお腹でも壊したら大変と止めた。

   森永さんがオザル首相の補佐官からの電話に出て、無事の脱出を報告し、
   席に戻ると、なんとテーブルにずらりと生カキが並べられ、
   皆が美味しそうに口にしているではないか。彼らは言った。

   「こんな幸せはない。我々は地獄から天国に来たのだ。カキに当たるなら当たってもいい。
   たとえコレラになっても、今までのつらい思いを思えば、ずっと幸せなのだ」

   幸いにも、誰一人食中毒にもならず、翌日、全員、無事に日本に向かった。

  F「あなたを独りにしておかない」

   しかしテヘランには、600人を超えるトルコ人ビジネスマンがいた。
   当日、日本人救援の特別機の他に定期便がもう一機来ていたので、
   その便で100名程度のトルコ人が帰国した。

   残る500名近くのトルコ人は、なんと陸路、つまり車で帰国したのである。
   テヘランからイスタンブルまでは、猛スピードで飛ばしても3日以上かかる。

   つまりトルコは自国民を遠路はるばる車で帰国させてまで、
   外国人である日本人に特別機を提供して、救出したことになる。

   「こんなこと、日本だったら許されるだろうか?」

   __________
   私はそう考えると、まず怖れたのはトルコのマスコミの反応であった。
   「外国人である日本人を優遇し、自国民たるトルコ人を粗末に扱った」と
   報道しかねない。野党がスキャンダラスにこの件を取り上げ、オザル首相批判を
   行なっても不思議ではない。

   ましてやトルコ人は熱狂的な愛国者である。

   私は固唾を呑んで事態の推移を見守った。
   しかし、それらは全くの杞憂(きゆう)であった。
   なんと、誰も問題視しなかったのである。
   トルコのマスコミ、そしてトルコ国民の度量の大きさに私は感銘を受けた。
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

   武勇で鳴らしたオスマントルコは、日本と同じサムライの国である。

   トルコ人は「あなたを独りにしておかない」という。
   困ったあなたを放ってはおかない、という意味である。
   「武士の情け」と同じ心だろう。

(9)恩返し

  @森永さんは「トルコ航空にかならず恩返しをしよう」と自分に誓った。
   やがてそのチャンスがやってきた。

   トルコ航空が、エアバスの長距離大型機を2機購入したいというのだが、
   その資金がなく、15年もの延べ払いが必要であった。

   当時、トルコのカントリー・リスクは高く、長期の信用供与をしてくれる企業はなかった。

   森永さんは「私自身が担保となり、支払い遅延が発生したら必ず取り立てる」と
   言って、関係者を説得し、ついにトルコ航空とのファイナンス・リース契約にこぎ着けた。

   また、トルコ航空はイスタンブル=成田間の就航を強く望んでいたが、
   成田の発着枠は満杯であり、交渉は一向に進展しなかった。

   森永さんは運輸省の高官に説いた。

   「日本人の為に、これまでに救援機など出してくれた国が、他にあったでしょうか?」
   「それでもトルコ航空の要望を、他の国の航空会社と同じ扱いになさるのですか?」

   「そうだったね。そんな事件があったね」と答えて、その高官は、
   政府関係者を説得して回った。

   こうしてトルコ航空の希望通り、成田への乗り入れが決まった。
   そしてなんと森永さんが斡旋したエアバス2機がイスタンブル=成田線に就航した
   のである。

   成田便は、トルコ航空のドル箱路線になった。
   心配されていた15年のリース契約についても、
   トルコ航空は1度たりとも、支払い遅延を起こすことなく完済した。

  A平成18(2006)年1月、小泉首相はトルコ公式訪問の事前説明で、
   トルコ航空によるテヘラン在留邦人救出事件の話を聞いて感激した。

   そして、その年5月17日にテヘランで、トルコ航空の元総裁、
   元パイロット、元乗務員たち11名の叙勲を行なった。

   通常、日本政府が外国人に対して行う叙勲は20名程度だが、こ
   の年はそれに加えて、トルコ航空関係者11名の大量叙勲を行なったのである。

   また、オザル首相はすでに亡くなっていたので、未亡人に小泉首相の感謝状が贈られた。

(10)日本とトルコは、長く深い友好の歴史があるが[*エルトゥールル号の遭難]、
   このトルコ航空による邦人救出は、その特筆すべき1頁である。

   *参考図書は、
    『トルコ世界一の親日国 危機一髪!
  イラン在留日本人を救出したトルコ航空』
      <森永堯(著)、明成社(刊)>

   *メルマガ「Japan On the Globe」へのお便りの一例の紹介

    「詳しくは知りませんが、昔難破したトルコ船籍の乗組員を手厚く保護した
    恩返し・・・と聞いた記憶があるような気がしますが、
    こんないきさつがあったんですね。

    今度こういうことがあったら、必ず日本はトルコのために役立たなくては
    いけない・・・と、父は熱く語っていました。

    今現在、海外に住んでいるため、このときの日本人家族の気持ちは痛いほど
    よく分かります。母国に見捨てられた思い。
    祖国から遠い地で命果てなくてはいけないかもしれないという絶望感。

    まして、子供を連れてだったら、どんなに辛いでしょうか。

    それにしても、どれだけの日本人がこのトルコの救出劇を覚えているでしょうか?

    そして、恩返しするにしても、同じような状況になったときに、
    こんな英断をできる政治的指導者、国民が今の日本にいるでしょうか? 
    いろいろなことを考えさせられた記事でした。

      <感謝合掌 平成24年11月12日 頓首再拝>  

「誰より先にイスタンブール万歳」首相がトルコにエール (8152)
日時:2013年05月03日 (金) 23時34分
名前:伝統

「誰より先にイスタンブール万歳」首相がトルコにエール 五輪招致

      *産経新聞(2013年5月3日(金)19:11)より

【アンカラ=半沢尚久】

安倍晋三首相は3日午前(日本時間3日午後)、
アンカラ市内で開かれた日本トルコ経済合同委員会の会合に出席し、

「イスタンブールが五つの輪を射止めたら、私は誰より先に『イスタンブール万歳』と言いたい」

と述べ、2020年夏季五輪招致を東京と争うトルコ・イスタンブールにエールを送った。

 東京都の猪瀬直樹知事がイスタンブールを批判する趣旨の失言をしたのを意識したとみられる。

首相は「東京が五つの輪を射止めたら誰よりも早く万歳と叫んでいただきたい」とも述べ、
両国の友好ムード演出に努めた。

         <感謝合掌 平成25年5月3日 頓首再拝>  



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