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先祖供養 (125)
日時:2012年08月06日 (月) 17時43分
名前:伝統


8月は、全国的に先祖供養に関心が注がれます。

宇治別格本山においては、大祭が行われます。

”生長の家“本流宣言”掲示板”では、スレッド「先祖供養 (3706) 」があります。
  → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=733

この掲示板にても、先祖供養の題材を続けて紹介して参ります。

・・・

明日8月7日は、京都では「六道まいり」が始まります。

【 六道まいり 】

(1)俗に“六道さん”で知られる京都市東山区の臨済宗建仁寺派の寺院、
   六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)で、先祖の精霊(しょうりょう)を
   あの世からこの世へ迎える仏教の伝統行事「六道まいり」が、
   8月7日から10日まで行われます。

(2)六道珍皇寺は平安の葬送地、鳥辺野(とりべの)の入口に位置し、この場所が
   あの世に続く「六道の辻」と考えられたことから「六道まいり」は始まりました。

   六道とは地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の6つの冥界(あの世)のこと。
   つまり「六道まいり」とは、あの世の入口で先祖の霊を呼んで迎える行事なんです。

(3)ところで六道珍皇寺といえば、井戸から冥土へ通って閻魔大王のサポートをした
   という地獄の官吏、小野篁(たかむら)で有名です。

   小野篁(おののたかむら)は平安時代初期の歌人であり、また役人、学者とも
   云える人物。書家の小野道風の祖父に当たり、また小野小町との関係でも祖父に
   なるとも云われます。

   小野篁は、俗称を野相公、野宰相、野狂と呼ばれ、数奇な伝説が幾つも残ります。

   日中は内裏に務めるいわば公務員、夜になると冥界に行って閻魔大王に仕えたと云います。
   篁は亡者が閻魔大王の前に引き出され罪科を言い渡される折に、その亡者の生前の行いから
   閻魔大王に助言をしたと伝わり、中には娑婆(しゃば)に戻され生き返ったと云う話が
   今昔物語には伝わります。

   余談ですが、何故か小野篁の墓の隣に紫式部の墓が仲良く並んで建っているとのことです。
   冥界の番人である小野篁、方や平安王朝文学、物語文学の傑作と云われる源氏物語の作者。
   摩訶不思議な光景を醸しているようです。

(4)この寺には夏にピッタリの「幽霊子育飴」の言い伝えもあります。

   慶長4年(1599年)、六道珍皇寺の門前の飴屋に毎夜一文銭を持って飴を買いに来る
   女性がいました。しかし7日目は所持金が無く、飴屋の主人は不憫に思ってタダで
   飴をあげ、女性の後をつけてみます。

   果たして、女性は墓地に消え、埋葬された女性の墓で泣く赤ん坊を発見。
   助け出された赤ん坊は8歳で仏門に入り、全国を法華経の布教で巡った高名な僧、
   日審となったとか。

<参考Web@:「あの世」と「この世」の接続点〜六道珍皇寺
        http://www.kyoto-wel.com/mailmag/ms0308/mm.htm >

<参考WebA:地獄往来、小野篁。
        http://www.pleasuremind.jp/COLUMN/COLUM057.html >

<参考WebB:幽霊子育飴
        http://shigeru.kommy.com/rakugo16.htm >

           <感謝合掌 平成24年8月6日 頓首再拝>

多くの先祖を思う (141)
日時:2012年08月07日 (火) 04時57分
名前:伝統


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年06月12日)」より

   石川洋氏の心に響く言葉より…


   最近両腕に入れ墨をした高校中退の娘さんが、叔母さんに連れてこられた。
   聞けば両親の暴力にあって家を飛び出し、転々として入れ墨をする羽目になったと語った。

   彼女は一息つくと、「でも私の体は私の勝手でしょう」とうそぶいてみせた。

   両親から疎外を受けた子は精神的痛手が大きい。

   「大変だったね」と前置きして、
   「それでも、私の体は私の勝手でしょうは、違うな」

   「なんでですか、だれか責任を持ってくれるんですか」

   「責任と両親の問題は後にしよう。今、私の体と言われましたが、あなたの身体を
   構成している細胞にしてもあなたの造ったものではない。また、両親が造ったものでもない。

   何千年という気の遠くなる久遠の昔から多くの先祖と、数知れない先人によって、
   あなたは生まれて来たのですよ。
   もし、途中でその懸命な努力を怠る先人がいたら、今のあなたはこの世には存在しない。

   それだけでも、私の体は私の勝手でしょうは言えないことだと思います」

   彼女は純粋な娘さんなのだろう。
   「その話、もっと早く聞いていたら…」と涙をこぼした。

   「やがてあなたも結婚し、子を産む時がくる。
   子供にその腕の絵は何なの? と聞かれる時が必ず来る。

   その時に、自分の昔を語り、『すばらしい青年に会ってあなたを産んだんだよ…』
   と言える新しい人生をつくり出せるのは、あなたの責任ではないですか。

   それが言えたら、両親に『産んで下さってありがとう!』と言えると思いますよ」

         <『心の杖ことば』ぱるす出版>

   ・・・

自分の両親の数を20代(約600年)前までさかのぼると、それは約100万人になる。
30代前なら、なんと10億人になるという。
ただし、血縁関係のない者同士が両親になるという仮定の話だが。

その中のたった一人でも欠けていたら、今の自分はない。

現代の最先端の遺伝子工学においても、無から有を造りだすことはできない。
たとえ原始生命体であろうと、生命そのものを創る事はできないのだ。

それほど、生命の誕生は奇跡のような出来事であり、
今我々が存在していることも同様に、奇跡と言わざるをえない。

「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」

という、中国の「孝経」の中の孔子の言葉がある。

体と髪の毛と皮膚、すなわち、我が身の全ては父母からいただいた大切な もの。
だから、傷つけたりしてはならない。

多くの先祖あることにより、我々は今生に生まれることができた。
自分の身体は自分のものであって、自分のものではない。

我とわが身を慈(いつく)しみ、感謝の念で生きてゆきたい。

           <感謝合掌 平成24年8月7日 頓首再拝>

霊牌供養について  (179)
日時:2012年08月08日 (水) 03時53分
名前:伝統


      *宇治別格本山Web「生長の家の先祖供養 」より

  【 大地は神様  根は先祖  幹は両親  子孫は枝葉
      枝葉に花咲き  良き果を結ぶは  親に孝養  先祖に供養 】


(1)浄化向上の機会 

   とりわけ、大祭において前年度の霊牌を浄火で焼納し、
   新しい霊牌に招霊して祀る意義は、「第二回盂蘭盆供養大祭」の折、
   谷口雅春先生の御教示があったのであります。

        ○            ○

   「霊牌にうつりませる霊たちの霊波は世の常の現象界の理の習ひにて
   月波の経つるにしたがひ褪ひ行くものにして 古きを去り浄めて新しき進歩に
   いたる理にならひて 霊浄めの聖域において過ぎし世よりなほ残れる業障の因縁など
   のこれるものあらば 古き霊牌と共に浄火をもつて浄めんとするものにして 
   過去の霊牌より新しき霊牌に移り行きて祀らるるは みたまにとりては
   又一つの生れ更りを経験したまふと同じく浄化向上の機会なり」
                         (「送霊の詞」より)

        ○            ○

(2)祓い浄める 

   また、谷口雅春先生は、霊牌祭祀の意義について、

        ○            ○

   「たとえば、あなたの手に墨がついたといたします。本来清浄の人間だからこそ
   手が墨で汚れたら手を洗おうとします。そして手を洗うと墨が流れ落ちて
   手がきれいになります。

   墨が流れ落ちて手がきれいになるのは“墨”は“人間”ではなく、
   “人間”とは全然“別物”であるからです。

   (中略)手に着いた墨を洗い落すには、石鹸水をつけて擦るとか何とか、
   他動的な衝撃を与えなければならないのと同じように、

   自然に凋落し切らないで残っている“罪”や怠けているうちにまた新しくついた
   “罪”などは他動的に何らかの方法によって祓い浄めることが必要となるので
   あります。

   “罪”は“墨”ではありませんから、石鹸水で洗っても落ちるものではありません。

   それは意識の中に蓄積されている心的な存在ですから
   “罪”を剥落させるには精神的な方法によるしかないのであります。

   その一つの方法が生きている人の場合には、人型を媒介とする祓式であり、

   霊界に往っている霊魂の業を浄化するには、盂蘭盆会とか、その忌年命日とかに、
   霊牌を媒介として、それに“光明念波”または“真理の言葉”(経文等の読誦)の
   波動を送ることが、現在実行されている浄化の方法なのであります。

   霊牌に書く戒名などは本人が霊界にいるので署名することは出来ませんが、
   子孫がかわりに戒名又は俗名等を書きますと、子孫の霊波と全く同調する
   波長の部分があるので、充分媒体となって其の霊に感応するのであります」
      (『聖使命』昭和三十二年八月一日号)

        ○            ○

   とお教え頂いております。

           <感謝合掌 平成24年8月8日 頓首再拝>

霊による現実界への影響 (282)
日時:2012年08月10日 (金) 04時55分
名前:伝統

     *『霊供養入門』(P231−234)より

聖経『甘露の法雨』に次のような一節があります。

   霊姿に甲乙あり、
   病める霊あり、
   苦しめる霊あり、
   胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、
   心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、

霊眼でみると「霊姿に甲乙あり」―― 即ち、霊の姿にも色々の状態がある。
病んでいる霊がある。苦しんでいる霊がある。
「胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊」もあるというのである。

日本では死骸(しがい)を焼いてしまう。
だから肉体の胃袋も一緒にやけてしまって、灰になっているから、胃袋は無い。
それでも、胃病になって苦しんでいる霊がある。

「心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊」もある。
死骸は焼場へ行って焼いてしまったから、その肉体の心臓は無くなってしまっているのに、
霊魂だけが、心臓病の続きをして苦しんでいるということがある。


   これすべて迷いなり。
   斯(か)くの如き霊、人に憑(よ)れば
   憑られたる人或(あるい)は胃病を顕わし、
   或は心臓病を顕わす。

そこで、このように霊界において迷っていたり、あるいは病気で苦しんでいる霊がいると、
「なんとか救われたい」と思って、その霊が“頼みの心”を起す。

この“頼みの心”は、親子とか孫とか親類の人とか、そういう親しい人や、
感じやすい人に感ずることになる。つまり霊界を“放送局”とすると、現実界の人間が
“受信機”になって感応するわけである。

そして、胃病でくるしんでいる霊が「たすけてほしーい」という念波を孫娘にでも送ると、
その孫娘が胃病になる。

あるいは心臓病で苦しんでいる霊魂が「救われたーい」と思って、その念波を送ると、
それを受けた人が心臓病のような状態になるということになるのである。


続いて『甘露の法雨』は、次のように説いている。

   されど霊覚に映ずる
   さまざまの苦しめる霊は、
   第一義的実在にあらず、
   彼らは誤れる信念によりて
   流転せる迷いの影なり。

そのように霊眼によると、苦しんでいる霊があることが見えるけれども、
その「霊覚」に見える苦しんでいる状態の霊魂は「第一義的実在にあらず」
―― つまり、本当は病気ではないけれども、迷いによって病気の状態を顕わしているだけである。

従って、そういう霊魂に『甘露の法雨』を読んであげたら、その霊魂が救われて悟りを開き、
病気の念波を送らなくなるから、それによって現実界の人間も救われるということになるのである。

           <感謝合掌 平成24年8月10日 頓首再拝>

先祖供養の基本 (429)
日時:2012年08月15日 (水) 04時35分
名前:伝統


  *「人生を支配する先祖供養」(第1章〜第2章)の要点を抜粋して紹介いたします。

(1)大切なのは「死」とは如何なる事かを知ること

   「死」とは如何なることかを知らないで、死者の霊を祀るといっても、
   それは祭祀の基礎を失ったことになる。

  @霊魂には「修行の足りた霊」と「修行の未熟な霊」があり、
   それぞれ肉体を脱して霊界に往ったときの状態が違う。

   修行の足りた霊は、ハッキリした意識をもって肉体を脱出し、
   肉体を脱するのに何らの苦痛も感じない「大往生」である。

   未熟な霊魂は、肉体の生前の三業(ごう)(意業・口業・身業)の不浄なるものを
   浄めんが為に病気の苦痛を経験する。苦痛は浄化の過程。しかしある程度以上の苦痛は
   神の恵み深き摂理によって「意識を失う」という方法によって回避される。

  Aそして意識を失った状態で、その霊魂は霊界の待合室みたいな所に移行する。
   霊界の待合室は「冥界」という薄暗い世界。

   肉体を脱出した霊魂は、肉体の病臭や屍臭(ししゅう)の不快臭を浄化する為に、
   そこにある期間滞在する。それを仏教では「中陰(ちゅういん)」と称し、
   まだ霊界のどの位置に往くべきかが定まらない期間。

   それは大体7週間で、仏教では49日、神道では50日目としている。

   この後、「満中陰」(仏教)、「五十日祭」(神道)が行われ、
   受持ちの高級霊の案内により、その霊魂が割り当てられた幽界の位置に行き、
   そこで修行する。

  B冥界の照魔鏡

   四十九日の浄化期間が終わった霊魂は高級霊が霊波によって作った
   スクリーンの前まで伴われていく。

   スクリーンには、彼の生前の生活がカラーテレビの如く映し出される。
   自分の生涯を客観的に見せられると、善悪の判断基準が公正になり、
   「この位のことは悪くない」と思って生前にした事でも、
   「あれも、これも悪かった」と懺悔の心が起こる。

   この過去の一切を照し出す霊的スクリーンを、擬人的に閻魔大王と称している。

   そこで過去の業が自己審判され、それに従って三途のどれかに行く事が定められ、
   霊界での修行場が決定する。それを「三途の川を渡る」という。

   ※三途は死後の霊魂が行くべき「3つの途(みち)」であり、
   欲界・色界・無色界の3界と解したい。

  C霊界にて意識回復すると、生前・臨終の際の状態が記憶に蘇り、
   癌で死んだ人は心に癌の苦痛が復活し、霊界で癌の症状を幽体に継続する状態を
   仮作(けさ)し苦しむようになる。

   病念を霊界まで持ち越して、病気を霊界で体験し苦しんでいる霊魂の救われる道は、
   「病気や肉体はない」ことと、「死というものはない、それは現実界から霊界への
   転任である」という真理を悟らせることが第一。

   一人の迷える霊魂を導くだけで、原因不明や不治の病気、家庭不和等が改善される
   場合がある。だから、先祖や親類縁者の祭祀を決して疎かにしてはならぬ。

(2)祖先または自分に関心ある縁者の霊魂の想念は子孫に影響を与える

   祖先が好まないことを子孫が行なえば、祖先または縁者の霊魂の反対観念を受けて
   その人の運命が妨げられ、順調に進まなくなることもあり、祖先または自分に関心
   ある縁者の霊魂が迷い・妄執にとらわれていると、

   現実界の子孫がその念を受けて、正しいことを行ないながらも、それが
   おもしろくゆかなくなるから祖先の霊魂にはすみやかに真理を悟らせる必要がある。

(3)仏壇・神棚の位置

   「仏壇も神棚も無い」=「一家の魂の寄り所となる霊的中心が無い」ことになる。
   人間界で仏壇や神棚が出来るということは、肉眼で見たら物質の祠や宮が出来ただけ
   だが霊眼でみると、そこにはもっと荘厳な霊界のお宮が出来ている。

   だから神道式のお宮でもよいし、宗派に従い適当な仏壇をこしらえて拝んであげると、
   霊界にはそれ相応の幽体の神社・仏閣があり、そこへ霊が出入りして、それを拠点に
   修行して段々霊挌が上がっていくことになる。

(4)位牌と鎮魂(みたましずめ)の仕方

  @霊は、清浄な木材or紙で造った位牌に名前を書いて祀る。

  A霊界で無意識中につけた戒名は自分の戒名だとは知らず、その戒名で呼んでも
   出てこないこともある為、俗名で書く。

   俗名の下には、男→「比古命(ひこのみこと)」、女→「比女命(ひめのみこと)」と書く。
   実子など最も近い親族が書く方が、霊を呼ぶ為のアンテナとしては良い。
   文字には書いた人の霊波が宿っており、親と子は最も近似の霊波を持っているのだ。

  Bその後、位牌を仏壇or神棚or清浄な場所に安置し、
   「何年何月何日を現世(うつしよ)の限りとして幽界(かくりよ)に帰りましましし
   何々比古の霊(みたま)イイ…」と数回、霊を呼び出す気持ちで唱える。

   そして数歌(かずうた)を数回唱え、招霊された霊魂が来臨する時間的余裕を与える
   と共に精神統一をして来臨の霊を自己に受ける。

   そして合掌の指先を位牌の方に向けて、下腹部に力を入れて「イューウ」という
   発声の気合をかけると、招霊された霊魂が、招霊の儀を行なう人の合掌の指先より
   気合と同時に放射される霊気によってその位牌に結び付けられる。

   いわば今まではその霊を招ぶにしても無線交信だったのが、
   霊の糸により有線通話式に縁が結ばれたことになり、
   その位牌に向かって経をあげたり、物を供えれば、直通電話をかける如く
   相手に通じることになる。

  B位牌には何人の名前を書いても構わない

   同じ宗旨の人なら、表に「○○家先祖代々親族縁族一切之霊」、
   裏に死んで50年経たない人の名前を書き、一々招び出して、
   一緒にそこへお祀りすればよい。

   一緒の位牌の中に入っていても、血の繋がりの親類縁者、家族みたいなものだから、
   そこに一緒に居ることに障りはない。

   また、霊魂は、我々が何月何日に祖先供養するんだと心の世界に決めると、
   それを感じて其処に集まってくる。

   それを特に名前を誦えてあげるのは、迷いが多かったり、恨みが解けないでいたり、
   或いは自分が新仏で、沢山の先輩の霊魂の参列があるために遠慮して、
   自分の名前を呼ばれなかったら、前列に出たらいかんのだと思い、後ろの方で
   まだ遠慮しているような霊魂もあるから名前を呼び出して上げた方がよい。

(5)新たに祖先霊を祭祀する場合

   新たに墓石を作ってお祀りする時は、祓式を行い、次に「招神歌(かみよびうた)」
   を唱えて正しい神様のご降臨を願って、祭祀の意義を説いた祭文(さいもん)を
   読み、仏教ならば祓式の代わりに「般若心経」を読みて妄念を浄めて本尊の
   ご守護のもとに招霊する。

   これは浮浪の霊などに災いされないためで、
   力強く権威ある態度で行なうようにする。

(6)神社式典について

   神社式典は、宗教のように思う人もあるが、
   神ながらの道、すなわち自然の道がそのまま生活習慣に表れたものであり、
   何々宗というような特定の教義を宣布するところのものではない。

(7)先祖供養の意義

  @神の子たる人間の霊が、お宮を建ててもらわねば霊界の生活に困るようでは、
   それは宮という迷いにとらわれているのであり、その霊は神性の自覚が足りない。
   神性を自覚した霊にとってはどんな形式によっても祀ってもらう必要はない。

  A未だ悟りの境地に達していないで、肉体的自覚を脱しきっていない霊魂は習慣的に
   空腹の感じを催し、餓鬼道的に苦しむ者もあるので、応病与薬的に
   「食を欲する者には食を与え、薬を欲する者には薬を与え」という訳で、

   宮を欲するものには宮を与え、仏壇を欲するものには、仏壇を与えてこれを
   供養して誠をつくすことが、先祖に対する道となってくる。

   従って祖先が仏教で続いてきた家系の霊を祀るには仏教的儀礼に則るがよい。

(8)献饌の起源

   神道の祭祀にあたり、献饌が行なわれる。
   神の恵みを受けて五穀豊穣の功徳を受けた古代人が、その初穂を神に献じて
   御礼を申し上げる故事から発祥した。

(9)献饌の意義

  @霊魂を祭祀する時は、その人が生前好んだ食物を供えるとよい。
   霊魂は物質の食物を食さず、悟りを開いた高級霊は物質の食物を欲しないが、
   そうでない霊は、食物を食べたい気がしており、食べたと思わねば空腹の感じを
   味わう。

   従って食を欲する霊魂には、その希望を満たしつつ徐々に本当の悟りに導く為に
   祭祀に一定の形式を取る。

  A仏教ではそのような霊を弔う為に盂蘭盆会(うらぼんえ)などの施餓鬼(せがき)
   と称して食物を供えてから経文を読むのはその為。

   ただし霊が食するものは現実の物質的食物ではない。
   霊界は念の世界であり、念を食物として生きているのであり、物質の供物の大小、
   多寡によるのではなく、供える人の念が霊界に放送され、あの人にあげたいという
   即ち愛念が原動力となり念送されて霊界に念で作られたお供物となって出来上がる。

   我々は供養の念を供え、供養の念を食べていただくことになる。
   無論、向上した霊魂は何も食べたいとは思わないが、しかし自分に対する愛念を
   もって供えて下さったという愛の念はやはり喜びとなり、その人を生長させる。

   真理の想念は、最も霊魂を向上せしめる滋養物。
   それ故霊魂に対して真理の経文を読誦する行持がある。

(10)祭祀の種類

  @幽斎・・・心をもって心に相対するもの。

   精神を統一して実相を念じ、人間の実相が円満完全であって悩みも病もない
   という念を霊界の諸霊に放送してあげて、念波によって霊界の諸霊の苦悩を
   斎めてあげるのである。

   相手の霊を生前の名前で招び出し、念だけで頼りなければ、
   言葉で真理を説き聞かすと良い。

  A顕斎・・・お宮とか仏壇とか各宗で定められた一定の形に顕れた方法で祀ること。

(11)個別霊の供養の期間

   50年経つと霊魂の浄化が行なわれ、迷っている霊魂は概していなくなる。
   しかし、中には毒殺されたり、非業の最期を遂げたとか、普通の死に様をしないで、
   深い恨みをもって死んだような人の霊魂は50年経ってもまだ浄化の過程を
   完了していないのがあるから、50年を過ぎた霊魂でも名前を呼んで供養する。

(12)無縁仏を祀ることについて

   神社・寺院での例大祭や施餓鬼をやる時は、神社・寺院を守護する神霊の加護がある
   から、無縁の霊を供養するのはいいが、

   個人の家で無縁の霊を祀るのは愛念ではあるが、
   自分に霊的力が足りないと無数に迷っている霊が集まって来て
   それをさばききれなくなると困るので、個人では無縁霊を祀らないほうがよい。

(13)先祖に対して聖経を読誦するときの心得

  @唯、尊敬・報恩・感謝の念をもって誦むこと。
  A聖経の意味を説明する。
  B読誦の時間を定める。

(14)葬祭で焼香する意義

   肉体を脱して他界した霊と言えども、肉体の臭気を脱却しきれない者がある。
   法要にて仏・菩薩を勧請する時に、芳香を焚いて死者の霊魂の体臭を消して
   仏、菩薩が降臨しやすくする。

(15)仏像・位牌はただの物質ではない

   本尊の掛軸、仏像、位牌を単なる物質のように思い、物質を拝んで何になるか
   という人もあるが、物質でも本尊は信仰の媒体であり、

   多年礼拝している尊像にはその礼拝する衆の心がそれに移入され、
   それ相応の霊が宿るので、みだりに焼き棄ててはならぬ。

(16)長男でなくとも先祖を祀るべき

   次男も三男も、いずれもご先祖様のお陰で今生かされているから、
   長男だけが感謝報恩したらそれで事足りる訳では無い。
   それぞれ各自の家庭で先祖祀りをすべき。

(17)供養の「心と実践」

   祖先を大切にする心があれば、自然にお祀りを大切にする。
   「心さえあれば供養は要らない」というのは、心が無い証拠。


  *参考Web@お盆に向けて、報恩感謝の心で先祖供養を考える!
         → http://www.sakaerukai.com/naniwa/image/13kaki_5-7.pdf 

        A新たに霊を祭祀し先祖供養する場合の順序方法
         → http://d.hatena.ne.jp/ksugawara/20120727/p1

           <感謝合掌 平成24年8月15日 頓首再拝>

盂蘭盆について (431)
日時:2012年08月15日 (水) 06時56分
名前:童子

 伝統様
  少し場をお借りします

  谷口輝子先生が雅宣少年にお盆について優しく説明されています

 http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/23240741.html

秋の彼岸 (1586)
日時:2012年09月19日 (水) 04時28分
名前:伝統


今日9月19日は、「秋彼岸の入り」です。

秋の彼岸の中日(9月22日)は「秋分の日」。

「国民祝日に関する法律」によりますと、
春分の日は「自然を讃え、生物を慈しむ」とあり、

秋分の日には「先祖を敬い、亡くなった人を忍ぶ」とあります。

秋の彼岸は、「秋分の日」を中日として前後7日間です。

お盆のように特別な準備やお飾りは必要ないですが、基本は家族揃ってのお墓参りでしょうか。



・・・以下は、Webより

彼岸の行事をはじめて行なったのは聖徳太子だともいわれております。

平安時代になると、お彼岸の法要は朝廷の年中行事となりました。
源氏物語の「行幸」の巻には「十六日、彼岸のはじめにて、いとよき日なり」
と記されていたり、「蜻蛉(かげろう)日記」にも彼岸の記述があります。

しかし、その頃のお彼岸は現在のように春分の日・秋分の日を中心として
前後3日間と定められていたわけではありませんでした。

862年〜1754年
……春分(秋分)の2日後が彼岸入り、その後1週間が彼岸

1755年〜1843年
……彼岸の時期は不特定

1844年〜
……春分(秋分)の日を中心に前後3日間が彼岸

時代によってお彼岸の時期も長さがまちまち。

なぜ7日間になったのかはわかりませんが、迷いや煩悩に満ち溢れたこっちの世界「此岸」
から、悟りを得たあっちの世界である「彼岸」へ到達するために心を鍛える期間として、
1週間くらいが妥当だったのかもしれません。

    *Web:なぜお彼岸にお墓参りをするの?
         → http://allabout.co.jp/gm/gc/67451/

           <感謝合掌 平成24年9月19日 頓首再拝>

彼岸会 (1622)
日時:2012年09月20日 (木) 04時26分
名前:伝統


彼岸会は、
彼岸=悟りの境地=極楽浄土=あの世、という仏教の浄土思想と、
日本古来の祖霊信仰の風習が結びついて出来た、
「極楽浄土は真西にあるので、日が真西に沈む春分に先祖供養する」
日本オリジナルの宗教儀式です。

昼と夜の長さが同じである春分・秋分の日に執り行う
日願(ひがん)=太陽信仰で、
日本の自然崇拝から生まれたという説もあります。


平安時代に崇道天皇(早良親王のこと。日本の怨霊第1号です)
の鎮魂のために僧に命じて7日間、金剛般若経を読んだことが
彼岸会の始まりとされています。

*Webより
 → http://www.yamagaminote.com/manga/kisetsu/shunkikoureisai2671.html

           <感謝合掌 平成24年9月20日 頓首再拝>

秋季皇霊祭・秋季神殿祭 (1701)
日時:2012年09月22日 (土) 04時03分
名前:伝統


(1)今日9月22日は秋分の日。
   日本国民は、個々のご先祖に感謝し、皇霊に感謝する日です。

(2)皇居では、皇霊殿で行われるご先祖祭(歴代天皇と皇族の霊を祭る先祖祭)と、
   神殿で行われる神恩感謝の祭典が催されます。

  @秋分の日は、昭和22(1947年)までは秋季皇霊祭といいました。
   歴代天皇、皇族の霊が祭られている三殿の「皇霊殿」で行われるのが「皇霊祭」で
   一般のお彼岸の先祖供養にあたります。

   天皇陛下がお告げ文を読み上げ、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が拝礼します。

   100を超える歴代天皇について命日ごとに祭儀を行なうのは大変ですので、
   春と秋の2回にまとめて皇霊祭として行われるようになったといいます。

   皇霊祭は江戸時代は仏式で行われていました。明治以降に神式になっています。

  Aこの日はあわせて神殿祭というのも行われます。
   神殿祭は三殿の「神殿」で行われるもので、神殿に祭られている国内の
   さまざまな神の神恩に感謝する祭儀です。

   これも天皇陛下がお告文を読み上げ、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が拝礼します。

(3)秋季皇霊祭遥拝式

   皇居の皇霊殿で行われる御皇室の祖先祭りを
   全国の神社で遥かにお参りするのが秋季皇霊祭遥拝式です。

   
  <参考Web:昨年の秋季皇霊祭・秋季神殿祭
         → http://blogs.yahoo.co.jp/sitiyu33/13710757.html  >


・・・・・(以下は、『生命の實相』第28巻(久遠佛性篇下)P65〜66より)


皇室および一家の祖先を礼拝せよ


【われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、
 次いで一家の祖先の霊魂または仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、
 かつ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す】


このわれわれの生命が永遠なる存在であるということは、
生長の家の真理の根本を貫くところのものであります。

これがハッキリわからなければ「皇霊を遥拝し」ということの意義もわかりません。

皇霊を礼拝するということ虚礼ではありません。

われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点に生きているのです。

そしていろいろの日本国の興隆浮沈はあったにしても、どんなときにも日本国が動揺せずに、
ここまで日本民族が発展してきました不倒翁の重心のごとくドッシリとして、その中心から
どんな時にも日本国が立直ることができた重心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇の御恩沢を忘れてはならない。
恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。

だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠を献げるのであります。

           <感謝合掌 平成24年9月22日 頓首再拝>

春季皇霊祭・春季神殿祭 (7215)
日時:2013年03月20日 (水) 06時19分
名前:伝統

        *Web「かつて日本は美しかった」より

今日3月20日は春分の日。
もともとは「春季皇霊祭」といい、明治11年(1878年)にそれまでの歴代天皇や
主たる皇族の忌日を春と秋に纏め(まとめ)奉祀したものす。

一般の彼岸の先祖供養に相当する祭儀です。

皇居内の宮中三殿は神殿、賢所、皇霊殿とあり、
「皇霊殿」に歴代天皇、皇族の霊が祭られています。

皇霊祭では天皇陛下がお告文を読み上げ、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が拝礼されます。

この日は春季神殿祭というのも行われており、「神殿」には国内のさまざまな神が祭られており、
この神々の神恩に感謝する祭儀が行われます。ここでも天皇陛下がお告文を読まれ、
皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が拝礼されます。


日本人は死者(ご先祖様)と対話しながら生きていきます。


柳田國男(民俗学者)

「日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まって、
そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、
かなり根強くまだ持ち続けられている」

「これが何れの外来宗教の教理とも、明白に食い違う点であると思う」


江藤淳(評論家)

「生者だけが物理的に風景を認識するのではない。
その風景も同時に死者が見ている、そういう死者の魂と生者の魂との行き交いがあって、
初めてこの日本という国土、文化、伝統が成立している」

 

今日は、皇室とともにご先祖に感謝する日です。

http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/24445788.html

   (関連記事として、上の「秋季皇霊祭・秋季神殿祭 (1701)」があります。)

      

・・・以下は、谷口清超先生・著『「甘露の法雨」を読もう』より

   御先祖の御霊に「ありがとうございます」とお礼を言い、感謝し、
   真理の言葉の書いてある「甘露の法雨」など供養すると、
   御先祖がどんなにお悦びになるかわかりません。

   するとその御先祖の悦びが私達子孫にも伝わってきて、
   一家一門の悦びとなり、救いとなるのです。

           <感謝合掌 平成25年3月20日 頓首再拝>

桜の花を支える「”いのち”の根」 (7273)
日時:2013年03月23日 (土) 05時09分
名前:伝統


昨日は、東京、高知、熊本、福岡などで、桜が満開となっておりますが、
今日3月23日は、春の彼岸(3月17日〜3月23日)明けです。

ご先祖さまへ感謝の念を心を込めて送る良き機会です。

・・・

    *以下は、谷口雅春先生・著「美と健康の創造」(P102〜P104)より

桜の花が美しく咲いて人によろこばれるのは、
一ぺんに、どこからともなく花が出て来たのではない。

それは根があり、幹があり、枝があり、葉があり、
その根が、幹が、枝が、地の中にある養分を苦労して吸い上げ、
葉が太陽のお光をいただいて、空気中の炭酸ガスを吸収して、
一所けんめいにそれを同化して、やっと小さな芽のような蕾をつくり上げ、
その蕾を育て上げて、ついに、あの美しい花を咲かせたのです。

人間が今日あるのも、ただひとり、自分の力で此処に生れ出ているのではない。
花には、幹があり、根があるように、人間には父母があり、祖先があり、
祖先のもとには神様があり、その神様のいのちが自分に通うていて人間は生きているのです。

ですから神様に感謝しなければならぬ。
祖先に感謝しなければならぬ。
父母に感謝しなければならぬ。

人間は肉体のようにみえていても、実は肉体ではない「心」なんだから、
「心」で感謝することが、自分の「いのち」の根に養分をやることになるのである。

人間が肉体ではなく、「心」だということは、
「心」がなくなったら「肉体」があっても、もうそれは「ぬけがら」じゃ。

もうものも言わねば、返事もせぬ、それはカラッポじゃから、
焼場に持っていって焼いてしまうでしょう。

だから肉体は人間ではなく、「心」が人間なのですよ。
「心」があなたなんですよ。

だから「心」を大切にいたしましょう。
「心」に角をたてないことにいたしましょう。
腹を立てないことにいたしましょう。
不平を言わないことにいたしましょう。

そして自分の「いのち」の根や幹になっている神様の御恩、祖先の御恩、
父母の御恩を知って、感謝することに致しましょう。

貧乏をしたり、病気をしたりするのは、根に養分が足らぬからです。
感謝が根に養分をやるようになるのであります。

毎日、祖先に『甘露の法雨』を誦げて感謝をいたしましょう。
そうしていますと、毎日いっそう人間は元気になり、運がよくなり、成績がよくなり、
何でも都合よく行くようになります。

よろこべば、よろこびが来るのです。
かなしめば悲しみが来るのです。

心がよろこんで感謝している時が、極楽なのです。
人間は心なのですから心で極楽も地獄も造るのです。

           <感謝合掌 平成25年3月23日 頓首再拝>

わが生命は祖先の生命の連続である (9901)
日時:2013年07月17日 (水) 04時11分
名前:伝統


      *「人生を支配する先祖供養」(P15)より

祖先または自分に関心ある縁者の霊魂の想念は、その子孫に影響を与えるので、
祖先が好まないことを子孫が行なえば、祖先または縁者の霊魂の反対観念を受けて
その人の運命が妨げられ、順調に進まなくなる事もある。

また祖先または自分に関心ある縁者の霊魂が迷いにとらわれ、信ずべからるを信じ、
妄執にとらわれていると、現実界の子孫たるわれらがその念を受けて、正しいことを行ないながらも、
それがおもしろくゆかなくなるから祖先の霊魂にはすみやかに真理を悟らせる必要がある。

・・・・

【先祖は、子孫の「生命の根」】

     *楠本加美野・長老インタビュー記事(白鳩誌No.40)より抜粋

谷口雅春先生は先祖供養の意義を「木」にたとえて、

「大地は神様、根は先祖/  幹(みき)は両親、子孫は枝葉(えだは)/
       枝葉に花咲き、よき果を結ぶは/  親に孝養、先祖に供養」

と表現されてました。

先祖は私たちの生命の根であり、根が枯れると枝葉は枯れてしまいますが、
根がしっかりしていれば枝葉は繁茂します。

子孫の繁栄は先祖のおかげであり、根に肥料を与えるということが、供養にあたるわけなんです。

・・・・

【供養は、生きている家族に接する気持ちで】

     *楠本加美野・長老インタビュー記事(白鳩誌No.40)より抜粋

供養とは問題解決のためではなく、
あたかも生きている家族に接するように先祖に接し、
感謝することなんです。

自分がこの世に生を享けたということは、父母がいる、その父母にも父母がいる。
二十代遡れば、百万人以上もいることになる。
その内の一人でもいなかったら自分は存在しないわけです。

こんなたくさんの先祖から生命を受け継いで、自分がここに存在している。
このことに思いを馳せれば、どれだけありがたいことかを実感できるのではないでしょうか。

仏前や神前で聖経を誦(あ)げることは、先祖に感謝の念を伝えるだけでなく、
実は自分自身の魂にもそれを伝えていることになるんです。

自分と先祖がともに「神の子」を自覚して力を携え合うことで、
私たちの運命はますます明るく開けてきます。

           <感謝合掌 平成25年7月17日 頓首再拝>

ご先祖様への【感謝と畏敬の念】 (9936)
日時:2013年07月19日 (金) 04時39分
名前:伝統


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年05月24日)」より

  (佐藤伝氏の心に響く言葉より…)

   朝、出勤前に仏壇や神棚など、ご先祖を象徴するものに
   手を合わせる習慣を持っていますか?

   慌しく出勤するのではなく、たとえ一人暮らしでも、
   「ご先祖さま、行ってまいりま〜す!」と元気に声を出して出かけましょう。

   人は合掌したまま怒ることができません。

   ウソだと思ったら試しにやってみてください。

   逆に笑ってしまいます。

   それくらい合掌パワーってすごいんです。


   あなたの祖先を10代さかのぼるだけで2046人のご先祖がいます。
   20代では、いっきに増えて209万7150人、
   25代(約700年前)までさかのぼれば、6710万8862人ものご先祖の
   先頭を走る代表が、あなたであることがわかります。

   このうち誰か一人でもかけていたら、あなたはこの世に出現していないのです。

   いま、生きていることが奇跡の存在といわれる所以(ゆえん)です。

   自分の部屋に仏壇も神棚もないんだけど、という方は、
   さっそく神聖なコーナーを設けましょう。

   ほんのちょっとのスペースでいいんです。

   とにかく大事なことは、目に見えないものに感謝する姿勢です。

   こんなにたくさんの目に見えないサポーターの方たちの応援を受けて、
   うまくいかないわけがない。

   もしもうまくいっていないと感じているのなら、
   代表としての自覚と感謝の2つが足りないだけです。

   日々、ご先祖さまに感謝と畏敬の念を忘れなければ、
   強力な大応援団のバックアップを得て、
   あなたの幸せプロジェクトは、着々と進んでいくはずです。

       <『幸運を呼びよせる 朝の習慣』中経出版>

   ・・・・・

生きていく上でとても大事なことは、自分のご先祖に対して、手を合わせ感謝するという習慣。

目に見えないものに畏敬の念を持てない人は、残念ながら表面的で底の浅い人生を過ごすしかない。


西田文郎先生は、お釈迦さまが教えた、「六方拝」をすすめている。

これは、“東西南北天地”の六方に感謝するというもの。

東を向いて両親やご先祖様に、西を向いて家族に、南を向いて恩師に、
北を向いて友人に、天地は太陽や、大地など自然のすべてに感謝をする。

感謝をすれば、自分が一人で生きているわけではなく、
周囲の人々や様々なご縁によって生かされていることに気づく。

祈りの本質は、何かをお願いすることではなく、ただただ、今あることに感謝すること。

感謝と畏敬の念を忘れない人でありたい。

           <感謝合掌 平成25年7月19日 頓首再拝>

祖先の霊に”聖経読誦”により真理を与えること (10032)
日時:2013年07月22日 (月) 06時45分
名前:伝統


      *「女の浄土」(P115〜123)

「與へよ、さらば與へられん」の無限供給の黄金律は、
親に”深切”を与える、即ち親孝行をすることや、先祖に”真理の言葉”を与える、
即ち先祖にむかつて聖経を読誦することも含まれているのである。

含まれるどころか、非常に重要な報恩行なのである。

吾々は現在この現象界に生を享けてうまれて来たのは、
神の生命が、祖先を通し、父母を通して、地上に自己顕現したのであって、
今日私たちが、こうして生きていられるのは祖先及び父母のお陰なのである。

それに対して報恩の行いをしないならば、私たちは、”天の倉”から借り越しになっている。
借り越しになっているものは、この世には、“バランスの法則”があって返さなければならない。

返さなければ法則によっていつかは強制執行せられることになっているのである――この強制執行を
受けた状態が、儲けようと努力しても儲からないで素寒貧になった状態なのである。

こんな人が祖先に感謝し、租先の霊に対して聖経を誦げ、父母に感謝するようになり、
更に、夫婦が睦まじく調和した状態になるならば、神の「無限供給」の霊波と波長が合うようになり、
経済的にも裕(ゆた)かになって来るのである。

その実例の一つを挙げれば、昭和41年5月20日、小倉市の市民会館で生長の家の講習会があった
時に、北九州市若松区紺屋町の小山壽子さんがこんな体験をお話になったのである。

参考につぎにその一部分を紹介する――

(体験録) (10033)
日時:2013年07月22日 (月) 06時48分
名前:伝統

……私は41歳か2歳になる頃まで、この生長の家っていう此の素晴らしい真理を知りませんでした。
それでもう自分の我で、非常にもう強情張りで、お転婆で……もう何にも、神仏がいらっしゃやる
ことも分かりませんでしたし、また両親に感謝するなんていう、そういうことも分かりませんで、

まあ子供の時から余りに苦労も知りませんで、まあ順調に過させて頂きまして、お嫁に参りましても、
主人が非常に温和しくってまあ大変立派な主人だったんですけれども、私が其の主人の素晴らしい
ことを観ることもしりませんで――

主人は勤め先から帰って来ても一つも私に口を利いてくれないんです。
だもんですから、私共は見合い結婚だったもんですから、
“あー”これは主人は私を好かんのだなぁー“とこう思っちゃったんです。

それで、
「好かんのですか」
と聞いても返事もしないんですよね。

「好きなんですか」
と聞いても、返事もしない。

”これはどうしても誰か好きな人があったんじゃないかな?”と思いまして、
妄想を逞しく致しましてね、主人の若い時の写真をこうして出して見るんです。

そうすると、学生時代に女の方と写真うつってるのがあるんです。
“ア−これだ、これだ、こんな人があったもんだから私を好いてくれなかったんだ、
もう親が「仕様がない貰え」ちゅうもんだから貰ったんだな“と思ったもんですから、

それを心の中に持ってをりまして、ずぅーっと15、6年間、主人を唯恨んで、
”情けないね”私をちっとも愛してくれないが“ なんて思いながら、
もう悲しく悲しく過して来たんです。

夫婦が不調和だったらラジオのスイッチが切れたようなもので、
神からの恵みの放送がうけられないと生長の家で教えられています通りです。

その時分は私は生長の家の真理を知らないもんですからね、やっぱり段々悪くなっちゃうんです。
私は主人を尊敬しませんし、“もうこんな人、もう温和しいばっかりで何もならんわ“と
思ってですね、”私が何かやらなきゃ詰まらんわ”と思ってるもんですから、

素晴らしい天分のある主人だったのが、私の想念が具体化して意気地がなくなっちゃいまして、
もう本当に失業状態になったのが今から12年位前でございました。

長いこと話していましたら時間がございませんので掻い摘んで申しますと、
兎に角何にも無くなっちゃったんです。


両親はもうとっくに死んじゃいましたから居ませんし、5人の子供と主人と私とまあ親子7人だけ
になっちゃったんです。家財道具も、お嫁に来るときもって来たものも何も無くなってしまいました。

最初は、私の物から質屋に持ってってましたけど、もう終いには主人の物持って行く、
最後には子供の物持って行くという状態で、……私が、勤めるなんて、仕事をするなんて、
いうその術(すべ)も知らないし、考えたこともない……それは昔のことで、

もう女学校を出ましたらただ家におって、それからまあお嫁さんの口があってパッと今の主人の
ところへ、(話者が手をひろげた途端にマイク倒れる。聴衆大笑い)
もうこんなふうにお転婆だったもんですから(爆笑)主人も迚も困っておりましたらしかったんです。

それで、もう愈々何にも無くなっちゃいまして、ゆかた一枚になって、もう私は割烹前掛一枚になり、
本当に何でもかんでもある物は皆な持って行って、唯、道具屋さんに持って行ってお金を貰って、
それを子供に食べさせているという状態だったんです。

それで主人にも、
「もうこんなことでは仕様がない。貴方土方でも何でもいいからなさいませ」
っていうんですけど、

「俺はならん」ちゅうんですよね。
「土方なんかなったら一生土方しなきゃならんから、まあこれで一生終りゃしないから」
なんで呑気なことを言って、自分も骨皮筋右衛門になって、こんなに痩せちゃってんですよね。

それで子供達は――丁度、当時、現在15の子が3つでございました。
その子が一番下で――もう本当に食べる物が無くなってですね、終戦後はお金が有ったって
食べる物が無かったんですけど、その頃はもうお金さえあれば何でも買えた時分なんです、
昭和29年でございましたからね。

それがもう何にもがないんですよね、お金がないから。
勤め人がお金がなくなっちゃったら本当にないんですよね、もうそれで私はね、
“もう何でもいい、女中でもいいしね、もう何でもいいからやりましょう“と思いましてね、
本当、女中もやりました――それは1週間でしたけれども――そしてまあ凡ゆる苦労をしました。

そうしているうちに、わたしくし生長の家に触れましたら、「まあ理屈を言わんで、
兎に角素直にね、この生長の家の真理を聴きなさい」と仰言ったんですよ。

そのときは、もう私は放っといたら――病気じゃなかったんですけど――もう本当に餓死寸前
ですよね。だもんですからね、もう私もいくら強情張りでも素直に聴きました。そして、

「もう理屈なしに、兎に角“ありがとうございます”と言いなさい。その中(うち)に有難くなって
来るよ」と仰言つたもんですから“まあお金の要る事やないし、ほんなら有難うございます言おう”
と思いまして、

それで「ありがとうございます、ありがとうございます」やつてましたらね、
いま此の会場に来ていらつしゃるかも知れませんが、若松の生長の家の方がですね。 
                                
非常にもう皆さんが心配して下さいまして、全然知りもしない私を――親戚の者でもないのに―― 
生長の家の方は本当に暖かくて、30年のお正月なんか何もないんですよ、

そしたら生長の家の誌友の皆さんがお餅をかう皆な集めて、家へ持って来て下さつたりね、
……それはもう何て生長の家の皆さんは暖かい素晴しい方なんでしょうと思いました。

それから皆さんの教えて下さる通り一生懸命やったんです。
御先祖の供養なんてもんも知りませんでした。

ほいで「御先祖様の供養をして、『甘露の法雨』を御先祖様に誦げなさい」って、
それで「お宅がで日蓮宗なら日蓮宗でいいから(私は祖先から身延山の日蓮宗なんですけど)、
その日蓮宗をやめること要らないんだから、まあ『甘露の法雨』を御先祖様に誦げなさい、
そしたらよくなりますよ」と仰言った。

ところが私、日蓮宗なんですけど、“南無妙法蓮華経”を誦げたこともなかったんですよね。
お祖父ちゃんでもお祖母ちゃんでもいらっしゃればやったかも知れませんけど、
結婚と同時に亡くなっちゃったもんですから。
それで私、もう一所懸命『甘露の法雨』を誦げました。

その頃私はね、家賃も出せないもんですから …… 実はね、山の中腹の、もう本当に、
夏になると百足は出てくるねえ、また蛇も出て来る、そらゃすごい処に居ましたんですよ。 

電気はない、水道はない、無論ガスはない、山から薪を取って来て炊いて、
そしてチョロチョロ流れて来る水で御飯を拵えたり、洗濯したりしたんです。 

ところが雨が降ったら、ジャーッと真茶色の水が出ましてね、もう飲めないんですよね。
もう家賃出せませんから、そんな処に居たんです。

そうしたところが、この位の小さな細い蝋燭……大きい蝋燭を買うと高いもんですから、
小さいのん沢山あった方が安いと思いましてね、そしてこの蝋燭を手に持っちゃ此の『甘露の法雨』
をね、もう毎日夜誦げたんですわ。

私、女中は1週間で止めましたあと、保険に出て働きましてね、
そして、帰って来ちゃ聖経を誦げたんです。ホラーもう一生懸命『甘露の法雨』を誦げましたねェ。
そしてもう神想観をする、『甘露の法雨』を誦げる、ジャンジャンジャンジャンやった。 

そしてね、「自分の念(おも)ったことが顕(で)て来るんだから、それを実行しなさい」と
先生が仰言る。

それで私は、“それじゃ私、お家を与えて頂きましょう“と思いましてね、
”先ず電気と水道のあるところ、そしてガスも(贅沢言ったら悪いけど)ガスもあって、
そしてまあ、せめて……7人ですから三間あったらいいから、6畳、4畳半、3畳の家を“
とお願いして、そして一所懸命やっていました。

そしたら、5月の2日から、”家を与えられた“と念ずる行をやり始めまして、
4か月でその家が、ぴ−ったり与えられました。

この『甘露の法雨』の功徳は素晴らしいもんですから、自分が直に体験しておりますので、
もう3人集まれば3人の処、4人集まれば4人の処、お花の時はお花の処、ほかの何の会合でも
この生長の家の『甘露の法雨』の功徳のお話をするんです。

そうしましたらね、皆さん御不幸で泣いていらっしゃる方もどんどん――素直になすった方は――
好くなるんです、これで。もう素晴らしいんですよ、生長の家なんか全然知らない方でもね。
「御先祖様に『甘露の法雨』を誦げてごらんなさいませ」というとね、
よくなっちゃうんです。……(下略)

(体験録への解説〜谷口雅春先生) (10034)
日時:2013年07月22日 (月) 06時57分
名前:伝統

                          

小山壽子さんのこの体験はまだ続いていて聖経『甘露の法雨』を読誦することによって、禿頭に
フサフサと黒い髪の毛が生えた人のことをお話になったのであるが、
それは今日の話の主流とは異るので割愛することにした。

この体験談でわかることは、妻というものは良人の運命を左右する力があるということである。

良人を“甲菱性なし”のように思っている間は、立派な良人もその能力を充分発揮することが
できないで、一家は貧窮のドン底に沈んでいたのであるが、生長の家の教えにふれて、
良人を”神の子”として尊敬し夫婦が調和するようになると運命が好転して来たのである。

夫婦が調和せずして、天与の恵福を受けようと思うのは、スイッチを入れないで陰陽の電気を
通じないで、テレビの放送番組を受像しようとするのと同じことである。

更に聖経『甘露の法雨』を祖先霊の供養のために読誦するということは、祖先から受けた恩恵に
対する報恩行事であるのである。受けた恩恵を返さないことは、”天の倉”に於ける借金であるから、
その借金を聖経読誦によって、”真理の言葉”を供養して返す事になるのである。

何故なら、既にこの世を去って”霊魂”になっている祖先にとっては、金銭は”用なし”であり、
物質的食物もお喫(あが)りにはならないのであるから、金銭や食物のような物質的なもので報恩
することはできないのである。

しかし霊魂は”真理”を知る程度に随って向上し、一層霊界に於て自由を得るのである。

聖経というものは仏教のお経でも生長の家の『甘露の法雨』でも”真理”が説かれているのである
から、祖先霊に対して聖経を読誦するとき、霊魂はそれを受けとって歓喜し向上するに従って
神通力を増し、それも子孫が自分を憶ひ出して聖経を読誦してくれたお陰であると感謝して、
今度は、祖先がその神通力によって、子孫を護ってくれることになるのである。

このような色々の事情が交錯して聖経読誦が運命好転の原因となるのである。

小山壽子さんが僅か4か月間祖先に”聖経読誦”を供養して、望み通りの家が得られたのは、
祖先霊の加護と導きとがあったに相違ないのである。

吾々は祖先霊の加護と導きとを通さないで、大いなる事は成就し得ないものである。

           <感謝合掌 平成25年7月22日 頓首再拝>

家の中心を大切にせよ (10100)
日時:2013年07月24日 (水) 04時57分
名前:伝統

      *谷口雅春先生・著『善き人生の創造』(P353〜354)より

人間の幸福は人間自身の「我(が)」の固まりから来るものではないのであります。
「幸(さいわい)」と云う字が「割(さ)き延(は)え」と云う語源から来ているのは
神の生命(いのち)の分割延長流入によってのみ人間の幸福があるからである。

神の生命(いのち)が流れ入らなければ人間に幸福などあり得ないのであります。
神の生命(いのち)が流れ入るには神の生命(いのち)の法則に随わねばなりません。

神の生命(いのち)の法則とはすべて「家(いえ)」には中心があると云うことであります。
即ち大は「宇宙」と云う家から、小は物質原子と云う家にさえも中心があると云うことであります。

あなたの家が若し幸福でなかったり、誰か家族に病気が起っているようでありましたならば、
家の「中心」がおろそかにされていはしないかと云うことを反省なさらねばなりません。

家の「中心」とは何か、それは祖先である。

あなたの祖先祀りは大切になされていますか。
毎日礼拝なさいますか。
墓はきれいに掃除してございますか。

礼拝なさいましても、ただ習慣で形式上、お供えをポンと棚に上げてお辞儀をすると云うような
「形式(かたち)」ばかりでは可(い)けないのであります。

神は《まこと》であらせられ、御先祖も《まこと》であられますから、それを礼拝するには
誠(まこと)をもって真心を以って礼拝しなければならないのであります。

御先祖さまにお礼の心で「悟りの糧(かて)」となるべきお経を供養するのは、
「法施」と申しまして、供養の中で最も尊い供養であります。

勿論生きている父母があれば父母に対する中心帰一が必要なのは申すまでもありません。

           <感謝合掌 平成25年7月24日 頓首再拝>

先祖を供養するには (10220)
日時:2013年07月29日 (月) 07時40分
名前:伝統

先祖を供養(先ず食物と水をお供えし、そして真理の言葉で霊魂を導く) 

     *『白鳩』(No.40)<P22〜25>より

・・・・(「真理は生活にあり〜信仰体験の心理分析<P108〜112>)

《先ず食物と水をお供えすること》

皆さんは御先祖の霊をお祀りして、その霊たちに真理のお経を読涌することによって
「真理」を御先祖の霊に供養していられますか。

供養というのは、お供えして養うという意味です。
養うというのは栄養になるものを食べさせて成長させることであります。

人間は肉体が死んで魂が霊界へ行きますと、もう肉体をもっていませんから、
肉体が食べるような物質的食物は不要になるのであります。

しかしながら肉体を脱して霊界へ行きますと、
霊魂が肉体を脱(ぬ)けるときの断末魔の苦しみで、一時、気を失って意識がなくなり、
さて肉体から去った霊魂が、霊界に転生してやがて意識を恢復して気がついた時、
無意識中のことはわからないで、死の直前の病気のことを思い出します。

そしてやはり自分の病気をしている肉体がここに在ると思います。

つまり、この霊魂はまだ肉体意識から去っていないのです。

肉体があるつもりなのですから食物をたべたいと思い、飲み物をほしいと思います。
しかし、もう死んで焼いてしまったと思っている人にお食事を差し上げる家族はありません
から、彼は “餓え” や “渇き” を感じて苦しむのです。

こういう、まだ悟りをひらかぬ霊魂はその心が、地上の物質に縛りつけられていますから
「地縛(じばく)の霊」 と心霊学では申します。

こんな霊魂のためには食物や茶湯(ちゃとう)又は “水” をお供えしてあげねばなりません。
これも供養の一つであります。

だから施餓鬼(せがき)その他の法事のときには、先ず食物や茶湯をお供えするのです。


《霊魂にとっての悟りの第一歩》

しかし、やがて肉体を脱した霊魂は、「自分は “肉体” ではない、“霊” である」
と悟るときが来ます。それは、その霊魂にとって悟りの第一歩であります。
悟りの基盤が出来たわけです。

ずいぶんたくさんの霊魂がまだ 「自分は肉体をもっている」 と思ったままでいるのです。

それだから、肉体の死の直前の病気のつづきを病んでいるつもりで苦しんでいるのも
ありますし、地上の物質的なものに対する慾をもっていて、地上の物に縛られ、
「地縛の霊」 になっているのです。

こんな霊に、「あなたはもう肉体を脱して霊界に来ているのだ」 と知らしてあげることは
子孫の義務であります。


《仏教の習慣と神道の習慣との一致》

大抵の霊魂は、自分の名前をとなえて祀ってくれたり、葬式の行事などを行ない、
多勢の親類や知人の人が集まってお経をあげたりする光景を霊界から見て、
「わたしは、もう死んで霊界に来ているのだ」と自然にさとるのであります。

仏教では初七日、二七日(ふたなぬか)、三七日(みなぬか)・・・と七日毎に法事をし、
そして四十九日の法事が終わると、中陰の期間を終って、霊魂は幽界に帰ることになっている。

その肉体滅後の四十九日間は、霊魂は肉体から脱出したといっても、病中の病める肉体の
不快臭や、半ば死んだ肉体から放つところの屍臭(ししゅう)等の移り香(か)が霊魂に
つきまとうていて、それが浄(きよ)まらなかれば幽界に帰ることができない。

それまでは物質界と幽界との境目にある薄暗い前庭のようなところに浮浪しているのである。
その浮浪期間を中陰というのであって、その期間の満了を”満中陰”と称して、普通、
日本仏教の習慣では、縁者に「満中陰の志」というのを死後の霊魂が一段階を了った祝い
として祀るのである。

神道では肉体死後七日毎に法事をしないで、五日祭、十日祭、二十日祭、三十日祭・・・
十日毎に祭式の行事を行ない、大祓祝詞を供養して、霊魂にまつわる不浄なる臭気や雰囲気を
祓い浄める。

そして五十日祭をもって其の浄化を完了したとして、いよいよ、その霊魂は高級霊から
指定されたる幽界に昇天するとせられているのである。

仏教の中陰四十九日間の浄化と、神道が死後五十日目に五十日祭を行なって、それまでの
四十九日間の浄化期間を完了した祝祭を行なうのとが、自然に、本能的に一致している点は、
両者がいすれも霊界の事情を直観して得た吾ら祖先の叡智に基づくものであって、
人間智の巧者による定めでないことに気づくのである。


《霊魂の浄化と悟境の進歩》

中陰の期間が満了したからといって、その霊魂にまつわる色々の業因がすべて浄化し解消した
のではないのである。

中陰期間に浄化されるものは主として肉体の病臭や腐敗臭や排泄汚物の悪臭の霊魂への移り香
が蒸散して、物質的なものが浄化されるだけである。

しかし家族が信仰深い場合には、その期間の法事や祭事に関して読まれるノリトや経典に
よって霊魂が真理を知って過去の業因の全部とはいえないが幾分かは解消され、
その霊魂がそれだけ一層救われることになるのである。

だいいち、「もう自分は肉体的存在でないから、肉体の病気で苦しんでいる筈はない」
と知って、その霊魂が現世の病苦の継続から逃れることは大なる進歩である。



・・・(『新版 人生を支配する先祖供養』18〜19ページ)

《病念を持ち越して霊界で苦しむ霊を救うために》

病念を霊界まで持ち越して、病気の記憶のままに病気を霊界で体験しつつ苦しんでいる
霊魂の救われる道は、病気や肉体はないということと、死後の生命の継続を説いて聞かせて
あげ、「死」 というものは《ない》、それは現実界から霊界への転任である。

その転任の時機は神の御手にあるのだという真理を悟らせてあげることが第一である。
それには祖霊を招霊して 『甘露の法雨』 を毎日一定時間を約束して読誦してあげるがよい。

一人の迷える霊魂を導くだけで、原因不明の病気や不治の病気、それに家庭不和などが
改善される場合があるのである。だから、先祖とか親類縁者の祭祀(まつり)というものを
決しておろそかにしてはならないのである。

           <感謝合掌 平成25年7月29日 頓首再拝>

お盆の月 (10288)
日時:2013年08月01日 (木) 04時45分
名前:伝統

釜蓋朔日。

旧暦で7月1日(8月1日)は、釜蓋朔日(かまぶたついたち)といって、
地獄の釜の蓋が開き、亡者が出てくる日だそうです。

この日は地獄の釜のふたがあいて精霊が出てくる日とされていました。
昔の人は、地獄は非常に遠いので、先祖の精霊が家に帰るためには、
早く地獄を出発しないと間に合わないと考えたのです。

この日に畑に行って地面に耳をつけると、地獄の釜のふたが開く音がするとか、
亡霊の叫び声が聞こえるなどと言って、急いで盆の準備をします。

小麦粉で団子を作ったり、釜蓋餅という餅を作ったり、
新盆の家では高灯籠を立てたりします。

高く立てれば立てるほどよいと言われていて、
十メートル以上もあるさおを立てて提灯をつるします。
高いところに登って火を燃やしたり松明を振ったりする代わりに、
高灯籠をつるすようになったようです。

また、精霊を迎えるために、墓までの道などをあらかじめ掃除し、草を刈って、
先祖様の通り道を作ります。このことを「盆路作り(ぼんみちつくり)」
「朔日路(ついたちみち)」「刈り路作り(かりみちづくり)」などと言います。

十二月の煤払いと同じように、
「盆煤掃き(ぼんすすはき)」と言って墓の掃除をするのがならわしです。

つまり、この日が盆始め。

先祖は長い道のりを辿って自分の家に戻り、お盆の13日〜15日のわずかの間、
家族と楽しい時間を過ごし、そして、送り盆の16日にはまた戻って行く。

30日に釜の蓋が閉まるまで、一年に一度楽しみにしていた時間を送る。

その間、この地獄の鬼さんもお休み、いつもは恐い鬼も、このときばかりは一服。

なんだか人間みたいでおもしろいですね。

・・・

「 盂蘭盆供養について」〜 谷口輝子先生 

         *「白鳩」 昭和39年10月号より
         (”童子 さま”のブログより
           http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/23240741.html

「そうね。おぼんて、何て言ったら貴方に解るかしら。
あのね、お釈迦さまの十大弟子の一人に目蓮さまと仰有る偉い坊さんがあってね。

その坊さんは天眼通と言って肉眼では見えない世界も見えたのよ。
目蓮さまが天眼力で幽界を御覧になったところ、亡くなったお母様が地獄で「倒懸」の苦と言って、
さかさまに吊り下げられて苦しんで居られる姿が見えたのですって。

親思いの目蓮さまは驚き悲しがり、お釈迦さまに教えて頂いて、
尊いお経をあげたり色々の食物をお供えしたりして御供養をなさって、
お母様を苦しみから救ってお上げになったのが七月十五日だったのよ。

そのことに倣って、
後の世の仏教信者たちが、自分の肉身たちの亡者を幽界からお招きして
愛情をこめて盂蘭盆のお供養をして上げているのです。

東京へ出稼ぎに来ている人たちも、故郷へ帰ってお墓詣りをしたり、
先祖の御魂をお招きしてお供養をしたりするために、
同じ頃汽車に乗るのでこむんですよ。

貴方たちの帰る頃には、おぼんを済して東京へ帰る人たちで汽車はまたこむでしょうね。
でも善いことですね。乗車券を買うために、夜半から行列をして、苦労をしてでも
切符を手に入れた人たちが、故郷で肉身たちと集って、亡き人たちの供養をすると
いうことは、尊いことですね。

また死んだ人と生きている家族との心のつながりを強める温かい行事ですね・・・・・」

幼い時から霊魂の不滅を聞かされている雅宣少年は「ふ〜ん」とうなずき、
何の疑いも見せない顔をしてばたばたと走って行った。

目蓮尊者は偉いお坊さんだと言われているが、その母君は高い悟りの境涯に達しないうちに
亡くなられたと見えて、あの世で地獄に堕ちて、しかも最も苦しい責苦の一つである
「倒懸〈ウランバナ〉」の苦を受けて居られたのであったが、

息子の孝心によって真理の教をきき、「さかさま」だった心が「真直ぐ」の心に立ち直られた
のであろう。

「さか吊り」は誰かがしたのではく、自分の心で自分が「さか吊り」をしていたのであった。


これは目蓮尊者の母君の昔話だけではない。

現代に生きている人たちの中にも、心が顛倒しているために、さかさまに物ごとを見たり、
人の善意をさかさまに受取ったり、真実をゆがめて嘘をついたり、いろいろと神の御心に
反する行いをして、自分自身を苦しめている人が沢山あるように思う。

盂蘭盆の十五日の近づいて来た今日此頃、私たちは一層反省を深めて、すべてのもの、
すべてのことを正しい眼で見、正しく処して行きたいと思う。


<参考スレッド:<お盆のはなし> 橋本徹馬NEW (10180)
        → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1960 >

・・・・・

中国での盆会の由来では、
お釈迦さまの教え
「七月十五日、安居(あんご)の最後の日に、できるかぎりの食べ物・飲み物・衣服を
用意して、母親になりかわって比丘(修行僧)たちみんなに供養のまことをささげるとよい」

により、目連がその通り実行する事により
「比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。するとその喜びが餓鬼道に堕ちて
いる者たちにも伝わり、母親の口にも入り、母親が救われた」とあります。

( ⇒ 他の人への「愛行」が、喜びとなり、それが巡りめぐって、
    ご先祖さまの霊(みたま)を救うことになるという、教え)


一方、日本での盂蘭盆会では
家に帰ってきた先祖の霊魂をもてなす意味合いが濃くなっています。
「先祖が家に帰ってくる」というのは、元々の仏教の教えにはなく、
日本古来の習俗によるもののようです。


「生長の家」での供養は、まずは物施(食べ物・飲み物)、そして法施(聖経の読誦)を
行なうようになっております。

           <感謝合掌 平成25年8月1日 頓首再拝>

御先祖への感謝 (10336)
日時:2013年08月03日 (土) 04時21分
名前:伝統

        *谷口清超先生・著『家庭をたのしく』(P146)より

《愛念の放送》

私達は「■んでも■なない」のであります。
この意味は、「肉体は■んでも、魂は生き続ける」ということであって、
私達の御祖先は皆生き通していて、私達が幸福であることを思っていて下さっているのです。
 
ところが私達の心が御祖先を愛さず、そっちの方にふり向かずに、
アサッテの方ばかり向いていると、いくら御祖先からの「愛念の放送」があっても、
それが私達にはさっぱり感ぜられないということになる訳です。

それは丁度、いくらいいテレビ放送があっても、それを聞こうという気にならず、
スイッチを入れてチャンネルを合わさなかったら、聞くことも見ることもできない
ようなものであります。

テレビ放送であれば、電気のスイッチを入れればよろしいけれども、
私達が霊界からの愛念の放送を受けようと思うときは御祖先に対する
「感謝」というスイッチを入れなければなりません。

そして『甘露の法雨』などの真理のお経を読誦して、御祖先に真理のコトバをささげる
ことが大切です。

何とならば、後祖先といっても、全ての人が■ねば悟っているわけではなく、中には
色々の問題で悩んでお亡くなりになった方もあり、いまだに現象にひっかかって苦しみ
続けておられるかも分りません。

このようなときには、一刻も早く『真理のコトバ』を供養し、悟っていただいて、
「神の子・人間」のよろこびをを得ていただくことが、子孫の義務であり、孝養でありますので、
何とかして時間をつくり出して御祖先の供養をする(即ち毎日一定の時間に『甘露の法雨』を
よむ)ように努めなければならないのです。

よく、御祖先が苦しい■に方をなさったりすると、その子孫が色々と不幸になるのは、
その御祖先が霊界においてまだ苦しんでおられるからであります。

これに反し、御先祖が幸せであり、真理をよく会得なさっていると、その愛念の放送によって、
子孫はいくらでも繁栄し、末永く幸福でうれしくたのしい日々を送ることができるのです。

だから、私達は、どうしても御祖先に対し聖経を捧げることを毎日一定の時刻に行なう習慣を
つけたいものです。今迄そのような習慣のなかった方々も是非これを実行していただきたい
と思います。

           <感謝合掌 平成25年8月3日 頓首再拝>

原因結果の法則 (10426)
日時:2013年08月07日 (水) 04時38分
名前:伝統


         *「霊供養入門」(P42〜44)より

昔から「積善の家に余慶あり」という諺(ことわざ)がある。
この場合の「家」とは建物のことではない。
家系連綿として血統の続いている「一系の連続生命の流れ」のことである。

先祖が人に物を施したり、多勢の人を助けたり、生命を救ったりして、
善行を積んでおいた家が「積善の家」である。

そんな家系に生まれた子孫は時としてあまりするどい慧敏(えいびん)な知者でもなく、
温和(おとな)しい一般人でありながら、色々の機会や深切な協力者や出資者などに
恵まれて自然に成功したりすることになるのである。

 
これは宇宙に厳存する「与えれば与えられる」「原因あれば結果あり」
「種を蒔(ま)いておけば収穫がある」「瓜(うり)の蔓(つる)には茄子(なす)はならぬ」
という種類の法則によるのである。

過去に良い種を蒔いてあったから良き収穫が子孫にあらわれて来つつあるのである。 

谷口家の、私にとって直系ではないが、祖母の弟で、谷口福松という人があった。
彼は黒住教の深い信仰をもって「少講義」という、生長の家でいえば「教化員」というような
教階をもっていて、人を助けてあるいていた。

常に貧しかった。
謝礼も何ももらわないで、教えを説き、加持祈祷(かじきとう)をし、
「遠津神(とおかみ)笑(え)み給(た)め抜(はら)い給え潔(きよ)め給え」
と簡単な神咒(しんじゅ)や、天津祝詞(あまつのりと)を唱えて、
この福松先生が息吹(いぶき)を病人の患部に数回吹きかけると、多勢の人が救われた。

病苦がやわらぎ、やがて快復(かいふく)するのが例であった。

彼はいつも貧しい服装をしていても平気であった。
寒い冬でも身すぼらしい薄着をして羽織(はおり)も着ずにいるので、
多少裕福な信者が福松先生を気の毒に思って、

「先生、この羽織をお召(め)し下さい」といって、一枚の紬(つむぎ)の
紋付羽織(もんつきはおり)を差し上げて着せてあげたのであった。

福松先生はその時は大変悦(よろこ)んで感謝を述べてその羽織を着て行かれたが、
翌日、先生の姿を見ると、もうその羽織をお召しになっていられないので、
それを差し上げた信者が、「先生、どうして昨日の羽織をお召しになりませんのですか?」
とお訊(き)きすると、

「ああ、すまん、すまん。あの羽織はね、わしよりズッと気の毒な貧しい人が病気で
寒そうにしているので、その人に着せてあげたんや」と答えたということである。

こういう陰徳の人が私の祖先にあった。
そういう積善の陰徳が余慶(よけい)として子孫に報いてくるのである。

子孫の生命というものは、祖先の生命の延長であり、
従ってわれわれ子孫は、祖先の生命と一体であるのである。

祖先祀(まつ)りが大切であるという所以(ゆえん)はこんな所にもある。

           <感謝合掌 平成25年8月7日 頓首再拝>

高級霊による運命の修正 (10519)
日時:2013年08月12日 (月) 04時55分
名前:伝統

           *『霊供養入門』より

(1)神又は高級霊による運命の修正  (P48より) 
 
   自己の運命の前半は、過去世の業(過去の生まれ変わりの世代での業績)で
   決定されるのであるけれども、自分の運命の後半は、今世に生れてからの
   “心の持ち方”や行いの仕方、人のためになる事をどれだけ心がけてしたかの
   自分の努力によって決定されるのである。

   しかしながら「稼ぐに追いつく貧乏なし」という諺もある。

   急激なインフレや不景気などの社会情勢の中にあっては人間の努力だけでは
   どうにもならない。いつまでも苦しい運命に追い込まれたままで、それに耐えしのぶ
   よりほかに道がないように思われる。

   そこで人間の努力の及ばないところに、
   “神”又は高級霊の援助又は加護を必要とするのである。

   人間の運命の半分は前世の業績、残りの半分の1/2は自分の努力による業績で、
   残りの半分の、もう1/2は、神又は高級霊の加護よる運命の改善又は修正によって、
   もっと不幸になる筈の運命が救われるということになるのである。

(2)高級霊による霊的原型の修正  (P52〜54 から抜粋)

   運命の原型は、すでに”霊の世界”又は”心の世界”に出来上がっているのである
   から、その光景が現実世界に映写されるべく待機している運命のフィルムを、
   神又は高級霊によってその現実化以前に、好運の方向に修正して頂くほかには、
   ”凶運の霊的原型”を修正する方法は無いわけである。

   (中略)

   ”神”に、われらの心が振り向く気持ちになったときには、祈る人自身の心が浄まる。
   その心の浄化の程度に従って、浄化する心の持ち主である”高級霊”の心に、祈りの
   念願が達して、高級霊の加護の力が動き出すことになるのである。

   高級霊は、”霊の世界”に在って、まだ現象世界に移行していない凶運の霊的原型を
   破壊したり、修正したりすることができるのである。それは、あたかも上映前の映画
   フィルムを点検して、その映像の”悪い部分”をカットしてから映画館(現象界)で
   上映されるようなものである。

   
   それらの高級霊の中にはわれわれの祖先の霊魂も含まれている。
   それ故に、祖先霊に「真理の言葉」を供養して祖先霊が真理を一層悟り神通力を増し
   給うてわれわれ子孫を加護して厄難を祓って下さるように、

   毎朝又は毎夕、仏前又は神前で先祖霊に対してお経、または聖経『甘露の法雨』を
   読誦するがよいのである。

           <感謝合掌 平成25年8月12日 頓首再拝>

霊による現実界への影響 (10626)
日時:2013年08月16日 (金) 04時56分
名前:伝統

        *『霊供養入門』(P.230〜234)より

(聖経『甘露の法雨』に)次にような一節がある。


   霊姿に甲乙あり、
   病める霊あり、
   苦しめる霊あり、
   胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、
   心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、


霊眼でみると「霊姿に甲乙あり」――即ち、霊の姿にも色々の状態がある。
病んでいる霊がある。苦しんでいる霊がある。「胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊」もある
というのである。

日本では死骸(しがい)を焼いてしまう。
だから肉体の胃袋も一緒にやけてしまって、灰になっているから、胃袋は無い。
それでも、胃病になって苦しんでいる霊がある。

「心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊」もある。
死骸は焼場へ行って焼いてしまったから、その肉体の心臓は無くなってしまっているのに、
霊魂だけが、心臓病の続きをして苦しんでいるということがある。


   これすべて迷いなり。
   斯(か)くの如き霊、人に憑(よ)れば
   憑られたる人あるいは胃病を顕わし、
   或いは心臓病を顕わす。


そこで、このように霊界において迷っていたり、あるいは病気で苦しんでいる霊がいると、
「なんとか救われたい」と思って、その霊が“頼みの心”を起す。
この“頼みの心”は、親子とか孫とか親類の人とか、そういう親しい人や、
感じやすい人に感ずることになる。

つまり霊界を“放送局”とすると、現実界の人間が“受信機”になって感応するわけである。
そして、胃病でくるしんでいる霊が「たすけてほしーい」という念波を孫娘にでも送ると、
その孫娘が胃病になる。

あるいは心臓病で苦しんでいる霊魂が「救われたーい」と思って、その念波を送ると、
それを受けた人が心臓病のような状態になるということになるのである。

続いて『甘露の法雨』は、次のように説いている。


   されど霊覚に映ずる
   さまざまの苦しめる霊は、
   第一義的実在にあらず、
   彼らは誤れる信念によりて
   流転せる迷いの影なり。


そのように霊眼によると、苦しんでいる霊があることが見えるけれども、
その「霊覚」に見える苦しんでいる状態の霊魂は「第一義的実在にあらず」――
つまり、本当は病気ではないけれども、迷いによって病気の状態を顕わしているだけである。

従って、そういう霊魂に『甘露の法雨』を読んであげたら、
その霊魂が救われて悟りを開き、病気の念波を送らなくなるから、
それによって現実界の人間も救われるということになるのである。

           <感謝合掌 平成25年8月16日 頓首再拝>



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