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「北条時宗」と「無学祖元禅師」 (3527)
日時:2012年11月13日 (火) 04時43分
名前:伝統

今、尖閣問題を契機に、大陸中国から、圧力がかけられ、
日本国は後手後手の守りを強いられております。


さて、歴史を遡れば、中国大陸及び朝鮮半島からの脅威を幾度も受けております。

今回は、その中で、鎌倉時代の元寇の襲撃に対応した北条時宗とその師無学祖元に関する
情報の紹介です。


     *『日本の偉人100人(下)』その他資料より


(1)大国の脅しに屈することなく戦った若き指導者・北条時宗

   いまから800年ほど昔、日本への侵略を目論む超大国・蒙古のおどしに対して、
   毅然とした態度で立ち向かった若き指導者がいました。

   その若者の名は北条時宗、まだ17歳の青年でした。

   「蒙古来襲の国難に立ち向かった鎌倉幕府の執権」
   北条時宗(1251〜1284年)


(2)明治期に詠まれた元寇の和歌に次のようなものがあります。

   寇船(あだふね)を覆(かへ)しし風は武士(もののふ)の
   猛(たけ)き心のうちよりぞ吹く

(3)文永の役

   文永五年(1268)、
   蒙古(もうこ ※元)の国書を携えた高麗(こうらい)の使いが大宰府に現れます。

   既に中国北部と朝鮮半島の高麗を支配下においていた元は、
   表向きは友好を求めますが、
   その使者の来訪は明らかに我が国への軍事的恫喝(どうかつ)でした。

   ・・・・・

    蒙古の国書
    「願わくば、今より以後、通商して好(よしみ)を結び、もって相親睦しよう
    ではないか。なお、聖人は四海を家となすものであるが、日本が蒙古に通好しない
    ならば、それは一家のうちではないということであり、止むを得ず兵を用いることも
    有りうる。それは朕の好むところではない。
    日本の王よ、そこのところをよく考えて欲しい」

    〜これは、「わが国に従え、そうしなければ武力を用いてそうさせるぞ」と云う
     脅迫状のようなもの。

   ・・・・・

   18歳の時宗が執権職に就いたのは正にこの年です。

   使いはその後もたびたび来訪し、朝廷、幕府はそのつど評定を重ねましたが、
   あえて返書を送らぬまま、
   九州に所領のある御家人(ごけにん)たちに異国警護を急がせます。

   ・・・・・

    北条時宗は、
    「礼なければ仁(おもいやり)なく、仁なき交わりは、禽獣(動物)の交わりにも
    およばず」と、これを黙殺し、返書を送らなかった。

   ・・・・・

   そして遂に文永11年10月、高麗軍と合わせて3万人の元軍は、
   900艘(そう)の船に分乗してまず対馬(つしま)を襲いました。
 
   対馬の守護代である宗助国(そうすけくに)は68歳の老将ですが、
   直ちに大宰府と壱岐に急使を送った後、80騎余りで大軍に立ち向かいました。
   昔も今も国境最前線のこの島で、
   最後の1騎まで奮戦しましたが半日持ちこたえるのが精一杯でした。

   上陸した元の兵たちは

   「民家を焼き略奪殺戮(さつりく)を恣(ほしいまま)にし、
   婦女子を捕えて掌(て)に穴を穿(うが)ち、
   その穴を綱で貫いて船べりに数珠(じゅず)つなぎにした」

       ・・・・

    元の古書に、
    「索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。
    索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ」とある。
    (「捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、
     掌に穴を空け、そこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた」)

       ・・・・

   と彼らの記録(『元史』)に記しています。

   続いて壱岐(いき)が攻撃されました。
   ここの守護代の平景隆(たいらのかげたか)は、
   対馬からの一報を得て大宰府へ援軍を要請し、
   100騎ほどで島内の樋詰(ひづめ)城に立て籠もって防戦しました。
   島民も続々と籠城に加わり一晩は凌(しの)ぎますが、
   やがて全滅してしまいました。


   こうしていよいよ10月20日(新暦の11月26日)に、
   元軍は博多湾西部から上陸し、
   先陣が博多に向かって赤坂(現在の福岡城址)まで迫って来ました。

   この合戦の様子は『蒙古襲来(もうこしゅうらい)絵詞(えことば)』に活写されています。
   その『絵詞』によると、
   御家人たちは大宰少弐(だざいのしょうに)の武藤景資(むとうかげすけ)を大将として
   博多の海辺側に集結し、
   景資は元軍がさらに博多に攻め寄せるのを待って迎え撃つようにと命令を下しました。
 
   この戦況は近年の研究で明らかになって来ました。

   それによると、10月20日中に少なくとも2度の合戦が行われ、
   日本軍が元軍を撃退し、百道(ももち)の海(博多湾)に追い落としたとのことです。


   大宰府攻略という目標は達せず、
   「味方の体制が整わず、又矢が尽きた」(『元史』)ため船に戻った元軍は、
   その夜半に吹き荒れた暴風に押し流され一斉に退却してしまいます。


(4)弘安(こうあん)の役

   文永の役の翌年に、鎌倉にやって来た元の使いを時宗は斬首(ざんしゅ)に処しました。

     ・・・・・

    文永の役の翌年、またも元の使者が国書を持って、時宗に会うことを要求した。

    この際、「日本国としては、意地を見せた。このたびはフビライ王と和をむすぶべき」
    との、バカな声が幕府の中にもあったが、それに対し、時宗はこう云ったそうです。

    「対馬、壱岐の無辜の民を多く殺害したその暴を詫びぬとあれば、
    それは人間の道ではござらぬ」と。

     ・・・・・

   そして再び来寇するに違いない元軍に備えて水軍を整備し、九州沿岸の防備を固めました。
   特に博多湾岸沿いに石築地(いしついじ)を築いた「元寇防塁(ぼうるい)」は、
   今日まで一部を留めて往時を偲ぶことが出来ます。

   やがて弘安4年(1281)、元の皇帝フビライは元軍、旧南宋軍、高麗軍合わせて
   4400艘、14万人の大軍を二手に分けて送り込んで来ました。

   弘安の役です。

   そのうち東路軍は志賀島(しかのしま)に上陸し、我が軍と激戦を繰り広げます。
   その後、長崎県鷹島(たかしま)に待機中だった江南軍と合流して
   総攻撃の機会を窺ううちに、
 
   閏(うるう)7月1日(新暦の8月23日)の大型台風によって
   壊滅的な打撃を受けてしまいます。

   二次にわたる元寇は、
   鎌倉幕府の政治、外交姿勢と九州御家人たちの奮戦に加え、
   暴風雨や台風という自然現象の後押しもあってはねのけることが出来ました。
   そしてこの自然現象はやがて「神風(かみかぜ)」と呼ばれるようになります。


(5)時宗の人となり

   このように2度の国難を打破した鎌倉幕府の最高リーダーが時宗ですが、
   その事績を伝える資料は驚くほど少なく、本人の言葉もあまり残っていません。

   弘安の役後3年足らず、34歳の若さで急死しており、
   正に元寇撃退のために生を享(う)けたかの如(ごと)くです。

   元を迎え撃つ弘安4年の正月に、
   禅の師無学(むがく)祖元(そげん)が書して渡したという
   「煩悩する莫(なか)れ」(一説では「妄想する莫れ」)はよく知られています。

   以下に、その祖元が時宗の葬儀で語った法語の一部を、次に掲げておきましょう。

   【偉人をしのぶ言葉】 (現代語訳)
    
    母に孝養を尽し、
    君に忠節を尽し、
    民には恵みの心を以って治め、
    参禅して深く悟る処がある。
 
    20年間天下の権を握っても
    喜怒を表に出すことが無くいつも沈着である。
    元寇を瞬(またた)く間に追い払ってもそれを自慢する様子もない
          (『仏光国師語録』四より)

           <感謝合掌 平成24年11月13日 頓首再拝>

無学祖元禅師 (3679)
日時:2012年11月17日 (土) 06時18分
名前:伝統

<北条時宗と無学祖元禅師>

(1)無学祖元禅師(むがく そげんぜんじ、1226年 - 1286)は、
   中国明州慶元府(浙江省)出身の鎌倉時代の臨済宗の僧侶です。

   北条時宗の要請により、亡命的に来日されました。

   無学祖元禅師は、北条時宗と当時の日本の臨済宗に精神的な影響を与えた様です。

   ・・・・・

   1278年(弘安元年)7月24日、八代執権北条時宗が師としていた
   建長寺の蘭渓道隆が亡くなります。

   時宗は新たな師を求め、蘭渓道隆の弟子の無及徳詮と傑翁宗英を宋へ派遣します。
   そして、迎えられたのが無学祖元です。

   1279年(弘安2年)8月20日、来日した無学祖元は、
   建長寺の第五世住持となります。

   時宗の新たな師として鎌倉幕府御家人からも信仰を受け、
   特に蒙古の襲来に際しては、時宗の政策に大きな影響を与えたといいます。

   ・・・・・

(2)祖元・無学・仏光禅師

  @祖元という人は、どういう人かと申しますと、宗の人で、無学とも称し、
   仏光禅師ともいう人で、はじめ径山の無準和尚に師事し趙州無字の公案を授けられました。

   その後、この無字の公案を追求をして、五年間も熱心に求め続け、
   遂に無字の公案による三昧の境に達し、木像のごとく動かざること三日三晩、
   寺僧の鳴らす木版の音に、大死一番忽然と悟ったといわれる人です。

  A《臨刃偈(りんじんげ)》

   1275年、蒙古軍が南宋に侵入したとき、温州の能仁寺(のうにんじ)に避難していた
   無学祖元は元軍に包囲される(その時、寺に仕える者達は皆先を争って逃げ去りました)が、
   泰然として坐っていて、

   首領が白刃を揮って、彼の首に当てても、いささかも動揺せず、
   このような生命の危機に直面しても少しも顔色を変えず、落ち着いて、
  
   【臨刃偈】 

    「乾坤無地卓孤 且喜人空法亦空」    
    「珍重大元三尺剣 雷光影裏斬春風」

    (乾坤こきょうをたっするに地無し かつ喜ぶ人空法また空)
    (珍重す大元三尺の剣  雷光影裏(えいり)春風を斬る)

   (現代語訳:光十字空獨尊訳)

   「乾坤すなわち真の天地を求めて一本の竹の杖で修行をした結果、
   徹底して悟ると、もはや地は無くなって”空”となってしまったのである。
   そしてなおかつ喜ばしいことに、人も空であり、法もまた空であるのだ。

   すなわち、空の奥底に、無限に広がった天と地、陰と陽があり、
   人も、法も全てのものは、この天地の奥底より生じておる。
   わしはすでに大悟して、その空の世界に住んでいるのである」

   「であるから、元の兵達よ、お前達が大切にしているその大きな剣で、
   わしの首を切りたいのなら、切り落してもよいぞ。
   しかし、それは、雷光稲妻が光って、その実態のないその影が春風を斬るがごとく
   に全く空しい事である」

   を唱え、そのあまりの立派さ豪胆さに元兵も敬畏して、逃げ去ったということです。


(3)北条時宗と無学祖元禅師

   ある時、時宗は、無学祖元禅師に尋ねました。

   時宗:「人の世における最大の苦労は臆病です。
       私は武士でありながら臆病で困っているのです。
       これを解脱させてもらいたいのですが。」

   禅師:「臆病の解脱とは容易(たやすい)。
       臆病の原因となっている所を断ち切りなさい。」

   時宗:「臆病で気が弱い心(怯懦 きょうだ)は、何処から来るのでしょうか。」

   禅師:「時宗自身から来るのです。」

   時宗:「臆病は、私の最も嫌うところです。
       どうしてそれが時宗から来るのでしょうか。」

   禅師:「試みに明日より時宗という自己を棄て去って来なされ。」

   時宗:「ではどうしたら時宗を棄てることが出来ますか。」

   禅師:「一切の妄念思慮を断ずるのです。」

   時宗:「一切の妄念思慮を断ずるにはどうしたら良いのでしょうか。」

   禅師:「ただひたすら座って坐禅を組み(只管打挫)、
       心と精神の静寂を求めることです。

       時宗に浮かんでくるすべての想念は相手にせず、
       心の奥深い根源世界を求める事に徹しなさい。」

   時宗:「私には余りにも俗事が多すぎて、座禅する時間が少ないのです。」

   禅師:「いかなる俗事に携わろうとも、
       一切の俗事がそのままの修行の道場になるのです。

       修行が進めば、やがて時宗の内なる真実の心が何たるかを悟るでしょう。」


(4)無学祖元禅師の五ヶ条の要訣

   このように禅師は時宗を導き、時宗に、修行の規範となる
   ”五ヶ条の要訣”を授けたのです。

五ヶ条の要訣 〜 無学祖元禅師

   一、外界の事物に対して全く無頓着なること。
     常に精神を磐石の如く保ち、世界に只吾れ独りなりと思うべし。

     しかも精神坦然として恭敬を忘るべからず。

   二、精神を常に澄水の如く保つべし。

     精神動揺して外界の事物に頓着すれば、必ずその他を忘却すべし。

     突然の怖畏は、この間より生ず。
     一方に注意すること深ければ一方の油断もまた深きなり。

     務めて平如として精神を臍下丹田に置くべし。

   三、才略智謀に恃(たの)むところあるべからず。

     恐懼(きょうく)病は才略の謀計を現出するの原動力なれば なり。
 
     その機に当り変に応じてこの心を失わずんば、
     必ず霊妙なる当意即妙の策略智計を生ずべし。

     よろしく平の時と非常の時とその心を一にすべし。

   四、勇猛の士気はよく白刃を踏むべし、
     柔弱の肢体は、窓隙(そうげき)の風をも忍ぶ能わず。

     よろしく常に勇猛の士気を保持すべし。

   五、見るところ、狭少なるときは、その眼光見識狭少にして、胆量また自ら狭少なり。

     すべからく常に注意してその心量を拡大すべし。

   
   これらによって、時宗は、禅宗の修行により真理を求めて、悟りを深めていきます。

   時宗は、類稀なる善い師を得、その師の導きもあり、
   元寇という国難に対し、毅然たる行動で立ち向かっていくのです。

           <感謝合掌 平成24年11月17日 頓首再拝>

莫煩悩(莫妄想) (3716)
日時:2012年11月18日 (日) 06時32分
名前:伝統

〜莫煩悩〜「煩悩する莫(なか)れ」(一説では「莫妄想<妄想する莫れ>」)

1281年(弘安4年)、日本は、元軍による二度目の侵攻を避けられない情勢となります。

苦悩の時宗は、この年の正月、無学祖元を訪ねます。

すると、無学祖元は、紙片に「莫煩悩」(まくぼんのう)という三文字を書き、
それを時宗に渡しました。

「迷うことなく信ずるところを行え」という意味であったといいます。

また、「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、
「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた。
(この祖元の言葉はのちに「驀直前進」という故事成語になりました)

さらに、「蒙古の襲来は、大風が掃蕩してくれるので心配ない」
との説明を加えられたともいいます。

この無学祖元の言葉で、時宗の心に、稲妻のように衝撃が走った!

そうなのだ…。
自分は自分で元の脅威を巨大なものにしていた…。
その時、時宗の心に、かつてない平穏が巡っていた…。

無学祖元の言葉に従い、自らの出来るすべての準備を整える時宗。
すべての準備を終わり、明鏡止水の思いで、運命の時を待つ…。

そして、この年の夏、元軍が攻めてきました(弘安の役)。

時宗は、元の襲来の報が入ると、
無学祖元に「喝」(かつ)という言葉を告げて、
自分の決意を示したと伝えられています。


無学祖元によれば、時宗は「神風」によって救われたという意識はなく、
むしろ禅の大悟(だいご)によって精神を支えたといわれています。


・・・・・・

以下は、永井政之監修『ふっと心がかるくなる 禅の言葉』P56からの抜粋です。

   「莫妄想(まくもうぞう)〜妄想すること莫れ〜」
         −過去や未来を思い悩まず、今に集中する−

肉体や心の欲望、未来への不安や執着など、私たちの心を曇らせる最大の原因が妄想です。
それをくよくよ考えるなというのが「莫妄想(妄想すること莫れ)」です。

元寇の危機にさらされていた鎌倉時代、執権・北条時宗は、強大な元軍との
戦いに悩み、中国から招いていた無学祖元禅師のもとを訪れました。
無学禅師は時宗に「莫妄想」とさとしたといいます。

時宗はこの一言で決心を固め、今できるかぎりの防備に全力を尽くして、
あとは天命を待つ心境にいたったといわれています。

結果、元軍は二度とも暴風雨に襲われ、壊滅状態になりました。


今できることに全力を尽くしましょう。
よりよい未来をつくるのは今の努力しかありません。

           <感謝合掌 平成24年11月18日 頓首再拝>

「鎮護国家」と「戦没者供養」のための円覚寺建立 (3788)
日時:2012年11月20日 (火) 04時19分
名前:伝統


1282年(弘安5年)、北条時宗は、元寇の戦没者を弔うため、
師の無学祖元を開山として円覚寺を建立します。

建立の目的は「鎮護国家」(仏法によって国家を鎮め護ること)と、
「蒙古襲来(元寇)による戦没者の敵味方のない供養」だといわれています。


それから2年後の1284年(弘安7年)4月4日、北条時宗が亡くなります。

無学祖元は、時宗死後も鎌倉にあって、
その2年後1286年(弘安9年)9月3日、建長寺で示寂し、
建長寺に葬られました。

諡号(しごう)は、仏光国師。

時宗は、元寇を跳ね返すためという偉大な使命を遂行し終えて、若き生を閉じ、
無学祖元禅師は、その時宗を支えるために、宋から日本へ渡り、日本の地でその生涯を
閉じました。

両者共に、日本国のために命を捧げた偉人であるように感じております。

           <感謝合掌 平成24年11月20日 頓首再拝>

神風(による元寇撃破)は鎌倉武士の功績 (3990)
日時:2012年11月26日 (月) 05時04分
名前:伝統

       *渡部昇一・著「日本人の底力」(P161)より

文永5年(1268)元旦に蒙古から属国の高麗を通じて国書が大宰府にやってきたことで、
老齢の執権北条政村に代って、時宗(1251〜84)が八代目の執権として擁立されたのが、
このとき、時宗まだ18歳だった。

嫡流である時頼(五代執権)が薙髪(ちはつ)したときにはまだ幼く、六代、七代の執権職は
親類である北条長時、北条政村に委ねていた。

やがて国の一大事とともに、北条宗家の嫡流に戻ってきたのだが、
これが日本にとって思わぬ幸運となった。

当時、宋からの来日僧のひとりである「兀庵普寧(ごったんふねい)禅師」は、
「大高貴、大力量にして、最大の菩薩にもまさによくかくの如し」と時頼を称えているが、

その息子である時宗にいたっては、
「天地を握って驚いたり怒ったりする色を見せない。全然顔色を変えない」と、

元寇のときの時宗を絶賛し、国の一大事にあって敵の大軍を一掃し、しかし、それでも
別に威張っているふうでもない彼の人となりに感服している。


              ・・・・・・・

       *渡部昇一・著「日本人の底力」(P165)より

江戸時代以前、元寇を語る当時の文献は、我が国の勝利の要因を「神風」だとして
それを称え、武士の功績について述べるものはほとんどなかった。

これは史書を書く人の多くが公家か僧侶か神主であり、自分たちの祈りの効果が
いかにすばらしかったかを賞讃する立場であったからだった。

やがて江戸時代になると、水戸の学者たちなどによって時宗の功績が認められ、
称えられるようになったのだが、これは、頼山陽によって、「相模太郎は肝甕のごとし」
と著され、新たな時宗像が広く日本に普及することになったためである。

頼山陽は武士の立場から元寇を書いたのである。そして、弘安の役のときには、日本の武士の
奮闘によって、元の大軍がなかなか上陸できずにいたことを明確に記している。

そこですぐに上陸されていたとしたら、いくら風が吹いても神風になりようがなかったのだ。
2カ月近くも海岸をうろついていたからこそ、台風の季節に突入し、当然のように暴風雨に
見舞われた。それが神風となったのである。


敵が上陸したときに、鎌倉武士が奮戦したので、敵(元寇)は奥地にまで入りきれず、
海岸のところでうろうろしていたのである。このとき守りきれずに続々上陸されていれば、
台風がこようが神風が吹こうが侵略され、惨憺たる光景が広がっていたはずである。

それが上陸しないで(できないで)船がずっと海上にいたので台風がきたことに
意味が生じたのである。

まさに、神風は鎌倉武士の功績なのである。

           <感謝合掌 平成24年11月26日 頓首再拝>

「蒙古來」〜頼山陽 (4049)
日時:2012年11月28日 (水) 04時12分
名前:伝統


       *渡部昇一・著「日本人の底力」(P162)より

江戸時代後期の文人である頼山陽は、「蒙古來」の七言古詩を作っている。
これは「黒舟来る」と騒然となった幕末にも、日本人を奮起させた。

この大事件(元寇)を頼山陽は次のように記している。

「筑前の前の海はあたかも暴風のときの黒雲が天まで黒くしているように凶々(まがまが)しい。
海を蔽い尽してやって来た者はどこからの賊軍か。

蒙古軍がやってくる。北からやってくる。
蒙古は着実に東西の国々を呑み尽くそうとしているのだ。

(シナ大陸では趙の姓を持つ宋は広東あたりに圧迫され、
最後には天子を擁して楊(よう)太后家が政治をしていたが)

この趙家の老未亡人とも言うべき楊(よう)太后を嚇(おど)すことができたので、
それと同じように日本も威嚇できると思い、(宋征服の)余勢をかって日本という男子の国
(日本の古称「オノコロジマ」は「男子の国」の意味という)にやってきたのだ。

蒙古軍がやってくる。わが軍は怖れない。

わが軍が怖れるのは命令が山に如く厳然としている関東鎌倉の執権北條時宗なのだ。
その関東の命令とは、まっしぐらに進んで敵を斬り、後をふり向くな、というものだった。

(たとえば河野通有のように)自分の小船の帆柱を倒して敵の大船により登り、
敵将を虜にして鯨波(とき)の声を挙げた。

ところが残念なことに東風(台風)が起こって一吹きするや敵船は大涛(おおなみ)に
呑まれてしまい、羊の臭いのするなまぐさい血(牧畜し肉食する外人の血)を持った者を
すべて刃(やいば)の膏(あぶら)にしてやることができなかった」


頼山陽のこの詩の原文書き下しを参考に掲げておきたい。
戦前の中学の漢文教科書には載せられており、暗記をしているものも少なくなかった。

【蒙古來〜原文書き下ろし文】

筑海ノ 颶氣(グキ)  天ニ連ナリテ Kシ。
海ヲ蔽(オオ)ウテ 來(キタ)ル者ハ何(ナン)ノ賊ゾ。
蒙古(モウコ) 來(キタ)ル。北(キタ)ヨリ來ル。
東西 次第ニ  呑食(ドンショク)ヲ期(キ)ス。
趙家(チョウカ)ノ老寡婦(ロウカフ)ヲ嚇(オド)シ得(エ)テ。
此(コレ)ヲ持(ジ)シテ來(キタ)リ擬(ギ)ス男兒國(ダンジクニ)。
相模太カ(サガミタロウ)ハ肝(キモ)甕(カメ)ノ如シ。
防海(ボウカイ)ノ將士(ショウシ)人(ヒト)各(オノオノ)力(ツト)ム。
蒙古來(キタ)ル  吾(ワレ)ハ怖(オソ)レズ。
吾(ワレ)ハ怖(オソ)ル 關東(カントウ)ノ 令(レイ) 山(ヤマ)ノ如(ゴト)キヲ。
直(タダ)チニ 前(スス)ンデ 賊ヲ斫(キ)リ 顧(カヘリミル)ルヲ許(ユル)サズ。
吾(ワ)ガ檣(ホバシラ)ヲ倒(タオ)シテ 虜艦(リョカン)ニ登(ノボ)リ。
虜將(リョウショウ)ヲ擒(トリコ)ニシテ。 吾(ワガ)軍(グン)喊(カン)ス。
恨(ウラ)ム可(ベ)シ 東風(トウフウ)一驅(イック)大濤(ダイトウ)ニ附(フ)シ。
羶血(センケツ)ヲシテ 尽(コトゴト)ク 日本刀ニ 膏(チヌ)ラシメザルヲ。


この記述は、当時としては新たな歴史観だった。

それまでは、「神風」のことだけを称えて、武士の功績のことに何ら触れてはいなかったのが、
頼山陽によって、はじめて武士の功績というものがクローズアップされたのである。

また、「承久の乱」によって政治の権力が北條氏に握られてしまったのは、当時は不運であった
かもしれないが、皇室の存続のためにはよかったという逆説も見えてくる。

これについては、日露戦争のときに、明治天皇が北條時宗の功績を正式に認めている。
明治天皇は、勅使を鎌倉円覚寺にある時宗の墓所につかわされ、従一位を御追贈になっている。
じつに六百年以上も経ってからのことだった。

また、昭憲皇太后は、時宗を御歌でこう詠じられている。

「讐(あだ)波は 再び 寄せずなりにけり 鎌倉山の 松の風に」

こうして、頼山陽の元寇についての史観は、皇室の史観となり、
日本人全体の史観となったのである。

<参考Web:蒙古來 〜  頼山陽
       → http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/jpn04.htm >

           <感謝合掌 平成24年11月28日 頓首再拝>

甕(かめ)の如き胆力 (7677)
日時:2013年04月15日 (月) 04時57分
名前:伝統


      *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年10月03日)」より


   ( 松原泰道師の心に響く言葉より…  )


   個人が危険な目にあう災難があるように、
   日本の国にも、国家・国民全体が受けた危難がたびたびあった。

   それを「国難」という。

   今世紀に受けた第二次世界大戦の敗戦は、わが国が受けた最大の国難である。

   それまでは、国難といえば「元寇(げんこう)」が挙げられた。


   鎌倉時代の末期に近い1274年に、当時の中国を支配していた元の国王フビライが、
   日本に使者をよこして、日本の入貢を要求したが、鎌倉幕府はこれを拒否して、
   使者を帰した。

   フビライは怒って日本の国に攻めよせ、壱岐(いき)や対馬など日本の領土が
   一時元軍に侵略された事件を「元寇」と呼ぶ。

   「寇」は「あだをする・攻め入る・人や財産を殺したり奪ったりする」意味である。


   当時の幕府の最高指導者は執権職の北条時宗(ときむね)である。
   このとき時宗は23歳の青年だった。

   翌75年に重ねて日本の入貢を要求した元の使者を、彼は鎌倉の由比ガ浜で斬る。

   81年、時宗が30歳のとき元軍の第二次来襲を受ける。
   このときの元軍は前回にも増した15万の大軍の侵入だが、
   彼は沈着にこれを迎え撃ち退却させた。

   勝利を得た大きな原因に、突如大風が吹いて多くの敵船を沈めたいわゆる
   「神風(かみかぜ)」が挙げられる。

   しかしすべてを天の佑(たす)けとするのは当たらない。

   上下一致団結の愛国心と、勇猛な将兵の努力が、よき指導者のもとで実を結んだからである。

   時宗は、自分から進んで戦争を計画したのではない。
   元のフビライから仕掛けられた日本民族の危機に、彼は止むなく起ったまでだ。

   彼は元寇の役が終った3年後に、33歳の若さで没した。
   彼はこの国難に心身をともにすり減らしたのである。

   時宗が師事した一人に、彼が中国の宗から招いた禅僧の無学祖元がある。

   ある日、彼は祖元に「私は臆病でこまる。気が小さくてこまる」と悩みを訴えている。
   的確に自分を「小心・臆病」と認知できたら、その人はすでに小心者でも臆病者でもない。

   このとき、時宗はすでに、「甕(かめ)の如(ごと)き胆力(たんりょく)」を
   自分の中に据(す)えたと見るべきであろう。

   祖元は「莫煩悩(まくぼんのう)」(煩悩するなかれ)と三文字を書いて時宗に与えた。

   自我への偏愛を捨てよということである。

   そして、第二次来襲のときに、「驀直進前(ばくじきしんぜん)」とだけ告げる。
   
   あれこれとおもいわずらわず、ただまっすぐに進め…と。

   「莫煩悩」を積極的に展開すると、「驀直進前」となる。

   思いあがりを恐れる小心があれば、逆境も悲運もみな頭を押さえてくれる良き師となる。
   病み、悩む体験によって、すこしでも自分を深め、高めたいとの気が起きたら、
   病中や逆境にありながら、しかも病気や逆境をその人は超えているのである。

   病気や逆境に成り切って、はじめて煩悩が起きても煩悩が作用する余地がなくなる。

   莫煩悩や驀直進前、とはそういうことである。

          <『人生の極意』PHP文庫>

     ・・・・・・

藤田東湖が吉田松陰に贈った言葉がある。

「国難襲来す。 国家の大事といえども深憂(しんゆう)するに足らず。
深憂とすべきは人心の正気の足らざるにあり」

                 (感奮語録より)


正気が足りないとは、気力と気迫がなくなることだ。
個人の病気やトラブル、また会社の危機、あるいは国難にあっても、それは同じこと。

むしろ、心配すべきは、危難そのものではなく、人々に気力と気迫がなくなってしまうこと。

できることなら…

甕(かめ)の如き胆力を身につけたい。

           <感謝合掌 平成25年4月15日 頓首再拝>



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