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日々新たなり! (5183)
日時:2013年01月01日 (火) 08時34分
名前:伝統

【 我れ今日新生す 】

   <谷口雅春先生・著「幸福を招く365章」より>

 我々が眠りより覚めて意識の世界に再び帰って来たとき、
 其処に我々は新しく生まれた自分を発見するのである。

 過去との一切のつながりは、除夜の鐘を境にして、完全に断ち切られたように見える。

 過去の一切のものは完全に過ぎ去ってしまったものに感じられ、
 「新しく生きるのだ」と云う希望と決意とが湧き起って来るのである。

 まことに正月元旦は新生の時である。
 元旦の曙こそ、我々の心が浄らかな白紙のように浄められている時である。

 あなたの未来は、今あなたの掌中に握られているのである。
 今、この時、善き事を考えましょう。
 今善き事を計画しましょう。

 まことに一年の計は元旦にあるのである。

            <感謝合掌 平成25年 元旦 頓首再拝>

【新生の第一歩】 (5189)
日時:2013年01月01日 (火) 18時55分
名前:伝統


     *谷口清超先生・著「伸びゆく日々の言葉」(1月1日)より

新生の第一歩が始まった。
人は毎年生まれ変わるのである。

何故なら、以前と同じ生き方をしても、意味がないからである。
昨年と同じことが又繰り返されるならば、その1年間は無意味だったことになる。

人生は断じて無意味ではなく、一日一日が有意義である。
それ故1年たつと、全てが一新する。

そしてより一層内在の神性・仏性が顕在する。
訓練が進み、グレードが上る。
難問題を楽々とこなし、凡ゆる技術が進歩する。

元旦は、その記念すべき最初の第一歩である。
今日、只今から、明るく前進しよう。

            <感謝合掌 平成25年1月1日 頓首再拝>

【 元旦の言葉 】 (5192)
日時:2013年01月01日 (火) 22時18分
名前:伝統

      <「生命の實相」第37巻幸福篇上(1月1日)」より>

 われわれを生かすのは明るい思想である。
 さし昇る朝日のごとくさわやかな思想である。
 さし昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。

 生命は暗黒の中にも光を見る。
 暗室に置かれたる豆もやしは、外から洩れるわずかな光を求めて、
 光の方へ光の方へと向いていく。

 そして光のない間は細く長くかよわく貧弱に伸びて行くにすぎないが、
 ひとたび光を得たときには、太くしっかりと逞しく勢いよく生長する。
 生命には光が必要なのである。

 光が全然ないときには、伸びかかった豆もやしも数日間で枯れてしまう。

 再び言う。生命には光が必要なのである。

 
 新しい年には新しい心が生まれる。
 元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良い時である。

 他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しうるが、
 われわれには新しい決意を実行するのには元旦がよい。

 元旦からまず始めよう。
 それは明るい心を持つということである。

 一度にあれもこれもと考えて、それが実行できなかったら、
 新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。

 ただ今日一日明るい心をもつことにしたい。
 ただそれだけ一つのことである。
 これだけのことならばわたしにもできると思う。

 明るい心を持つには何事が起こっても怒らないということである。
 何事が起こっても悲しまぬということである。
 何事が起こっても失望せぬということである。

 何事が起こっても怒らず悲しまず失望せぬためには、
 起こった事物は「もうすんだのだ」と知ることである。

 去年の暮れはもう起こったからすんだのである。
 すんだからこそ新しい年が来たのである。
 木枯らしに散る葉があるからこそ、春に美しい若葉の美が讃えられるのである。


 天地一新。
 悪しきことは未だかつてひとつも起こらなかったし、これからも起こらない。
 それはすべて一新していく姿である。

            <感謝合掌 平成25年1月1日 頓首再拝>

【 今、あなたは主動者である 】 (5199)
日時:2013年01月02日 (水) 06時26分
名前:伝統


       <「栄える生活365章」より>

 今、あなたは地上に平和を打ち建てる主動者である。
 現象界に平和の基礎が打ち建てられる年の始まりである。
 あたなの心に平和が打ち建てられてこそ地上に平和が現れるのである。

 世界の平和は既にあるのである。聖書に示されたる”みこころの天に成る世界”
 はすでにあるのである。私たちはそれを現実化しなければならないのである。

 既にある世界は、映画のフィルムのようなものであり、それを現実世界に実現するには、
 それを映写機にかけて実映しなければならないのである。

 既にみこころの成る世界が”天”(実相の世界)にあるのに、
 何故今までそれが現実化しなかったのであるか。

 それには祈ってばかりいては駄目だ。
 ”みこころの天に成るが如く地にも成らせ給え”と今まで幾百年にわたって
 キリスト教徒が幾百万人祈って来たけれども、それが実現しなかったのである。

 祈ることは、祈る内容を映写機にかけて映写する方法ではある。
 しかし心のレンズのピントが合わなかったら、
 画面がぼけてしまってハッキリと実現しないのである。

            <感謝合掌 平成25年1月2日 頓首再拝>

心の眼ひらく (5215)
日時:2013年01月03日 (木) 04時57分
名前:伝統


    *「光明道中記」(P11<1月3日>)より

 【当り前のことに天地の恵みを自覚して有難いと判るのが悟りである。
                    (「生命の實相」第十二巻)】


一杯の味噌汁、一椀の朝食、天地の恵み茲に凝って吾々を生かしてくれていると知るのが
悟りである。斯く喜べるところに胃腸の病は存在しないのである。

既に空気ありて吾れを生かせり、有りがたきかな。

既に屋(おく)ありて吾れのために雨露(うろ)を防ぐ、有難きかな。

犬に生まれずして人に生まれたり、外国人に生まれずして日本人と生まれたり、有難きかな。

足ありて歩む、有難きかな。
手ありて物を執(と)る、有難きかな。


到るところに神の恵み満ちてあり。
心の眼覚むれば、娑婆は即ち寂光土ならずや。

到るところに大自然の恵満ちたり。

霜の白きも、木の葉の落ちたるも、霜の上に小鳥の足の印したるも、
日のさし上るも、晴れたるも、霧深きも、百鳥啼くも、白鳩飛ぶも、犬走るも、
眼覚めて見れば恵みならざるなし。

心の眼(まなこ)ひらくが新年なり。
歴日が新しくなるにあらず、生命の新生なり。

       <感謝合掌 平成25年1月3日 頓首再拝>

あなたの想念があなたの運命に (5245)
日時:2013年01月04日 (金) 04時59分
名前:伝統


        *「人生の秘訣365章」(P22)より

新年を迎えると誰でも心気一転して新鮮な気持ちになるものである。
それは人類全体が過去に於いて幾千年にわたって、そのように考えて来た想念が、
人類意識として地球上ぜんたいに充ち満ちていて、その人類意識の波動をあなたが
感ずるからである。

その人類意識の「新年を迎える心」に自分の心の波長に合わせて「新しい心」になることは
最もやさしい事であり、最も好い機会を捉えることになるのである。

新年こそあなたの生活の新鮮な始まりである。
そして此の年の運命はあなたの掌中に握られているのである。
あなたは想念の自由を神から授けられているのである。

あなたが想念するもののみが現実界に具体化するのである。
ただ新しく自他の”幸福”のみを念ぜよ。
暗黒なことを考えるな。

過去を過去たらしめよ。
明るい事のみを考えよ。

新しい年、新しい生活、年齢にかかわらず、
自己を”神の子”と自覚する者は常に若いのである。

       <感謝合掌 平成25年1月4日 頓首再拝>

新しき天と新しき地 (5279)
日時:2013年01月05日 (土) 04時51分
名前:伝統


    <「光明道中記」1月・いのち立つ春〜はじめの言葉 より>

我また新しき天と新しき地とを見たり。
これ前(さき)の天と前(さき)の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。

我また、聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく
準備(そなえ)して、神の許をいで、天より降るを見たり。

また大いなる声の御座(みくら)より出づるを聞けり。

曰く『視よ、神の幕屋人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、
神みづから人と倶に在して、かれらの日の涙をことごとく拭い去り給わん。
今よりのち死もなく、悲歎(かなしみ)も、号叫(さけび)も、苦痛(くるしみ)もなかるべし。
前(さき)のもの既に過ぎ去りたればなり』

斯(かく)て御座に坐し給うもの言いたまう。
『視よ、われ一切のものを新にするなり』また言いたまう
『書き記せ、これらの言(ことば)は信ずべきなり、真(まこと)なり』

また我に言いたまう
『事すでに成れり、我はアルハなり、オメガなり、始なり、終なり、
渇く者には価なくして生命の水の泉より飲むことを許さん。
勝を得る者は此等のものを嗣がん。我はその神となり。彼は我が子とならん・・・』

                  (「ヨハネ黙示録」第二十一章1―7)

            <感謝合掌 平成25年1月5日 頓首再拝>

新天新地を迎へて (5304)
日時:2013年01月06日 (日) 04時42分
名前:伝統


      *『白鳩』誌<28年新年号>
       ( 昨年の正月の”童子 さま”の記事より)

 (※導入は上記の「黙示録」第二十一章です)

私たちは皆さんと共に新しき年を祝福するのであります。

皆さんがたとい過去の年に於いて如何なることを経験せられたにせよ、
何を心に思い、何を身に行ったにせよ、それ等は既に過ぎ去ったのであります。

されど若し、皆さんが同じ心を依然として持ち続けるならば、
いづこかに新しき年はあらんやであるのであります。

皆さんは新年と共に想念を新しくならしめなければならないのです。
旧態依然たる争闘と摩擦と不平と慈哀と不健康と貧乏との想念を持ちつづけるならば、
それは年は新たであるにしても、内容的には古き年の継続に過ぎないと云わなければならないのである。

真理は皆さんに新しき人生と新しき幸福とを持ち来すべく待っているのである。
それは単なる期待でも単なる希望でもないのである。

如何なる人々も生長の家の真理に触れるとき、絶対に新しき生活を、絶対に幸福なる生活を、
絶対に豊かなる生活を、絶対に健康なる生活を、営むことの出来る資格と権利と方法とを
本来与えられていることを自覚せられるに相違ないのである。

真理とは何ぞや。人間は「神の子」であると云うことである。
仏教的に云えば「仏子」であると云うことである。
神道的に云えば、人間は、すべてミコトであり、日子〈彦〉であり日女(ひめ)であり、
尽十方に満つる光の子みなさんと云うことである。

此処に諸君(みなさん)が、絶対に幸福なる生活に、絶対に豊かなる生活に入る門を開く鍵があるのである。
「人間は神の子」と云い、「仏子」と云い「日子」と云い日女と云うと雖も、それは鍵であって、
諸君がこの鍵をもって、新しき生活への門をひらくと開かざるとは諸君(みなさん)の自由であるのである。

鍵は鍵孔に入れてこれを回転しなければならない。
ここに静的真理が動的事実として展開し来り、新しき生活への門がひらかれるのである。

昨日までの物質的又は肉体的状態が如何にあろうとも、五官に見える姿は唯かぎられたる視野から
眺められたる姿であって、決して貴方の世界でもなければ、貴方自身の全相でもないのである。

肉眼の視野の彼方に、顕微鏡下の世界があり、望遠鏡上の姿があると同じく、
更に無限に美しき天国浄土の世界があるのである。

それこそが、此の世界の實相であり、それは既にある世界であるに拘らず、
心の波長を合わさないから出て来ないに過ぎないのである。

心の波長を合わすとき突如として冒頭に掲げたる「われ新しき天と地とを見たり」と云う
至福の世界が実現し来るのである。

          <感謝合掌 平成25年1月6日 頓首再拝>

【 新天新地の歌 】 (5338)
日時:2013年01月07日 (月) 04時41分
名前:伝統

        <谷口雅春・著「生命の讃歌」より>
         初出・・「白鳩」昭和14年1月号


 往昔(そのむかし)第一の世界浄化(きよめ)の
 洪水(おおみず)の時にてありき、
 海原(うなばら)の主宰(つかさ) 素戔嗚尊は
 言依(こよ)され給いし現(うつ)し国を
 え治め給わずして泣きいさちる。


 かれ速(はや)素戔嗚尊は
 現し国の御位(みくらい)を辷(すべ)り給いて
 天照大御神に
 海原の統治(すべよ)の権(ちから)を
 譲らまして御空(みよら)へと参上(まいのぼ)る。


 その勢い猛々(たけだけ)しく
 山川(やまかわ)国土(くにつち)悉く震(ゆ)り撼(うご)き
 海原の水ことごとく
 尊(みこと)に随(したが)い御空にのぼる。


 御空にのぼりし海原の水
 悉く沛然(はいぜん)たる雨となりて
 地上は四十日四十夜
 小歇(おや)みもなく大雨降る。


 その大雨の水量(みずかさ)は
 丘を蔽(おお)い山を蔽い
 全地ことごとく
 洪水を被(こうむ)りたりき
 これ第一の世界浄化なり


 そのとき一人の翁(おきな)ありき
 名を塩土翁(しおつちのおうじ)と云う
 又の名をノアと云う

 No(ノ)は無字(むじ)をあらわし
 A(ア)は阿字(あじ)をあらわす。

 ノアは一切の物質の否定と
 阿字即ち摩訶(まか)毘盧遮那(びるしゃな)の
 華蔵(けぞう)世界君臨とを象徴す。


 塩土翁は目無堅間(めなしかつま)の御船をつくり
 ノアは「ノアの方舟(かこぶね)」を作り、
 すべて蒼生(あおひとくさ)の一つ一つを
 その御船(みふね)ーー方舟の中に収(おさ)めて
 金剛實相の国、龍宮海に避難せり。


 目無堅間の御船の構造は
 横は無字 縦は阿字にて成る、
 目無とは洩(も)れ無きなり
 堅間とは金剛不壊なり

 金剛不壊、無字阿字の船
 これノアの方舟なり、華厳経なり。


 このとき方舟の中の蒼生のみ救われき
 これ第一の世界浄化なりき、
 雨歇(や)みて乾ける土を
 指示すべく遣わされたるは白鳩なりき、
 これぞ伝書鳩の濫觴(はじめ)なる。


 第二の世界浄化も
 第一のそれと同様なり。

 その救いの願船は
 横は無字にして本来空
 三界唯心の真理にて成る。

 縦は阿字にして
 久遠實成(くおんじつじょう)の不滅の生命の自覚(さとり)なり
 それを作り給えるも塩土翁なり。

 塩土翁は新しき乾ける土を
 人類のために見出さしめんとして
 白鳩を先ず遣わす。
 これ第二の世界浄化の使命なり。


 白鳩は日輪の使者
 塩土翁に導かれて
 新しき乾ける沃土(よくど)、地上天国へと導かん。


 万国の白鳩たちよ連合せよ
 汝(いまし)たちの行くところに
 必ずや新しき地上天国は現れん。


          <感謝合掌 平成25年1月7日 頓首再拝>

新天新地の神示 (5373)
日時:2013年01月08日 (火) 07時24分
名前:伝統

【 「生命の實相」第一巻〜巻頭のことば 】

我振り反りて我に語る声を見んとし、振り反り見れば七つの金の燈台あり。
また燈台の間に人の子のごときものありて足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束ね、
その頭(かしら)と頭髪(かみのけ)とは白き毛のごとく雪のごとく白く、

その目は炎の如く、その足は炉にて焼きたる輝ける真鍮のごとく、
その声は衆(おお)くの水のごとし。その右の手に七つの星を持ちその口より
両刃の利き剣いで、その顔は烈(はげ)しく照る日のごとし。

我これを見しとき其の足下に倒れて死にたる者の如くなれり。
彼その右の手を我におきて言い給う。

「懼るな、我は最先(いやさき)なり最後なり活けるものなり。

われかつて死にたりしが、視世々限りなく生きく。また死と陰府との鍵をもてり。 
されば汝が見しことと今あること、後に成らんとする事を録せ。

すなわち汝が見しところの我が右の手のある七つの星と七つの金の燈台との奥義なり。
七つの星は七つの教会の使いにして、七つの燈台は七つの教会なり。

           (黙示録第1章、12節ー20節)

         ・・・・・

【新天新地の神示】

見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。
人々よ、眼の蔽ひをとれ、われは新しき智慧である。
新しき生命である。新しき宇宙である。新しき光明である。

われ臨(きた)つて此の世界は既に変貌したのである。
既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚(しゅうお)は滅し、病ひは癒え、
悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。

神秘を見て人々よ、目覚めよ、覚めてわが新しき光に照らして存在の真実を見よ。
われは存在の実相を照らし出す完成(ななつ)の燈台に燈(ひ)を点ずるものである。

悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。
汝の悲しみは喜びに変るであろう。

病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命を受けよ。われを拒むな。

われを信ぜざる者は已(や)むを得ぬ。
われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。
われ汝等に「神想観」 と言ふ観行を教へたれば、それを為せ。

われに汲むものは常に新しき力に涸(か)れないであろう。
吾を呼ぶ者のもとに吾は常にありて、汝らのいために汝らの重きくびきを軽からしめる。

なんぢ一人なれば吾を念じて吾を念じて吾とともに二人なりと思へ。
なんぢら二人ならば、われを念じて吾と倶(とも)に三人なりと思へ。

悩める者よ、わが言葉を読めば苦しめる魂も軽くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。

そはわれは限りなき大愛であるからである。
汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであろう。

信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫(ふびん)であるが助けやうがないのである。
汝の心の疑(うたがい)がわが救ひの波長に合わないからである。

遠くにゐて救われてゐる者もあるが、近くにゐても救はれぬ人もある。
仕方のないことであるが不憫である。

もつと兄弟たちに「生長の家」 を伝へよ。
神の愛は貰ひ切りではならぬ。
頂いたお蔭を「私」 しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。

「生長の家の神」 と仮りに呼ばしてあるが、「七つの燈台の点燈者」 と呼んでもよい。

七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命を得るのだ。
わが教へはどんな宗派をも排斥するような狭い宗教ではない。
教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。

                        (昭和六年五月六日神示)

          <感謝合掌 平成25年1月8日 頓首再拝>

新天地開ける日 (5629)
日時:2013年01月15日 (火) 04時53分
名前:伝統


    *「光明道中記」(P23<1月15日>)より

【新天地が開けるとは小さなる「我」が脱落して、自由な愛の世界に出ることである。
                            (「生命の實相」第四巻)】

新年は懈怠(けたい)の心を起すための期間ではなかったのである。
生れ更(かわ)りのための契機を与えてくれる善き恵みの期間である。

注連(しめ)の内を過ぎて振返って見ると、新年こそは生れ更(かわ)ろうと思っていたのに
幾程も生れ更(かわ)っていない自分、惰力に押し流されていたような自分を発見して
悲しくなる人が多い。

併し「今からでも遅くない」毎日、毎日が新生なのである。

愛に眼覚めること、愛の心を起すこと、神の愛を感ずること、大自然の愛を感ずること、
人の愛を感ずること、すべての物と事とに内在する愛を感ずること ―― 一言にして言えば、
すべての事物をただ有難く拝まさせて戴く心になることが此の月の毎日の課題であったのである。

有難く思わなかったことがあったら、
それは其の事物に有難さが宿っていなかったからではなかったのである。
自分が有難さを見る眼を開いて見なかったからに過ぎない。

「机さん有難う」「空気さん有難う」「御食事有難う」「日光有難う」
「お父さん有難う」「お母さん有難う」 

斯う声を掛けてみれば、万物ただ有難いことが判るのである。

          <感謝合掌 平成25年1月15日 頓首再拝>

常に新しく (6523)
日時:2013年02月16日 (土) 04時28分
名前:伝統


      <「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月16日、17日)」より>

常に新しくなるものは老いない。
老いるとは常に新しくなれないことの別名である。

人体の細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、
結局人間の細胞は永遠に分裂増殖して死なないものであることが
生物学上の実験によって確かめられたという。

人間の肉体が老いて衰え死するということは、細胞が複雑に組み合っているために、
常に新しくなれないからであって、必ずしも人間が老衰死するということが運命ではないのである。
ただ老衰死の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。

人間の心もそのとおりである。
常に毎日新たしくなれないものは死につつあるものである。
陳(ふる)びつつあるものである。

老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、ただ過去の惰力で生きており、
過去の惰力でものを考え、過去の惰力で行為をし、過去の惰力で若い人を推し測るからである。

過去の惰力で行為されたものは、すでに形骸であって生命(せいめい)はない。
これを称して型にはまるというのである。
型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。

       ・・・・・

ぼつぼつ樹木に新しい芽が出る。
まだ双葉にも開かない前の、あのふっくりとした逞しい樹の芽を見ていると、
本当に若々しい生命(せいめい)に触れた気がする。

開き切った葉よりもまだ開かない新芽の方に力がある。
生命(せいめい)は久遠であるが、現象界のものは何物でもまだ完全に開き切らないものには
底力(そこぢから)がこもっている。

宗教でも古い時代に起こったものは過ぎ去る。
今は新しい時代が来つつあるのである。
史代革新期である。

あたらしき酒を古き皮袋に容れるときは破れる。

          <感謝合掌 平成25年2月16日 頓首再拝>

新たに生まれるということ (7355)
日時:2013年03月29日 (金) 08時10分
名前:伝統


    *『神と偕(とも)に生きる真理365章』(P40)より

人間は五官の感覚によって自己を視て、自己を”肉体”と称する有限の物質体であると認める。

これを「創世記」に於いては「蛇の知恵によって瞞(だま)される」という風に記述している
のである。蛇は地(物質)に匍匐(ほふく)して触覚的に物に触れて解するから、
すべての存在を物質的なるものとして見る肉体人間の知覚の表象とあんるのである。

旧約聖書の「エゼキエル書」には預言者エゼキエルに神があらわれて
「死すべき者の死に就いては我れ之を悦ばす。それ故に視域を変えて《永遠なるもの》を見よ」
と啓示していられるのである。

これはイエスが「死にたる者は、死にたる者に葬らせよ」と言っているのと同一意義であるのである。

人間は”死すべき肉体”という面と、永遠に滅びざる”霊なる自己”(神の子なるもの)との
二つの面をもつものである。五官の感覚による認識は人間の虚仮不実の肉体の面を見るのである。
しかし悟りは、人間の滅びざる””霊なる自己”を観るのである。

この視域の転換が所謂る「新たに生まれる」である。
肉体自我より霊的自我への転換である。

          <感謝合掌 平成25年3月29日 頓首再拝>

たえず新しくなること ―― これが永遠に生きる道 (7445)
日時:2013年04月03日 (水) 04時09分
名前:伝統

     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P93(4月3日)>より

創造の心を持つかぎり病み死することはない。
創造の心を持つものは若返る。

現象世界は表現の世界であるから、表現すべき内容が心の中になくなったとき、
その人のこの世の寿命は終わったのである。

表現すべき内容がなくなった後(のち)に、もし彼が生きているならば、
それは肉体の波動の惰力が継続しているだけであって、
本当はもうその人は死んでいるのである。

たえず新たなる表現内容を生み出す者は、刻々若返る。
小児の生命(せいめい)が溌溂としているのは、
彼は自己のうちに新たなる表現内容を蔵しているからである。

たえず新しくなること ―― これが永遠に死なない道である。

たえず動く水は腐敗せず、水が固定状態に陥ったとき腐敗する。
生命(せいめい)の水もかくのごときものである。

          <感謝合掌 平成25年4月3日 頓首再拝>

新たに生まれるとは、自分自身の中に永遠を発見すること (7547)
日時:2013年04月08日 (月) 05時04分
名前:伝統

4月8日 【花まつり、仏生会、潅仏会】

仏教の開祖である釈迦の誕生日とされるこの日、
各寺院では釈迦の立像に甘茶をそそぐ儀式を行なう。

この習慣は釈迦が誕生したとき、
竜王が喜びのあまり天から清浄の水(甘露の雨)を注ぎ産湯を使わせたという伝説に由来する。

・・・

「真の人間」は日々に新たに生まれる

     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P99(4月8日)>より

釈迦が生まれた日である。
しかし今日だけが仏(ほとけ)の生まれた日ではない。
毎日仏は生まれるのである。

生まれ更わらない者は亡者であって、「人間」ということはできない。

「真の人間」は日々に新たに生まれる人である。
なんじらは皆己成(いじょう)の仏である。

・・・

        *「光明道中記」(四月八日 釈迦新生の日)より

【永遠の過去より永遠の未来を包容する常住の今 
 ―― お前が仏であり、お前が極楽である。(『生命の實相』第六巻)】


「お前は何を求めているのだ? 」

「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」

「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」

「《この》私が永遠か? 」

「そうだ、《その》お前が永遠者なのだ。併し《そのお前》と云うのは肉体を指しているのではない。
その肉体を《あらわしている其の》お前の《いのち》そのものだ。
『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいるのだ」

此の対話の示す真理を理会する者は幸である。
各人は自分自身が永遠なのである。
自分自尊が滅びない者なのである。

是を発見するのが新生である。
「人あらたに生れずんば神の国を見ること能(あた)わず」とイエスは言ったが、
自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。

吾を新に発見し、彼を新に発見し、此の世界を新に発見することが新生である。

          <感謝合掌 平成25年4月8日 頓首再拝>

新生の朝、未来はあなたの掌中にある (7752)
日時:2013年04月18日 (木) 04時59分
名前:伝統


       *「幸福を招く365章」(P94)より

過去の不幸を心の中で繰り返すな。 
過去は既に過ぎ去ったのであり、未来は自分の心の中にあるのである。 

朝々が新生である。 
新たなる人生があなたを訪れるのである。 
未来はあなたの掌中にある。 

夜の帳(とばり)はあなたの過去のすべての嘆きを拭い去ったのである。
この朝、あなたは新生したのである。 
新しき機会があなたを訪れる。これこそ真理である。 

昨日までの一切の不幸を嘆くな。
一切の病弱を、一切の貧苦を。 
それは過去のあなたの想念の影に過ぎなかったのである。 

過去は、あなたが心でそれを捉えない限りはあなたを最早や苦しめることは出来ないのである。 
過去を捨て、現在に生きることが光明(こうみょう)生活の極意である。 

今ここにあなたが、人々の幸福のために何物かを与えれば、未来にあなたの幸福が実って来る。 
あなた自身が未来を造りつつあるのである。

          <感謝合掌 平成25年4月18日 頓首再拝>

古くて新しいもの (8579)
日時:2013年05月21日 (火) 04時34分
名前:伝統

   *中山靖雄・著「すべては今のためにあったこと」(P195〜197)より

・・・

伊勢の神宮のように、古くして新しいものが常に栄えます。

その感覚を日本人は大事にしてきました。

・・・

「古くて新しいもののみ栄える」と昔から言われてきました
「古くして古いものは滅び、新しくして新しいものも滅びる。
古くして新しいものが常に栄える」のです。

「古くて新しいもの」とは何かと言うと、たとえば「親孝行」がそうです。
ほかにも「魂で生きる」とか、「元にかえる」とか、昔は当たり前に大事にしていたことが、
少しずつ忘れられて、そして今再び新しい感じがすると思うのです。

その姿の最たるものが伊勢の神宮です。

神宮は20年おきに遷宮されます。
遷宮とは、神宮のすべての建物を20年おきにお建て替えすることです。
ニ千前の昔の建物の姿のままでありながら、今そこに新しい姿で存在しています。

遷宮の際は、建物だけではなくて、橋や、装束、金具などもすべてを造り替えています。
日本の文化遺産の中には、木造の姿で千三百年前から建っているものもあります。
しかし、神宮様はあえてそれをしていないのです。

形は二千年前のままです。古いけれど、二十年に一度遷宮をしているので新しい。

それがなぜできるかというと、二十年に一度遷宮をするおかげで、建物だけではなく、
装束や金具などをつくる人々が途切れないのです。やった人がまだ生きている間に次の人に
伝えることができる。だからこそ残っていくのです。

これはすごいことですね。
二千年前のそのままの神宮様の姿で、今もそのまんまいらっしゃる。
二千年前と同じようにつくれる方が今もおられるのですから、


また、太陽も古くして新しいものです。
太古の昔から、太陽が昇った時に人々は嬉しい思いが湧いてきます。
まるで今日初めて見たような思いがする。

太古の昔からあるのだけれど、
今日、昇った日の出を見た時は、まるで初めて見たような感動が湧きます。

ずっとあり続けているけれど、いつも新しく清々しいのです。

魂も古くして新しいもののみが栄えていくものです。
それは、昔からあり続けながらも、毎朝新しくなる魂です。
昔の人はそれを知っていたのですね。

          <感謝合掌 平成25年5月21日 頓首再拝>

【新たに生れる言葉】 (8890)
日時:2013年06月01日 (土) 04時45分
名前:伝統


      *「日々読誦三十章経」<一日の経言(のりごと)>より 

天地のはじめは今を始めとする理(ことわり)あり。
今吾等は新生したのである。

今より自分は自己の生活を自分自身で支配する。
自分は自分の生活の主人公なのである。

吾れはいま力と勇気をもつて新生し新しき日の仕事と生活とに向うのである。
吾れは今わが仕事に溢るる熱誠をもつて赴(おもむ)く。
吾れは歓びに満たされて進み行く。

そは吾れいま吾が求むるものは凡て神より与え給うと信ずるからである。
吾れは今吾がうちに神が宿り給うことを知る。
吾れは決して此の感じを失わないのである。

吾れは今日(きょう)も終日(ひねもす)吾れを支えたまえる無限全能の力を
わがうちに感ずるのである。何が吾れに起つて来ようとも、其れに対する準備が
与えられていないと云う事はあり得ない。

吾れに智慧が必要ならば其の智慧は既に与えられているのである。
吾れに愛が必要ならば其の愛は既に与えられているのである。
吾れに勇気が必要ならば其の勇気は既に与えられているのである。
吾れに力が必要ならば其の力は既に与えられているのである。

吾が内なる生命(せいめい)は、神と融け合つて一つとなつているのである。
吾が内より生命(せいめい)の清水は無限に泉(いず)み出るのである。

真理なる神は吾れに凡てを教えたまい、真理の道にわれを導き給うのである。
吾れは全能の力によって守護されているのである。

吾れは無限の力の泉を自己のうちに有する。
不思議なる力と平和とがその泉から湧き出て来るのである。
今日(こんにち)われに接する人々は、
わが雰囲気に大いなる魔力の如き力のあることを感ずるであろう。

吾れは此の魔力の如き力が、吾が内に宿れる『無限なる者』の力で
あることを知るのである。

吾れ此の『無限なる者』に感謝し奉る。

   *Web:(生長の家“本流宣言”掲示板)「日々読誦三十章経」(8785)
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2062

        <感謝合掌 平成25年6月1日 頓首再拝>

新生の自覚を得るための祈り (10285)
日時:2013年08月01日 (木) 04時26分
名前:伝統

8月1日、新たな月初めに当たり、谷口雅春先生のお言葉よりスタートです。

そして、「生長の家光明掲示板」にとっては、新たな2年目のスタートでもあります。

・・・

新生の自覚を得るための祈り

       *『聖経 続真理の吟唱』(P48)より

新たに生まれる時が来たのである。
新たに生まれるとは、自覚が生まれ変わることである。

”われ肉体なり”の自覚から”われ神の子なり、霊的実在なり”との自覚に転生することである。
肉体的”個”としての自覚から、普遍的自我の自覚に転生することである。
”われ有限者なり”の自覚から、”われ無限者なり”の自覚に転生することである。
”われ死すべき者なり”の自覚から、”われ永遠者なり”の自覚に転生することである。

われ肉体の母胎よりいでて久しく、”肉体の子”であると錯覚して、自己を小さき者として
自己限定していた過去の自覚から、一転して、肉体は”自己”にあらずして、肉体の奥に
物質の奥に霊妙きわまりなき存在あり、それこそ”本当の自己”であると自覚することが
”新生”である。

しかして人間は“神の子”であり、神のもち給えるあらゆる善徳と、あらゆる智徳と、
あらゆる慈徳とを兼ね備え、更に天国を実現するためのあらゆる手段と資料とを掌握している
無限の霊的富豪であると自覚することが新生である。

わたしは今その自覚を得たのである。

有限は肉体に属する性質にして、わたし達がひとたび霊的富豪であるということを自覚する
とき、わが生命(いのち)は、永遠不滅であって死せざるものであるとの自覚を得るのである。

わたし達は霊的富豪であり、神のもち給えるあらゆる資源の継承者であるがゆえに
乏しいということを知らないのである。

たとい、今貧しく見えることがあろうとも、それは、過去の”自己”を物質的肉体であると
錯覚していた時の迷妄の影が、しばらく揺曳(ようえい)しているだけであって、
影は間もなく消えて実相の無限の富が現実化して来ることに間違いはないのである。

わたし達は”神の子”であり神は”愛”であるから、”神の子”の自覚を得たとき、
必ず”愛”を実践するのである。

愛行こそ”神の子”の使命であり、愛を実践している時にのみ、
”汝、まことに神の子なり、わが愛し児なり”
との神の親さまからの称讃の御声をきくのである。

その称讃の御声を”肉の声”は聞くことが出来ないかも知れないけれども、
わが霊なる魂はその親さまの称讃の声をきいて、存在の根底から歓喜跳躍するのである。

その魂の歓喜がやがて肉体生活に影を移して”生き甲斐”の感じとなってあらわれ、
全身の細胞も歓喜勇躍するが故に、霊妙なる歓喜の振動が全身の細胞内に鼓動して
生き生きと生命力が活躍する。

それゆえ、病める者も健康をとりもどし、健康なる者も更に金剛の霊的健身を得るのである。
かくて、ここに無限愛、無限智慧、無限生命、無限宝蔵の地上天国を成就するのである。
その時、既に到れり。

われこの自覚を得せしめ給いしことを神に感謝し奉る。
ありがとうございます。

        <感謝合掌 平成25年8月1日 頓首再拝>



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