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常若(とこわか) (5191)
日時:2013年01月01日 (火) 22時10分
名前:伝統


    *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年01月01日)」より抜粋


伊勢神宮には、式年遷宮(しきねんせんぐう)という、
20年ごとにお社(やしろ)を建て替える儀式がある。

遷宮ではお社を新しくするのみならず、2000種類近くのご装束や、
500点に及ぶ御神宝や神具も古式そのままに、すべて新たに造り替えられる。

その精神を、「常若(とこわか)」という。


時代や精神を継続するには、「常に新たに、日々に新たに」という気持ちが必要だ。

営々とそれが現代まで続いている。



そして、いよいよ本年がその式年遷宮の年。

この第62回(平成25年)のご遷宮にはおよそ550億円のお金がかかるという。

造営に必要な木材は約1万本、萱は2万3000束。

ヒノキは大きなもので長さ10メートルを超える。


国からの補助はない。

しかし、一見無駄のように思える20年ごとのご遷宮が日本人の叡智と、
技術の伝承を守ってきた。

日本のルーツでありDNAである伊勢神宮を守っていくことは、
歴史や伝統という日本そのものを守ることでもあるのだ。




何ごとの

おわしますかは

知らねども

かたじけなさに

涙こぼるる

(西行)


連綿と2000年続く伊勢神宮。

常に新しく生まれ変わる、常若(とこわか)の神宮。

そこには、何か目には見えない、厳(おごそ)かで、涙が流れるような深い感動がある。

<参考Web:(生長の家“本流宣言”掲示板)常若(とこわか) (6017)
       http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1340 >

            <感謝合掌 平成25年1月1日 頓首再拝>

「遷御の儀」、天皇陛下が御治定 伊勢神宮の式年遷宮 (6719)
日時:2013年02月26日 (火) 04時58分
名前:伝統


       *読売新聞(2月25日(月)16時48分配信)より
        産経新聞(2月26日(火)1時44分配信)より

伊勢神宮(三重県伊勢市)は25日、20年に1度、社殿を建て替え、
装束神宝を新調してご神体を移す式年遷宮の「遷御(せんぎょ)」の儀を、
10月2日に皇大神宮(内宮(ないくう))、同5日に豊受大神宮(外宮(げくう))で、
ともに午後8時から行うと発表した。

宮内庁から伊勢神宮に、日時を定められる天皇陛下の「御治定(ごじじょう)」の通知があった。

約1300年前に始まったとされる式年遷宮は今回が62回目。
内宮、外宮の社殿などを造り替えるほか、714種1576点の装束神宝も古式のままに新調する。

式年遷宮は1300年以上の歴史があり62回目。
平成17年5月、ご用材伐採の安全を祈願する「山口祭」から一連の祭事が始まり、
昨年3月に「立柱祭」を催して以降、新殿の造営が進んでいる。

「遷御の儀」はご神体を旧殿から新殿に移すため闇の中で営まれる厳粛な儀式で、
式年遷宮のクライマックスとなる。

御治定について神宮の鷹司尚武・大宮司(67)は
「遷宮の諸祭や準備も着々と進み、いよいよ晴れの大儀を奉仕する運びとなった。
心を一つに奉仕に専念し、大御心(おおみごころ)に副い奉りたい」と語った。

     (http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130225-00000919-yom-soci
     (http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130226-00000505-san-soci

            <感謝合掌 平成25年2月26日 頓首再拝>

悠仁さま、初めて伊勢神宮を参拝 (7310)
日時:2013年03月25日 (月) 22時03分
名前:伝統



秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまが、今年、20年に1度、社殿を造り替え、
御神体を移す「式年遷宮」が行われる伊勢神宮を初めて参拝されました。

秋篠宮ご一家は、「式年遷宮」の準備の状況を見て回られました。

悠仁さまは、秋篠宮ご夫妻と姉の佳子さまに続き、玉砂利の上を歩かれ、
正殿の手前で、玉串を捧げ、拝礼されました。

http://dailynews.yahoo.co.jp/photograph/pickup/?1364209787

            <感謝合掌 平成25年3月25日 頓首再拝>

常若の聖域 (8093)
日時:2013年05月02日 (木) 07時17分
名前:伝統


         *「伊勢神宮の知恵」(P12〜26)より

アメリカの建築家、アントニオ・レイモンドは深い森のなかで、
「世界で一番古くて新しい」ものを見つけました。

伊勢の神宮です。

「日本書紀」に「伊勢神宮」と記される、皇大神宮(内宮)の歴史は二千年、
豊受大神宮(外宮)の歴史は、千五百年前にさかのぼります。

しかし、そこにあるのは遺跡ではありません。
古代様式を保ちながら、常に新しい神殿が現存するのです。
この「古くて新しい」というパラドックスを解く鍵は、常若の思想です。

(中略〜ギリシアの神殿、エジプトの王墓・・・)

八百万神を信仰してきた日本人は、あらゆるもののなかに神霊の存在を感じていました。
人(霊処<ひと>)にも木にも稲穂にも神につながる命が宿ることを疑うことはなかったのです。

さらに、親から子へ、そして孫へと永遠につづく霊魂の連鎖をも信じてきました。
木霊(こだま)も稲魂(いなだま)も、すぎゆく季節と共に滅び去るわけではありません。
めぐる季節に、また美しい命の輝きをみせるのです。

春をまちわび、花の下で種をまき、秋の稔りを願いつづけてきた人々に、
滅びを願う心などありません。

西洋の神殿やピラミッドは風化するばかりです。
けれども、神宮は二十年に一度、神殿を新造して神々を遷すという式年遷宮によって、
常に若々しい姿を見せるのです。

木造といえども20年以上の耐久性はあります。
内宮・外宮の棟持柱(むなもちばしら)は、20年後に宇治橋の内と外の鳥居となり、
つづいて「鈴鹿の関の追分」「桑名の七里の渡し」の鳥居になるなどリサイクルされています。

神宮は滅びを求める無常の産物ではなく、永遠の存続を可能にする智慧の結晶であり、
繰り返しの美学をもつ常若の象徴なのです。

(中略〜観光施設としての神宮)

しかし、祭の様子や参拝作法を知らなくても、神宮において大きな感動や
やすらぎを覚えるという人は少なくないようです。



   何事(なにごと)のおはしますかは知らねども
   かたじけなさに涙こぼるる

                  (西行)

歌僧として知られる西行の歌は、神宮によせる日本人の心情を表現したものといわれています。
まさに、目に見えぬ世界を詠んだ名歌です。

なお、この歌については、
「どなたがいらっしゃる(おわす)のか、知らないけれど、ありがたさに涙がこぼれます」
と説明されることが多いようです。

さらには、「御祭神を熟知している西行が疑問形の《かは》と詠むはずがない」
と指摘されることも少なくありません。

けれども、西行は「何事」と詠んでいるのであって「何様」か知らないというわけではありません。
誤解は「《おは》します」を《居り》と解したからで、《あり》の尊敬語とみれば、
「何事がおありなのか」ということになります。

この歌には秘伝もあり、『西行上人家集』(写本)には、


    <大神宮の御祭日によめる>

   何事のおはしますをば知れねども
   かたじけなさの涙こぼれて

と記されています。

詞書(ことばがき)に従うならば、西行は祭日に神事の尊さを歌にしたことになります。
奥深い神宮の御垣内(みかきうち)では、どういう祭事がおありになるのか見知ることは
できないけれども、その波動を感じて涙したと解すべきなのです。

西行の歌の感動は、五百年後の俳句にも受け継がれています。


   何の木の花とは知らず匂ひ哉(かな)

                   (芭蕉)

俳聖芭蕉は、参宮のために伊勢を訪れ、西行を追慕して句を詠んだのです。
神宿る聖地は、時空を超えて二人の魂をむすびつけたのです。

(中略〜二人は僧形であったので、一般とは離れた拝所での参宮であったが、
    そのような神殿から遠くでありながら、誰よりも神を身近に感じていた)


   ここは心のふるさとか
   そぞろ詣れば旅ごころ
   うたた
   童にかへるかな
               (吉川英治)

作家の吉川英治は、『新・平家物語』の執筆取材の折に参宮。
ふるさとにおいて、まるで童(わらべ)に帰ったような安らぎを味わったのです。
こうした心情は、多くの日本人に共通するものといえましょう。

けれども、心のふるさとにおいて魂をゆさぶられるのは、日本人ばかりではありません。

    <ガブリエル・マルセル(フランス哲学者)>

   そこには聖なる感情があり、人間が自然と調和している。


    <アーノルド・J・トインビー(イギリス歴史家)>

   この聖地において、私は、あらゆる宗教の根底的な統一性を感得する。


    <ブルーノ・タクト(ドイツ建築家)>

   神宮の建築は、ギリシャのパルテノンに比すべき、すばらしいものである。
   天から降ってきたような、この建築は、日本固有文化の精髄であり、世界建築の王座である。


    <アンドレ・シュラキ(イスラエル聖書学者)>

   伊勢の皇大神宮に通じる荘厳な橋もまた、他の全ての祭儀用具と同じように、
   二十年ごとに解体して架け替えられているのである。
   人間の良心に宿るこの宗教的・霊的現実に目を閉ざさないことが重要である。

   なぜなら神性に対するこのような根強い信仰の表現は、私に知る限り、
   日本民族にしか見出されないのである。
   西欧は、心して、このことを忘れてはならない。


    <ダライ・ラマ法王十四世>

   神宮の美しい自然とそれを維持する人々の態度、
   神宮の平和的な環境は素晴らしいものだと感じた。


ディズニーの世界が夢を与えてくれるように、
神宮は宗教や国境を超えて感動を与えるワンダーランドです。
まさに心のふるさとであり、世界の聖域・常若の聖域といえるのです。

            <感謝合掌 平成25年5月2日 頓首再拝>

出雲大社の【ご遷宮】 (8327)
日時:2013年05月11日 (土) 23時28分
名前:伝統


出雲大社で60年ぶり本殿遷座祭 神輿に乗って「帰還」

    *朝日新聞(2013年5月10日(金)20:06)より

60年ぶりの「平成の大遷宮」を迎えた出雲大社(島根県出雲市)で10日夜、
5年がかりの修繕を終えて蘇(よみがえ)った本殿(国宝)に
祭神の大国主神(おおくにぬしのかみ)がかえる本殿遷座祭が営まれた。

約1万2千人の招待客らが見守る中、修繕中にご神体をうつしていた仮殿から
神職16人に担がれたご神体のみこしが出発。境内をゆっくり周回した。

本殿前の二つの門をくぐったご神体が本殿に入った後、
神職の「おー、おー、おー」という声が響き、御神座への大国主神の帰還を告げた。

千家尊祐(たかまさ)宮司は
「多くの人々のお仕えでご本殿は見事に蘇り、大神さまはお喜びのことと存じます」
との談話を出した。

平成の大遷宮は本殿遷座祭で区切りを迎え、周辺建造物の改修が2015年度末まで続く。
11日から遷宮を祝う神事、12日から神楽などの奉祝行事が始まる。

・・・

60年ぶり本殿遷座祭=「大遷宮」最重要行事―出雲大社

     *時事通信(2013年5月10日(金)23:09)より

島根県出雲市の出雲大社で10日夜、改修された国宝の本殿に、
仮殿からご神体を戻す「本殿遷座祭(せんざさい)」が1953年以来、60年ぶりに行われた。

2008年に始まった「平成の大遷宮」の最重要行事。
ご神体が本来の場所に戻るため、「よみがえり」の意味もあるという。

午後7時から始まり、約1万2000人が参列。
暗がりの中、神職が仮殿に祭られていたご神体をみこしに載せ、
「絹垣(きぬがき)」という白い布で覆い、総勢約260人の列が本殿までゆっくり進んだ。

本殿に到着し、ご神体が鎮座すると、神職が「おー、おー、おー」という掛け声で、
これを告げた。

当日、出雲大社で降っていた雨は、遷座祭を避けるように昼すぎにやんだ。
祭典中、ご神体が本殿に到着後、再び降り始め、参列者たちを驚かせた。 

・・・

出雲大社で60年ぶり本殿遷座祭 幽玄 ご神体戻る

     *産経新聞(2013年5月11日(土)08:05)より

島根県出雲市の出雲大社で10日夜、
60年ぶりの改修できれいによみがえった本殿(国宝)に
ご神体の大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)(オオクニヌシノミコト)を迎える
「本殿遷座祭」が営まれ、約1万2000人の参列者が神事を見守った。

                   ◇

千家尊祐(せんげたかまさ)宮司が午後7時すぎ、
改修工事の間にご神体が移されていた仮殿で祝詞を奏上。
ご神体を納めた神輿(みこし)を白い絹布で囲み、神職120人余りの行列が出発した。

ちょうちんで足元を照らしながら、神職が「おーおー」と声をあげ、
本殿などを囲む瑞垣(みずがき)沿いの「お通り路」約400メートルを時計回りに1周。

太鼓と笛の音が響き渡るなか正面の八足門(やつあしもん)と楼門(ろうもん)をくぐって
本殿に入った。

遷宮は、飛鳥時代の斉明5(659)年が最初といわれ、
江戸時代以降は60〜70年ごとに実施。

本殿の建て替えが基本だが、現在の本殿は延享元(1744)年の造営で、
このとき以来改修の方式で行われ、「大社造(たいしゃづくり)」と呼ばれる
最古の神社建築様式を伝える。

今回の「平成の大遷宮」では、20年4月にご神体を仮殿に移し、
本殿の大屋根の檜皮(ひわだ)約70万枚を葺(ふ)き替えるなど伝統技法を駆使して
改修が進められた。

・・・

出雲大社本殿遷座祭「2度もめぐり会えて感無量」 元禰宜の伊藤征男さん

       *産経新聞(2013年5月11日(土)12:07)より

「短い人生で2度も遷宮にめぐり会えるとは…」。
出雲大社(島根県出雲市)で10日夜、60年ぶりに行われた本殿遷座祭を特別の感慨を
もって見つめる人がいた。元出雲大社禰宜の伊藤征男さん(75)。

昭和28年に行われた前回の遷宮は敗戦からの復興期。
そして今回は東日本大震災からの復興途上と、再び歴史の節目に訪れた遷宮に、
人々の心の「よみがえり」を願わずにいられなかった。

「60年前はまだまだ貧しかった。高校生は学費を捻出するため、港に出てはスコップで
採石をトラックに積んだものです」。出雲大社のおひざ元の同市大社町で生まれ育った伊藤さん。
前回の遷宮のときは高校1年生だった。

この年は、日本が主権を回復したサンフランシスコ講和条約発効(昭和27年)の翌年。
戦争に敗れた日本が復興へ本格的に歩み始めたばかりだった。

戦後の混乱期で物資も十分でなかったが、出雲大社にはお祝いムードにわく参拝者が
全国から詰めかけ、久しく感じなかった活気と高揚感に満ちていたという。

「境内周辺では、『神国博覧会』という奉祝行事が1カ月間も開かれた。
連日、お参りの人たちで押すな押すなの大盛況でした」。
歴史館や科学館、子供の国…。出雲大社近くの稲佐の浜には水族館や海洋館もあったという。

「敗戦後、元気がなかった大人たちも勇気づけられた。まさに『大社(おおやしろ)』
のすごさを感じました」と振り返った。

人々の心を鼓舞した遷宮に感銘を受け、高校卒業後は迷わず出雲大社の神職に。
昭和34年の拝殿再建、神楽殿建設などに携るなど、長年にわたって宮司の側に仕えたため、
宮司の信頼もあつかった。

7年前、体調などを考慮し退職したが、今回の遷座祭では全国からの招待客らに応対する
受け付け係を依頼された。「現職としてお仕えできないのは残念ですが、こうして元気に
お手伝いできて幸せです」と語り、この日は夕方から他の担当者とともに、
約1万2千人を超える来場者らを迎え入れた。

「60年の間、わが国は経済成長で先進国の仲間入りを果たしたが、東日本大震災を経験し、
再び歴史の節目を迎えている」と語る伊藤さん。

見るもの聞くことすべてが新鮮に感じられた昭和28年の遷宮を体験した伊藤さんは、
時代の流れを重ね合わせながら語った。

「今こそ絆の大切さが求められる時はない。今回の遷宮を機に人々に『新生』してもらえれば」

・・・

天皇陛下からの御幣物をお供え 出雲大社

      *産経新聞(2013年5月11日(土)15:05)より

60年ぶりとなる「平成の大遷宮」のクライマックス、「本殿遷座祭」から一夜明けた11日、
島根県出雲市の出雲大社で、天皇陛下からいただいた御幣物(ごへいもつ)(祝いの品)を
供える「本殿遷座奉幣(ほうべい)祭」が営まれた。

10日夜にご神体が戻ったばかりの本殿に供え物をささげ、
千家尊祐(せんげ・たかまさ)宮司が祝詞を上げた。

続いて参列者約7500人が見守る中、御幣物の入った唐櫃(からびつ)を先頭に
正服姿の勅使の一行が本殿に進み、千家宮司が神前に供えた。

     (http://news.goo.ne.jp/picture/sankei/nation/snk20130511135.html

   ○      ○     ○

(以下は、「生長の家“本流宣言”掲示板」より)

【伊勢神宮と出雲大社の遷宮 (6423) 】

ご遷宮自体は、伊勢神宮は20年ごとで出雲大社はだいたい60年ごとぐらいとされている
のですが、戦争や諸々の事情により、お互いの遷宮の時期が多少ずれることもあったせいか、
今まで出雲大社と伊勢神宮の遷宮が重なったことはないと言われています。

それが初めて平成25年(2013年)に重なり、
日本国にとって、非常に記念すべき「ご遷宮」なのです。

            <感謝合掌 平成25年5月11日 頓首再拝>

ご遷宮と松尾芭蕉 (8431)
日時:2013年05月16日 (木) 04時41分
名前:伝統

今日、5月16日は「旅の日」

・・・

「旅の日」とは、
松尾芭蕉が「奥の細道」に旅立った日が1689年3月27日であり、この日が太陽暦で5月16日に
あたることにちなんで、1988年(昭和63年)に日本旅のペンクラブが制定。
ともすれば忘れがちな旅の心を、そして旅とは何かという思索を込めて問いかける日。

・・・

松尾芭蕉の「奥の細道」は、平泉から日本海へ抜け、象潟(きさかた)から西へ向かい、
敦賀を経て大垣で終了するのですが、芭蕉はその後、曽良を伴い、伊勢神宮の御遷宮を
見に行ってます、

   【 たふとさに皆押しあひぬ御遷宮 】   松尾芭蕉


松尾芭蕉は、上記を含め、生涯6度伊勢を訪れたと言います。
しかし、記録に残っているのは、貞享元年(一六八四)の『野ざらし紀行』、
同四年から翌年にかけての『笈の小文』の旅中、
および元禄二年(一六八九)の『奥の細道』の旅後の3度に過ぎません。
残りの3度は、 郷里にいた29歳までに出掛けた参宮だったと言われております。


   【 三十日月なし千年の杉を抱あらし 】  松尾芭蕉

   【 秋の風伊勢の墓原なほ凄し 】     松尾芭蕉

   【 裸にはまだ衣更着の嵐かな 】     松尾芭蕉

   【 身のあきや赤子もまいる神路山 】   松尾芭蕉

            <感謝合掌 平成25年5月16日 頓首再拝>

遷宮は、新生の象徴 (8518)
日時:2013年05月19日 (日) 04時15分
名前:伝統

      *Web:美(うま)し国(2013年4月1日)より

現代社会は、先人たちから継承した文化の上に成り立っているものであるといえます。
人間的な生活の基本要件と言われる「衣・食・住」が、国や地域によって大きく異なるのは
先人たちが気候風土に合わせて育んできた文化が根底にあるからなのです。

伝統文化と呼ばれる文化は、長い年月の中で出来るだけ原型をとどめるように
先人たちが努力を重ねてきた結果に受け継がれたものといえます。

そのため、現代の風潮にそぐわない側面も散見されますが、
「伝統を受け継ぐこと」の尊さを感じさせる文化が多いのも一つの特徴であるといえます。


往古の昔、我々の祖先は、すべてのものに魂が宿ると信じていました。
米には稲魂(いなだま)、木には木霊(木魂・こだま)、言葉には言霊。
国にも国魂があるとされました。

皇祖、天照大神は光の魂であり、日霊である。
その神や国の魂をフレッシュにすれば、わが国は若々しく、いよいよ栄える。
つまり弥栄(いやさか)になるとされた。


神宮の式年遷宮は、20年ごとに日本の国の魂を生まれ変わらせることによって、
国家が若返り、そのことにより永遠を目指そうとしたのです。
これは「常若(とこわか)」という言葉で表しました。

常若というのは、『古事記』や『万葉集』にある「常世(とこよ)」と同じように
めでたいことである。室町時代の古文書にはしばしば出てきて、いつも若々しいこと、
永遠に若いことを意味する。それはまさしく神宮の式年遷宮の目指す理念なのです。

すべてのものは古くなり、汚れ、やがて廃墟となるのは世の定めです。
だから新しく隣に造り替えるしかありません。

遷宮は、単なる神様の引越しではなく、生まれ変わりではあるのだが、
死んでよみがえるのではない。いったん死んで復活するという、西洋の“神の死”とは
根本から異なるのです。

太陽を神とあがめるのは世界に共通した古代信仰ですが、
わが国では太陽を、絶対になくてはならない、立派で明るく、優しい祖先の女神として
イメージしてきたのです。

そしてその象徴である太陽は、宇宙を照らす一個の存在ですが、
毎日新しい朝日が東の空に生まれてくると信じて我々日本人の祖先は崇め、拝んできたのです。

皇室は皆さんご存知のように、天照大神を祖とします。
宇宙を照らす一個の存在である太陽のように、我々日本人にとって皇室は、
唯一無二の存在であり、失ってはならない伝統、日本国そのものなのです。

日本人である以上は、日本の伝統を大事にしたい。
皇室のこと、日本の歴史のよい面、自己を犠牲にしながら社会に尽くした偉人、
そういうものを子どもに伝えていきましょう。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/archive/2013/4/1

            <感謝合掌 平成25年5月19日 頓首再拝>

常若に弥栄目指す (8851)
日時:2013年05月31日 (金) 06時03分
名前:伝統

     *『知られざる杜のうち伊勢神宮』(矢野憲一著)<P207〜208>より

ずいぶん前に骨董屋で亀と蟹を描く掛け軸を見たことがある。
紐で縛られた五匹の亀を、蟹が鋏(はさみ)で結び目を解こうとしている変わった図柄だった。

そのときは何のことかわからなかったが、刀の鍔(つば)や蒔絵の重箱の図柄にも
そのようなものがあり、解説書を見てこれはこれはと驚いた。

これは三河万歳の「神力」の最初の文句「徳若に御万歳」の祝い詞(ことば)に見たたてあるのだ
という。つまり徳若にを「解くわ蟹」として、亀は万年だから一匹で万歳、五匹で五万歳とする
洒落である。昔の人の頓智には脱帽だ。

(「徳若に御万歳」:いつも若々しく、長寿を保つようにという意の祝いの 言葉。)

徳若とは、常若(とこわか)の変化した語で、常若とはいつも若々しいこと、永遠に若いこと。
これまさに神宮の式年遷宮の目指す理念である。

常若という言葉は、室町末の「天正本狂言」や「名語記」(1275)に出てくるが、
『古事記』や『万葉集』にある常世(とこよ)・常葉(とこは)・常恒(とことわ)と同じように
めでたいことで、神宮の古文書にも古くからみえる神道での理想の一つである。

常に若いとはすばらしいことだ。
不老長寿もいいが二十(はたち)の若さをいつも保てたらこんな結構なことはない。

式年遷宮は、20年ごとに社殿や神宝・装束などを新しくすることで、常に光り輝く神殿や
信仰、技術や文化をフレッシュに保ってきた。

遷宮は単なる神様の引越しではない。
深い深い意義があるのだ。

これは簡単には表現しにくいが、太陽が夜になれば沈み、また毎朝新しく甦って昇り、
正月には初日になって迎えられるように、20年ごとに日本の国の魂が生まれ変わるとして、
民族あげての祭典をするのである。

国魂(くにたま)といってもわかりにくいが、『万葉集』の時代はすべてのものに魂が宿るとされた。
米には稲魂(いなだま)、木には木霊(こだま)、言葉には言霊(ことだま)、土地にはその土地の霊、
国には国魂があり、それらをフレッシュにすることで、わが国はいつも若々しくいよいよ栄える。

つまり弥栄(いやさか)になると信じてきた。そして永遠を目指すために再生するのである。
生まれ変わらなければ永久には生きられない。これは稲作からの思想であろう。

式年遷宮とは、20年ごとの大神の新しいお力、それは光に譬えるしかないが、
新しい御光を迎えることである。

そのためには神殿から調度品まで新しくして、
われわれが祖神(おやがみ)様に20年に1度の親孝行をするのだと思う。

この繰り返しにより永遠の常若を目指すのである。

            <感謝合掌 平成25年5月31日 頓首再拝>

理想を守る定め  式年遷宮 (9357)
日時:2013年06月20日 (木) 04時57分
名前:伝統


      *『伊勢神宮の智慧』(P132〜133)

神宮がいつの時代にあっても瑞々しいのは、
二十年に一度という式年制度を守り、宮を遷し替えてきたからです。
 
どんなすばらしいことでも、理想だけでは意味をもちません。
行わなければ、伝えることもできません。

とても大切なことを、つい忘れてしまった経験は、誰にでもあるはずです。
それ以上に、棚上げしていることも多いのではないでしょうか。

イギリスの詩人、アレキサンダー・ポープの一文に、「誤るのは人、ゆるすのは神」とあります。
宗教というよりは律法と思われる唯一絶対の神と契約した民族でさえ、
神には甘えてしまうようです。

まして日本の神は寛大です。
教義や戒律を強要することなく、空気のように人をつつみこんでくれます。
祭事の定めであり式を守ることで人は、神との絆を深めてきたのです。

式年遷宮が制度として確立したのは、持統天皇の御代(688)です。
その発案は、天武天皇と推測されます。

天武天皇の時代は、中国大陸から様々な文物が導入されました。
明治時代の文明開化による欧米文化の氾濫に近いものを感じます。

瓦葺(かわらぶき)の大寺の造営が進むなかで天皇が、古来の精神文化を守り伝えるために、
式年制度を考えられたとしても不思議ではありません。

式年が二十年とされたことについては諸説があります。
有名なのは宮大工が二十代で入門、四十代で一人前、六十代で指導者になれるという、
世代技術伝承説です。

これは現代の平均寿命との対比のなかで説得力をもちますが、
千三百年前に当てはめることはできません。

学説として紹介できるのは、神宮の小堀邦夫禰宜の稲の貯蔵年限説(倉庫令説)です。

古代、神社の遷宮は税(稲穀類)によって行われていました。
その税の一つである糒(ほしい<乾飯>)の倉庫貯蔵年限が二十年であり、
その期間中に遷宮を行なうことは、科学と経済に裏付けされた道理であったということです。

            <感謝合掌 平成25年6月20日 頓首再拝>

「米の座」(東)から「金の座」(西)へ (9593)
日時:2013年07月01日 (月) 04時17分
名前:伝統


      *『知られざる杜のうち伊勢神宮』矢野憲一著からの紹介ですが、若干の編集あり

昔から「伊勢の遷宮は時代を変える」とか、「御遷宮は世直し」といわれてきた。
世直しといっても革命ということではなく、新しいよい時代の到来を期待する意味である。

そして伊勢地方の人々は長い経験から、
内宮の御本殿が東にある時代は平和で心が豊かになれる時代だと言い伝えてきた。

それは神宮の内部の人が言ったのではない。
神宮にはこんな予言や伝説は存在しないのだが、
伊勢の人たちは、東の御敷地を米座(こめざ・こめくら)、西の御敷地を金座(かねざ・かねくら)と
俗にいい、西に神様がおられるときは戦乱がある時代だといってきた。

これはそんなに昔からいわれたことではないだろう。おそらく明治以後だと思う。

近世の「歴史年表」を当てはめてみれば、
黒船来航や戌辰戦争があった嘉永二年から明治2年までは西。

それから東に遷り、文明開化の発展期となる。

明治22年から明治42年までが西、この間は日清・日露の大戦の時代。

次いで大正ロマンの東の時代を経て、昭和4年に激動の世界大戦の時代に突入。
4年の延期をみて昭和28年に東へ、そこで目覚ましい経済高度発展期を迎える。

そして、昭和48年に西へ遷った途端にオイルショック。
湾岸戦争やソ連崩壊と、まかり間違えば世界大戦争の危機もあった。

前回のご遷宮から現在までは東の御敷地。

そして、今年のご遷宮では、西の御敷地へ。
今年のご遷宮で、時代はどのように移っていくのであろうか。

            <感謝合掌 平成25年7月1日 頓首再拝>

お白石持行事 (10164)
日時:2013年07月27日 (土) 04時52分
名前:伝統

お白石持行事始まる=式年遷宮で新正殿敷地に奉献−伊勢神宮

        *時事ドットコム(2013/07/26)より

20年に1度、社殿を建て替える「式年遷宮」を進めている三重県伊勢市の伊勢神宮で、
新しい正殿の敷地に一般市民が白い石を敷き詰めてゆく「お白石持行事」が26日、始まった。

およそ550年前から続き、遷宮の中で市民が中心となる数少ない民俗行事。
国の選択無形民俗文化財に指定されている。約1カ月の間、23万人が内宮と外宮合わせて
約30万個を奉献する。

白石(直径約5〜9センチ)は、宮川流域で約3年前から地元住民が集めた。
午前7時45分ごろ、五十鈴川で石を積んだそりを引っ張る「川曳」で内宮まで運搬。

そろいの法被をまとった第1陣の奉献団約4500人が、一人ひとり白い布で石を包み、
遷宮後は立ち入りが厳禁される正殿敷地内に敷いていった。(2013/07/26-11:10)

     (http://www.jiji.com/jc/zc?k=201307/2013072600059&g=soc

今回の行事では伊勢市内の全域で77奉献団が組織され、延べ約15万7000人が参加する予定。
全国の崇敬者ら約7万3000人も「特別神領民」として加わる。

奉献は内宮(26日〜8月12日)と外宮(8月17日〜9月1日)に分かれる。

      (この部分読売新聞より、
       http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/mie/news/20130725-OYT8T01502.htm )


Web:伊勢神宮 第62回神宮式年遷宮 お白石持行事
    実施期間 平成25年7月26日〜9月1日
    → http://isesengu.jp/siraisi/
    → http://isesengu.jp/index.html

            <感謝合掌 平成25年7月27日 頓首再拝>

式年遷宮のキーワード「常若」 (10361)
日時:2013年08月04日 (日) 04時26分
名前:伝統


       *「あなたの感じる伊勢神宮」浅見帆帆子・著(P115〜117)より

式年遷宮のキーワード「常若」です。常に若い、ということです。

社殿が生まれ変わるということは、そこに宿っている神様、つまり日本そのものも生まれ変わる
ように感じます・・・いえ、神様のエネルギーはいつの時代も同じなのですが、外側が新しく
なれば、人間の私たちにも目に見えて変化がわかります。

「式年遷宮」という形をとることで、「常に新しくみずみずしい」という気持ちを感じさせて
くれているのかもしれません。

式年遷宮で建て替えられる社殿は、以前とまったく同じ形です。

もし、神宮に於ける歴代の有力者が富や権力を誇示しようとすれば、
神宮の外観は変えられていたことでしょう。

「自分が建てているものではなく、神様のお住まい(エネルギー)を継承させていただいている」
という、ありがたい気持ちが根底にあるからこそ、できることだと思います。

形とともに、実は「本来の意味と精神」を受け継いでいる・・・だからこそ、
神宮では2000年以上建った現在でも、以前と同じ神様の「雰囲気を感じる」ことが
できるのだと思います。

何気なく受け継いでいるひとつひとつに、とても深い意味があることを実感します。

            <感謝合掌 平成25年8月4日 頓首再拝>

2013年に式年遷宮がある偶然(=必然) (10456)
日時:2013年08月09日 (金) 03時10分
名前:伝統

       *「あなたの感じる伊勢神宮」浅見帆帆子・著(P124〜127)より

この数年、目に見えないものへの捉え方が柔軟になり、それを現実の生活で取り入れる
(特別なものとは思わなくなる)人が増えたことにより、意識の力が強まりました。

「意識の力が強まる」とは、あなたが心で意識したこと、イメージしたことが現実になる
スピードが早まったということです。

3.11の地震以降、その力は加速しました。
その結果、ひとつの物事が起きたとき(同じような状況のとき)に、
恐れや怒りや不安を基準に動く人と、愛や喜びや癒やしや平和を基準に動く人とでは、
生活に大きな違いができるようになったのです。

なにかが起きたときに、それを国やまわりの環境のせいにし続け、
未来に不安と文句を抱きながら暮らす人と、
その物事のプラスの面を見つけて幸せに暮らす人とに二極化しています。

(中略)

「私たちは今、変化した、変化の途中にある」ということです。

数秘術の世界では、2012年を表す数字は「変化」を意味する「5」、
そして2013年は「激動」を示す「33」だとされています。

昨年までに変化のペースができている私たちが、2013年、さらに激しく変化するでしょう。
自分の生活を見ても、日本という国を見ても、今変化のときにあることがわかります。
そして「33」は、3+3=6の「愛情」という意味も併せ持っていると言います。

つまり、あらゆる場面で、「それは恐れから来る選択か、愛から来る選択か」が問われ、
それによって、物事の展開がまったく違うようになっていくのです。

トラブルや災難が起こって心が揺れたり、それを続けて別の出来事が引き起こされたり・・・
全体がバタバタして落ち着かなくなるときは、これを機会に変化しよう、というときです。
変化したほうがいいから、それが起きている・・・

これを恐れの視点から見れば、「変化の渦に巻き込まれて、自分のなにかが変わってしまう」
と感じますが、愛の視点からすれば、「大きく飛躍できるまたとないチャンス! 」になる
のです。


図らずも、この2013年に、生まれ変わりの式年遷宮があたっています。

物事に偶然はないことを思うと、国レベルでも個人レベルでも変化が起こり、
そろそろ生まれ変わる時期に来ている、ということなのでしょう。
過去の20年間を併せもって、次の時代(世界)へ進化するときなのです。

この数年に見られる「神社ブーム」と言われる現象も、
その変化と生まれ変わりの流れを、私たちが自然に察知している結果だと思います。

・・・・・

日本の危機!? 神社ブームの理由

       *「あなたの感じる伊勢神宮」浅見帆帆子・著(P42〜43)より

こうして、日本のはじまりから伊勢神宮ができるまでの流れを見ると、
その根底に、いかに神様を尊ぶ気持ちがあって動いてきたかがわかります。

神様の意思を尊重し、神様に失礼にあたらないかを優先し、
それを基準におまつりの仕方と場所が選ばれてきた・・・
神様あっての日本誕生、だったのです。

そして、政治の「政」の字を「まつりごと」と読むように、
日本の「政治」の根底は「まつりごと(祭り事)」だということを思い出します。

「神様をおまつりする」というのは、風習や信仰心というようなものの前に、
日本の繁栄を祈る気持ちそのもの、つまり、誰の心にもあることなのでしょう。

それは、なにかひとつの宗教に属してそれを信じるという感覚ではなく、
「はじめからあるもの」という自然なものなのです。

太古の昔の人たちから現代の私たちまで、目には見えないけれど、知らないあいだに
この「神様のエネルギー」の恩恵を受けて生きている・・・
これはたとえば、すべての人が知らない間に「空気」の恩恵を受けて生きているようなものです。

目には見えないけれど、それがなくては生きることができないのです。

そしてその「神様」と言っているものは、天照大神の時代に「土の神様」「木の神様」
「水の神様」など、それぞれの担当の神様が生まれたように、
私たちのまわりのものすべてに宿っています。

ですから、「自然」を尊ぶ気持ちがなくなれば、そこに宿っている神様たちから
知らぬまに受けている恩恵もなくなってしまう・・・ということは、
日本は滅びてしまうのではないでしょうか?

エネルギーが失われれば(バランスが悪くなれば)、当然私たちの体も弱まり・・・だ
と思うのです。

今全国で、神社への気持ちが高まっている人が自然と増えているのは、
この危機感を本能で感じている人が増えているからかもしれません。

「これはまずい」などとは思わなくても、「なぜか神社に興味がわく、行ってみたくなった」
という「ふとした感覚」を通して、それを教えてくれているのだと思うのです。

この数年、目には見えないことへの捉え方が柔軟になり、
「直感」にも素直になる人が増えました。

その結果、「よくわからないけれど、神社に行ってみたくなった」という感覚に従った結果、
神社への参拝者が増えているように感じるのです。
多くの日本人にとって、今神社に行くことが必要だからでしょう。

私は「すべての人が絶対に神社に行くべき」と勧めているわけではありません。
ただ、それをきっかけにして、自然への畏敬の念を思い出したり、
目には見えない世界の仕組みを知っていくことが、これからの時代は必要だと思うのです。

いよいよ多くの人がそれらを知るべきときが来た。
思い出すときが来た。進化するときが来た、と感じています。

           <感謝合掌 平成25年8月9日 頓首再拝>

皇室と遷宮(戦後) (10500)
日時:2013年08月11日 (日) 05時05分
名前:伝統


        *別冊太陽『伊勢神宮』監修・清水潔 (P106〜107)

先の大戦後、全国の神社は国家の管理を離れることとなり、制度上さまざまな変化があった。
伊勢の神宮もその例外ではなかったが、歴史上不可分の関係にある皇室との繋がりは、
いささかも揺るがなかった。

昭和天皇は、昭和20年8月の終戦後、翌9月6日に勅使三条公輝を遣わして、
米英両国との戦争終息のことを奉告された。

次いで同年11月13日、天皇は神宮へ御参拝、自ら大戦の終結を奉告するとともに、
国家の速やかな復興を祈念されたのであった。

また、戦禍に疲弊した国情を配慮された昭和天皇は、同12月14日、昭和24年に
予定されていた第59回神宮式年遷宮の延期を決定され、
同24年9月28日、勅使をもってその旨を神宮にお詫びされた。

昭和27年、サンフランシスコ平和条約が発効、
5月1日、天皇は神宮に御参拝、独立回復のことを奉告されている。

そして、翌年10月、4年遅れでの神宮式年遷宮が行われ、
2日に内宮、5日に外宮の遷御があった。

天皇はそれぞれに勅使を御差遣になるとともに、
午後8時の遷御の時刻に合わせ、皇居にて遥拝された。

翌年4月8日、遷宮後初めて神宮を参拝された昭和天皇は、


   伊勢の宮に詣づる人の日にまして
   あとをたたぬがうれしかりけり


との御製を詠まれている。

戦後激減していた伊勢神宮参拝者数が再び増加に転じ、敗戦から見事に立ち直った国民の
奉賛によって、遷宮が無事に遂行されたことへの深いお悦びがうかがえる。

昭和48年には、昭和天皇御在位中3回目となる第60回の遷宮が執り行われた。


   秋さりてそのふの夜のしづけきに
   伊勢の大神をはるかをろがむ


この御製は、その遷御の夜、御遥拝の様子を描写されたものである。
また、同年11月7日、遷宮後の御遥拝の折には、


   みどりこき杉並木みちすすみきて
   外宮をろがむ雨はれし夕
   冬ながら朝暖かししづかなる
   五十鈴の宮にまうできつれば


と、新造成った両宮の状景を詠まれている。

(中略)

今上陛下も、昭和天皇の御態度を継がれ、神宮への厚い崇敬の念を示されている。

(中略)

第61回の式年遷宮は平成5年秋であったが、陛下は先例の通り、両宮遷御の夜、
遥かに神宮を拝された。皇后陛下はその折のことを。


    秋草の園生(そのふ)に虫満ちて
   み遷りの刻(とき)次第に近し


と詠じられている。
翌6年、神宮を参拝された今上陛下は、豊受大神宮参拝と題されて、


   白石(しろいし)を踏み進み行く我が前に
   光に映えて新宮(にいみや)は立つ


の御製を詠まれている。

           <感謝合掌 平成25年8月11日 頓首再拝>

遷宮とドナルド・キーンさん (10595)
日時:2013年08月15日 (木) 04時14分
名前:伝統


日本人であることを守る…キーンさん、式年遷宮で

         *「読売新聞(2013年8月11日)」より

米国出身の日本文学研究者、ドナルド・キーンさん(91)が10日、
伊勢神宮(三重県伊勢市)の第62回式年遷宮で、新正殿の敷地内に白石を置く
「お白石持(しらいしもち)行事」に参加した。

20年に1度、社殿を一新してご神体を遷(うつ)す式年遷宮で、
キーンさんは1953年の第59回から毎回、伊勢神宮を訪れている。

キーンさんは、地元の奉献団の一員としてそろいの法被姿で参加。
照りつける日差しにも負けず、「エイヤー、エイヤー」との掛け声に合わせ、
白石を載せた奉曳(ほうえい)車の綱を引いた。

53年の式年遷宮は京都大への留学のため来日したばかりの頃で、
新正殿に遷されるご神体に一心にかしわ手を打つ庶民の姿に感動した。

73年にはお白石持行事に初参加し、93年の遷宮も拝観した。

キーンさんは

「伊勢には伝統が残っている。古いものを大切にしながら、新しいものを作る遷宮は、
宗教的にも文化的にも意味がある」

と遷宮の意義を語った。

そして、「伝統を守ることは、日本人であることを守ることです」と強調した。

夜になって、内宮(ないくう)の新正殿の敷地に白石を置き、
「日本人の心のふるさとの源に触れる思いがして大変うれしい。
清涼な神域を歩き切ることもでき、幸せな気持ちです」とした。

   (http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130811-OYT1T00208.htm?from=main1

・・・・・・

伊勢神宮と私  〜 ドナルド・キーン   

       *別冊太陽『伊勢神宮』監修・清水潔 (P16〜17)より抜粋

(1)第59回遷宮:昭和28年(1953年)

  @外宮の遷宮に参列した。

  A一緒に参列した人々は、朗らかに庶民で、
   女性の中には唐草模様の風呂敷でできたスカートをはいている人もいた。

   そして皆、非常に信仰深い人々という印象を受けた。

  B私が日本で見た数多くのすばらしい祭りの中で、このときが一番感激した体験であった。

(2)第60回遷宮:昭和48年(1973年)

  @「お白石持(しらいしもち)行事」にも参加した。 

  A遷宮に参列した一般の人々にも変化があり、皆きれいに着飾っていて、
   女性は着物姿、男性も立派な身なりだった。

(3)第61回遷宮:平成5年(1993年)

  @司馬遼太郎さんと一緒に参列した。
   司馬さんは、ひどい寒がりで、「寒い寒い」と言い続け、とうとう我慢が出来なくなり、
   私たちは別の建物に移って、そこのテレビで遷宮の様子を眺めた。

  B(参列している人々は)待っている間に私語が聞こえたり、
   さらには飲酒をしている人が神社の人に咎められていた。
   最初のときと比べると随分雰囲気が変わってきたのがわかった。

(4)第62回遷宮:平成25年(2013年)

   昨年日本国籍を取得し、今年で91歳になるが、
   私としてはあらゆる意味で今が最良の時だと思っている。

   今年も美しい姿に生まれ変わる神宮を見ることを楽しみにしている。

           <感謝合掌 平成25年8月15日 頓首再拝>

明治〜昭和初期の遷宮 (10697)
日時:2013年08月19日 (月) 04時48分
名前:伝統


       *別冊太陽『伊勢神宮』監修・清水潔 (P98〜104)

明治2年9月、明治維新後はじめての第55回式年遷宮が行なわれた。
幕末以来の爆発的なおかげまいりの盛行と相俟って、このときの遷宮は、あたかも
維新による「世直し」到来に響きあうかのような巡り会わせとなったのである。

しかし、このときは、幕府下で準備が進められ、明治政府が引き継ぐ形で行なわれ、
近世の「幕府遷宮」の枠内に留まるものであった。

遷御に際して、(明治)天皇は、東京宮城の庭上で遥拝を行なった。


明治政府がその威信を賭けて取り組んだ最初の遷宮は、
明治22(1889)年に行なわれた第56回式年遷宮であった。

「造神宮使庁(遷宮事業のすべてを掌る国家機関)」では、
王朝時代の「造神宮使」の伝承を受け、寛文・元禄期にはじまる神宮考証学の成果をも
継承しながら、古儀調査が推進されていったのである。

こうして明治22年10月、内宮・外宮の遷御が行なわれるに至った。

明治天皇は、遷御の時刻、赤坂御所正殿南庭で遥拝を行なった。


続く明示42(1909)年の第57回式年遷宮は、明治の御代における最後の遷宮となった。
この遷宮を前にして、政府は、深刻な用材不足に直面していた。
神宮の造替には、樹齢300年以上の巨樹1万本余を要する。

ところが維新以来、森林資源は枯渇の一途を辿り、用材確保は困難を極めていた。
明治37年7月、内務大臣芳川顕正・宮内大臣田中光顕は、明治天皇に、神宮正殿の造営方法
変更にかかわる上奏を行なった。

両大臣は、次期遷宮から、従来の掘立柱様式を廃し、土台をコンクリートで固め、その上に
礎石を置き柱を建てる「半永久的工法」に改めるべきことを上奏したのであった。

ところが明治天皇はこの上奏をはっきりと退けた。
8月、神宮の正殿は、旧来どおり掘立柱式に従うべきことを指示したのである。

ついで天皇は、帝室林野局・造神宮使庁に対して、
用材欠乏に対する抜本的対策を構ずべきことを伝達した。

侍従長徳大寺実則は、天皇の思召を次のように伝えたのである。

「陛下は、神宮の正殿を、掘立柱・高床式による日本古来の建築様式を持って建てるべきこと
を念願されている。その用材を確保するためには、まずは、山づくり・森づくりから始めなけ
ればならない。ついては、木曽の山づくり、森づくりの長期計画を建てよ」

この思召を承け、翌明治43年、帝室林野局は、木曽御料林に八千町歩の区域を精選し、
式年遷宮の用材を永久に供給すべき「神宮備林」として定めたのである。

明治天皇は、その治世における最後の遷宮に際して、

神宮正殿の古制を守るべきこと、
そのためにわが国の「宝」たる森林資源を大切に育成すべきこと、
そのことによって山紫水明のわが領土をしっかり保全すべきこと

等の訓えを、身をもって示したと言えよう。

明治42年10月の遷御に際して、天皇は神嘉殿南庭で遥拝を行なった。

このとき竣工した神宮正殿が、明治天皇の思召のまま
「下(した)つ磐根(いわね)に宮柱(みやはしら)太敷(ふとし)き立」つ、
古代以来の掘立柱様式で建てられたことは言うまでもない。


昭和4年、第58回式年遷宮が行なわれた。

昭和4(1929)年の遷宮は、造神宮使庁による徹底した古儀調査を承け、
中古以来途絶えていた装束・神宝類が全面的に復元されるに至った。
この遷宮が、管制時代空前の盛儀と語り継がれる所以である。

遷御の時刻、天皇は神宮を遥拝し、全国の神社においても神宮遥拝式が行なわれた。

           <感謝合掌 平成25年8月19日 頓首再拝>



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