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雅宣総裁観世音菩薩論・和解論・擁護論についての私の考え (3590)
日時:2015年03月21日 (土) 09時45分
名前:光明遍照(亀の子)


合掌


さて、過日、私が愛国本流掲示板に投稿した、「原宿本部会館解体について (7184)」の子スレッド「雅宣総裁ご夫妻の引っ越しについて (7204)」の中で総裁を「観世音菩薩さま」と言ったことに他の掲示板で批評をいただいた(批判ではない)。


その批評は真っ当なものであり、感謝しており反論するつもりはない。今回は、「雅宣総裁観世音菩薩論」ひいては「総裁擁護論」「和解論」なるものを少し考えてみたい。


さて、批評をいただいたその箇所は、

>私が「総裁のいいところ」を挙げるとしたら、谷口雅春先生の偉大さ、本当の「生長の家」の教えを深く学ばせていただく機会を与えてくださったということでしょうか。

>ふと、よく練成会で、「観世音菩薩」の話を聴きましたが、時々、ある意味、観世音菩薩さまかな、と思う時があります。


という部分であるが、これは私個人の思いであり他の方に押し付ける意図は毛頭無いし、拡大解釈されて総裁擁護論になることには、危惧する者である。


雅宣総裁を擁護するつもりも毛頭無いし、また、和解論者に組するつもりも毛頭無い。あるいは、実相を拝んでいればいつかは、実相が顕れるという夢物語にも組みしない(この場合、現象を見ながら、実相を拝むという現象観に堕しまうことは目に見えているからである)。


もし、この文章が総裁擁護論に繋がる恐れがあるとしたら、私の文章力不足、言葉足らずの部分があると思う。


私は、多分に皮肉を込めて上述の言葉を書いた。(それは、「観世音菩薩さま」と、通常、「様」とする部分をひらがなを用いたことでも明らかである。)


さて、生長の家の御教えの根本の一つは、「感謝」であることは、言を俟たないであろう。


「生長の家信徒行持要目」の最初にも、「天地一切のものに感謝すべし。」との聖句がある。


その意味においては、雅宣総裁にも感謝しなければならないことは、言うまでもないことだと思う。


しかし、「感謝」することと、「何でもハイ」のイエスマンになることは、同じであろうか。また、その感謝する対象となる人に中心帰一することと同じであろうか。断然、「否」である。


私が「ある意味」と書いたのは、「反面教師」としての総裁であり、「悪い見本」という意味である。
その意味では、「感謝」はしているが、大嫌いである。「感謝」=「好きにならねばならない」ではない。


本当に正しい御教え、本当によいことを知るためには、悪いもの(こと)をみた方が理解がよくできる。


そういう意味において「観世音菩薩さま」という言葉を使ったが、ただ拝んでいればよいということではない。


ある人が間違ったことをしていれば、それを正すことが、神の子、仏としての一つの働きであろう。時には、力を用いて、正しきに導くことも必要な時もあると思う。そういう力を出すべく鍛えて下さることも観世音菩薩の働きの一つだということである。


その人の実相を観ることと現象に対する処理は、別けて考えるべきで、その現象処理の方法も色々あり、千差万別となる。


「愛する」ということにも、色々な段階があることは、谷口雅春先生は説かれたことは、皆さんご存知の通りである。時には、優しく、又時には、厳しく打(批)つ必要がある。


しかし、根底には「本当の愛」あるいは「神意」なるべきものをしっかり把握しておく必要があることは、いうまでもない。


さて、話しは和解論に変わるが、今年(2015)2月16日、トキ様が

>「和解念仏教」の教祖様は、谷口雅春先生ですから、<

ということを書かれているが、残念ながら谷口雅春先生の理解が浅いと思わざるをえない。


今更だが、『生命の實相』倫理篇の「虚説に和解してはならない」の章を取り上げるまでもない。


谷口雅春先生は、断じて「和解念仏教」の教祖様などではない。


雅宣総裁の説く「今の教え」(今は、ブラジルの信徒からの指摘で言わないようだが、分かり易くするため、あえて使わせてもらう)なるものは、虚説であり、断じて和解してはならない。


個人的には、トキ様には好意を持っているが、具体的な和解交渉の方法も提示出来ない和解念仏教などには、同意しかねる。


次回は、最後に残された「生長の家社会事業団」との具体的な交渉の場としての情報を提供したいと思う。



再拝


「ヌミノーゼ心理」ということを考える (3610)
日時:2015年03月22日 (日) 22時56分
名前:光明遍照(亀の子)

前回、

>次回は、最後に残された「生長の家社会事業団」との具体的な交渉の場としての情報を提供したいと思う。

と書いたが、それを今、発表することは、諸刃の剣となってしまう可能性が高いということで、思い悩んでしまった。

即ち、それを発表することにより、総裁派によって、「生長の家社会事業団」が不利益を被ることになりかねないと判断したことによる。

今は、教団の公式HPの関係団体からも名前が消されてしまった「公益財団法人生長の家社会事業団」と教団の残された唯一パイプがあるとだけ言っておこう。

ここ まで書くと分かる人には、分かると思う。皆さんには、申しないがお許しいただきたい。

しかし、その場で仮に「生長の家社会事業団」側が和解の呼びかけをしても、上手く行くとは思えない。また、教団側が和解など申し込むはずもない。雅宣総裁の辞書には、「和解」という言葉は載っていない。


総裁にとって「和解」とは、即ち「負け」を意味するからだ。自分が一番でないと気が収まらない方なのだ。(『美しい人生のために』谷口清超新書文集7の「3 端午の節句に想う」を読んでみられると雅宣氏の性格が判然とするだろう)


他の投稿者の多くが、単に「社会事業団」と書いているところを何故、自分は「生長の家社会事業団」と書いているかというと、本当に単なる「社会事業団」 になることを危惧するからである。「生長の家」の名前が冠されている意義は、とても深いのである。


教団のHPのニュースリリースで、「生長の家社会事業団」との裁判の記事は、最初だけ「生長の家」の名称を冠しているが、後は「社会事業団」と略している。その意味を理解している人は、少ないのではなかろうか。


言葉の力は、時に、とても強いものがある。間違った情報(これも言葉である)で多くの人達が迷う。それも「善意の過ち」による間違った情報が一番怖い。


今、教団に残っている信徒さんの中にもこの善意の過ちを犯す人は多い。雅宣総裁に対する「ヌミノーゼ心理」に陥っている人も、この「善意の過ち」を犯している。また、総裁自身も「ヌミノーゼ心理」に陥っている。


「ヌミノーゼ心理」とは、

「人間は理解できないものに出会うと それを神格化(畏怖)してしまうか、恐怖してしまう」心理のことである。


信徒にとって自分たちの知らない横文字を多用し、訳のわからないことを理屈っぽく、まわりくどくいう人は、ある種「理解できない」人である。


また。お孫さん信仰も手伝って自分たち信徒には理解不能だが、総裁は、生長の家大神様から啓示をうけておられ、先見の明があるから宗教界で一番にECO認証も受け、また宗教界で一番先にメガソーラーを作られたのであると・・・。


雅宣総裁にしてみれば、谷口雅春先生の説かれた「實相」なるもの、「霊界」なるものは理解不能である。だから、畏れ、恐怖の対象でしかない。その恐怖の対象をとことん悪く言う事によって自分は偉い者だと思いたい心理が働く。


ヌミノーゼ心理に陥った人の特徴としては、利己主義者で罪悪感・劣等感が強く、自分に自信が持てない。しかし、その反面「うぬぼれ」が強く自分の欠点や弱点を冷静にみようとしないため、他の人を悪く言う事によって相対的に自分を立派だと思い込もうとする倒錯心理状態にある。


それを正しい信仰に戻すには、正しい事実を知らせるとともに、是は是、非は非とし、客観的に観る目を養い、智性と理性による批判力、判断力、すなわち智慧を持たねばならない。


谷口雅春先生は、オリズン・S・マーデン氏の『良書を読む人の幸福』という抄譯の中で、「読書に強くなるために」項で次のように譯されておられる。


「読書に強くなるためには、眞理を書いた書籍を眼光紙背に 徹するほどの注意力をもって読み、その一節を終わる毎(ごと)に、その書を暫く閉じてその語句を反芻するかのように思い出し瞑想しそれについて思索し、それを心の中で繰返すような習慣をつけるのがよいのである。」と。

すべての人、物、事に対するも、やはり同じ心持ちで行うべきであろう。

その人が言っていることは、本当に正しいのかどうか、注意深く聴き、神想観し、思索してみる。そして自分の内なる声に耳を傾けてみることである。


(つづく)


トキ様について考える (3614)
日時:2015年03月23日 (月) 17時32分
名前:光明遍照(亀の子)

(承前)

さて今回、無粋だとの思いもあるが、トキ様という方を考えてみたい。これは、あくまで私個人の説なので、マトモに信じないでください。前回の谷口雅春先生の言葉を思い出してくださいね。


自分はいままでトキ様を批判したという記憶はないが、谷口雅春先生を和解念仏教の教祖様に祭り上げるトキ様の説には異を唱えた。


そこで、そもそもトキ様とは如何なる立場の人なのか。いつ迄、和解を唱え続けるのか。また、和解とは、そもそもどういうことなのか考えてみたい。


さて、トキ様=理事長という意見もあったが、自分は、その説には、否定的である。


トキ様は、いつも自分は、「一信徒」であるといわれている、その割りには、組織のことをよくご存知で、本部にもよく電話するとのこと。一信徒がそうそう本部へ連絡すれば、目を付けられてしまう。また、各地に情報網を持っておられる様子。


そこに、トキ様=理事長という構図が生ずる余地があるが、理事長職は、それ程ヒマとも思えず、地方の事情に精通していて、地方の立場から教団批判も書かれているが、教団内部情報に関しては、少し疎い部分もある。


本当に「一信徒」なのか?それとも教団の大幹部なのか。


果たして、これをどう解するか、自分は、トキ様の「一信徒」発言は、本当であると見ている。


では、何故、そんなに組織のことに精通されているのか。


上記の事から導き出されることは、現在は、一信徒にすぎないが、以前は、(本部ではなく)地方組織の大幹部で、いまだに隠然たる力を持っている方なのではなかろうか。


先日、トキ様はどこの方なのと考えながら寝た翌朝、沢田研二氏の「TOKIO」即ち、東京の方なのではなかろうかと。トキ様の掲示板で、千葉の隣という情報もあったと記憶している。


そう考えると、そういう立場の人は、限られてくるであろう。


これ以上の詮索は、辞めておこう。


次回は、再び「和解」について考えてみたい。


(つづく)





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