YURI |
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ガザで市街戦が始まってしまいました。 ガザの現実はガザ空爆と画像検索すれば知ることができます。あまりにも恐ろしいことが起こっているので覚悟が要ります。でもわたしは見てほしいと思う。何かが変わるから。そのためにこのことは起こっていると感じるから。 市民が逃げ場を失い恐ろしさの中を走り続けているというのに 今わたしの身体中のどこにも痛いところがなく 寒くもなく安全でお腹もすいていないという現実が とても奇妙な感じを生んでいます。
わたしの心の中を見つめ続けています。世界で起こっていることはわたしの責任なのだとオポノポノで習ったんだもの。例外はナシだ。
自分にとって有害、邪魔だとみなしたものを排除したいという気持ちが わたしの中にもまたある。 たとえば庭の雑草をすべて取り除こうとしたり 家の中に虫が入ると外に追い出そうとしたり 自分の足を引っ張るような感じがするものを遠ざけようとしたり。。。これはパレスチナ問題を起こしているものと同じものだ。だからイスラエルを非難する気持ちにはならないしその資格はわたしにはないと思う。そうしてわたしはその気持ちと結果を見つめている。
かつて私はとことん自己中になることを自分に許してみたりもしてみた。その体験があるから「自分がしあわせになるために誰かや何かを犠牲にしたとしたら その分だけ自分のしあわせは削減される」のだということがわかった。「べつべつにみえているけど すべてはひとつ」なんですよ、とずっと教え続けてもらっている宇宙物理学からみたらこれは当然の公式だ。そうしてあの旅の最後のハワイ島のサウスポイントでやっと本当にオ・ポノポノの意味を理解したのだった。
わたしは個人レベルでこのことを実証したけれど 今ガザで起こっていることを霊的な視点で見たならば わたしたちの心の中にある「全体よりも個を優先する」という意識が集合意識全体から消えてなくなろうとしていて その意識が生むものは何なのかという世界規模の実証ではないかとわたしは感じています。今ガザで起こっている地獄絵のような現実は地球に住むわたしたち一人一人の心の中にある意識が表現されているのだと思っています。
自分の心の中の闇(と自分で感じる部分)を見ることって 誰だって反射的に避けたくなる。反射的に避けたいという気持ちが起こる時には何かが自分の中で起こっているのです。 これが世界で今起こっている無関心の(のふりの)正体だ、とわたしは理解した。報道の問題は二次的なものかもしれません。
闇、あるいは自分で受け入れたくない意識があるとしたら それを変えるのにはまずそれがあることを自分で受け入れる(認める)こと、(ここで抵抗すると反射的に逃げたくなります)そうしたならあとはもう簡単で そうでない選択をするだけです。
血だらけの赤ちゃんや手足をもがれた子ども、死んだ母親の傍らで泣き続ける子供、そして母親や父親が嘆き悲しんでいる写真を見るのは耐えられないことです。どんなに泣いてもどうにもならないのに涙が止まりません。可哀そうなだけじゃなく どうにもできない苦しみだけじゃなく わたし自身の「自分さえよければ」という意識がこの現実を生んでいるということの苦しみ。でもこの苦しみが確実にわたしの意識の中に根強く残っている「自分さえよければ」という意識を消し去ってゆくのを強く感じます。
わたしたちと地球 手に手を取って変わってゆける。わたしたちの心と地球の平和が同時に実現する。CHANGE!
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(1962)投稿日:2009年01月16日 (金) 17時50分
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