ほうこ |
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こんにちは。 YURIさんにリーディングしてもらってから,半年たちました。 あまり状況はかわりませんが,前向きになってきました。 ところで,質問ですが,「純粋に人を愛する」とはどういうことでしょうか? あのときも今もそれなりにわかるつもりではあるのですが,わたしの解釈でしかないので,YURIさんの言葉でお聞きしたくて・・。 ぜひ教えてください。 |
(1713)投稿日:2007年01月13日 (土) 13時52分
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YURI |
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ほうこさん こんばんは。 今年もどうぞよろしくお願いします。 書き込みどうもありがとうございます。 う〜〜〜〜ん、とっても難しいご質問です。。。わたしにもわかっていないと思うから。。。純粋に人を愛するってどういうことなのかな。 ・・・しばし考え込む・・・ムズカシイ・・・。 ・・・こういうときにはガイダンスです。ガイダンスをとってみました。 (ガイダンスについて知りたい方はTOPページからぺりどっとくらぶ→ガイダンスをクリックしてみてね)
*純粋に人を愛するとはどういうことですか?
その答えは意識のレベルによって無数に存在します。それを踏まえた上でのことですが 究極の「純粋な愛」とは『ただ存在する』ということです。それは『ただ在る』ということだけであり ある意味全く受容的なものです。 これが「愛する」という能動性を持つと そこには必ず自我意識というものが加わるので ここで言うところの「純粋」という言葉は当てはまらなくなります。どんなに純粋に見えても そこには自我(エゴ)が形を変えて投影されるからです。これが悪いことであるという意味ではありません。「する」という行為はすべからくこうしたものであるからです。そこには必ず何らかの意図(目的)が存在します。 ですからご質問にお答えするとすれば「純粋に人を愛する」とは その行為の中でもできるだけ『相手のあるがまま』を受容するという状態に近くある、ということです。
・・・だそうです・・・。もっとたくさん受取っているのですが 今の段階でわたしが言語化できるのはここまでです。 これをわたし流ですが解釈すると「愛する」という行為自体 純粋なものではない、ということでしょうか。。。どんなに相手に愛を注いでいるように見えてもそれは全て自分のため、ということになります。だからこそ相手に何かを求めたり こうあってほしいと望んでしまったりするのでしょう。相手にしあわせでいてほしい、という願いさえ そうであれば自分が嬉しい、という気持ちが元になっていることを思えば 確かにそうかもしれません。 わたしは自然界に『無条件の愛』を感じることが多いのですが そこには何の条件付けもありません。わたしがしあわせでいても 不幸せでいても 自然界はわたしを同じように受け入れてくれます。相手がどんなに間違っているように自分には見えても 自分がこうあってほしいと望むとおりでなくとも そのままで何も変わる必要などなく ただそのまま見守ることができたなら それは純粋な愛に近いのかもしれません。「純粋に愛する」=「信じる」と言うことでしょうか。 今の段階でのわたしの答えは以上です。ご質問の答えになっていますか?
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(1731)投稿日 : 2007年01月21日 (日) 00時13分
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ほうこ |
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YURIさん お返事ありがとうございます。 「意識レベルで無数に答えがある」というのに納得しました。 いただいたお返事は究極の愛ですね・・。 わたし,とてもじゃないけど,極められません(汗) 「彼はひとりのひとを純粋に愛するタイプじゃない」って言われたのが気になっていたのですが,この場合ももっと俗世の意味ですよね・・(苦笑)
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(1733)投稿日 : 2007年01月22日 (月) 17時43分
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