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道の駅 毛利WEB

ここは安芸・毛利家をはじめとした、中国地方の戦国大名好きの方々のために建てられた交流の駅です。毛利家についての家頁の宣伝もOKです。アラシ行為をしなければ、どなたでもお気軽に書き込みしてください。

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No.346 檀上氏について
NAME:河村新左衛門

杉原盛重の家臣に檀上重行という勇将がいました。現在尾道あたりに多い檀上さん達とは関係があるのでしょうか?

2008年09月05日 (金) 00時15分


No.381 僕も知りたい檀上氏
NAME:高坂弾正

僕の知り合いにも檀上さんがいました。
その方が言われるにはお坊さんの名前が由来とか?
よくわかりませんが、檀上重行は初耳です。
是非ご存知の方おしえてくださーい!

2010年10月18日 (月) 01時30分


No.382
NAME:河村新左衛門

 檀上重行は通称監物、佐波村の出身です。杉原盛重の前の神辺城主である杉原(山名)理興からの家臣とのことです。杉原盛重が尾高城主のとき、同僚の高橋資高とともに、雲伯に並びなしといわれた豪勇の馬場慶篤を討ち取りました。
 また尼子勝久、山中鹿之助らを上月城に攻めた際、尼子軍によって谷底に突き落とされた大砲を杉原元盛、杉原景盛、吉田肥前守、入江大蔵正高、入江左衛門進らとともに取り戻しました。

2010年10月18日 (月) 23時32分

No.380 杉原盛重の戦歴について
NAME:ソーダー@備中守

杉原盛重の戦歴について調べております。
陰徳太平記や雲陽軍実記などは調べてはみたのですが、杉原盛重が参加した合戦や城攻めを把握されている方がいらっしゃったら、ぜひご教授いただければと思います。

2010年07月21日 (水) 02時17分

No.379 三上淡路守は二人いたのか?
NAME:毛利同好会

毛利輝元の家臣で、鞆ノ浦の代官を
務めた三上豊後守元安という人物が
いました。その弟に三上淡路守就忠が
いました。この三上淡路守は昔、備中
の松山城下で護送中の山中鹿之助を
襲撃して荒身国行の腰刀と大海の茶入れを
奪って主君の毛利輝元に献上しました。
毛利輝元は織田信長から山中鹿之助に
下された荒身国行の腰刀を所望して
自身の所有物にし、三上淡路守に
大海の茶入れを渡しました。
この三上淡路守についてですが、
広島県の『大朝町誌・上』の内容で
安土桃山時代の吉川広家のお部屋
住まいの奉公衆の中に三上淡路守が
います。また、この三上淡路守は
吉川広家の岩国入りの随従家臣の
一人です。
しかし、江戸時代は毛利輝元の
家臣としてしはしば名前がみられ
ますが、輝元の家臣の三上淡路守と
吉川広家の家臣の三上淡路守は
同一人物だったのでしょうか?
それとも別人だったのでしょうか?
ご存知の方がいれば教えてください。

2010年02月14日 (日) 18時36分

No.377 安芸国の八木城主香川光景について
NAME:杉原盛重の末裔

安芸国の八木城主香川光景はもともとは
安芸国の守護職の武田光和の家臣でした。
主家武田家が衰退するに際して、
毛利元就の被官となりました。
毛利元就の忠実な家臣として元就の
山口の大内義隆館の訪問に同行し、
特に元就の二男の吉川元春の配下として
各地を転戦しました。
長男の広景は毛利の川之内警固衆の将
として活躍し、二男の春継は吉川元春の
家老となりました。長女は小早川隆景の
筆頭家老の椋梨弘平に嫁ぎ、末娘は
吉川元春夫人の甥の熊谷直顕に嫁ぎました。
関ヶ原の戦いの後は長男の広景の萩行き
には従わず、二男の春継の岩国行きに
従いました。晩年は春継の屋敷で
趣味の囲碁を楽しみながら隠居生活を
しました。

2010年02月06日 (土) 18時26分


No.378 香川光景の子孫について
NAME:杉原盛重の末裔

香川光景は関ヶ原の戦いの後は、
岩国入りをして五年後に亡くなり
ました。
長男の広景の子孫は萩藩士になり、
二男の春継の子孫は岩国藩の家老職を
務めました。春継の孫の香川正矩は
陰徳太平記の基になる陰徳記の著者
として有名です。
椋梨弘平に嫁いだ娘の子孫は
萩藩の寄組の椋梨氏として続きました。
幕末の志士の椋梨藤太も子孫です。
また、熊谷直顕に嫁いだ娘の子孫は
岩国藩士になりました。
今津の船手組の熊谷氏や医家の熊谷氏
と続き子孫は繁栄しています。

2010年02月06日 (土) 22時56分

No.376 備後田島の兼田氏について
NAME:兼田文隆

私は、備後田島現在の福山市田島の兼田氏の末裔です。手がかりとしては、江戸時代末期の当主は、富次郎で鞆の浦の阿弥陀寺が菩提寺です。何か情報をお持ちの方は、お知らせ下さい。

2010年01月31日 (日) 18時28分

No.375 備後松永の小大名杉原氏について
NAME:兼田文隆

私の家内は、備後の大名杉原氏の末裔といわれていますが、詳細については不明です。
手がかりとしては、福山市松永に家内の三代前の当主杉原増吉の墓があり、松永藤江の在でした。
 何か情報をお持ちの方お知らせ下さい。

2010年01月31日 (日) 18時03分

No.374 広家はA級戦犯に非ずに非ず?
NAME:たっくす

 たとえ安国寺恵瓊に勧められたにしろ、主君たる輝元が決定したことならそれに従うべきだったと思います。
また家康は前田を屈服させ、宇喜多、上杉といった他の五大老の追い落としにかかっていったことは、明らかであり、毛利が都合良く所領安堵されるなどと考えるのは見通しが甘かったとしかいえないと思います。
まして、主君に無断で事を勧めるのであれば、実質的な裏切り行為だといわれるのも仕方がないきがします。
家康に踊らされた、2流の将だとしか思えません。

2010年01月22日 (金) 18時30分

No.373 毛利家のお医者様の事教えて下さい。
NAME:毛利家のお医者様

始めまして。毛利家や元就のお抱えのお医者様の事が気になります。
どなたかご存知ないですか?
ちなみに毛利家の家紋、石見銀山大好きです。

2009年12月03日 (木) 15時09分

No.372 吉川広家について
NAME:杉原盛重の末裔

吉川広家は吉川元春の三男です。
広家の母親は熊谷信直の長女で新庄局
という呼び名は有名です。
彼にとって一番近い外戚は杉原家、熊谷家
益田家です。杉原家は母親の新庄局の
従姉(白井房胤の娘)の嫁ぎ先です。
その義弟に杉原盛重がいます。
熊谷家は母親の実家ですが、外祖父の
熊谷信直や叔父の直清、就真がいます。
益田家は広家の姉の嫁ぎ先ですが、
姉婿の益田元祥は安土桃山時代後期は
吉川軍の副将格の役目を果たし、
豊臣政権の天下統一戦の一躍を担いました。
吉川広家は豊臣政権時代には子供はいなかったようですが、小早川隆景と違って豊臣家
から養子を貰わなくて済んだのは、
広家には相談出来る外戚がいた為と言われて
います。親戚の結び付きは大切な時代だった
のだと思います。




2009年10月06日 (火) 00時16分

No.339
NAME:陶 尾張守

以前に質問が出ていたなら申し訳ないです。
私の質問としては、陶軍と毛利軍が激突した、厳島の戦いの折、何故尼子家は安芸の毛利氏を叩かなかったのでしょうか?もしくは大内領へ侵攻しなかったのでしょうか?

尼子晴久は当時、毛利元就の策にはまり、一族の新宮党主、国久と誠久を抹殺し戦力を減退させたとの事ですが、どうもこれは疑わしく、本当に、この時期に晴久は国久等を討ったか疑問に思うわけです。

又、晴久程の男が、易々と元就の策にはまる訳も無く、例え事実として元就の策謀があったとしても、それを利用したとも採れます。

つまり、新宮党主の抹殺を何故この時期に行ったかが疑問なのです。どうも腑に落ちない点が多く、厳島の合戦時、もしくは毛利家の周防長門へ侵攻の折、何故動かなかったか?と解せないことが多いのです・・・

真相を知ってる方がいらっしゃっるなら是非、教えてください。
お願いいたします。

2008年07月03日 (木) 14時39分


No.340
NAME:尼子 清久

私も疑問に思っています。大河ドラマの毛利元就では、謀略で新宮党を壊滅させ、出動したくともできないようにした、と描かれていましたが、やはり無理があるように思います。新宮党壊滅からあまり時間がたたない段階で、晴久は各地に兵を動かしています。巷間伝えられるほど、影響は大きくなかったのではないでしょうか?、またドラマでは晴久は妻(国久の娘)との確執があるようになっていましたが、実際はそんな証拠はなく、新宮党壊滅以前に妻は亡くなっています。逆に晴久は妻の死を待って新宮党の討伐に乗り出したともいえるのです。経久の三男興久の反乱後、今の松江地区の領地はすべて、その兄国久の領地となり新宮党の勢力は尼子の基盤である出雲地方の主たる部分を覆うようになりました。元就が井上一族を討ったように晴久も自己の権力の拡大と家中の統制をはかる意味で新宮党を討ったのだと思います。私は、晴久は、元就というとんでもない男を相手に十分戦ったと思います。 晴久ほどの男と言われるのは、まさにその通りだと思います。 だからこそ、何故その時期に尼子軍が動かなかったのか?不思議に思います。

2008年07月07日 (月) 22時21分


No.341
NAME:岸本

私も疑問に思っておりますけどおそらく何らかの手を元就が打ってた為に動けなかったのではないかと思います。当時は出陣の準備から実際に出陣まで数日の日数が必要だと思われるのと、厳島に毛利方が動員した兵数が4千から5千前後なので国境の要の城にはそれなりの人数を残してたと思われるので恐らく動いても短期間で攻略が出来ないとの判断で尼子軍は動かなかったのではないかと思います。特に尼子軍は以前に安芸に攻め込んで失敗をしているので用心深く攻めようとしてたのではないでしょうかと思いますけど。私にも周防長門の侵攻の際に動かなかったのはなぜかやはり・・謎ですね。毛利元就は慎重に動いてるのが多いのでやはりそれ相応に兵力を残して動いてたのではないかなと思いますけど。

2008年07月14日 (月) 09時16分


No.371
NAME:通りすがり

同時期に、備前の浦上宗景への軍事対応に追われていたことが、関係あるかも知れません。

また、大内(陶)毛利の戦いから漁夫の利を得ようとして、あえて傍観していた可能性があります(確かに漁夫の利で石見銀山を奪取できた)。

さらには、晴久個人の視点に立って考えてみると、大内・毛利の対立で、西からの尼子家への軍事圧力が弱まっており、そのおかげで新宮党を速やかに粛清できた側面もあります。

2009年05月17日 (日) 03時31分

No.369 市 浜 宮
NAME:キセタカシ

失礼ですが家紋は?

2009年05月06日 (水) 21時11分


No.370 家紋について
NAME:杉原盛重の末裔

家紋は右三つ巴です。替え紋はカタバミです。

2009年05月17日 (日) 00時20分

No.368 吉川元春、広家の妻について
NAME:杉原盛重の末裔

吉川元春の妻は熊谷信直の長女です。
新庄局という呼び名は有名ですが、彼女に
は兄の高直や弟の直清がいます。
兄の高直の子孫は、萩藩寄組の熊谷家として
続いていますが、曾孫の元貞の代で血統は
絶えて、家老の宍戸広続の次男を養子に
迎えました。また、弟の直清の子孫は
岩国吉川家の家臣となりました。
1600年、新庄局は息子の吉川広家と
共に岩国入りをし、1606年に亡くなり
ました。
彼女の岩国における実家の所在地は、
弟の直清の直系筋の子孫が住した
岩国の今津です。今津の熊谷氏は船手組に
属して25石を食みました。
そして、吉川広家の正室は宇喜多秀家の
姉ですが、彼女は1591年に夫に先立ち
ました。広家の側室には長男広正を
生んだ若林藤兵衛女や次男就頼を生んだ
品川信重女がいました。
若林氏の実家の所在地は岩国の横山に
あり、品川氏の実家の所在地は岩国の
椎尾神社前にあります。
岩国には吉川元春や広家に関係する
ゆかりの場所があるので興味を持つと
面白いです。

2009年02月28日 (土) 00時10分

No.366 椙原為平の子実光を調べています
NAME:三つ丁子族

私は備後神辺城下に住する者です、初めてお伺い致しました、よろしくお願い致します。
さて実光の人物像とその後、又紋など調べていますが、ほとんど手がかりが有りません。
手がかりお持ちの方有りましたら一報頂ければ幸いです。

2009年02月24日 (火) 11時28分


No.367
NAME:檀上監物

尊卑分脈に木梨流為平の子として記載されている民部丞実光のことですね。人物像は難しいかもしれませんが、調べるがいがありそうですね。紋は同じ杉原一族の杉原盛重の軍旗と同じ三つ巴と思いますが、確かではありません。今も福山地方に多い杉原さん達の家紋もそうなんでしょうか?

2009年02月24日 (火) 16時46分

No.365 小早川秀秋の陣揃えについて
NAME:多 央甫

(初めてここで質問します。書き込みの仕方がわからないので申し訳ありません。)
小早川秀秋は、関が原であれだけ大活躍?をしながら、
間もなく狂死して除封されたとされています。
大名としての存在期間も短いわけですが、
其家臣団については、資料が残されているのでしょうか。
以前NHKの大河ドラマで家老「稲葉正成」が登場していました。
これは『陰徳太平記』にも名前が残っています。
私の手元の資料では「松尾外記」という人物の名前が残されています。
その他の組分けなど家臣たちについての記録などは残っているのでしょうか。
御存知の方、宜しくお願いします。

2009年02月22日 (日) 17時13分

No.364 質問
NAME:水無月

(過去に質問された方がいたらすいません、)
宍戸隆家の人柄とは、一体どのようなものだったのでしょうか?
功績や生涯は結構出てくるのですが、「人柄」についてはあまり出てこず・・・
知っている方がいたら、よろしくお願いします。

2009年02月15日 (日) 21時49分

No.362 杉原盛重の前歴
NAME:檀上監物

杉原盛重は元々備後神辺城主杉原(山名)理興の四番家老でした。毛利元就が吉川元春や小早川隆景と共に神辺城を攻めた際には激しい攻防戦が行われました。ちなみに一番家老は杉原興勝、二番家老は藤井皓玄、三番家老は鯰江備前守といわれています。後に杉原盛重が神辺城主となり、城主(盛重)が留守中に藤井皓玄が神辺城を一時的に乗っ取りましたが、すぐに没落しました。

2009年02月11日 (水) 01時26分


No.363 杉原盛重の甥
NAME:杉原盛重の末裔

杉原盛重の子孫は岩国藩士になったことは述べてきましたが、盛重の兄の直良の子供は、直盛と春良がいます。直盛は吉川興経の襲撃に参加し、後に福屋隆兼との戦いで戦死しました。直盛には二人の娘がいました。杉原勝右ェ門妻と粟屋市充妻です。また、春良は毛利元就や小早川隆景の命令で四国の大名河野通宣の執権役になりました。通宣の死後、養子の通直が河野家の当主になり、吉見広頼の娘(矢野局、毛利輝元の姉の娘)を正室に迎えました。河野家の滅亡後、春良は小早川隆景から毛利輝元に仕え、子孫は萩藩士として続きました。

2009年02月11日 (水) 19時05分

No.361 有難うございます
NAME:水無月

質問の返答、ありがとうございました!
どうも調べ方が悪いのか、中々見つからず・・・
しかし、毛利家は全般的に(私の調べた限りですが)あまり友人の事等に詳しく述べられていないような・・・(特に元就の息子辺りから)
兎にも角にも、これからも隆景について調べていきたいです。
ありがとうございました!

2009年02月10日 (火) 23時25分

No.352 杉原家と熊谷家
NAME:杉原盛重の末裔

毛利家にとって吉川家と小早川家は親戚であり、毛利家の発展の為に貢献した家でした。
この吉川家や小早川家のお家乗っ取りの
影の立役者が杉原盛重の妻(毛利興元の娘、元就の姪)と熊谷信直です。小早川家の
場合、盛重の妻が小早川興景の妻の時(正式は小早川興景の死後)に従兄弟の隆景を養子に迎えました。
また、吉川家の場合、熊谷信直が家臣に命じて吉川興経を殺害し、娘婿の元春を吉川家の
当主に据えることに成功しました。
吉川元春、小早川隆景の誕生です。
お家乗っ取りに一躍を担った熊谷信直は後に毛利家の一門として優遇され、毛利興元の娘の夫にあたる杉原盛重も毛利家の一門として
優遇されました。杉原盛重は毛利家の為に獅子奮迅の働きを見せて毛利家を中国地方の覇者にさせました。杉原盛重の子孫は岩国藩士
、熊谷信直の子孫も岩国藩士となり、岩国吉川家を支えることになりました。(今現在、
杉原盛重の子孫の方と熊谷信直の子孫の方が
親戚になっています。)

2009年01月27日 (火) 22時08分


No.353 熊谷信直の子孫達
NAME:杉原盛重の末裔

熊谷信直には九人の子供がいました。
長男の高直、次男の直清、吉川元春妻、
山内隆通妻など・・。
長男の高直の子孫は萩藩の寄組熊谷家に
なり、次男の直清の子孫は岩国吉川家の
家臣となり、藩医の熊谷家(熊谷玄旦など
石高40石)、船手組の熊谷家(岩国の今津に住居で石高25石)などいます。
吉川元春妻は吉川元長や広家の母親であるのは有名です。
山内隆通妻は広通を産み、その子孫は萩藩の
寄組山内家や大野毛利氏(山口県の平生の領主)として続いています。
熊谷信直の子孫は毛利家の重役として
明治維新まで続き栄えています。

2009年01月29日 (木) 22時41分


No.355 山内隆通妻について
NAME:杉原盛重の末裔

山内隆通は備北の有力な豪族である
ことは知られています。
山内隆通の最初の妻は母方の伯父山内豊通
と毛利興元の娘(後に杉原盛重妻)との間
に出来た娘です。
この娘との間に出来た子供は元通と
いいます。元通は早世しました。
後妻は熊谷信直の次女です。
この後妻は昔、矢野の野間隆実に嫁いで
いましたが、夫が毛利元就に攻められて
自刃した後、山内隆通に再嫁し広通を
産みました。広通は毛利家の為に働き
手柄を立てました。子孫は萩藩の
寄組山内家と大野毛利家へとつながり
ました。

2009年01月30日 (金) 23時34分


No.360 熊谷信直と杉原盛重の甥との関係
NAME:毛利同好会

熊谷信直は吉川元春の舅です。熊谷信直には白井房胤に嫁いだ姉がいました。その娘が杉原盛重の兄の直良に嫁ぎ、直盛と春良を産みました。この二人の子供の後見役が熊谷信直でした。1550年、熊谷信直は杉原直盛と天野隆重を連れて、安芸国の布川に隠居している吉川興経を襲撃しました。この時に直盛は吉川興経に斬りかかっています。しかし、興経は激しく抵抗したので仕止めることができませんでした。最後に熊谷信直の家臣が興経を殺害して布川の襲撃事件は終焉を迎えました。後に、直盛は福屋隆兼との合戦で戦死しましたが、叔父の杉原盛重は毛利元就職の姪を妻に迎え、毛利家の中心的武将となりました。

2009年02月07日 (土) 22時41分

No.359 毛利家の姫君たち
NAME:毛利同好会

毛利家は1576年ぐらいから直接織田信長軍との対決を余儀なくされ、1578年には播磨国の上月城下で織田軍と戦争をしました。この頃の毛利家で生存が確認されている男系の正室所生の姫君は、杉原盛重夫人(毛利興元長女,毛利元就の姪)、益田元祥夫人(吉川元春長女)、毛利元清長女(後に熊谷直貞妻)です。この姫君たちは毛利家の大名クラスの上級家臣に嫁いでいます。また、女系の正室所生の姫君では吉見広頼長女(毛利輝元の姉の娘)みたいに四国の戦国大名、河野通直に嫁いでいる例があります。織田家でも毛利家と同様な政略結婚がなされてるみたいで詳しく調べみると面白いです。

2009年02月06日 (金) 16時47分

No.357 お初にお目にかかります&質問
NAME:水無月

始めまして。私水無月と申す者でございます。
未熟者ですが、何卒よろしくお願いします。
ところでひとつ質問なのですが、元就の三男、小早川隆景に腹を割って話せる、<親友>という人は居たのでしょうか?
自分でも調べてみたのですが、どうにも見つからず・・・
どうかよろしくお願いします。

2009年02月03日 (火) 21時00分


No.358 小早川隆景について
NAME:杉原盛重の末裔

水無月さん、質問の答えですが、隆景の親友は黒田如水です。二人が親友であることは有名です。身内では兄の吉川元春、姉婿の宍戸隆家や母方の従兄弟の市川経好とかは良き相談相手だったみたいです。女性では、毛利元就の側室の乃美の方、竹原小早川時代の養母である元就の姪(杉原盛重夫人)も良き相談相手です。小早川隆景のことを調べてみると新たな事実があります。

2009年02月04日 (水) 19時03分




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