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以前に質問が出ていたなら申し訳ないです。 私の質問としては、陶軍と毛利軍が激突した、厳島の戦いの折、何故尼子家は安芸の毛利氏を叩かなかったのでしょうか?もしくは大内領へ侵攻しなかったのでしょうか?
尼子晴久は当時、毛利元就の策にはまり、一族の新宮党主、国久と誠久を抹殺し戦力を減退させたとの事ですが、どうもこれは疑わしく、本当に、この時期に晴久は国久等を討ったか疑問に思うわけです。
又、晴久程の男が、易々と元就の策にはまる訳も無く、例え事実として元就の策謀があったとしても、それを利用したとも採れます。
つまり、新宮党主の抹殺を何故この時期に行ったかが疑問なのです。どうも腑に落ちない点が多く、厳島の合戦時、もしくは毛利家の周防長門へ侵攻の折、何故動かなかったか?と解せないことが多いのです・・・
真相を知ってる方がいらっしゃっるなら是非、教えてください。 お願いいたします。
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私も疑問に思っています。大河ドラマの毛利元就では、謀略で新宮党を壊滅させ、出動したくともできないようにした、と描かれていましたが、やはり無理があるように思います。新宮党壊滅からあまり時間がたたない段階で、晴久は各地に兵を動かしています。巷間伝えられるほど、影響は大きくなかったのではないでしょうか?、またドラマでは晴久は妻(国久の娘)との確執があるようになっていましたが、実際はそんな証拠はなく、新宮党壊滅以前に妻は亡くなっています。逆に晴久は妻の死を待って新宮党の討伐に乗り出したともいえるのです。経久の三男興久の反乱後、今の松江地区の領地はすべて、その兄国久の領地となり新宮党の勢力は尼子の基盤である出雲地方の主たる部分を覆うようになりました。元就が井上一族を討ったように晴久も自己の権力の拡大と家中の統制をはかる意味で新宮党を討ったのだと思います。私は、晴久は、元就というとんでもない男を相手に十分戦ったと思います。 晴久ほどの男と言われるのは、まさにその通りだと思います。 だからこそ、何故その時期に尼子軍が動かなかったのか?不思議に思います。
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私も疑問に思っておりますけどおそらく何らかの手を元就が打ってた為に動けなかったのではないかと思います。当時は出陣の準備から実際に出陣まで数日の日数が必要だと思われるのと、厳島に毛利方が動員した兵数が4千から5千前後なので国境の要の城にはそれなりの人数を残してたと思われるので恐らく動いても短期間で攻略が出来ないとの判断で尼子軍は動かなかったのではないかと思います。特に尼子軍は以前に安芸に攻め込んで失敗をしているので用心深く攻めようとしてたのではないでしょうかと思いますけど。私にも周防長門の侵攻の際に動かなかったのはなぜかやはり・・謎ですね。毛利元就は慎重に動いてるのが多いのでやはりそれ相応に兵力を残して動いてたのではないかなと思いますけど。
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同時期に、備前の浦上宗景への軍事対応に追われていたことが、関係あるかも知れません。
また、大内(陶)毛利の戦いから漁夫の利を得ようとして、あえて傍観していた可能性があります(確かに漁夫の利で石見銀山を奪取できた)。
さらには、晴久個人の視点に立って考えてみると、大内・毛利の対立で、西からの尼子家への軍事圧力が弱まっており、そのおかげで新宮党を速やかに粛清できた側面もあります。
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