せっかくネット 掲示板 カウンター フォーム 3日:RANDA-ミュールやサンダルのサマーセール開催中

道の駅 毛利WEB

ここは安芸・毛利家をはじめとした、中国地方の戦国大名好きの方々のために建てられた交流の駅です。毛利家についての家頁の宣伝もOKです。アラシ行為をしなければ、どなたでもお気軽に書き込みしてください。

戻る


名前
メール
件名
メッセージ
ホームページ

アイコン /
アイコンのURL

/
削除キー COOKIE
文字色



No.339
NAME:陶 尾張守

以前に質問が出ていたなら申し訳ないです。
私の質問としては、陶軍と毛利軍が激突した、厳島の戦いの折、何故尼子家は安芸の毛利氏を叩かなかったのでしょうか?もしくは大内領へ侵攻しなかったのでしょうか?

尼子晴久は当時、毛利元就の策にはまり、一族の新宮党主、国久と誠久を抹殺し戦力を減退させたとの事ですが、どうもこれは疑わしく、本当に、この時期に晴久は国久等を討ったか疑問に思うわけです。

又、晴久程の男が、易々と元就の策にはまる訳も無く、例え事実として元就の策謀があったとしても、それを利用したとも採れます。

つまり、新宮党主の抹殺を何故この時期に行ったかが疑問なのです。どうも腑に落ちない点が多く、厳島の合戦時、もしくは毛利家の周防長門へ侵攻の折、何故動かなかったか?と解せないことが多いのです・・・

真相を知ってる方がいらっしゃっるなら是非、教えてください。
お願いいたします。

2008年07月03日 (木) 14時39分


No.340
NAME:尼子 清久

私も疑問に思っています。大河ドラマの毛利元就では、謀略で新宮党を壊滅させ、出動したくともできないようにした、と描かれていましたが、やはり無理があるように思います。新宮党壊滅からあまり時間がたたない段階で、晴久は各地に兵を動かしています。巷間伝えられるほど、影響は大きくなかったのではないでしょうか?、またドラマでは晴久は妻(国久の娘)との確執があるようになっていましたが、実際はそんな証拠はなく、新宮党壊滅以前に妻は亡くなっています。逆に晴久は妻の死を待って新宮党の討伐に乗り出したともいえるのです。経久の三男興久の反乱後、今の松江地区の領地はすべて、その兄国久の領地となり新宮党の勢力は尼子の基盤である出雲地方の主たる部分を覆うようになりました。元就が井上一族を討ったように晴久も自己の権力の拡大と家中の統制をはかる意味で新宮党を討ったのだと思います。私は、晴久は、元就というとんでもない男を相手に十分戦ったと思います。 晴久ほどの男と言われるのは、まさにその通りだと思います。 だからこそ、何故その時期に尼子軍が動かなかったのか?不思議に思います。

2008年07月07日 (月) 22時21分


No.341
NAME:岸本

私も疑問に思っておりますけどおそらく何らかの手を元就が打ってた為に動けなかったのではないかと思います。当時は出陣の準備から実際に出陣まで数日の日数が必要だと思われるのと、厳島に毛利方が動員した兵数が4千から5千前後なので国境の要の城にはそれなりの人数を残してたと思われるので恐らく動いても短期間で攻略が出来ないとの判断で尼子軍は動かなかったのではないかと思います。特に尼子軍は以前に安芸に攻め込んで失敗をしているので用心深く攻めようとしてたのではないでしょうかと思いますけど。私にも周防長門の侵攻の際に動かなかったのはなぜかやはり・・謎ですね。毛利元就は慎重に動いてるのが多いのでやはりそれ相応に兵力を残して動いてたのではないかなと思いますけど。

2008年07月14日 (月) 09時16分


No.371
NAME:通りすがり

同時期に、備前の浦上宗景への軍事対応に追われていたことが、関係あるかも知れません。

また、大内(陶)毛利の戦いから漁夫の利を得ようとして、あえて傍観していた可能性があります(確かに漁夫の利で石見銀山を奪取できた)。

さらには、晴久個人の視点に立って考えてみると、大内・毛利の対立で、西からの尼子家への軍事圧力が弱まっており、そのおかげで新宮党を速やかに粛清できた側面もあります。

2009年05月17日 (日) 03時31分

No.369 市 浜 宮
NAME:キセタカシ

失礼ですが家紋は?

2009年05月06日 (水) 21時11分


No.370 家紋について
NAME:杉原盛重の末裔

家紋は右三つ巴です。替え紋はカタバミです。

2009年05月17日 (日) 00時20分

No.368 吉川元春、広家の妻について
NAME:杉原盛重の末裔

吉川元春の妻は熊谷信直の長女です。
新庄局という呼び名は有名ですが、彼女に
は兄の高直や弟の直清がいます。
兄の高直の子孫は、萩藩寄組の熊谷家として
続いていますが、曾孫の元貞の代で血統は
絶えて、家老の宍戸広続の次男を養子に
迎えました。また、弟の直清の子孫は
岩国吉川家の家臣となりました。
1600年、新庄局は息子の吉川広家と
共に岩国入りをし、1606年に亡くなり
ました。
彼女の岩国における実家の所在地は、
弟の直清の直系筋の子孫が住した
岩国の今津です。今津の熊谷氏は船手組に
属して25石を食みました。
そして、吉川広家の正室は宇喜多秀家の
姉ですが、彼女は1591年に夫に先立ち
ました。広家の側室には長男広正を
生んだ若林藤兵衛女や次男就頼を生んだ
品川信重女がいました。
若林氏の実家の所在地は岩国の横山に
あり、品川氏の実家の所在地は岩国の
椎尾神社前にあります。
岩国には吉川元春や広家に関係する
ゆかりの場所があるので興味を持つと
面白いです。

2009年02月28日 (土) 00時10分

No.366 椙原為平の子実光を調べています
NAME:三つ丁子族

私は備後神辺城下に住する者です、初めてお伺い致しました、よろしくお願い致します。
さて実光の人物像とその後、又紋など調べていますが、ほとんど手がかりが有りません。
手がかりお持ちの方有りましたら一報頂ければ幸いです。

2009年02月24日 (火) 11時28分


No.367
NAME:檀上監物

尊卑分脈に木梨流為平の子として記載されている民部丞実光のことですね。人物像は難しいかもしれませんが、調べるがいがありそうですね。紋は同じ杉原一族の杉原盛重の軍旗と同じ三つ巴と思いますが、確かではありません。今も福山地方に多い杉原さん達の家紋もそうなんでしょうか?

2009年02月24日 (火) 16時46分

No.365 小早川秀秋の陣揃えについて
NAME:多 央甫

(初めてここで質問します。書き込みの仕方がわからないので申し訳ありません。)
小早川秀秋は、関が原であれだけ大活躍?をしながら、
間もなく狂死して除封されたとされています。
大名としての存在期間も短いわけですが、
其家臣団については、資料が残されているのでしょうか。
以前NHKの大河ドラマで家老「稲葉正成」が登場していました。
これは『陰徳太平記』にも名前が残っています。
私の手元の資料では「松尾外記」という人物の名前が残されています。
その他の組分けなど家臣たちについての記録などは残っているのでしょうか。
御存知の方、宜しくお願いします。

2009年02月22日 (日) 17時13分

No.364 質問
NAME:水無月

(過去に質問された方がいたらすいません、)
宍戸隆家の人柄とは、一体どのようなものだったのでしょうか?
功績や生涯は結構出てくるのですが、「人柄」についてはあまり出てこず・・・
知っている方がいたら、よろしくお願いします。

2009年02月15日 (日) 21時49分

No.362 杉原盛重の前歴
NAME:檀上監物

杉原盛重は元々備後神辺城主杉原(山名)理興の四番家老でした。毛利元就が吉川元春や小早川隆景と共に神辺城を攻めた際には激しい攻防戦が行われました。ちなみに一番家老は杉原興勝、二番家老は藤井皓玄、三番家老は鯰江備前守といわれています。後に杉原盛重が神辺城主となり、城主(盛重)が留守中に藤井皓玄が神辺城を一時的に乗っ取りましたが、すぐに没落しました。

2009年02月11日 (水) 01時26分


No.363 杉原盛重の甥
NAME:杉原盛重の末裔

杉原盛重の子孫は岩国藩士になったことは述べてきましたが、盛重の兄の直良の子供は、直盛と春良がいます。直盛は吉川興経の襲撃に参加し、後に福屋隆兼との戦いで戦死しました。直盛には二人の娘がいました。杉原勝右ェ門妻と粟屋市充妻です。また、春良は毛利元就や小早川隆景の命令で四国の大名河野通宣の執権役になりました。通宣の死後、養子の通直が河野家の当主になり、吉見広頼の娘(矢野局、毛利輝元の姉の娘)を正室に迎えました。河野家の滅亡後、春良は小早川隆景から毛利輝元に仕え、子孫は萩藩士として続きました。

2009年02月11日 (水) 19時05分

No.361 有難うございます
NAME:水無月

質問の返答、ありがとうございました!
どうも調べ方が悪いのか、中々見つからず・・・
しかし、毛利家は全般的に(私の調べた限りですが)あまり友人の事等に詳しく述べられていないような・・・(特に元就の息子辺りから)
兎にも角にも、これからも隆景について調べていきたいです。
ありがとうございました!

2009年02月10日 (火) 23時25分

No.352 杉原家と熊谷家
NAME:杉原盛重の末裔

毛利家にとって吉川家と小早川家は親戚であり、毛利家の発展の為に貢献した家でした。
この吉川家や小早川家のお家乗っ取りの
影の立役者が杉原盛重の妻(毛利興元の娘、元就の姪)と熊谷信直です。小早川家の
場合、盛重の妻が小早川興景の妻の時(正式は小早川興景の死後)に従兄弟の隆景を養子に迎えました。
また、吉川家の場合、熊谷信直が家臣に命じて吉川興経を殺害し、娘婿の元春を吉川家の
当主に据えることに成功しました。
吉川元春、小早川隆景の誕生です。
お家乗っ取りに一躍を担った熊谷信直は後に毛利家の一門として優遇され、毛利興元の娘の夫にあたる杉原盛重も毛利家の一門として
優遇されました。杉原盛重は毛利家の為に獅子奮迅の働きを見せて毛利家を中国地方の覇者にさせました。杉原盛重の子孫は岩国藩士
、熊谷信直の子孫も岩国藩士となり、岩国吉川家を支えることになりました。(今現在、
杉原盛重の子孫の方と熊谷信直の子孫の方が
親戚になっています。)

2009年01月27日 (火) 22時08分


No.353 熊谷信直の子孫達
NAME:杉原盛重の末裔

熊谷信直には九人の子供がいました。
長男の高直、次男の直清、吉川元春妻、
山内隆通妻など・・。
長男の高直の子孫は萩藩の寄組熊谷家に
なり、次男の直清の子孫は岩国吉川家の
家臣となり、藩医の熊谷家(熊谷玄旦など
石高40石)、船手組の熊谷家(岩国の今津に住居で石高25石)などいます。
吉川元春妻は吉川元長や広家の母親であるのは有名です。
山内隆通妻は広通を産み、その子孫は萩藩の
寄組山内家や大野毛利氏(山口県の平生の領主)として続いています。
熊谷信直の子孫は毛利家の重役として
明治維新まで続き栄えています。

2009年01月29日 (木) 22時41分


No.355 山内隆通妻について
NAME:杉原盛重の末裔

山内隆通は備北の有力な豪族である
ことは知られています。
山内隆通の最初の妻は母方の伯父山内豊通
と毛利興元の娘(後に杉原盛重妻)との間
に出来た娘です。
この娘との間に出来た子供は元通と
いいます。元通は早世しました。
後妻は熊谷信直の次女です。
この後妻は昔、矢野の野間隆実に嫁いで
いましたが、夫が毛利元就に攻められて
自刃した後、山内隆通に再嫁し広通を
産みました。広通は毛利家の為に働き
手柄を立てました。子孫は萩藩の
寄組山内家と大野毛利家へとつながり
ました。

2009年01月30日 (金) 23時34分


No.360 熊谷信直と杉原盛重の甥との関係
NAME:毛利同好会

熊谷信直は吉川元春の舅です。熊谷信直には白井房胤に嫁いだ姉がいました。その娘が杉原盛重の兄の直良に嫁ぎ、直盛と春良を産みました。この二人の子供の後見役が熊谷信直でした。1550年、熊谷信直は杉原直盛と天野隆重を連れて、安芸国の布川に隠居している吉川興経を襲撃しました。この時に直盛は吉川興経に斬りかかっています。しかし、興経は激しく抵抗したので仕止めることができませんでした。最後に熊谷信直の家臣が興経を殺害して布川の襲撃事件は終焉を迎えました。後に、直盛は福屋隆兼との合戦で戦死しましたが、叔父の杉原盛重は毛利元就職の姪を妻に迎え、毛利家の中心的武将となりました。

2009年02月07日 (土) 22時41分

No.359 毛利家の姫君たち
NAME:毛利同好会

毛利家は1576年ぐらいから直接織田信長軍との対決を余儀なくされ、1578年には播磨国の上月城下で織田軍と戦争をしました。この頃の毛利家で生存が確認されている男系の正室所生の姫君は、杉原盛重夫人(毛利興元長女,毛利元就の姪)、益田元祥夫人(吉川元春長女)、毛利元清長女(後に熊谷直貞妻)です。この姫君たちは毛利家の大名クラスの上級家臣に嫁いでいます。また、女系の正室所生の姫君では吉見広頼長女(毛利輝元の姉の娘)みたいに四国の戦国大名、河野通直に嫁いでいる例があります。織田家でも毛利家と同様な政略結婚がなされてるみたいで詳しく調べみると面白いです。

2009年02月06日 (金) 16時47分

No.357 お初にお目にかかります&質問
NAME:水無月

始めまして。私水無月と申す者でございます。
未熟者ですが、何卒よろしくお願いします。
ところでひとつ質問なのですが、元就の三男、小早川隆景に腹を割って話せる、<親友>という人は居たのでしょうか?
自分でも調べてみたのですが、どうにも見つからず・・・
どうかよろしくお願いします。

2009年02月03日 (火) 21時00分


No.358 小早川隆景について
NAME:杉原盛重の末裔

水無月さん、質問の答えですが、隆景の親友は黒田如水です。二人が親友であることは有名です。身内では兄の吉川元春、姉婿の宍戸隆家や母方の従兄弟の市川経好とかは良き相談相手だったみたいです。女性では、毛利元就の側室の乃美の方、竹原小早川時代の養母である元就の姪(杉原盛重夫人)も良き相談相手です。小早川隆景のことを調べてみると新たな事実があります。

2009年02月04日 (水) 19時03分

No.356 毛利元就は後見役人生
NAME:杉原盛重の末裔

晩年、毛利元就は息子の小早川隆景に
自分の生涯は後見役人生と言った逸話が
あります。若かりし頃、多治比殿と
呼ばれた頃は甥の幸松丸や姪(杉原盛重妻)
の後見役をし、晩年は孫の輝元や孫娘
(吉見広頼妻)の後見役をしました。
毛利元就は中国地方を平定した智将ですが、
また、後見人的才能を持ち合わせていまし
たので、このような逸話が生まれたのだと
思います。元就亡き後は小早川隆景が
輝元の後見役となり、毛利家の中心的な
武将となりました。

2009年01月31日 (土) 21時13分

No.354 毛利家の長老吉川広家
NAME:杉原盛重の末裔

1597年、吉川広家にとって父方の叔父
にあたる小早川隆景、毛利元清が亡くなり、
その上、母方の叔父の熊谷直清も同時期に
亡くなりました。毛利輝元は吉川広家を
一族の長老として扱いました。
広家にとって頼みの相談相手は姉婿の
益田元祥です。義兄弟は関ヶ原の戦いでは
裏工作を用いて東軍方の勝利を導きました。
益田元祥は徳川家康から石見の大名に
なることを薦められたのですが、本人は
固辞して毛利輝元に随行しました。
益田元祥は毛利家の家老として萩藩を
盛り立てました。
ちなみに、広家の母方の叔父直清の子供
たちは、広家を協力的に支えました。
長男は直顕、次男の直之は杉原盛重の
家族の養子になり、四男の春真は宮庄家を
継ぎ広家の家老になりました。春真の
子供の家正は広家の四家老の一人として
吉川家を支えました。


2009年01月30日 (金) 00時28分

No.351 偶然発見しました
NAME:石見守

初めまして。

一応いろいろ中国地方の歴史について趣味で
勉強しています。ちょくちょくこの駅に訪れて
みたくなりました。

2009年01月20日 (火) 17時49分

No.350
NAME:大内

すばらしいサイトですね!
勉強させて頂いております。

2009年01月13日 (火) 11時45分

No.349
NAME:モンペ

test

2008年12月09日 (火) 02時28分

No.342 杉原盛重、盛俊以降の系図
NAME:杉原盛重の末裔

備後神辺城主、杉原盛重の末裔は岩国吉川家の家臣として続きましたが、盛重が初代の当主とすると、次代以降の当主は盛俊ー盛之ー之豊ー豊信ー豊貞と続きます。五代目の豊信は杉原盛重の孫になるかどうか分かりませんが、兄妹に粟屋右近太夫元貞に嫁いだ娘がいました。粟屋右近は元は小早川隆景の家臣だったのですが、後に毛利輝元の家老になった人物です。堅田元慶に並ぶ毛利家屈指の実力者です。豊臣政権から豊臣姓を賜り、長州藩を盛り立てました。子孫は、寄組 粟屋帯刀家(石高五千石)として明治維新へ続きました。

2008年07月28日 (月) 21時23分


No.343 杉原豊信の子供達
NAME:杉原盛重の末裔

杉原豊信の兄妹の一人が粟屋右近に嫁いだことは記しましたが、豊信の娘の一人が熊谷信直の孫(信直の五男の就真の子供)に嫁ぎました。熊谷九郎左衛門(正勝か?)といいます。この方は吉川広家の母方の従兄弟にあたります。吉川元春の時代と同様に吉川家と杉原家は親戚関係でした。ちなみに豊信の息子の一人に吉川広家が岩国の通津に建立した光照寺(専徳寺)の僧侶になった方がいます。備後神辺城主、杉原盛重の子孫は岩国吉川家の大組30石の家臣として明治時代を迎えました。

2008年08月04日 (月) 05時41分


No.344 備後神辺城主、杉原氏について
NAME:杉原研究会

杉原盛重の妻は毛利元就の姪(毛利興元の娘)であり、盛重の娘は毛利元康妻。
そして、杉原豊信の兄妹は粟屋右近妻。
豊信の娘は吉川広家の従兄弟の熊谷九郎左衛門の妻と備後神辺城主、杉原氏の娘達は毛利氏の一族に嫁いでいるのですね!
その詳細の家系図を是非見たいです。

2008年08月04日 (月) 18時30分


No.347 『杉原盛俊家系図』
NAME:杉原盛重の末裔

杉原盛重

2008年09月27日 (土) 21時19分


No.348 「杉原盛俊家系図」
NAME:杉原盛重の末裔

杉原盛重には盛俊という子供がいましたが、盛俊以降の当主は盛俊ー盛之ー之豊ー豊信です。杉原盛重を初代の当主とする家系図(「杉原盛俊家系図」と呼ぶ)の写しが山口県岩国市の徴古館にあります。現在、杉原盛重ー盛俊の子孫の当主の方が岩国市の錦見町に在住しています。杉原盛重の直系の子孫となるので歴史的研究するには注目です。

2008年09月30日 (火) 22時07分

No.346 檀上氏について
NAME:河村新左衛門

杉原盛重の家臣に檀上重行という勇将がいました。現在尾道あたりに多い檀上さん達とは関係があるのでしょうか?

2008年09月05日 (金) 00時15分

No.345 吉田軍記,探しています
NAME:毛利の配下

吉田軍記という本を探しています。
25年ほど前に見せてもらったという人がいます。
Googleで検索してもヒットしません。
どなたかご存知の方がいらっしゃれば、情報提供お願いします。

2008年08月16日 (土) 22時48分

No.312 杉原盛重以降の当主
NAME:杉原盛重の末裔

戦国時代、毛利元就の重臣でその姪婿に
あたる杉原盛重という戦国の勇将がいま
した。彼は先代の備後神辺城主である
山名(杉原)理興の亡き後、毛利元就と
吉川元春の推挙で神辺城主になり、
主に吉川元春の配下として山陰地方の
平定戦に活躍しました。
1581年、盛重は羽柴秀吉との交戦中に
鳥取県の八橋城内で死去しました。
盛重死去後、跡目を継いだ子の元盛は
弟の景盛に殺害されました。
兄の元盛にかわって当主になった景盛と
その弟の景保も後に毛利氏によって
殺害されました。
杉原盛重には元盛、景盛、景保という
子息がいたことは知られていますが、
他に盛俊という人物がいました。
この盛俊は元盛、景盛、景保の死去後、
毛利輝元から出雲国の仁多郡で知行地を
賜り杉原将右ェ門を名乗りました。
また、盛俊の子息に若狭守之豊という
人物が後に吉川広家の客分として
関ケ原の戦いの後に広家と共に岩国入り
を果たし、岩国に来た当初は客分の招きで
したが後々に家臣に組み込まれました。
杉原盛重の直系の子孫は岩国藩士として
代々30石の知行地を賜り明治を迎え
ました。

2007年03月23日 (金) 17時13分


No.313 杉原盛重の子孫
NAME:佐田の忍

私は杉原盛重に関心があるものですが、
以前から杉原盛重の直系の子孫は
吉川氏の家臣となっているものと
推測していました。
元盛、景盛、景保兄弟の死後、
盛俊、之豊の親子が吉川氏とどのような
きっかけで関わるようになったか知りたい
ですね。
また、杉原盛重が召し抱えた忍衆は
後々、杉原家と行動を共にしたのか
知りたいです…。

2007年03月30日 (金) 02時08分


No.314 杉原盛重の子息
NAME:佐田の忍

またまた書き込み致しました。
杉原盛重は1564年、鳥取県の
尾高城主、行松正盛が中風で卒去した後、
毛利元就と吉川元春の意向で正盛の
未亡人(毛利興元の女)と政略結婚して
尾高城主となり出雲の尼子氏と交戦
しました。
先代の行松正盛に徳若、松千代という
遺児がいましたが、この両人は後々に
どういう生き方をしたのでしょうか?
また、この両人の母親は誰か謎です。
誰かご存知の方いませんでしょうか?
杉原盛重の子息の元盛、景盛兄弟は
歴史上では盛重の子とされていますが、
勝手な推測ですが、行松正盛の子で
はないかと思うのです。
(それに関する一級資料は見つかってないようですが…。)

追記ですが、吉川広家と共に岩国入りを
果たした杉原若狭守之豊という人物は
昔、毛利元就の親子と共に厳島の戦いに
参戦していたという史実があります。



 


2007年04月15日 (日) 02時13分


No.318 毛利興元の娘
NAME:杉原盛重の末裔

杉原盛重の妻の毛利元就の姪(毛利興元の娘)は、杉原盛重と結婚する前は三人の男性と政略結婚していたんですよね。毛利家にとって歴史的に重要な女性ですが、謎が多いです。彼女には誰との間にどのような子供がいたか?はっきりしていません。その上、生年不詳です。これから歴史研究家が研究して欲しい女性ですね…。 (昔、大河ドラマの『毛利元就』で毛利興元の娘について描かれなかったようですね!)

2007年10月07日 (日) 19時02分


No.331
NAME:豪林

そうか、それは残念。
いつかそえについて何かのドラマで
触れられれば...。

2007年12月09日 (日) 17時22分


No.335 杉原盛重の子孫について
NAME:杉原盛重の末裔

備後神辺城主、杉原盛重には盛俊という子供がいました。この盛俊(将右ェ門)は毛利輝元から出雲国の仁多郡で約1400石の知行地を賜りました。妻は杉原盛重の弟の春良の
孫娘(景良の娘)です。子供には之豊がいましたが、この人物は関ヶ原の戦いの後に吉川広家と共に岩国入りを果たし、始めは広家の客分として召し抱えられましたが、後々に家臣として組み込まれました。之豊の末裔の杉原家の当主は30石の知行取りとして岩国藩主吉川氏の側近などを遍歴して明治時代を迎えました。

2008年02月29日 (金) 23時58分


No.336 杉原元盛、景盛兄弟について
NAME:行松ネットワーク

備後神辺城主で毛利四天王の一人に数えられた杉原盛重の子息についての話ですが、歴史上では元盛、景盛、景保、盛俊等がいました。その中で元盛や景盛のことについては『伯耆民談記』によると、伯耆泉山城主、行松正盛の遺児であると描かれています。杉原盛重病没後、景盛は跡目を継いだ兄の元盛を殺害し、その領地を横領します。しかし、後に吉川元長によって景盛は自刃さされ、幼い二人の子供も殺害されました。杉原家の跡目は盛俊が継ぎ、出雲国の仁多郡亀嶽地方(作家の松本清張の『砂の器』の舞台になった場所)にて1400石の知行地を賜り、子供の之豊は吉川広家の家臣になりました。その末裔は岩国藩の吉川氏の家臣として明治維新まで存続しました。杉原盛重の子孫について取り上げましたが栄枯盛衰を感じさせられます。

2008年03月02日 (日) 19時14分


No.337 杉原直良、盛重の末裔
NAME:行松ネットワーク

杉原盛重には元盛、景盛以外に盛俊という子がいたことは事実ですが、確か盛俊の妻は盛重の兄直良の孫娘(直盛の娘)です。小早川隆景の重臣として活躍した杉原春良とは兄妹の関係になります。杉原盛重の一族内で政略結婚をしたみたいで、杉原直良ー春良の系統は小早川隆景の死後、毛利輝元の家臣になり、杉原盛重ー盛俊の系統は関ケ原の戦いを境にして毛利輝元から吉川広家の家臣になりました。備後山手銀山城の杉原氏の末裔は萩藩と岩国藩の藩士として明治時代を迎えました。

2008年03月09日 (日) 22時12分


No.338 杉原研究会
NAME:桃山時代の杉原氏

杉原盛重の死後、杉原元盛、景盛兄弟の領地の配分を巡る争い後、元盛、景盛の跡目は弟の盛俊が家督を継ぎました。盛俊は豊臣秀吉の天下統一の間近、毛利輝元の居城の広島城下に屋敷を構えました。(広島市の八丁堀の辺り)ちなみに隣の屋敷の住人は吉川元春の妻(新庄局)の弟の熊谷就真です。更に南に下ったところの屋敷の住人は三村親成(備中成羽城主。水野勝成の舅)です。杉原盛俊は天下統一の軍事行動は吉川広家に従い手柄をたてました。毛利輝元から知行地2400石与えられましたが、子孫は30石取りの岩国吉川氏の家臣として明治時代を迎えました。

2008年04月07日 (月) 22時16分






Number Pass


ショッピング枠
チャット
ファッション 通販
高収入求人
ペット葬儀・ペット火葬
レンタルオフィス
まじめに恋愛と結婚を考える alterna(オルタナ) 結婚したくなったらツヴァイ
管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板