投稿日:2006年10月17日 (火) 03時22分
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「安武侯という封君号は雅号であって、安武に封じられた訳では無い」ということはお話しました。 では安武という地名のもうひとつの有力な起源として、「武力によって併合した土地の安定を嘉して、辺境の開拓地に安武という地名が命名された」という可能性を考えてみます。
交州武平郡と南漳郡の安武は後者の例かもしれませんし、安定郡の安武についても後者かもしれません。
>秦代に安武という地名があったかどうか判然とせず
次にここに注目します。
まず趙高は県侯以上だろうと推定します。 秦代に安武という県名があったというよりは、趙高の安武侯は雅号であって、 安武という地名に封じられたではないと考えるのが自然ですから、 安定郡の安武という地名が、武力による併合と安定を嘉して付けられた後者の地名と考えると、趙高の安定封土説は矛盾することになります。
では後者の場合ですが、安定郡の位置するケイ水の上流の地方はというと、昭襄王の時代まで義渠という戎が地盤としていましたから、 義渠を平定した昭襄王の時代にこそ第一に、「武力によって併合した土地の安定を嘉して、辺境の開拓地に安武という地名が命名された」可能性が求められることになります しかし秦代の当地域に安武という地名は見当たらないことからすると、命名基準に「辺境の開拓地」という条件を重視するなら、後者の説明は矛盾してしまいます。
そうすると、秦代に安武という地名が無いことが、かえって封君号に由来するというリアリティを浮かび上がらせてくるのです。
そういうことで、趙高封土説は一定の可能性があると思うんですが、 あと落とし穴があるとすると、安定郡の安武という地名は、後世の戦争で安武という名前が付けられたという可能性です。 そのことは安定郡の諸都市が戎狄のいる原野のなかにつくられたという性格を暗示させます。 再びの戦争で安武という地名が冠せられた背景には、異民族の翳を感じるのですが、、、、
封君説にしろ武力平定説にしろ、後世説にしても、共通するのは安定郡という風土に価値が置かれていることですね。 私が趙高だったら、安武侯になって安定地方に代官を派遣し、異民族の烏氏を介して、甘粛地方の月氏と交易しますよ。
注・一貫して問題の地域を安定郡と呼んでいますが、秦代には安定郡は置かれていません。 |
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