投稿日:2007年08月06日 (月) 10時47分
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松山市の北久米町、南久米町、 愛媛県の久万高原町に縁があったら何か教えてください。
松山市は律令官制の成立以前に久未国造が統治していたところで、久米郡久米郷など、久米に関する地名が散在し、 (久未=久米)
久米は九州の球磨、肥と同じ語源を有しているといわれています。(谷川道雄の兄、谷川健一の説) 古墳時代の西日本には、久米部という部族に所属する構成員が各地方に住み、倭の政権の政治や税収(=資源)の調達に関わっていたとされ、久米部の中で大きいものは国造(郡クラスの長官)だったようです。
この久米という人たちが具体的にどんな生業に就いていたかを知りたいんですよね。 どうも柳田國男の山人の「古代、西日本版」らしいです。 つまり中国で言う山住の少数民族です。 |
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[157]「久米」と「久万」投稿者:NAGAICHI Naoto
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投稿日:2007年08月07日 (火) 08時50分 |
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一見したとき、ちょっとドキッとしてしまいましたよ。 地域史はそれほどくわしくないんですけど、答えられる範囲で。 さて、まず久万高原町ですけど、久万高原は平成の大合併で旧久万町・面河村・美川村・柳谷村が合併して誕生した町です。僕の念頭には旧上浮穴郡地域としてあるので、久万高原というくくりかたは非常に歴史が浅いと思うんですけどね。 「久万」という地名も、室町時代からみたいで、藩政時代には久万山六千石といわれていたみたいです。「久米」との関連は、知らないですが、たぶんないんじゃないかなあ。
で、「久米」ですけど、おっしゃるとおりこれは相当古い地名です。律令のころの官衙のあったところですし、1988年の久米高畑遺跡の7次調査では「久米評」と書かれた線刻須恵器が出ています。「評」は「郡」の前段階にあたる地方行政単位らしいですから。
久米部の話ははじめて聞きました。どんな生業に就いていたか…と言われましてもねえ。官衙にいた人は官吏でしょうし(笑)、それより古い話はそういや聞かないですねえ。 |
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[167]久万投稿者:巫俊(ふしゅん)
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投稿日:2007年09月24日 (月) 18時20分 |
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平凡社の出してる地名事典の愛媛県の巻によれば、『吾妻鏡』に久万太郎と称される伊予の武者が登場し、鎌倉時代の前半には久万という地名があったのではないか、ということのようです。
久米については何か自分の意見がある訳ではないのですが、伊賀にも久米町、久米山、久米川という地名があり、平安時代の中期には久米の付いた地名を確認できるものですから、山民という点で気になっています。
伊賀の久米山は伊賀上野の城下町の南のはしにある、もっこりしたさほど大きくもない山なのですが、久米山古墳という古墳があり、伊賀では随分立派な副葬品が入っていたということで注目されています。 |
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