投稿日:2008年05月23日 (金) 10時55分
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ご無沙汰しております。いつも質問で恐縮ですが 北魏末の破六韓抜陵、万俟醜奴、侯莫陳悦なんて人名を見てると とても家屋に住んでいるとは思えないような名前なんですが こういうヒトたちは固定家屋に住んでいたのか オルドあるいはゲルに住んでいたのかってわかりますか?
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[215]六鎮鎮民の家屋について投稿者:NAGAICHI Naoto
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投稿日:2008年05月26日 (月) 23時52分 |
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お久しぶりです。 はっきりしたことは分かりませんので、かなり憶測混じりな回答になってしまいますが、お許し下さい。 北魏末の六鎮(懐朔鎮・武川鎮・撫冥鎮・柔玄鎮・沃野鎮・懐荒鎮)というのは、北方防衛のための城寨で、おそらくここだろうという位置の比定も出ています↓。 http://www.meet-greatwall.org/zhuanzhu/wen/bfgw/bfgw20.htm 城であるからには、城内の家屋の多くは定住式のものだろうと推測されるのですけど。 六鎮の鎮民のことを府戸とか城人とか呼んでいますしね。ゲルに住んで遊牧生活してる人間に対する呼び名ではないと思いますね。 六鎮の鎮民の多くは鮮卑系の軍人で、かつては特権を享受していた人たちだとされています。破六韓抜陵なんかは匈奴系ですけども。かれらが民族本来の遊牧生活をどのくらいやっていたのか、程度は分かりません。僕は墓誌なんかを見るたびに、かなり漢化が進んでいたのではないかと思ってるんですけど。
北魏は降伏した勅勒などの遊牧民を国境防衛に使っていたなんて話もありますから、六鎮の周辺に北魏に属した遊牧民たちのゲルがあったりしたのかもしれませんけど。
いい加減な回答ですみません。どなたか詳しいかたのフォローがあれば助かります。 |
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[216]投稿者:コルテス
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投稿日:2008年06月02日 (月) 01時48分 |
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永一さん、レスどうも そうですね、少なくとも六鎮は漢族風の町でしょうねえ。 あとはその外に住んでいた連中が遊牧してたか放牧してたかってことになるのかなあ。 モンゴル人なんかは王朝建てて、都作ったあともわざわざ町の近くにテント張ってイベントを催したりしてるようなので、同じイメージで捉えていいのかなとも思ったんですが… |
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