投稿日:2006年10月08日 (日) 05時28分
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最近、戦国衛の歴史に興味を抱くようになったんですが、 どうも秦の始皇帝が斉を滅ぼして天下を統一した前221年(秦王政二十六年)以降も、 秦帝国のなかに封君(郡県に封じられた封建諸侯)って沢山いたんじゃないかなと考えるようになりました。 郡クラスの封君は流石にいないかもしれないですが、県クラスならいてもおかしくないんじゃないかと。
呂不韋の時代に野王に遷された衛君のほかに、『戦国策』魏策によると河南省にあった安陵氏という封建諸侯が、韓魏の滅亡後も秦に仕えて五十里の国を保ったと書かれています。 そのほか、呂不韋の時代には剛成君蔡沢という秦の封建諸侯が確認できますし、 秦の諸侯か楚の諸侯か判断に困りますが、楚の王族で秦の相国に任じられた昌平君は、始皇帝が楚を攻める以前までは秦に仕えていたようです。(昌平君は項燕といっしょに挙兵して死ぬ)
こうしてみると、始皇帝の天下統一のすぐ手前の時代まで、秦には領地をもつ封建諸侯が沢山いたように思われます。 その大なるものが文信侯呂不韋ですが、失脚して領地を召し上げられた呂不韋はともかくとして、 ほかの諸侯の領地を没収したとか俸禄に代えたとか、封建諸侯の制度を無くしたとか、そういうはなしって『史記』には一切無いですよね。
六国を滅ぼして海内を郡県にしたと、『史記』秦始皇本紀には書かれていますけども、 秦国内の諸侯がどうなったかは書いてないんです。 『史記』衛康叔世家によると、衛は二世皇帝の元年に滅ぼされたということですが、二世皇帝の元年といったら、二世皇帝の兄弟たちが罪を着せられて殺されていった時期です。 秦の公子たちが殺されたときに、公子たちのなかの誰かと姻戚関係にある衛の君主もまとめて滅ぼされたんじゃないかと考えると、辻褄が合うような気がしてきました。
問題は史料が全然足りないということですが(^^; 報告までに。 |
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