投稿日:2006年10月09日 (月) 23時52分
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『戦国策』の秦三と秦五の場合は、剛成君蔡沢となっているようです。 ちょっと面白い記事を見つけたんですが、『後漢書』郡国志の注には「秦蔡沢を封じて岡成君と為す。未詳。」とありまして、 本文には「東郡は十五城。戸十三萬六千八十八、口六十萬三千三百九十三。・・・陽平は侯国。莘亭有り。 岡成城有り。」と書いてあるようです。 蔡沢は呂不韋の時代に置かれた秦の東郡のなかに、封地をもっていたらしいです。
世に言う平勢説は、自説の都合に合わせて年代の方を動かしている詭弁だと考えるべきでしょう。 その牙城が衛の滅亡年なわけで、たしかに立年称元法で計算しますと衛の滅亡年が天下統一の年(前221年)と一致しますが、
http://www.jianbo.org/Wxbz/2002/shuihudi/biannianji.htm 秦の南郡の雲夢沢のはずれから出土した竹簡『編年記』(↑)では、天下を統一した年は「今廿六年」と書いてあるだけで、その年の備考の欄は空白なんです。 天下統一というフレーズを過大評価して、諸侯はすべて滅びたとか、封建制は終わったとか、衛国の滅亡も短絡的に結び付けてしまったんだと思います。
平勢説は、聖書を乱数表にしたらダイアナ妃の死を予言していたとか何とかというトンデモ説と同じで、 年代を乱数にしてコンピュータ計算で組み上げて、もっともらしいものが出てきたら、平勢説の根拠にするってやり方です。 あれだけ年代を操作したら、偶然の一致ってホイホイ出てきますよ。 平勢説は日本語タミル語起源説(↓)と同類なんじゃないかな。
http://homepage3.nifty.com/rosetta_stone/wissenshaft/tamil_1_A.htm
それと趙高は安武侯みたいです。 『史記』秦始皇本紀の後ろの方に「趙高丞相安武侯と為る。」って書いてあります。 二世皇帝の時代の爵位ですが、呂不韋の時代の爵位の文信侯とネーミングセンスは同系統みたいですね。 これだけじゃ封地のこととか分からないんですけど。 |
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