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枕流亭総合掲示板

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[150]快気祝い 投稿者:方壺島主

投稿日:2007年07月16日 (月) 23時22分

ごぶさた!!
近況→風邪で丸一週間寝込みました。
本日→「ヘレナ・ボナム=カーターと愉快な仲間たち」の先行上映を観賞。
 ピンクを着た悪魔vsパンクおばさんヘレナ、という映画です。

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[152]お大事に投稿者:NAGAICHI Naoto
投稿日:2007年07月20日 (金) 00時59分
夏風邪ですか。快気おめでとうございます。大事にしてください。

映画も最近見に行ってないですよう。
「女帝」見に行くつもりで、行かず。
「ダイ・ハード4.0」行くつもりで、行かず。
最近ますます引きこもりです。

[148]相互リンクのお願いです。 投稿者:高 秀一

投稿日:2007年07月12日 (木) 18時19分

サイト管理者 様

初めまして「カフェDEチャイニーズ中国語教室」
というサイトを運営しております高(こう)と申します。

貴サイトを拝見し、ぜひ私のサイトと相互リンクしていただきたいと思い
メールさせていただきました。

勝手ではありますが、貴サイトは下記のサイトに、リンクさせていただいておりますのでご確認ください。
http://www.cafe-de.com/china/link00.htm

以下が当サイトの情報になります。
相互リンクをご了承いただける場合、参考にしてください。

■サイト名:カフェDEチャイニーズ中国語教室

■サイトURL:http://www.cafe-de.com/china/

■紹介文:東京大阪を中心に日本全国のカフェ等で学ぶ中国語のプライベートレッスン。講師紹介等。


紹介文は変更していただいても構いません。
ご検討のほど、よろしくお願いいたします。

////////////////////////////////////////////////////

カフェDEチャイニーズ中国語教室
東京都墨田区堤通2−10−17−1306
03−5247−5682
担当:高 秀一

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[149]投稿者:NAGAICHI Naoto
投稿日:2007年07月14日 (土) 03時49分
管理人の永一です。いちおううちは趣味系の個人サイトですので、商業広告サイトへの無償協力はお断りさせていただきます。悪しからずご承知下さい。では失礼します。

[146]”武周”についてお尋ね 投稿者:館長

投稿日:2007年06月26日 (火) 18時42分

はじめてのお便りです。小生会社定年で
中国文物を扱っている骨董商に転じましたが
この”商”で博物館・大学が答えてくれないので
大いに憤り困ったいます。
武則天の”武周”とは彼女在世の時からの
呼称でしょうか?青銅器瓦当を入手し彼女
在世時の”如意元年”の銘があります=
文物の真贋をお尋ねしているわけではありません。
本欄の有識者の皆様、よろしくお願いします。

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[147]投稿者:NAGAICHI Naoto
投稿日:2007年06月26日 (火) 23時16分
はじめまして。管理人の永一です。
有識者と言える立場ではありませんが、及ばずながらご質問にお答えします。
「武周」は後世の史称なので、武則天在世当時には使われていないと思います。
「周」か「大周」が使われていたと思います。
当時の墓誌などを見たところ、「大周」としているのが、多いように見受けられます。

[143]戦国史同盟リンク集 投稿者:蛛賢

投稿日:2007年06月19日 (火) 19時38分

こんにちは、ご無沙汰しております蛛賢です。

さて、今回同盟でシナリオ作成の資料に関するリンク集
…的なページを作成しようと考えているのですが、
NAGAICHIさんの「枕流亭」を是非とも「中国史関連資料リンク」
として加えたいなと考えているのですが、如何でしょう。

またこれは戦国史同盟ウェブリングとは別ですので、
改めてこういった形でお尋ね致しました。
以上です。

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[144]投稿者:NAGAICHI Naoto
投稿日:2007年06月21日 (木) 23時09分
こんにちは。お世話になってます。
リンクのほうはご自由になさってください。
うちのHPは、資料…としてはあやしい代物だと思いますが、ご判断はお任せします。

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[145]ありがとうございます。投稿者:蛛賢
投稿日:2007年06月25日 (月) 17時05分
早速、リンク集に載せさせて頂きました。
文章力に自信がありませんので、失礼な内容になっていないか心配です。
なにはともあれ、ありがとうございます。
これからも宜しくお願い致します^^

[138]ごぶさたしております 投稿者:石野陽虎

投稿日:2007年06月03日 (日) 09時30分

『中国歴史あら?カルト!』の石野です。

少し前に「中国という言葉はいつからありますか?」という質問があったおり、いろいろご指導の書き込みありがとうございました。

このまま消えてしまうのも惜しいので、うちの「中華探偵団」に採録させていただきたいと思っております。
もし不都合な点がありましたら修正なり、削除させていただきますのでよろしくお願いします。

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[139]投稿者:NAGAICHI Naoto
投稿日:2007年06月04日 (月) 18時52分
石野さん、こんにちは。
ご指導、、って言いますか、自分はこう考えていますよという持説を披露しただけなんですけど。採録・再録などなど、ご自由に料理なさってくださいませ。

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[142]投稿者:石野陽虎
投稿日:2007年06月11日 (月) 20時40分
早速のご快諾、ありがとうございました。

[136]初めまして 投稿者:隙アリ

投稿日:2007年06月02日 (土) 17時32分

初めまして〜。
天下統一の群狼の咆哮シナリオをプレイしました。
信長誕生期は出雲の尼子、小田原の早雲、の勢いが強いです。
普通では出てこない武将を手に入れることができるのも魅力だと思います。

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[137]どうも投稿者:NAGAICHI Naoto
投稿日:2007年06月03日 (日) 00時30分
はじめまして。
懐かしい話題を振ってくださってありがとうございます。
拙作の1539年開始「群星の咆哮」ですかね。早雲とおっしゃっているので、もしかしたら1544年(脳内では1494年)開始「戦国の暁声」のほうかもしれませんけど。信長誕生期というと、前者なのでしょうね。
遙か20世紀に作ったものですから、作ったがわの記憶は怪しいものですが、とりあえず「群星の咆哮」は初めて自作したシナリオです。いま考えると、大した手間はかけていないのですが、出来はそう悪くないんではないかと思います。1546年より前のシナリオとしては先駆だったとも思いますし。天下統一のシナリオはもう触ることはないと思いますが、戦国史は天下統一の後継ですしね、そこらの原点は忘れたくないなと思います。

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[140]題名間違えました・・・投稿者:隙アリ
投稿日:2007年06月05日 (火) 17時58分
群星の咆哮でした。すみません(汗)。
天下統一〜乱世の覇者〜で出来るシナリオは2と比べて少ない
のに間違うとは不覚です。
それにしても天下統一のシナリオのタイトルカッコいいですね。
何か参考にされている本とかあるのでしょうか?

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[141]投稿者:NAGAICHI Naoto
投稿日:2007年06月10日 (日) 23時12分
とくに挙げるなら『戦国人名事典』(新人物往来社)とか、参照しましたね。本だけでなく、その当時のWEBサイトも使い切れるだけは使ってました。
「シナリオのタイトルカッコいい」ですが、天下統一のタイトルは「××の××」が定型だったので、それらしい語をハメて選んだってだけだったりしますけども。

[134]Bug report 投稿者:金聖暗

投稿日:2007年05月19日 (土) 17時02分

覇権のゆくえ〜17世紀シナリオ

条件イベント:明の凋落

条件:#石高(46) <= #石高(#石高順大名(5))

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[135]投稿者:NAGAICHI Naoto
投稿日:2007年05月21日 (月) 21時14分
どうも、多謝指教です。
確かに5位だけでは不都合ですよね。
条件イベントを石高で縛ってみるというのも、やってみます。

[129]致歉 投稿者:金圣暗

投稿日:2007年05月10日 (木) 08時42分

排版混乱

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[131]投稿者:NAGAICHI Naoto
投稿日:2007年05月13日 (日) 12時56分
>金聖暗さま
はじめまして。「戦国史」方面からお越しのかたとお見受けします。しかし、管理人は武侠の方面には疎いものですから、ご主旨のことは分かりません。少林寺とか言われてもクリリンとしか連想しませんから。

おそらく「南少林寺為何突然消失? 康熙火焼于史無拠」
http://news.china.com/zh_cn/history/all/11025807/20060628/13433962.html
あたりのコピー&ペーストだと思いますが、挨拶もなく長文を貼られても、こちらとしては困惑するばかりです。

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[132]投稿者:金圣暗
投稿日:2007年05月14日 (月) 10時05分
枕流亭君好
在下为中国之战国史爱好者,近日接触
阁下之战国史大作《覇権のゆくえ1614》,
感觉甚好,此文中提及南少林与天地会之渊
源,明清之际郑氏、香花僧、满清间故事,
供君参考,或有裨益。

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[133]投稿者:NAGAICHI Naoto
投稿日:2007年05月15日 (火) 19時03分
拙作「覇権のゆくえ」は日本におけるより中国におけるほうが人気があるようですね。「不错」連呼されてるようで、作者としては光栄のいたりです。
「戦国史討論区」の投稿も読んでて楽しいですね。
http://blog.koeicn.com/viewthread.php?tid=186910&extra=page%3D1
http://blog.koeicn.com/viewthread.php?tid=188240&extra=page%3D1
南少林と天地会はせっかくですが、あまり裨益しないと思います。そこまで作りこまないでしょうし。

[128] 投稿者:金圣暗

投稿日:2007年05月10日 (木) 08時34分

相传,康熙十三年,清王朝突然下令火烧福建南少林寺。自此,千年古寺燃为灰烬。然而,当年赫赫声名的南少林

寺究竟在哪里呢?

  方金辉:林泉院就是历史上过去曾经存在过的南少林寺.

  林少川:从民间世代相传下来的它就说南少林在泉州。

  陈华光:中国实实在在有两个少林寺,一在河南,一在福清的东张新宁里。

  1993年11月25日,罗炤心急如焚,再次来到东山找道裕,满以为此次能如愿看到《古来寺赞集》的原件。然而,

道裕却说《古来寺赞集》的原件失踪了。罗炤不禁心情沉重起来,不料,此时,道裕再次拿出一叠复印件。

  罗炤:道裕先拿了一个香花僧秘典的复印件,然后我看太重要了,但是我不敢相信。因为内容太重要了,太让人不

可想像了,我就有要求看原件。这时候道裕感觉到很为难。说下一次他一定争取让我看到原件,他说因为他在书主人,

当着书主人的面,在神面前(卜了碑),这就是闽南特有的,在神面前来卜卦、求签的一种形式,卜了碑。他已经发了

誓,只是他自己看,不拿给别人。

  道裕是不是和某位神秘人物在操纵着一切?罗炤内心充满了一连串的疑问。最后,他决定亲眼见见《香花僧秘典》

的主人和《香花僧秘典》的原件,以判断其真实性。

  道裕:后来,无意中有个周炳辉,他本身的两个眼睛看不见了,也是我的同学,当时的时候,他很贫穷,很贫苦。

我经常去照顾他,支持他,他就跟我说,我那里还留下一本做佛事的书,你去看一看,因为他就没有什么东西给我看,

就是拿这本,我一看,你还保持着这一本,挺好的。那好呀。所以,我跟他说,你能不能给我复印。他说好呀,你跟我

这么好,我就拿给你。他就拿给我去复印。复印好了,我就把这份的复印件拿给罗教授去看。后来,他(罗炤)就说一定

要去看原件。我说好,你要去看原件,我要通过他的意见。所以,我跟周炳辉说,周炳辉他就说,本来我这(书)是祖传

的,不能给外人看。但是要看,我要去问菩萨。我说好,如果问好我就请他去看,如果问没有,就不要强求。罗教授

也这样说,刚好问有。

  3月10日,铜陵镇下田街58号,道裕法师领罗炤和几位专家来到周炳辉家,看《香花僧秘典》的原件。

  周炳辉是一位朴实的渔民,1988年不幸得眼疾,不久以后双目失明。知道罗炤等人想看《香花僧秘典》,周炳辉

的内心十分矛盾。父亲告诉他,书是爷爷留下的传家宝,不能给任何人看。十年动乱的时候,周炳辉成天把这本书背在

身上,甚至连妻子和女儿也保密。后来因为道裕经常帮助他,所以才同意拿出秘典。

  潘一经:当时,周炳辉说了一句话,教授你们不远千里来到这里从事研究,我把秘典给你们看了,也拍了照了,我

对不起祖宗呀!

  罗炤:结果我一看,第一这本书,这是原件,这不是现代人的抄本,从各种特征来看这是原件。第二更重要的,这

本书的内容比道裕两个月前给我看的(古来寺赞集),那个现代人的抄本更加重要。这是我们第二个做梦也没有想到的,

会遇到的原始资料,这个我把它命名叫香花僧秘典。

  《香花僧秘典》记载,古来寺源自兴化清源九座寺,唐懿宗咸通年间,正觉禅师号智广上人倡建,凡寺舍九座相

连,故称九座寺。寺僧五百余众,有南少林之誉。

迄今为止,这是一本明确记载南少林的古代书籍。

  罗炤:它上来第一段就把古来寺的缘由说的清清楚楚,而且就明确地说,九座寺是南少林。

  根据《香花僧秘典》中记载:九座寺位于兴化清源,那么兴化清源究竟在哪里?

  《莆田县志》记载:明正统十三年撤兴化县,入莆田县。

  莆田仙游县凤山乡中确有九座寺。此寺又名太平禅院,原是九座寺院相连,故又称九座寺。如今,九座寺院只留下

一座依然屹立在原址上。专家称,寺院的建筑风格堪称典型的唐朝建筑。

  九座寺内镶嵌着一块方碑,碑题为《仙游九座寺山田记》,碑上记载:九座寺,唐咸通六年正觉禅师所建之寺。

  无疑,方碑的记载与《香花僧秘典》中的记载相同,都是唐咸通六年正觉禅师创建九座寺。

  古来寺的僧人都说,祖庭九座寺旁有座无尘塔,无尘塔要是倒了,南少林也就没有了。原来,无尘塔中埋葬的不是

别人,正是九座寺的开山僧-正觉禅师。光啟二年(公元887年),正觉禅师圆寂后共获舍利子四千粒,晶似冰雪,葬于塔

内。后宋端明大学士蔡襄题其塔曰:无尘塔。

  然而,九座寺为何被称为南少林?它与北少林究竟有着什么样的关系?种种的疑惑困扰着罗炤。

  五天了,罗炤始终无法找到九座寺的文献资料。不料,就在临走的那一天,仙游县委领来一个中年人,他叫林振

宁。林振宁是个下乡的知青,几十年来,他对九座寺的历史了如指掌。幸运的是,林振宁收藏了一本古书,书中记载了

九座寺的历史。

  林振宁:我手头上有一本手抄本,《九座寺开科禅师语录》这本书,那里边,是我们仙游县当时,乾隆五十一年,

我们仙游县正县长写的序文,那这里面记载着正觉禅师的具体情况。

  在《重修唐正觉祖师本行序》中记载着这样的一句话:正觉禅师前往蒿山受戒?蒿山在哪?中国的历史上却不曾有

个蒿山的地名,这又是怎么回事?

  罗炤:智广传记上明确地讲,智广出家以后又到福州,从福州又到湖北,然后又到蒿山少林寺,这个抄本说的是

蒿,草字头一个高字,蒿山少林寺,到那里受戒。这个抄本把智广(正觉)北上少林寺的路线讲的比较清楚,从这个路线

来看很清楚,蒿山,这是嵩山的笔误,是把山字头抄成草字头。而另外一个证据蒿山就是嵩山,因为少林寺从北魏时

期,一直到北宋,都是受戒的一个重要场所,所以智广专门要到那里受戒,所以智广是从嵩山少林寺受戒,然后又回福

建,这个应该是真实的,这样就把仙游九座寺和嵩山少林寺联系在一起的,因为他的祖师是在嵩山少林寺受的戒。

  根据《香花僧秘典》的描述,九座寺斋法严谨,与嵩山少林寺一样文武同修。那么,九座寺的传承古来寺,也一样

文武同修吗?

  潘一经:我们在东山进行调查的时候,我们就听到,很多六十岁以上的老人,就讲一个故事,说解放前,古来寺的

僧人,和当地一个屠夫进行比武的故事,当地一个屠夫,身高体壮,自己练了一身铁布衫功夫,而且自己认为,自己的

肚皮非常抗打,他很不服这些,寺庙习武的武僧,他天天来到庙里叫板。叫来叫去,后来出来一个身材瘦小的僧人跟他

比试。当时比试之前,他们双方都订了一个生死约定。比试开始的时候,这个僧人先叫屠夫出招,打这个僧人,然后僧

人再出招。当这个僧人出招的时候,就往他(屠夫)的肚皮上就是一拳,结果把这个屠夫打出一丈多远。

  一行人在白文泰的带领下,来到了漳浦杜浔县,见到了崇麟法师。这是一位矮小精瘦的老人,一点都没有武僧的气

概。见到了一群不速之客,崇麟有些惊诧。

  白文泰告诉崇麟法师,罗炤是为古来寺而来,并说了些香花僧的暗语。崇麟是白文泰的师叔,很信任白文泰,果然

听了他的介绍,崇麟精神大变,就非常高兴地讲起来了。崇麟告诉罗炤,当年的那段传说是真实的,只不过,当时崇麟

在比武之前嘴里含了一口冷水,当屠夫憋住气准备承受崇麟的重击时,崇麟却突然从嘴里喷出冷水,屠夫一看乐了,心

里想这和尚怎么现在留起口水。这时,崇麟抓住机会一拳重重地打到对方的肚子,而屠夫因为一笑把运好的气给泻了出

去。于是,屠夫自然轻易被打飞了。然而,崇麟武功并非名不副实。

  1919年,崇麟出生在杜浔县,从小父母双亡,十岁进了古来寺。民国二十九年县长楼胜利破除迷信,把古来寺的

僧人全部ー走,崇麟也回到了老家杜浔县城。

  古来寺的和尚从小文武同修,到了一定阶段再根据个人的特长分开,有主修文的,也有主修武的。刚进了古来寺,

师父们便发现了崇麟的武术资质。

  于是,崇麟开始了拜师学武。香花僧的习武授徒要举行严格的仪式:僧人首先拜的师傅称阿父。第一、习武者首先

递交武生帖,帖中要有三位师傅,即介绍师父、证人师父、授徒师父等共同签署的保证书。第二,向授徒师父敬送礼

品;第三、徒弟向授徒师父跪拜一个钟头。然后,由师父将长剑和鲜花交给徒弟。

  每天晚饭后,寺门关闭,学武的僧人悄悄地来到,寺院后二里外的山上练武。

  根据崇麟的说法,香花僧练拳讲究拳路一条蛇,有四门打、梅花拳、龙虎斗等。

  潘一经:武术研究院有个会,在北京召开,正好广州的有一位以南拳据称的武术家叫陈昌棉先生,我就把这盒录象

带给他看了看,他看得很仔细,他看完以后,他说,他的拳法完全符合南拳和南少林的特点。同时70多岁了,他还能做

双蝶步,这是南拳的一种下跪的一种腿法,不容易。他讲老先生的技艺精湛,原汁原味。

  崇麟的武术无疑证明了,九座寺和古来寺的僧人都是文武同修,这和《香花僧秘典》中的记载正好相符。

  然而,在林振宁提供的那本古书中,还有这样的一段记载:九座寺,于明朝嘉靖时期被倭贼火焚。这和《香花僧秘

典》中的西鲁故事的记载截然相反。无疑,《香花僧秘典》记载南少林的毁灭时间是康熙十三年。

  如果按照这样的说法,那么,九座寺的焚毁与《香花僧秘典》中的火烧少林寺毫无关系。人们不禁猜测,难道,这

本香花僧秘典是现代人杜撰的手抄本?

  曾五岳:这种东西是假也假不来的,现在一般的和尚也不懂,比如有个紫林,什么叫紫林,紫园区周围的树林的简称叫紫林,就是释迦牟尼

说法的地方,要是一般的和尚他也不会懂的,所以,在里头很多东西都是佛教中专业经典的词汇。一般人假不来。

  既然《香花僧秘典》是一本极为珍贵的天地会会簿。那么,火烧少林寺的故事究竟在历史上有没发生过?

  罗炤:我想真正的火烧少林寺应该是没有,如果一定要联系的话,可能就跟康熙时期迁界,为了防止郑成功和大陆

的联系,为了隔断郑成功的经济来源,所以在康熙时期几次把沿海几十里的居民,都迁到内地,在迁界的时候,东山全

部被迁到了大陆。在东山铜陵镇发生过悲惨的故事,大概古来寺也就被烧掉了。也许这个火烧少林寺和迁界中古来寺被

毁有关系。

  明朝末期,闽南地区的十八位不同姓氏的兄弟,以万为姓结义成万姓集团。事实上,万姓集团里是以万礼为首,道

宗为军师的一个秘密团体。后来,万姓集团投靠郑成功并屡建战功,很快成为郑成功反清军队中的一个重要的组成部

分。然而,在一场著名的南京战役中,由于郑成功指导思想的错误,万礼的军队溃败,万礼战死。

  罗炤:在这次战役失败中,万礼战死了,战死以后,郑成功回到厦门建立忠臣庙,本来是把万礼的牌位作为忠臣来

祭祀的,后来听人攻击万礼,说万礼不是战死的,是逃跑,给淹死了,郑成功把万礼神位从忠臣庙里移出来了,这件事

情是万姓集团和郑成功决裂的一个重要的导火线,重要的转折点。因为把万礼的神位从忠臣庙移出来,这是一个极大的

侮辱,对于万姓集团来说,道宗和万礼的结义弟兄们不能接受的。当时万姓集团是驻守在福建东山,这是郑成功的一个

战略据点,结果道宗是主谋,万姓集团在万礼神位撤出忠臣庙之后,就叛郑降清了。

  然而,当蔡禄和郭义降清之后,康熙却将蔡禄及其亲信全部杀害。这恰恰是康熙13年的事情,这样万姓集团又跟清

朝,结下了新的仇恨,所以,道宗后来又出现在清朝和郑经的部队的战场上,为战死者收尸。此时的道宗又回到了反清

的立场。

  罗炤:反清、降清、又反清,这一段曲折的历史,和清朝新的仇恨,这个怎么能对外人明白的讲出来呢,就用西鲁

的故事,用康熙皇帝忘恩负义、过河拆桥的故事掩盖过去了

  历史的真相是,国家民族的仇恨,胞兄盟弟的惨死之恨,促使道宗立志定要洗雪追报,但眼前的政治军事局势复杂

多变,未来难以把握,需要激励徒众在任何情况下都不忘血仇,坚持反清,这就需要传下口头与文字的嘱托。于是以道

宗为中心,前有万礼、后有蔡禄,这一曲壮烈而又曲折的历史悲歌。纳入九座寺的南少林僧人南下东山开辟古来寺、并

且古来寺确在清康熙的几次迁界,被焚毁过的框架之中。因此,火烧少林寺、僧人南逃的故事便应运而生。

  既然,西鲁故事不是真实的历史,人们又该如何界定被天地会广为流传的南少林?

  罗炤:南少林是随着天地会的传播才传播开来的,而天地会的产生是跟香花僧有密切的关系,而香花僧秘典里明确

地说仙游九座寺,有南少林之誉。我个人认为,如果从历史学的角度研究南少林的问题,这个南少林就是仙游九座寺。

但是真正把南少林文化传播开来,应该是东山、云霄、诏安,甚至包括漳浦,这几个县和古来寺有关系的香花僧,是他

们传播出去。

  至今为止,福建出现六座少林寺,仙游的九座寺、东山的古来寺、诏安的长林寺、福清少林寺、泉州东禅少林寺以

及莆田林泉院,究竟哪一座才是传说中的南少林呢?

  人们注意到,《西山杂志》中提到少林寺建于泉州清源山麓,而《香花僧秘典》中的九座寺,位于兴化清源。福清

少林院的所在地东张镇,在历史上也曾经被称为清源里。那么,三座寺院的所在地都曾经被称为清源,这仅仅是一种巧

合吗?(再从地图上来看,福清临近莆田,公元980,清源里归兴化县管辖。仙游就在泉州的北边,公元742年,仙游隶

属泉州管辖,当时的泉州名为清源郡,而原清源则改名为仙游。)在中国的历史长河中,由于朝代的更替,地域名称和

管辖范围的变动,致使南少林遗址始终谜案重重。当然,也可以有另一种解释,那座神秘的南少林,应是福建多座寺院

的化身。

  来源:央视国际《发现之旅》

[126]南少林之谜 投稿者:金圣暗

投稿日:2007年05月10日 (木) 08時31分

南少林之谜

  “天下功夫出少林”,以“南拳北腿”著称的南北两座少林寺院的僧人,匡扶正义,历次救国家于危难之中。然而,少

林寺难逃被焚烧的命运。一千多年过去了,当年赫赫声名的南北两少林寺,只留下北少林依然屹立在嵩山之上,香火旺盛,南少林寺此刻却销声匿迹了。为此,人们开始了历史的追踪。

  相传,公元1276年(注:原文如此,康熙十三年应为1674年),康熙突然下旨三千御林军火烧南少林!这究竟是怎么回事呢?这其中必定有着一段惊心动魄的故事。

  于是,莆田最先开始了他们的寻找,在林山村中,文物普查队发现了一口刻有“僧兵”铭文的北宋石槽。有关专家论证,“僧兵”是南少林寺独有的编制。从而,推断出石槽的所在地——林泉院就是传说中的南少林。然而,泉州的两本祖谱——《清源金氏族谱》和《西山杂志》更有详细记载,泉州存在过一座规模宏大的少林寺。不料,此时的福清出示了更为确凿的证据,出土的文物、古代的地图、以及相关的文献资料,一致指向福清的确存在着一座少林院。

  然而,中国社会科学院的教授罗炤的研究发现,却让南少林之谜进入了更深层次的探索。罗炤发现了福建闽南小镇的一种几乎绝迹的特殊的佛教派别——香花僧。香花僧也侍奉佛祖,为民众做丧喜事,宏扬佛法。但却有不同于正宗的佛教丛林的地方,他们可以杀生吃荤,可以娶妻生子。奇怪的是,香花僧的传人,有一本神秘的秘典——香花僧秘典。这本秘典中隐藏着一个天大的秘密,它揭开了两百多年前的一个夜晚,南少林寺为何突然消失得无影无踪,以及寺院遗址的真正所在地。

  一天,在林山村村口,一口置于露天的石槽马上引起了文物普查队的注意。石槽历经岁月的打磨,字迹有些模糊。

  经普查队考证,这口石槽造自北宋中期。

  突然,石槽上“僧兵”,这两个异常醒目的汉字让普查队员不禁产生疑惑:僧人是不参与凡尘世事的,更不准杀生,而“兵”是要大开杀戒的,那么和尚和士兵同时放在一起又是意味着什么?

  第二天,在村中碾米厂阴暗的角落里,文物普查队发现了另一块北宋石槽,上面刻着“诸罗汉浴煎茶散”字样。自古以来,中国佛教界常把有道僧人喻为罗汉,从石刻的表面意思猜测,这口北宋石槽,极有可能是寺院僧人用来治疗疾病的一种工具。然而,它和刻有“僧兵“的另一个北宋石槽之间有着什么样的关系呢?

  令队员们更为困惑的是,他们在莆田工作多年,从没听说过林山村有座寺院。

  带着这样的疑惑,文物普查队走访了村中年长的老者,村中的老人说,这里的石槽在他们出生以前就存在了,但是谁也不知道这些石槽的来历。原来,,在解放初期,村里共有36口石槽,几十年来,这些石槽大部分被移做它用,目前可能仅留下几口。

  文物普查队在林山村发现“僧兵”石槽的消息,很快传开了。许多专家纷纷着手研究有关“僧兵”的古代文献资料。就在此时,莆田县文联的杨祖煌,在专家论证会上提交一份惊人的报告。

  杨祖煌:僧兵是北少林当时十三僧救唐王的时候,特许少林寺组织武装僧兵,才有这个特权。所以,南少林可能就在我们莆田的这个地方。

  同时,专家也推断出,林山村发现的第二口刻有“诸罗汉浴煎茶散”的北宋石槽,则是专供练武的僧人疗伤所用。

  1988年,一批批寻根祭祖的客人来到莆田寻找南少林寺。虽然,这些人均无所获,但他们的活动却渐渐引起了莆田当地人的关注。

  然而,仅凭几口北宋石槽,是无法证明,那座消失了几百年的南少林就在林山村的。专家们开始从大量历史文献中寻找,令人失望的是,

没有发现丝毫有关少林寺的记载。

  正当各路专家齐聚林山村,研究讨论北宋石槽时,一旁的村干部突然想起:在村委会后侧的枇杷林中,有个寺院的遗址,村里老人都说叫林泉院,遗址上还有练功场、钟鼓楼、梅花桩的痕迹。

  此时,专家们做出一个大胆的假设,“僧兵”的石槽出自林泉院。那么,林泉院会不会就是传说中的南少林?更为重要的是,如何证明这里真的存在过一座林泉院。这样的假设,只能依据探方考古。

  1990年12月1日,福建省考古队进入林山村“林泉院”的遗址,开始了第一期的发掘工程。

  五个月的时间匆匆而过,考古队员在这片枇杷林的土地下,挖出了大量古代的陶瓷器。

  大部分瓷器底部的墨迹已经模糊难识,只有几件写着‘林泉’、‘泉山’等墨书。显而易见,考古队并没有找到林泉院存在的直接证据。

  此时,饥肠辘辘的队长林公务,正在收拾着出土的瓷器,突然听见,工人中叫喊了起来。

  显然,被发现的是块建塔时作为标志的基石,碑上的汉字清晰可辩:“真觉大师难提之塔,林泉院,天佑”。

  林公务:这个碑至少说明两个问题,一个是寺院名称叫林泉院,这毫无疑问。第二个是,天佑年间,从天佑年号当中证明了这个地层,的确是唐末的地层,说明这个寺院至少在唐末就已经存在了。

  林公务的考古报告显示,“林泉院”遗址始于北宋之前,毁于清初。这与传说中的“南少林”始于唐,毁于清的年代大致相同。那么,“林泉院”究竟是不是“南少林”?

  不料,专家们翻遍了大量的文献资料,均没有找到“林泉院”与“少林寺”相关的记载。眼看着线索中断了,专家们不得不另辟蹊径。

  传说中,南少林是北少林的分寺。人们猜想,北少林寺里会不会有南少林遗址的记载呢?

  1990年4月3日,几位专家来到北少林,拜访寺中的方丈コ禅大师。

  コ禅大师听了几位专家们的来意后,当即找来寺中的高僧一起座谈。高僧告诉专家,如果想从碑林、碑廊中找到有关南少林寺的文字根据,在清朝以前那是很多,但在清康熙以后就不可能找到了。

  原来,康熙皇帝因害怕北少林参与反清复明的活动,在血腥镇压南少林的同时,对北少林也发出了解散僧兵、不准练武、不准同南少林有任何来往的敕令。而且把有关的碑碣全部打毁,文字全部烧掉。

  如果连北少林中也无法找到关于南少林寺院遗址的记载,那又能到哪里寻找呢?

  其实早在40年代初,著名体育学家唐豪派其学生徐树桩,前往莆田进行调查。徐树桩是莆田人,他肩负师命回乡调查,并没有发现莆田有少林寺的遗址。于是,唐豪遂发表文章,作出查无此一少林寺,可见其伪的结论。

  以当时唐豪在学术上权威的地位,他对南少林的结论影响极大。因此,人们开始认为莆田并没少林寺。

  以至于台湾编订的《体育大辞典》一口论定:“一般传说所谓福建亦有少林寺,只是误传,实则查无此事”。

  五十年后,莆田专家方金辉撰稿反驳唐豪先生的结论。

  方金辉:作为当时一个练武的学生,一个暑假回来,他到处问问打听几下,没有就是没有,他回去就告诉他,因此他的结论是查无此一少林,可见其伪,可见南少林就是假的,对于他这个结论,我当然是有想法的,我们很尊重他对中国体育史的贡献,对中国武术史作出的贡献,

但这个问题,他是不那么全面,不那么慎重。结论下得太草率一点。

  莆田的专家们认为,经过科学考证,已经证明了林山村中,存在着一座规模宏大的武僧寺院——林泉院,而这座林泉院就是传说中的南少林。

  就在各界人士庆祝封尘了200多年的谜底,终于彻底揭开时,福建的另一座城市传来了令人震惊的反驳声音。

  泉州知名史学家—陈泗东反驳有关莆田“僧兵”的说法。陈泗东认为:凡和尚组成的军队,皆称“僧兵”。而僧兵不只少林寺独有,其他寺院也有。

  在明顾炎武的《日知录》中记载,除少林寺有僧兵之外,许多地方在历史上都有出现过僧兵。

  而《梦观集》中也出现过泉州“僧兵”的记载。因此,“僧兵”不只少林寺独有,全国很多地方都有,泉州更多。

  况且,据嵩山少林寺碑文中记载,“十三棍僧”救唐王之后,唐太宗只封给这些僧人以官衔,赐田地,颁布圣旨加以表扬,并没有特别叫少林寺组织僧兵,给予编制。

  60年代毕业于厦门大学中文系的周焜民,对古文字的语法颇有研究。

  周焜民:我当时看到拓文以后,也感到文字不符合古代汉语的语言规范,当院僧兵,那个兵字,其实是其他的“其”字,它应当断句为:当院僧,其永,其津,其合,共造石槽一口。其中的这里面的三个其字,它的两横距离差不多,按说如果写成兵字,兵字这两横应当短一点。

不像其字是拉长的,汉字的结构他有一定的内在规律。所以,当时把这个复原的研究发现,把其字上面多加字上加一撇,其中的两点抹掉,描红之后,就看到这当院僧兵。

  “僧兵”的伪证之说引起了海内外专家对泉州的关注。此时,泉州的几位专家联合声明,真正的南少林寺不在莆田而在泉州。

  泉州,这座历史文化古城,曾在宋元时期成为“东方第一大港”,与埃及亚历山大港齐名于世,来往的通商贸易国家达100多个,世界各大宗教汇集与此。它会是南少林遗址所在地吗?

  早在八十年代初,一本明代无名人士撰写的手抄本——《清源金氏族谱》的附录《丽史》引起了陈泗东的注意。《丽史》中有一段是这样的记载:明朝期间,泉州城中一位年轻的书生,名为伊楚玉,曾在一寺院读书,经常从一富翁凌氏的门前经过,后与凌氏的女儿相遇并产生爱慕之情的故事。而伊楚玉读书所在的寺院正是泉州少林寺。

  周焜民:这本书里面是一本祖谱,金氏是我们泉州的阿拉伯民族,这本祖谱很奇怪,它说了一篇纪实性的小说,温岭历史,说在这里面,这本丽史它在这里面不是想反映说,这个里面所反映的一段爱情故事,它本意不是这个,它本意在说这里面反映金家的一段历史事实,反映了当时社会背景,时代变迁,泉州风物收录祖谱里面的事,是要作为史实性的东西来补充祖谱的不足,所以我感到这篇,第一它是真实的,第二,它具有一定的史料价值.我们中国的历史研究,往往是野史、诗册,可以弥补正史的不足.

  其实,古城泉州的民间一直流传着一个故事。相传,泉州在唐朝年间就存在一座少林寺,少林寺的僧人个个武功高强,历代以来一直匡扶正义、爱国爱民,最后为反抗清朝压迫历尽坎坷,终被焚毁。说书先生喜欢在故事的结尾留下这样的悬念,当清朝统治者下令火烧少林寺以后,自此无人敢修复,无人敢私下议论。渐渐的,谁也不知道当年的泉州少林寺究竟建在何处?

  然而,有一种传说却被泉州的老人私下议论着,清咸丰丙辰年间,东禅寺主持幻空曾手书一块“少林古绩”山门匾额。

  那么,东禅寺会不会就是《丽史》中所记载的书生伊楚玉读书的那座少林寺呢?

  《南少林之谜》第二集解说词

  相传,康熙十三年,清王朝突然下令火烧福建南少林寺。自此,千年古寺燃为灰烬。当年赫赫声名的南少林寺究竟在哪里呢?

  方金辉:林泉院就是历史上过去曾经存在过的南少林寺.

  林少川:从民间世代相传下来的它就说南少林在泉州。

  随着南少林故事,频繁出现在香港武侠小说和电影之中,国内外掀起了一股研究南少林的热潮。莆田人最先开始了他们的寻找,他们欲把历史的传说和现实的发现结合起来。但是,他们没有料到,由于泉州的介入,掀起了一场旷日持久的“南少林遗址之争”。

  东禅寺,位于泉州东门外凤山之麓,始建于唐乾符年间。

  清乾隆的《泉州府志》记载:“镇国东禅寺,广明年赐今名。宋コ祐和元至正两次遭火,后复建。明宣コ十年重修,后废。”

  东禅寺的始建年代和废弃的年代,与传说中的南少林大致相符,最重要的是,这里曾经存在过一块清朝年间《少林古绩》的匾额。从这块匾额字面上的意思来理解,东禅寺就是少林寺的古代遗迹。只是,令人不解的是,它为何不直接称为少林寺呢?

  采访周焜明:在我们民间,口头上大家不叫它东禅寺,就叫少林寺。泉州的寺庙有这么个特点,它往往有两个名称。比如开元寺,又叫做紫云寺,承天寺又叫做月台寺,东禅寺可能又是另外一个名称,就叫做少林寺。

  采访方金辉:以前的文人墨客好像把寺庙、把和尚僧人,老给少林挂在一起。因为少林,少林寺是我们禅宗祖庭.我总觉得这个少林古迹这个题词不一定属实。

  当时,泉州的同志提出来,南少林寺,它的依据,一个是丽史里头,有一段话,我们后来去查了,丽史只是一部爱情小说,如果根据小说里面有些东西,作为古迹的一个证据材料,我觉得这个好像不足。

  这些日子来,陈泗东正为《丽史》的证据不足而苦恼。

  突然接到一个意外的电话,电话里的人告诉陈泗东,晋江东石人蔡春草,有本的世代相传的手抄本,名为《西山杂志》,书中大量的篇幅,记载着泉州少林寺的故事。这个突如其来的消息,使陈泗东兴奋异常。

  他决定前往晋江寻访这本《西山杂志》。然而,当他找到蔡春草的小店时,却被告知蔡春草出了远门,可能两个月之后才能回来。

  正当南少林遗址之谜,被海内外媒体炒得沸沸扬扬时,人们看到《福建侨报》发表一篇刘福铸撰写的文章,由此引出福建省内的第三座少林寺——福清少林寺。人们纷纷议论,前两座城市经过层层的论证,最终还是无法证明,南少林遗址的所在地。福清,这座城市能找到神秘的南少林吗?

  据近代武术名著《少林拳秘诀》中记载:“国内有两少林,一在中州,一在闽中”。‘中州’指的是嵩山少林寺。而‘闽中’则指福建的中部。

  从福建的地图上看,莆田和福清都属于闽中。

  宋代学者曾巩在《道山亭记》中称:福州府的地理位置均在福建的中部,所以称为闽中。

  福清,属福州府的管辖范围,依此推断,福清也属于闽中。

  刘福铸的文章中写到:在福清的新宁里有座少林院,然而,现今的地图没有新宁里的标志。那么,新宁里会是在哪里呢?

  俞达珠:我们去找乾隆版的福清县志,我们去找那个地图方位,它是标在福清的西南,福清西南看到了方位,大约在福路以下,在金玉南山这代,我们三个人去找了好几次,跑到山上去找,没有。当地的群众也不懂得少林寺,也没有那个少林寺的地名。所以我们感到不在这个地方,如果有这么大的寺院,可能会有影响,老人都会知道就没有。

  没有找到少林寺,专家们不免有些失望。然而,他们并没有放弃。

  1993年5月,专家们在《三山志》的福清县寺观中找到:“新宁里,少林院。”紧接着,清朝乾隆年间钦定《四库全书》同样记载着“新宁里,少林院”。

  如此看来,宋朝到清朝的几百年中,福清新宁里都存在着一座少林院。

  然而,这座少林院会是在哪里呢?专家意识到,要寻找古福清的少林院,只能依据古代的地图。

  5月下旬,专家们再次踏入福清档案馆,然而,他们翻遍了旧版的福清地图,始终找不到“少林“的标志。

  不料,就在他们打算放弃的时候,无意中看见了一张解放军总参谋部绘制的《东张》地图,上面标注着“肖林”。

  陈华光:这个“肖林”跟“少林”有差异,它是福清方言谐音。

  为了确定古福清是否真的有座少林院,几位专家决定重新翻看那些古代地图,期望能从中再寻找到一些蛛丝马迹。

  就在此时,档案馆管理员送来了一张民国二十年版的《福清县全图》。陈华光意识到这是一张他们从未查看过的地图。他紧张地查找着地图上的每一个标注。果然,在新宁里西北部位置上,标注着“少林”。

  陈华光:那么这样我们就明确了,就准备按照地图去东张新宁里去查少林的遗址。

  两个月之后,陈泗东再次来到蔡春草的小店。幸运的是,蔡春草已经回到了晋江。

  然而,当陈泗东向蔡春草提出想亲眼看看《西山杂志》时,蔡春草犹豫了,面对着这位陌生的来客,他很怀疑,陈泗东会不会怀着什么不良的企图?

  蔡春草的七世祖伯曾随郑氏抗清,遭到清朝政治迫害,祸及蔡氏家族未能科举登仕。祖先蔡永蒹只好转航海经商,后又遇海难船破,则到异乡设塾授徒,偶然的机会在吴氏家读万卷藏书时,接触到一批珍贵的书籍,根据这些资料撰写的《西山杂志》。

  此时的陈泗东看出了蔡春草的疑惑,他诚恳的劝说,并告知想看此书的目的,纯粹为了学术上的研究,而且答应决不做对该书有任何毁坏的事情。犹豫再三的蔡春草终于拿出那本家传的手抄本。

  《西山杂志》是蔡永蒹在清嘉庆年间撰写的手抄本。该书中赫然记载了:唐初,嵩山少林寺派救唐王的十三棍僧之一—智空前来福建兴建分寺,而这座分寺就坐落在清源山麓。

  泉州北郊有座远近闻名的清源山,而先前提到的东禅寺正好坐落在清源山上。那么,具有《少林古迹》之称的东禅寺,会不会就是《西山杂志》中的泉州少林寺?

  此时的陈泗东回想起,泉州的街头巷尾流传着一个故事。

  泉州的清源山上,至今有一块巨大的练胆石,练胆石上刻着俞大猷的亲笔书法“君恩山重”。相传,抗倭名将俞大猷,小时候每天都到这块练胆石上练功,并且得到一位名师的真传,学会了少林武术。

  俞大猷曾在自己所著的《正气唐集》中记载:嘉靖辛巳年,俞大猷途经嵩山少林寺。在观看了上千位以精通剑术知名的武僧表演后认为:少林寺以剑技名天下,但现在真诀皆失。后来,俞大猷应方丈的邀请回传少林棍法给北少林。

  如此看来,俞大猷小时在清源山上所学的武术,很可能就是少林拳法,并且泉州少林寺也很可能就在清源山上。

  陈泗东抑制住激动的心情,继续翻阅着《西山杂志》。突然,书中的一句话,引起了陈泗东再次的关注:“杀狮之技”。

  周焜明:民间喜庆经常有,还有乡村打场,秋收的时候,大家已经丰收了,就热热闹闹出来玩一玩,北方叫做舞狮,我们泉州叫抬狮,抬的意思是杀狮的意思。这里面它有些隐义。它这边的狮子是青色的,白眉毛的,它是谐音,据说是谐音青狮,我刚才讲到了,我们泉州这个地方在明清交替的时候,是政治跟军事斗争的一个焦点地点。所以民间反对异族入侵的这种思想很强烈,青狮就是指清朝的这个部队,用这种形式把这种政治的意念化到娱乐中去。用闽南话叫抬青狮。它跟一般的武术不一样,把我们南少林的一些武功,演化到里面去。所以一般来说,耍狮子的人还有拿一把刀要杀狮子的人都需要懂得南少林武术。

  书中更有记载:这种青狮子白眉的技击,是一片寺的一位叫了凡的僧人所传授,而这位了凡的僧人,则是从火烧泉州少林寺时幸存下来的。

  然而,更为令人惊讶的是,《西山杂志》详细描绘了泉州少林寺中“太祖拳”的由来。

  原来,宋太祖赵匡胤身怀绝技,靖康二年金人推翻北宋,宋太祖的子孙迁移到福建泉州。这些宋太祖的子孙,平居无事,喜好练拳耍棒,日日勤练祖宗传下来的“太祖拳”。

  皇族赵孟良甚至出家当泉州少林寺的长老,不难猜测的是,四大皆空的赵孟良,定将祖上密传的“太祖拳”传授于泉州少林寺僧。

  周焜明:我在五六十年代看到的太祖拳,跟今天就变化很多,它这种拳术他自称两个特点,一个它不请拳,就是开头它没有一个起势。抱抱拳,没有它没有这个动作,什么原因,我这是皇帝的拳,哪有像人家要这样的,我是最大,所以它每天打拳的时候,最早打太祖拳他都没有这个动作。没有,一开始就一下子打套路,这是一个,再一个这种拳直进直退,老师在教的时候,就讲要打出龙行虎步。

  泉州自古武风兴盛,不但皇家的子孙喜好拳术,打拳也是平民百姓重要的业余生活。

  每当夜幕降临,辛劳了一天的人们便相约而至集市中,打拳、喝酒、听南音,俗称“拳头烧酒曲”。

  当地人都知道,泉州最盛行的拳法是五祖拳。而宋太祖子孙流传下来的“太祖拳”,也只是“五祖拳”中的一种拳法。

  周焜明:五祖拳也是少林寺里面僧人主要锻炼的一个拳种。我所说的这五祖拳,我个人的看法是五种拳术的总称。其中以太祖拳为代表。

罗汉拳,这个动作里面还糅合进去十八罗汉的一些动作。白鹤拳,那么很多动作就模仿这个鹤的动作。从鹤的动作演化出我们的动作。所谓行者拳,就是行者孙悟空,实际上是猴拳。

  相传,这五种拳法源自火烧少林寺后,五位突出重围的僧人,将自己所学的拳法流传于民间。而他们所流传下来的拳术被后世称为“南少林五祖拳”。

  然而,在泉州广为流传的“五祖拳”,却有着另一版本的传说。相传,泉州晋江县人蔡玉明喜好拳技,到处寻师觅友,汲取各家各派的精华,精通五种拳法,后开馆授徒,广为传播。

  那么,现今盛行于泉州民间的五祖拳,是不是传说中“少林五祖拳”?

  周焜明:明老他是,他去世的时间是辛亥革命那一年,那么他出生的时候是咸丰年间,他大概是六十左右岁就去世了,如果按照这样的历史算,我们泉州的南少林的武术时间就有一百多年,那么这一百多年以前,泉州的武术在哪里,俞大猷的武术在哪里?

  按照《西山杂志》中的记载,泉州的清源山上有座少林寺,而且寺中的僧人精通少林拳法。陈泗东依此断定,泉州少林寺就是传说中的南少林。

  1990年,泉州华侨大学的林少川在进行华侨祖谱研究时,无意中发现了一本蔡氏家族的祖谱,名为《西山杂志》。并看到了祖谱中对泉州少林寺的描写。于是,他便给陈泗东打了一个电话。

  林少川:《西山杂志》里面一共有九条写到了少林寺,从嵩山少林寺来派出了一个和尚,在唐朝的时候就来到了闽中,在清源山建立了一个少林寺,少林寺当时的规模很大,有十三进,然后范围有千层,还有僧有分成十类,范围有多大,掩映在丛林之中。

  罗炤:西山杂志这本书是一个非常奇怪的书,它里面有一些记载是奇怪的准确。厦门大学的历史学家已经做了很好的研究。比如在海外交通史上,华侨史上,它的记载是出奇的,其他书根本没有记载,但是它又是准确的。而这本书在关于南少林的记载,很多都是依据像万年青这样的小说来做的

  《西山杂志》中记载,隋末少林寺长老济慈和十三棍僧的名字,这都与北少林寺的有关碑记不符。另外,书中所写:十三空死于郑王之兵祸者七人。然而,在其他正史上并无这样的记载。

  更有,书中描绘少林寺十三进,周墙三丈。然而,中国佛教寺院,规模大者一般不超过五进,特殊情况的有六进,但决不会有十三进的寺庙。封建时代的建筑有严格的等级限制,天子之居九重。任何建筑也不能超过皇宫的规制。周墙三丈,指的是围墙的高度,泉州城墙历代的最高点,也只是达二丈六尺。

  罗炤:我觉得这个西山杂志是应该进行非常细致的分析,然后再找旁证来印证,它的有关史料才能使用。而关于泉州少林寺的史料,应该说都是传说,没有根据。

  莆田林泉院的僧兵石槽被有关专家否定;而泉州的东禅少林寺似乎充满着神话的色彩;然而,究竟谁能揭开这神秘的南少林之谜呢?

  1993年6月4日,陈华光等人依据民国三十二年版,的《福清县全图》中所标注少林的位置,来到福清东张镇。

  俞达珠:一到东张镇,当时的东张镇党委书记陈立齐,一说有,我们这里有个少林村,也有一个破庙,很破烂的庙,群众说是少林寺。

  专家们惊讶地发现这个偏僻的小山村有不但有座少林寺,而且还有少林桥、少林溪。

  俞达珠:当时的遗址里面看到了一些倒塌庙宇的断墙,还有一些好像是放生池,看到一些遗址的东西,确认是说古庙,看了一个上午,遗憾的是,没有找到有少林两个字的石刻。

  眼看着中午到了,饥肠辘辘的专家只得回到村委会吃饭,席间,无意中遇到了村中的小学校长。小学校长说,自己曾在一座石板桥上看到有许多古代的刻字,其中似乎写有少林的汉字。

  于是,他们迫不及待地ー到小学校长所指之处,果然,专家们看到石桥板上镌刻有:少林院等汉字。

  俞达珠:那种心情呀,真是,我们三个说过去都说,什么叫一字值千金,没有深切的感受,今天才感受到了。确实一字值千金。

  紧接着,人们在村西口处,又发现了一口大石盂。石盂上同样刻有少林当山僧的铭文。

  谜底似乎揭开了,专家们有点不相信眼前的发现。海内外众多学者,争论多年的南少林遗址,难道就这么轻易找到了?为了更为科学的论证,人们决定申请探方考古。

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[127]投稿者:金圣暗
投稿日:2007年05月10日 (木) 08時33分
相传,康熙十三年,清王朝突然下令火烧福建南少林寺。自此,千年古寺燃为灰烬。然而,当年赫赫声名的南少林寺究竟在哪里呢?

  方金辉:林泉院就是历史上过去曾经存在过的南少林寺.

  林少川:从民间世代相传下来的它就说南少林在泉州。

  罗炤:泉州少林寺的史料,应该说都是传说,没有根据。

  1995年7月,福建省和福州市考古队来到了福清少林院的遗址。他们在这片荒芜的土地上进行了,为时一年半的艰

苦发掘工作。林果是此次考古领队队长。

  林果:还一个是瓷器墨书上,我们可以看到,应该就是说大寺院里面的,比如少林会司、少林天王、这些东西,应

该来讲,它当时是在内部组织上有点区别。那你想,如果是说一个很小的寺院,就一个几个十来个的人,它就不需要比

较严密的组织,越是大的寺院,组织阶层就比较清楚,等级制比较清楚。

  此时,从出土文物的考证,史料的记载等方面来看,福清少林寺,无疑就是传说中的南少林。专家们感到了万分的

欣喜,他们以为找到了那座神秘的南少林遗址。然而,故事并未结束。

  一篇《少林学者说南少林》的文章,却对福清少林院提出了疑义。杭州的一位大学教授-周伟良认为:他在福清并

没有看到武术爱好者深入民间的现象,同时,也没有材料说明福清少林寺与武术的关系,现有的证据不足于证明,福清

少林院就是武艺出在少林中的闽中少林。

  诚然,少林寺能完全等同于南少林吗?南少林是以少林武功为核心内涵的,这也是南北少林与其他的禅宗寺院的根

本区别。而福清这座少林寺里,究竟体现了多少南少林的内涵?

  吴昌安:有寺无拳,那么也不成南少林寺,所以我们就基于这个工作,我以个人为首2001年就自己花钱,跑遍整

个县每个角落,去拜访老拳师,那么经过这几年拜访发现这个高手的老拳师,几乎百分九十都逝世了。我们以为他们逝

世没有留下武术,结果经过我们深入去采访,去拜师去调查研究,那么发现原来在农村里面各个乡镇里面偷偷摸摸习武

的非常多,但是就不敢公开。

  其实,福清的民间,并非没有习武之风。只是由于解放前,许多练武之人为了生存,成为当地恶霸的打手。解放

后,人们不在以武功高强为荣耀,自然,乡村之间的武术文化日渐衰落。如今,由于众多专家对南少林遗址之谜的热衷

研究,引起福清民间一些武术的兴起。

  96岁高龄的老拳师,张本利的出现无疑给福清的武术界带来意外的惊喜。

  张本利生于1909年,7岁习武。1937年,福清举办第二届体育运动会,张本利获得个人总优胜。相传,张本利的师父

傅昇华,则是南少林高僧林如的嫡传弟子。

  那么,假如福清拥有一个既有寺又有拳的少林院,是不是就意味着,这里就是传说中的南少林呢?

  罗炤:福清这个少林院是在明朝前期就没有了,弘治的福州府志,已经明确地记载,已经没有福清的少林院了。福

清这个少林院、少林寺和天地会,可以说没有关系,因为天地会是在清初,最早也是在明末才出现的,所以福清这个是

没有什么关系。

  林果:从年代上来可以确定,少林寺的兴废年代是宋代一直到明代。因为明代的遗址实际上很少,它是否延续到清

初,从考古上没有太多的证据。由于,南少林居于南禅宗与南派武术中心的地位,这无疑促使那些热爱家乡的人们,希

望把历史的传说和现实的发现结合起来。然而,福建三地的南少林遗址之争,究竟谁是谁非?罗炤断言南少林必定和天

地会有关系的依据又是什么?

  由于,南少林居于南禅宗与南派武术中心的地位,这无疑促使那些热爱家乡的人们,希望把历史的传说和现实的发

现结合起来。然而,福建三地的南少林遗址之争,究竟谁是谁非?罗炤断言南少林必定和天地会有关系的依据又是什

么?

  罗炤:南少林是因为随着天地会的传播、发展,南少林才传播发展出来的。而南少林为什么会随着天地会的传播发

展而传播呢,第一,天地会传播发展的一个重要的手段,就是武术。第二,天地会传播发展,它和西鲁传说,和会簿有

密切的关系,西鲁传说是一个火烧少林寺,这么一个复仇的仇恨和复仇的故事。所以一个是武术的原因,一个是复仇的

原因,所以南少林跟天地会是密不可分的。

  其实,在天地会内部之间,并没有一套完整的组织机构,来管理会众和发布指令,会员之间全凭一本秘密的会簿,

进行联络和发展新的成员。而这本秘密会簿中主要的内容,是在讲述一个西鲁传说。

  罗炤:西鲁这么一个西方的外国来侵犯中国,当时是康熙时期,边防军队连吃败仗,边关告急,康熙贴出了招贤

榜,来征集勇士,少林寺的僧人揭了皇榜,打败了西鲁军队以后,康熙皇帝忘恩负义、过河拆桥。

  会簿中记载:康熙下旨火烧南少林之后,五位僧人逃到海边,在绝望之际,发现海浪冲来了一只香炉,香炉里埋着

一张反清复明的纸条,

五位僧人感到这是佛祖对他们的提示,于是继续向南逃去。当他们逃到长林寺借宿,寺庙的主持达宗,见到他们脸上流

露悲戚愤恨的神色,便问起原因来。五人向达宗倾诉事件的缘由,后拜达宗为大哥,六位僧人在高溪庙歃血盟誓反清复

明,创建天地会。

  令人疑惑的是,众多版本的会簿对南少林寺的地点似乎有意遮掩、模糊不清。

  突然,罗炤发现,几乎所有的会簿,都记述少林寺被火烧以后,幸免于难的僧人向南逃去。有几本会簿还明确记载

他们来到云霄地面。

  在福建地图上,云霄县接近福建的最南端,隶属漳州管辖区,位于莆田的南边。

  1991年7月28日,罗炤一路颠簸来到了漳江岸边的闽南小城--云霄。在当地专家的帮助下,罗炤很快找到了天地会

会簿中所记的地名。位于云霄县城东面的漳江北岸,是祭祀开漳圣王陈元光的庙宇,又名高溪庙。在天地会会簿中,这

里是结盟起义的地点。

  接着着,罗炤找到了另一个天地会的秘密地点--观音亭,它就在高溪庙的不远处。

  乾隆51年,台湾发生了反清的李爽文大起义,起义军几乎占领了全台湾。/乾隆皇帝派出精兵强将,花费了将近一

年的财政收入,才把这个起义镇压下去。/清政府追根究底,原来,李爽文大起义是和天地会有关系,而观音亭就是此

次爆发起义的策源地。

  更为奇妙的是,在云霄的仙峰岩的山洞中,至今埋藏着少林僧人的几个骨灰罐,罐顶为狮子的骨灰罐,与天地会会

簿中描写的形状居然一模一样。

  看来,会簿中的记载,大部分是真实的。然而,此时的罗炤注意到另一个问题。

  罗炤:所有的会簿几乎都有一个碑,这个碑上面是达宗和尚之墓,旁边是一个对联,受之长林寺,开山第一支。所

以长林寺在天地会里也是一个特点的寺庙。而长林寺这个长字跟少林寺的少字,恰恰形成了一个少与长的关系,这里面

是不是有些暗示。

  93年初,泉州召开南少林研究会,席间,漳州曾五岳先生的一篇文章中,提到在诏安二都,有一个长林村。这立即

引起罗炤的注意。从地图上,诏安和云霄是临县。

  几个月后,罗炤辗转来到了漳州市诏安县,却发现当地人都不知道诏安有个二都,更不知道这里有个长林寺。原

来,历史上二都属于化外之地,那里的《县志》根本没有二都的记载。

  找不到长林寺,罗炤心里充满了难以名状的焦急和失望,但他还是不死心。他将县文化局办公室墙上挂着的几幅县

地图取了下来,从原二都的范围上仔细寻找。第一张,第二张,突然,在第三张上,诏安县的东北角,紧靠着云霄县的

小弯处,发现了一个标有长林的标记。

  长林村位于官陂镇,地处诏安、平和、云霄三县,福建、广东两省的结合部,又在万山深处,隐蔽,安全。

  罗炤:在大雨中我们爬了三个多小时的山上去了。结果没有想到上去以后,做梦也想不到的一些重要的、原始的碑

刻、匾额、石刻,全都发现了。

  在罗炤到来之时,长林寺早已被拆毁,遗址的平场上横卧着一石碑,碑上刻着长林寺记。

  长林寺记中记载,长林寺是顺治十年第五和尚道宗创建的。而天地会的会簿却记载,火烧少林寺后,逃出的少林五

祖是和长林寺的主持达宗歃血盟誓,创建了天地会。然而,这碑文上的道宗和会簿里的达宗是不是同一人?

  罗炤:村民们听说我们是要来了解历史文物,临时从小水电站挡水的闸门,取出来一个挡水的木板,拿来给我们

看。结果一看,挡水的木板上面写着化莲堂三个大字,然后署名是永历五年,题字的人是(卢若骥),题的是长林寺开山

僧道宗。

  村民们拿来的化莲堂匾额,原来是挂在长林寺的大殿里,而题字的卢若骥是卢若腾的族弟。没有想到的是,这块匾

与卢若腾的〈赠达宗上人·序〉可以互相印证,证实了达宗即是道宗。

  更令罗炤兴奋的是,长林寺的碑记上记载着,郑成功和十二位大将的署名。

  罗炤:这个长林寺记跟在这之前去东山县九仙岩看到的一个仙桥记言很接近的,就是郑成功的一二十位大将共同署

名的这么一个长林寺记,而且我特别注意到是大台月藩府书拓奇迹这么一句话。后来在以后,再仔细辨认这个大字应该

是个天字,但是藩府,显然这是郑成功。因为当时福建只有郑成功是南平郡王,藩府是指王。紧接着是郑成功的一批大

将来署名,藩属肯定是郑成功,这让我非常兴奋。

  奇怪的是,这位神秘的长林寺开山僧-第五和尚道宗,究竟与郑氏集团有着什么样非同寻常的关系?致使郑氏集团

的所有高级将领,接连捐银修建道宗两次兴建的寺院?

  1993年6月,罗炤来到漳州市东山县的铜陵镇。铜陵镇镇政府坐着一批天地会研究人员。其中坐着一位清癯的僧

人。研究会人员介绍说,这位僧人是释道裕法师,他是东明寺的主持。

  没有料到的是,这位释道裕法师一语惊人:清源九座寺是真正的南少林,九座寺到东山建分寺为古来寺,是为了反

清复明。古来寺在康熙时创建了香花僧。

  罗炤:见了这个道裕和尚,他讲的呢从我们研究学术的人看,讲的是很不严谨。

  几年来,福建的南少林研究引起了极大的争议。这位年轻法师能轻易解开困扰中外学者几十年的谜题?况且,道裕

法师所提到的九座寺、古来寺以及香花僧等名称,罗炤却从未听说过。他不禁怀疑,道裕是不是出于某种目的,杜撰九

座寺是南少林的故事。

  罗炤:但是他很快给我做这么一个手势,这一下子让我非常吃惊。因为这是公认的天地会的联络暗号。出手不离

三,就是这个,端茶杯都是这样,一举出这个手势,就都知道这是天地会会门的兄弟。这让我很吃惊,然后接着他说,

南少林就在东山,就是铜陵镇的古来寺,他说我有书,他一说他有书,这让我有兴趣了。

  一听到道裕有书,将信将疑的罗炤急忙来到东明寺找道裕,一阵寒暄之后,道裕拿出了一本手抄本的复印件。这本

手抄本叫作《古来寺赞集》,它是古来寺的香花僧做佛事时唱经所用。这本书的拥有者,是个老香花僧,叫巩青,巩青

是当年道裕小时侯入香花僧时的同门师兄,后来道裕虽然转为丛林,但他们之间仍有来往。依据香花僧的祖训,香花僧

的历史讳莫如深,香花僧的东西从来不给外人看。道裕这次也是经过多方劝说,才使当年的师兄拿出复印件。

  罗炤:我一看这个书确实非同小可,他记的内容和天地会的会簿有联系,但是远远比天地会的会簿要严密得多,内

容也更加的具体,真实性更强。

  《古来寺赞集》记载了古来寺的历史。明成化三年,兴化清源九座寺的僧人明雪熙贤南下东山铜陵镇,挂锡苦菜寺

讲经宏法,康熙三年,清朝下令迁界,苦菜寺被烧毁,康熙十九年复界,苦菜寺改名为古来寺。

  古来寺有一种神秘的佛教派别叫香花僧。香花僧也侍奉佛祖,为民众做丧喜事。但却有不同于正统的佛教丛林的地

方。香花僧可以娶妻生子,可以杀生吃荤、佛事活动可在寺庙,也可在居家里进行。

  令人惊讶的是,香花僧做佛事时,常会表演一些难度极高的武术活动。如穿五方,飞饶等。

  长林寺开山僧-第五和尚道宗就是古来寺的香花僧。

  白文泰:明未崇祯七年,当时,道宗叫张木,是漳州市平和县人。道宗一开始在寺院扫地,想要出家,当时寺院

里,有个瘸脚师傅,道宗想要拜他为师。瘸脚师傅问道宗,为何拜自己为师。道宗说,你虽瘸脚却横扫天地。而这位瘸

脚师傅武功非常高强,能飞檐走壁。

  如今,在漳州市东山县发现了一块明末的石碑,碑上刻有南少林时空和尚的铭文。据专家考证,这位南少林时空和

尚就是道宗当年所拜的瘸脚师傅。

  由于道宗后来创建天地会的缘故,古来寺的香花僧逐渐成为天地会对外的身份,成为清朝期间活动于闽南一带的秘

密宗教团体,并以此作为掩护发展新的组织成员。

  白文泰:香花僧是可以结婚,但是要一夫一妻制。香花僧的戒律跟丛林大同小异,但是,五条戒律里改动三条,一

不杀生、二不偷盗、三不淫欲,四不饮酒,五不妄语。其中改了三条,一要收口,秘密事情不能讲。师父教你什么不能

讲,关于历史、天地会的事情不能讲。因为这在过去是杀头的。第二,家庭要和睦;三、香花僧的同门师兄弟都是亲

人。

  古来寺的香花僧人人都有一本秘密的手抄本,但是从不给外人出示。罗炤能如愿以偿看到《古来寺赞集》的原件

吗?

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[228]私説公開投稿者:石垣眞人
投稿日:2008年07月24日 (木) 16時22分
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。




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