銀河のようだったので、心の内で燥いだ。
燥ぐ、という語源は『乾燥』から来ているそうだ。言われてみれば確かに、木枯らしに煽られてカラカラと賑やかに騒ぎ立つ乾いた落ち葉は燥いでいるさまによく似ている。思えば、そもそもの乾燥という言葉もまた徹底している。乾き、さらに燥く。拾い上げようものならたちまち粉々になってしまう。 左記子の胸の内には普段から落ち葉のような乾いたものが無数に散らばっていて、今それがごちゃまぜにかき混ぜられている、そんな心持ちだった。嬉しさに混乱と興奮が混じり合ってざらざらと落ち着きなく騒ぎ立つ。
未体験の事象に対する空想は、ときに狭量なものになってしまうことがある。本来空想というものは、大きさに制限がない。どこまでも拡がっていく性質を持っている。けれど、あまりに知らなさ過ぎて思い巡らせているその対象の方が、ずっとスケールの大きなことがある。まさに今目の前に展開されている光景が――それだった。 銀河のように見えるのは、ほんとうは電車内から見た、隣町の夜の灯りなのだった。 銀河。 その単語がまさしくぴったりだった。各町は宇宙の中の銀河団の中の銀河のように、それぞれ独自の発展を遂げて、各所に散らばっている。ひとつひとつ全く違うコミュニティがあって、住人達は毎日そこで寝ては起き日々を営んでいる。そして夜には星に倣って光り輝く。考えてみれば何の不思議もないことなのだが、世間知らずな左記子にはそれがいかにも新鮮なことに思えた。今までは自分の町ひとつが全てだったのだ。 一目見て魅せられた。 誰もいない車両の、すっからかんになっている座席に座りもせず、銀色の手摺をギリギリ握りしめて左記子は唇を噛んだ。 カラカラと、燥いでいる音が耳にまで聞こえる気がした。 全てをリセットしたい、と思っていた。もとより高等学校を卒業したら、真っ先にこの町を出ようと思っていた。そう思っていた折、母が亡くなったのでこの町と左記子を繋ぐ紐は完全に解けた。 行くあてもなく電車に乗った。 その時点ですでに日は暮れ始めており、隣町に到達する頃には外はすっかり闇だった。 町の只中にいれば分からないだろう。けれど、外側から見た隣町は紛れも無い一つの集合体、一つの生き物のように密に美しく不揃いに輝いていた。 単なる町のくせにあたかも宇宙のような輝きが、ひどく偉大で貴重なものに見えた。
銀河を巡る旅をしよう、と突拍子もないことを思いついたのはそんな時だった。左記子の知らない、まだ見ぬ“隣町銀河”を見て廻る宇宙旅行だ。もはや左記子を縛りつけていたのに役立っていたものは既に効力を失っていた。学校とも、社会とも繋がっていない。家族も失くした。人間関係はどれも希薄なものだった。この町に思い入れはない。
あまりにもスムーズに、左記子の旅は始まった。
〔いち〕
“左記子ちゃん”は、かわいい。
自分自身で、他の少女たちより肌が白いことを知っていた。左記子の腕は他の少女たちより華奢だった。髪は細く垂れる蜂蜜のように滑らかで、おしゃれ染めの必要がない程度には、淡かった。左記子の母は左記子のことを気に入っていた。少女のような母親だった。実際、歳も若かったのだ。左記子ちゃん、左記子ちゃん、と彼女は猫の子でも呼ぶように左記子を呼ぶ。 「左記子ちゃんはかわいいから」 それが彼女の口癖で、たいがい、左記子ちゃんはかわいいから大丈夫よ、とか左記子ちゃんはかわいいから当然だよ、などと続けるのだった。 左記子は、かわいい。 気がつくと喉のあたりを爪を立ててつねっていた。 “かわいい左記子ちゃん”は勿論、学校のクラスでもそういうポジションに収まっていなければならなかった。学校では、かわいさに加えて“優しさ”や“人当たりのよさ”もオプションとして加えねばならない。さもなければ妬みの対象にされてしまう。肌の白さや髪色の淡さも相まって、沢山できた友人たちから、『ふんわりとした天然な子』と評されることが多かった。それで、成績のレベルにまで気を遣わなければならなかった。良すぎないように、悪すぎないように。友人たちが悪いのではない。左記子自身が“左記子ちゃん”をそう形作った。“優しくてかわいい左記子ちゃん”を、プロデュースした。不思議なもので、そうすると段々に自分でもそれが本当の自分だと苦もなく思えるようになる。その自分でいる時がむしろ心地よく、安心する。左記子は本当の自分が何を好み、何が得意でどんな感性か、すっかり判らなくなったままでいた。 一方で、常に奇妙な恐ろしさが付き纏った。母からの寵愛。クラスメートからの好意。それらが全て、左記子が形作ったものに由来していた。だから、もし左記子から美しさが除かれたなら。 いや。 『左記子がほんとうは美しくないと気づかれたなら』。 左記子は今日の今日まで、自分がかわいいと思えたためしがない。“優しくてかわいい左記子ちゃん”は、左記子本人にだけ、優しくもかわいくもない。自分以外が魔法にでも掛かっているのではないのかと、事あるごとに訝しんでいた。その魔法が解けて、左記子の正体がかわいくも優しくもないと暴かれるとき、左記子はどうなるのだろう。 だから、縋った。彼女はいつも厳しく意地悪だったけれど。おかしな宗教のように、本当は実在しない“優しくてかわいい左記子ちゃん”を、母もクラスメートの少女たちも、左記子自身も崇め奉っている。 左記子が美しさを失ったとき――それは人生が終わるときだと思った。
梅渓ハツ、というクラスメートがいた。 飾り気のないショートカットでいつも何やら難解な本を読んでいた。カタカナ書きの“ハツ”という名が古すぎて逆に新鮮だった。彼女は“左記子ちゃん”のかわいさになびきもしないで一定の距離を保っている珍しいタイプの少女だった。友人の一人さえ、持っているのか怪しかった。 左記子とは真逆。 全くの真逆。 いつも大勢の友人に囲まれて、一瞬たりとも一人きりになることのない左記子とは、自立性も円熟性も余裕も違う。彼女にだけは左記子の虚構が見透かされているような気がして、怖くて仕方がなかった。けれど矛盾して、ことある毎に近づきたいと密かに願った。 左記子の周りに集まってくる友人たちは実のところ、友人という形を取った“左記子ちゃん教”の信者仲間に過ぎなかった。そもそも左記子が左記子を偽っているのだから、本当の友人になどなれる訳がない。本音を話そうとも、自分の本音がどこにあるのか知れない。 自分を偽る心地よさと自分を偽る恐れと。ない交ぜになった気持ちのまま、けれど何事もなく学生時間は順調に経過した。
母の調子がいよいよおかしくなりだしたのは女子校卒業間近の早春、左記子が十八歳になってちょうど一月経った辺りの頃だった。元々おかしな母ではあった。今の左記子と同じ十八歳で左記子を出産した母は、内面が異常なほど幼かった。少女のような人、なのではない。少女そのものであった。だから実際左記子を育てたのは祖母だと言って誤謬は無いし、どちらかというと左記子にとって母とは勝手気ままな親戚のお姉さん、といった立ち位置だった。いつもふらふらと遊び歩いて、気が向いたら帰ってくる。母にとって左記子は本当に『お人形』そのものだったのかも知れない。母が左記子に抱いた感情は母性による愛ではない。薄々気づいてはいた。けれど、それは認めてはいけないことのような気がした。なんとなく、認めたら修復不可能なほどに壊れてしまう、そんな危機感があった。そう、壊れてしまう。 母のように。 母はいつもの少女のような危うさで、あっけなく壊れた。彼女の心のうちは判らない。理由も、動機も知らないし、あるかどうかすら判らない。 ただ事実として彼女は自動車にはねられて亡くなった。 これだけは言える。まるで当てにならない人だった。 左記子の内でカラカラ鳴る乾いたものの音が耳障りだった。母の死への対応で日と日は慌ただしく過ぎてゆき、そのまま押し出されるような感覚で卒業となった。 かねてより、進路は敢えて決めていなかった。先生方はだいぶん心配していたけれど。 もとより高等学校を卒業したら真っ先にこの町を出ようと思っていた。そう思っていた折、母が亡くなったのでこの町と左記子を繋ぐ紐は完全に解けた。 祖母は母が最期にこしらえた財産を左記子に全て渡して、好きに生きなさい、と告げた。力強い言葉だった。好きに生きなさい。
そして、なんとなく悟った。
祖母は若かった母にも今の左記子に対するのと同じ言葉を告げたのだろうと。
〔に〕
光は、命があるようだった。
自分の意思ひとつで光量を強めたり弱めたりして瞬いて、ずっと昔からそうしてきたかのような顔で町の銀河団を構成している。 左記子はあてもなく電車に乗ったあの日から“隣町銀河”を巡る旅をずっと実行し続けている。来る日も来る日も、目的地さえ決めず直感で電車に乗る。 そういう生活をしていて分かったのは、昼の電車も夜の電車とはまた違う魅力があるということだった。左記子がただそこに行儀よく座っているだけで、電車は左記子の知らないどこかの都会や、田舎や山中や海辺に連れて行ってくれる。電車が動き、ドアが開き、ドアが閉まる。次にドアが開くときは前回入ってきたのと全く違う空気が入り込んでくる。 左記子は、知らないうちに知らない土地を駆け抜けているのだ。若干感覚がふわふわと現実感のないものになってくる。その土地をなぞる嘘っぽさと非日常と、山奥から都会を一気に走りきる、不思議さと。 こぢんまりとした感じが落ち着いて、私鉄に乗るのが特に気に入った。
「あの」 あの、と耳許で遠慮がちに声を掛けられた。 はっとする。一気に目が醒めた。 「すみません、終点ですので」 声の方を向くと、帽子のせいで表情のよく分からない、定年間近といった風貌の駅員が膝を曲げて左記子の顔を覗き込んでいた。電車に揺られているうちにいつの間にか眠り込んでしまったらしい。こんなことは今まで一度もなかったのに。 「すみません」 左記子はキャリーバッグを掴んで慌てて立ち上がる。 「いえ、お気をつけて」 表情の分からない駅員は声だけは非常に申し訳なさそうな調子で左記子に応えた。小さくお辞儀をして、左記子は少しよろけ躓きながら駅に降り立とうとした。 「また」 「え? 」 駅員がさらに話しかけてくるのに驚いて、左記子は祖母作のレース編みのストールを取り落とした。 「また明日も当電鉄をご利用ですか」 動揺した左記子に構わず駅員は話し掛けてくる。そこで初めて、まずい、と感じた。 見ていたのだ、ずっと。 この男は。 左記子がこの私鉄を気に入って、あまりに心地良かったから何日も続けて乗っていたのを。朝から晩までどこにも行かずに夜明けから夜更けまで、この起毛素材のブルーの座席に座っていたのを。確かに左記子がしているのは普通の人の取る行動ではない。この駅員は何を言わんとしているのだろう。左記子を咎めているのだろうか。 カラ、と左記子の中の乾燥した欠片がそわりと動き始める。そこで久しぶりに懐かしい声が蘇る。 “左記子ちゃんは、かわいいから”。 「また明日も当電鉄をご利用ですか」
表情一つ変えず、駅員は一字一句同じ言葉を繰り返した。
〔さん〕
飛んで火に入る夏の虫あるいは蛾の火に赴くが如しという。
あまりに甘やかに魅惑的で、危険と分かっているのにみずからその災難に飛び込んでしまう。左記子は、帽子のせいで見えるか見えないかになっている駅員の目玉を必死に覗こうとした。少し思い出しかけていた。 夜だからだ。 夜だからこんな気持ちになる。そして思い出し、引き摺り込まれる。『また』。 「あの 、前に、会ったことありましたか」 「皆橋駅で」 駅員は顔色を変えずにこともなげに答えた。
皆橋駅とは、左記子の地元の町にある小規模な駅だ。実家からの最寄駅で、ここから左記子は三年間、来る日も来る日も高等学校に通った。これが不思議な駅だった。いや、通常通り使っていれば至って普通の駅なのだ。問題は、夜。しかも二十四時を優にまわった深夜の駅である。皆橋駅は、深夜一時を過ぎると駅を無料開放するのである。 「あのときに、私に声を掛けた駅員さんですか」 駅員が丁寧に頷くと、左記子は完全に記憶を取り戻した。
当駅をご利用ですか、と左記子は背後から声を掛けられた。 家を抜け出して無為に夜の散歩をしていた、高校二年生の夏休みのことだ。左記子はぞっとして振り向いた。誰も外にはいないだろうと思っていた、車すら通らない田舎の深夜一時、皆橋駅の前である。振り向いて目に入ったのは、駅員の格好をした異様な空気を放つ背の高い男だった。駅はとっくに明かりを落としているし、すでに駅員もいないと認識していた。それなのに、こんな夜中に制服に身を包み、しかも実年齢より幼く見える左記子のような少女にこのように声をかける。さすがに左記子も身の危険を感じた。 “左記子ちゃんは、かわいいから”。母がよく言う聞きなれた言葉だったけれど、“だから気をつけてよね”と言う意味も含まれていることも薄々分かっていた。分かっているつもりだったけれど、こういうことか、と初めて実感したのがその時だった。“左記子ちゃん”は本当に左記子以外にはかわいく見えていて、それ故に引き寄せてしまう危険なものも実際にあるのだと。この男は異常な性癖かなにかを持っていて、それ故に妙な格好をして町を夜な夜な徘徊し、無防備な女性を狙っているに違いない、そう思った。襲われたら、ひとたまりもない。華奢な左記子ではこの大男の腕力に到底敵わない。 当駅をご利用ですか、男はまたそう尋ねた。左記子がただ固まっていると、それを肯定と捉えたのか、更に駅の方に手を差し伸べてどうぞ、と促した。同時にかすかに電車が線路を走る振動音を聞いた。 「じきに、来ます。二十五時五分発です。乗り遅れます、急いで」 灯りもついていないホームへ左記子を促す。たまらず左記子は駆け出した。そう、ホームの方に。辿り着くと、小高いホームに本当に電車が入って来た。煌々と蛍光灯の明かりを点けて。 ただひたすら駅員の格好をした男が怖くて、夢中で左記子は乗り込んだ。すぐに電車は動き出す。窓から外を確かめると、先ほどの男が深々とお辞儀をしていた。
あの人は本当に駅員だったのか、とあれから幾度か左記子は考えた。けれど、思い出す頻度も時経つうちに少なくなり、そのうちすっかり忘れてしまったのだった。あんなに強烈な出来事であったにもかかわらず。
そうして今、再び強烈に思い出す。この胸騒ぎはなんなのだろう。左記子は拾い直したストールを固く握り締める。なぜか目だけは男から逸らせない。 駅員の格好をした男はおもむろに口を開いた。 「もし良ければ、あなたにお願いしたいことがあるのですが―― 」
開いた口から生じた穴は、鯉が水際からぽっかり開ける口の底なしさに良く似ていた。
〔しい〕
ワゴンはなかなかの年代物で、そっと押してもきゅるきゅるとにぎやかな音を立てた。
「失礼ながら、ここ何日かの様子から察するに、現在あなたは社会のどこにも属していないように見受けられます。そして、恐らく仕事にも就いていない」 駅員の姿の男が語るに任せ、相変わらずストールを握り締めて、否定もせず肯定もせず、左記子はただ黙って聞いた。なにか反論してもこの男には本当のことが知れているように思えた。 「しかもあなたは毎日違った駅で降りてゆく。ですから、住所も定まっていないのではないかと思ったのです」 お願いするのにちょうど良いと思った訳です――言いながら、男は自分で納得したように二度ほど規則的に頷いてみせた。 「三時間程度で良いのですが」 彼は機械のように単調に続けた。あわせて口許しか見えないので余計に機械めいて見える。 「但し毎日」 「なにを――ですか」 事態のあやしい展開に、それでも左記子は去ることが出来なかった。 「ここで、車内でですが。住み込みで働いていただきたいのです」 予想もしていない言葉だった。 昔から電車で暮らすようになったらどうだろう、と考える事があった。つまり、非日常が日常になったらどうだろうと考えるのだ。どこにも縛られない、どこにも依存しない、けれどもどんな場所に行っても必ず安心できる|電車内《テリトリー》に住めて、外で何があっても影響を受けない。次々に美しいものを見て、それが途切れることなくて、続けていれば左記子も左記子を美しいと思えるようになるかも知れないと思った。 たぶんそこでは時の流れも違うのだろう。年も取らないだろう。 そんな事有り得ないけれど。馬鹿げている。 馬鹿げている――と、思っていた。 思っていたけれど、心のどこかで諦めきれなくて、だからこそ町を出て以来半分お伽話のようなその生活の真似事を続けていたのだ。もうひと月は経つだろうか。けれどやはり、終電間際には電車を降りなければならないし、毎日泊まるホテル代も気になっていた。電車に乗っている間は楽しく心燥いでも、そこはやはり現実、つまり『非日常』ではなく『日常』だった。 飛んで火に入る夏の虫。 あれは、光が恋しい羽虫がそれに引き寄せられて火に飛び込んでいるのではないそうだ。強い光に当てられて、おかしくなってしまうのだと聞いた。 本来は月明かりで充分なのに、それより何倍も強い火や電灯の明かりに当てられて本来の感覚が麻痺し、自ら身を滅ぼすものに飛び込むのだと。 目の前がぐらぐらした。今左記子に提示されている提案は、その“強い光”のようだった。 もし、それが現実になるのなら。あの隣町銀河を眺めながら眠りに就けるのなら。 「やります」 ほとんど反射的に左記子は答え、やります――と語気を強めた。
「最後尾の車両が、住み込み用の部屋になっているのです」 無論住むのはあなた一人ですが――男は白色蛍光灯の明かりが眩しい車内を縦断しながら左記子に細々したことを説明していった。勤務は毎日、給与は手渡し、制服貸与、食事付き。勤務内容はこの私鉄の車内で軽食などを販売すること。つまり、車内販売だ。 「見たことないです」 左記子は男の背中を追いかけながら一抹の不安をおぼえた。 「普通列車の車内販売なんて、今まで見たことないですけど」 「居ますよ、居ます。少なくとも当電鉄ではやっていますから」 「でも、ここでも見たことなかったです」 「――ですから、あなたに声を掛けました」 ここです、とそこで男は歩を止めた。車両の最後尾に辿り着いていた。 遠藤と言います、彼は告げた。 「当電鉄の管理者兼責任者です。普段は駅員をやっています」 「あの、じゃあ車掌さんは」 「当電鉄は独自に開発した自動運転システムATTを採用しています。なに、大丈夫です。安全性は折り紙付きです」 「あの」 「今日はもう遅いので、細々としたことは明日お伝えします」 男――遠藤がやおらにこちらに体ごと向けてそう言ったので、左記子は思わず怯んだ。 「私は通いですので、もう出ます。部屋の使い勝手は見ていてだければ分かると思いますから」 左記子がおずおず頷くのを確認すると、それでは、と軽く会釈をして遠藤は近くの扉からあっさり出て行ってしまった。 左記子はようやく溜めていた息を吐き出した。吐き出すと、急に脱力した。 好きに生きなさい、と祖母は左記子を送り出した。 その言葉に後押しされて、左記子は左記子のやりたいようにやってきた。まさか電車で日々を暮らす、という憧れが叶うとは思わなかったけれど。けれど少しだけ、とてつもない奇妙な世界に入り込んでしまったのではないかと、そんな不信感もあるにはあった。 「いいの、いいの」 自分を説得させるように独りごちる。それならそれでいい。“左記子ちゃん”を誰かのために演じる必要のない、閉じられているのか開かれているのか分からないこの環境で、浮世離れしている存在になるのも悪くはないだろう。 キャリーバッグの持ち手を握りなおして、最後尾の車両に通ずる扉を開けた。一番奥の真正面にさらに小さな引き戸の扉があり、『職員用 仮眠室』とのプレートが掲げられていた。その手前には狭く短い通路を挟んで右にひとつ、左にふたつの扉があった。全ての扉にプレートが掲げられており、左側のプレートはそれぞれ『職員用 手洗い』『職員用 シャワールーム』と表示されていた。 左記子は『倉庫』とのプレートが掲げられている右側の引き戸を開けてみた。開けた瞬間、段差というか切れ目というか、上手くは言い表せない静かな違和感を感じた。猫除けのために独特の周波数を出す装置を庭に置く家があるが、そこに足を踏み入れてしまった時の耳にキンとくるあの違和感に似ていた。 月明かりにぼんやり浮かび上がった中の様子は別段特殊な印象はなく、ごく普通の用具が置いてあるように見えた。 慎重に中に入ってみる。 電気を点けると、違和感はすっかり身を潜めてしまった。一番目立つところにキャスター付きのワゴンがある。車内販売に使うものだろう。金属製のハンドルがひやりと冷たい。
ワゴンはなかなかの年代物で、そっと押してもきゅるきゅるとにぎやかな音を立てた。
〔ご〕
美しいものと醜いもの。 確固としたものと儚いもの。 永遠と一瞬。 正常と狂い。
正常と狂いの狭間の狭間――。
ワンピース型の紺色の制服は、丈が膝下にまで届くクラシカルなデザインのものだった。胸元のベージュのタイや袖口のカフスといいチョコレート色の艶のある靴といい、どこかしら学生染みている。通っていた女子校に制服はなく、私服登校だったので余計に気恥ずかしい。 カートをゆっくりと押しながら、左記子は長くて狭い通路を進む。販売する物品の品揃えは思っていたより充実していなかった。飲み物とパン類、あとは何故かポストカード。それだけだ。潔いほどの貧相ぶりである。販促の呼びかけや声掛けも必要ないとのことだった。むしろしてはならないと指示されていた。それで左記子は手押し車を押してのろのろと散歩をする老婆のごとく車両内を往復するのだった。当然売り上げは芳しくない。一日に四つ五つ売れれば上等、といった調子だ。けれども遠藤はそれが良いのだという。 「車内販売がある、というその事実が重要なのです。なければ寂しいでしょう。かといって、車内での時間を楽しむお客様の気を散らすのもよろしくない」 それならば押すたびに軋むこのワゴンも是非とも新品に変えて欲しいものだと左記子は思うのだが、面倒なので黙っている。 遠藤はああ言うが、元々がら空きのこの車内で、こんな仕事が本当に必要なのかと思う。甚だ疑問ではあったが、それはそれとして左記子はこの仕事を気に入っていた。 勤務自体は本当に三時間程度で終えることが出来て、あとは全くの自由時間だった。“この場所で”自由というのが、堪らなく良かった。日々の業務を終えて制服から着替えると、左記子はどこでも好きな座席へ座った。只々景色を見つめ続け、そして焦がれた。毎日毎日、ひたすら美しいものを見る。猛々しい山の雄大さや、深い谷底の未知、こじんまりとした町々から感じる人々の息遣い。頭の中はそれらにまつわる思考で忙しく回っている。ほんとうにどこにも属さない。それぞれの表面、綺麗なところだけをなぞる。夜は“隣町銀河”を堪能してそのまま座席で眠ってしまうこともあった。遠藤は好きなようにさせてくれた。必要外のことをあれやこれや言ってくることは無かった。 景色を見ながら、たまに学生時代のことを思い出した。“左記子ちゃん”を、可愛く小綺麗に整えて、自分を埋めた日々のこと。 実力の伴わないものを賞賛されることほど、不安なものはない。 自分では評価されるほどのレヴェルを有していないと判っていながらも、評価されるそれに対してある程度その気になってしまう。そしてそれをこれからも裏打ちするために結果を出そうと必死になる。そうしてだんだん周りと自らの虚構に操られてゆく。あのとき左記子をかわいいと言ってくれた母やクラスメート達は、今の左記子をどう評するだろうか。 ――梅渓さんは? 思わず背筋を伸ばした。在学中は挨拶程度しか交流のなかった梅渓ハツ。“かわいい左記子ちゃん”に何の反応も示さなかった梅渓ハツ。それが却って、左記子の心を掻き立てた。今のこの左記子を見ることがあったなら、ハツは左記子に何かコメントしてくれるだろうか。
ここで働き始めてからから一体どのくらいの月日が経ったのか。 もう把握することさえ諦めて久しい。毎日ワゴンを押し、毎日隣町銀河を眺め、そして眠る。電車を降りよう、という気にさえなったことはなかった。 美しいものと醜いもの。 確固としたものと儚いもの。 永遠と一瞬。 正常と狂い。 ここにずっといれば何にも煩わされることはない。そうすれば、美しいもの、確固としたもの、永遠に続くものだけ手に入るのだ。だから左記子は何も怖くない。何も。そして。 左記子は、いたって正常だ。 その日の夜も、左記子は座席で窓の外を眺めていた。やがて心地よい振動に眠気を催す。そのまましばらく微睡んだ。 夢に“左記子ちゃん”が出て来た。 相変わらず左記子に対してだけ優しくもかわいくもない。母も級友もいたけれど、左記子のことなど見向きもしない。 放っておいてもあちらから寄ってきたあの人たちが、見向きもしない。 胸の内がカラカラと鳴りはじめる。 早く“左記子ちゃん”を纏わなくちゃ、左記子は妙な焦りを感じる。けれど、なぜだろう、かわいい声が出せない。うまく笑顔が作れない。 後ろで誰かがカラカラ笑った。他でもない“左記子ちゃん”だ。 ――みんなに飽きられちゃったねえ。だってもう左記子は、 ――かわいくないもんね。 がたりと大きな音を立てて左記子は飛び起きた。 歯が鳴り、大量の汗をかいていた。窓に映った自分の顔を確かめる。指先が震える。 大丈夫。いつもの顔だ。かわいいかどうかは分からないけれど、高校生のときと何ら変わらない、いつもの顔。 大丈夫。左記子は大丈夫。 ため息を吐くと同時に、電車の速度が落ち始めた。どこかの駅に停車するのだろうか。目を凝らして夜の景色を覗いているうち、左記子は既視感を覚えた。 この景色を、知っている。 電車に乗り続けた左記子がいつか見たことのある景色、という程度のものではなかった。ここは、もっと近しいところ。うんざりするほど見知っているところ。 左記子の地元の町だった。 なぜ。 なぜ。 窓に映った自分の顔をまじまじと見つめながら問いかける。地元から遠く離れたどこかの町の私鉄で、ここと全く関わりのない路線に左記子は乗っていたのではなかったか。 でも、そう――。 遠藤と初めて会ったのも、この先の駅でのことだった。 やがて電車はこぢんまりとした駅で停車した。 皆橋駅。 ――二十五時五分。 あのときと、高校二年生の夏休みのときと同じ。 息をほとんど潜めて、左記子は暗闇の奥の皆橋駅をひっそりと覗いた。あの頃と何もかも変わらないように見える。と、規則的に並んだホームのベンチから人影が立ち上がったように見えた。そして電車の扉のひとつに向かって進む。 ――誰か、乗ってくる。 この町の誰かが。左記子は身を固くした。人影は扉の奥へするりと入り、電車は何事も無く再び動き出した。 心臓は持ちそうにないほど躍動していた。けれども、ただじっとしているほどに臆病ではない。結局好奇心が勝り、電車の振動音に紛れて左記子は人影が見えたあたりの車両へ移動し始めた。 ゆるゆる揺れる電車の中で、左記子もゆるゆる揺れながら進む。手摺から手摺へ、音をたてないように、慎重に、ゆっくりと。 この人は、皆橋駅が深夜に無料開放することを知っているのか。電車に乗る動作があまりに迷いのないものだったのが、左記子には意外だった。皆橋駅の深夜の無料開放の事実は、この町の町民に広く知られているとは思えない。知っているとすれば、どんな人物なのだろうか。 車両を三つほど移動したあたりで“その人”の頭が見えた。体躯はどちらかといえば小柄でほっそりしており、頭も小さい。Tシャツにジーンズで、男なのか女なのかよく分からないが、どうやら若そうだった。左記子は隣の車両の扉越しに慎重に覗き込む。 不意に、“その人”の横顔を見た。 キン、と耳鳴りがした。 がたがたと、不意に激しく電車が揺れだした。激しく揺れだしたのは電車だけではない。気持ちが高まるときに左記子の内でいつもカラカラ鳴っている落ち葉のようなものも同様に騒ぎだした。いや、もう落ち葉と形容できないかも知れない。まるで砂利のようにガラガラと騒ぎ立てている。 正常と。 狂いと。 これはどちらなのだろう。左記子と、この世界と、狂っているのはどちらだろう。 正常と狂いの狭間の狭間――。 左記子は音もなくずるずるとその場にしゃがみ込んだ。薄々気づいてはいた。左記子はおかしな世界へ入り込んだ。この私鉄の存在目的も、運行の仕方の不自然も、それだけではない色んなことが全部、全部。これまでその度に自分を誤魔化してきたけれど、今回はそうもいきそうになかった。
皆橋駅から電車に乗ってきたのは、梅渓ハツ――しかも、左記子が記憶している高校生のままの梅渓ハツだったのである。
〔ろく〕
どういう事ですか、と問い質したときも遠藤はまるで動揺の色を見せなかった。
朝、ワゴンの商品の入れ替えのために車内にやって来た遠藤ははあ、と感情のない声を漏らした。 「さて、何がですか」 「この私鉄の存在です。存在の目的です」 彼は興奮して詰め寄る左記子をのらりくらりと躱して商品をワゴンに置き、それはまあ、豪く根本的な――と呟いた。 「なぜ今更になって気になさるのです? 敢えて訊いてこられないのかと思っていました」 「昨晩見たんです」 「見たと。なにを」 「高校の時の同級生を」 この電車に乗って来たんです、左記子は袖口のカフスをぎゅっと掴んだ。 「当時と何一つ変わっていなかった、服装から髪型まで。いくら何でも変化がなさ過ぎでした。そんなことってあり得るんでしょうか」 話しているうちに興奮して早口になってきてしまう。今迄だって、と左記子は急くように続ける。 「今迄だって他にも気になっていたことはあったんです。遠藤さんの言われた通り、敢えて訊きはしませんでしたけど」 そう感じるのは、左記子自身がおかしくなっているからか。それともこの電車内特有の異常さゆえか。本当はずっと自分に問いかけて来た。けれど、それをはっきりさせるのも怖かった。元々左記子は自分なぞ持ってはいなかったのだから。真実を知ることで僅かばかり残っている自我が崩壊しそうで、どうしても怖かった。でも。 「もう知らなければならない、昨晩そう思ったんです。もう黙って色々飲み込むことが出来なくなったんです。たとえば、遠藤さんと私のほかにここには職員はいないのですか。なぜほとんどメンテナンスもせずにこの電車は走り続けることが出来ているんですか。どういう仕組みで突然知らない鉄道を走れているんですか。皆橋駅の深夜の無料開放は、あれは何なんですか。遠藤さん、教えて下さい」 この電鉄の仕組みを教えて下さい――はじめは勢いよくまくし立てたのに、段々と自分で提示した疑問の奇妙さに不安になり、最後には掠れたような声になってしまった。 遠藤はずっと黙って聞いていたが、左記子が話し終えるとほう、と深いため息をついた。 「そうですか、そうですか。それは不安な思いをさせてしまった。申し訳ない」 彼は被っていた帽子を取り、頭を下げた。帽子のない遠藤を見るのはこれが初めてだった。何となく人間離れしているイメージがあったが、やや面長で白髪交じりの髪をした、ごく普通の――どちらかといえば優しそうな――初老の男性の顔だった。 「今日は、そうですね、お互い仕事はお休みしましょうか」 そこのボックスシートで話すのはどうです、とすでに決定事項のように振り向きもせず遠藤は歩き出した。 いつの間に運行していたのか、電車は低い音を響かせていた。
向かい合うと、窓の外の木々が遠藤の後ろで遠のいていった。 「大学生の頃、初めて一人旅をしましてね。列車で駅弁を食べました」 これがまあ、美味しかった、と遠藤は何の前触れもなく昔語りを始めた。 「やはりこういう、対面型の四人掛けの席でしたね。尤も私しか座っていなかったのですが」 「それは、あの、さっき私がした質問と関連があるんですか」 間接的にはあります、遠藤は痺れを切らした左記子をなだめるように二度ほどゆっくり頷いた。 「あなたはどこか、私のことを漠然と“不思議な世界の人”と捉えてはいませんか」 「だって、あまりにも――」 言いかけた左記子を見て、今度は遠藤は首を横に振った。 「そんなことはないんです。小さな町で、普通の子供として生まれて普通に育った。大学生になって初めて一人旅をして駅弁ひとつに感動する、ごく普通の若者だったんですよ。魔法を使える訳でも自然に逆らえる訳でも何でもない」 けれど、そうですね、強いて言えば『時』に強い興味を持っていました――と何かを懐かしむように遠藤は目を細めて外の景色を眺めた。 「四人掛けの席に一人で掛けて、駅弁を楽しんで、心ゆくまで景色を眺めて。貧乏旅行ですが、時間はたっぷりありました。私はその時間を非常に愛しく思った。そしてこの『時』がひたすら続けばいいと思ったのがきっかけです」 「きっかけ? 」 遠藤は頷いた。 「私の家は代々教師の家系でした。私も当然のように教師になるべく大学に通っていました。けれど、一人旅をしてからというもの、自分が教師になることに何の意味も見出せなくなってしまったのです。いや、そもそも自分が何の興味も疑問も抱かずに教師になろうとしていたことに気づいてしまった、という方が正しいのでしょうか。厳格な父に只々従っていただけだったんですね。旅行から帰ってきた私はもう教育学を勉強する気にはなれませんでした」 そして、代わりに『時間』とは何かを知るべく自然科学を学び始めました――遠藤は実にあっさりと言った。 「それが私の本当にやりたいことだと自覚したのです」 「時間を知ること――ですか」 この時がひたすら続けばいいと。それだけのために。 「そうです」 「でも、お父様は何も言わなかったのですか」 「厳格な人でしたから、非常に激怒しました。私がもう教育学を学んでおらず、教師になるつもりもないと知るとその日のうちに大学を辞めさせられ、家を追い出されてしまいました。要は勘当ですね。それ以来父の顔は一度も見ていません」 笑顔ともなんともつかない顔で遠藤はわずかに口を開ける。前にも思ったが、この人の“空洞”を覗くのはやはり怖い。 「紆余曲折あったので省略しますが、『時間』の研究はそれ以降も続ける事ができました。研究していくうち、いろいろ面白いことが分かりました」 「面白いこと? 」 「あなたがこの私鉄で見たこと、体験したこと、それらをあなたは私に対するのと同様“不思議なこと”、“奇妙なこと”と捉えたでしょう」 「だって、あり得ないことを見たんです」 「いいえ、実際あり得るから見たのです。“不思議”にだって根拠はあるんです、ただ何となく存在する不思議などありはしないんです」 遠藤から発せられる分かるような分からないような理論に、左記子は彼の空虚な口腔をただ見詰めた。ここで働くと決めたあの日見た“強い光”が、いよいよ左記子を焼き焦がさんばかりに近づいてくる。めらめらと音を立て、全身を煽りたて、それでも左記子の好奇心を捉えて離さない。 「この私鉄は、いわば私の研究結果そのものなのですよ」 遠藤が敢えて抽象的な言葉を選びながら話しているように思えて、分かるように言ってください、と左記子は念を押した。 「私にも分かるように話してください」 「では、そうですね――。以前にこの列車の運行システムのことを簡単にお話ししましたが。ここには車掌も運転手もおらず、独自に開発された自動運転システム、ATTによってコントロールされていると」 「それが、遠藤さんの研究の結果なのですか」 奇妙だとは思ってはいた。独自の自動運転システムとしか説明されていなかったが、この列車は時々まるで意志のある生き物のように動く。『自動運転』と一言で言うが、何がどこまで自動なのだろう。まるでこの列車の空間そのものを支配しているように感じることさえあった。 遠藤はいつもの几帳面さで頷いた。 「ネーミングセンスのない私が名付けたので、何の捻りもない呼び方で気に入らないのですが、ATTの正式名称はAutomatic-time travel といいます。つまり、直訳すると自動 」 「自動時間旅行――」
力が抜けたような、狐につままれたような、そんな心地に陥って左記子は遠藤の発言に被せるように思わず口に出していた。
〔しち〕
タイムトラベルでもあるまいし、と言おうと思っていた。勿論、揶揄する目的で。
「否定しないんですか」 遠藤の様子を観察するに、彼は毛頭否定するつもりはないらしい。冷やかしでも何でもなく、それどころか、照れもせずに空想科学小説のような話を展開し始めるので、左記子は少々面食らっていた。 「私、さすがについていけないです」 無意識にかぶりを振りながら左記子は息を吐き出した。 「時間の研究と言ったって、限度はあるでしょう。どんなに研究したところで不可能が可能になったりはしないでしょう。私にだって分かります。タイムトラベルなんて。そんなの不可能だって」 「どうして、ですか」 遠藤があまりにも淡々と訊いてくるので左記子はやきもきしてくる。 「どうしても何も、だってそうでしょう? 皆知っています。時間は進んでいく一方で戻らない。一定の速度で、一定の方向に流れてる。飛び越えも飛び戻りも回転も歪みもない。言うまでもないことですよね」 遠藤は少しも感情的にならずにそうですね、と返した。 「既存の考え方では、確かにそうでしょう」 「既存? 」 「なに、簡単なことなのですよ。少し視点を変えれば簡単なことだ。いや、既存の考え方が間違っていると言いたいわけではなく」 遠藤は少し考えるように両手の指を組んだり|解《ほど》いたりした。 「トリックアートというものがあるでしょう。あなたも一度は見たことがあるはずです。あれは、一度ひとつの絵に見えてしまうとなかなか他の絵柄が隠されていることに気づかない。でも、他の絵柄は確実にあって、それに気付いて仕舞えばあとは簡単です。その絵の仕組みが見えてくる。時間に関しても同じことです」 「よく――分かりません」 小さな声で呟く左記子に遠藤はほんの僅か困惑したように顔を傾げ、それから胸ポケットからメモ帳とペンを取り出した。そしてさらさらと何かを書きつける。書き終えると、メモ帳を左記子に差し出した。 X ――Y。 メモ帳の端と端にそれぞれXとYのアルファベットが記され、その二つの記号を繋げるように細長い直線が引かれていた。たとえば時間軸から考えてみましょうか、そう言って遠藤は説明を続ける。 「過去をX、未来をYとします。時間は必ずXからYへ流れます。これは動かしようのない事実で、絶対に変えられない。既存の考えも何も無い。 でも」 ペンの色を赤に切り替えて、遠藤はその線の中心に垂直の棒を書き足した。 「奥行きです」 この線は上下左右に可動可能だとします、と垂直に書き足した線のそばに、上下左右の矢印を更に加えた。 奥行き。時間の奥行きなど、今まで考えたこともなかった。 「じゃあ、理論的に時間を戻すことは本当に可能なんですか」 昨晩見かけた梅渓ハツは、本当に高校生の梅渓ハツだったということなのか。 「結論から言ってしまうと、正確には戻るわけではありません。そこは覆せませんから。普段私たちは時間というものを一次元的にしか捉えていませんが、本当にそうなのかは実は分からない訳です。では奥行きはどうだろうと。奥行き、つまり時間を三次元のものとして捉えた訳です」 私はつまり、そういう研究を何十年もしてきました――姿勢を戻しながら、懐かしむように遠藤は語る。 「私の持論を聞く方々の殆んどは、あり得ないことだと笑いました。実際これは証明するのにとても厄介な理論でしたね。目に見えないものですし、証明されるまでの時間がかかり過ぎますから。でも、結果として今は確信しています。時間とは三次元の性質を有しているものです。その理論に基づいて最も分かりやすい形で示そうとした結果、ATT開発に繋がったわけです」 だからつまり、ATTとは何なのだと左記子は思う。遠藤が言うに、時間は実際には戻る訳ではないらしい。では、昨日十代のままの梅渓ハツを目撃するに至ったのは何故なのか。あの現象は何なのか。左記子は未だ具体的な説明を受けていない。 「ATTって、具体的にどういうものなんですか。何か機械みたいな装置なんですか」 左記子が現に入り込んでしまった“これ”は一体何なのだ。 「言ってしまえば概念ですね。物質の装置があるわけでは無い。私が発見した時間の法則に基づいて、条件を満たすように調整しているのです。その概念をこの列車に当てはめています。列車自体は昔運行していた普通の列車で、私が買い取りました。そして、当電鉄は時間の“奥”のスペースを利用し運行しています。」 「奥――」 遠藤が図で示したあの赤い線。通常の時間の向こうに存在する、奥の時間。 「上下左右に動くと言った、あれですか」 「そう、ですからあの赤い線がXの方に傾くと、行ける訳です」 ――過去に。 「“準”過去、とでも言いましょうか。そういう所に行ける訳です」 「準? 」 正規の時間の奥なので現実が薄くなる傾向があるんですよ、とまたしても難解なことを遠藤は付け加える。 「ああ、あなたはもしかするともうかなり薄くなってきているのかもしれない」
突如気づいたかのように遠藤は呟いて、そうですね、確かに説明不足だったかもしれません――と静かに居住いを正した。
〔はち〕
電車で暮らすようになったなら。
それは長年左記子の頭の中を駆け巡る、楽しく夢のある空想だった。 今、左記子は奇妙ななりゆきでその空想通りの生活を手に入れている。毎日美しいものに触れて。余計な物事に囚われなくて。開いていながら閉じていて。 たぶんそこでは時の流れも違うのだろう。 年も取らないだろう。 ――そんな事まで思い描いていた。
〈薄く〉なる、との言葉に左記子は難解さと共にどこか腑に落ちるものも感じていた。 ここで生活する年月が増し加わるごとに、どこかから遠のいていく感覚。その感覚はごくたまに左記子を不安にさせることもあったけれど、さしたる害もないように思えたので気づかない振りをして遣り過ごしていた。 時間の、奥。 それが実在したとして、時間の奥なら移動が可能なのだとして。 左記子ははっとした。 では、“時間の奥と共に移動している人間”の時間はどういう動き方をしているのだろう。 時々感じる空間の切れ目のような違和感。外の世界と同じようでいてどこか違っている毎日の流れ。ここに長らく|留《とど》まっていたり、それに関わっていることによって何らかの影響を受けている可能性があるのは自然なことのように思えた。 「それは、薄い、というのは」 これは気のせいだと思っていたんですけど、左記子は祖母が編んでくれたレース編みのストールのことを思う。 「傷まないんですよ。ここで働き始めた時に持っていた服とか、鞄とか、とにかく持ち物全般が。だから買い足す必要もなくて、電車を降りようと思ったことも一度もなかったんですけど」 ああ、そうですね、遠藤はそれが大した事でないように肯定する。 「そういう事も含まれています。数時間とか、せいぜい数日ならさしたる変化もないのですが。ここはいわば時間が混線しているのですね。不可視のものは影響を受けません。劣化しませんから。あなたも思考がフリーズしてしまうような事はなかったでしょう? 内面はちゃんと動くので成長できるのです。けれど、どうやら可視物質は“混乱”するようです。混乱するとどうなるか。そう。フリーズ状態になる。止まってしまうんです」 ですから、傷まない、遠藤は皺ひとつない自分の制服の袖口を示した。 「つまり、ここの秩序は現実世界とは異なる独自の法則で動いている。本来人間は使用することのない空間でしたから。ですから長期連用していると現実から切り離されてしまう危険性があります。現実から切り離される――〈薄く〉なる訳です」 そこでは多分、時間の流れも違うのだろう。 「うそ」 薄くなる。現実の世界から、薄くなる。独自の法則で動いている空間。そこに長期間滞在している左記子。可視のものはフリーズする世界。 「じゃあ、」 そこでようやく把握する。思わずがたりと立ち上がる。 「もしかして私、歳を取っていないんですか」 遠藤は驚いたように左記子を見上げた。 「あなたは歳を取りたいのですか」 「そういう問題ではないんです! 」 そういう問題じゃない、左記子は堪らず顔を両手で覆った。 「だって、私、だって――。 それじゃあ、人ではないみたい」 高校の時と何一つ変わらない顔、とは思っていた。でも、まさか全く変化していないとは。取り乱した左記子は、矢継ぎ早に遠藤を責め立てた。 「どうして私をここで働くように誘ったんですか。だってこんな、“時間の奥”なんて、“現実が薄くなる”なんて普通じゃない。どうしてわざわざ私を――」 いや。私だからか。 「私を選んだ理由はそれですか。社会とも学校とも家族とも繋がっていない、住居にも縛られない、つまり、私が社会から消えても問題にならないと判断して、それで誘い込んだんですか」 悔しかった。悔しいという感情すら、久し振りだった。“左記子ちゃん”なら、こんな醜く取り乱しはしないから。 いや、そんなに驚くとは――左記子の反応は、遠藤にとって意外なものらしかった。遠藤は立ち上がり、左記子に再び頭を下げた。 「いや、済まない。私の感覚は気づかないうち常人と大分ずれてきてしまっているのかもしれません。私としては、単純に毎日通う所のない方のほうが本人の負担が少ないと思った、それだけのことなのですが。それに、あなたはわざわざ深夜の皆橋駅にまで来られていた事もあったのでてっきり興味をお持ちだと。一方、私は車内販売員が欲しかった。それで、お互いにこれは丁度良いと早合点してしまいました」 律儀にきっちり腰まで曲げて謝る遠藤を見ているうち、なんだか力が抜けて、先程までの興奮はどこかへ行ってしまった。
時間について何十年も研究したと、彼は言った。 その『何十年』とは、正確には一体何年なのだろう。というより、年齢は幾つなのだろうか。 彼もまた左記子と同じように肉体の時間がストップしているのであれば、それは見た目で推し量れるものでない。一般社会の常識や概念や、普通に生きている人間の感情や、そういった感覚が薄れてきても仕方ない程の時間を経験したのかもしれない。 「遠藤さん」 頭を上げて、座ってください――左記子は自分も元の座席に腰を下ろした。 「私も、ちょっと取り乱しました。びっくりして」 元の体勢に落ち着いた二人は、どちらともなく深く溜め息をついた。 「現実の時間にお戻りになりたいですか」
そうであれば、明日の夜ならお戻りになれます――掻き回された頭で、左記子は説明を続ける遠藤の口許をぼんやり見ていた。そして、この男の口の空洞は、ああそうだ、ブラックホールに似ているんだ、などと考えていた。
〔く〕
左記子が揺れると、隣町銀河も揺れる。 左記子の着ている淡いパステルカラーのワンピースのフリルもその度に細かく振れる。 手に持ったポストカードを持て余して、ときおり無為に撫でたりした。
「何にせよ、移動が必須なのですよ」 左記子は昨夜遠藤が語った言葉の端々を繰り返し思い出し、再生させていた。 ATTを作動させるためには常時の移動が条件なんです、そう遠藤は語った。 「停止していられるのは長くとも五分まで。時間自体、常に移動する性質のものなので」 ですから基本的にこの列車は走り続けています、遠藤は続ける。 「例外はありますが。もし停車時間が長くなり過ぎた場合は、再び作動させなければなりません。最近で言えば、あなたをここにお誘いした時がそうでした」 詳しい原理は分からないが、線路から線路への移動は深夜に行われるのだという。現実の電車が運行している時間帯はその電車と“重なって”同じ線路を走るのだそうだ。左記子が販売員として相手をしていた客は、稀にその現実の列車からこの列車と“重なって”しまう人たちだったのだと遠藤は明かした。だから、一見ごく普通の電車に乗ったつもりになっていても、実はATTの管理するこの列車に乗り込んでいた、ということはよくある事なのらしい。説明されても正直よく分からなくて、左記子は理解することを諦めた。もうただ生じている結果だけ受け入れることにした。 「それでですね。オリジナルのポストカードを販売することを思い付いたんです」 せっかく当電鉄においでになった記念に、などと呑気なことを珍しく生き生きとした表情で語る。自身が言うように、遠藤の感覚はもう常人と大分ずれてきているに違いなかった。それともこの人は元々若い頃から風変わりな学者肌の人物だったのだろうか。 ひとつだけ、左記子から尋ねたことがあった。時間の奥で、過去にさえ行くことの出来るこの列車では、降車したら過去の人物に会いに行くことができるのかと。高校生のままの梅渓ハツに会ったように。 母のことを考えていた。 母の過去を見たかった。母が何を見、何をして、あのような状態になっていたのか。外見以外で左記子のことを気に掛けている素振りを示したことはなかったか。どのような状況であの人は死に至ったのだろう。 もしそれを知ることができたなら。その真実が良くても悪くても、左記子は“左記子ちゃん”を捨てることが出来るのではないかと、密かにそんな期待を抱いていた。 「それは出来ないのです。その行為はたとえ奥行きでも時間の法則に逆らうのです」 遠藤は残念そうに首を振った。 「ましてやそこの人と接触したり話したりなどは到底出来ない。列車が過去を走っていても、降りればたちまちそこは現代になってしまう。申し上げたでしょう、移動が必須なのだと。接触できるのは当電鉄に乗って来られる方だけです」 遠藤は他にもあれこれ時間の奥行きにまつわる細かなことを語り続けた。過去の“奥”には行けるが未来には行けないこと、未来はその時になるまでは存在しない性質のものであること、したがって時間軸の図に示したY地点とは実際には未来ではなく現時点そのものであること。“奥”の時間の左右の移動は可能だったが上下の移動は未だに成功していないこと。 そうですか、と左記子は笑った。
そういえば髪もちっとも伸びていなかったな、と今更気がついた。久し振りに窓ガラスに映る自分の顔をまじまじ眺めた気がする。手にしたポストカードは、記念に、と遠藤が手渡してくれたものだ。今までずっと言われるがまま販売していたのに碌に見もしなかったこの私鉄オリジナルのポストカード。 漆黒の背景にランダムに散らばる白っぽいハイライト。車内から撮った、夜の街の風景なのだという。つまり、隣町銀河だ。こうして枠がつくと、夜空とも宇宙とも見分けがつかない。窓の外と見比べても同じ。上なのか下なのか、分からない。 今夜限りで、左記子はこの私鉄を降りる。 今振り返ってみても、どうしてこのような体験ができたのか不思議でならない。これからもきっと一生、記憶に鮮烈に残り続けるはずだ。 今夜もまた、列車は皆橋駅に停車するそうだ。遠藤によると、深夜の皆橋駅から下車するのが一番スムーズに現実の時間に戻れる方法なのらしい。そしてまた、現実の時間で生活する人間が確実にこの私鉄に乗ることのできる駅なのだそうだ。つまり、唯一深夜の無料開放を行なっている駅。左記子が初めて乗った高校生の時は、終点まで行って戻ってくるだけだったけれど。今もそうなのだろうか。 「地元の人はどれくらい、皆橋駅が深夜に無料開放することを知ってるんでしょうね」 左記子は自分の座っている位置から二人分ほどスペースを空けて腰掛けている遠藤に話し掛けた。 「さあ。大々的に宣伝してはいませんからね。時々、駅前に立ってご案内することもありますが」 ロングシートの座席に電車の振動がダイレクトに伝わってくる。遠藤の言葉に左記子は思わず苦笑した。あれは『ご案内』しているつもりだったのか。あの時は恐ろしさしか感じなかったけれど。 「どうして、皆橋駅だったんですか」 尋ねると、遠藤は一瞬言い淀んだ。 「あの町は私の生まれ育った町だからです」 この歳になって情けない話ですが、帽子のせいで表情は読み取れないが、照れているような口ぶりで遠藤は続ける。 「未だに過去に囚われているところがあるのでね。あなたに車内販売をお願いしたいと思ったのも、車内販売のセット一式も、あの上品な制服も、まあ、言ってしまえば私の美しい思い出の再現なのです。あなたに付き合わせてしまいましたね」 車両が定期的に心地よいリズムで揺れる。この“時”がいつまでも続けばいい、それが願いだったと遠藤は言った。恐らく、その中にはもっと複雑な思いも含まれていたのだろう。 過程で失うものはきっと幾つもあって、それでもこれだけ時間について研究した。成果も出した。けれど、遠藤の願いは果たして叶ったのだろうか――そんな事を思ったけれど口には出さず、代わりに、じゃあ私達は同郷だったんですね、そう応えるに留めた。
「もう直ぐ到着ですね」 朗読するような単調さで遠藤は言った。時刻は二十四時四十七分になっていた。皆橋駅到着まであと二十分程だ。 「最後にお訊きしてよろしいでしょうか」 「何をでしょうか」 もう随分この人の風変わりさには慣れていた。 「なぜ、戻りたいのですか」 遠藤の言葉選びは単刀直入だった。 なぜ。 動揺して正面を向いたら、窓ガラスに眉間に皺の寄った左記子が映った。 「それは」 遠藤の方に顔が向けられない。 「――この状態が自然に逆らうことだと思うからです。ここに居続けると人としての資格を失うみたいに思えて。正規の世界で正規の時間を生きる。当然の権利を当然のように行使したいだけです」 それが、本来の、本当の私だから、それだから、私は。 ――本当の私? 何を言ってるの? ねえ。 “左記子ちゃん”が冷笑したような気がした。本当の左記子などどこにいる? 今までどこにいた? ――左記子ちゃん。左記子ちゃん。 クラスメート達が左記子を呼ぶ声がぐにゃぐにゃにねじけて混ざり合う。カラカラと左記子の内側で乾燥した欠片が騒ぎ立つ。内臓がざらざらする。 「ここでの生活は、あまり快適ではなかったでしょうか」 「そういうことではないんです。夢見た通りの生活でした。楽しかったですよ」 なぜ間際になってこんな気持ちになるのだろう。遠藤はなぜこんな気持ちにさせるのだろう。 「降りたら、どうされるのですか」 「祖母に会いに行きます。それから考えます」 そうですか――遠藤は静かに頷いた。 「要するに、私のようになりたくないといったところでしょうか」 それが良い、初めて見た遠藤の笑顔が自虐染みたものだというのが、少し申し訳なかった。 これがここから最後に見る景色。 隣町銀河。 美しいものになろうとして、美しいものを求めて、自分を美しいと認めたくて。左記子はここを選んだ。左記子は一体どうしたかったというのだろう。どこからの是認を得たかったのだろう。隣町銀河に何を求めていたのだろう。隣町銀河は、左記子と違って美しくあるのに理由なんかない。ただそこにいて、ただ美しくある。自己満足も、周囲の賞賛も必要ない。それを分かっていたからこそあのとき燥いだと同時に、ぎりぎりと手摺を握り締めたのだ。 あの時と、何か変わっただろうか。
電車がゆっくりとしたリズムを刻みはじめる。皆橋駅に近づいているのだ。 やがて電車は皆橋駅に到着した。明かりすらついていない。無料開放しているというのに、素っ気ない。 最後は笑顔で、と決意してキャリーバッグの持ち手を握った時だった。 規則的に並んだホームのベンチから人影が立ち上がった。 「これは」 先に反応したのは遠藤の方だった。人影は電車の扉の奥へするりと入った。 「梅渓さん」 見紛う事のない高校時代のままの梅渓ハツは、前回と同じような位置の座席に慣れた様子で軽やかに座った。 「先日見たとおっしゃられたのは、あの方ですか」 左記子は首の動きで肯定する。 「通いで来られているのかな。珍しい」 梅渓ハツ。ずっと左記子に構わないで難解そうな本を黙々と読んでいた、梅渓ハツ。この私鉄を降りたら二度と会うことがない十代の梅渓ハツ。 「遠藤さん」 遠藤が立ち上がった左記子を見上げる。 「この列車内で会うのなら、接触も会話もできるんでしたね」 ええ――、と遠藤が答えるや否や左記子は持っていたポストカードを座席に置いた。 「やめます、この列車降りるの」 呆然とする遠藤を後にして、左記子はハツのいる車両に向かって歩き始めた。 途中で窓ガラスに映る自分を確認する。 少女だけに許されるようなデザインのワンピース。大丈夫、ちゃんと似合っている。
そして。 内面に纏った“左記子ちゃん”は、まだ左記子に似合っているだろうか。
〔じゅう〕
梅渓ハツ。 彼女にだけは左記子の虚構が見透かされている気がして怖くて仕方がなかった。けれど矛盾して、ことある毎に近づきたいと密かに願った。どうしてそう思ったのか、今なら分かる。 左記子はただ『友達』が欲しかったのだと。
電車は滑らかに運転を再開しはじめた。くん、と表と奥の時間の距離が限りなく近くなるのを感じる。もうほんの僅か近づけば融合するほどに。やはりここは特別な場所なのらしい。夜の皆橋駅は、もう一つの世界への入口なのだ。 このタイミングで電車を降りなかったことに後悔はなかった。むしろ後悔するのは降りた場合だったかもしれない。それは、梅渓ハツが現れるか現れないかに関わりなく。 自覚したのだ。 決着が、まだついていない。 ハツに接触するつもりで衝動的に移動してきたけれど、彼女の頭が見える辺りの位置で足が止まった。いざ声を掛けようとすると、どのように切り出せばいいのか分からない。 隣の車両からしばらく様子を伺うことにした。 ハツは自分が覗かれていることに少しも気づく気配がない。いかにも真剣な目つきで窓の外を眺めている。全身全霊を傾けて、この列車内の空気感を味わおうとしているかのようだった。 左記子はその姿を意外な思いで見つめた。クールな印象のハツが、他のことを一切手放しにしてただ一つのことに集中している様子は、学校では見たことがなかった。在学当時は大人びた少女だと思っていた。でも今、常に張り巡らせていたバリアを解いて座席の端にぽつねんと座っているさまは、思い出の中の彼女より幾分幼い。 シートに体を預けて揺られるがままになっていたハツは、やがて首を垂れ眠り込んでしまった。 普段から非日常なこの場所で、さらに増し加えてこの状況はあまりにも非日常すぎた。無防備に眠る十代の梅渓ハツとそれを覗き見ている左記子。真夜中の、人気のない電車の中。そして隣町銀河。 今、ハツと接触したら。 たぶん、何かが、変わる。 自然と立ち上がった。何を話そうかなどと、決めなくてもいいのだ。どうあっても左記子は左記子で、ハツはハツであることに変わりはない。 ハツのいる車両に移ったあたりで、彼女は微睡みから醒めたようだった。 「梅渓さん? 」 声を掛けた瞬間、“左記子ちゃん”はすっかり左記子の中に舞い戻った。ぼんやり頭をさすっていたハツはぎょっとしたようにこちらを見た。 「あのね、」 構わず笑顔でハツのすぐ隣に腰掛ける。 「時々乗るの、私。電車とか好きで」 “左記子ちゃん”ならすらすらと言葉が出てくる。人の好さそうな懐っこい笑顔を浮かべてこうやって自然に相手との距離感を埋められるのは、“左記子ちゃん”の特権だ。ハツは会いたくなかった、というような表情で怪訝そうに左記子を一瞥した。プライベートを知られたくなかったのかもしれない。 けれども左記子の方は急速にハツに親近感を感じていた。深夜に一人で町を徘徊する。それは、十七歳の左記子もやっていたことだった。皆橋駅の無料開放のことを知っているということも同じ。そして、先ほど夜の電車に全神経を集中させている姿を見てから、ハツに対する感想が変わり始めていた。 今までは憧れに近い感情を持っていたに過ぎなかった。でも、もしかしたら素の左記子の性質は、梅渓ハツの持っているそれに近いのかもしれない。梅渓ハツという少女は、もうひとつの左記子を引き出せる。 もうひとりのわたし。 そ、とだけ応えたハツは自分から何か話を振るつもりはないようだった。教室で見ていた姿と同じ。私に構わないで、という言葉によらないメッセージ。 「梅渓さんも電車、好きなの? 」 知っている。あんな表情をするのだ。嫌いな訳がない。 「理由とか必要? 」 「そういう訳じゃないけど」 彼女は手強かった。隙を見せない。ふと足元に目を遣ると、ごつごつとしたハツの黒いサンダルが目に入った。左記子の華奢なデザインのものと随分違う。ああいう無骨な印象なものを、左記子は持ったことがない。左記子の身に付けるものは全て母が買ってきたものだからだ。 母は気まぐれに家へ顔を出す度に『お土産』と称して左記子に洋服やら小物やらを充てがった。着てみて着てみて、と急かす母はいつも上機嫌だった。 いかにも少女らしさを強調させるそれらの洋服が全て高価なブランドのものだということは、知っていた。シンプルで繊細な色合い、形が綺麗で甘過ぎない。似たようなものでも、安い量産型のワンピースは生地が薄ぺらだったり装飾が過剰だったり短か過ぎたりするからすぐに分かる。良いなと思ったものは思いの外高いという類のもので、母はいつも躊躇なくデザイン性の方を優先させるのだった。母のお金の出どころは不明だったが、敢えて考えないようにしていた。毎回服を買ってくる理由も。どうあれその服たちは、より“左記子ちゃん”らしさを完璧にさせた。左記子も左記子で、母のセンスは悪くないし、ものは良いので、と言われるがままに与えられた服を着ていた。 一方、ハツの姿はいつもシンプルでボーイッシュだった。左記子もシンプルといえばそうだが、系統が違う。ハツの場合は本当に服の買い方からシンプルなのだろうと思わせた。ほぼ毎日ジーンズにTシャツ。しかも左記子の母の嫌うファストファッションのぺらぺらのTシャツだ。通学用のリュックも靴も、どこにでも売っているようなものだった。 けれどもなぜかハツは人目を引いた。ハツのしなやかな腕や脚や、着ているものでなくハツそのものに目がいくのだ。ハツが屈んだときに生地の薄いTシャツから浮かび上がる背骨の並びを見るのが密かに好きだった。 ハツは、左記子とは別の意味で少女らしかったのかもしれない。安い服でも魅力的に野暮ったさを感じさせずに着ることができるのは、少女だからこそだ。羨ましかった。べつに左記子だってそういう服装で良かったのだ、と今になって思う。歩きやすいサンダルや動きやすいジーンズでどこでも好きな所へ行けたならそれで良かったのだと思う。それが出来なかったからこそ、今になって拗らせて、こんなにもややこしい事態に陥っているのだ。 「親は? 」 唐突に、ハツが話しかけた。不意を突かれて左記子は顔を上げる。こちらを向いた不機嫌そうなハツは、だから、と溜息をついて更に話しかけた。 「久貝さんの親は久貝さんがこういう事してるの知ってるの」 呆れているような、心配しているような口調。左記子の事情を気にしてくれているのか。 でも、そんなのは。 ――自分だって。 自分だってどうしたというのだ。年頃の女の子がこんな時間に出歩いて、こんな怪しい電車に乗り込んで。 見つけた、と思った。ハツに入り込む為の、 ――隙。 「――梅渓さんは? 」 思わず顔が緩んだとき、がたりと大きめの振動を感じた。
左記子を見返す、ハツの瞳が揺れていた。
〔じゅう いち〕
遠藤は根拠のない不思議などないと言うけれど、左記子にはそれがよく分からない。
説明を受けはしたけれど、遠藤の発見した時間の法則など、左記子にとっては“不思議な話”としか捉えようがない。梅渓ハツに関することも同じで、ハツが当然のように皆橋駅の深夜の無料開放のことを知っているのも、いまの状態の左記子がハツと再会して一緒に夜のひとときを過ごすのも、それが可能なのも左記子にとってはすべて不思議で仕様がないことだった。 きゅるきゅるとワゴンが鳴る。 ハツと接触した夜から三日目になる。相変わらず左記子は電車での生活を続けている。 本当によろしいのですか、と遠藤は眉を寄せた。良いんです、私が望んだことですから、そう左記子は返答した。確かに、自分が徐々に文字通り現実離れしていくことに恐ろしさもあった。でも、逆に言えばそれ以外はここでの生活に満ち足りているのだ。左記子が自分はもう遠藤と同類、化け物じみた存在だと自覚して開き直れば良いだけの事だ。 これからも遠藤さんの『美しい思い出』の再現を続けるつもりです、そう冗談めかしたら、遠藤は神妙な面持ちでにこりともせずに深く深く頭を下げた。 今夜も、ハツに会いに行く。遠藤の推測通り、彼女は連日夜の駅へ通ってくる。少ない会話のやり取りから、ハツの時間は今高校二年生の夏休みだと目処が立った。高校二年生の時にしか接点の無かった教師の名を、ハツがぽつりと口にしたからだ。機械的にワゴンを押しながら、思い出す。 ――古文。 好きな授業は何かと尋ねた時、ハツは前を向いたままうんざりした様子でそう答えたのだった。 意外、梅渓さんは数学とか科学とかのイメージがあるのに、と左記子が反応するとハツは酒田先生の授業が分かりやすいから、と付け加えた。 酒田先生。 十七歳の左記子も、酒田先生が好きだった。生徒との接し方に余裕があるのだ。五十代ほどに見える飄々とした雰囲気の女性教師で、美人という訳でもないのに脚だけはなぜだか羨ましいほどに色っぽかった。特定の生徒と仲の良い教師はよく見かけたが、酒田先生に限っては全ての生徒と満遍なく親しい。どの生徒とも小さな秘密を共有しているらしく、ときどき授業中に誰かに向けて意味ありげににやりと笑うことがあった。酒田先生は、ハツとも秘密の共有をしていたのだろうか。そう思うと少し悔しい気もした。左記子はまだ、ハツとの個人的な関係を築くことを許されていない。 言われてみれば、酒田先生の授業には印象的なものが多かった。特に思い出すのは『徒然草』の吉田兼好にまつわる先生の推論だ。心に浮かぶあれこれを思いのままに書き綴っていくと、書いているうちに狂おしい気持ちになってしまう、兼好は序文でそう書いている。“夢中になる”でも“心が研ぎ澄まされる”でもなく、狂おしいと。兼好をそれほどまでにさせる要素は何だったんだろうね、と先生は私たちに問いかけた。当然、私たちには難しすぎる質問だ。先生は一拍置いて、これはテストに関係ないし、私が思うだけなんだけど、と断りを入れて、“夜”だったんじゃないかと、そう言った。兼好を狂わせたのは夜だったのではないかと。兼好は夜な夜な『徒然草』を執筆していたのではないかと。「あんた達もそういう経験、ない? 」そうして思わせぶりに、にやりと笑った。 夜は、狂う。 左記子は今夜も、ハツに会いに行く。
ハツはいつもと同じ車両のいつもと同じロングシートの座席の端に座っていた。ただそこに座っているだけなのに、佇まいが絵になる。 「梅渓さん」 左記子もいつものようににこりと笑って彼女の隣に座ると、彼女は短く息を吐き出して軽蔑するような眼差しを向けた。 「私の事、助けてるつもりなわけ 」 「え? 」 「久貝さんから見て勝手に私が寂しいだろうとか決めつけて、優しくしてあげてるつもりなの」 ハツは淀みなく続ける。 「はっきり言って久貝さんがこうやって近づいてくるの、結構邪魔なんだけど」 ひとしきり自分の主張をすると、左記子から視線を外した。 左記子も正面を向く。ハツが自分の気持ちをぶつけて来たのは初めてのことだった。 揺ら揺らと。 時間の流れすら、揺ら揺らと。 ハツは少しづつ変わり始めている。そして左記子も。ハツの言葉は、その内容が辛辣なものでも、不思議と左記子を痛めつけない。ハツの表情がそれに影響しているのかもしれない。 そんな風に思っていたのか。ハツは左記子をそんなふうに捉えていたのか。ハツを“外れている子”と見なして朗らかな笑顔で悪意なく輪に入れてあげようとする、明るくて気のいいちょっとお節介なクラスメート。 ――なんだ、“左記子ちゃん”じゃない。 結局、ハツの目にも左記子は“左記子ちゃん”として映っていたのか。本当の左記子を見抜かれていると思っていたのは左記子の思い過ごしだったのだ。 なぜだろう。見透かされていなかったのだから安心してもいいはずなのに、ほんの少し失望した。 けれど、左記子の方もどうだろう。左記子だってハツをイメージのみで捉えてはいなかったか。卒業から時間が経ってこうして再び接触するハツは、あの頃と同じ印象で左記子の前に現れたか。 ――そうじゃない。 あの頃は本当に遠くから必死に覗くようにしてハツを見ていた。囲まれた大勢の友人越しにしか接触できなかった。手が届かない。だからいつの間にやらハツを無意識に神聖視するようになって――それじゃあ『左記子ちゃん教』と同じではないか。今こうして見るハツは、左記子が思っていたよりもずっと少女らしく、ずっと思春期で、ナイーブだ。 左記子の胸はカラカラと鳴る。もっと、ずっと、私たちには時間が必要だ。 ハツの隙間はすでに空いている。左記子はその隙間にもっと入り込んでいく。巧みに、滑らかに。そうして少しづつ、左記子の中にしがみ付いている“左記子ちゃん”を捨てなければ。 「そうじゃ、ないよ」 左記子は背筋を伸ばした。何が、ハツが反応する。 「梅渓さんが寂しそうとか、思ってないよ。そういう顔してないし。助けようとも思ってない」 「じゃあ何で」 ――来た。 「『理由とか必要? 』」 言ってやった。嬉しくてハツの顔を覗き込む。綺麗な目。白目の濁りが少しもない。 「梅渓さん、電車好きなんでしょ」 意味ありげに大きく目瞬きをしてみせる。 「それから夜が好き」 兼好をも狂わせた夜が好き。 「夜にはほんとうに力があるんだよ。古文の酒田先生が前に言ったの、憶えてる? あれは本当だよ」 夜には隣町銀河がある。左記子の心を騒がせる。宇宙なのか夜空なのか、上なのか下なのか。時間の表なのか奥なのか。 暗いからもうすっかり分からない。 「怖い?」 左記子は少し怖いけれど。でも、どちらかと言えば左記子はもう『怖い世界』の側の人間だから。 やがてハツは観念したように溜めた息を吐いた。 「もう好いよ。勝手にすれば」
左記子も笑顔とともに溜めていた息を漏らした。
〔じゅう に〕
夜の色は単純な黒色ではない。光の発色もまた。 だから、夜の色、光の色としか表現できないものなのだ。
そんな思いをぼんやり巡らせながらハツの隣で脚を揺らしている。色彩はたくさんあるからこそ美しいと左記子は思う。たとえば、自分の肌の色ひとつ取っても昼と夜とでは見え方が明らかに違う。陽光に当たって透ける髪の透明感のある色味も好きだし、絵の具では決して表現出来ない樹々の緑色も愛しい。『色』すべてに名前をつけようとするこころみは本来無駄な行為なのではないかと思うけれど、名前を全く付けないなら付けないで不便が生じるので仕方のないことなのだろう。 一方、ハツは左記子と全く逆の考え方を持っているらしかった。ハツが主張するには、色彩は限られている方が心地好いのだそうだ。服選びと同様、シンプルさを好むらしい。 「月明かりは好きだけど」 ハツは背中を傾けて頬杖をついた。 「月明かり? 」 「色味がまろやかになるから、照らされるもの全部が。色彩はその程度で良いと私は思う」 「だから夜の散歩をするの? 」 ハツはまるで聞こえていないように応えない。目を細めて、採点でもしているみたいに窓の向こうの光の色した隣町銀河をじっと見つめている。始めの頃より会話はできるようになったけれど、相変わらずハツはハツだ。左記子の問いかけに答えてくれるのは三回に一回がいいところだ。 不安にはならなかった。左記子にはハツの内側に少しずつ入り込めているという確信があった。心を全く開いていないという訳でもないと思う。ただ、梅渓ハツという娘は左記子が高校時代付き合っていた友人たちと比べて、非常に繊細で、そして少し捻くれているのだ。そんなことが段々に分かってきた。けれど、周りがどうあろうと流されたりしない。どんな場面でもハツはそのままでいてくれる。左記子みたいに、“左記子ちゃん”に頼りきって流されたりなんかしない。そのことを思うと、やはり変わらず胸が痛いほど憧れた。 「私も夜の散歩が好き」 だから左記子はハツに構わず独り言のように語る。 「完全に一人になれるから、落ち着けて。夏休みは特に日課みたいになってた」 ハツと同じ十七歳だった頃の自分を思い出す。一人になりたいのなら家の自分の部屋に篭っても良かったのだけれど、なぜかそれだと落ち着くことができなかった。何かから逃げようとするように、遠ざかろうとするように、いつの間にやら夜の散歩は左記子の習慣になっていた。遠藤と出会ってから先、その習慣も途絶えてしまったけれど。 「私の部屋ね、一階にあるの。だから抜け出すのは簡単なんだ」 学習机の一番下の底の深い引き出し。左記子はそこにサンダルを一足忍ばせていた。祖母は早く寝てしまう人なので、それを履いて窓から抜け出すのは容易いことだった。「梅渓さんはどうして夜に出歩くの」 ――どうして欠かさず夜の電車に乗るの。 ハツは多分聞いてはいない。聞いていて、よしんば返事をしてくれたとしても表面的な答えしか寄越さないだろう。いや、それを言うならそのことに関しては左記子だってそうなのだ。 なぜ夜の散歩をするの。なぜこの町から出たかったの。 なぜこの奇妙な生活を選んだの? そんなの、左記子だって教えて欲しい。それはただ電車での生活に憧れていたから、などという単純な解答ではなく。核となるものは何なのだろう。 左記子を、ハツを突き動かす動力ともいうべき核は一体何なのだろう。 ハツの隣で脚を揺らしながら左記子も彼女と同じ景色を見ている。ハツといると、他の人たちといる時のように気を張らなくて済む。クラスメートと一緒に過ごしながら考え事をするなんて、今までは出来ないことだった。
電車は折り返し地点の駅に到達しようとしていた。 この駅がここの路線の終点で、しばらく停車したのち折り返す。学生の頃、昼間の皆橋駅から乗って友人たちと一緒この駅まで来たことが何度かある。降りてすぐ下ったところに海があるのだ。広やかな砂浜のある穏やかな海辺なので、海水浴といえば決まってここへ来ていた。 海辺の町というのは来る度毎回新鮮な思いがした。 左記子の住んでいる町だって、電車で三十分でここに来れるのだから海からそう遠くはないのだけれど、日々目の届くところに海がある生活というのはやはり違うのだろうな、と感じさせる雰囲気があった。全てを飲み込んで中和してしまいそうな海の果てのなさに圧倒させられて、ときおり海中で左記子の足にぬるりと触れる正体不明の何かに対する未知を感じた。町の空気も独特で、潮風の影響なのか、どこか赤茶けたガードレールやアスファルトがノスタルジーな雰囲気を醸していた。 電車が停車した今、目の前にあの頃訪れたおなじ海があった。正確には、あるはずだ、と表現しなければならないけれど。外の総てが夜の色の今は、砂浜も波もアスファルトの赤茶色も見えない。見えないから本当のところは分からない。あそこに海が確かに存在しているのか、存在したとしても昼間とおなじ姿をしているのか。 ふと、夜の海はどんな様相をしているだろうと思った。生活圏の中に海がない左記子にとって、それは未知だ。 ――見てみたい。 ハツとなら。 ハツと黙って、夜の海をいつまでも眺めたい。その正体を確かめたい。 ――でも。 実行できるチャンスはもうそれほど残っていないかもしれない。左記子はいつまで十七歳のハツとこうして過ごしていられるだろう。彼女と再会して十日ほど経った。夏休みの期間は残すところあと半分ほど。この休暇中はこうしていられるとして、そのあとはどうなるだろうか。気まぐれなATTによって管理されているこの電車では、変わらずハツと会える保証なぞどこにも無いのだ。左記子とハツの関係性は確かに徐々に変わってはきている。でもそれだけでは。もっと何か。 ――だって、根本的なものはまだ変わってない。 “左記子ちゃん”だって捨てられていないのに。 証が欲しい。夏休みが終わって、もう二度とハツに会えなくなったとしても。時間に呑まれて、“左記子ちゃん”に呑まれて、自分が何者かすっかり分からなくなってしまわないための確かな導が、欲しい。 スカートの裾を固く握り締める。 電車が逆走を開始する。 ――賭けよう。 密かに決意した。左記子は、賭ける。ハツの夏期休暇最終日にすべてを投げ出して彼女に賭けよう。それなら、何も惜しくない。 心に決めたとき、何を思ったかハツがだしぬけに首を曲げて左記子の顔を驚いたように見つめた。咄嗟の声も出なかった。しばらくハツを見返して、どうしたの、とやっと返す。ハツはなぜか茫然としていた。左記子の胸の内を読んだのか。いや、そんなことは無いはずだ。たとえそうでないとしてもここは通常の常識が通用しない場所ではある。事実、この空間では正常な時間の流れも、熱力学第二法則さえも正常に機能していないのだ。ハツはこの電鉄の奇妙さに気付き始めているのだろうか。 梅渓ハツは、どのようにしてここの存在を知った? ハツも左記子と同じように“薄く”なり始めているのだろうか。 穏やかに運行を続ける電車と対照を成すように、左記子の内面は忙しく掻き回されていた。
そして、それなのに最後に残ったのは、先ほど目に焼き付いたハツの柔らかそうな頬の皮膚の肌理のこまやかさだった。
〔じゅう さん〕
深呼吸する。 深く、深く。 そうして願う。 左記子と世界が、深く美しいもので満ちるよう願う。
芸術品の鑑賞でもするように端正な顎の流線を横から眺めていたら、その唇の隙間からふふ、と息が漏れた。ハツの笑い声を初めて聞いた。 「思い出し笑い? 」 尤も、左記子に向けて笑い掛けた訳ではないのだろうけれど。 「そう 」 なにを思って笑ったのだろう。左記子が本当は十七歳の左記子ではなくて、日々ファンタジー漫画みたいな生活をしていて、尚且つそれに囚われていると知ったなら、同じようにハツは笑ってくれるだろうか。彼女は相変わらず前を向いたままで、相変わらず目線を合わせようとはしない。 毎晩のようにここでこうして過ごしていると、これが日常なのだと思わず錯覚してしまいそうになる。電車で生活するようになって、安らぎと興奮が手に入って、それはそれで充分幸せだと感じていた。けれどその生活に新たにハツが加わって、そうしたら欲が出てしまった。付かず離れず、分かりやすい優しさも理解も示さないハツだったけれど、左記子にはその距離感が程良かった。近すぎると“左記子ちゃん”が左記子を押し退けてしまうから。でも、この心地よい日々もおそらく今日までなのだ。 十七歳の夏休みが、終わる。 電車は平常通り穏やかな振動とともに進む。多分、左記子は『変わらないこと』にあまりに慣れ過ぎたのだ。だからこんなにも受け入れ難い。胸がカラカラ鳴って騒々しいので手遊びをして気を紛らす。 「夏休み、今日で終わりだね」 「うん」 「明日から学校で会えるね」 「うん」 会えるのはまだ夜のハツを知らない十七歳の左記子――“左記子ちゃん”――だけれど。素直に左記子の発言の一々に応えるハツは、心なしかいつもと違ってしおらしい。だから少し、油断してしまう。 「あのね――」 梅渓さん。本当はね。 本当は左記子はね。 別に、今の左記子の事情を明かしてはならないという決まりはない。遠藤にも特に注意されているわけではない。けれど、ただ左記子は恐れたのだ。ハツが左記子の話す何らかを受け入れなくて、左記子を軽蔑するかもしれない可能性を恐れたのだ。 「私、学校が始まったらあんまりここへは来ないと思う」 「そう」 「ちょっと寂しい」 「そう」 終わる。終わる。ハツと会える日々だけではなく。左記子の青春と。少女期と。 そしてほかのすべて。 今夜はハツに総てを賭ける日。
電車は少しずつ終点に近づいてきていた。 ゆるゆると泳がせていた自分の脚を見つめながら、電車の振動が段々にゆっくりになっていくのを感じ取る。たぶん、外にはもうあるのだろう。 ――海が。 窓の外を睨む。昼間は何処までも続き、ひたすら美しく圧倒的だった海。今は暗くって見えやしない。 「梅渓さん」 いよいよだ、と思った。 「お願いが、あるの」 ハツはゆるりと左記子の方へ顔を傾けた。 「停車したら、一緒に降りない? 一度見てみたい処があるんだ」 「どこ」 彼女は眉根を寄せてそっと問う。 「あそこに海が見えるでしょう。そこまで行きたい」 ――ハツと並んで、夜の海の正体を確かめたい。 「いいよ」 あっさりとハツは承諾し、次の瞬間軋轢音をたてて電車が停車態勢に入った。
どうなるのだろう。 このドアを開けて、一歩外へ出たなら左記子はどうなるだろう。 その瞬間の内にいま左記子を取り巻いていたものはすべて溶け去って、本来の経過時間の“表”に戻るだろうか。ハツも他の何もかも、置き去りにして。それとも予想も出来ないような何かが起こってしまうのだろうか。浦島太郎の竜宮伝説で太郎が玉手箱を開けたときのように、いっぺんに老け込んでしまったり、そういう可能性もあるのだろうか。遠藤は左記子が戻る心積もりでいた時、深夜の皆橋駅から戻るのが一番スムーズだと言って手はずを整えてくれた。では、何らかの準備もせずに皆橋駅でない駅から降りた場合、不具合が生じるということだろうか。 分からない。 分からないからこそ、賭けたのだ。 ハツと確実に接することの出来る最後の日である今晩、左記子の提案にハツが乗ってくれたなら、電車を降りてみようと思った。遠藤にすら何も相談していない。相談したならアドバイスなり反対なりしたかも知れない。だから、やめた。賭けはどうなるか分からないから賭けなのだ。そして、実行するかはハツの返事ひとつに懸かっていた。何事も無くハツと居られたらベストだけれど、もし外に出られて、そして無事だったら、その時はどんな状況になっていたとしても夜の海を確かめようと思っていた。 ハツがあまりにも簡単に肯定の返事をしたので、少しでも考えたりしたら躊躇して、足が竦んでしまいそうに思った。電車が完全に停車した瞬間、左記子はドアに駆け寄った。ハツも無言で左記子に倣う。 ――さよなら。 遠藤さん。心の中でそれだけ唱えて、手動のドアの窪みに力を込めた。 ドアが開いた瞬間、潮の匂いが鼻を掠めた。間違いなくここは海街なのだ。 そこに、海があるのだ。 重力にまかせて落下するように駅に降り立った。とつ、とサンダルが軽い音を立てる。何事もなくスムーズに降りられたように感じる。 振り返ると、先程と少しも変わらない電車と、そのドアから先程と少しも変わらない梅渓ハツが降りてきた。 きっと、これは夜だから。 明るくなったらどこかおかしなところに気が付くかも知れない。でも今は気づかなくていい、と左記子は海辺に続く階段をゆっくりと踏み下る。ハツと下る。 あくまでも目的は夜の海で、夜の海をハツと一緒に確認することだから。 階段をすべて下り終えると、かたい地面は徐々に砂浜の感触になった。そして左記子の足裏を柔らかく受け止めて、受け止め切れずに心もとなく沈み始める。華奢でお洒落なサンダルはここでは何の意味もない。砂に足を取られたそのまま、左記子はそこにサンダルを置いてきた。 ざわざわと、前方から波の音が聞こえる。 「昼間だって海なんか滅多に行かないんだけど」 言いながら、ハツを顧みる。月明かりが彼女を神秘的に照らすのではっとするほどに美々しい。 「――どうしても一度、夜の海を見てみたくて」 いつか彼女は月明かりだけで充分と言っていたけれど、その意味が分かった気がした。 ハツは左記子を追い越して先を進む。 その先には、夜の海。 波打ち際の手前で止まったハツに追いついて隣に並んで、左記子は思い知った。 その波音。存在感。 昼間の海は全てを呑み込んで中和してしまう生き物のようだと感じていた。でも、それどころではない。夜の海はとっくに生き物だった。怖いくらいに自由で、昼の海以上に境目がない。 未体験の事象に対する空想は、ときに狭量なものになってしまうことがある。 夜の海というのは、こんなに果てがないものなのか。 時間の流れも海の潮の満ち引きも、昼も夜も光も闇も。そして左記子とハツの生存も。 唇を噛む。初めて隣町銀河を眺めたあのときと同じ。カラカラと。 カラカラと胸の内が制御不能なほどに騒ぎ立って。その中に“左記子ちゃん”もいる。 すべてをリセットしたいと思っていた。そう思って生まれ育った町を出た。 落ち着きなく騒ぎ立つ全てを呑み込む生き物。 ――夜の海。 今なら、それが出来る。“左記子ちゃん”を永久にここに沈めることができる。 「海って夜に入ったら死にそうに思わない? 」 「思う」 ハツが即答するので笑った。でも、確かに波の先端で足先を舐められるだけで、引き摺り込まれるような迫力を感じる。 「私入る」 左記子の唐突な宣言にえ、とハツが向き直って完全に顔を確かめる前に歩き出した。 夜の海の様相を確認する事だけが目的のはずだった。でも、左記子はまんまと取り込まれてしまったのだ。ここでもまた、左記子は飛んで火に入る夏の虫だ。 ――ごめんね。 勝手で。左記子はずっとハツを巻き込んでいる。歩を進める。 海の入り口はもうそこだった。 「待って」 ハツが左記子を呼んだ。制止するようなら、応じない心積りでいた。走って左記子に追いついたハツは相変わらず月光の下でうつくしい。 制止はされなかった。 ハツは左記子と向き合って、私も入る――、そう告げた。
ハツとなら全く怖いとは思わなかった。 よく見えない分、聴覚や触覚が研ぎ澄まされて昼間の海より湿った砂の感触が心地良く感じた。波音も普段より明瞭にさざめく。 夜の海の際。十七歳の梅渓ハツと並んで立っている。 一歩進んだら、寄せる波が足首にまで及んだ。もう一歩進んで足の裏が砂に触れるまえに何故かよろめき、何かに引かれるようにして一気に海の深みに到達した。 何に引かれたのだろう。ハツはどうなったろう。そんな事を一瞬思ったけれど、何でも構わないと思い直した。 頭のてっぺんまで海に包まれた。 満たされる。 満たされる。 隅々まで海に満ちたとき“左記子ちゃん”が騒ぎ出した。食器が激しく割れるときのような音を立てて暴れまわる。 ――左記子ちゃん。もういい。もう退いて。 “左記子ちゃん”が退いたらその場所に、代わりに何を詰めようか。海水はそれに適うだろうか。 ――左記子なんか、見た目だけのくせに! それしか取り柄がないくせに! ――知らないから! ――私がいなくなって、困るのは左記子なんだから! “左記子ちゃん”が左記子の内側で精一杯の抵抗をしている。でも、気にもならない。 薄目を開けてこっそり海の正体を覗こうとしたら、細かな気泡が睫毛をかすめて視界を妨害した。 深呼吸する。 深く、深く。 入ってくるのは空気ではなく、海水でもない。 入ってくるのはもっと。
願う。
左記子と世界が、深く美しいもので満たされますように。
〔じゅう し〕
目を開けたら、そこで隣町銀河が揺れている。
左記子は何事もなかったかのように電車に乗り続ける生活を繰り返している。昼は数時間車内販売をして働き、残りの時間は景色を見ることに費やす。以前と全く変わらない。 あのとき、確かに左記子は十七歳のハツと共にこの列車を降りた。 駅に降り立って、砂浜を歩いて、海辺まで行って、海中に潜り込んだ。夢ではない。それは実感として|確《しっか》と残っていた。現に、左記子の胸の内の乾燥したような破片がカラカラ鳴ることはもう無かったし、“左記子ちゃん”は二度と姿を現さなかった。当然だ。あの夜の海で海中深くに沈めてきたのだから。 なのに、この列車に戻ることが出来たのは多分遠藤のお陰だ。以前ATTが作動し続けるには五分以上の停車は避けなければならないと聞いた。左記子とハツは優に一時間以上は海辺にいたと思う。だから、夜の海から戻ってきたときそのまま電車が待っているというのは有り得ない事なのだ。彼が何らかの調整――恐らくATTの停止と再稼働――をしてくれたのだろう。 あれから数日が経つ。左記子の予想通り、夏期休暇を終えたハツはもう夜の電車に乗っては来なかった。尤も今はこの列車は時間の表とは距離があるところを運行しているらしく、夜になっても皆橋駅のあるのとは全く別の路線を走っている。 たとえ遠藤がATTの動作を調整してくれていたとしても。左記子は思考を巡らせる。 彼が操作できるのはあくまで電車と時間に纏わる事だけだ。だから左記子の肉体に関することはまた別問題だろう。きっと左記子は普通の人間と認識されないほどに現実離れしてしまったのだ。そうに違いない。何の変質もない自分の身体を見て改めてそう思う。見た目の変化も成長も劣化もフリーズして、剥製のようになってしまった左記子は、だから物扱いされて時間の表から奥へ何事もなく戻って来られたのかもしれない。 いよいよ左記子は本当の化け物になってしまったのだ――そんな風に得心した。
「遠藤さん」 販売用の軽食を携えて車両にやってきた遠藤は左記子の声に反応して動きを止めた。 遠藤は左記子のプライベートに決して口を挟まない。毎夜ハツと過ごしていた時も何も言わず、どういうつもりでそうしているのか尋ねてくることも無かった。ハツと夜の海に飛び込んだ、夏休み最終日の翌日でさえもそうだった。単に寡黙なのか、それとも彼なりの優しさなのか。どうあれ、左記子はそれに甘えてハツのことや彼女と電車を降りたことについて何も語っていなかった。お互い事務的な会話しか交わさず今日まで来てしまったのだ。 「遅く、なりましたけど」 何も言っていなかったことに気後れして、言葉に詰まりながら続ける。 「ありがとうございました」 ――あのときのこと。 全部、知っているんでしょう。 左記子は深く頭を下げた。 「電車を止めてくれて。待っていてくれて」 「ああ――なに、そんなのは」 そんなのは大した事ではないのですよ、とぎこちない動きで遠藤はそわそわと応じた。 「あなたは当電鉄に欠かせない従業員ですから」 くすりと左記子は笑った。遠藤の動揺ぶりを見て肩の力が抜ける。 「いいえ、助かったんです。後先考えていなかったので。それと、知っています」 「はあ」 「遠藤さん、ここへは通いで来ているわけでは無いんでしょう? ずっとこの電車に住み込みで働いてる。私と同じ」 今度こそ遠藤の動きは完全に止まった。 「たぶん私に不安な思いをさせないためだったんですよね。先頭のコントロール室のあたりに住んでいるんでしょう? 」 「はあ、まあ、いや―― 」 気付いておられましたか、と遠藤は無駄に帽子を直したりした。伝達力がどうにも不足しているので、多分気付いておられないかもしれませんが――、遠藤は躊躇した様子で付け加えた。 「あなたには申し訳ないことをしたと、私なりに思ってはいるのです。最初の時点で説明不足だったと。そしてあなたはかなり薄くなってしまった」 遠藤は“薄い”という表現を好んで使う。言われる度に、左記子はその意味合いをまだ正確に把握できていないような気になる。 「あのときは下車されてから一時間以上戻って来られなかったですし、降りた駅も皆橋駅ではなかった。けれど、皆橋駅からならそれ以前も、五分以内で降りられていたことは数回あったでしょう? それなのにあなたはクラスメートの少女と問題なく接触出来た。通常の人間ならそうはいかないんです」 「短時間で、皆橋駅でもですか」 それだけだったら問題ないと思っていた。 「そう。最初に言ったように電車の外は時間の『表』が支配している。『奥』の時間を利用しているATTとは基本的に相容れないんです。ですから、あなたがもう時間に認識されない程に薄くなっているか、あの少女もどこか普通でないのか……。ですからその、申し訳ないと思いまして。 あなたがそこまで、私と同じ、」 「分かっています」 不思議なほど心は穏やかだった。 「とっくに受け入れているんですよ、前にもそう言いましたよね。気に入って自分で選んだ選択なんです。だから、遠藤さんが責任を感じると――困ってしまいます」 “左記子ちゃん”ではない笑顔は後ろめたさのない心地良さだった。目を瞬かせて左記子の目の前に立っているのは、時間の法則にもはや見捨てられた化け物。左記子自身も化け物。 それで好い、と思えた。
目を開けたら、そこで隣町銀河が揺れている。 逆に、左記子は永遠の不変を手に入れたのだ。若さも失わず、経済的な心配もない。多くの人が望んでも手に入れられないものを手に入れたのだ。そんな事を思いながら揺られている。 もはや自分が受け入れられるか不安で他人のために取り繕う必要もなく、左記子は生身の左記子として日々を過ごせる。だから幸せ。 「――だから幸せ」 確かめるように発した声は電車の振動音に掻き消されてしまった。 どうしてだろう。 左記子はそわそわと落ち着かず、深く寄りかかっていた背もたれから起き上がって身を伸ばした。 これ以上何を望むだろう。憧れも不老も手に入れて、重荷だったものも先日手放した。それから、奇跡としか思えないような綺羅綺羅しい経験をした。 ――梅渓ハツ。 在学当時近づきたくて堪らなかった梅渓ハツと年齢もそのままに再会して、付かず離れずのの濃密で特別な時間を過ごした。二人で夜の海深くにダイブした思い出はたぶん左記子の人生のハイライトになる。 ――私がいなくなって、困るのは左記子なんだから! あのとき、最後の足掻きで“左記子ちゃん”はそう捨て台詞を吐いた。 本当に捨て台詞だったろうか? ぱたた、と突如膝の上に連続してなまぬるい滴が落下した。 ――なんで? 左記子は呆気にとられて頬に伝った涙を確かめた。 どうして泣いているのだろう。泣いたりなんかするのだろう。 ああ、違う。おかしくなんかないのだ。これが本来の左記子なのだ。 これまで何年も、泣くことなぞなかった。それは“左記子ちゃん”が左記子の本当の感情を麻痺させてカバーしていたから。だからやっていけた部分もあったのだ。これからは全部独りで胸のひりひりに対処しなければならないのだ。剥き出しの左記子のまま。 自分を誤魔化すことは、もう出来なかった。一度それに気づいてしまうと歯止めが効かず涙が溢れてくる。 本当は。 ――足りない! 足りない! この痛いのはなんだろう。どうしたら治まってくれるのだろう。 決着なんか、まだ全然ついていなかった。“左記子ちゃん”を捨てただけじゃ全然駄目だった。埋まらなくて。左記子の中身が深く美しいもので埋まらなくて。 どうしてみんな左記子の前からいなくなっちゃうの。どうして勝ち逃げみたいに左記子の事を置いていっちゃうの。どうして左記子の事、好きになってくれないの。 ――左記子はこんなに頑張ってたのに! 小さな子供がひとりでこっそり泣くときのようにいつの間にか身体を丸めて低いうなり声を上げて泣く。どうしてこんなに胸が締め付けられるのだろう。一体何に傷ついているのだろう。それさえ分からず、ただ左記子は夢中で泣きつづけた。
がら、と近くの車両のドアの開いた音に気づいて左記子ははっと顔を上げた。いつ停車したのか、電車は小規模な駅に停まっていた。 皆橋駅だった。 電車は再び皆橋駅のある路線を走っていたのだ。しゃっくりあげながら乱暴に顔をこする。ドアを開けたのは誰だろう。気になるけれど、顔を見られたくない。 やがてドアの閉まる音がして、電車が動き出した。左記子はそわそわと腕をさする。そしてかすかにこちらへ向かう跫に気づいて、硬直した。 前触れもなく乱暴に車両を繋ぐドアが開いた。 「――やっぱり」 声は梅渓ハツのものだった。けれど姿は左記子の知っているハツと少し違う。 ネイビーのパンツにキャメルのカットソー。中に着ているタンクトップのボーダーがちらりと覗いている。大きな赤いリュックを背負って、右手にはクラシカルな印象のカメラを携えていた。垢抜けて程よく力のぬけた大人の女性。左記子は何か反応することも忘れて、不躾なほど相手の姿を眺めていた。 彼女はかつかつと躊躇することなく左記子にさらに近づく。そして黒目をまるく動かして、 「泣いてんの」 と尋ねた。
〔じゅう ご〕
まるであの日と逆だった。 自分ひとりの世界に浸るために深夜の皆橋駅に通う十七歳のハツの元に、突如として現れて掻き回した左記子。 今度は左記子の方がそうされる番なのらしかった。 すん、と鼻をすすりながらも左記子の目は彼女に釘付けのままだった。 「泣いてんの」 彼女がかさねてそう言って顔を覗き込もうとして来るので、左記子は慌てて首を横に振った。そう、と軽く言った彼女は左記子の赤い目を深く追及しないでくれた。 そのままどさりと大きなリュックを傍らに置き、洗練されたショートカットの髪裾を揺らして隣に腰掛ける。縮こまった左記子は小さくなってしばらくは身動き一つ取れなかった。 やがて正面に目を上げると、対面するガラス越しにぴたりと目が合った。 「梅渓さん――だよね」 「そう」 彼女はなんでもないことのように肯定する。 「久しぶり」 少し大人びたけれど雰囲気はハツとしか言いようがなく、胸が締め付けられるような懐かしさをおぼえた。最後に会ったのは数日前だけれど、もう二度と会えないと思っていたから。 「ちょっと変わったね」 「久貝さんは全然変わってないね」 そう、変わっていない、1ミリも。目は赤いけれど。 「梅渓さん、幾つになった? 」 ハツはちらりと左記子を横目で見る。 「二十五」 「そうなんだ」 二十五歳の梅渓ハツ。ハツの時間ではあれから七年もの歳月が経ったのか。普通の生き方をしていれば、左記子もこのくらいの外見になっていたはずだ。けれども実際に窓ガラスに映る姿の左記子は少女にしか見えない。隣のハツはすっかり女性だというのに。 「ここは全然変わらないね。駅も、電車も、久貝さんも。私だけ浦島太郎みたいになってる」 ハツは天井を見上げてしみじみ呟く。それは逆だ。太郎は左記子の方だ。 「高校を卒業したあと、東京の美大に行って。そのままそこでフリーの写真家になったの」 だからいつも持ち歩いてる、ハツは手に持ったカメラと思えないほどのごついカメラを掲げる。 「それで久々に帰ってきたのが今日」 「だからこの大荷物なの? 」 「そうかもね」 ハツは噛み合っているのかいないのかよく分からない返答をする。そして目を細める。ひとりで電車に乗ってきた十七のハツを左記子が覗き見た、あの日のように。すべての警戒を解いて、そしてやがて目を瞑る。全身全霊で何かに集中しようするようにしばらくじっとそうしていた。左記子が隣にいるにも関わらず、そうしてくれている。 電車は緩やかな振動を繰り返す。進路はあのときと同じ。海のある終点に向かって進む。 「さすがに今日は行かないよね。海」 ハツがまるで昨日の続きのようにごく自然に左記子に問うた。 「え」 あの時ハツと入った海。“左記子ちゃん”を置いてきた夜の海。想像よりとろみのある海水の感触と柔らかで実体のない海の砂と。そして、正体の分からない何かに引き込まれた。 「海、入った時さ。久貝さんと二人で。 本当は、死ぬかもと思った」 「うん」 そう。 海の深みに潜り込んで海水に満たされて。けれど、気付いたら二人して浜辺に打ち上げられていたのだった。 「でも死ななかったね」 ハツは小さく笑う。どうして溺れずに戻って来れたのか、今でも理由は確かでない。夜のせいだと、思うほかない。 「死ななかったけど、多分あのときから何かが確実に変わったんだと思う」 それはどういう意味、と言おうとしたら電車が大きく軋んで終点の前で停車した。 あのドア。あそこから、十七歳のハツと出て行った。内と外と、ほんの数センチの隔たりしかない。それでも、あの扉ひとつ向こうは外の世界。 ハツはなにも言わずに見えもしない外の海をまっすぐ見据えていた。左記子も同じように黙っているうちに電車は運転を再開しだした。 「――驚かないの」 今更だと思いながら尋ねてみる。 「梅渓さん、気付いてるでしょ? 」 「なにが」 「この私鉄が、私が普通じゃないって、気付いてるでしょ」 ハツが左記子の方に頭をくるりと振り向ける。彼女は今晩ここに来て左記子の顔を認めた途端、やっぱり、と呟いた。何かを承知の上で来たに違いないと左記子は踏んでいた。 「うん」 気付いてるし、驚いたよ――何の起伏もない声音でハツは続ける。 「怖くないの」 至って真面目に発言したのに、彼女は口端を上げて笑いを漏らした。 「前もそんなこと言った」 「よく――覚えてるね」 「怖くないよ」 きっぱりとハツは言い放ち、久貝さんだからと加えた。 「海に入った日、あの後皆橋駅に戻って道で別れる時に私になんて叫んだか覚えてる? 」 「そんなことした? 」 「した」 「私、何て言った? 」 「“生きるのに卑屈になっちゃ駄目だよ!”って、大声で」 言いながら彼女はくつくつ笑う。左記子はそんなことを叫んだろうか。実際、あの時はハツに二度と会えないかも知れないと思っていた切羽詰まった状況で、何かを言わなければと焦っていたのも確かだけれど。 生きるのに卑屈になっちゃ駄目。 最後に叫んだその言葉は、たぶんハツに向けたのと同時に左記子自身にも言い聞かせていた言葉だったのだろう。七年経つというのに、本当にハツは左記子の言葉ひとつひとつをよく記憶している。 「むかついた。だけど」 それが多分、嬉しかったんだよね――ハツはカメラを脇に置き、脚で肘を支えて頬杖をつく。 「うん、嬉しかった」 「そうなの? 」 「本音だって思ったから。その時は気付かなくて時間がかかったけど、言われたことは全部当たってて、久貝さん、見抜いてたんだって。あの頃の私は何かを発散したいのにどうすれば良いか分からなくて、捻くれてて、卑屈になってた。そういう気持ちを持て余して夜の駅に通ってた。それを久貝さんが言葉として自覚させてくれたから。ああいうのを友達って言うのかもしれないって。 そう思った」 友達。 『左記子』の友達。 「あの夏の夜の電車と、夜の海と、叫んでる久貝さんと。 今振り返ってみるとあれが私の青春だったんだって。あるはずのない皆橋駅の無料開放にまつわる体験が、私の青春なんだって」 だから、とハツは続ける。 「だから怖くない」 ハツは深夜の皆橋駅の無料開放が存在しないということを今日の昼間、駅員から直接聞いたのだそうだ。そこで初めて自分の体験した一連の出来事が普通ではなかったことに気が付いたのだという。 「でも納得できないよね。鮮明に記憶に残ってるんだから。あの高校二年生の夏休みに私が体験したことは何だったんだってね。そうしたら悔しくなって」 「わざわざ確かめる為に、もう一度深夜に来たの? 」 「そう」 「電車が来るかも分からないのに? 」 「多分、来るだろうと思ってた」 ハツの揺るぎない返答を不思議に思う。彼女はなぜそんなに動じないのだろう。 「どうして」 「夜だから」 胸が、きゅっと窄まった。 ――夜には力があるんだよ。 思えば左記子たちの繋がりは初めから夜を介して奇妙な捩れによって成り立っている。却ってそれが左記子とハツらしいことのように思えた。そうだ。最初から捻れているのなら、今更取り繕って何になるだろう。 「――この私鉄はね、タイムトラベルをしてるんだって」 左記子が切り出すと、ハツは頬杖をやめてゆっくり起き直り、眉間に力を込めた顔でこちらを見た。 「この私鉄は時間の奥を走っているんだって、そう言ってた」 「奥? 」 「そう」 「言ってたって、誰が」 「遠藤さん」 想像通りハツは誰、という顔をした。左記子は思わず笑う。それからこれまでに体験し見聞きしたことを残らず話していった。左記子がここで働くようになった経緯。仕事内容。遠藤の研究とその成果であるATTのこと。左記子自身がよく理解していない時間の概念については、遠藤が説明したことをそのまま話した。左記子が遠藤から聞かされたときと違って、話した内容にさして驚きもせず、ハツがすんなり受け入れている様子なのが意外だった。 「――時間の奥の空間に長く居すぎると“薄くなる”って遠藤さんは言うの」 「薄くなる? 」 「つまり本来の時間から遠くなるとか、認識されなくなるって事らしいんだけど。その代わり奥の時間の法則に支配されるようになるんだ。奥の時間の法則では見えているものは成長も劣化もしない。だから私の外見は高校を卒業した十八の時のままなの」 「ああ、だから」 ハツは溜め息をついて納得し、そう――と呟いた後、 「所属出来るのはどちらかってわけ。そして久貝さんはその図の赤い線――奥の時間の法則の側にいるってことだよね。そしてそれは表の時間の視点から見るなら“薄くなる”と表現される現象だと」 ハツの聡い理解力に、左記子は圧倒されて頷く。 「じゃあ、トレーシングペーパーみたいな感じってこと? 」 「なに、トレーシングペーパーって」 「あるでしょ、そういう紙。トレースするために薄く透けてて半透明な紙。たとえば――」 トレーシングペーパーが二枚あるとするでしょう、ハツは説明し始める。 「一枚目にA、二枚目にBって鉛筆で書くとするよね。その二枚を重ねると、紙が薄いからどっちも同じ紙の上に書いてある記号に見える訳。AからはBが見えるしBからはAが見える。お互いそれほど違和感もなく認識出来ているんだけど、所属しているところ――書かれている紙はまったく違う。重なっている紙の上を消しゴムが掠ったとしても、消える記号は上に重ねた紙の記号だけ。下の紙は全く影響を受けない。そしてもし、重なっている二枚が引き離されたとしたら」 お互いがお互いにとって“薄くなる”――ハツは左記子の目を見つめた。 「表の時間から薄くなるっていうのも、多分そういうことじゃない」 圧倒された。左記子にとって長らく謎だった遠藤の表現を、ハツがこうもあっさり把握するとは思いもしなかった。 「――私だけで考えてたら、多分ずっと分かんなかった」 ありがとうと言うとハツは何でと笑った。 「でも、そう。そうやってずっと久貝さんは奥の時間を旅してきたんだ。昼は車内販売をして、あとはひたすら景色を見て。高校生の私と接触して。そして永遠に少女のまま 」 そういうの、ちょっと羨ましい、ハツがあまりにも簡単にそんな感想を言うので思わず左記子は目を伏せた。 「私には帰る場所がないから。だから出来ただけ」 そう、とハツは返事してそれきり口を噤んだ。
ロングシートの隣り合わせに腰掛けて、ハツが十七歳だった頃みたいに二人して黙って電車の振動をしばらく聞いていた。けれど、今のハツは十七歳ではないし、左記子も“左記子ちゃん”ではない。だからあの時と同じではない。人は否応なく変わる。たとえ外見の変化がないとしても。 変わらないのは、この列車と、夜と。 「――隣町銀河」 自然と言葉がこぼれた。 「なに?」 「この景色に、憧れたの。この町を飛び出したくて電車に乗って、そしたら真っ暗になった夜の町に灯りががきらきら光ってて。あんまり綺麗で悔しくて羨ましくて。でも憧れた。“隣町銀河”って名前つけて。梅渓さんに羨ましがられるような事じゃないの。私、多分取り憑かれたんだ。隣町銀河に取り憑かれた」 「そう」 隣町銀河を突っ切って電車は進む。この光のように邪心なく美しくなれたなら。美しさだけを振りまいて、余裕のある笑みを湛えて生きていけたなら。でも実際の左記子ときたらどうだ。 「ほとほと自分が嫌になったの。私のこと、誰も知らない所へ行きたかった。だって私、どこもかしこも作り物だったんだもん。かわいくて優しくて物分かりのいい私しか人に見せなかったんだもん。隣町銀河を見てたら、綺麗なものにだけ触れて生活できたらどんなに良いかって思って、だから次の日から毎日毎日仕事もしないで電車だけに乗って生活してた。笑っちゃうでしょ。みんな進学とか就職とか新しいことに前向きに取り組んでいるときに、私、そんなことしてたの」 どうしたのだろう。抑制がきかない。“左記子ちゃん”が不在だからだろうか。気持ちも発言もうまくコントロールできない。 「なりたいものに何にもなれない。誰の期待にも添えないし愛されない。私、大っ嫌い。昔から自分が大っ嫌いなの。だからここに逃げた。人としての資格も失って、ここに住み着く妖怪みたいになって、一生少女のまま電車で過ごすんだ」 馬鹿なことを言っていると自分でも思った。折角左記子のことを友達と言ってくれたハツも、このみっともない姿に呆れているに違いない。でも、もういい。もう疲れた。色々考えることすら嫌になってしまった。 ハツはただただ無言だった。無言で、目を丸くして左記子を見つめていた。ハツの目に生身の左記子はどんなに醜く見えているだろう。 「――ごめんね」 ごめん。梅渓さん。折角会いに来てくれたのに、左記子がこんなで。もう電車はまもなく皆橋駅に到着する頃だった。ハツとは再びこの駅で別れて、次回会える機会があるかどうかすら分からない。いや、ハツは会いに来ようとは思わないだろう。 「梅渓さんは皆橋駅で降りて。じゃないと、うまく戻れないらしいから」 緩やかに速度を落として、電車がホームに入っていく。 「もう、私に構わないで。かわいくも優しくもなくなった私に構わないで、梅渓さんはちゃんとした人生を送って」 ――嘘つき。嘘つき。 欲しくて堪らなかった『友達』を手に入れられそうなところで翻って、今度はわざと嫌われて突き放そうとするのね。本当の左記子はなんてあまのじゃくなんだろう。自分のそんな一面すら知らなかった。
完全に電車が停止したのに、梅渓ハツは立ち上がる気配すらなかった。 降りないの、と促そうと彼女の方を向いたら、ハツは既に左記子を見ていた。突き入るほどにまっすぐな視線が刺さる。そして言った。 「――さっきも、それが理由で泣いてたの」 唾を飲み込む。ほとんど睨むような強さで、左記子はハツの目を見つめ返した。
降りないよ、そのつもりで来たから――、ハツがそう繋げる頃には電車は運転を再開し、左記子は再び子供のように泣きじゃくっていた。
〔じゅう ろく〕
泣くのは似ている。 何に似ているのだろうとそんなことを思う。昔よく経験した何かに似ている。しかもちょっとした可愛らしい涙では感じられない、呻いて叫んで暴れ出しそうなくらいに感情がうねる時にだけあらわれる感覚なのである。 ――なんで人前で泣くかな。 しかもよりによってハツの前で。恥ずかしい。恥ずかしいのに止められない。だってあんなことを言うから。 ――“さっきも、それが理由で泣いてたの?” 瞬間、怪我をした患部に直に触れられるような衝撃を受けた。ごまかしが効かない痛み。だから平気でいられない。顔が歪む。 本当に思ってること、初めて聞いた――低く呟くようにハツは言って、かわいさを損ないながら泣く左記子から目を逸らしもしなかった。おさなごのような泣き方をする左記子も左記子だが、それを大人げなく至近距離でしげしげと眺めるハツもハツだ。 「いたいの? 」 小さな子供に対するようなことばをハツは使う。 「痛い―― 」 「いつから? 」 「子供の、頃から」 「じゃあ高校生の頃も? 」 尋ねられるままに答え頷く。さながら病院の診察室でなされるような問答をハツは繰り広げる。これは私が純粋に疑問なんだけど――そうハツは前置きして、 「ねえ、なんでそもそも自分が嫌いなの? 」 と顔を近づけた。 「どうしてわざわざ“かわいい自分”とか“優しい自分”を作ろうとするの? 久貝さんのかわいいとか優しいの定義ってなに? 久貝さんは充分恵まれてるのに」 「恵まれてるって? 」 肌がひりひりするのも構わず力に任せて目をこすりつつ左記子は訊き返す。 「そのままで充分かわいいのに」 そのままで充分。 ――嘘。 周囲には電車の運行音と自分のしゃっくりあげる息遣いだけが聞こえる。 「性格も別に悪い訳でもないじゃない」 「嘘」 「なんでよ」 「嘘。 だって」 左記子は。 だってずっとかわいくないのがばれるのが怖くて、優しくないのがばれるのが怖くて、だから精一杯みんなのために無理をして。 ――みんなって誰? 「私、高校生の頃、久貝さんのことかわいいと思ってたよ。性格は合わなそうだとは思ってたけど」 相変わらず左記子から目を逸らさずハツは続ける。 「なんて言うかお人形みたいで、ふわふわきらきらしてて。でも八方美人っていうか、自我が無さそうな子だなと思ってた。意見を求めても|体《てい》良くかわして笑顔で誤魔化されそうだと思った」 ああ、そういう見方も出来るのか。高校時代の友人による左記子の評価は『ふんわりとした天然な子』。だけど、全ての人がそう捉える訳ではないのか。全ての人に好かれるのは不可能なのか。固く信じていたものが覆されていくようでなんだか混乱してくる。 「あのとき、私は絶対に自分を曲げたくなかった。媚びたり群れたりはしたくなかった。久貝さんはその対極にいるように見えたから絶対に関わることはないって」 だから正直びっくりした、ハツは少しだけ笑う。 「夏休みにこの電車で久貝さんに会ったとき。こういう所に来ること自体意外だったし、昼間学校で見る印象と違ってたから。でも、そっちの久貝さんが本物だったんだね。作ってたのは学校での方だった」 「……うん」 「でも、苦しくて痛かったんでしょ、“かわいくて優しい左記子ちゃん”は。なんでそこまでしたの。学校の友達がそんなに大事だった? それとも怖かった? 」 「違う―― 」 友人を失う怖さもあるにはあった。でもそこまでじゃない。だって本当は友人ではなかったのだ。彼女達とは「左記子ちゃん教の信者」としての繋がりだけだったのだ。 「違う」 だったら何。左記子はどうしてこんなに“左記子ちゃん”に囚われた? 頭がぐらぐらして気持ちが悪い。目の奥が痛い。ハツは今左記子の中のとんでもなく底の方、核の部分に素手を突っ込んで直に触ろうとしている。 ――怖い。 “左記子ちゃん”はもういない。 ――怖い。 生身の左記子しかいない。 私、どうしよう。どこかで間違った? 「そしたら、それは誰? 久貝さんに一番最初に嘘の久貝さんを求めたのは誰」 ――いやだ。 涙がいつまでも止まらない。それを拭う手さえ震えだす。 嫌だ、考えたくない。思い出したくない。なのに。 ハツによって掻き回されて、奥に仕舞っていたものが浮き上がってくる。 ――“左記子ちゃんはかわいいから大好き”。 ――“絶対このままのかわいい左記子ちゃんでいてね”。 あのひとは左記子に何気なくそう口にした。ごくたわいもない言葉として。 そうだ。 一番最初に。 「――お母さん …… 」 母だ。 母が左記子にそう言ったのだ。
意地悪をされた訳でも辛く当たられた訳でもなかった。むしろ母はいつでも左記子の肩を持った。味方でいてくれた。 けれどいつも、左記子が母を思うとき温かい安心感に包まれることは決してなかったように思う。代わりに感じていたのは緊張感だった。 「――おばあちゃんに育てられたの、私」 覆った手の隙間から漏れる声が震える。 「お母さんは月に一度帰ってくるか来ないかだった」 「うん」 思えば、あのひとはあまりにも自由だった。とことん自分の好きに生きていた。 「お母さんはいつも言うの。『左記子ちゃんはかわいい』って。帰って来る度言うの。でも本当は分かってた。お母さん、私の『かわいい』にしか興味なかった。着せ替え人形と変わらなかった」 ――左記子ちゃん。左記子ちゃん。 猫なで声で呼ぶ母の声。 「お母さんが気に入っているのは『かわいい左記子ちゃん』。味方でいてくれるのは『かわいい左記子ちゃん』。帰って来る度怖かったの。今回もちゃんと私はまだお母さんの目にかわいく見えているのかなって」 必死だった。自分ではうまく認識できない自らの『かわいい』を模索して、実在しない『優しくてかわいい左記子ちゃん』を作り上げていく。それは母のために。母のためだけに。 「お母さんの期待に添いたかった。――けど、同時に嫌悪してたの」 あれは好きだとか嫌いだとかいう単純な問題ではなかった。だって、あのひとが認めてくれないと左記子は死んでしまいそうだったのだ。 なのに。 「だけどお母さんはあっさり死んじゃった! 」 不思議と笑えてきた。先に死んだのは母の方。左記子を散々振り回して、左記子にかわいさを求めるだけ求めて、挙げ句の果てに全てを放棄して勝ち逃げた。母のためだけに丹念に作り上げた『優しくてかわいい左記子ちゃん』は突如用途を失い、行き場がなくなった。力なくけらけらと、笑い声は空っぽの左記子の中でよく響く。 「ああ。確か、高校卒業の直前だったね」 ハツは思い起こすように静かに頷く。 「状況は断定できないって言われた。でも分かる。あれは絶対自殺だった。そういう人なの。お母さんはいつも好きに生きてて。自分のことしか考えてなくて。私、自分の父親が誰かも教えられていないんだよ。私のことも表面しか知らないの。表面が良かったら、かわいかったら、もうそれで良いの。それってどんな風に感じるか分かる? 人格を否定されているような気になるんだよ」 どうしてあんな酷いことができたのだろう。 ――お母さん、左記子が何を好きなのか知ってた? ――何が得意なのか知ってた? ――どんな感性を持っていたか知ってた? どうして、左記子そのものを好きになってくれないの。左記子はこんなに頑張ってたのに。 「おばあちゃんは? 」 おばあちゃんは久貝さんのこと気遣ってくれなかったの――、ハツの問いに左記子は首を振った。 「おばあちゃんは、良くしてくれたよ。良くしてくれた。でもお母さんじゃない。そう思ったら手放しで甘えられないもん。お母さんがあんなで、私もいるからいつまでたっても楽もできないでパートを続けてて。申し訳ないって思うじゃない」 自分を押し殺して、平気なふりをするしかないじゃない――左記子の言葉にハツはわずか顔を顰める。 「平気な訳なかった。本当は、違った。本当は自分なんか分かんなかった。お母さんが認めてくんなきゃ、誰が認めてくれるんだろう。他の人には認めてなんて言えない。苦しいことなんか誰にも言えない。悪くて」 それで左記子は考えるのを止めたのだ。思い出すのも極力止めた。だけど、“左記子ちゃん”は左記子に頑なにしがみついて離れなかった。 「お母さんが死んじゃったから、私はどうすればいいか分かんなくなったんだ」 どうすればいいか分からなくて、全部から逃げたくて。高校を卒業したら真っ先にこの町を出ようと思っていた。行くあてもなく電車に乗った。 そこから、銀河を見た。その虜になった。 「呪いだね」 ざらりとした声でハツが呟く。 「久貝さんが自我のないお人形になる呪い。お母さんがかけたんだ」 「呪い――」 「そう」 ああ。 これは母の呪いなのか。不思議と納得した。 いつからか涙は止まっていた。 泣くのは似ている。 ――思い出した。 幼い頃、“左記子ちゃん”を取り繕う前の感覚に似ていたのだ。何が入って来るかも分からないのに無防備に心を全開にする感覚。 「海」 ハツが唐突にそんなことを嘯く。 「二人であそこに潜って、死にはしなかったけど確実に何かが変わったって言ったでしょ」 左記子は想像の中のあの日の海を思い見る。 「久貝さんも変わった」 変わっただろうか。相変わらず空のままの左記子のように思うけれど。 「解けてるよ。その呪い、ほとんど解けてる」 だって私に喋れたじゃない、ハツはあっさりそんなことを言う。 「今まで仕舞ってきたもの全部。言葉にもできなかったものを言葉にできて、どう表していいかわからなかった感情もちゃんと出せたじゃない」 自分の唇に触れる。そしてゆっくり頷く。 「話せた――」 左記子の空っぽになったその場所に、今度は何を詰めようか。 いつか、深く美しいもので充満するだろうか。
「電車ってさ、外側から見ると、すごく羨ましく思うんだよね。何でか魅力的に見える」 ハツは背中側の窓の縁を掴んでその向こうの景色を顧みる。
「きらきらしてて、あったかそうで」
安全に守られてるひとつの家みたいに見えない――などと言うので思わず口元が綻んだ。
「家? 」 「私もここで暮らすし、家でしょ」 「本気?」 ハツが皆橋駅を降りなかった時点で気になっていたけれど。 「本気に決まってる。その積りで今日ここに来た。だってずっと電車での暮らしに憧れてた。私も久貝さんと一緒に時間を無視した化け物になるんだ」 歌うような軽やかな口調でハツは続ける。 「やりたかった事全部やる。いろんな創作活動、したかったんだ。写真も毎日ここから撮って、ポストカードにして。遠藤さんって人に雇ってもらおうかな。ポストカード用の写真を撮る、この私鉄専属の写真家として」 楽しそうじゃない、そういうの――、二十五になったとも思えない、驚くほどの無防備さで窓の縁を掴んだままハツは白い歯を覗かせた。 「――子供みたい、梅渓さん。こんなところがあるなんて知らなかった」 呆れて溜め息をつく左記子に、久貝さんもね、とハツは返した。 「面白いよ、久貝さん。私が思っていたのより、かなりずっと面白い」 「それ、褒めてないでしょ」 「褒めてるよ」
カシ、と無機質な音がした。ハツが左記子に向けてあのごついカメラを構えていた。 ポラロイドなの、ハツはその珍妙な機械から押し出されて来たばかりのかっちりした紙を左記子に差し出す。ハツの好むセピアカラー。涙の跡を頬に残して、首を曲げて驚いたようにこちらを見る左記子が徐々に浮かび上がる。 「ほら」 覗き込む左記子の上から声が降る。 「“左記子ちゃん”に頼らなくたってちゃんとかわいい」 そうなのだろうか。素の左記子でも、ちゃんとかわいいのだろうか。 「“隣町銀河”に憧れた、って久貝さん言ったでしょ」 気づいてないと思うけど、と前置きしてハツは外の煌びやかな隣町銀河を指差す。もう電車はどこかの知らない町の知らない鉄道の上を走っていた。
「あれ」
彼女が指したのは連なって移動する灯りだった。夜行列車だろうか。
「あれ、どこかの電車でしょ。どう見える」
「どう見えるって、何」 「いいから」 質問の意図を図りかねながら左記子は考える。 「どうって、綺麗に決まってる」
細かい光が連なって瞬くので、美しさでいうならその光は他の灯りより一段飛び抜けていた。
そうでしょう、ハツは唇で笑った。あそこから見るとさ、こっちも同じように見える訳、と左記子を顧みた。 「私の言いたいこと分かる? 」
どういうことか分からなくて、戸惑いつつハツを見る。だから、と彼女はもう一度列車の灯りに注意を向けて指差した。
「久貝さんも、とっくに“隣町銀河”の一部なんだよ」
言われて戸惑いつつ改めて外を見やる。それはちらちらと複雑に、繊細に。
――ほんとに。
気持ちが解けてゆくのを悟られたくなくて口許を両の手で覆う。
確かに。こちらから見える、よその鉄道のきらきらした移動する窓の灯りが。
銀河のようだったので、心の内で安堵した。
*
――私と左記子の物語はひとまずここで終了とする。
やりたかった創作活動の一環として、私と左記子の夜の駅にまつわる一連の体験を纏めようと思い立ってから完成するまで、予想よりかなり時間がかかってしまった。自分の心はともかく、左記子の細やかな感情の機微を聞き出し文章化するというのは思った以上に骨の折れる作業だった。 けれど、これは創作するという意味だけに留まらず、いずれ必要不可欠になる作業だったのだろうと思う。 私達は永遠に同じ空間のなかで共に過ごす。だとしたら、互いが互いのことをよく理解し合っていなければならないからだ。
左記子は相も変わらず、遠藤の趣味の古めかしいデザインの制服を着込んで、この私鉄に迷い込んだ乗客相手に車内販売をしている。私の方も無事遠藤に雇われて、ポストカードに必要な写真を日々撮り溜めている。様々な場所を訪れることの出来るこの列車からは魅力的な情景をさまざまな角度から切り取ることが出来て心愉しい。 写真家になろうと志したのはあの夜、十七歳の夏休みに左記子と色彩について話したことがきっかけだということは、彼女にはまだ秘密にしている。 必要なものはごく限られたものでいい。それは写真の色彩に限ったことではなく、全てに於いて。私、梅渓ハツには左記子と遠藤と、遠藤の研究結果であるATTによって動く電車があれば、それでいい。
今でも、夜に特別な気持ちを抱いている。 今夜も左記子と隣町銀河を眺める。 私と左記子に纏わる手記が完成したことを告げると、彼女はそうなんだ、おめでとうと驚き、よくやり遂げたねえと溜め息混じりに少し笑って脚を揺らした。 「でもタイトルが決まってないんだ」 「そうなの? ハツが直感的に思う言葉で良いんじゃない 」 「じゃあ」 くすりと笑いがこみ上げる。 「――じゃあ、『隣町銀河』とかどう? 」 そう提案したら、幾らなんでもそのまま過ぎじゃない――と、左記子は頬を緩めた。
〈了〉
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