生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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開祖・谷口雅春先生御昇天30周年記念 『正統・生長の家本義』――別派マサノブ教では絶対に聞けない信徒必読のお話です。<その二> (7150)
日時:2015年06月14日 (日) 10時40分
名前:信徒連合




A  生長の家地上誕生の経緯(いきさつ)



 生長の家発祥の因縁について
神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.22―23)

<< 生長の家は、皆さんが既に御承知の通り兵庫県武庫郡住吉邑八甲田という所に私が住んでおりました時、丁度“勇湯”という風呂屋がありまして、わたしは朝風呂が大変好きでありますので、そこへ毎朝、朝風呂へ入りまして、きれいにからだを禊して――約半丁位の近くに住吉神社があるのであります。詳しくは本住吉神社といいまして、その神社へ毎朝お参りをして、私が日本国家の隆昌の為に祈っておりました時に、霊感をいただいて始まったところの人類光明化運動が生長の家であります。

伊勢湾台風後、あの神域の倒木を清掃するために熱心な愛国者である生長の家の誌友たちが、あそこへ行って勤労奉仕をしたことがありますが、それらの奉仕者が、玉垣の前の石の砂利の上で神想観をなさいますと、畳の上で静座するのでも足の痛いような人が、玉砂利の上に座って神思観しても足が痛くない、しかもなんとも言へない神々しき雰囲気に包まれ、“ああ来てよかった、”と言うような体験を味ははれるというのは、どういうわけであるかといいますとですね、『聖使命の実践』二十八頁を開けてください。

 この生長の家大神とは誰方であるかと言いますと、これは阪神間の本住吉神社にお祀りしてあるところの住吉大神であられまして、『古事記』に、天照大御神様がお生まれになるに先立って、此の大宇宙浄めの神として、水と塩(霊)とを以って浄め給うところの龍宮海の神様として現れられたところの上筒之男神・中筒之男神・底筒之男神と言われる三柱の神様を一体に総称して、住吉大神(すみのえのおおかみ、俗称・すみよしの大神)と申しているのであります。

 生長の家が発祥しましたのは今から四十年程前でありますが、その前後に私が住吉村に住んでおりまして、毎日その本住吉神社へお参りしたものでありまして、その当時、霊感に啓示されて此の生長の家の教えと言うものが現れて来たのであります。爾来「一切の宗教は一つである」「真理は一つである」との啓示に導かれて、古今東西の宗教を比較宗教学的に研究し、いずれの宗教もその説き方は異なっても、どの教えも人間を救う“唯一の真理”を説くのであるから、何の宗教も互いに分立せずに手を繋げと言う事を説いてきているのであります。

 『古事記』にあらわれたる住吉の大神はその後同書に塩椎神叉は塩椎翁(『日本書紀』神武天皇の巻)として現れていらっしゃる・・・塩椎神は潮筒之男神であらせられまして・・・宇宙浄化の神であり、東道(みちびき)の神でもいらせられます。・・・>>



住吉村の地名の由来
神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.23―26)

<< 住吉大神の使命・・・

 この住吉の神様は、いったい、どういう時に顕れていらっしゃるかと言いますと、日本国の危急の時に顕れて来られて、日本の国を御護りになる神様がこの住吉大神(すみよしの神様)であります。・・・


住吉村の地名の由来・・・ 
 
 さて、この住吉大神を神功皇后がお祀りになりましたので、その所の地名が住吉村と言うことになったのであります。唯今、阪神電車のガードの下になっている所に“玉の井”とか、何とか言う清冽な泉が噴出している池がある。非常に美しい泉の水でありまして、いつでも澄明な水が湛えられている。あそこで神功皇后は“御影”をお写しになりましたというので、後世その土地が“御影”と言う地名になったのであります。

先日この遺跡を訪れましたら、澄明な池は緑色の藻でにごっていたので残念に思ったのであります。あの付近には沢山の花崗岩が出たのでありまして、今は殆ど取り尽くして無くなっているようでありますけれども、時々道路工事なんかをして、深く地面を掘ると大きな花崗岩が出て来るのであります。そこであの辺から出る所の黒いそばかす様の斑点のある花崗岩を御影石と俗称されることになったのであります。その御影の町の西方に阪神電車の停留所に上石屋という所がある、其処を縦走する川を石屋川と言う。御影石を掘り出すところの石屋さんがずっと並んでおったらしいので、その地名が上石屋として残っているわけなんであります。

 その村に私がおりまして、毎朝風呂場で禊をして、その浄まった直ぐのけがれのない体で毎朝、その本住吉神社に参拝して日本国家の隆昌のために祈っておった時に、霊感をいただいて始まった教えが生長の家であって、その教えの本尊、即ち本当の教組は住吉大神であらせられるので、私はただその教えのラッパにすぎないのであります。>>



住吉大神に導かれて
(「神の真義とその理解」P.192〜194)

<< 私はその求人広告に応募して和洋両文の履歴書を速達で送り、やがてテストを通過してヴァキューム・オイル会社に勤めることになったのであります。テストの成績がよかったのか、希望給料欄に私は,“百円”と書いておいたのに百七十円だか百八十円だかくれることになりました。それは私を導いていられる神のお導きだとおもわれるのであります。今から約五十年前のことなので、百円という給料も相当のものだったが、それにプラスされた額があったので、そのプラスされた額があるために将来雑誌の無代配布が出来るようになったのであります。その会社は神戸の阪神電車の終点である“滝道”駅から歩行で五分間くらいの距離にあったが、養父母の住む夢野町からは電車の駅に遠いので、毎日長時間かかって長距離を歩かなければならなかった。もっと時間の節約になるようにと思って日曜日ごとに神戸の近郊に家を見つけに往きました。そして住吉神社がそこに奉斎されている村である住吉村にその家を発見することになったのであります。

こうする過程によって私は住吉大神の御座所に引き寄せられることになったのであります。私は朝風呂が大好きであったが幸いに家の近くに“勇湯(いさみゆ)”という銭湯があって、朝五時からお風呂が沸くのであった。その極近くに住吉神社があって、毎朝浄水で浄められた体のまま住吉神社に参拝して日本国の隆昌と皇室の弥栄(いやさか)を祈って帰る事にしていました。毎朝礼拝後、自宅に帰って静坐黙念の修行を続けているうちに、神想観の座法や呼吸のしかたなども自然に教えられた。そして『生命の實相』第二十巻にある「朝、東方に面して、合掌礼拝して、霊々妙々円満の大生命を観ずれば・・・」の詩にある様な心境に入ったのである。その時わたしは人類光明化のために機関雑誌『生長の家』を出せという神の声を聴いたのであったが、しかしその頃の私は未だ躊躇していて思い切って雑誌の発行に踏み切る勇気が無かったのです。・・・>>



“今”の中に“無限”があるという神の声をきく

<< 私が人類光明化運動の機関誌の発行を遅らしていたのは、それは儲かるような出版事業ではないので、機関誌の発行が途中で中絶する危険がある。それで月々の月給の一部を貯蓄して、それが機関誌の発行維持費に達し、また私が会社で月給を貰わないでも、その会社は二十五年以上勤続六十歳以上に達して定年退職になるなら、退職時の給料の相当額を毎月功労者恩給として支給される定めになっていたので、その年齢に達したとき利害も損得も野心もなく、本当に清らかな心で人類光明化運動が出来ると“甘い”ことを考えていたからでありました。しかし、もしその年齢に達する時を、もし私が待っていたならば、『生長の家』誌の発行はもう二十年も後のことになる筈でありました。そうしたら、その二十年間に生長の家の真理普及運動によって精神的または肉体的に救われるであろうと予想される数十万の人を救わずに見殺しにすることになるはずでありました。『生長の家』誌の発行を延ばしている当時の私の心は、これら数十万人のひとの運命についてかんがえていなかったことに気付いたのでした。(注・その頃、開祖・谷口雅春先生は二度に亘って家財の盗難にあわれたのでした。)

その時わたしは、「今立て、今のほかに時はない、“今”のなかに無限があり、無尽蔵がある!」という神の声をきいたのでした。わたしは、いつの間にか、“有限の現象界”に引っかかっている自分に気がついて愕然としたのでした。そして『生長の家』誌の発行に踏み切る勇気が出た。それは昭和四年十一月十三日のことであったと記憶しています。>>



開祖・谷口雅春先生と生田神社の祭神とのつながり
(「神の真義とその理解」P.188−190、)

<< その人の生まれた土地の産土神はその人の一生涯を守護し、導いているのであって、住所が変われば新住地の産土神に連絡があってその統治の中にはいるのであるが、現籍地の産土神と縁が切れるのではないのであります。・・・わたしが大本教を脱退・・・“心霊科学研究会”に参加し、機関誌の編集に当たっていました。・・・その事務所は神戸市中山手通りにある私の出生地の産土神を祀ってある生田神社が、ごく近い距離にあり、しかも帰りの電車の停留所へ行くための道順であるので、生田神社に出勤のたびごとに参詣したものでありました。・・・鳥居をくぐって十数メートルいくと左手に「永田文進堂」という古本屋・・・ある日、「その店に入れ」という霊感のようなものを感じて・・・“The Law of Mind in Action”(『如何にすれば運命を支配し得るか』)を和訳出版・・・アメリカの光明思想ニューソートとつながりが出来・・・ここにも産土神の導きがみられるのである。>>



生田神社祭神の祖国防衛の因縁について
(「神の真義とその理解」P.198、)

<< 生まれ故郷の産土神である生田神社の祭神稚日女神(ワカヒルメノカミ)は、神稚日女君命(ワカヒルメギミノミコト)とも称せられて、天照大御神の御妹神として、天照大御神が忌織屋(いみはたや)にて天地経綸の“はた”を織っておられたとき倶(とも)に機織姫(はたおりひめ)として天地経綸に参加していられた神であります。経綸は共に糸扁の漢字であるが、政治で国の経緯(たてよこ)を治め整えることを織物にたとえて言う文字であります。天地経綸の機織(はたお)りをせられる生田神社の祭神神稚日女君命が、神功皇后さまの、新羅からの侵攻への防衛軍に神助を与えられたのは当然であり、今また祖国を革命から衛(まも)るために住吉大神と共に生長の家に神助を与え給うていることは当然のことであるのであります。>>



谷口雅春先生の教え・・「生長の家大神」
(「神の真義とその理解」)

<< 生長の家の家大神は住吉大神です。この住吉大神は、またの名を塩椎神、塩筒之男神と申し上げる神様であります。『古事記』にあらわれた住吉大神は、同書においては塩椎神と現われておられ、水と塩とをもって浄める海の神様として現われられた上筒之男神、中筒之男神、底筒之男神という三柱の神様でありまして、総じて塩筒之男神とも申し上げます。

まず、住吉大神は伊邪那岐大神の宇宙浄化の御禊祓の、最後の浄化作用としてウミの神としてお生まれになり、伊邪那岐大神の左の眼より天照大御神がお生まれになる下準備として浄化の働きをなされて、天照大御神の御降臨を導いたのであります。

また、住吉大神は導きの神であり、『古事記』によりますと、日本皇室の御先祖の日子穂手見命が、兄君の釣針を借りて海に出てその釣針を失ったとき、龍宮界へご案内して釣針を得られた道案内の神、塩椎神であらせられます。

さらに、塩椎神は邇々芸能命が天降りますときに、事勝国勝神として現われられてご案内し、「此処に国あり」とお導きして、すべての事に打ち勝ち、国が打ち勝つところの働きをなさいました。また後に、神武天皇が日向の高千穂におられて、「何処に都を作れば八紘一宇の世界を建設するのに都合がよいか」と考えておられた時に、「東の方に美し国あり、そこへ行って都を造ったならば、必ず世界を統一することができます」と申し上げて、道案内をなされた東道神が塩椎神です。

さらにまた後には、仲哀天皇が崩御なされた後に、住吉大神は神功皇后に神懸りになって、三韓征伐の道案内をしておられます。住吉大神は、塩筒之男神とも現われられる海の神様でありますから、神功皇后の率いられる軍艦を新羅に導かれて、潮満珠の力によって海水を満潮以上に高めて津波のようになし、新羅の都を水浸しにしました。そして、神功皇后の海軍が新羅の都に横づけになった時に、新羅王は、「吾れ聞く、東に神国有り、日本と謂う。亦聖王あり天皇と謂う。必ず其の国の神兵ならん」と言って、降参したと『日本書紀』には記されてあります。このように、住吉大神は宇宙浄化の神であられ、国の重大事にあたって現われられて、その導きをなし給う神様でありまして、谷口雅春先生は「住吉大神は宇宙本源の神があらわれて宇宙を浄化し住み吉き世界にせられるお働きのときの名称であります」(『神の真義とその理解』)と述べておられます。>>







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