生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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開祖・谷口雅春先生御昇天30周年記念 『正統・生長の家本義』――別派マサノブ教では絶対に聞けない信徒必読のお話です。<その五> (7178)
日時:2015年06月17日 (水) 07時07分
名前:信徒連合



D  立教当初とその後の神秘現象 および ブラックソン師のこと




『生命の実相』は久遠の昔からある!

「神秘面より観たる生長の家四十年史」(P.1〜2)

<< 奈良県に山村恵津子さんという熱心な生長の家の誌友がある。何でも学校の先生をしていられるらしいが、学校の暇なときには、生長の家の宇治別格本山へ奉仕のために来られる事があり、時々、私と顔を合わすことがあるのである。その恵津子さんのお父さんは山村楢次郎さんといって天理中学の国語の教師をしていられた。『生命の実相』が、私が東京に移転して、はじめて、光明思想普及会と称する株式会社組織の聖典出版機関が出来、そこから出版されることになった時、その最初の版は、黒紬の布製で、松本俊介君の図案になる、線画の雲から三本の金線の光が出て、その光に照射されて、植物の若い芽生が、地上のすべての生命の萌芽を象徴するかの如く描かれてあった。その三本の金線が妙に印象的であるのである。

 この『生命の実相』の本を山村楢次郎氏が現実界で手にした時、氏は、これをいつか以前に手にした事を想い出したのである。記憶を手繰って見ると、それはその時から数えて十八年前、夢の中で神様からその『生命の実相』の本を授けられた。その時のドッシリと掌にこたえた重みの感触が、十八年後になった今でも、記憶にハッキリ現実のように残っていると山村氏は私に話されたのである。

山村氏がその話をせられた頃、生長の家の教育専門の雑誌『生命の教育』が発行されていたが、氏は時々、それに寄稿せられて同氏の原稿が載っていたものである。当時の十八年前と言えば、昭和九年に生長の家は兵庫県から東京へ移転しているので、概算したところ、私が大本教にいた頃か、或いは大本教を脱退した頃に、既に山村楢次郎氏は『生命の実相』が実相世界又は“霊の世界”に存在したのを拝受せられたのだった。それが十八年後になって“現実の世界”でそれを拝受したことになっているのである。やはり『生命の実相』は久遠の昔からあるのが時節到来因縁熟して現実界に姿を現したのだと言う事になるのである。>>




住吉の大神の神姿を見た人々

神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.18〜19)

<< 私の背後に、白髪の老翁の姿をしたキリスト(「ヨハネ黙示録」の第一章に出現している“久遠のキリスト”)の姿を最初に見たのは私の家内であった。それは生長の家の最初の原稿を書いた所謂“発祥の家”で、私と家内とが互いに向かい合って神想観を実修している時、私の背後に空中に立っていられる白髪の老翁の神様の姿を拝したというのである。
 この神姿はその後、他の信徒の集まりにもあらはれたし、その頃熱心に私の宅へ日参のように来ていられた長尾初枝さんも見たと言はれた。その頃、非常に熱心で、誌友会の集まりを“三日会”の名の下に、毎月三の日に催しておられた畑中猶三氏の集まりにも度々その神姿が見えた。「しかも一人のひとに視えるだけではなく、集まっている人の全部にではないが、数人の霊眼に同一神姿が、同一の位置に於いて見えるので、それはほんものでしょう」といって畑中氏は私に訪ねられた事がある。私自身はこの神姿を見たことがないのは、一寸妙に感じられるが、自分自身の顔は自分には直接見ることができないというような原理によるのかも知れない。

 神宮前1丁目23−30(旧地名“原宿”)にある本部の旧館の正面玄関の上部に安置せられてある神像は、服部仁郎氏が、家内の霊視せる神姿を詳細に聴き、それによって模型を造り、家内が「此処はこんなでなかった。此処はこうであった」といちいち訂正して、家内の霊視した神像に出来るだけ近づけて製作せられたものであるが、服部氏自身は、神姿を見たことはなかったが、天才的彫刻家の一種の霊感で本当に家内の見た神姿そっくりに出来ているらしいのである。数年前、今は横浜に居る誌友が、はじめて、この原宿にある本部を訪問して、その正面玄関上の神像を見て“オヤ!”と驚いた、といって手紙を私に寄越された事がある。その手紙にはこう書いてあったのである。この神姿は、谷口が嘗て早稲田大学の大隈講堂で講演している時に、その谷口の姿がこの神像に変貌していたのを思い出して不思議な神秘感に打たれた。どうして大隈講堂で自分が見た霊姿をこんなに正確に再現できたのであろうかと。家内の霊視した神姿にもとずいて塑作されたこの神像が、横浜の誌友の霊視した神姿そっくりに出来ていたということは、服部仁郎氏の制作技術の素晴らしさと、霊界の神秘の相互関連を語るものとして注目してよいと思うのである。>>




光明輝やく実相の世界に住む神

『生命の実相』第二巻・実相篇下巻(P.134〜137)

<< そのうちにこの『生長の家』の事業が神の人類生活光明化運動であると言うことが明瞭になってきたのであります。ちょうど、仏教にも護法の神といって持国天だの、多門天だの帝釈天だのという神がある。それに比すべくこの『生長の家』にも護法の神が出現したのであります。・・・『生長の家』誌の第一集第四号を執筆している頃「光明の国」という私の霊感的長詩を家内が校正いてくれましたとき突然神憑りとなったのであります。わたしは審神者(さにわ)として、その時いろいろ神誥を聞いたのでありますが、この神はわれわれの祖先の霊でも、われわれ家族個人の守護神でもなく、家のうちに祭祀してある神でもない、名はいうに及ばぬ、光明輝く実相の世界に住む神である。これから『生長の家』を読んで病気の治る者があいついで出るけれども、それは読んで真理を悟って治る人もあれば、神が救いの方便に治すのもある・・・などという意味のことがあったのであります。ところが今まで家内には霊眼がひらけたということなどは全然なかったのでありましたが、その時突然天空高く白衣を裾まで垂れ、鬚髯(しゅぜん)を胸まで垂れた尊き神姿を拝したのでありました。この事実と相前後して香川県の某氏からは従弟に『生長の家』を読ませたところが神経衰弱が癒えた事実があり、それではわたしの霊力に頼れば親戚某氏の精神病もよくなるだろうとある日「生長の家」までこられたところ、その日を境にして快方に赴いたりしました。・・・

・・・護法の神の顕現ということについては、なお多少の疑いを抱く人があるかもしれません。ところがある日、霊覚ある某女史が来られて私に鎮魂してくれと頼まれたので二階で鎮魂してあげると、ある神の姿をその方は拝されたのであります。その拝された神の御様子をその方がわたしに話そうとしていられる時に、かつてその神の姿を見た家内が二階に上がってきて「そうあなたもお拝みになったのですか」といって互いにその神の容貌はこう、服装はこう、と両方から話して照らし合わせてみるとピッタリ一致するのであります。それでこの神の存在がたんなる幻覚ではなく時を異にして別々の人に、同じ姿を顕現せられたので、客観的になにかあるという証拠になってきたのであります。そののち私はその神から『神想観』という一種の座禅のような方法で、本当の自己は肉体の自己ではなく円満玲瓏たる神である如来であると言う事を自覚するための精神統一法を教えられ、その方式に従って行えばいかなる遠方へでも、この神みずから顕現して指導するとの啓示がありましたので、その修行を毎日一回三十分間やっているのであります。>>




なぜ観世音菩薩は生長の家の神様か(生長の家マークの由来)

神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.26〜28)

<< 生長の家の神様は住吉大神であると言って、今またそれを観世音菩薩であると説くのは何故であるか、どこにそんな証拠があるのか。お前は、そのように説いたならば、キリスト教も仏教も一緒に和合するのに大変都合が良いと思って、そう言う説を牽強付会して拵えたのではないか、と言う風にお考えになる人もあるかも知れんけれども、決してそれは<牽強付会>ではないのであります。それには現実的な証拠があるのであります。

 私が住吉村から移転いたしまして上京して二年目位でありました。生長の家にもマークを拵えなければならないと言う事になり、生長の家は一宗一派の宗教ではないから、神道を表現したところの日章旗、仏教を表現した所の卍(但し、吉祥まんじ)、それからキリスト教を表現したところの十字と、日本に現に行われている三大宗教の印である十字と、卍(但し、吉祥まんじ)と、日章旗の三つを一つに纏めたような、そう言うマークを拵えたいと思いまして、当時文部省主催の展覧会なる帝展(今は“日展”と言っている)の審査員をしていられた山根八春先生に頼みまして、生長の家の徽章を拵えて貰ったのであります。それは、七種類ほど考案して下さったのでありますが、その中の一種類を私が選びまして現在の生長の家のマークが定められたのであります。私がこの時計の鎖につけているマークですね。・・・観世音菩薩がこのマークをつけておられたと言う事を私は全然知らずに山根八春先生がこのマークを考案して下さったので、これをバッジにして当時の大阪の生長の家連合会に送って、“大阪の誌友達に皆に分けて下さい”とお願いしたのであります。

 その時の連合会長が門脇観次郎と言う人でありました。海事審判の弁護士をしておられた人でありまして、胃潰瘍その他の諸病がなおって非常に功徳(おかげ)を得たので、あんまり有難いと言うので、神想観をせられたときに、「生長の家の神様の御姿を拝まして下さい」と熱心に祈られたのであります。 そうすると、神想観中に、目をつぶっているけれども、霊眼に観世音菩薩の姿が顕れたわけであります。この門脇観次郎さんの所へ、大阪連合会用の生長の家のマークが行った時に、「おや、このマークはどこかで見た事あるな」と門脇さんは思い出したのです。 「あゝ、四年ほど前、あの神想観している時に観世音菩薩が出て来られた。宝冠をかぶっておられたが、その宝冠の真ん中にこのマークがついておった」と言う事を思い出されたわけであります。

 現実世界では、それから四年ほど後に、山根八春先生の拵えられた七種のマークの図案の中からその一つを選んだのがこのマークであるのにですね、人間界では四年ほど後に出来ているのですが、霊界では、観世音菩薩が四年も前から宝冠にこのマークを附けておられた言う事がわかったのであります。

現象界は霊的世界にある原型の影である。・・・
 それによって何がわかるかと申しますと、現象世界と言うものは、現象世界以前にあるものが、映って来て、現象化して顕れて来るものである。即ち現象世界はその前に“現象以前の世界“――霊界――または心の波の世界に在るものが、ある時間の経過をたどって、それが現実化し、現象世界に顕れて来るものであると言う事が分かるのであります。こう言うわけで生長の家の神様は仏教では観世音菩薩であると言う事が証明されているのであります。>>




聖経『甘露の法雨』の由来

神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.38〜39)

<< 『甘露の法雨』は、生長の家発祥当時、しきりに霊感的に私の脳裡にひらめいて来たのを書きつづった自由詩の一つであった。その頃出てきた私の自由詩は全部『生命の実相』の“聖詩篇”に収められているが、別に『ひかりの語録』という携帯型の袖珍本(しゅうもんぼん)に、やはり霊感的短箴言の輯録である“智慧の言葉”と共に収められているのである。これは私がまだ東京へ出ない前の数年間、ただ一般に“生長の家の歌”叉は“自由詩”として取り扱われていたのであるが、私が東京へ移転してから後、京都電燈社長の石川芳次郎氏の外舅(しゅうと)・工学博士・小木虎次郎氏が、その自由詩の中の一篇『甘露の法雨』を読誦すると、医界難治の奇病・難病が治癒することがあり、霊界の祖先の霊が救われると見えるような奇瑞が屢々あるので、それを単に”詩“として詩集の中にのみ収めておいては功徳を知らない人が多いから、ハッキリとこれは聖経であると明示して折り本型の経本として発行すれば、功徳を受ける人が多いであろうと、生長の家京都教化部で経本式折本として発行されたのであった。折本の紫色の表紙には単に「聖経」という表題が貼り付けてあり、経文の本文を印刷した紙は、尾本輝三氏のお世話で福井県若狭ですいた純粋の和紙で作られたものであった。果たせるかな、それが経本になって頒布されると、陸続として功徳を受ける人々が殺到して、それを携帯するだけで、交通事故に遭いながら微傷も負わなかった人が出て来たりしたのであった。京都の教化部では、これは京都で独占すべきものでないと、その出版権を本部に返還されたのであった。

 どうして『甘露の法雨』にこのような偉大な功徳が生ずるのであろうか。私は、それをただ霊感で詩作する時に、ふと感じてその詩の題を『甘露の法雨』としたに過ぎないのであって、別に『法華経』の観世音菩薩の普門の功徳を説いた“普門品”に連関して詩の題を『甘露の法雨』と題したのでもなかったし、観世音菩薩が教えの本尊として門脇観次郎氏の霊眼に見(あらわ)れるなどと言う事も全然予想もしなかった。ところが私の著書や執筆の雑誌を読んで功徳を得た人に顕れる色々の霊顕や現象が次第に観世音菩薩が生長の家の本尊であり、その観世音菩薩が『法華経』の“普門品第二十五”にある通り「甘露の法雨を注ぎ給うて煩悩の炎を滅除し給う」のである事を証明するようになったのである。聖経『甘露の法雨』の功徳はそれをお説きになった観世音菩薩の妙智力と引き離して考えてはならないのである。>>




講演中荘厳なる神姿を拝す

『生命の實相』第34巻(P.225〜227)

<< 辻村楠造翁に紹介されて生長の家誌友になった建築家斎藤氏は三月第一日曜日の服部氏邸における誌友会で数名の生長の家誌友が二月九日の講演席上で谷口先生が長い顎髯を生やしていたのを目撃したと精華女学校の先生はじめ数名が証言したので、不思議なこともあるものだと半信半疑でいたのだった。そして軍人会館での第二回目の講演会に出席して谷口先生の御講演を聴いていた。ところがご講演の途中で谷口先生に顎髯が生えたのが見えてきた服部氏邸での集まりで顎髯が生えて見える話を以前に聞いていたので、そんなことは実際はないのに、ただ幻覚でそう見えるのではなかろうかと斎藤氏は自分の眼を疑って、眼を幾度もこすっては注視したが、やはり顎鬚があるように見えるのである。斎藤氏は幻覚に捉われまいとして、眼を瞑ってしばらくしてから眼を開いた。顎鬚は半白のようで、時々その寸法が長く見えたり短く見えたりした。顎鬚が顎の先から生えているように見えたり、咽喉のところを這うように見えたりするのだ。これは光線の具合で陰影のさせる幻覚ではないか。斎藤氏はまた眼を瞑った。そして再びそれを見定めるために眼を開いた。やはり顎鬚が見えるのだ。顎髯のある誰かの姿と谷口先生のお姿とが重なり合っているようにも見えるのだ。その誰かの姿は笏(しゃく)をもっているようにも見えた。幻覚か何だろう。斎藤氏は再び眼を瞑った。

 もう谷口先生の御講演は終わりに近づいていた。斉藤氏が再び眼を開いたとき、谷口先生のお姿はかき消すように消えてしまっていてただ講演の声だけが聞こえてきていた。そして谷口先生のお姿のかわりに、そこに、普通人よりもよほど大きく見える白髯の老翁の姿が立っていた。ニス塗りの演壇の机の色が真っ黒に変わり、後方に垂れた幔幕の演壇の高さと同じあたりから下方は、一面に白色の台(うてな)のように変わって、その台の上のところには老翁の姿の左右に、御簾が浮き出してきて、その御簾には鏤(ちりば)めたように星がチラチラ輝いているのだ。これがはたして幻覚だろうか。斎藤氏は呆然と眺めていた。眼は現実にハッキリと見開いているのだ。谷口先生は、茶色の羽織を着ていられたのにその白髯の神様は緑色の、縦に縞のような光のある着物を着てい、講演がまさに終わろうとする挨拶の言葉が始まった瞬間、その白髯の神様の姿は消えて、もとの谷口先生のお姿に帰った。斎藤氏はその時の白髯の神様の姿がいつでも想い出せるほどハッキリと心に印象づけられた。そしてその神様の姿を写生した絵を辻村楠造翁に見せた。谷口先生もそれをおもしろがってごらんになった。また、そのほかにも、この霊姿を見たものはたくさんあった。>>




真理の説かれる所、神は顕われる

『生命の實相』第34巻(P.227〜228)

<< 明石の某寺の戸川貞子さんが「生長の家」の真理で数年来の病気が癒えて、自分自身が人々の病気を癒す力を授かったとき、某寺の随身が病気になった。随身と称する、その「おつき」の人はなかなか「生長の家」の真理を信じなかった。戸川貞子さんは少しく激してきていた。「わたしは真理をあなたにお話するのです。真理は神様の言葉です。あなたはわたしが話をすると思っていますが、これは神様がお話をするのです。」貞子さんは覚えず自分の唇からこういう厳かな強い語調がほとばしり出るのを聞いた。その瞬間貞子さんの後方に輝く洗面器大の光が見えた。パーッとその光が随身の方向へ射していっていた。戸川さんはみずから驚いて振り向いたほどであった。

 谷口先生はおっしゃった。「生長の家の神様の神示に『誰にてもあれ、生命の實相を説く所に吾れは姿を顕わさん。吾れは生命の實相であるから』とあります。それは肉体から後光が射したとお思いになってはいけません。『生命の實相』の真理が神なのですから、生命の実相を説く時、誰からでも光が出るのです。生命の実相を説きながら戸川貞子さんも自身の後から出る光に驚いた。わたしが講演中、わたしから後光が射すのを見た人があるのも、私の肉体から後光が射したのだと思ってはなりません。私が話すとき、それが生命の実相の言葉なら光を発するのです。生命の実相の言葉から発するということがわかれば、『生命の實相』の本を読んだり読み聞かせたりして、それで病気が治るという理由もわかる。話す人は誰であっても『生命の實相』の言葉を発すれば、<実相の言葉は神>であるからそこには治す生命波動を発し、霊視力の発現した人には光を発したように見えるのです。これは個人の徳ではなく、光明化運動に与えられた特権です。」>>




「生長の家」の神の顕現

『生命の實相』第34巻(P.233〜236)

 神の霊光が光明思想普及会事務所に顕現したと思われる事件が起こった。生長の家と光明思想普及会とは赤坂区檜町五番地所在山脇高等女学校の校舎全部を譲り受け、昭和十年八月十一日よりその事務所を同校に移転したのだ。
 しかるに同校にはすでに校舎譲受の交渉成立当初より神様の御光であろう、燦然たる光明が三階の尖塔に射していた。それは八月一、二日ごろ会社側から山脇高女譲受けの全体的交渉がまとまった当時の出来事であった。

 同校には宿舎に住み込みとして、学校の雑用にいそしむ勤勉で深切な藤井忠三郎さん老夫婦がいた。藤井のおばさんは非常な信仰家で、毎日神棚に供物や、お光を捧げてお祈りするのが日課の一つであった。このおばさんは、こうした信仰心から生まれる当然の顕われとして、以前から、不思議な神示や、霊感があり、それが現象界の事実に的中して、時々老主人を驚かすような幾多の体験を持っている不思議なおばさんである。

 八月初旬(学校譲受交渉成立のころ)藤井おばさんは、六、七歳の孫娘さんを同伴して、付近のお湯屋へ行こうとした途中こんな霊異が起こった。「学校前の電車通りに出て、何心無く電車道の向こう側から校舎の方へ目を注ぐと、暗中に立つ校舎の二階から三階にかけ一面に真っ赤な明光が照り輝いている。さながら陽炎の燃え立つごとく一種の異様の霊光燦然として、おばさんの目をおどろかしたのであった。藤井のおばさんは、学校の夜を預かっている責任の立場からも、校舎の室内に点灯などなきは、もちろん承知であり、かつその燦たる霊光が、電灯などの人為的な明かりでなくまさしく日常信仰祈願の都度時々霊視する、何か神様の霊現たるを直感すると同時に、未だかつて体験せざる霊感にうたれ、ただ事ならぬ大異変の近日中に起こるべきを直覚したのである。藤井のおばさんは、あまりにも不思議な、この霊光の正体をなおも確かむるため、わざわざ電車通り向こう側より市電線路を越えて学校側に近寄り暫時直立不動のまま全身に快く注ぎ来る異様の霊感を浴び、心身すこぶる爽快を覚えつつ、世に珍しきこの霊光を仰視していたが、ふと危険地帯に残されたる同伴孫娘の安否に心を移して引き返し、孫娘に向かい、あの霊光を拝めと指示したが孫娘の目にはただただ暗中に建てる校舎のみ、何物もなきに驚き騒ぐ老祖母の顔を見上げて不思議に思うのみであった。その光明は当然孫娘の肉の目に映ずべき照明ではなかった。藤井のおばさんは、この霊光はただごとならざる異変の二、三日中に起こるべき前兆と予断し、万一災禍の何事か学校にあらざるかを慮り明朝は特に預かり守る学校に異変なきを神に祈願すべく思念して一夜を明かし、翌朝早々学校構内に鎮座ましますと伝え聞くお稲荷様を向かえ祈願礼拝すれば、驚くべし、未だかって覚えざる心身の爽快と異様の霊動は全身に発動して限りなき霊感に驚くのみであった。

 こうした事実の体験後三日を経て山脇高女の建物全部が「生長の家」の真理宣布機関たる光明思想普及会に譲渡されたのであった。藤井のおばさんは、(藤井老夫婦は当時まだ「生長の家」の何たるかを知らなかったので)先夜の霊光顕現と光明思想普及会とが何の関係があるか判然とはしなかったが、その後光明思想普及会事務所の移転開設に伴い、しばしば「生長の家」の神話や神様の真理を聴くに及んで、初めて藤井おばさんは、あの夜に校舎に映じた霊光燦然たる顕現が、確かに「生長の家」の神の御霊光であったにちがいないと悟り、驚きながら筆者に以上の事実をこと珍しく物語ったのであった。>>




聖経の功徳、反乱の近衛部隊を鎮静せしむ

神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.57〜60)

<<・・・将校のひとりは、「問答をしに来たのではない。事は危急を要する。戦争を継続して敵を叩き落とすか。それに対してイエスかノーかというだけだ。イエスでなければ斬る!」と軍刀を抜いて斬りかかった。それを止めようとした副官が誤って斬り殺された。その隙をねらって一人の将校が放ったピストルの銃弾が命中して、森赳中将は劇的な最後を遂げたのであった。

 いよいよ師団長を銃殺して起ち上がった中堅幹部将校は、もう後退する訳には行かない。ただもう決戦に向かって邁進するほかはないのである。そこで東部軍管区司令官・田中静壹大将のニセの戦争継続の命令を出して、全国にそれを連絡しょうとし、一隊は、天皇陛下の終戦の詔勅が明日正午放送されたら、「事畢(おは)る」というので、それを奪い取るべく皇居の中に忍び込んで探し廻ったが、それは小さな手提げ金庫の中に収めて、書類押入れの書類の奥の下積みにして隠匿されていて中々見出す事が出来なかった。                

 近衛軍中堅幹部将校が終戦反対で師団長を射殺して、東部軍司令官のニセ命令で戦争継続を画策しつつあるとのことを伝え聞いた東部軍司令官・田中静壹大将は、護身のため、右手に聖経『甘露の法雨』を持ち、副官・塚本少佐ただ一人を従えて、師団長の死を見て、益々殺気の孕んでいる近衛軍中堅幹部将校の中へ飛び込んでいかれた。 そして右手に持った『甘露の法雨』を熱情で思わず打ち掉(ふ)りながら、“天皇陛下の御心は斯うじゃ”と諄々として話されると、その話の内容は森・師団長の話の内容と全く同じでありながら、幹部将校たちは敬虔な態度でそれを素直に受け入れて、ついに反乱中止・戦争継続中止となって、八方から、田中静壹大将に銃口を向けていたピストルも銃口が下にさがり、幹部将校たちは帰順し、無事翌日八月十五日正午、天皇陛下の“終戦の詔勅”が全国に放送される事になったのであった。

 全くそれは不思議な奇蹟であった。天皇陛下のお言葉を、森・師団長も東部軍司令官・田中静壹大将も同じように反乱将校たちへ伝えたのであった。それにも拘わらず、その反応は全然異なっていた。一方は、師団長を射殺までして抗戦を継続しようとしていたのに、もう一方は、素直に田中静壹大将の説得を受け入れて、無事に戦争の終結に入ることが出来た事である。その相違はどうして生じたのであろうか。後になって、反乱軍の将校に、「何故、田中静壹大将を森師団長同様に射殺しなかったのか」と訊いてみると、その答えは次のようであったと言う事である。

「あの時、田中静壹大将は右の手に紫色の絥紗に包んだ天皇陛下の御諚(ごじょう)を持って来ておられてそれを打ち掉(ふ)りながら、“天皇陛下の御心は斯うじゃ”と言われた。われわれは天皇陛下の御心に背くつもりはない。重臣たちが、自分のいのちが惜しいので、本土決戦をおそれて天皇陛下の御心を曲げて無条件降伏などをしようとしていると思ったから、どこどこまでも天皇陛下の為に戦おうと決意していたのである。 ところが田中静壹大将は右手に天皇陛下の御諚を持ち、それを打ち掉りながら、陛下の御心は斯うじゃと言われたら、それに抗することはできなかった。天皇陛下の御諚をもって来ていられる以上、田中大将は天皇陛下の御名代として来ておられるのだから、これを射つことになるから、そんな事は出来なかった。」

 反乱軍の戦争継続の考えを変更せしめたものは、全くこの奇蹟であったのである。田中静壹大将の右手に握っているものは、紫色ではあるけれども、紫色のサックに入った紫色の表紙を持つ大型の聖経『甘露の法雨』であったのである。それを反乱軍の中の唯一人が、天皇陛下の御諚と見あやまったのであれば、それは唯の錯覚だと言う事が出来るかも知れないが、田中静壹大将を取り巻いて、「戦争継続に反対なら射つ」と身構えして覘っている多勢の将校全部に、その『甘露の法雨』が、紫色の絥紗に包んだ陛下の御諚と見えたのである。
 これは明らかに、住吉大神が日本滅亡の危機を救わんが為に『甘露の法雨』を媒介として、奇蹟を演じられたのだと解釈するほかはないのである。もしあの時点で日本が終戦の終結に同意していなかったならば、ソ連は八月十五日の三日後にはエトロフ、クナシリ、ハボマイ、シコタンの諸島にまで侵入して来ていたし、(これをソ連はまだ返還しようとしない)日本軍は、当時まだ日ソ中立条約が有効中であるので、ソ連軍は決してその条約を破って攻撃して来るとは予想もせず、従ってソ連国境および北海道の兵員は極々手薄にして、南方に全兵力を投じていたものだから、ソ連が計画的に正規軍を以って侵入してきたら、ひとたまりも無いのである。もしあの時、近衛師団の反乱を鎮定できずに戦争継続状態になっていたならば、瞬く間に北海道、東北六県、関東、信越諸県はソ連軍の席巻するところとなり、東京は東部半分がソ連軍が駐屯、西部半分がアメリカ軍の駐屯となり、日本は、恰もドイツが東ドイツ、西ドイツと分断され、ソ連圏内の東ドイツが未だにソ連に搾取誅求されて、経済的には常に貧しく、思想の自由すら失った警察国家であるように、ソ連圏の東日本はどんなひどい目に会わされていたかも知れないのである。

これを救い給うたのは、実にあの時点に於ける天皇陛下の戦争終結の大英断の賜であるが、それにしても近衛師団が反乱を起こして、全日本の師団をリードして抗戦を続けていたら大変な事であったのに、その反乱を中止せしめた、住吉大神(観世音菩薩)の降ろしたまえる聖経『甘露の法雨』が奇蹟的に反乱将校を鎮圧せしめる功徳を演じてくれたお蔭である。 住吉大神が何のために、万教帰一を説きながら、特殊の生長の家という姿で、今から四十年前に出現しなければならなかったか――それはこうして此のような時点に於いて日本国家を鎮護救拯せられんが為であったのである。>>




尊師は神であらせられる、――護国の英霊はかく語りき(霊界通信体験記)

<<・・・「霊界では、これまで祖国の現状を見るにつけ、私たちの死が無駄であったとか、そうではないとか様々な意見があって混乱しておりましたが、この数年間に漸く平定され、今後は現象界が浄化されて来るでしょう。そのために世界は非常に危機的な様相を呈して来ます。(この内容も具体的に表現されたが本稿では割愛する)日本もその渦中に包含されるが、祖国の上空は私達、念の力で必ず護ります。」私は思わず反論した。「念の力で、その様な事が可能でしょうか?」間髪を入れずに厳しい叱責の声。「念の力がどんなに強いかは、貴方が一番良く識っているではありませんか。」心に飛び込んで来た響きに、私は素直に謝意を表した。「しかし、現象の日本国は何と言っても現象界の貴方たちの努力で護るより他に方法はない。私達も勿論応援はします。ところで今、長崎に素晴らしいものが完成しつつありますね。」

 「-------はい、鎮護国家出龍宮住吉本宮という住吉大神の御出御を仰ぐ御社が出来ています。」「私たちは以前から承知しております。誠に慶びに堪えません。その完成の日を待ちこがれていたのです。さて貴方は谷口雅春(呼びすてにされた)を識っていますね。」「はい、私達、生長の家の総裁先生であります。」「そうです。しかし、ご存知ですか、あの方は人間の姿をして居るが、実は住吉大神の化身でありますよ。」その強い響きの言葉に触れた時の私の驚きたるや、言語を絶したものであり、永年の信仰生活の中でこれほどの感動はなかった。

嗚呼、尊師は神そのものであらせられる。「今後の日本国を護る、その中心になって活動するのは、実に谷口雅春導きになる生長の家の信徒の皆様意外にはありません。確かに自衛隊も必要ですが、まだまだ不十分です。国と国との戦いよりも内部の革命分子の蜂起を未然に防止することに起ち上がって下さるのが信徒の皆様なのです。しかし、何と言っても、現在の誌友が二百五十万や三百万では不十分です。少なくとも、一千万人の方々が信徒・誌友にならなければ-------この儘ではこの日本国は名のみ残り、真の日本国は永久に顕われないかも知れません。幸いに住吉大神の御顕斎をする御社が建立され、今後は此処が日本国の真の姿を顕わす中心となるでしょう。且つ亦、同時に世界浄化の中心の起点となるでしょう。以上の事をよく御考慮下さいまして、お帰りになりましたら直ちに是非とも多くの方々にお伝え下さることをお願いします。」その言葉が終わるや眼前の霊光はすうっと消えていったのである。
               
 その直後、私はドキッと心臓が高鳴るような衝撃を受けて我に返った。誰かが私の肩を叩いたらしい。一気に現象界に目覚めたものの、暫くは自分が何処にいるのか混沌としている有様だった。霊的対話の時間は定かではない。遺族の方の申されるのもまちまちで、三十分と言う人、五十五分という人も居た。ただ一様に私が立って祈って居たのが、いつしか座して不動になった事を不思議に思っていたとのことである。あの時の英霊との対話は夢ではなかったと私は信じている。しかし、現象的にはどうしても納得がゆかず、あれこれ悩み乍ら、いつしか歳月が流れ、英霊達との約束もはたされないままであった。心中、申し訳なさで一杯の日々であったが、今や内外の情勢は、刻々緊迫の度を深めつつある。日本を護るため今、ここで起ち上がって尊師の御心を体し、日本国の実相顕現、鎮護国家、人類光明化運動の実を挙げる時は来たと思う。皆様のご批判を仰ぎ、賛意を表していただけるならば、急遽この体験を知って頂きたい。そう念じつつ筆を執った次第である。
広島県尾道市西土堂町3−13  木曽正人   >> 

  


大アフリカに宗教史上空前の奇蹟

昭和四十九年十月一日発行「世界に伸びる生長の家」(大型グラフ版)P.0〜5より

<< “暗黒大陸”アフリカに今、真の黎明の時が訪れようとしている。赤道直下の西アフリカ・ガーナ共和国、1960年を頂点とするサハラ以南のブラック・アフリカの独立運動の先頭に立ち、1957年・昭和三十二年三月英国領から独立した若い国、ブラック・アフリカで最も近代化の進んだ国―――とは云え数世紀に亘る植民地支配の残した傷跡は余りにも大きなものがある。「黄金海岸」「奴隷海岸」と言った方が、ガーナと言うより解かりが早い。虐げられ、奪われ続けた悲しい民族の歴史に終止符を打ったのはつい十七年前のこと、解放の喜びはそれだけに強烈なものがあった。しかし、それにも増して根深いのは、幾世代にも亘った奴隷の記憶である。抜きがたい民族的な屈辱感・劣等感は独立間もないこの国の人々の心の奥深くわだかまっていた。

 丁度そんな時であった。長い英国の支配下にありながら、屈することなく勇敢に抵抗を続けた強大で優秀なアシャンテ族の由緒深い血を享け嗣いだ一人の青年、プリンス・J・ブラックソン師が起ち上がったのは。

 彼は、この国の人々に説くのだった。「人間は皆、神の子なのだ。民族を超え人種を超えて人間はみな万能なる神の子の愛ぐし子なのだ。目を開け、白人も黒人も皆ひとしなみに神から万能の力を与えられているのだ。智慧も富も能力も。悦べ、讃えよ、この大いなる福音を!」と。独立の気概に燃える人々は、この人の教えに歓喜した。これぞアフリカに黎明を告げる教えだと。そして以来、今年まで十三年、ブラックソン師の下に次々と十万の信徒が集まった。―――

 ブラックソン師は何故起ち上がったのか。七、八才の頃だった。夢の中に一人の聖者が現れて優しく彼に人間の真実について説き明かすのであった。それ以来、その聖者は幾度となく彼の夢の中に現れて一つ一つ彼の疑問を晴らしてゆくのであった。そして彼は人間の真実が、実相が、誇らかに光輝く姿を見る日が来た。ついに起ちあがる決意をした。時に、プリンス・J・ブラックソン師二十六歳の春であった。・・・>>






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日時:2015年06月21日 (日) 10時22分
名前:ニャンコちゃん

心が浄まり感動しました
こんなお話埋もれさせるのは勿体ない



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