生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生政連と雅宣総裁 (7797)
日時:2017年09月23日 (土) 21時30分
名前:本音の時代

魚住昭著 「証言 村上正邦 我、国に裏切られようとも」からの抜粋になります。なお、役職や肩書きはこの本が出版された2007年当時のものです。


 背信行為

 中絶を防止して、尊い胎児の生命を守ることは谷口先生の悲願でした。だから昭和57年3月の参院予算委員会で初質問の場を与えられたとき、私は屋久杉の保護と同時に優生保護法の改正を訴えました。
「総理はじめ閣僚の皆様に、ぜひ聞いていただきたい歌がございます。お手元にその歌詞を配りますからお開きいただきたいと思います
そう前置きして私は次のような、歌詞を読み上げました。

ママ! ママ!
ボクは、生まれそこねた子供です
おいしいお乳も知らず
暖かい胸も知らず
ひとりぼっちで捨てられた
人になれない子供です
ママ! ママ!
ボクの声は 届いているの
ここはとても寒いの
ママのそばに行きたい
ボクは 生まれそこねた子供です

読み上げた後で鈴木善幸首相らの感想を開くと、鈴木首相は「幼い生命についての切々たる叫び、そういうものを私はこの詩から感じる」と言い、森下元晴厚相は「まことに示唆に富んだ、内容の深い歌であり詩であると思う」と答えたので私はこう言いました。
「この歌を開くたびに中絶された胎児の啾々(しゅうしゅう)とすすり泣く悲しみの声が海の底から聞こえてくる思いがする。優生保護の名のもとに聞から闇へと葬り去られた五千万から七千万にも上る胎児の御霊に懺悔し、御霊鎮まれと祈り、合掌しつつ本論に入らしていただきます」
 生長の家は法改正のために七百万人の署名を集めました。玉置と私で二百人近い国会議員を集めて『生命尊重議員連盟』もつくった。そうやって中絶は生命の尊厳を否定するものだから中絶理由から経済条項を削除すべきだという一大運動を展開したんです。
 昭和57年11月に総理になった中曽根康弘さんは生長の家の2代目総裁・谷口清超先生と東大の同期だった。そのうえ奥様が生長の家の活動に熱心で、ご主人が朝出かけるときは『甘露の法雨』を必ず背広の胸のポケットへ入れておかれるから、中曽根さんも法改正に積極的だった。
 「(優生保護法改正に積極的だったのは) 堕胎が奔放にやられるのを少し慎重にした方がいいと考えたのです。これは『生長の家』の考えで、参議院の村上正邦君とか、玉置和郎君とか『生長の家』の支持者が強く主張していました。私も昔から『生長の家』の機関誌を読んでいて、それで甘露の法雨とか、生命の実相というのは、たいしたものだと思っていました。ある程度共鳴していたわけですよ。(中略) 堕胎の実数というのは明らかにはなりませんが、生まれてくる赤ちゃんの数とあまり違わないかもしれませんね。もし、堕胎がなかったとすれば、少子化、高齢化問題もかなり解決するわけで、その意味では重大な問題ですね」(中曽根康弘著『天地有情 五十年の戦後政治を語る』文芸春秋刊より)
 こうして昭和58年の通常国会でようやく優生保護法の改正問題が再浮上した。だが、この動きに反対する女性たちの声をバックにした『母性の福祉を推進する議員連盟(森山眞弓代表)』も党内に誕生した。
 結局、党内の混乱と女性の反発を恐れた自民党執行部は優生保護法の改正案提出を見送りました。生長の家にしてみれば、これは自民党の背信行為以外の何ものでもない。選挙のときに利用するだけ利用しておいて肝心のときには何もしてくれないという不満が募った。それが後に生長の家が政治から手を引く原因の一つになったんです。

くら替え

 (略)ところが、(昭和58年)2月に入って思わぬ事態が起きた。玉置が参院から衆院へのくら替えを表明したんです。玉置は生長の家の組織票で過去3回の参院全国区に当選してきた男です。それが衆院にくら替えするということは、生長の家との関係を断絶させることを意味していた。
 そうなった理由はいくつかありますが、結局のところ、生長の家と玉置の間の溝が埋めようがないほどに大きくなってしまったということでしょう。
直接のきっかけは、前年8月に参院全国区制度改革のための公選法改正案が成立したことでした。全国区の選挙には大変な金がかかる。候補者は全国をかけずり回って体力を極端に消耗させる。これではいけないというので全国区をやめ、比例区を導入したんです。 この制度改革の旗を振ったのが玉置でした。それを教団側の一部の幹部が「玉置は自分の利益のために勝手に制度を変えたんだ」と誤解したんです。
 それに比例区の名簿順位は候補者が獲得した党員数や党への貢献度で決まるので、当選させるには、生長の家の誌友(信徒)を自民党の党員にしなくてはならない。信徒が党員になれば、生長の家は自民党の下部組織になっていく。それは教団側にしてみれば宗教組織の根幹に関わる問題だったわけです。

 教団三代目

 玉置が教団と絶縁した理由はもう一つあります。これは教団の三代目である谷口雅宣さんの玉置に対する不信感なんです。
 二代目総裁の清超先生は初代の雅春先生の実子ではありません。若いときに肺結核にかかり『生命の實相』を読んで救われたのをきっかけに生長の家に入られて、教団の雑誌、出版物の編集をしておられた。
 雅春先生の原稿を毎日取りに行く。そのとき玄関に出て応対されたのが、雅春先生の長女である恵美子先生なんです。お二人が結婚されて雅宣さんが生まれた。雅宣さんは青山学院大を卒業して産経新開の記者になった。
 ところが雅宣さんは支局勤務のままで、すぐに本社の政治部に上げてもらえなかった。それが玉置の差し金じゃないか、雅宣さんが政治部に来て玉置の政治的動きを全部知られたら困るから、玉置が圧力をかけて本社に上げないようにしたのではないかという俗っぼい話になっているようだと、当時、玉置がぼやいていました。
 もちろん玉置はそんなつもりは毛頭ないと弁明したが、そのうち雅宣さんは産経を辞め、教団に帰ってしまった。まもなく私と玉置は教団の全国教化部長の会議に呼ばれて、
「なぜ勝手に選挙制度を変えたんだ」
 と幹部たちからやり玉に挙げられ、雅宣さんからもお叱りを受けた。その時、私が前面に立って、
「そうじやないんです!」
 と弁明しました。玉置自身は制度改正をよかれと思っていたし、私もそう思っていた。独断でやったわけではない。生政連で機関決定して進めたことなんです、と説明しても教団の不信感をぬぐえなかった。
 ちょうどそのころ、かつて玉置がつかえた早川崇先生が病死して、和歌山2区の後継者の話が持ち上がった。それで玉置は
「生長の家からそんな糾弾を受けるくらいなら、俺は衆議院に行く」
と決心して、その直後に衆院選で無事当選を果たした。

 孟蘭盆会

 昭和58年(1983年)2月に玉置が衆院へのくら替えを宣言してから3ヵ月後には、前に述べたように優生保護法の改正案も成立の見通しが立たなくなりました。さらに同年6月に行われた参院選では玉置の後継者として生長の家が送り出した寺内弘子さんが次点で落選してしまった。寺内さんは玉置の秘書だった人で、玉置が参院からくら替えするときに「寺内は必ず当選させる」と教団に約束した経緯があった。
 ところが自民党が彼女を比例名簿の21位にしか載せなかったので落選の憂き目に遭った。これで玉置や党に対する教団の不信感がさらに募ったんです。
 生政連は昭和58年の8月15日、ついに活動停止を宣言しました。つまり教団が政治との絶縁を宣言したわけです。
 生政連が活動停止を宣言してから数日後、京都府宇治市にある生長の家の別格本山で孟蘭盆会がありました。その折、私は清超先生にこう言われました。
「あなたの今後のことは、中曽根さんに頼んでおいたからね。中曽根さんは、ぜひあなたを中曽根派に欲しいと言っている」
 私は、
「はい。ありがとうございます」
 と答えました。私は雅春先生や清超先生の絶対的な信頼を受け、あふれるような愛情で育てられた政治家ですから、教団の指示は「はい」とお受けするしかない。
 このとき清超先生は、生政達は解散するけれども、生長の家の福祉団体の理事としては残りなさい、次の選挙のときに生長の家推薦と書くのは構わないとおっしゃられた。
 ところが玉置はその話を開いて、不快感を抱いたらしい。
「村上は何だ! 玉置と行動を共にして生長の家からきっぱり出るべきではないか。それを足を半分残して調子のいいことばかり言って、清超先生にとり入っているじやないか。けしからん」
 と、玉置の側近連中が彼にご注進していたことを開かされました。
 だから、私は玉置と会い、こう言いました。
「私はいま、生長の家のたった一人の政治家としているわけですから、生長の家の総裁のご命令に従っていくしかないんです。これが筋だと思います」


国旗・国歌法案

 昭和58年(1983年)夏、生長の家が政治との絶縁を宣言したのは衝撃的な出来事でした。その余波は宗教界や政界はもちろん民族派の諸団体や国民運動などいろんなところに及びました。
 一例を挙げると、皇居の一般参賀です。毎年、1月2日と天皇誕生日には皇居に集まった大勢の国民が日の丸の小族を振りますね。あの小旗、だいたい10万本前後になるんですが、それを調達して配布していたのは生長の家でした。もう少し正確に言うと、全国日の丸連合会(会長・中林政吉生長の家理事長)という組織の中核にいた生政連(生長の家政治連合)だったんです。
 ところが昭和58年の10月末になって生政連が日の丸連合会からの離脱を通告した。つまり日の丸の小旗を調達・配布する人たちが突然いなくなったわけです。
 正月の一般参賀まであと2ヵ月しかない。天皇ご一家が出てこられたときに日の丸の小旗が振られなかったら大変なことになる。生政連と二人三脚で活動してきた明治神宮はかなり慌てたようです。それで急遽、神社本庁や彿所護念会など全国組織の10団体に集まってもらって皇居参賀協力委員会を設置し、10万本前後の日の丸の小旗を調達することになったということです。
 生長の家は政治と絶縁しただけではありません。昭和60年(1985年)に初代総裁の谷口雅春先生が亡くなられて二代目の清超先生が後を継がれると、三代目候補の雅宣さん(現生長の家副総裁兼総裁代行)の主導権がそれまで以上に強くなった。そして雅宣さんは初代の雅春先生の教義についての解釈自体まで変えていったんです。
 雅春先生は大東亜戦争は聖戦であり、明治憲法を復元すべきだと訴えておられたが、雅宣さんは明治憲法の復元どころか改憲も主張しなくなった。挙げ句の果てにはあの戦争は侵略戦争だったから日本がアジア諸国に謝罪するのは当然とまで言うようになった。
 そのうえ雅春先生が書かれた政治に関わりのある書籍も一部絶版にしてしまった。『我、誰よりも国を愛す』などの良書がたくさんあったんですが、それが全部、絶版になったんです。
 こうした生長の家の路線転換に生政連や生学連(生長の家学生会全国総連合)などを拠点に活動してきた人たちが反発した。彼らは雅春先生の教えを勝手に変えるのはおかしいと訴えた。でも雅宣さんから見れば、従来の生政連は実質的に玉置和郎中心の路線だったから、その路線で突っ走ってきた活動家たちを信用できない。それで「こいつらはダラ幹だ!」とか何とか言って切ってしまうわけです。


 若手活動家たちの離脱

 雅春先生の薫陶を受けた優秀な民族派の活動家はたくさんいました。たとえば「日本を守る会」や「日本を守る国民会議」の事務局を切り盛りしていた椛島有三さん。後に安倍首相のブレーンといわれるようになる伊藤哲夫さん。「新しい歴史教科書をつくる会」の副会長になる高橋史朗さん。さらには自民党参院議員として活躍する衛藤晟一さん。それに教団の幹部職員から私の秘書になり、平成7年(1995年)に参院議員になる小山孝雄さんたちです。
 彼らは生長の家の路線転換に伴って教団から排除されたり、自ら離脱したりした。そして政治や教育や国民運動など、それぞれの分野で雅春先生の教えに従って独自の活動をはじめるわけです。
 ただ、こうした活動家たちのなかでただ一人、雅宣さんが切れなかったのが、若手のリーダー格と目されていた安藤巌さんです。安藤さんは結核で何度も死にかけたところを生長の家の教えに救われた人で、彼自身が病いに苦しむ多くの人たちを信仰の力で救ってきた。信徒の人望も厚かった。それに彼は雅宣さんからいろいろ課題を与えられても、それを見事にこなした。だから安藤さんだけは今も生長の家に残って神奈川県の教化部長という重職を務めています。
 私の場合は二代目の谷口清超先生のご厚意で、当初は生長の家の福祉団体の理事として残りました。それで、次の選挙のときには今までのように、組織的な応援はできないけれども、生長の家推薦ということは了解するよと清超先生がおっしゃってくださった。
 だから私は生長の家推薦で2期目の参院選挙(昭和61年7月)を闘いました。1期目のように生長の家の組織を挙げての応援は受けられなかったけど、信徒の皆さんが自ら自民党員になってくださったから、私は比例名簿の6位にランクされて当選を果たすことができたんです。心ある生長の家の信徒の方々は、私が選挙で地方に行くと、「先生、がんばってね」とたくさん応援に来てくれました。
 しかし、その後、三代日の雅宣さんの意向が強くなって、政党とは一切、一線を引くという厳格な方針が出されたため、私は生長の家の推薦を受けるどころか、教団に行くことさえもできなくなりました。
 平成7年(1995年)に私が参院幹事長になったときも、ご挨拶に清超先生を訪ねましたが、合わせてくれない。もちろん講習会に行くことさえも、講習を受けることさえも拒否された。政治家・村上正邦はね。
今は政治家でなく、村上個人として行けば門を開いてくださるかどうか。しかし、今の私としてはなかなかサッと行けるような心境ではありません。申し訳ないという気持ちがありますから。「刑事被告人」がどうして生長の家の門をくぐれるかという自分自身の気持ちがありますからね。
私はいつか参院議長になったら、表玄関から清超先生にお礼を申し上げに行くつもりでした。谷口雅春、清超両先生から与えられた使命を必ず果たしますと、誓いの言葉を述べにいく日を待っていました。それが私の願いだったけど、それができなくなったことが非常に悲しいですね。



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