生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

トップページへ戻る

 

↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓

 

名前
メールアドレス
スレッド名
本文
写真

URL
削除キー 項目の保存


谷口雅春先生の大東亜戦争に関する記述 (7799)
日時:2017年09月29日 (金) 22時17分
名前:本音の時代

明窓浄机 (「生長の家」誌 昭和51年 新年号 より)

○天皇、皇后両陛下の、11月30日午後4時から皇居の石橋の間での記者会見は、日本記者クラブの理事長、渡辺誠毅氏の両陛下に対する御挨拶の言葉で始まった。この御挨拶の言葉は慇懇(いんこん)丁寧なものであっが、記者たちの質問のなかには慇懃(いんぎん)無礼なものがあったのには、わたしは、天皇陛下に対して痛々しい感じを受けたのである.周囲から質問攻めにすることを近頃の言葉で表現するならば“つるしあげる”というのであるが、まさにこれは“つるしあげ”である。天皇陛下をあのようなテレビで衆人環視の中で質問攻めにすることを許したあのような会合をつくった宮内庁の宇佐美長官及び其他の役職員やそして入江侍従長などはまことに責任重大だと思うのである。これらの人々はこの席に出席していて陛下の御容子を見ていて、どんな痛々しい感じをも感じなかったというならば、まことに鈍感なことであって、こんな人たちは、天皇を精神的にも身体的にもお護りする資格がないと思った。
○わたしは天皇陛下の御からだに何か健康上の御故障があるのではないかと思った。たしかに陛下には言語障害の症状があらわれていた。記者クラブの理事長渡辺誠毅氏が御挨拶を述べている問にも、陛下は、始終御唇を痙攣的にヒクヒクふるわしていられた。抑え切れない感情を言わずに我慢している時に、人間は、声には出ないで、唇や口辺だけがブルブルふるえるように動いたり、ヒクヒク痙攣的に歪んだりするものだが、陛下の御口許はそのように動いていた。いよいよ質問に対してお答えになる時にも、唇の動きがすぐ発声につながらないで、ちょうど吃音症の患者が発声しかけて、すぐ言葉にならないで、二、三回、唇をふるわせて、やっと力んで発声が出来、それから後も行止まり行き止まりしながら声が断片的に出るような調子でお話しになった。ただそれだけの御容子を見るだけでも私は悲しいと思った。天皇さまのそんないたいたしい御容子をテレビにのせて、衆人環視の前に晒すという計画は余程、冷酷無情な人間でないと出来るものではない筈だ。わたしは「天皇陛下は見世物ではないぞ」と叫びたかった。「入江相政侍従長何をしている。何のための侍従だ!!」と叫びたかった。しかしテレビに対して叫んで見ても侍従長にきこえる筈もないのである。しかしこのような言語障害の御症状を呈している陛下を医師の診断も受けないままであのような緊張を要する場面に出席を願うということは、陛下に対する“忠誠”どころか、“愛”が足りないのである。もし自分の5歳位の幼児が言葉を発するときに、あのような吃音症のように、途切れ途切れに話すことしか出来ない時は、吃度、その両親は心配して医者又は精神医学のカウンセラーのところへ連れて行って相談したに相違ない。しかしそれほどの“愛”も“深切”もない宮内庁の役人や侍従さん達は一体陛下に対してどれほどの愛をもっていられるのだろう。NHKの解説者は今回の試みは天皇の民主化として悦ぷべきことだから、こんな催しは今後も屡々催して頂きたいなどといっていたが、天皇の民主化とは一体何であるか?ロシヤ革命が起った発端はケレンスキー将軍が「上官も兵卒も平等だから敬礼しないでよろしい」といったことにはじまったという。これが日本の革命の端緒にならんとも限らないのである.そうなればまことに三木内閣はケレンスキー内閣になる訳だ。
○記者たちの質問が、陛下の最近の御訪米の際の印象をおたずね申上げるのは、それはそれなりに問題はない。けれども陛下は一間一間に非常に深い注意を払って御返事になるその緊張と御努力は大変なものだと思った。兎も角、日本の天皇として全世界の視聴者の環視の前でお話しなるのだから一語の言いあやまりが、国内は勿論、国際的にもどんな影響を与えるかもわからないし、それは国際親善にも国際的反日にも影響し、ひいてはそれが日本国民の福祉の上に撥ね返って来るかも知れないのである。国民を愛し給う天皇陛下が一言一句にもお気をおつかいになるその気苦労のことを考えて見た宮内庁の役職員や、侍従の人たちがひとりでもあったろうか。あるいはその気苦労のために、一時的高血圧におなりになり、陛下の発音が不自由になり吃音患者のように行き詰まり、中風患者のようにタドタドしくなったのではないだろうか。それとも陛下は日常の御言葉も常にあのようにタドタドしくお話しになるのだろうか。御訪米の印象のお答えの中で特にわたしが気についたのはフォ−ド大統領のことに言及なさる時、必ず注意深く“大統領閣下”と“閣下”の敬称をお忘れにならないで、特にその敬称の発音にはアクセントをおつけになって、力を入れて発音していられるのが感じられたのである。
〇やがて、とうとう質問の話材が、天皇の戦争責任の追及になって来たのである。まさにこれは大衆環視の前での「つるし上げ」である。
「“戦争に対して責任を感じていらっしゃる”と陛下は言われるが、言われるだけではなくその戦争責任をどうして果されるか」という意味にもとれる質問である。日く、
「ホワイトハウスに於ける『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争は』というお言葉は、開戦を含め陛下が責任を感じていらっしやるということですか。また陛下ご自身、戦争責任についてどのようにお考えですか」
 これはまさに全国民を視聴者としての戦争費任裁判なのである。
 これを天皇さま御みずからお答えになることは自己弁護ともとられるし、お答えにならなかったら、卑怯だとか責任回避だとか悪い方にとられるのである。天皇さまを窮地に迫い込む策謀的な責任裁判の論告なのである。陛下はこれに対して、
「そういうことばのアヤについては文学的方面は研究もしていないので、わかりませんからお答えできかねます」と言っていられる。
 現在、あの戦争責任はアメリカ側がわざと日本を挑発して、“日本が戦争のイニシァチーヴをとったのだ”という形に戦争を始めさすように巧妙に工夫して勃発せしめられたものであることが明かになっているのである。このことはアメリカ側の著書や、記録にも出ているのである。それなのに日本天皇が「あの戦争にはわたしに責任がある」といったら、日本国自身が国際的に戦争責任者として認められることを承認したことになって来るのである。また、あれは「わたしが悪いのではなく、アメリカに責任があるのだ」とお答えになるならば、折角、陛下がアメリカ訪問してフォード大統領と握手をし、答礼と答礼との交換をして、実に完全な親善ムードを醸成して来られたのが無駄になってしまうのである。だから陛下としては、“自分に責任がある”とも言い得ないし、アメリカに責任があるとも言えないのである。その微妙な関係を詳しく説明するには用意された長文の文学的説明を必要とするのであって、ただ即座の応対の片言隻句を以てしては誤解を招くだけなのである。それだから陛下は「そういうことばのアヤについては私は文学方面は研究してもいないので……答えかねます」といわざるを得なかったのである。また質問者は原爆を国民が受けたその根元となる戦争責任者を追及する意味を含むと聞える難問を提出して次の如く追及しているのである。
「陛下は22年12月7日、原爆で焼原になった広島市に行幸され『広島市の受けた災禍については同情に耐えない.我々はこの犠牲をむだにすることなく世界平和に貫献しなければならない』とおっしゃり、その後も都合三度広島市に行幸されお見舞いの言葉をかけていらっしやいます。終戦に際し原爆投下の事実をどのように受けとめられていまし
たか」と言葉は慇懃丁寧であるけれども「あなたが、宣戦布告の詔勅を出さなかったらこの広島市民の惨害はなかった筈だから、原爆投下をあなたはどのように受けとめるか」と鋭い質問を出しているのである。陛下はこれに対して
「……戦争中でありますので、広島市民に対しては気の毒だと思うが、やむを得ないことだと思います」
 とお答えになっている。陛下に戦責任がないならば、陛下は「自分には当時、戦争抑止の政治的権能が与えられていなかったので止むを得なかった」と正直に仰言った方がよかったと私は思うのであるが、これは視聴者が全世界にわたる広いものであるので、さまざまに解して悪口をいう人もあろうから、微妙な問題なのである。
 これについての最も正しい政治的見解は『やまと新開』の11月5日号に、武藤貞一氏が詳しく述べていられるので、多少長文ではあるが氏の論文の中から重要な点を次に引用させて頂く。
『太平洋戦争の終結時に揮われた天皇のご勇断と同じご勇断が、開戦時に揮われたならば、戦争は未然に防げたであろう。「ご勇断」の時機が遅過ぎたのではないか、という設問は、筆者がさきに提起したとおりである (小者「わが国・わが天皇制」)。今更事新らしく持ち出すこともない。
 ところが、天皇ご訪米にあたって、陛下がアメリカ記者のインタビユーに答えられたなかで「開戦は時の政府が決定したもので憲法(明治憲法)上、これを拒否することはできなかった。すなわち憲法を遵守するほかはなかった。終戦の際は、政府が最終の決を委ねたので、自分はあの断を下したのだ」という意味のことを述べられた。
 これはまことに間然するところのないご尤なお言葉で、聞く側に何の疑義も生じなかったことは、2週間にわたるご訪米中、アメリカで何の論議も散見しなかったのに徹して明白である。しかるに、わが国内の一握りの左翼が、これをとらえて天皇の戦争責任の問題にまたしても火を点じようと図ったことは事実であり、殊更にこの問題を掻き立てようとしたのはわれわれの見る限り「朝日新聞」である。
 それに関連して、ここで二言触れておきたいことがある。天皇がホワイトハウスの晩餐会で述べられた「戦争を悲しみとする」というお言葉を、アメリカでは「悔ゆる」という意味に受取り、戦勝国としての満足感を充たした向きが多いことである。
 アメリカ国民が何と解釈しようと、それは自由であるが、ただハッキリしておかなければならない一事は、天皇が決して謝罪的意味をもって訪米されたのではないということである.「悲しみとする」はもっともっと次元が高く、人類永遠の平和のために戦争という悲惨な悲しむべきこととされるのが天皇本来のご意志もしくはご心懐と察せられるのであって、特に敗戦国たる日本の責任を思われてのお言葉ではないはずである。
 太平洋戦争は断じて日本から挑戦した事実はなく、真珠湾攻撃はアメリカの設けたワナにまんまとはまったものであり、実際上の開戦は、アメリカが僚国を誘っての対日経済封鎖の挙に出たときをもって記録すべきである。西欧人の通念により、勝者は常に正義の保持者、敗者は例外なく戦争犯罪者として律せられる。たまたま日本は敗れたから戦争責任を負わされるというのが、かれらの常識であって、如何ともしがたい問題である。……(中略)
 さて、そこで天皇のわが国民に対する戦争費任についてであるが、なるほど天皇の宣戦詔勅によって日本は数百万の尊い人命を喪い、国土を灰にするまでの一大惨敗を喫した。この責任から天皇は免がれることはできない――と左翼は主張するのだ。それが戦後30年を経た今日なお尾を引いているいわゆる「天皇戦犯説」である。
 前にあげた「天皇はなぜ終戦時のような英断をもって開戦を拒否されなかったか」が問題の核心をなしている。
 しかし、原点にさかのぼって考察すればわかるように、当時の日本は、軍部と英米派の二大勢力に分断されており、軍部の強大な力が米英派を圧倒していた。政治権力は軍部の掌握するところとなっており、純乎たる平和主義の天皇であっただけに、軍部の目をもってすれば天皇は英米派のカイライと映っていた観がある。少くとも当時の天皇を囲続する側近は英米派で固められているとの錯覚に軍部は陥っていた。軍部の内部にもいろいろの派閥があり、あるものは英米と款を通ずるものと急進派によってマークされていたのである.それからはみな天皇を擦して国の針路を過まるものと一途に信じ込んでいったことに間違いない。
 では、国民全般はどうだったか問題の焦点はここにある。永年にわたり政党の腐敗と財閥の横暴、政治の類廃、貧富の隔絶から農村および農民の疲弊困憊等、名状しがたき国家的危機に沈湎し、それを救うものは、もはや国の構造改革によるよりほかはないと、その構造改革断行の旗手をもって自負したのが軍部であった。軍部イデオロギーは前々から一国家社会主義的であり、その第一目標を金権政治の打倒に置いた。
 世界観の上では英米植民地主義への反抗が主たるものであったことは今にして特記の必要があると同時に一般大衆がこれに共感しないはずはない.愛想をつかした政党に取って代って奪権を成し遂げた軍部ならではのパワーに一般庶民は手放しで喝采したのだ』
 武藤貞一氏は、日本の満洲進出を押えようとした英米について次のように言っている。――
『民族として、国家として、血路を開いたはずの大陸進出が、英米帝国主義によって大きく前面に立ちはだかられると、当時の日本国民は、これを悪魔のように仇敵視しないではいられなかった。当時七つの海を制圧し、世界的覇権を確立していたイギリスと、そのパートナーとしてシナ大陸に野望を持ったアメリカは、日本の大陸での疲弊を奇貨として傍若無人にノシかかって来た。日本はついに致死線まで追い詰められた。成敗利鈍に拘らずといった自棄的心理に陥ったものは必ずしも軍部のみではなかった。だれよりも国民大衆がこぞって火の玉のように燃えあがったのである』
○以上の武藤貞一氏の論文は史実を精確にとらえて論じられているので、いちいち首肯されることであり、これを読む日本国民も納得するにちがいないと思うのである。武藤氏が「純乎たる平和主義の天皇であっただけに、軍部の目をもってすれば天皇は英米派のカイライと映っていた観がある」と言っていることは真実である.それは、開戦近い風雲急なる頃近衛文磨公の密使として戦争抑止の平和外交のために紫雲荘の橋本徹馬氏が久保正治氏を随員としてアメリカに派遣されアメリカが日本軍閥を挑発するような政策を止めるよう説得して日本に帰って来ると、早速、橋本徹馬氏と久保正治氏とは反戦運動をしたとて軍の憲兵隊に捕えられて収監せられて、毎日拷問同様のきびしい訊問を受け、もう永久に娑婆には出してもらえないかも知れないと思われるような窮地に追い込まれた。その時、橋本徹馬氏は生長の家の神想観を思い出して、訊問のない時間に、神想観を修して相手(憲兵隊長)の実相を観じ、相手と自分とが“神の子”で互いに一体であり、和解していることを念じたのであった。するとその翌日から俄然今までのきびしい訊問がやさしい訊問に一変し、間もなく収容所から解放されたのであった。この事は、その解放直後、橋本・久保両氏が拙宅を訪れてその事を報告してお礼を述べられたので私は知ったのであった。そのように親英米派というものは軍の監視の下にあったのである。だから武藤氏の言われるように、「天皇のみが英米派に与みして開戦を拒もうとしても不可能」だったのである。
『かりに、あの時、天皇が終戦時のように勇を鼓して廟議を覆えし、宣戦布告を峻拒されたならば、天皇のお身の上のことではない、日本全体が一大動乱の下に崩壊したと見るのが正当である』と武藤氏は結論していられるのである。
 何しろアメリカの当時の日本への脅喝的な主張は、「日本よ、支那大陸から全面的に撤退せよ。満洲からも手を引け。手を引かなければ、アメリカの生産力にもの言わせて、いくらでも中華民国を援助して長期戦に持ち込むぞ」というのである。 そして生産資源の乏しい日本をABCD(アメリカ・英国・支那・オランダ)の包囲作戦によって海外からの資源の供給を断ち切って窮地に追い込めば、長期戦は出来まいぞ「今のうちに満洲進出もやめて狭い日本列島に還ってしまえ」といふ意味のアメリカのハル国務長官の最後通告だったのである。
 戦後の赤い新歴史学者に言わせると日露戦争も日本の侵略戦争であり、その結果、満洲の利権を得たのも日本の侵略だなどと詭弁を弄するけれども、日露戦争は、当時、世界最大最強の陸軍といわれたロシアが次第に南下して来て、日本とは目と鼻の先にある旅順にまで軍港を造り、このままでロシアを放置したら日本は白人に侵略された他のアジア諸国と同じように、ロシアに侵略されてしまう情勢に立ち到ったので、意を決して防衛のために世界最大最強のロシアに対して、国家の生命を賭して一か八かの戦争をはじめたのである。その戦いが正義の戦いであったために神意にかなったのであろうと思う。東洋の小国で軍備も完全でない日本が世界の最強国と戦って打ち勝ったのである.その結果、当時満洲に進出してロシアが領有していた満洲の利権と樺太の南半部を、ポーツマス講和条約によって正当に日本に対する賠償として譲られたのであった。だから日本の満洲進出は決して侵略ではなかったのである。当時の戦争では、日本軍が奉天を占領した際には、もう日本軍は殆ど力つきて、兵隊に補充する銃すらなかった由であるが、天佑によりアメリカ合衆国が仲介に立って構和が結ばれることになったのである。ロシアもその頃、日本軍の強さに、相当戦争では疲弊していたのと、戦線からの報告が不利であるので、国内にも国民の不穏状態が起りつつあったので、アメリカの仲介を受け入れたので構和が成立したのであった。その頃、日本国民は、全国民の総力と、国家の全生命を賭しての戦いに勝って、これ位の賠償では少ないといって、講和条約の衝に当った小村外相邸の焼打事件があって、日比谷方面は内乱状態的になつた位であった。そのようにして国民の多くが血を流して戦い、賠償という正当の理由で日本の得た満洲の利権、そして、小さい島国で膨脹する子孫の人口問題を解決するに要する満洲の広野を、アメリカの唯言いなり通りに、放棄して、日本の五つの狭い島に帰るということは、日露戦争の当時、血を流した国民の祖先の霊に対しても申訳がない訳で、これは絶対不可能の事情にあった。こうした事情の際、日本がもし満洲の利権を棄てない限りは、アメリカの豊富な武器を当時人口五億と称せられた中国人に供給して、長期戦で日本国を疲弊に追込むぞという、こういうアメリカの無茶な言いがかりである。当時、この資源の乏しい日本国が、更にABCD封囲策謀で糧道を断たれ、韓国人を加えて「一億一心」といっていたが、日本人の人口では7千万人に満たない小数の人数で長期戦に入っては全然勝つ見込はないのである。それだといって、満洲を棄てて日本列島に還るには、日露戦争に血を流した祖先の霊に済まない。といって長期戦になっては困るから、支那大陸での長期戦を避けるには、アメリカの中国への武器補給を速断するほ
かはない、それはアメリカを討って短期決戦に持ち込むより仕方がない。このような正当な理由による宣戦布告をも天皇さまが拒否せられるならば、日露講和条約当時の日比谷の小村外相邸焼打騒擾事件の二の舞位ではおさまらないで、武藤貞一氏の言われる如く、日本全体が一大動乱を起して崩壊したかも知れないのである。この崩壊を避けるために、天皇陛下は閣議で決定した宣戦布告に署名するよりほかに仕方がなかったのである。
 これは当時の国際及び国内の政治情勢からの判断であるが、平和主義の天皇陛下の大慈悲をもってすら、あの大東亜戦争が避けられなかったのは、霊的世界からの要請があるのである.それは地球という天体の発達周期の一節の終りが近づいて、地球上に住む人類は皆有色民族も白色人種と同様“人間・神の子”平等の自覚をもつべき、人類精神の成熟時期が来ったのである。しかし、この自覚を目醒めしめるには何らかの外部又は環境からの与える動機がなければならないのである。その自覚を目覚めしめる天の使いとして選ばれたのが日本民族であったのである。それゆえに、大東亜民族の解放戦という旗印をもって日本民族が、ひとたび南方に兵を進めると、今まで白人種の科学的兵器の前には抵抗不能であると考えていた有色民族の見ている前で、同じく有色民族である日本人の軍隊が、ものの美事に白人種の軍隊を撃破して見せたのである。それは有色民族にとっての福音であった。有色民族だと言って何も白人の前に奴隷となって、又は奴隷の如く従わねばならない事はないのだという自覚がわいて来たのであった。かくして、この大東亜戦争を契機として東南アジアは無論のこと、アフリカの諸民族も続々と白人種に抵抗して独立するに至ったのである。
 日本軍が約一年間連戦連勝して後、ガダルカナルの海戦に敗れて以来、連戦連敗、転進に転進をつづけざるを得なかったのは、東南アジアの民族に、民族独立の自信をつけてその使命を終ったからである。そして、ついに原子爆弾の洗礼を受けて無条件降伏するに至ったのは、もしあのまま連戦連勝して勝った儘で現地に止まるならば、残念ながら、人間の現在の魂の進歩の程度では「勝っていながら本国へ帰る必要もない。これで世界制覇をなしとげるのだ」などと、更に欲望を逞うして世界に罪をつくって、有色民族解放の戦争目的もどうなってしまったかわからないように立ち至るかも知れないのである。それだから、神は日本軍を必要な一時期だけ勝たしめ、その後は本国に帰還して、本国は一時、連合軍に占領されることになったのである。そして一時、日本国は、恰もイエス・キリストが磔けにかかった時、ユダヤ人がイエスを指さして、「あれを見よ、人を救いて、己れを救い得ざる者よ」と嘲笑ったかの如く、「あれを見よ、あれを見よ、大東亜の民族を白人の侵略から救いて、自国を救い得ざる者よ」と指さされる如きみじめな運命に陥ったのである。しかしながらキリストは十字架に釘つけられた後、3日にして蘇生(よみがえ)って昇天したが、日本国はアメリカ軍に占領されて、今や30年にして国民総生産世界第3位となり、アメリカの大統領から日本天皇を国賓として招待して歓待いたらざるなきまでに蘇生ったのであった。時は過ぎ行く、しかし理想高き使命を崩さず邁進する者は、個人でも民族でも、最後の勝利者となるのである。
○日本教文社から井上孚麿教授の『現憲法無効論』という素晴しい本が出た。法律というもの、そして憲法というものの成立の経過の一般論から始まって、日本国憲法成立当時の非合法的な過程を、法というものの専門家でなければ書けない精細な論理を展開して現憲法の無効を法的に結論づけているのである。私なども、この本によって大いに教えられるところがある。
 いやしくも現行の日本国憲法を論ぜんとするものは護憲側に廻るにしても無効論側に廻るにしても本書を是非読んでから成る程というように結論しなければ根拠が薄いと思う。天皇陛下は現憲法の発布をよろこぶというような詔書を書いていられるが、それは天皇が占領下に於いて自由の発言が許されなかった時のことである。



Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板