生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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今の生長の家教団及び信徒の皆さんに贈る言葉(その1) (7807)
日時:2017年12月02日 (土) 22時39分
名前:本音の時代

国防軍について

それは人体でいえば生命力のあらわれとしての白血球のような存在であり、本来外敵が侵入するようなとき防衛するためのものである。あるいはさらにすすんで、吾々の家庭に塀があり、錠がかかり、道路わきにはガードレールがつけてあるようなものである。塀や錠やガードレールは、何も敵愾心や憎しみの化身ではあるまい。万が一の場合の安全をはかる“機構”なのであって、それよりもっと人間的要素を加味したものが自衛軍である。
 勿論、そのような軍隊、自衛軍、自衛隊といえども、現代科学の生んだ巨大な水爆等にはひとたまりもなくけし飛ぶ。だからといって、何の役にも立たないものでは決してないのは、ガードレールや塀の例によっても明らかである。ガードレールや塀は、巨大なダンプカーの無謀運転によって、一たまりもなく倒壊するであろう.そんな時はほとんど役立たないように見えるかもしれないが、しかし小さな車に対しては充分役立つものである。その上、住民の“意志”を示してくれると
ころの役割を果たすのだ。
 その“意志”は、家や人命を暴力や侵入から守りたいという決意であり、決して敵をやっつけようとか、相手を憎んで、恨んでいるといった種類のものではないのである。自衛隊不要論をとなえる人々の中には、そんなものがあると、却って侵入軍が国土を破壊するから、いらないともいう。しかしそんなことはないのであって、侵入はしにくくなる。森嶋さんのように、
「白旗と赤旗を掲げて降伏します」
と公言するより、
「どこまでも祖国をまもります」
と公言する方が、相手はずっと侵入しにくいのは事実である。それは吾々が平和を愛しないからではなく、平和とその秩序とを愛するからである。平和とは、一部の人々が考えているような「戦いのない状態」ではない。それなら「いつで白旗を掲げます」だけで平和となるだろう。しかし、その後の占領等によって、国民の自由と自決権、その他諸々の秩序は叩きこわされてしまうのだ。これで果たして平和であるのか。
 いかにも軍隊がないから、戦争らしい戦争はないかもしれぬ。しかし、あたかも白血球のない人間が、すぐ死んでしまうように、その祖国は死にたえてしまい、別の国の(侵入軍の)領土が、そこに拡がるだけである。それは日本が昭和二十年八月十五日に降伏して、無抵抗になった北方四島に、ソ連軍が無血上陸したように、そして今にいたるも占領し続けているように、そこでたしかに戦火は交えられなかったがそのような、そんな「平和」がもたらされるのである。
 しかし吾々は、そのような「平和」を断じて本当の「平和」とは認めない。おそらくそんなもの を「平和」を愛する諸国民もまた「平和」とは認めないであろう0そこでいくら自決権を要求しても、その「平和」の中では、そんなものは何も与えられないのだ。色丹島の軍事基地のように、住民は立ちのきを命ぜられ、労働を強制され、私有権を苔定されるであろう。少くとも「自由なる日本」など、もはやどこにもなく、日本国の中心者たる愛ふかく輝かしい不滅の歴史の担い手たる天皇陛下などは、直ちに排棄されるであろう。何故なら、わが国の共産党議員たちですら、そうするのだと約束しているのが実情であるからである。
 しかし本当の「平和」には、個性ある国家の独立と自主権が確立しているべきだ。それは「戦う力のない平和」ではなく、あふれるばかりの「生命力」がありながら、お互いに愛し合い、尊敬し合い、分ち合うところの「平和」である。それを大調和の世界というのであって、その目標に向って吾々は、先ずわが国民の圧倒的多数の中に「神の子・人間」の真理を注入し、そこに眠れる神性・仏性を開発しようと決意しているのである。

憲法と平和

「しかし、」と人は言うかも知れない。「わが国の憲法は、戦力を否定しているではないか」と。たしかにそうである。それはこの憲法が、日本軍が全面降伏し、占領軍によって完全占領されている間に、占領軍の最高指令官の指示によって全面的に「与えられた」ものだからである。占領軍という軍隊が強力に支配している以上、その上に被占領国の軍隊は何一ついらなかったのだ。
 従って現行の日本国憲法は、当然占領期間中に於ける臨時基本法であるべきはずであったのだが、占領が終って占領軍が去ってから後も、同じように続行されて来た。そこに日本国憲法の持つ重大な矛盾点がある。即ちこれは、本来日本の憲法として永続される資格を欠いていたものである。それを歴代の政府及びマスコミ、さらには野党までも、そのままに放置して「戦争放棄」の項目に便乗し、これさえあれば平和でありうるだろうと錯覚し続けて来たのである。
 つまり現行憲法の方が不完全な代物であって、自衛力の方は人格ある生命体としての国家の持つ基本的生得権であるのだ。これを否定することは日本国を“被占領国”視するものであり、その基本認識で論ずる限り、日本を第二次被占領国たらしめる「白旗と赤旗論」が出て来ざるを得なくなるのは当然である。
 そこで吾々は、この点の基本的認識さらに多くの人々に徹底せしめ、本来の日本国民の持つべき自主的憲法を持ら、生得の権利たる自衛権が決して好戦的なものではなく、敵視政策や孤立政策に導くものでもなく、それどころか今後八十年代の世界各国の要望に応える「日本国家としての応分の責務」を分担するところの結果となり、「安保只乗り論」や様々な貿易経済摩擦を打ち破り、真に身心ともに健全な先進的平和的道義国家としてたくましく前進する基盤となることを、強く切
実に主張するものである。         (55・2)

【谷口清超著 「日本よ永遠なれ」 130〜134頁】



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