生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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もうネットの世界から消えてしまったのだろうか (7836)
日時:2019年09月24日 (火) 21時38分
名前:本音の時代

●「生長の家」の運動方針についての批判(竹之内虎治郎)

「天皇国・日本」とはどういうことか

 どうも変だ、変だと思いながら、ほとんど惰性で「生長の家」の信徒としての生活を送りながら、諸先生方の書いたり言ったりしているのをいろいろと検討していて、ついにその元凶と思われる文書に行きついた。それは平成十一年四月一日付けの『聖使命』紙に掲載された「生長の家」副総裁谷口雅宣氏の「運動の歴史と『天皇国・日本』」と題した新年度の「運動方針」について解説した一文である。この運動方針がその後変更されたという発表はないから、現在でもこの運動方針で教団が運営されているとみられる。
 そこでは「天皇国・日本」「政教分離」についての途方もない誤りがあり、その誤った解釈で教団が運営されていたのかと思うと“ぞっと”戦慄せざるを得ないのである。
 谷口雅宣氏はその運動方針を説明するにあたって総裁谷口清超先生の『生長の家は伸びる−−−両軸体制ハンドブック』の文章を巧みに引用して、その権威の影に隠れるような形を装って、それへの批判は総裁先生への批判であるかのような印象を読者にあたえながら、巧みに批判を避けようとしている。ところが、総裁先生の「天皇国・日本」「政教分離」についてのお考えはまったく違っているのである。
 谷口雅宣氏は「天皇国・日本」について、歴史の進歩とともに「だんだんそれに(神の国に)近づいていく」という十九世紀的な歴史的進化主義の立場をとっている。
 同氏によれば「『天皇国・日本』というのは、天皇のご生活−−−これは、我々はいろいろな所で教わっていますが−−−神意を第一として物事を行っていかれるという天皇の生き方、神意が中心になる生き方が、我々個人のレベルにもどんどん弘まっていくことによって、それば民主主義の国だったら、結果的として、そういう神意を重んじる政治家が多く選ばれるであろうし、そういう経済活動が行われるであろうし、そういう学問が研究されていくであろう。そして、神の国に近づいた国家が現実のものとなる−−−こういう文脈の中で『天皇国・日本』は説かれているのです」という。
 冗談じゃない。「天皇国・日本」というのは、やがて何時の日にか、くるかこないか分からないで、歴史的進歩によってだんだんそれに近づいていくというような歴史的進歩主義の観念的な理想としてあるのではない。「天皇国・日本」とは、われわれ日本国民の魂の奥の奥底にある実相である。谷口雅春先生は、たとえ敗戦で現象の三日月のような日本は沈んでも「実相円満の日章旗のやうにまんまるい日本の国は無くなってはゐないのである」(『秘められたる神示』「日本の実相顕現の神示」)と教えられた。もちろん、現象的にはそれは見えない。だが、実相においてはすでに存在しているのである。もし、「天皇国・日本」ということが、だんだんそれに近づいていくという歴史的進歩主義の観念的な理想だとしたならば、谷口雅宣氏自身が『神を演じる前に』で、こういう歴史的進歩の観念や科学技術の発達に疑問を投じているのと矛盾するのではないか。谷口雅宣氏が『神を演じる前に』で得意げに書いているように、遺伝子組み替え技術やその他の生命科学・技術の発達で、人類の歴史は、だんだん「神の国」に近づいているのではない。むしろ逆に遠ざかっているのである。神は「死んだ」か瀕死なのである。だからこそ、人間が「神を演じ」ようとさえしているのだともいえる。そこに人間が「神を演じる」ことで、つまり実相の「天皇国・日本」を直視することで、「神を演じる」人間の宗教的救済をもとめなければならないのではないだろうか。それなしには、「天皇国・日本」というのは、やがて何時の日にか、歴史的進歩によってだんだんそれに近づいていくかもしれないという歴史的進歩主義のたんなる観念的な理想となってしまう。
 この谷口雅宣氏は、「神想観」の実修ということをほんとうに理解しているのか、どうか疑わざるを得ない。同氏は評論家の評論として「『天皇国・日本」と聞きますと、短絡的に考えて、天皇陛下が国政の最終段階でいろいろなことを行う権限をもつことだ、と思いがちの人もいらっしゃるかもしれませんが、ここにはそのようには書いてありません」そうではないと書いている。だが、われわれは、日本国民の魂の奥の奥底にある実相としての「天皇国・日本」の実相を直視するのである。谷口雅春先生は教えられた。実相では「神洲日本は不滅であり、永遠に滅びることはない。滅びたやうに見えてゐるのは実相が蔽ひ隠されてゐるだけである」(前同)。その「神想観」では、天皇陛下がさまざまな世俗的な権能をもつようになることなどはとんでもない矛盾なのである。谷口雅宣氏は「天皇国・日本」の実相を直視したことがあるのか、どうか疑わざるを得ないだろう。

観念的な理想と実相の直視とは違う

 だから谷口雅宣氏は「天皇国・日本」というのは一つの観念的な理想だという。
 同氏によれば「生長の家でいう『天皇国・日本』とは、大変深い意味での“理想国家”を指しているのです。単なる政治制度でも、心情主義でもない。それを実現する方法も、政治的な数のバランスを考えて、議会でこれだけの数を取ったら憲法を改正する(中略)そうではなく、天皇の生き方を模範とし、神意を第一とする生き方が一人一人の国民の間に弘まっていき、外国においても、キリスト教の国ならば“神の国”や“神の国の義”を第一にする人々の数が増えていけば、そこに神意が現成した素晴らしい国が建設されるだろうという意味であります」と書いている。
 けれど「天皇国・日本」というのは、長い歴史と伝統に培われた日本国民の実相であり、たんなる観念的な理想ではない。観念的な理想とは、まだどこにも無い、「在らざる」ものへの見果てぬ夢としての観念的なイメージである。ところが、実相とは、「すでに在る」ものであり、それは宗教的な実在なのである。
 宗教的な実在とは、たとえばキリスト教徒にとっては「最後の審判」ということは宗教的実在なのであり、キリスト教徒以外のものには「最後の審判」などということは形而上学的な虚構にすぎないとしても、誠実なキリスト教徒にとっては、それは「原罪」、聖母マリアの「処女懐胎」、キリストの「復活」などの神話とともに自分で自分を堅く縛っている宗教的実在なのであり、それは観念的な、または思想的なイメージでもイデオロギーでもなく、精神作用として自分で自分を厳格に監視する宗教的信念における実在なのである。
「京にいて京なつかしやほととぎす」(芭蕉)なのであり、現実の京都に居ながら、なお実相の京都をなつかしんで鳴くほととぎすのように、「すでに在る」「天皇国・日本」の実相を直視することが、宗教としての「生長の家」の信徒に求められているのではないだろうか。
 谷口雅宣氏は、一流の評論家とはとても言えないが、二流か三流の評論家として、思想的観念と宗教的想念とを混同している。「生長の家」では「すでに在る」「天皇国・日本」の実相を直視しようとする。それが「神想観」の実修なのであり、それは観念的な理想ではないのである。観念的な理想としては「天皇国・日本」などというイメージは、在るかないか分らない未来への漠然としたイメージにすぎない。「天皇国・日本」とは、日本の民族的な宗教的想念としての実在なのである。

「政教分離」「信仰の自由」および「政治と宗教のかかわり」について

 谷口雅宣氏は「信仰の自由」や「政教分離」についても同じような過ちをおかしている。 例によって谷口雅宣氏は総裁谷口清超先生の文章を多用することで批判をかわそうとしているのだが、その意図は明らかである。
 谷口雅宣氏は「信仰の自由」や「政教分離」という政治制度が、人類史の進歩によってだんだんもたらされたというが、それは違う。欧米諸国で「信仰の自由」や「政教分離」という政治制度がもたらされたのは、十六世紀の終わりから十八世紀の初めにかけてキリスト教の旧教と新教との血みどろの宗教戦争がつづいた結果であり、政治の場に宗教的な相違を持ち込まないようにしようという思想が生まれたからである(モンテスキュー『法の精神』)。
 同氏は、国家が国民の宗教を定めること(国教)をなにか未発達なもの、「だんだん進歩して」「信仰の自由」や「政教分離」がもたらされたかのようにいうが、それでは現在の中国はどうか、そこでは中国共産党の一党独裁のもとで社会主義イデオロギーが国民に強制されていて、「信仰の自由」どころか、思惟、思考、思想の自由さえもない。人権もしばしば無視されている。しかし、社会主義イデオロギーとナショナリズムとを巧みに結合しているのである。中国人は本性的にアナーキーであり、「天帝、我において何かあらんや」という無政府主義の心情的な傾向が強い。このとかく雲散霧消しようとする中国人の心情を中国共産党は一党独裁というかたちで愛国主義のナショナリズムをかきたてているのである。
 国教を保持している国、イスラエルのユダヤ教でも、アラブ諸国におけるイスラム教でもみな同じである。つまり、「信仰の自由」や「政教分離」は、人類史の進歩によってだんだんもたらされたようなものではなく、それぞれの国の歴史や伝統から生まれたそれぞれの「文化のかたち」なのである。こういうそれぞれの国民や民族の「文化のかたち」を無視したアメリカ流の一元的進歩の歴史観からは、ほとんど必然的にハンチントンの『文明の衝突』という考え方が生まれるのである。
 谷口雅春先生の教えはそうではなかった。アメリカ流の一元的進歩史観などはとらなかった。谷口雅春先生は、○○教でも、××教でも、△△教でも、教えの光が最も輝いているところが「生長の家」なのであり、高天原なのであると教えた(『秘められたる神示』「万教包容の神示」)。その解説では「実相世界が、『日の本』即ち『光の本』であり、『たかあまはら』であり、それが『生長の家』であり、それは此の世の国(現象世界)ではない。それは現象世界の奥にある世界である。そしてその現象世界の奥に一切の救済の本地、即ち『十字架の本地』も『卍の本地』もあり、それが『天爾(てんに)の家』即ち『天の御心そのままの家』であり、それが一切の生命が発現する根元たる『巣(す)』であり、一切のものが統一せられる本源の『統(す)』であると教へられてゐるのであります。だからすべての魂の救済の本源地は実相世界である。その実相世界が『生長の家(たかあまはら)』であって、そこから色々の宗門が派出してゐるのであるから、一つの宗門なるキリスト教も『生長の家』の内にあり、一つの宗門たる仏教も『生長の家』の内にあるといふことが示されてゐるのであります」(前同)とされていた。これが「万教帰一」「万教一元」のほんとうのかたちなのであると思う。
「政治と宗教とのかかわりあい」についても、いろいろと言葉を飾っているが、要するに谷口雅宣氏はアメリカ流の一元的進歩主義で「“右翼”とか“民族派”などと呼ばれている人たちの政治的な考え方と同一視されないようにしなければいけない」という運動方針をしめしたのにすぎないのである。谷口雅宣氏が宣伝するアメリカ流の一元的進歩主義は、先に書いたように同氏の『神を演じる前に』で自己破綻しているのだが、それを無視して、政治とのかかわりをすべてなくしていこうとする。同氏には右翼や民族派についての厳密な考証はまったくない。ただお粗末なアメリカ流の一元的進歩主義があるだけである。
 谷口雅宣氏は、民族派は右翼との関係を絶ちたいといっているのだが、果たしてそれでいいのかどうか。中国や韓国のナショナリズムは「コロニアル・ナショナリズム」(M・ボール『民族主義と共産主義』)である。コロニアル・ナショナリズムとは、自分たちを植民地化したものへの憎悪、反感、怨恨という「恨めしい」感情のナショナリズムなのであり、自分自身で何かを創発するナショナリズムではない。日本の民族派や右翼も、対米関係と対中関係のはざまにあって、目標を見失っている。そのためにともすれば盲目的に中国や韓国のナショナリズムと日本ナショナリズムとが衝突してしまう危険性が大きい。
「生長の家」はこれらの日本ナショナリズムに正しい目標と方向をあたえるべきではないのだろうか。実相哲学はここにおいて偉大な力を発揮するのではないだろうか。



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