生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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肩書という虚像 <谷口貴康氏ブログ> (4769)
日時:2014年08月13日 (水) 04時01分
名前:サーチャー


<谷口貴康氏ブログ> 『肩書という虚像』   2014/8/12(火) 午後 10:37

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宮沢次郎の名言格言|肩書ほど有害なものはない
タグ: 宮沢次郎

一般に日本人は肩書を尊びますが、実はこれほど有害なものはありません。自分自身を見
つめることを妨げるからです。肩書がついたためにこれまでとまるで別人のようになって
しまう人がいるでしょう。自分を見失っちゃうんです。


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 この言葉を聞いてすぐに思いつく人がいました。

その人は大きな肩書が付くまでは普通の良い人でした。思想的には自分とは違っても表現
はへたくそでしたが思いやりのある人でした。自分が人からどのように思われているのか
を心配する事もありお互いの意見を普通に交せていました。


 大きな肩書がつくと本人の気負いもあったのでしょうし周りの態度も急変したこともあ
ったのでしょう。これは私にも経験がありますから人の事は言えたものではないかもしれ
ません。仕事とオフの切り替えが器用にできる人ではなかったので意思疎通は困難となり
どんどんと距離が開いていきました。いくつかの事件がありこれ以上同じ現場にいると「憎
しみ」まで湧いてくる恐れがしたので父と相談して長崎の職場に移動させてもらいました。
やっとその人を憎まなくてもすむと安堵して仕事は順調に成果を上げつつありました。し
かし、それからその人とは何一つ言葉を交わせないまま。一年少し経ったある日突然、後
ろから突き飛ばすようにその人は部下を使って私をさらに左遷しようとしました。父はそ
れに反対でしたが時間がないと無視されました。これは辞めろと言う事だとすぐに覚りま
したので争そう事をせずに依願退職という形できれいに職場を去りました。普段は中心帰
一と言っている人が総裁を無視して強引に裁決してしまう組織にはもはや何も望みは亡く
なりました。


 幸か不幸か、私から肩書がすべて消えてただの田舎者となりました。


それから9年。つくづくこの肩書というものに人が左右されるものだと思い知りました。
肩書が消えた途端態度を豹変させ離れていく人が多くいました。しかしその反面、それと
は別に昔と変わらず一人の人間として交流してくれる人、真実の友や兄を発見することが
出来ました。これはありがたい事でした。


 それからというもの、私は肩書というものが「いずれ消えていく幻」に過ぎない不確か
なものだと悟ることが出来ました。人を観るときにその人の人格の輝きを見て判断するよ
うになりました。人前で肩書を頼りに語るけれども、それを実生活で実行していない人を
見ると今は哀れを感じます。いつか必ず勝手に自分で着けた○○などという傲慢なメッキ
は剥がれ落ちます。


 宮澤次郎師の多くの経験を重ねられた言葉は深く重いものだと思います。


自分自身を見つめるためには肩書を外さなければ気が付かない人もいるという事です。「常
に自我を死に切るべし」と大きな声で朗誦した事を思い出します。


肩書のとれた普通のその人と楽しく昔話をする日を楽しみに待っています。
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「宮澤次郎氏」... 宮澤潔先生のお父上である (4778)
日時:2014年08月13日 (水) 17時34分
名前:サーチャー

<谷口貴康氏ブログ>  超・エリート集団  2014/8/11(月) 午後 1:56

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 前に掲げた記事を参考にしていただきたいのだが、先の戦争に突入する前に日本の最高
の頭脳といわれた東京帝国大学や京都帝国大学から優秀な青年たちが集められ、さにその
のち軍や官庁に配属された人たちによって「総力戦研究所」なるものがひそかに国家の機
密機関として創られていたことはあまり知られていない。

 その研究所の出した結論は前記のごとく明解に敗戦を予測していた。


実は、このエリート集団の一期生に宮澤次郎氏がいた。

宮澤潔先生のお父上である。つまり私の姉の義父にあたる。


この宮澤次郎氏に谷口雅春先生は特別な好意を寄せられていた。

「君が来てくれるととても愉快で楽しくなるよ・・・」と面会をいつも楽しみに待ってお
られた。

 当時、雅春先生の秘書をしていた私は、その面会の場に何回か同席させていただいた。
雅春先生の前でドカッと胡坐をかき両手で先生の腕に抱き付かれる大男を私は人生で初め
て見た。総理大臣でも先生の前では胡坐はかかなかった。それは久しぶりに大好きな息子
に会った時のように雅春先生も愉快なひと時であったことを思い出す。


 秋の大祭の時だったか、ちょうどその時も雅春先生に面会に宮澤氏は来ておられて、そ
ののち門から出ようとされた時に、当時総理・総裁選に臨んでいた中曽根康弘氏が偶然あ
ちらから歩いてこられた。すると宮澤氏は大きな声で


「オイ、なんで君がここにきているのかー」

と呼び止めると中曽根氏は驚いて「先輩こそ・・・」と近づいてきた。私は予想外の展開
に驚いて二人の様子を見ていたことを思い出す。

のちに大勲位となった中曽根氏にオイ!と呼びかける宮澤氏は高校時代からの先輩でもあったのだ。


 しかし、宮澤次郎氏という「人物」は決して自分がエリートであるという雰囲気を出さ
ない誰にでも公平に対応してくださる腹の大きな方だった。

 姉が息子さんと結婚したことでとても近い関係になり、「おい貴康君」と可愛がってく
ださった。今の私が魚釣りが大好きなのは次郎さんが伊豆につれて行って下さった時に初
めて本格的な魚釣りをしたことがキッカケとなっている。今は亡き素敵な人「宮澤次郎」
さんは僕の人生の思い出で大きな存在として今も輝いている。
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