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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[705] 『行』誌 昭和15年11月号より
童子 - 2013年11月22日 (金) 14時49分



・・・・・ 達人の言語は、讀む人の力によってどの程度にでもとれるのであります。 佛典に色々の解釋があるのは當然のことであります。

 自分の考えと異うものは、全て間違だと早合点するのは止めたいと思います。 貴方は貴方だけにあの語の生命を感得し、私は私だけにあの語の生命を感得したのであります。 道元が如何に感得したかは私には判らないのであります。 

 国語の解釈のように文章の語義ばかりで、そのまま平面的に解釈して往ったり、博物学や生物学の名称の陳列のように、 『三世の諸佛』 は 『狸や白狐よりも高級であり、万物の霊長である』 と頭から決めかかって、 『動物が仏性丸出しであるなどとは万物の霊長たる人間を狐狸の平和にまで引下げなどはあまりである』 と大層憤慨なさいますが、私の言葉を語義通り、博物学の説明の如くおとりになるのは、これは貴方の力の程度であります。


 狸奴白狐どころの騒ぎではなく、道元禅師は 『十方法界の土地艸木(そうもく)、牆壁瓦礫みな佛事をなす』 と云っておられるのであります。 狸奴白狐は動物でありますが、動物より下等な植物であるところの草木、さては一層下等なところの鉱物である牆壁瓦礫までも佛事をなすと云われたのであります。

 下等と云う語は差別の立場から申したのでありますが、若し実相の立場から申しましたならば、 『狸奴白狐、草木、墻壁、瓦礫』 みな 『甚妙不可思議の佛化』 を行じているのでありまして、斯うだああだと屁理窟をならべて、親に心配かけながら、家を飛び出し、悟りを開くためなどと六年間も苦行した発心修行の釈迦などは 『三世の諸佛佛性あるを知らず』 の類であります。 爰にも 『却って』 の語の附けどころに注目せられたいのであります。


悟りとは 『脚跟下(きゃくこんか)』 のことであります。 脚下に其処にあるのであります。 軍需工場の職工が、その工場の仕事に専念従事している、それが悟りであります。 料理人が料理を美味しくなるように専念従事している、それが悟りであります。 将軍が将軍であり、兵が兵であり、学生が学生であるのが悟りであります。 

 牛が草を食い乳を出す、これが悟りであります。 牆壁が牆壁であり、瓦礫が瓦礫であり、人間が人間である、これが悟りであります。 そのまま全て円成しているのであります。

 悟りとは随所作主 〈ところにしたがってしゅとなる〉 であります。 私は 『狸奴白狐の方が悟っているから、人間よ狸奴白狐の真似をせよ』 と云うのではありません。 狸奴白狐はそのまま狸奴白狐の生活を営むように出来ていまして狸奴白狐を取外すことはありません。 そのままが悟りであります。

 人間が人間であるのは悟りでありますが、人間が狸奴白狐であるのは悟りではありません。 人間は自由を与えられていますから、人間らしい生活を取外すことも亦出来るのであります。 だから三世の諸佛も亦迷うことがあるのであります。

 迷った諸佛は、瓦礫にも教えられます。 香巖和尚は瓦礫一片が竹に激突する音を聞いて悟ったと云われますが、瓦礫こそ却って香巖和尚の師であったのであります。  釈迦は三十五歳にして暁の明星を見て悟ったと云いますが、天文学者に云わせると、暁の明星は天空に懸る一塊の鉱物でありますが、暁の明星と云う鉱物の一塊こそ却って釈迦の師だったのであります。 人間が人間の実相の相に復る ―― これが悟りであります。




尚、序でに申して置きたいのは 『知らず』 と 『知る』 との問題であります。

 『知らずして知っている』 ものあれば、 『知りて知らぬ』 ものもあります。 大通智勝如来が十劫の間道場に坐して悟らないのは 『知りて知らぬ』 のであります。 悟上の迷いであります。

 『狸奴白狐』が若しそのまま巧まないで無為の生活を生きているならば、 『知らずして知る』 でありましょう。 達磨が梁の武帝にたずねられて、 『廓然無聖』〈仏なんてそんなものはカラリと晴れた空のように何もないのだ〉 と答え、それでは 『朕に対する者は誰だ』 と問われて、 『識らず』 と答えたのは、『識る』 を超えた成仏者の識らずでありましょう。

 『識らず』 にも 『発心者』 の 『識らず』 と、修行者の 『識らず』 と、成仏せる者の 『識らず』 との三種があるべきであります。


 道元禅師が 『何故人間は本来佛であるのに発心し修行するものか』 ということに一大疑団を起された質問に対しては 『発心者』 の識らず、修行者の識らずを以て答うべきでありまして、廓然無聖の達磨の 『識らず』 を以て答うべきではないと思うのであります。 

 だから私は 『三世の諸佛有るを知らず』 を発心修行者の 『識らず』 の意にとったのはこのためであります。 まだ色々申上げたいことがありますが、禅宗の公案の解決は 『無門關の日本的解釋』が近日発刊されますから、それを読んで私の意のあるところを汲みとって下さいませ。


要は生きることにあって議論や、言い廻しで賛成したり、寂しくなったり落胆なさるには及ばないのであります。 『生命の實相』 全15巻六千三百有余頁どこを読んでも感激しながら、他の一頁に書かれているところが自分の意見と異ると云うので失望なさるのは変な話であります。

 若し間違っているならば 『生命の實相』全巻 が間違っているのであり、『生命の實相』 が正しければ、その後に書いた一頁も正しいのであります。 文字の言い廻しが、怐子佛性ありになっていようと、狗子佛性無になっていようと、識らずになっていようと、識るになっていようと、語言に捉われずにお読みになれば六千三百有余頁終始一貫一真理が貫いているのであります。 無門關の序の解釈にある 『何ぞ況や言句に滞って解会を覓めるをや』 の解釈を見て下さい。



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