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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[714] 真理の伝道は命懸けの使命である
童子 - 2013年11月29日 (金) 13時25分

        甘える心を捨て大力量人となれ


 人が“神の子”たる実相を自覚する上に障礙となるところの想念感情は、“甘える心”を起すことである。 換言すれば、“他から同情されたい”という念を起す事である。 また「この位なら、人が我慢してくれるだろう」と考えて、自己の努力を最大限まで出さずに、他の人の寛大さや、甘さに縋って行こうとする生活態度である。 また病気や色々の都合を、自分が全力を出し切らずにいられる事の口実やアリバイに使おうとすることである。

 これらの「甘える心」又は「甘える生活態度」はその人の能力の発揮を自縄自縛してしまい、最高の高さまで自分の天分を発揮することが出来ず、自分自身を般一凡庸者の一群の中にまで堕落させてしまうことになるのである。


 自分自身を“弱い”などと考える心は“甘える心”だ。 それは自己憐愍の心であって、自分が自分に甘えているのだ。 自己憐愍を棄てない限りは人間は強くなれない ―― 換言すれば“神の子”の自覚と能力とを完全に発揮することが出来ないのである。


 あなたが自分の仕事に全力を尽さないで、易々加減で片づけて置くようなことがあれば、それは”甘える心”の表現である。 「他の人がこの位なら我慢してくれるだろう」と甘えているのである。 そんな事では、あなたは折角“神の子”として大力量人として資格と能力とを与えられているのに、その大力量を発揮せずに生涯を終ってしまうことになるのである。

 「私は神の子、大力量人」と心の中で唱えながら仕事を懸命になさるがよい。 屹度立派にあなたは神から授けられた天分を発揮することが出来るでしょう。





 ヨハネ伝第二章第一節に次のようなイエスの逸話が書かれている。

 「三日めにガリラヤのカナに婚礼ありて、イエスの母そこに居り、イエスも弟子たちと共に婚礼に招かれ給う。 葡萄酒つきたれば、母、イエスに言う『かれらに葡萄酒なし』イエス言い給う『おんなよ、我と汝とに何の関係あらんや、我が時は未だ来らず』・・・・・」

 このブッキラボーに母に対して何故イエスは『我と汝とになにの関係あらんや』などと冷淡な言葉を発したのだろうか。 もっと愛情を含んだ語調で物が言えないものだろうか。 神は“愛”ではないか ―― とわたしは久しく疑問に思っていたのであるが、これは「真理の伝道者」が自分自身に対して“甘える心”を切り棄てる‘きびしい’訓練をしなければならないことをイエスが実践によって示されているのだとわかった。

 一燈園などではこれを“棄恩入無為(きおんにゅうむい)”と称している。 家族的な愛情は、それに甘えておれば、真理の伝道に出かける機会を失ったり、縮小したりすることになるのである。 片手間で人類を救い得るなどということは「甘えた考え方」に過ぎないのである。 イエスが『我が時は未だ来らず』といっているのは、『お母さん、あなたとパーソナルな家庭的な団欒の歓びをもつ時は、わたしが十字架にかかった時です。 それまではそんな悠長なことはできないのです』という意味なのである。


 そしてイエスは、十字架に釘けられたる時、ヨハネ伝第十九章によれば、

 「イエスの十字架の傍らには、その母と母の姉妹と、クロパの妻マリアとマグダラのマリアらが立っていた。 イエスはその母とその愛する弟子たちが近くに立っているのを見て、母に『おんなよ、視よ、なんじの子なり』と言い給い、そして弟子たちには『視よ、なんじの母なり』と言い給うた」 とあるのである。

 「我が時は未だ来らず」と先に言っていられたところの其の時が来て、イエスは、はじめて肉親の母と子の愛情を示し給うたのであった。 伝道のみちはきびしいのである。 片手間でやれると思うのは 「甘える心」 である。
                          

[719] 2.
童子 - 2013年11月30日 (土) 08時45分


 わたしは伝道のきびしさを憶うとき、いつでも一燈園の西田天香先生の聖なるきびしさを思い出すのである。

 天香先生の嫡子保太郎氏が重症で、いつ臨終となるやも測り知ることが出来ないで近親者がその枕辺に集まっているとき、天香先生は 『人類が私の救いを求めて私を呼んでいるのだ。 それがまた保太郎の菩提のためでもあるのだ。 さようなら』 といって危篤の子供を残して人類救済のために旅立って行かれるのであった。

 それは最近親者たる母に向って『われ汝と何の関係あらんや』と淡々と言い切って、『わが時はいまだ来らず、また時が来たら会おうよ』と十字架上で母と再会する約束をせられたイエスの心境とよく似ているのである。 

 義は重く、真理伝道の使命は重く、肉親の愛情はそれに比べれば軽いのである。




 「真理の伝道」をイエスは「人の前にて我を言いあらわす者」という表現を用いられれる。 「我は真理なり道なり、生命なり」とイエスは言っていられるので、「我を言いあらわす者」とは真理を言いあらわす者 ―― すなわち内在のキリスト ―― 仏教的にいえば“内在の仏性” ―― を伝道する者の事である。

 イエスは次の如く言い給う。

 「暗黒(くらき)にて我が告ぐることを光明(あかるき)にて言え。 耳をあてて聴くことを屋の上にて宣べよ ・・・・・ 凡そ人の前にて我を言いあらわす者を、我もまた天にいます我が父の前にて言い顕さん。 されど人の前にて我を否む者を、我もまた天にいます我が父の前にて否まん。

 われ地に平和を投ぜんがために来れりと思うな。 平和にあらず、反って剱を投ぜん為に来れり。 それ我が来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑しゅうとめ(※女へんに章)より分たん為なり。 人の仇はその家の者なるべし。 我よりも父または母を愛する者は、我に相応しからず。 我よりも息子または娘を愛する者は、我に相応しからず。 又おのが十字架をとりて我に従わぬ者は、我に相応しからず、生命を得る者は、これを失い、我がために生命を失う者は、これを得べし。」  (マタイ伝第十章第二十七節〜三十九節)



 どんなに真理の伝道がイエスに於いてはきびしいものであったか、それは現象の生命よりも尚、尊い‘いのち’がある。

 その実相の‘いのち’を伝道するためには汝の父を、汝の母を、汝の息子を、汝の娘を、“執着の愛”から引き離たなければならない。

 「人の仇はその家の者なるべし」  とイエスは宣言しているのである。

 三島由紀夫氏はある意味に於いて、真理のために、自己をその家族より引き離し、更に現象の生命や、文学的天分からさえも引き放しみずから進んで十字架の道を選んだのであった。


               『生長の家』誌 昭和48年3月号



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