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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[859] 祈りの本質 と 宗教の目的 及び 運命改造の秘訣
明鏡 - 2014年04月01日 (火) 19時39分




『 祈りによって運命を改造しましょう 』


『 光の泉 』誌  昭和五十五年五月号 谷口雅春先生




皆さん、お早うございます。


『人生を見つめて』という書物の三十頁をテキストにして “ 祈り ” の急所を話すことに

致します。三十頁の「あなたの重荷を神にゆだねよ」という小見出しのところであります。



【 祈りの本質について 】


『 祈るということは「 個々の生命 」すなわち人間の個々の生命が、

宇宙の全体の生命(神)とその精神や心の波長を共鳴させることによって、

個人でありながら宇宙的な力を其処に喚びおこして、それをはたらかしていることに

なるのであります。


祈るたびごとに、私たちは、私たちの内部にある大いなる力を喚び起している

だけではなく、自分にある内部の力と、宇宙的な力との結びつきを完全ならしめ、

その結果、私たちの内部の力を補強し浄化することになるのであります。』


こう書いてあります。

すなわち、祈るたびごとに、私たちは、私たちの内部にある大いなる力を喚び起している

だけではなく、自分の内にある内部の力と、宇宙的な力との結びつきを完全にして、

そしてその宇宙的な力によって内部の力を補強し、更に浄化する、浄める ー という

ことになっているのであります。


これが 祈りの本質であります。


こうして祈りによって、皆さんの内に宿っているところの力が、宇宙的な力と

結ばれたとき、皆さんは、大宇宙のあのお空にきらめく無数の星を、

世界最大の望遠鏡もとどかない所にある無数の恒星を、無数の天体を、無数の太陽系を

運行させている大いなる宇宙的な力と結ばれるということになるのであります。



【 “神の子”たる吾々は“迷い児”になってはならぬ 】


本来人間を生かしている力は、大宇宙を動かしている力と同じであるのに、

人間がそれを覚らないときに、親に“はぐれた”迷い児のようになって

親のすべての財産の後継者(跡継ぎ息子)でありながら、


孤児になったと同じように、本来戸籍の上では跡継ぎ息子だけれども、

親に はぐれた迷い児になってしまって迷っているために、孤児になっていて、


実際は大宇宙の大いなる力の跡継ぎ息子でありながら、

孤独な孤児として、養護施設で養われんならんというような貧しい生活を送ることに

なるのだというわけであります。

われわれはそんな迷い児になってはならないのです。




【 大慈悲の親さまに心で抱きつきましょう 】


そこでわれわれは、祈りによって、大宇宙の力からはぐれないように、いつもしっかりと

親様の手(・・・親様とは神様のことです。仏教の信者なら如来様の手)を握って、

迷い児にならないように、いつも親の手を握って親にはぐれないところの子供のように、

「 大宇宙の力 」の手を握ろうじゃありませんか。


その手を握って、いつも大宇宙の力と私たちとが結びつく方法が、祈りなんです。


仏教の浄土宗の人や真宗の方なら念仏でもよろしいんです。

これは阿弥陀仏の救いの慈手と結びつくんです。

阿弥陀仏の膝の上に駆けのぼって、赤ん坊が母親に抱きつくように心で抱きついて

阿弥陀さまと一体になるんです。


それで、われわれは宇宙の本体たる大生命(神といってもよろしいが)、“それ”から手を放したら、

はぐれてしまって迷い児になる。そうなったら、われわれの魂は餓(う)えるんです。



【 私たちは魂を飢えさせてはならない 】


われわれは自分の魂を飢えさせてはならないのであります。

あなたの肉体は物質的な食物(しょくもつ)を与えさえすれば飢えないでいますけれども、

あなたの「 内部の魂 」は、祈りによって神の「 大いなる力 」に結ばれて、

其処から「 霊的な力 」を供給されることによってのみ魂は飢えないでいられるのです。



祈りは、また、自分の魂だけ背負っていて、その重さで耐えきれなくなっている重荷から、

自分の魂を解放する唯一の道なのです。



【 重荷を神に預けて魂を解放せよ 】


自分の魂だけで重荷を背負って、そして足がフラフラしておったのを、その重荷を神様に預けて、

自分の魂を解放し、神によって その重荷を解きほぐして貰(もら)う方法が、祈りなんであります。


寝しなに、祈って眠ると大変よろしいですねぇ。


昼間にどんな悩みがあっても、どんな苦しみがあっても、どんな大問題があっても、・・・

神様は無限の力であり、無限の愛であり、無限の智慧である。


どんな重荷でも、どんな大問題でも、解決し得ない事は一つもないのであります。


「 神様、よろしく頼みます! 」


神様に一切の問題を、一切の悩みを、一切の苦しみを、病気を、その他すべての重荷を

悉く神様に預けて、魂の重荷を自分の肩から捨てて、軽々と身軽になって眠るんです。


そうすればねぇ、眠(ね)ている間に、宇宙大生命が自分に流れ入って、

そして自分の生命を豊富に、裕かにして下さる。


そこから健康も回復し、善き智慧も浮かんで来るのです。


いろいろの芥(ごみ)を、神と自分とをつないでいるところのパイプの中に詰め込んでおったら、

せっかく神様から流れ入ろうとしているところの生命(いのち)も愛も智慧も、

流れ入らないということになるわけであります。



【 寝しなに、心の重荷をおろして神にゆだねましょう 】


だから、皆さんは、特に寝しなに祈って自分の重荷を、問題を、病を、憂いを、悩みを、

ことごとく神様に預けて眠ることにしようじゃありませんか。


親のない孤児のように、自分だけで自分の重荷を背負って、コツコツと歩むことを止めましょう。

祈りによって神様とつながるんです。あなたの重荷を神様に持って頂くんです。


イエスはこう仰せられました。―

「 重荷を負える者よ、われに来れ、われ汝らを休ましめん 」と。―

これが神様からの呼びかけの言葉であります。

神様はわれわれの重荷を除(と)って下さるわけなんであります。




つづく




[862]  2/2
明鏡 - 2014年04月03日 (木) 20時36分




【 三車火宅(さんしゃかたく)の喩え 】


『 法華経 』の中には、「 三車火宅の喩え 」というのがある。

この喩えでは、この神様を(あるいは如来さまを)、お金持ちに喩えてある。


お金持が旅をして、さて、お土産を持って自分の家に帰って来たら、

三人の子供が家の中で遊んでいるんですけれども、家が火事を起しているんです。


そして屋根棟(やねむね)まで炎が燃え上がって、

屋根棟が今にも焼け落ちそうになっているのであります。


「ああッ、危ないから外へ出なさい!」


と言ってもですねぇ、子供たちは玩具(おもちゃ)が面白いもんだから、

ちょっと親の方を振り返って見ただけで出てこないです。


そこで、お父さんは、

「そらそら、ここにこんな玩具をお土産に買って来てやったよ、そーれ、牛の車、

羊の車、鹿の車・・・こんな素晴しい車だ、ここへ出てきなさい!この玩具をあげるから」


と言って、その玩具を見せると、子供は玩具が欲しいもんだから、

その玩具を貰うために、外へとび出して来たのです。


とび出して来ると間もなく、燃えておったその大邸宅の屋根棟が焼け落ちて、

もし其処におったら下敷きになって焼け死んでいる筈であったのが助かったのであります。




【現世利益は人生の玩具の楽しみです】


如来さまはですねぇ、ときどきこのような玩具の如き現世利益をもって

われわれを導き給うのです。

「羊の車、牛の車、鹿の車、宝の車がここにあるぞ。これをお前に遣(や)るから、

こんな現世利益があるから、この宗教に入れよ」

とこう仰言るんです。

そうすると、貧乏に悩んでいる人、家庭不調和で悩んでいる人、あるいは病気で悩んで

いる人、あるいは成績不良で悩んでいる子供をもつ母親、そんな人たちが入って来る。

焼け落ちる屋根棟の外へ出て“神様の方へ向いて来る”わけです。



【 本当に価値ある御利益は? 】


しかしながら神様はそういう玩具も与えられるけれども、

もっと立派な実物をも与えられるのです。


その実物というのは、

〈 自分は神の子である、如来のいのちが宿っている神の子である 〉 ― 

ということを心の中に授け給う。


すなわち、自分の実相を自覚せしめて、根本的にその人が救われるように、

導き給うわけであります。


まあそういう意味において、現世利益というものがいろいろの宗教にあるのも、

別に悪いことではないのでありますが、


しかし、宗教によって吾々が頂く、ご利益というものの其の最も高いご利益は、

そんな現世利益じゃないのであって、自分自身の生命(いのち)が何ものであるかという、

その大自覚を得ることなんであります。


そして、「 すでに自分が神の国に住んでいるのである 」という、

自己内在の“ 神の国を自覚する ”ことこそ 宗教の大目的であるのです。


そこで、『人生を見つめて』という本の三十二頁には、こう書かれているのであります。

多少説明を加えながら読んでみます。


『 あなたは今「 神の国 」に住んでいられるのです。あなたの現状は「 神の国 」らしく

豊かでないかも知れません。

しかし現象のすがたはほんとうにあるのではなく、それは常に“うつりかわる”すがたで、

恰度、映画の画面のようなものです。


映画の画面に、「 貧乏親爺(おやじ)」に扮して出て来て、ほんとうに貧乏らしく

見えていても、実際はその役者は有名なスターであって数千万円あるいは数億円の財産を

もっている金持ちがですね、貧乏親爺に扮して映画の画面に出てくることがあるでしょう。

それと同じことです。


映画の画面で或る人が病気になったり、死んだようにあらわれていても、

その役者は「 実際 」は生きていてピンピンしているでしょう。


それと同じく、あなたは、今、現象界(すなわち目に見えるようにあらわれて

いる世界)では、貧乏に見えていても、「 実際 」は実相において金持であり、

今、病気のように見えていても「 実際 」は健康なのです。


この「 実際 」を称して「 実相 」と生長の家では言っているのです。


映画を見ている眼には、映画のスター本人の実物の姿は、

すでに数億円長者である大スターということは忘れちゃってですねぇ、

映画にあらわれている貧乏親爺の姿を本当だと思って、

映画にうつっているところだけをみるでしょう。


それと同じく、現象界を見ている肉眼には、自分が「神の子」であり、

「普賢菩薩」であるという実相の完全な姿は見えないで、

自分の心であらわした唯心所現の(即ち心の現わす所の)現象世界だけを

見ているのであります。』


更にこのことを『人生を見つめて』の本には次の如く説明してあるんです。



【 心のフィルムに「 幸福 」を焼き付けましょう 】


『「自分の心」というものは、恰度、映画のフィルムみたいなもので、

その「心のフィルム」に何が印象されているか、何が焼き付けられているか、

その「心のフィルム」にあるとおりのものが、現象世界にあらわれて来るのです。


ですから、あなたが幸福になるためには、あなたの「 心 」に出来るだけ「 幸福 」を

印象させ、「 幸福 」を焼付けて置かなければなりません。

「 自分は不幸だ 」と思っている人は、心のフィルムに「 不幸 」を焼付けているんです。

だから何遍現象界に映しても、不幸があらわれて来るんです 』と。


「 自分は病気だ!これはなかなか治らん病気だ! 」と思っている人は、

心のフィルムに“ なかなか治らん病気 ”というのを焼付けてあるんです。


だから、そういう心で現象世界をあらわしておったら、いつまで経っても、

現象世界の映画館に「 なかなか治らん病気 」がつづいている、ということになるわけで

あります。


そこで、不幸があらわれている人が幸福になろうと思ったら、

不幸を心のフィルムから消してしまって、新たに幸福をそのフィルムに

焼付けなければならない、ということになるわけです。


言い換えると、今は、たとい現実は不幸でも、

「 私は幸福だ、幸福だ 」

と念ずるんです。


朝起きた時のまだ眠いような時に、その時は潜在意識が表面に浮んで印象を

受け易いときですから、

「 私は神の子、私は幸福だ、善(よ)い事が来る、善い事が来る 」 ― と、

このような善き言葉を、毎朝二十遍ぐらい念じてから起きるようにする、


そして、「 それは“言葉の力”で必ず、唱えた通り実現するんだ!」と信じるのです。


本当に信じなさい。そしたら、本当にそれがあらわれて来るのであります。

それが信の力というものです。


                            〈 了 〉








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