[867] 世界平和の祈り と 祈りの急所、神想観のコツ |
- 明鏡 - 2014年04月06日 (日) 22時03分
『 理想世界 』 誌 昭和五十五年六月号
「 吾ら皆集まって 世界平和の祈りを致しましょう 」 谷口雅春先生
『 人生を見つめて 』という本の三十五頁に次のような重要な事実が書いてあります。
【 暗黒な感情の精神の波はどこへ行くか 】
「 あなたが腹を立てたり、憎んだり、争ったり、詛(のろ)ったり、怨(うら)んだり、
およそ悪い感情を起したときには、その精神の波はどこへ行くと思いますか。
それらの破壊的な精神の波は決して消えてしまうことなく、宇宙のどこかへ散って
行きます。それは水蒸気が散って行くけれども、決して消えてしまうことがないような
ものです。
心の力というものは一種のエネルギーでありますから、エネルギー不滅の原則に従って
それは決して消えることなく、ただ一時どこかへ散って行くだけなのです。
それらの怒り、憎み、嫉妬(しっと)、反感、呪(のろ)い等の念波(念ずる心の波)は
水蒸気が散って行くように散っては行くが、水蒸気が或る上空に達するとそれが互いに
類をもって集まって雲となるように、それらの害悪争闘性の破壊的精神の波動は、それが
互いに類するがゆえに一大雲峯(うんぽう)(雲の峰(みね))の如くなって団結します。
吾々の住んでいる地球は一定の軌道(きどう)を通りつつその争闘性の(闘いの性の)
破壊的一大精神雲峯に段々近づいて行こうとするのです。
それは地球が雲に近づくのではなく、雲が豪雨(ごうう)となって地球にぶつかって
くるように、その目に視(み)えない破壊性の精神雲峯が或(あ)る飽和状態以上の
呪いの密度になると、具体的な或る破壊力となって地上に降りそそぐのです。
それが原爆と具体化し、水爆と具体化して来るのです。
原爆、水爆は人間の科学的発明ではあるが、それが破壊力となって人類に注がれるのは、
原爆、水爆を使用する人間が此の巨大な破壊性の精神雲峯に巻き込まれた時なのです。
これを避けるためには、此の眼に見えない星雲のような」(P36七行目、下から十五語目)
われわれの憎しみ、争い、憤怒(ふんぬ)、呪い、嫉妬、反感、怒りというような、
そういうわれわれの心の波動が集まって一大精神雲峯となっているその巨大な破壊性の
精神的雲峯を、愛のわれわれの祈りの波によって消してしまわなければ、世界から、
恐るべき原爆、水爆の戦いを避けることはできない、ということになるのであります。
【 世界平和の祈りの集団的実修が必要 】
こういう訳ですから、われわれは、特にわれわれ生長の家の同志は、「 世界平和の祈り 」
というのを、毎日、神想観という観法(かんぽう)実修のつづきに行(や)ることになって
いるのであります。
【 世界平和の為にどのように祈るか 】
「 即ち吾々ができるだけ憎悪(にくしみ)、排斥(はいせき)、憤怒(はらだち)、
呪詛(のろい)等の反対感情たる愛の感情を起すことをつとめ、
一定の時刻を定めて同志相集まり、(集まれない場合には自分の自宅でもいいけれども)
同一の時刻に、『 神の愛が全地上に満ちみちて、一切の愛の反対感情はそれによって
消し去られているのである。すべての人類と民族とは悉(ことご)く神の愛を身に受けて
互いに相愛し合っているのである。今よりのち、怒り憎み呪い争いあることなし』と)
(P.36 )こういう祈りをするように実行したいと思うのであります。
すでにわれわれはそれを実行しているのであります。
皆さんもそれを実行して下さい。もう一遍この祈りの言葉を朗読します。
「 神の愛が全地上に満ちみちて、一切の愛の反対感情はそれによって消し去られて
いるのである。すべての人類と民族とは悉(ことご)く神の愛を身に受けて互いに
相愛し合っているのである。今よりのち、怒り 憎み 呪い 争い あることなし 」
こういうように何遍もこの言葉を心で繰り返して念じて、そして神の愛が実際に宇宙に
満ちみちて、憎み争い恨み呪い等の波を、消していきつつある有様を具体的にじーっと
観ずるようにすると、いいのであります。
これは、人類愛のためのわれわれの協同的祈りでありまして、この祈りをする
ことによって、人類の平和が速やかに来(きた)る ー“より速やかに”―
普通来(く)るよりも“より速やかに”来(く)ることになるのでありまして、
同時にこの世界平和の祈りによって自分の病も癒されるということになるのであります。
【 世界的人類的大目的の為に祈る功徳 】
われわれが祈る時に、この人類的な宇宙的な大目的のために祈りますと、そうすると
神の力が自分を媒介として流れ入る時に、目的が大きい目的であると、
大いなる力となって流れ入るのであります。
それは、恰度(ちようど)、電気の流れが、・・・目的が大きいものへ送電の
ワイヤ(線)をつなぐと、沢山(たくさん)の電流が流れるのと同じことであります。
ストーヴでも、五○○ワットのストーヴへつなぐとですねぇ、それだけに必要な電流しか
流れない。それでそれを、一キロワットの電気ストーヴにスイッチを入れると、
その電線には一キロワットに相応(ふさわ)しいだけの強い電流が流れる。
さらに二キロのストーヴに線をつないだらですねえ、そしたら二キロの電気ストーヴを
温(ぬく)めるのに必要なだけの電流が流れる。
で、われわれは、ちょっとした病気を癒す祈りをしたら、
病気を癒すほどの小さい神様の生命(いのち)の流れしか流れ入らないということになる。
ところが、「 世界平和の祈り 」であるとか、“ 人類のためになる ”祈りであると
いうような祈りをしますと、そういう世界的とか「 人類 」という大きな目的に対して
吾々が愛念を実行するとき 神様の生命(いのち)が流れるもんですから、
それに伴ってわれわれの病気は(個人の病気ぐらいの簡単なもんですから・・・)
速やかに癒(なお)るということになるのであります。
病人は自分の“ 病気 病気 ”と、“ 病気を治そう ”という小さな目的だけを思わないで
こういう偉大なることを目的とする祈りをすると、却って病気が速やかに癒る、という
事実も出てくるわけであります。
つづく
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